死に山 ディアトロフ峠事件の真相 Donnie Eichar 2019.5.15.
2019.5.15. 死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相
Dead
Mountain 2013
著者 Donnie Eichar 1972年フロリダ生まれ。映画・テレビの監督・制作で知られる。カリフォルニア・マリブ在住
訳者 安原和見 翻訳家。鹿児島県生まれ。東大文西洋史学科卒
発行日 2018.8.20. 初版印刷 8.30. 初版発行
発行所 河出書房新社
1959年、冷戦下のソ連・ウラル山脈で起きた遭難事故。登山チーム9名はテントから1㎞半ほども離れた場所で、この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された。氷点下の中で衣服をろくに着けておらず、全員が靴を履いていない。3人は頭蓋骨骨折などの重傷、女性メンバーの1人は舌を喪失。遺体の着衣からは異常な濃度の放射線が検出された。最終報告書は、「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ……。地元住民に「死に山」と名付けられ、事件から50年を経てもなおインターネットを席巻、我々を翻弄し続けるこの事件に、アメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。彼が到達した驚くべき結末とは・・・・・!
プロローグ ~ 1959年2月 ソ連ウラル山脈北部
10日前から行方不明になっている友人の捜索に2人の大学生が現場を訪れ、テントを発見し、無人の中はきちんと整っていた。
著者は2度にわたってロシアに長期旅行をし、24,000㎞以上も踏破した後、2012年に3度目として事故の現場に迫る ⇒ 2年前までは事件のことなど聞いたこともなかったのに、ひょっとしたきっかけで出会ったことから興味をもってネットを追いかけた
目撃者はなく、半世紀以上も広範な調査が行われたものの決め手はなく、いまだ説明がつかないまま。無数に本も出たが、誰一人冬に現場を訪れたことがないらしい
この事件に惹きつけられたのは、単に真相を知りたいという欲求の為ではなく、メンバーは大学で勉強するかたわら、ろくに地図もない地域を探検して過ごしていた。彼らの探検の旅には一種の純粋さがあり、そこに共感を覚えた
事件の唯一の生き残りユーリ・ユーディンがまだ生きていると知って本格的に真相を極めることを思い立ち、ディアトロフ財団の理事長とコンタクト。真相を解明したいならロシアに来なければならないと言われ決断
53年1月ウラル工科大の寮で最終準備が始まり、大学のあったロシア第4の都市エカテリンブルクから汽車で目的地に向かう
ソ連時代はスヴェルドロフスクと呼ばれ、ウラル山脈の東側で、シベリアの西の端
大学の捜索が正式に始まったのは2月20日だったが、承認されたトレッキングルート計画は、地元のトレッキング委員会に記録が残っておらず、北へ向かったことだけしかわからないままに出発
当初空からの探索で、マンシ族の村に着陸、通過してお茶を飲んでいったことが判明
10年11月著者は協力者とともにエカテリンブルク入りし、記念館の理事長と面談。関係者にも質問するが、誰も独自の意見を持っていて、どれも他の人の意見とは一致しないようだった
ディアトロフの妹に会える。妹は、兄の遺体の皮膚が黒っぽく変色し、老人のように皺だらけになっていたのを見て、雪のせいで死んだのではないと確信していた
捜索開始当日、地元の検察も犯罪捜査を命じている
2度目にエカテリンブルクに行った際、生き残りのユーディンに面談。当時スターリンの死去直後で、若者にとって野外探検が大きな生活の一部だったことを知る。友愛、平等、尊敬がロシアのトレッカーの支配的価値観であり、男女も平等で、重要な目標はチームが1つになって距離を克服するという精神を実現すること
ユーディンの予想は、友人たちの死は自然現象とは無関係。強権政治による陰謀説
ディイアトロフ隊の後を追うようにして歩いていたトレッキング部隊「カレリンのグループ」は、2月17日の早朝、隕石のような強烈な光線を放つ物体が落ちていくのを目撃しているが、3月5日に付近で発見した5人目の遺体の顔がひどく変色、鈍器で撃たれたかのようだったことに驚く
テントが明らかに内側から3か所切り裂かれているのも謎、慌ててテントから脱出した理由が不可解
著者の3度目の現場行きは、記念館の理事長を含めロシア人が3人加わり、ディアトロフ・グループの旅程を辿る初のトレッカーとなった。スノーモービルで現場近くまで走り、あとは歩いて遺体発見の現場に向かう。同じような気象条件下で、なぜテントを捨てる気になったか余計に疑問が深くなる
最初から主任検察官は、学生の死は天候のせいではなく、殺人だと繰り返し言っていたが、モスクワから呼び出しを受けた後は、急に態度を変え人が変わったように、殺人のことも光球のことも口に使用とせず、周囲にも「余計なことを言うな」と注意していたが、90年になって、奇妙な空の光と学生たちの死の関連性を追求するのを控えるよう、地域の共産党委員会から指示されたことを明らかにした。冷戦当時、ミサイルや核技術に関する問題を取り上げることは厳禁だった
3か月ほどたって、現場の捜索隊が大量の衣服を発見したが、遺体を包んでいるのではなく、一部は刃物で切り裂かれ脱ぎ捨てられていた。最後の4人の遺体も同じ場所で発見
4人の検死解剖で異常だったのは、大きな外傷と内出血で、生前に加えられた「強い外力」によるものとされ、さらに女性は外傷に加え舌がなくなっていた
遺体の臓器の放射線検査の結果では、一般の濃度と変わらない数値だったが、衣服の測定結果は通常の2倍を超える数値で、その原因は不明。検察官も真相解明に意気込んだが、地域の上層部からの圧力に屈して捜査を打ち切っている
遺族には何の説明もないまま、59年5月28日付け検察官の「死因は未知の不可抗力」という結論しか残されていない
超音波の逆で、人の可聴域より低い周波数(=超低周波)が、カルマン渦列によってもたらされ、テントを直撃したとの説明が最も説得力を持つ
2013.2.15.エカテリンブルクの200㎞南のウラル山脈上空で12,000tの隕石が爆発。地球の体験に突入した最大の隕石でチェリャビンスク隕石と名付ける。爆風は広島の原爆の数百倍と推定。併せて超低周波音現象が起こった
最後の章に2月1~2日の遭難時の模様を再現しているが、突然円蓋のような山頂を超えてくる風の速度が増し、恐ろしい轟音を伴った気象条件は見当がつかないまま、全員が同じ重度の偏頭痛に見舞われたかのように頭がずきずきし始め、胸腔に妙な振動を感じる
本格的に耐えがたいい恐怖に変わり、風の振動が超低周波音の域に達するころには、風よりもはるかに深い恐怖に捉われ、超低周波音の影響で、一時的に理性的な思考能力が奪われ、原始的な逃避反応という本能に支配された
風は2つの渦となって山頂から吹き降ろし、まるで冬の竜巻のよう。轟音を上げて時速60㎞/hで吹き抜けるが、内側の回転速度は180~250㎞/hにも達し、耳に聴こえる咆哮に加えて超低周波音も発生、トレッカーたちの精神に恐慌をもたらす
暗闇のなかをそれぞれがバラバラに我を忘れて飛び出したために、すぐに恐怖が去って理性的な思考能力が戻ると、異なる種類の混乱に襲われ、極寒のもたらす譫妄に変わっていく
発見された遺体の場所や状態から、9人のトレッカーが厳しい寒さの中、広大な荒野を越えてみな自分自身と友人のたちの命を守るために闘ったことがわかる。その勇気と忍耐はトレッキング第3級の称号を得るに十分で、彼らにはその栄誉を受ける資格がある
本書の目的は、亡くなった9人のトレッカーとその家族友人に敬意を表すること
解説 到達不能、あるいは検索不能の未踏へ 佐藤健寿
今日私たちが知る「世界の謎」と呼ばれる出来事のほとんどは20世紀半ばから80年代後半にかけて発見/発掘されている。"不思議なこと”は、まるで失われた叡智のごとく人々の関心を集めたが、世紀末には世界に降臨した想定外の恐怖でもあるインターネットによって終わりを告げる
ネットの出現により、「世界の謎」の大方はその実相が暴かれたが、そんな時代に突風のように現れたのがディアトロフ峠事件
当時当局はその原因を「未知の不可抗力」とだけ報告して調査を終了したが、2010年頃から急に「新たな謎」として発掘された。理由の1つは「旧ソ連」で起きたことと深く関係
アメリカ人の著者が事件解明に動いたことにロシア関係者は当惑したが、20世紀の謎は多分に英語圏中心の文化だったところに、80年代のグラスノスチで公開されたロシア圏での謎が登場、Wikipediaに取り上げられたのは2006年
特に貴重なのは、当時の学生たちの日誌や写真から彼らの足取りをたどる物語。個々の隊員のキャラクターを浮き彫りにし、行方不明前日までの様子をリアルに追想させる
事件後の捜索隊のレポートも、これまでほとんど公開されてこなかった詳細を含む貴重なもの
最大の謎は学生たちの死に様
60年後の現地視察があったからこそ、本書の洞察が決定的な説得力を得ていることは疑いない。ネット社会の「圏外」へと旅する、知の探検でもあると同時に、現代もなお検索不能な「未踏」は、暴風吹き荒れる白い雪原の向こう側に確かに存在していた
(書評)『死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』 ドニー・アイカー〈著〉
2018.10.27. 朝日
■「未知の不可抗力」の謎に挑む
1959年、旧ソ連のウラル山脈で起きた世にも奇っ怪な遭難事故。米国人ドキュメンタリー映画作家がその謎の解明に挑む。
若者の登山チーム9人が零下30度の夜、テントを飛び出し、靴を履かず、衣服もろくに着ずに忽然と闇に消えて、老人のように皺だらけの遺体で発見された。白髪になった男性や舌を失っていた女性も。着衣からは異常な濃度の放射能が検出され、皮膚は黒っぽく変色。地元のマンシ族が恐れる「死に山」で一体彼らに何が起こったというのか!?
このトレッキングに初期の段階で引き返した唯一の生存者を訪ねて手がかりを探ろうとする著者も事故の核心には届かなかった。彼らと何の縁もゆかりもない自分が「なぜ私はここへ来ているのだろう」との疑問を抱きながら、事故の起こったディアトロフ峠に向かうが、まるで死者が彼を呼び寄せて、死の真相を語らせようと企んでいるようにさえ思えるのだ。
ありとあらゆる人たちがあらゆる角度からこの事故を現実的に、時には超自然的に解明を試みたが決定的な解答は誰も出せない。武装集団による殺人説も飛び出したり、光体の出現からUFO事件とも騒がれたりするが、結局「未知の不可抗力」で片付けられたまま。59年が経って、今もネットを席巻する。
著者は子供のころから気象に異常な興味と関心を持っており、そのことが解明の糸口になる。そして最終章で、その現場にいた遭難者の恐怖体験と同化したかのように、気象の知識を駆使して、一気に解明に迫るが、その描写のリアリティーには死者の意思が関与しているのではと思わせるくらいだ。
だけど、ただひとつ気になるのはトレッカーの一人が撮った最後の写真の一枚に写っている「光体」の謎で、これには触れていない。事件後、何人もが見ている空の光体と放射能。そして遺体が突然の老化現象を起こした説明もない。
評・横尾忠則(美術家)
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『死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』 ドニー・アイカー〈著〉 安原和見訳 河出書房新社2538円
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Donnie Eichar 米国生まれ。映画・テレビの監督、ドキュメンタリーシリーズの製作などで知られる。
Wikipedia
ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部でスノートレッキングをしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。事件は、ホラート・シャフイル山(Kholat Syakhl、Холат-Сяхыл、マンシ語で「死の山」の意[1])の東斜面で起こった。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフ(ディヤトロフ、ジャートロフ、ジャトロフ、Игорь Дятлов)の名前から、ディアトロフ峠(ジャートロフ峠、ジャトロフ峠、Перевал Дятлова)と呼ばれるようになった。
当時の調査では、一行は摂氏マイナス30度の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したとされた。遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体は舌を失っていた[2]。 さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射性物質が検出された。
事件は人里から隔絶した山奥で発生し、生還者も存在しないため未だに全容が解明されず、不明な点が残されている[3][4]。当時のソ連の捜査当局は “抗いがたい自然の力” によって9人が死に至ったとし[3]、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた[2]。
一行は男性8名女性2名からなり、スヴェルドロフスク州内のウラル山脈北部においてスキーでのトレッキングを計画していた。グループの多くはウラル科学技術学校(Уральский Политехнический Институт,
УПИ)、現在のウラル工科大学の生徒か卒業生だった。メンバーは次の通りである。
ディアトロフ峠事件の犠牲者の慰霊碑
一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10キロメートルのオトルテン(ロシア語版)山に設定されていた。そのルートは、事件当時の季節においては踏破難易度が極めて高いと推定されたが、一行の全員が長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。
1月25日、スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデリ(英語版)に一行の乗った列車が到着した。彼らはトラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80キロメートル北方にある最後の有人集落、ヴィジャイ(ロシア語版)に到着。そして1月27日、いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した。しかし翌日、ユーリー・ユーディンが持病のリウマチの悪化から離脱、一行は9人になった。ユーディンと別れた後、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていない。ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである。
1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はオトルテン山麓に到達し、本格的な登山準備に入る一方で、下山までに必要と思われる食料や物資を取り分け、余剰分は帰路に備えて残置した。翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようだが、悪天候と吹雪による視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れてオトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。彼らはやがて誤りに気づいたが、1.5キロメートルほど下方の森林地帯に入って風雪を凌ぐのではなく、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにした[2]。木々の中でのキャンプ設営は容易だが、難ルートを踏破しトレッキング第3級の条件を満たす斜面での設営に決めた、ともされている。たった1人の生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフは、すでに登った地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べている[2]。
一行が登山を終えてヴィジャイに戻り次第、ディアトロフが速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっており、おそらく2月12日までには電報が送られてくるだろうと予想されていた。しかし事前にディアトロフがユーディンに、もう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日が過ぎて連絡がなかったにも関わらず、誰もこのことに特に反応しなかった。こうした遠征では数日の遅れは付き物だったためである。2月20日になってようやく、一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校はボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送った[2]。その後軍と警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなった。
2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で、酷く損傷して放棄されたテントを発見した。テントを発見した学生、ミハイル・シャラヴィンは「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました」と述べている[2]。調べによると、テントは内側から切り裂かれていた。8つないし9つの靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森(谷の反対側、1.5キロメートル北東)に向かって続いていたが、500メートル進んだところで、雪に覆われて見えなくなった。捜索隊は森のはずれの大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていないユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして焚き火の跡を発見した。木の枝が5メートルの高さまで折られていたことは、彼らのうちの1人が木の上に登って、何か(おそらくキャンプ)を探していたことを示すものだった。捜索隊はさらにヒマラヤスギとキャンプの間で、ディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、そしてルステム・スロボディンの3人の遺体を発見した。遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置で別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していた。
残り4人の遺体を探すのにはさらに2ヶ月を要した。残りの遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見された。4人は他の遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちに譲ったらしいことを示していた。ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っており、同時にドゥビニナの足にはクリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていた。
1959年2月26日、救助隊が発見したテントの光景。テントは内側から切開されており、一行のメンバーたちは靴下や裸足でテントから逃げ出していた。
最初の5人の遺体が発見された直後、死因審問が始められた。検死の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかり、5人全員の死因が低体温症であることが判明した。スロボディンは頭蓋骨に小さな亀裂を負っていたが、これが致命傷になったとは考えられなかった。
5月に発見された4人の遺体の検死は事情が違った。彼らのうち3人が致命傷を負っていたのである。チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していた。ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士 (Dr. Boris Vozrozhdenny) は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとしている。特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことであった[2]。当初、先住民のマンシ人が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れたが、現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという状況から、この説は否定された[2]。
気温が摂氏マイナス25度から30度と極めて低く、嵐が吹き荒れていたにも関わらず、遺体は薄着だった。彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、同時にその他の者は靴を履いていなかったか、靴下しか履いていなかった。何人かの足は、先に亡くなった者の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端で巻かれていた。低体温症による死亡のうち、20%から50%はいわゆる矛盾脱衣と関連があり[7]、これは通常、人が失見当識状態や混乱状態、好戦的な状態に陥るような中程度から重度の低体温症のときに起こる。おそらくこれが彼らが服を脱いだ理由であり、服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まっただろう[8][9]。
この説に基づくシナリオの一つは、押し寄せてきた雪が夜のうちにテントを潰し、メンバーはパニックに陥ったというものである。一行はテントを切り裂いて逃げ出したが、靴や余分な衣服を雪崩で失ってしまった。氷点下の中で湿った雪に覆われると、15分以内に極度の疲労や低体温症による意識喪失が起こり、生存に関わる危機を招く[11]。チボ=ブリニョール、ドゥビニナ、ゾロタリョフ、そしてコレヴァトフは、自分たちが人里離れた場所に居るにも関わらず、助けを求めて移動し、渓谷に滑落した。彼らのうち3人の遺体がひどい骨折を負っており、かつ彼らが渓谷の中で4メートルの深さのところに横たわっていたのも、彼らが滑落したことの証左と見なしうる。
一方で、雪崩は傾斜30度以上で発生することが多く、この一帯は傾斜15度で雪崩の起こりやすい地域ではないという主張はある[12]、。 捜査当局がキャンプ地から続く足跡を見たことは、雪崩説を否定する根拠になる。さらに彼らから放射線が検出された謎や、遺体から眼球や舌が喪失していた点も雪崩だけでは解明できない。
一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡した。
9人以外に、ホラート・シャフイル山に他の者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかった。
テントは内側から切り開かれていた。
一行は、最後に食事を摂ってから6 - 8時間後に死亡した。
キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していた。
先住民のマンシ人が一行を襲撃したという説を払拭するために、ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、3人の遺体が負った致命傷は他の人間によるものではないとし、「非常に強い衝撃によるものであり、(その証拠に)遺体の軟部組織は何ら損傷を受けていなかった」と述べた[2]。
発表された資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報が含まれていない。
当局の最終的な調査結果は、全員が “抗いがたい自然の力” によって死亡したというものであった[3]。死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」と結論した。資料は機密文書保管庫に送られ、1990年代になってようやくコピーが公開されるようになったが、幾つかの資料が失われていた[2]。
研究者の中には、捜査当局が以下のような事実を見落としたか、意図的に無視したと主張している者もいる。
後にエカテリンブルクに拠点を置くディアトロフ財団(下記参照)の理事長となる、当時12歳のユーリー・クンツェヴィチ(Юрий Кунцевич)は、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想している[2]。
幾つかのメンバーたちの衣類(ズボン2着とセーター)が高い線量の放射能で汚染されていた。
事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロメートル離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告している[2]。同様の“光球”は、1959年2月から3月にかけて、イヴデリとその隣接する地域で、それぞれ無関係の目撃者(気象・軍関係者を含む)によって目撃されている[2]。これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、エフゲニー・ブヤノフ(Евгений Буянов)によって証明されている[13]。
一部の報告は、軍がこの地域を(何らかの目的で)密かに利用し、そのことの隠蔽に取り組んできたのではないかという憶測に繋がる大量の金属くずが、この地域に置かれていたことを示唆している。
ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、バイコヌール宇宙基地(ここから、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われた)から、ノヴァヤゼムリャのチェルナヤ・グバ(ソビエト連邦内の主要な核実験場だった)に直接通じる道の途上に位置していた。
テント内に残されたカメラのフィルムが現像された。彼らの姿を映したものが多数を占めたが、最後の1枚が判別不可能ながら「光体」のようなものであった。
アメリカのドキュメンタリー映画監督ドニー・アイカーは著作『死に山』において、現場のドーム状かつ左右対称の地形はヘアピン渦現象と呼ばれる特異な気象現象が起こるには理想的な環境であり、繰り返し起こった竜巻による強風と低周波音に晒されて一行がパニックに陥りキャンプを飛び出し、凍死や転落死に至ったのではないかと推測している。事件現場の近くには核実験場があり、遭難者の体から通常の二倍程度の放射線量が検出されても不自然ではなく、肌焼けについても長時間雪原で日光に晒されていれば起こり得る、としている。
1967年、スヴェルドロフスク州の著述家でジャーナリストのユーリー・ヤロヴォイ(Юрий Яровой)は、この事件にインスピレーションを受けた小説『最高次の複雑性』 (Of the highest rank of
complexity,Высшей категории трудности)[14]を出版した。ヤロヴォイはディアトロフ一行の捜索活動や、捜査の初期段階において公式カメラマンとして関与しており、事件に対する見識を有していた。小説は事件の詳細が秘匿されていたソビエト時代に書かれ、ヤロヴォイは当局の公式見解以外のことや、当時すでに広く知られていた事実以外のことを書くことは避けた。小説は現実の事件と比較すると美化されており、一行のリーダーだけが死亡する結末など、よりハッピーエンドになるよう書かれている。ヤロヴォイの知人によると、彼はこの小説の別バージョンを幾つか書いたようであるが、いずれも検閲で出版を拒否された。1980年に彼が亡くなって以降、彼の持っていた写真や原稿などの資料は全て失われてしまった。
1990年になると、事件の詳細の一部が出版物やスヴェルドロフスク州の地元メディアで公にされるようになった[要出典]。そうした最初の出版物の著者の1人が、アナトリー・グシチン(Анатолий Гущин)である。グシチンは、死因審問のオリジナルの資料を調査し出版物に使うことに、警察当局が特別許可を出したと報告している[要出典]。彼は、事件の物品目録の中で言及されていた謎の「エンベロープ(envelope)」などに関する多数のページが、資料から消されていたことに気づいた。同じ頃、いくつかの資料のコピーが、他の非公式な研究者の間に出回り始めた[要出典]。グシチンは、著書『国家機密の価値は、9人の生命』(The Price of State Secrets Is Nine Lives,Цена гостайны –
девять жизней)の中で、調査結果をまとめている[3]。一部の研究者は、この本の内容が「ソビエト軍の秘密兵器実験」説に入れ込み過ぎていると批判したが、本は超常現象への関心を刺激し、公の議論を沸き起こした。実際、30年間口を閉ざしていた人々が、事件に関する新たな事実を報告したのである。
そうした中の1人が、1959年に公式の死因審問を率いていた警察関係者、レフ・イヴァノフ(Лев Иванов)であった。1990年の彼の著書[15]によれば、当時の捜査チームは事件を合理的に説明することが出来なかった上、地域の高級官僚から、死因審問を中止して捜査チームが見た“飛行する球体”に関する資料を機密にするよう、直接指示を受けたというのである。イヴァノフ個人は、何らかの超常現象──具体的に言えば、UFOなど──が起きたことを信じているという。
2000年、地元テレビ局がドキュメンタリー番組『ディアトロフ峠の謎』(The Mystery of Dyatlov
Pass,Тайна Перевала Дятлова)を制作した。制作にあたっては、エカテリンブルク在住の著述家で、事件をモデルにドキュメンタリー仕立てのフィクション小説[4]を執筆したアンナ・マトヴェーエワ(Анна Матвеева)が協力した。この小説の大部分は、事件の公式資料や犠牲者たちの日記、捜索に携わった者のインタビューや、映画製作者が集めた資料の引用から成っており、おおまかなあらすじは事件を解明しようと試みる現代に暮らすある女性(著者自身の分身)の、日常と考えを追うといった内容である。フィクション小説であるにもかかわらず、マトヴェーエワの著書は、公表されてきた情報源の中で最大級のものとして扱われている。また、事件の資料やその他の文書の写しが、熱心な研究者に向けてWebフォーラムで徐々に公開されはじめている[16]。
エカテリンブルクでは、ユーリー・クンツェヴィチによってディアトロフ財団が、ウラル工科大学の助けを借りて設立された。財団の目的は、ロシア当局に対して事件の再調査を開始するよう求めることと、亡くなった者たちの記憶を保存するディアトロフ記念館を維持することである。
2019年、ロシア検察が事件を再調査していることを明らかにした。今後、専門家チームが現地入りしてサンプルを採取し、事件の原因が雪崩だった可能性について気象専門家が判断することになっている[17]。現地調査前のロシア最高検察庁による説明では、事件の原因として75通りの可能性を検討して3つに絞り込んだ。犯罪などは除外され、自然現象(雪崩や暴風など)によるとする見解である[5]。
Donnie Eichar "Dead Mountain: The
Untold True Story of the Dyatlov Pass Incident" Chronicle Books, 2014年10月 ISBN 978-1452140032
ディアトロフ峠の謎 Тайна перевала Дятлова: 2000年, TAU (ウラル・テレビジョン・エージェンシー) (ТАУ – Телевизионное Агентство
Урала, 2000г.)。
テレビ番組『ダーク・マターズ: ツイステッド・バット・トゥルー(英語版)』の2012年8月25日放送のエピソード"Cold War, Cold Case"の中で、事件について触れられている[要出典]。
ロシアのトークショー番組"Let Them Talk"の2013年春の2時間スペシャルで、事件が特集された。
『ホラート -ディアトロフ峠の惨劇-』:事件をベースに作られたアドベンチャーゲーム(PS4向け)。プレイヤーは不気味な雪山を探索しながら点在するメモを拾い集め、物語の謎に挑む。
^ a b c d e f g h i j k l m n Svetlana Osadchuk (2008年2月19日). “Mysterious Deaths of 9 Skiers Still Unresolved”. セントピーターズバーグ・タイムズ (ロシア)2008–02–28閲覧。
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изд-во "Уральский рабочий", Свердловск, 1990 (Gushchin Anatoly: The
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Rabochyi", Sverdlovsk, 1990)[信頼性要検証]
^ a b Матвеева Анна: "Перевал Дятлова",
"Урал" N12-2000, Екатеринбург (Matveyeva Anna: "Dyatlov
pass", "Ural"#12-2000, Ekaterinburg) [1][信頼性要検証]
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アンビリバボー 2018.12.6.オンエア
ディアトロフ峠事件60年目の真実
今から59年前の寒い冬の夜、旧ソ連中部にあるスヴェルドロフスクから、10人の若者がスノートレッキングと呼ばれる、冬山登山に出発した。 目指すはスヴェルドロフスクから500キロほど北、ウラル山脈にあるオトルテン山の山頂。
パーティーは冬山のエキスパート、隊長のイーゴリ・ディアトロフや、地質学に詳しいユーディンなど男性8名、女性2名の計10名。 みんなウラル工科大学などで学ぶ大学生だった。
この登山の目的は単なるレクリエーションではない。 彼らは、ソビエト共産主義のもと強化された「スポーツマスター」と呼ばれる、アスリートを育てる資格の取得を目指していた。 今回の、オトルテン山へのアタックは、成功すれば全員がその資格を得ることができる、極めて重要なテストだった。 隊長のディアトロフは経験豊かで人望もあり、隊員からの信頼は厚かった。
パーティーは冬山のエキスパート、隊長のイーゴリ・ディアトロフや、地質学に詳しいユーディンなど男性8名、女性2名の計10名。 みんなウラル工科大学などで学ぶ大学生だった。
この登山の目的は単なるレクリエーションではない。 彼らは、ソビエト共産主義のもと強化された「スポーツマスター」と呼ばれる、アスリートを育てる資格の取得を目指していた。 今回の、オトルテン山へのアタックは、成功すれば全員がその資格を得ることができる、極めて重要なテストだった。 隊長のディアトロフは経験豊かで人望もあり、隊員からの信頼は厚かった。
出発から5日後、ディアトロフ隊は最後のポイントに到着。 翌、1月29日。 この先は人が踏み入らない山。 いよいよ過酷なアタックが始まった。 だが…リューマチなどの持病を持つユーディンが腰と脚の痛みを訴え離脱。 9名になったディアトロフ隊は、再び、オトルテン山を目指し出発。
その時、マンシ族と遭遇。 マンシ族とは、この地域の先住民。 狩りを中心に素朴な生活を営む民族だった。 マンシ族は彼らに「ホラチャフリ峠には気をつけろ。我々の間では死の山と呼ばれている。」と忠告した。
その時、マンシ族と遭遇。 マンシ族とは、この地域の先住民。 狩りを中心に素朴な生活を営む民族だった。 マンシ族は彼らに「ホラチャフリ峠には気をつけろ。我々の間では死の山と呼ばれている。」と忠告した。
そして…山中に入ってから4日目、午後4時半頃。 一行はオトルテン山の山頂を望む、ホラチャフリ峠に到達。 そこは、樹木も生息せずさえぎるものはなにもない雪原だった。
これは近年撮影された、ホラチャフリ峠の写真。 近くに山はなく、あるのはただなだらかな丘だけ。 彼らはこの丘を風よけにテントを張った。 後に…ここが“ディアトロフ峠”と名付けられるとは、夢にも思わず。 若者たちは、明日の登頂成功を確信していた。 しかし、下山予定日から8日たっても、ディアトロフ隊は帰還しなかったのだ。
これは近年撮影された、ホラチャフリ峠の写真。 近くに山はなく、あるのはただなだらかな丘だけ。 彼らはこの丘を風よけにテントを張った。 後に…ここが“ディアトロフ峠”と名付けられるとは、夢にも思わず。 若者たちは、明日の登頂成功を確信していた。 しかし、下山予定日から8日たっても、ディアトロフ隊は帰還しなかったのだ。
早速、捜索隊が出動。 だが、この段階では彼らはディアトロフたちがまだ生きていると確信していた。 捜索隊よりも雪山経験が豊富なメンバーばかりだったからだ。
6日後、搜索隊は、一行が最後にキャンプを行った峠で、テントを発見した。 テントは一部が破れてはいたものの…中はまるでさっきまで彼らがここにいたかのような状態だった。
すると、テントから20mほど下ったところにディアトロフ隊のものらしい足跡がのびていた。 辺りは、マイナス30度にも達する極寒の地、なぜテントを離れるような真似をしたのか? 足跡を追って行くと、テントから1.5㎞ほど離れた所でリーダーのイーゴリ・ディアトロフの遺体が発見された。
6日後、搜索隊は、一行が最後にキャンプを行った峠で、テントを発見した。 テントは一部が破れてはいたものの…中はまるでさっきまで彼らがここにいたかのような状態だった。
すると、テントから20mほど下ったところにディアトロフ隊のものらしい足跡がのびていた。 辺りは、マイナス30度にも達する極寒の地、なぜテントを離れるような真似をしたのか? 足跡を追って行くと、テントから1.5㎞ほど離れた所でリーダーのイーゴリ・ディアトロフの遺体が発見された。
その後、テントの1.5キロ圏内から、さらに3名の遺体が発見された。 だが、捜索隊は遺体の状況を一目見て、普通ではないことに気づいた。 遺体のほとんどが、防寒着を羽織っていなかったのだ。
そして最初の4名の遺体発見から6日後にもうひとり。 残り4名の遺体が発見されたのは、さらに2ヶ月後のことだった。 9名全員に共通していたのは、発見時、みな薄着で靴を履いていなかったということ。 さらに、明らかに脱ぎ捨てられたと思われる衣服も見つかった。
そして最初の4名の遺体発見から6日後にもうひとり。 残り4名の遺体が発見されたのは、さらに2ヶ月後のことだった。 9名全員に共通していたのは、発見時、みな薄着で靴を履いていなかったということ。 さらに、明らかに脱ぎ捨てられたと思われる衣服も見つかった。
あまりにも不可解なこの事件、捜査を担当したのが、レフ・イヴァノフ捜査官だった。 死因は9人中6人が、低体温症からの凍死。 谷底で見つかった4人のうち3人は、肋骨や頭蓋骨の骨折など、強い外力を受けたことによる大量出血がその死因だと考えられた。 そしてなぜか、殆どの遺体は皮膚が黒っぽく変色し、中には髪が白くなった遺体もあった。
死因は判明した…しかし、異様な遺体の状況に、謎はかえって深まるばかりだった。 そして、最大の疑問は…なぜ彼らは温かく安全なテントから外に出たのかということだった。
テントは吹き飛ばされていないとはいえ、この日の風速は15mほど。 歩くのは困難なばかりか、気温はマイナス30度にもなる。 そんな中、なぜ彼らは薄着で、靴も履かず出て行ったのか? テントには引き裂かれたような、穴が開いていた。 イヴァノフ捜査官は、その穴が気になっていた。 イヴァノフ捜査官は、彼らの死は事故ではなく、殺人ではないかと疑っていた。
テントは吹き飛ばされていないとはいえ、この日の風速は15mほど。 歩くのは困難なばかりか、気温はマイナス30度にもなる。 そんな中、なぜ彼らは薄着で、靴も履かず出て行ったのか? テントには引き裂かれたような、穴が開いていた。 イヴァノフ捜査官は、その穴が気になっていた。 イヴァノフ捜査官は、彼らの死は事故ではなく、殺人ではないかと疑っていた。
冬山のエキスパートである彼等が、なぜ薄着のまま靴も履かずに死んだのか? 捜査の焦点は、ほぼその1点に絞られた。
そして事件発生から数カ月後、イヴァノフ主任捜査官が突如、首都モスクワから呼び出しを受けた。 程なく、彼は再び、捜査本部に戻ってきたのだが…彼は人が変わったかのように、捜査に消極的になっていたという。
そして、事件発生から4ヶ月後、イヴァノフ捜査官は、9人の命を奪った犯人について驚くべき発表をする。 それは…「未知の不可抗力」。 事件の原因をそう結論づけ、詳細を究明しないまま、捜査に幕を下ろしたのだ。 背景にソ連当局の圧力があったことは明らかだった。 こうして…『ディアトロフ峠事件』の真相は、闇に葬り去られることになったのである。
そして事件発生から数カ月後、イヴァノフ主任捜査官が突如、首都モスクワから呼び出しを受けた。 程なく、彼は再び、捜査本部に戻ってきたのだが…彼は人が変わったかのように、捜査に消極的になっていたという。
そして、事件発生から4ヶ月後、イヴァノフ捜査官は、9人の命を奪った犯人について驚くべき発表をする。 それは…「未知の不可抗力」。 事件の原因をそう結論づけ、詳細を究明しないまま、捜査に幕を下ろしたのだ。 背景にソ連当局の圧力があったことは明らかだった。 こうして…『ディアトロフ峠事件』の真相は、闇に葬り去られることになったのである。
ソ連当局の圧力によって、闇に葬り去られることとなった『ディアトロフ峠事件』。 それから約60年、世紀のミステリーの真相を突き止めたと語る人物が現れた。 この事件に迫った書籍「死に山」を著した、アメリカ在住の映像ジャーナリスト、ドニー・アイカー氏。
アイカー氏は3年に渡り事件を調査。 ロシアを何度も訪れ、遺族や関係者、研究者たちを取材。 さらに事件が起こったディアトロフ峠の現場にも足を運んだ。 それぞれの説を徹底的に検証した結果、以外な事実が浮かび上がってきた。
アイカー氏は3年に渡り事件を調査。 ロシアを何度も訪れ、遺族や関係者、研究者たちを取材。 さらに事件が起こったディアトロフ峠の現場にも足を運んだ。 それぞれの説を徹底的に検証した結果、以外な事実が浮かび上がってきた。
真っ先に疑われたのがオオカミ、もしくは熊による獣害である。 ウラル山脈のこの辺りは、凶暴なオオカミや冬眠しなかった灰色熊などが出没する可能性があった。 テントの灯りに吸い寄せられるように現れた獣が、鋭い爪で布を切り裂き…ディアトロフたちは、必死に逃げ出した結果、戻れなくなったのではないか?という説である。
そして、ウラル山脈の山中に住む先住民、マンシ族の襲撃にあったのではないかという説。 事実、彼らはマンシ族と遭遇しており、日誌にも何度もマンシ族の名は登場していた。 極寒の地に生まれ、山の構造も知り尽くす彼らが、ディアトロフ一行を襲い、金品を盗んだのではないか?という。
そして、ウラル山脈の山中に住む先住民、マンシ族の襲撃にあったのではないかという説。 事実、彼らはマンシ族と遭遇しており、日誌にも何度もマンシ族の名は登場していた。 極寒の地に生まれ、山の構造も知り尽くす彼らが、ディアトロフ一行を襲い、金品を盗んだのではないか?という。
しかし、獣や人間が外部から襲撃したというこれらの説には、それが不可能だという証拠があった。 それは…あのイヴァノフ捜査官も捜査の鍵になると睨んでいた、“テントにあいた穴”にあった。
テントを鑑識が徹底的に調べた結果、テントは鋭い刃物で、内側から切り裂かれていたと断定されたのだ。
またマンシ族に至っては、温和な部族として知られ、ディアトロフらの捜索に率先して協力していたのだ。
そして2つの説を否定する重要な証拠が存在する。 それは、テント周辺には、隊員たちの足跡しかなかったのである。 獣やマンシ族の襲撃、いずれの可能性も極めて低いと考えられた。
またマンシ族に至っては、温和な部族として知られ、ディアトロフらの捜索に率先して協力していたのだ。
そして2つの説を否定する重要な証拠が存在する。 それは、テント周辺には、隊員たちの足跡しかなかったのである。 獣やマンシ族の襲撃、いずれの可能性も極めて低いと考えられた。
続いて浮上した説が…人間関係のもつれ。 美人の女性隊員に隊長のディアトロフ他、2名の学生が恋心を抱いていたという。 彼女をめぐり喧嘩がはじまり、テント内がパニック状態になり、結果、彼らは外へ飛び出していったのではないか?という説である。 しかし、ソ連は共産主義国家、「恋愛」を大っぴらに口にするのは、憚られる雰囲気があった。 さらに、将来の人生に影響する資格のテスト中に、女性を巡って喧嘩になることは考えにくい。 こうして「人間関係のもつれ説」も否定された。
では、彼ら9名の生命を奪ったのはいったい何なのか? ソ連当局が「未知の不可抗力」として、捜査を早期に打ち切ったのはなぜか? アイカー氏によれば今なお、最も強く信じられている2つの説があるという。
旧ソ連の核実験説。 当時は米ソ冷戦の真っ只中…兵器開発競争が勃発していた時代だった。 実は、旧ソ連時代、ウラル山脈の裏側に、弾道ミサイルの発射基地があった。 彼らがキャンプを張ったのは…まさにそのミサイルが上空を通過する場所だった。
あの夜…核ミサイルの実験が行われ、誤爆。 強い放射線を浴び、失明したことで、パニック状態になったのではないか?と言うのだ。 放射線を浴びたため、遺体は黒く変色し、髪も白くなったのではないか?そう疑う遺族は多くいたという。
旧ソ連の核実験説。 当時は米ソ冷戦の真っ只中…兵器開発競争が勃発していた時代だった。 実は、旧ソ連時代、ウラル山脈の裏側に、弾道ミサイルの発射基地があった。 彼らがキャンプを張ったのは…まさにそのミサイルが上空を通過する場所だった。
あの夜…核ミサイルの実験が行われ、誤爆。 強い放射線を浴び、失明したことで、パニック状態になったのではないか?と言うのだ。 放射線を浴びたため、遺体は黒く変色し、髪も白くなったのではないか?そう疑う遺族は多くいたという。
さらに…イヴァノフ捜査官は、殺人に重きを置きながらも、他の可能性も捨てず、様々な情報を集めようとしていた。 その中の1つに、遺体が身につけていた衣服の放射線量の検査があったのだが、モスクワから呼び出され、捜査本部に戻ってきた彼は…以後、一切の捜査を中止。 「未知の不可抗力」と結論づけ、事実上、捜査に幕を下ろした。
だがその数日後、遺体の衣服から通常の約2倍の放射線が検出されていたことが判明するのである。 やはり旧ソ連は、イヴァノフを呼び出し、何らかの核兵器実験を隠蔽するため、捜査を打ち切ったのか?
だがその数日後、遺体の衣服から通常の約2倍の放射線が検出されていたことが判明するのである。 やはり旧ソ連は、イヴァノフを呼び出し、何らかの核兵器実験を隠蔽するため、捜査を打ち切ったのか?
さらにもう1つ、この2倍の放射線を根拠に根強く囁かれている説がある…UFO説。 彼らは、UFOに遭遇したのではないか?というのだ。
その根拠は、放射線だけではない。 当時、9人を捜索していた人々が、ディアトロフ峠周辺で、オレンジ色の“光の球”が飛ぶのを目撃したと証言。 捜索隊だけでなく、山の麓に住む人々や「マンシ族」からも、目撃報告がいくつも上がっていた。
その根拠は、放射線だけではない。 当時、9人を捜索していた人々が、ディアトロフ峠周辺で、オレンジ色の“光の球”が飛ぶのを目撃したと証言。 捜索隊だけでなく、山の麓に住む人々や「マンシ族」からも、目撃報告がいくつも上がっていた。
ソ連の核実験説、UFO説、2つの説の根拠になっている「放射線」。 被害者の衣服から、通常の2倍に上る放射線が検出されたのは、紛れもない事実だ。
そこで…アイカー氏はシカゴ大学放射線科の准教授に、取材データを見せ意見を求めた。 すると…通常の2倍という数値は、危険でもなければ異常な高さでもないという答えが返ってきたという。 またその程度であれば、大気汚染などによって容易に説明がつくというのだ。 さらに皮膚が変色し、髪が白くなった原因は放射線被曝ではなく、直射日光を長期間浴びたせいだと、専門家が証言。 事実、最初に発見された遺体でも、30日近く、雪原で日光にさらされていた。
そこで…アイカー氏はシカゴ大学放射線科の准教授に、取材データを見せ意見を求めた。 すると…通常の2倍という数値は、危険でもなければ異常な高さでもないという答えが返ってきたという。 またその程度であれば、大気汚染などによって容易に説明がつくというのだ。 さらに皮膚が変色し、髪が白くなった原因は放射線被曝ではなく、直射日光を長期間浴びたせいだと、専門家が証言。 事実、最初に発見された遺体でも、30日近く、雪原で日光にさらされていた。
では、一体なぜ、ソ連当局は事件の早期幕引きを図ったのか? 事件から30年後、イヴァノフ元捜査官は当時の状況について、新聞にこう明かしている。
「ミサイルや核技術に関するデータが漏れるのを恐れて、共産党委員会からそのような問題を取り上げることは禁じられていた。」と。
冷戦のさなか、共産党は核にまつわる情報が国外に漏れるのを恐れていた。 よって当局は、事件が放射線の影響であることを疑い…情報の公開を迫ったイヴァノフを煩わしく思い、捜査を中止させたのだ。
「ミサイルや核技術に関するデータが漏れるのを恐れて、共産党委員会からそのような問題を取り上げることは禁じられていた。」と。
冷戦のさなか、共産党は核にまつわる情報が国外に漏れるのを恐れていた。 よって当局は、事件が放射線の影響であることを疑い…情報の公開を迫ったイヴァノフを煩わしく思い、捜査を中止させたのだ。
こうして、アイカー氏が3年にわたり、数々の説を検証した結果、たどりついたのは…全て『不可能』という事実だった。 そこで、最も不可能性が低い答えはやはり、なんらかの自然現象ではないか?と考えた。
アイカー氏はアメリカ海洋大気庁の気象学の専門家、ベダード博士に面会を申し込んだ。 博士はこれまで、ディアトロフ峠の悲劇について、聞いたことがなかったという。 そこで、アイカー氏は一連の出来事を事細かに伝え、現場の写真を見せた。 すると、ベダード博士は、ディアトロフたちがテントを張った場所の写真を見てこう言った。 「これは、ヘアピン渦が出来るのに、あまりにも理想的な地形だ。」 それは長年、気象の研究を続けきた博士だからこそ辿り着くことができた、事件の真相だった。
アイカー氏はアメリカ海洋大気庁の気象学の専門家、ベダード博士に面会を申し込んだ。 博士はこれまで、ディアトロフ峠の悲劇について、聞いたことがなかったという。 そこで、アイカー氏は一連の出来事を事細かに伝え、現場の写真を見せた。 すると、ベダード博士は、ディアトロフたちがテントを張った場所の写真を見てこう言った。 「これは、ヘアピン渦が出来るのに、あまりにも理想的な地形だ。」 それは長年、気象の研究を続けきた博士だからこそ辿り着くことができた、事件の真相だった。
ヘアピン渦とは、強い風が丸い半球状の障害物にぶつかる時に発生する、特殊な渦のこと。 渦自体の形がヘアピンに似ているため…こう呼ばれ、チューブのように大気を巻き込んでいる。
これはもともと流体力学の分野で、観測された現象。 その後、1990年代に入りメカニズムの研究が進んだものの、現在でも気象現象としての観測例はわずかである。 ヘアピン渦は、周囲の地形に凹凸が無ければ無いほど、パワーが強力になり…風速は実際の3倍にまで達する。 そして、ある程度風が強まると、竜巻に変化するという。 ディアドロフ達は、この竜巻が通過する間にテントを張ってしまったのだ!
これはもともと流体力学の分野で、観測された現象。 その後、1990年代に入りメカニズムの研究が進んだものの、現在でも気象現象としての観測例はわずかである。 ヘアピン渦は、周囲の地形に凹凸が無ければ無いほど、パワーが強力になり…風速は実際の3倍にまで達する。 そして、ある程度風が強まると、竜巻に変化するという。 ディアドロフ達は、この竜巻が通過する間にテントを張ってしまったのだ!
さらに、その竜巻は…2分〜3分に1回、彼らの間をすり抜けていったと考えられる。 彼らがテントを張った時の風速は、およそ15m、元々冒険家の集まりだったディアドロフ隊にとって、それはさほど大きな問題ではなかった。 しかし、誤算が生じる…ヘアピン渦が発生したことにより、風はその3倍へと強まった。 ベダード博士によれば、当時の天気図から、その竜巻は風速45メートル以上に達していたと推測できるという。 かなりの強風ではあるが、テントが吹き飛ばされていない以上、直接、竜巻が事故の原因になったとは考えにくい。 ではなぜ、ディアトロフ達は慌ててテントを飛び出したのだろうか?
ベダード博士は、こう説明してくれた。
「風速45mの竜巻は、地響きを伴い、まるで頭上を旅客機が離着陸するような、恐ろしい轟音を生じさせたのです。さらに…超低周波音を生み出します。」
そもそも空気の振動である音には、周波数で測る高さと圧力で測る大きさがある。 超低周波音の場合、周波数が低いため、ほとんどの人が聞き取ることができないが、圧力が大きくなると感じることができることがある。 そして、この超低周波音は、自然界でよく発生すると言われる一方、人体に影響を及ぼすと指摘する専門家もいる。 ベダード博士もその1人。 博士によれば、超低周波音を感じると頭痛や気だるさだけでなく、時に恐怖を覚えることもあるという。
「風速45mの竜巻は、地響きを伴い、まるで頭上を旅客機が離着陸するような、恐ろしい轟音を生じさせたのです。さらに…超低周波音を生み出します。」
そもそも空気の振動である音には、周波数で測る高さと圧力で測る大きさがある。 超低周波音の場合、周波数が低いため、ほとんどの人が聞き取ることができないが、圧力が大きくなると感じることができることがある。 そして、この超低周波音は、自然界でよく発生すると言われる一方、人体に影響を及ぼすと指摘する専門家もいる。 ベダード博士もその1人。 博士によれば、超低周波音を感じると頭痛や気だるさだけでなく、時に恐怖を覚えることもあるという。
ヘアピン渦が引き起こす、竜巻の凄まじい轟音。 加えて、超低周波音がもたらすパニック。 それに耐え切れずディアトロフ達は、風下へと逃げ出した。 だとすれば…冬山のエキスパートである彼らが、なぜ、テントを切り裂き…上着も着ず、しかも裸足でマイナス30度におよぶ夜の雪原に飛び出していったのか…ほぼ全てに説明はつく。
そして、真っ暗な夜の雪原へ飛び出した9名のうち、6名が低体温症による凍死。 脱ぎ捨てられた衣服は、矛盾脱衣と呼ばれる行動だと考えられた。 人は体温が下がりすぎると、皮膚の血管が収縮、体を中から暖めようとする働きが生じる。 すると、体内の温度と気温の間で温度差が生じ、寒い環境下でも、暑いと錯覚に陥ることがあるという。
そして、竜巻の影響もあったのか、4名が足を踏み外し、谷底に落下。 1人は雪がクッションになり、大きな外傷は負わなかったものの、低体温症で凍死。 残る3人は、落下した際、雪の下にあった岩に激突、肋骨や頭蓋骨の骨折など、激しい外傷による大量出血が死因になったと考えられた。 そして、彼らの命が奪われたその場所こそ、奇しくもマンシ族が『死の山』と名付けた山だった。
そして、竜巻の影響もあったのか、4名が足を踏み外し、谷底に落下。 1人は雪がクッションになり、大きな外傷は負わなかったものの、低体温症で凍死。 残る3人は、落下した際、雪の下にあった岩に激突、肋骨や頭蓋骨の骨折など、激しい外傷による大量出血が死因になったと考えられた。 そして、彼らの命が奪われたその場所こそ、奇しくもマンシ族が『死の山』と名付けた山だった。
60年前に比べ、遙かに進歩した科学の力で、9人の若者の命を奪った真犯人は見えてきた。 ヘアピン渦という未知の脅威にさらされた恐ろしさはいかほどだっただろうか? 彼らは何も語らぬまま、土の下に眠っている。
アイカー氏はこう話す。 「私はこれが、真相だと信じている。少なくともこれが、不可能でない唯一の説だから。」
アイカー氏はこう話す。 「私はこれが、真相だと信じている。少なくともこれが、不可能でない唯一の説だから。」
9名の若者たちが命を落としたにも関わらず、解決不可能と言われたディアトロフ峠事件。 しかし、発生からおよそ60年の時を経て、1人のジャーナリストの丹念な取材によって、ついに真相が浮かび上がってきた。 当時の科学では知る由もない、ヘアピン渦、その発生によって、今後、同様の悲劇が繰り返される心配はないのだろうか?
べダード博士によれば、ヘアピン渦が発生するのは、人里離れた場所に限られるゆえ、都市に住む人間がヘアピン渦に巻き込まれる危険はない。 しかも…都市部では建物が複雑に入り組み、風の流れを遮るので、おそらくヘアピン渦は発生しないだろうという。
べダード博士によれば、ヘアピン渦が発生するのは、人里離れた場所に限られるゆえ、都市に住む人間がヘアピン渦に巻き込まれる危険はない。 しかも…都市部では建物が複雑に入り組み、風の流れを遮るので、おそらくヘアピン渦は発生しないだろうという。
そしてベタード博士が今回の悲劇の要因の一つだと語る「超低周波音」。 博士は、それが人間に及ぼす影響についてこう語る。
「超低周波音は自然界でもよく発生します。雪崩、海の波、火山や地震、その他様々なところで確認されています。しかし大抵の場合、音の圧力のレベルが低く、人体に影響を与えることはありません。」
しかし9名の学生は、その命を奪われ、悲劇的な最期を迎えた。
ベタード博士は、こう話してくれた。 「竜巻が起こっている間、通常ではありえない、非常に強力な超低周波音が彼らを襲ったと考えています。それは何度も繰り返され、中にはその音を感じ取った隊員もいたと思います。竜巻や轟音と相まって彼らに強い恐怖を抱かせたのでしょう。」
世紀のミステリーと言われたディアトロフ峠事件。 彼らには決して知ることの出来なかった現象が、その原因だった。 しかしこの事件は、まだ地球上には未知の現象が潜んでいると、警鐘を鳴らしてくれているのかもしれない。
「超低周波音は自然界でもよく発生します。雪崩、海の波、火山や地震、その他様々なところで確認されています。しかし大抵の場合、音の圧力のレベルが低く、人体に影響を与えることはありません。」
しかし9名の学生は、その命を奪われ、悲劇的な最期を迎えた。
ベタード博士は、こう話してくれた。 「竜巻が起こっている間、通常ではありえない、非常に強力な超低周波音が彼らを襲ったと考えています。それは何度も繰り返され、中にはその音を感じ取った隊員もいたと思います。竜巻や轟音と相まって彼らに強い恐怖を抱かせたのでしょう。」
世紀のミステリーと言われたディアトロフ峠事件。 彼らには決して知ることの出来なかった現象が、その原因だった。 しかしこの事件は、まだ地球上には未知の現象が潜んでいると、警鐘を鳴らしてくれているのかもしれない。
Russia
Beyond
ロシア史上最も不可解な事件「ディアトロフ峠事件」に衝撃の新説
2018年11月29日
ダニエル・チャルヤン
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59年前、10人のスキーヤーがウラル山脈にある「死者の山」に登った。下山したのは途中で引き返した一人だけ。身の毛もよだつような失踪事件の顛末と不可解な状況は悪夢を思わせ、ハリウッド・フィクションの題材にもなった。長い年月を経た今、事件の真相に最も迫ったと自信を見せる一人のロシア人ブロガーが現れた。
失踪事件の結末は科学者らと捜査班に衝撃を与えた。遺体は異なる場所で異なる時期に発見された。何体かは骨折などの重症を負った形跡があり、また何体かには放射線被曝が見られた。遺体の半数は裸か、あるいは他のメンバーの服を身に着けていた。近辺に事件の原因となるようなものはない、というのがソビエトの捜査当局の結論だった。
精神病に起因する殺人から宇宙人による犯行、政府の極秘実験まで、さまざまな説が提唱された。
事件から60年近くを経た今、新説を唱える人物が現れた。超常現象や不可解事件に関するジャーナルを発行しているロシア人ブロガーのワレンチン・デグテリョフ氏だ。彼は、ディアトロフ一行の死が、威力の小さなミサイルが山に直撃したことによるものだと考えている。自身のオンラインジャーナルで彼が述べたことには、この一帯の衛星写真を詳しく調べると、証拠となる直径30メートルのクレーターが見つかるが、それは彼らのテントから約3キロメートルしか離れていないという。
「花崗岩は一度溶解し、基本的に赤いガラスに変質している。衝突の際の温度は非常に高かったと考えられる。これは衛星写真ではっきりと確認できる。」
彼はこう続ける。「衝撃波に叩き起こされ、[ハイカーらは]眩しい光に目がくらみ、おそらく一時的に視力を失っていた。彼らが突然逃げ出し、森へ駆け下りた理由が説明できる。」
奇妙にも聞こえるが、ミサイルの発射は実験ではなかったとデグテリョフ氏は考えている。
「ミサイルはおそらく軌道から外れて針路を変え、誤って山の側面に激突したのだろう。」
ブロガーは、もし犠牲者の衣服から放射線が検出されていなければ、彼は隕石落下説を採っただろうと述べる。
「春になったら現場を徹底的に調べる必要がある。もし実際に放射線が検出され、衝突のクレーターが見つかれば、ディアトロフ峠の謎は解けたと考えて良い。」
だが、デグテリョフ説ですべてが説明できるのだろうか。
そもそも何が起きたのか
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23歳のイーゴリ・ディアトロフ率いる一行は、1959年の冬にオトルテン山へトレッキングに行ったきり戻って来なかった。その後の調査で分かったことは、2月2日に一行が宿泊していたテントが内側から引き裂かれ、中にいた人々は寝巻き姿で夜の闇の中へと飛び出し逃げ惑ったということだ。遺体はすべて数週間以内に発見されたが、何人かは他の仲間の衣服を着て死亡していた。衣服は高い放射線量を示していた。
実に奇妙なことに、何体かの遺体に低体温症の形跡しか見られなかった一方で(だがなぜ彼らは裸だったのか)、森の奥深くで発見された他の遺体は、内出血や骨折、頭蓋骨のひびなど、体内に大きな損傷が見られたのだ。メンバーの一人リュドミラ・ドゥビニナの遺体には舌がなかった。
捜査班はこの状況になす術なく、事件性はないと判断した上で捜査を打ち切った。最終的な報告書では、一行が「正体不明の抗い難い力」によって死亡したと記された。
当局がようやく情報公開したのは1990年代のことで、当然これもさまざまな憶測を呼んだ。核実験から宇宙人による犯行まで、多くの陰謀論が囁かれた。事件と同名のホラー映画まで登場した。
さまざまな説
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さて、デグテレフの新説は発表から間もなく賛否両論を呼び起こした。彼の「発見」に対し肯定的なコメントを残す人もいれば、他の説と同様に慎重な検証を要するとする立場の人もいる。吹雪の中で起きた怪奇事件には、知られているだけで合わせて60以上の仮説が提起されている。
科学的に断言できることは、9人のスキーヤーの怪我が、近辺にあった何物によるものでもないとうことだ。
特に興味深い説の一つは、「現地のマンシ族が生贄を捧げる儀礼に用いていた聖なる洞窟」をめぐるものだ。マンシ族はそもそも部外者が山に立ち入るのを嫌っていた。彼らは、ディアトロフの一行が生贄の洞窟から貴重な品々を盗み出したことに憤慨して、一行に夜襲をかけて殺害した、というのだ。しかしこの説は事実無根のでたらめにすぎない。
その他、無秩序で暴力的な死の原因が、一行が現地の狩猟民から得た有毒な密造酒(これも「儀礼用」だとか)だというものだ。この酒は容易にサイケデリックな幻覚を引き起こすのだという。一応この説は、一行がばらばらに逃げ、一見不可解な行動を取ったことの説明にはなり得る。
テントが内側から引き裂かれていたということに加えて、テントの外にディアトロフの一行のメンバー以外の足跡がなかったという事実もある。一行がテントから飛び出してさまざまな方向に逃げ出したことは確かなようだ。事件は依然謎に包まれたままだ。
2019.5.15. 死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相
Dead
Mountain 2013
著者 Donnie Eichar 1972年フロリダ生まれ。映画・テレビの監督・制作で知られる。カリフォルニア・マリブ在住
訳者 安原和見 翻訳家。鹿児島県生まれ。東大文西洋史学科卒
発行日 2018.8.20. 初版印刷 8.30. 初版発行
発行所 河出書房新社
1959年、冷戦下のソ連・ウラル山脈で起きた遭難事故。登山チーム9名はテントから1㎞半ほども離れた場所で、この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された。氷点下の中で衣服をろくに着けておらず、全員が靴を履いていない。3人は頭蓋骨骨折などの重傷、女性メンバーの1人は舌を喪失。遺体の着衣からは異常な濃度の放射線が検出された。最終報告書は、「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ……。地元住民に「死に山」と名付けられ、事件から50年を経てもなおインターネットを席巻、我々を翻弄し続けるこの事件に、アメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。彼が到達した驚くべき結末とは・・・・・!
プロローグ ~ 1959年2月 ソ連ウラル山脈北部
10日前から行方不明になっている友人の捜索に2人の大学生が現場を訪れ、テントを発見し、無人の中はきちんと整っていた。
著者は2度にわたってロシアに長期旅行をし、24,000㎞以上も踏破した後、2012年に3度目として事故の現場に迫る ⇒ 2年前までは事件のことなど聞いたこともなかったのに、ひょっとしたきっかけで出会ったことから興味をもってネットを追いかけた
目撃者はなく、半世紀以上も広範な調査が行われたものの決め手はなく、いまだ説明がつかないまま。無数に本も出たが、誰一人冬に現場を訪れたことがないらしい
この事件に惹きつけられたのは、単に真相を知りたいという欲求の為ではなく、メンバーは大学で勉強するかたわら、ろくに地図もない地域を探検して過ごしていた。彼らの探検の旅には一種の純粋さがあり、そこに共感を覚えた
事件の唯一の生き残りユーリ・ユーディンがまだ生きていると知って本格的に真相を極めることを思い立ち、ディアトロフ財団の理事長とコンタクト。真相を解明したいならロシアに来なければならないと言われ決断
53年1月ウラル工科大の寮で最終準備が始まり、大学のあったロシア第4の都市エカテリンブルクから汽車で目的地に向かう
ソ連時代はスヴェルドロフスクと呼ばれ、ウラル山脈の東側で、シベリアの西の端
大学の捜索が正式に始まったのは2月20日だったが、承認されたトレッキングルート計画は、地元のトレッキング委員会に記録が残っておらず、北へ向かったことだけしかわからないままに出発
当初空からの探索で、マンシ族の村に着陸、通過してお茶を飲んでいったことが判明
10年11月著者は協力者とともにエカテリンブルク入りし、記念館の理事長と面談。関係者にも質問するが、誰も独自の意見を持っていて、どれも他の人の意見とは一致しないようだった
ディアトロフの妹に会える。妹は、兄の遺体の皮膚が黒っぽく変色し、老人のように皺だらけになっていたのを見て、雪のせいで死んだのではないと確信していた
捜索開始当日、地元の検察も犯罪捜査を命じている
2度目にエカテリンブルクに行った際、生き残りのユーディンに面談。当時スターリンの死去直後で、若者にとって野外探検が大きな生活の一部だったことを知る。友愛、平等、尊敬がロシアのトレッカーの支配的価値観であり、男女も平等で、重要な目標はチームが1つになって距離を克服するという精神を実現すること
ユーディンの予想は、友人たちの死は自然現象とは無関係。強権政治による陰謀説
ディイアトロフ隊の後を追うようにして歩いていたトレッキング部隊「カレリンのグループ」は、2月17日の早朝、隕石のような強烈な光線を放つ物体が落ちていくのを目撃しているが、3月5日に付近で発見した5人目の遺体の顔がひどく変色、鈍器で撃たれたかのようだったことに驚く
テントが明らかに内側から3か所切り裂かれているのも謎、慌ててテントから脱出した理由が不可解
著者の3度目の現場行きは、記念館の理事長を含めロシア人が3人加わり、ディアトロフ・グループの旅程を辿る初のトレッカーとなった。スノーモービルで現場近くまで走り、あとは歩いて遺体発見の現場に向かう。同じような気象条件下で、なぜテントを捨てる気になったか余計に疑問が深くなる
最初から主任検察官は、学生の死は天候のせいではなく、殺人だと繰り返し言っていたが、モスクワから呼び出しを受けた後は、急に態度を変え人が変わったように、殺人のことも光球のことも口に使用とせず、周囲にも「余計なことを言うな」と注意していたが、90年になって、奇妙な空の光と学生たちの死の関連性を追求するのを控えるよう、地域の共産党委員会から指示されたことを明らかにした。冷戦当時、ミサイルや核技術に関する問題を取り上げることは厳禁だった
3か月ほどたって、現場の捜索隊が大量の衣服を発見したが、遺体を包んでいるのではなく、一部は刃物で切り裂かれ脱ぎ捨てられていた。最後の4人の遺体も同じ場所で発見
4人の検死解剖で異常だったのは、大きな外傷と内出血で、生前に加えられた「強い外力」によるものとされ、さらに女性は外傷に加え舌がなくなっていた
遺体の臓器の放射線検査の結果では、一般の濃度と変わらない数値だったが、衣服の測定結果は通常の2倍を超える数値で、その原因は不明。検察官も真相解明に意気込んだが、地域の上層部からの圧力に屈して捜査を打ち切っている
遺族には何の説明もないまま、59年5月28日付け検察官の「死因は未知の不可抗力」という結論しか残されていない
超音波の逆で、人の可聴域より低い周波数(=超低周波)が、カルマン渦列によってもたらされ、テントを直撃したとの説明が最も説得力を持つ
2013.2.15.エカテリンブルクの200㎞南のウラル山脈上空で12,000tの隕石が爆発。地球の体験に突入した最大の隕石でチェリャビンスク隕石と名付ける。爆風は広島の原爆の数百倍と推定。併せて超低周波音現象が起こった
最後の章に2月1~2日の遭難時の模様を再現しているが、突然円蓋のような山頂を超えてくる風の速度が増し、恐ろしい轟音を伴った気象条件は見当がつかないまま、全員が同じ重度の偏頭痛に見舞われたかのように頭がずきずきし始め、胸腔に妙な振動を感じる
本格的に耐えがたいい恐怖に変わり、風の振動が超低周波音の域に達するころには、風よりもはるかに深い恐怖に捉われ、超低周波音の影響で、一時的に理性的な思考能力が奪われ、原始的な逃避反応という本能に支配された
風は2つの渦となって山頂から吹き降ろし、まるで冬の竜巻のよう。轟音を上げて時速60㎞/hで吹き抜けるが、内側の回転速度は180~250㎞/hにも達し、耳に聴こえる咆哮に加えて超低周波音も発生、トレッカーたちの精神に恐慌をもたらす
暗闇のなかをそれぞれがバラバラに我を忘れて飛び出したために、すぐに恐怖が去って理性的な思考能力が戻ると、異なる種類の混乱に襲われ、極寒のもたらす譫妄に変わっていく
発見された遺体の場所や状態から、9人のトレッカーが厳しい寒さの中、広大な荒野を越えてみな自分自身と友人のたちの命を守るために闘ったことがわかる。その勇気と忍耐はトレッキング第3級の称号を得るに十分で、彼らにはその栄誉を受ける資格がある
本書の目的は、亡くなった9人のトレッカーとその家族友人に敬意を表すること
解説 到達不能、あるいは検索不能の未踏へ 佐藤健寿
今日私たちが知る「世界の謎」と呼ばれる出来事のほとんどは20世紀半ばから80年代後半にかけて発見/発掘されている。"不思議なこと”は、まるで失われた叡智のごとく人々の関心を集めたが、世紀末には世界に降臨した想定外の恐怖でもあるインターネットによって終わりを告げる
ネットの出現により、「世界の謎」の大方はその実相が暴かれたが、そんな時代に突風のように現れたのがディアトロフ峠事件
当時当局はその原因を「未知の不可抗力」とだけ報告して調査を終了したが、2010年頃から急に「新たな謎」として発掘された。理由の1つは「旧ソ連」で起きたことと深く関係
アメリカ人の著者が事件解明に動いたことにロシア関係者は当惑したが、20世紀の謎は多分に英語圏中心の文化だったところに、80年代のグラスノスチで公開されたロシア圏での謎が登場、Wikipediaに取り上げられたのは2006年
特に貴重なのは、当時の学生たちの日誌や写真から彼らの足取りをたどる物語。個々の隊員のキャラクターを浮き彫りにし、行方不明前日までの様子をリアルに追想させる
事件後の捜索隊のレポートも、これまでほとんど公開されてこなかった詳細を含む貴重なもの
最大の謎は学生たちの死に様
60年後の現地視察があったからこそ、本書の洞察が決定的な説得力を得ていることは疑いない。ネット社会の「圏外」へと旅する、知の探検でもあると同時に、現代もなお検索不能な「未踏」は、暴風吹き荒れる白い雪原の向こう側に確かに存在していた
(書評)『死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』 ドニー・アイカー〈著〉
2018.10.27. 朝日
■「未知の不可抗力」の謎に挑む
1959年、旧ソ連のウラル山脈で起きた世にも奇っ怪な遭難事故。米国人ドキュメンタリー映画作家がその謎の解明に挑む。
若者の登山チーム9人が零下30度の夜、テントを飛び出し、靴を履かず、衣服もろくに着ずに忽然と闇に消えて、老人のように皺だらけの遺体で発見された。白髪になった男性や舌を失っていた女性も。着衣からは異常な濃度の放射能が検出され、皮膚は黒っぽく変色。地元のマンシ族が恐れる「死に山」で一体彼らに何が起こったというのか!?
このトレッキングに初期の段階で引き返した唯一の生存者を訪ねて手がかりを探ろうとする著者も事故の核心には届かなかった。彼らと何の縁もゆかりもない自分が「なぜ私はここへ来ているのだろう」との疑問を抱きながら、事故の起こったディアトロフ峠に向かうが、まるで死者が彼を呼び寄せて、死の真相を語らせようと企んでいるようにさえ思えるのだ。
ありとあらゆる人たちがあらゆる角度からこの事故を現実的に、時には超自然的に解明を試みたが決定的な解答は誰も出せない。武装集団による殺人説も飛び出したり、光体の出現からUFO事件とも騒がれたりするが、結局「未知の不可抗力」で片付けられたまま。59年が経って、今もネットを席巻する。
著者は子供のころから気象に異常な興味と関心を持っており、そのことが解明の糸口になる。そして最終章で、その現場にいた遭難者の恐怖体験と同化したかのように、気象の知識を駆使して、一気に解明に迫るが、その描写のリアリティーには死者の意思が関与しているのではと思わせるくらいだ。
だけど、ただひとつ気になるのはトレッカーの一人が撮った最後の写真の一枚に写っている「光体」の謎で、これには触れていない。事件後、何人もが見ている空の光体と放射能。そして遺体が突然の老化現象を起こした説明もない。
評・横尾忠則(美術家)
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『死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』 ドニー・アイカー〈著〉 安原和見訳 河出書房新社2538円
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Donnie Eichar 米国生まれ。映画・テレビの監督、ドキュメンタリーシリーズの製作などで知られる。
Wikipedia
ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部でスノートレッキングをしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。事件は、ホラート・シャフイル山(Kholat Syakhl、Холат-Сяхыл、マンシ語で「死の山」の意[1])の東斜面で起こった。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフ(ディヤトロフ、ジャートロフ、ジャトロフ、Игорь Дятлов)の名前から、ディアトロフ峠(ジャートロフ峠、ジャトロフ峠、Перевал Дятлова)と呼ばれるようになった。
当時の調査では、一行は摂氏マイナス30度の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したとされた。遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体は舌を失っていた[2]。 さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射性物質が検出された。
事件は人里から隔絶した山奥で発生し、生還者も存在しないため未だに全容が解明されず、不明な点が残されている[3][4]。当時のソ連の捜査当局は “抗いがたい自然の力” によって9人が死に至ったとし[3]、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた[2]。
一行は男性8名女性2名からなり、スヴェルドロフスク州内のウラル山脈北部においてスキーでのトレッキングを計画していた。グループの多くはウラル科学技術学校(Уральский Политехнический Институт,
УПИ)、現在のウラル工科大学の生徒か卒業生だった。メンバーは次の通りである。
ディアトロフ峠事件の犠牲者の慰霊碑
一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10キロメートルのオトルテン(ロシア語版)山に設定されていた。そのルートは、事件当時の季節においては踏破難易度が極めて高いと推定されたが、一行の全員が長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。
1月25日、スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデリ(英語版)に一行の乗った列車が到着した。彼らはトラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80キロメートル北方にある最後の有人集落、ヴィジャイ(ロシア語版)に到着。そして1月27日、いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した。しかし翌日、ユーリー・ユーディンが持病のリウマチの悪化から離脱、一行は9人になった。ユーディンと別れた後、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていない。ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである。
1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はオトルテン山麓に到達し、本格的な登山準備に入る一方で、下山までに必要と思われる食料や物資を取り分け、余剰分は帰路に備えて残置した。翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようだが、悪天候と吹雪による視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れてオトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。彼らはやがて誤りに気づいたが、1.5キロメートルほど下方の森林地帯に入って風雪を凌ぐのではなく、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにした[2]。木々の中でのキャンプ設営は容易だが、難ルートを踏破しトレッキング第3級の条件を満たす斜面での設営に決めた、ともされている。たった1人の生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフは、すでに登った地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べている[2]。
一行が登山を終えてヴィジャイに戻り次第、ディアトロフが速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっており、おそらく2月12日までには電報が送られてくるだろうと予想されていた。しかし事前にディアトロフがユーディンに、もう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日が過ぎて連絡がなかったにも関わらず、誰もこのことに特に反応しなかった。こうした遠征では数日の遅れは付き物だったためである。2月20日になってようやく、一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校はボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送った[2]。その後軍と警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなった。
2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で、酷く損傷して放棄されたテントを発見した。テントを発見した学生、ミハイル・シャラヴィンは「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました」と述べている[2]。調べによると、テントは内側から切り裂かれていた。8つないし9つの靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森(谷の反対側、1.5キロメートル北東)に向かって続いていたが、500メートル進んだところで、雪に覆われて見えなくなった。捜索隊は森のはずれの大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていないユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして焚き火の跡を発見した。木の枝が5メートルの高さまで折られていたことは、彼らのうちの1人が木の上に登って、何か(おそらくキャンプ)を探していたことを示すものだった。捜索隊はさらにヒマラヤスギとキャンプの間で、ディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、そしてルステム・スロボディンの3人の遺体を発見した。遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置で別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していた。
残り4人の遺体を探すのにはさらに2ヶ月を要した。残りの遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見された。4人は他の遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちに譲ったらしいことを示していた。ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っており、同時にドゥビニナの足にはクリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていた。
1959年2月26日、救助隊が発見したテントの光景。テントは内側から切開されており、一行のメンバーたちは靴下や裸足でテントから逃げ出していた。
最初の5人の遺体が発見された直後、死因審問が始められた。検死の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかり、5人全員の死因が低体温症であることが判明した。スロボディンは頭蓋骨に小さな亀裂を負っていたが、これが致命傷になったとは考えられなかった。
5月に発見された4人の遺体の検死は事情が違った。彼らのうち3人が致命傷を負っていたのである。チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していた。ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士 (Dr. Boris Vozrozhdenny) は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとしている。特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことであった[2]。当初、先住民のマンシ人が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れたが、現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという状況から、この説は否定された[2]。
気温が摂氏マイナス25度から30度と極めて低く、嵐が吹き荒れていたにも関わらず、遺体は薄着だった。彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、同時にその他の者は靴を履いていなかったか、靴下しか履いていなかった。何人かの足は、先に亡くなった者の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端で巻かれていた。低体温症による死亡のうち、20%から50%はいわゆる矛盾脱衣と関連があり[7]、これは通常、人が失見当識状態や混乱状態、好戦的な状態に陥るような中程度から重度の低体温症のときに起こる。おそらくこれが彼らが服を脱いだ理由であり、服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まっただろう[8][9]。
この説に基づくシナリオの一つは、押し寄せてきた雪が夜のうちにテントを潰し、メンバーはパニックに陥ったというものである。一行はテントを切り裂いて逃げ出したが、靴や余分な衣服を雪崩で失ってしまった。氷点下の中で湿った雪に覆われると、15分以内に極度の疲労や低体温症による意識喪失が起こり、生存に関わる危機を招く[11]。チボ=ブリニョール、ドゥビニナ、ゾロタリョフ、そしてコレヴァトフは、自分たちが人里離れた場所に居るにも関わらず、助けを求めて移動し、渓谷に滑落した。彼らのうち3人の遺体がひどい骨折を負っており、かつ彼らが渓谷の中で4メートルの深さのところに横たわっていたのも、彼らが滑落したことの証左と見なしうる。
一方で、雪崩は傾斜30度以上で発生することが多く、この一帯は傾斜15度で雪崩の起こりやすい地域ではないという主張はある[12]、。 捜査当局がキャンプ地から続く足跡を見たことは、雪崩説を否定する根拠になる。さらに彼らから放射線が検出された謎や、遺体から眼球や舌が喪失していた点も雪崩だけでは解明できない。
一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡した。
9人以外に、ホラート・シャフイル山に他の者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかった。
テントは内側から切り開かれていた。
一行は、最後に食事を摂ってから6 - 8時間後に死亡した。
キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していた。
先住民のマンシ人が一行を襲撃したという説を払拭するために、ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、3人の遺体が負った致命傷は他の人間によるものではないとし、「非常に強い衝撃によるものであり、(その証拠に)遺体の軟部組織は何ら損傷を受けていなかった」と述べた[2]。
発表された資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報が含まれていない。
当局の最終的な調査結果は、全員が “抗いがたい自然の力” によって死亡したというものであった[3]。死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」と結論した。資料は機密文書保管庫に送られ、1990年代になってようやくコピーが公開されるようになったが、幾つかの資料が失われていた[2]。
研究者の中には、捜査当局が以下のような事実を見落としたか、意図的に無視したと主張している者もいる。
後にエカテリンブルクに拠点を置くディアトロフ財団(下記参照)の理事長となる、当時12歳のユーリー・クンツェヴィチ(Юрий Кунцевич)は、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想している[2]。
幾つかのメンバーたちの衣類(ズボン2着とセーター)が高い線量の放射能で汚染されていた。
事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロメートル離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告している[2]。同様の“光球”は、1959年2月から3月にかけて、イヴデリとその隣接する地域で、それぞれ無関係の目撃者(気象・軍関係者を含む)によって目撃されている[2]。これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、エフゲニー・ブヤノフ(Евгений Буянов)によって証明されている[13]。
一部の報告は、軍がこの地域を(何らかの目的で)密かに利用し、そのことの隠蔽に取り組んできたのではないかという憶測に繋がる大量の金属くずが、この地域に置かれていたことを示唆している。
ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、バイコヌール宇宙基地(ここから、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われた)から、ノヴァヤゼムリャのチェルナヤ・グバ(ソビエト連邦内の主要な核実験場だった)に直接通じる道の途上に位置していた。
テント内に残されたカメラのフィルムが現像された。彼らの姿を映したものが多数を占めたが、最後の1枚が判別不可能ながら「光体」のようなものであった。
アメリカのドキュメンタリー映画監督ドニー・アイカーは著作『死に山』において、現場のドーム状かつ左右対称の地形はヘアピン渦現象と呼ばれる特異な気象現象が起こるには理想的な環境であり、繰り返し起こった竜巻による強風と低周波音に晒されて一行がパニックに陥りキャンプを飛び出し、凍死や転落死に至ったのではないかと推測している。事件現場の近くには核実験場があり、遭難者の体から通常の二倍程度の放射線量が検出されても不自然ではなく、肌焼けについても長時間雪原で日光に晒されていれば起こり得る、としている。
1967年、スヴェルドロフスク州の著述家でジャーナリストのユーリー・ヤロヴォイ(Юрий Яровой)は、この事件にインスピレーションを受けた小説『最高次の複雑性』 (Of the highest rank of
complexity,Высшей категории трудности)[14]を出版した。ヤロヴォイはディアトロフ一行の捜索活動や、捜査の初期段階において公式カメラマンとして関与しており、事件に対する見識を有していた。小説は事件の詳細が秘匿されていたソビエト時代に書かれ、ヤロヴォイは当局の公式見解以外のことや、当時すでに広く知られていた事実以外のことを書くことは避けた。小説は現実の事件と比較すると美化されており、一行のリーダーだけが死亡する結末など、よりハッピーエンドになるよう書かれている。ヤロヴォイの知人によると、彼はこの小説の別バージョンを幾つか書いたようであるが、いずれも検閲で出版を拒否された。1980年に彼が亡くなって以降、彼の持っていた写真や原稿などの資料は全て失われてしまった。
1990年になると、事件の詳細の一部が出版物やスヴェルドロフスク州の地元メディアで公にされるようになった[要出典]。そうした最初の出版物の著者の1人が、アナトリー・グシチン(Анатолий Гущин)である。グシチンは、死因審問のオリジナルの資料を調査し出版物に使うことに、警察当局が特別許可を出したと報告している[要出典]。彼は、事件の物品目録の中で言及されていた謎の「エンベロープ(envelope)」などに関する多数のページが、資料から消されていたことに気づいた。同じ頃、いくつかの資料のコピーが、他の非公式な研究者の間に出回り始めた[要出典]。グシチンは、著書『国家機密の価値は、9人の生命』(The Price of State Secrets Is Nine Lives,Цена гостайны –
девять жизней)の中で、調査結果をまとめている[3]。一部の研究者は、この本の内容が「ソビエト軍の秘密兵器実験」説に入れ込み過ぎていると批判したが、本は超常現象への関心を刺激し、公の議論を沸き起こした。実際、30年間口を閉ざしていた人々が、事件に関する新たな事実を報告したのである。
そうした中の1人が、1959年に公式の死因審問を率いていた警察関係者、レフ・イヴァノフ(Лев Иванов)であった。1990年の彼の著書[15]によれば、当時の捜査チームは事件を合理的に説明することが出来なかった上、地域の高級官僚から、死因審問を中止して捜査チームが見た“飛行する球体”に関する資料を機密にするよう、直接指示を受けたというのである。イヴァノフ個人は、何らかの超常現象──具体的に言えば、UFOなど──が起きたことを信じているという。
2000年、地元テレビ局がドキュメンタリー番組『ディアトロフ峠の謎』(The Mystery of Dyatlov
Pass,Тайна Перевала Дятлова)を制作した。制作にあたっては、エカテリンブルク在住の著述家で、事件をモデルにドキュメンタリー仕立てのフィクション小説[4]を執筆したアンナ・マトヴェーエワ(Анна Матвеева)が協力した。この小説の大部分は、事件の公式資料や犠牲者たちの日記、捜索に携わった者のインタビューや、映画製作者が集めた資料の引用から成っており、おおまかなあらすじは事件を解明しようと試みる現代に暮らすある女性(著者自身の分身)の、日常と考えを追うといった内容である。フィクション小説であるにもかかわらず、マトヴェーエワの著書は、公表されてきた情報源の中で最大級のものとして扱われている。また、事件の資料やその他の文書の写しが、熱心な研究者に向けてWebフォーラムで徐々に公開されはじめている[16]。
エカテリンブルクでは、ユーリー・クンツェヴィチによってディアトロフ財団が、ウラル工科大学の助けを借りて設立された。財団の目的は、ロシア当局に対して事件の再調査を開始するよう求めることと、亡くなった者たちの記憶を保存するディアトロフ記念館を維持することである。
2019年、ロシア検察が事件を再調査していることを明らかにした。今後、専門家チームが現地入りしてサンプルを採取し、事件の原因が雪崩だった可能性について気象専門家が判断することになっている[17]。現地調査前のロシア最高検察庁による説明では、事件の原因として75通りの可能性を検討して3つに絞り込んだ。犯罪などは除外され、自然現象(雪崩や暴風など)によるとする見解である[5]。
Donnie Eichar "Dead Mountain: The
Untold True Story of the Dyatlov Pass Incident" Chronicle Books, 2014年10月 ISBN 978-1452140032
ディアトロフ峠の謎 Тайна перевала Дятлова: 2000年, TAU (ウラル・テレビジョン・エージェンシー) (ТАУ – Телевизионное Агентство
Урала, 2000г.)。
テレビ番組『ダーク・マターズ: ツイステッド・バット・トゥルー(英語版)』の2012年8月25日放送のエピソード"Cold War, Cold Case"の中で、事件について触れられている[要出典]。
ロシアのトークショー番組"Let Them Talk"の2013年春の2時間スペシャルで、事件が特集された。
『ホラート -ディアトロフ峠の惨劇-』:事件をベースに作られたアドベンチャーゲーム(PS4向け)。プレイヤーは不気味な雪山を探索しながら点在するメモを拾い集め、物語の謎に挑む。
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アンビリバボー 2018.12.6.オンエア
ディアトロフ峠事件60年目の真実
今から59年前の寒い冬の夜、旧ソ連中部にあるスヴェルドロフスクから、10人の若者がスノートレッキングと呼ばれる、冬山登山に出発した。 目指すはスヴェルドロフスクから500キロほど北、ウラル山脈にあるオトルテン山の山頂。
パーティーは冬山のエキスパート、隊長のイーゴリ・ディアトロフや、地質学に詳しいユーディンなど男性8名、女性2名の計10名。 みんなウラル工科大学などで学ぶ大学生だった。
この登山の目的は単なるレクリエーションではない。 彼らは、ソビエト共産主義のもと強化された「スポーツマスター」と呼ばれる、アスリートを育てる資格の取得を目指していた。 今回の、オトルテン山へのアタックは、成功すれば全員がその資格を得ることができる、極めて重要なテストだった。 隊長のディアトロフは経験豊かで人望もあり、隊員からの信頼は厚かった。
パーティーは冬山のエキスパート、隊長のイーゴリ・ディアトロフや、地質学に詳しいユーディンなど男性8名、女性2名の計10名。 みんなウラル工科大学などで学ぶ大学生だった。
この登山の目的は単なるレクリエーションではない。 彼らは、ソビエト共産主義のもと強化された「スポーツマスター」と呼ばれる、アスリートを育てる資格の取得を目指していた。 今回の、オトルテン山へのアタックは、成功すれば全員がその資格を得ることができる、極めて重要なテストだった。 隊長のディアトロフは経験豊かで人望もあり、隊員からの信頼は厚かった。
出発から5日後、ディアトロフ隊は最後のポイントに到着。 翌、1月29日。 この先は人が踏み入らない山。 いよいよ過酷なアタックが始まった。 だが…リューマチなどの持病を持つユーディンが腰と脚の痛みを訴え離脱。 9名になったディアトロフ隊は、再び、オトルテン山を目指し出発。
その時、マンシ族と遭遇。 マンシ族とは、この地域の先住民。 狩りを中心に素朴な生活を営む民族だった。 マンシ族は彼らに「ホラチャフリ峠には気をつけろ。我々の間では死の山と呼ばれている。」と忠告した。
その時、マンシ族と遭遇。 マンシ族とは、この地域の先住民。 狩りを中心に素朴な生活を営む民族だった。 マンシ族は彼らに「ホラチャフリ峠には気をつけろ。我々の間では死の山と呼ばれている。」と忠告した。
そして…山中に入ってから4日目、午後4時半頃。 一行はオトルテン山の山頂を望む、ホラチャフリ峠に到達。 そこは、樹木も生息せずさえぎるものはなにもない雪原だった。
これは近年撮影された、ホラチャフリ峠の写真。 近くに山はなく、あるのはただなだらかな丘だけ。 彼らはこの丘を風よけにテントを張った。 後に…ここが“ディアトロフ峠”と名付けられるとは、夢にも思わず。 若者たちは、明日の登頂成功を確信していた。 しかし、下山予定日から8日たっても、ディアトロフ隊は帰還しなかったのだ。
これは近年撮影された、ホラチャフリ峠の写真。 近くに山はなく、あるのはただなだらかな丘だけ。 彼らはこの丘を風よけにテントを張った。 後に…ここが“ディアトロフ峠”と名付けられるとは、夢にも思わず。 若者たちは、明日の登頂成功を確信していた。 しかし、下山予定日から8日たっても、ディアトロフ隊は帰還しなかったのだ。
早速、捜索隊が出動。 だが、この段階では彼らはディアトロフたちがまだ生きていると確信していた。 捜索隊よりも雪山経験が豊富なメンバーばかりだったからだ。
6日後、搜索隊は、一行が最後にキャンプを行った峠で、テントを発見した。 テントは一部が破れてはいたものの…中はまるでさっきまで彼らがここにいたかのような状態だった。
すると、テントから20mほど下ったところにディアトロフ隊のものらしい足跡がのびていた。 辺りは、マイナス30度にも達する極寒の地、なぜテントを離れるような真似をしたのか? 足跡を追って行くと、テントから1.5㎞ほど離れた所でリーダーのイーゴリ・ディアトロフの遺体が発見された。
6日後、搜索隊は、一行が最後にキャンプを行った峠で、テントを発見した。 テントは一部が破れてはいたものの…中はまるでさっきまで彼らがここにいたかのような状態だった。
すると、テントから20mほど下ったところにディアトロフ隊のものらしい足跡がのびていた。 辺りは、マイナス30度にも達する極寒の地、なぜテントを離れるような真似をしたのか? 足跡を追って行くと、テントから1.5㎞ほど離れた所でリーダーのイーゴリ・ディアトロフの遺体が発見された。
その後、テントの1.5キロ圏内から、さらに3名の遺体が発見された。 だが、捜索隊は遺体の状況を一目見て、普通ではないことに気づいた。 遺体のほとんどが、防寒着を羽織っていなかったのだ。
そして最初の4名の遺体発見から6日後にもうひとり。 残り4名の遺体が発見されたのは、さらに2ヶ月後のことだった。 9名全員に共通していたのは、発見時、みな薄着で靴を履いていなかったということ。 さらに、明らかに脱ぎ捨てられたと思われる衣服も見つかった。
そして最初の4名の遺体発見から6日後にもうひとり。 残り4名の遺体が発見されたのは、さらに2ヶ月後のことだった。 9名全員に共通していたのは、発見時、みな薄着で靴を履いていなかったということ。 さらに、明らかに脱ぎ捨てられたと思われる衣服も見つかった。
あまりにも不可解なこの事件、捜査を担当したのが、レフ・イヴァノフ捜査官だった。 死因は9人中6人が、低体温症からの凍死。 谷底で見つかった4人のうち3人は、肋骨や頭蓋骨の骨折など、強い外力を受けたことによる大量出血がその死因だと考えられた。 そしてなぜか、殆どの遺体は皮膚が黒っぽく変色し、中には髪が白くなった遺体もあった。
死因は判明した…しかし、異様な遺体の状況に、謎はかえって深まるばかりだった。 そして、最大の疑問は…なぜ彼らは温かく安全なテントから外に出たのかということだった。
テントは吹き飛ばされていないとはいえ、この日の風速は15mほど。 歩くのは困難なばかりか、気温はマイナス30度にもなる。 そんな中、なぜ彼らは薄着で、靴も履かず出て行ったのか? テントには引き裂かれたような、穴が開いていた。 イヴァノフ捜査官は、その穴が気になっていた。 イヴァノフ捜査官は、彼らの死は事故ではなく、殺人ではないかと疑っていた。
テントは吹き飛ばされていないとはいえ、この日の風速は15mほど。 歩くのは困難なばかりか、気温はマイナス30度にもなる。 そんな中、なぜ彼らは薄着で、靴も履かず出て行ったのか? テントには引き裂かれたような、穴が開いていた。 イヴァノフ捜査官は、その穴が気になっていた。 イヴァノフ捜査官は、彼らの死は事故ではなく、殺人ではないかと疑っていた。
冬山のエキスパートである彼等が、なぜ薄着のまま靴も履かずに死んだのか? 捜査の焦点は、ほぼその1点に絞られた。
そして事件発生から数カ月後、イヴァノフ主任捜査官が突如、首都モスクワから呼び出しを受けた。 程なく、彼は再び、捜査本部に戻ってきたのだが…彼は人が変わったかのように、捜査に消極的になっていたという。
そして、事件発生から4ヶ月後、イヴァノフ捜査官は、9人の命を奪った犯人について驚くべき発表をする。 それは…「未知の不可抗力」。 事件の原因をそう結論づけ、詳細を究明しないまま、捜査に幕を下ろしたのだ。 背景にソ連当局の圧力があったことは明らかだった。 こうして…『ディアトロフ峠事件』の真相は、闇に葬り去られることになったのである。
そして事件発生から数カ月後、イヴァノフ主任捜査官が突如、首都モスクワから呼び出しを受けた。 程なく、彼は再び、捜査本部に戻ってきたのだが…彼は人が変わったかのように、捜査に消極的になっていたという。
そして、事件発生から4ヶ月後、イヴァノフ捜査官は、9人の命を奪った犯人について驚くべき発表をする。 それは…「未知の不可抗力」。 事件の原因をそう結論づけ、詳細を究明しないまま、捜査に幕を下ろしたのだ。 背景にソ連当局の圧力があったことは明らかだった。 こうして…『ディアトロフ峠事件』の真相は、闇に葬り去られることになったのである。
ソ連当局の圧力によって、闇に葬り去られることとなった『ディアトロフ峠事件』。 それから約60年、世紀のミステリーの真相を突き止めたと語る人物が現れた。 この事件に迫った書籍「死に山」を著した、アメリカ在住の映像ジャーナリスト、ドニー・アイカー氏。
アイカー氏は3年に渡り事件を調査。 ロシアを何度も訪れ、遺族や関係者、研究者たちを取材。 さらに事件が起こったディアトロフ峠の現場にも足を運んだ。 それぞれの説を徹底的に検証した結果、以外な事実が浮かび上がってきた。
アイカー氏は3年に渡り事件を調査。 ロシアを何度も訪れ、遺族や関係者、研究者たちを取材。 さらに事件が起こったディアトロフ峠の現場にも足を運んだ。 それぞれの説を徹底的に検証した結果、以外な事実が浮かび上がってきた。
真っ先に疑われたのがオオカミ、もしくは熊による獣害である。 ウラル山脈のこの辺りは、凶暴なオオカミや冬眠しなかった灰色熊などが出没する可能性があった。 テントの灯りに吸い寄せられるように現れた獣が、鋭い爪で布を切り裂き…ディアトロフたちは、必死に逃げ出した結果、戻れなくなったのではないか?という説である。
そして、ウラル山脈の山中に住む先住民、マンシ族の襲撃にあったのではないかという説。 事実、彼らはマンシ族と遭遇しており、日誌にも何度もマンシ族の名は登場していた。 極寒の地に生まれ、山の構造も知り尽くす彼らが、ディアトロフ一行を襲い、金品を盗んだのではないか?という。
そして、ウラル山脈の山中に住む先住民、マンシ族の襲撃にあったのではないかという説。 事実、彼らはマンシ族と遭遇しており、日誌にも何度もマンシ族の名は登場していた。 極寒の地に生まれ、山の構造も知り尽くす彼らが、ディアトロフ一行を襲い、金品を盗んだのではないか?という。
しかし、獣や人間が外部から襲撃したというこれらの説には、それが不可能だという証拠があった。 それは…あのイヴァノフ捜査官も捜査の鍵になると睨んでいた、“テントにあいた穴”にあった。
テントを鑑識が徹底的に調べた結果、テントは鋭い刃物で、内側から切り裂かれていたと断定されたのだ。
またマンシ族に至っては、温和な部族として知られ、ディアトロフらの捜索に率先して協力していたのだ。
そして2つの説を否定する重要な証拠が存在する。 それは、テント周辺には、隊員たちの足跡しかなかったのである。 獣やマンシ族の襲撃、いずれの可能性も極めて低いと考えられた。
またマンシ族に至っては、温和な部族として知られ、ディアトロフらの捜索に率先して協力していたのだ。
そして2つの説を否定する重要な証拠が存在する。 それは、テント周辺には、隊員たちの足跡しかなかったのである。 獣やマンシ族の襲撃、いずれの可能性も極めて低いと考えられた。
続いて浮上した説が…人間関係のもつれ。 美人の女性隊員に隊長のディアトロフ他、2名の学生が恋心を抱いていたという。 彼女をめぐり喧嘩がはじまり、テント内がパニック状態になり、結果、彼らは外へ飛び出していったのではないか?という説である。 しかし、ソ連は共産主義国家、「恋愛」を大っぴらに口にするのは、憚られる雰囲気があった。 さらに、将来の人生に影響する資格のテスト中に、女性を巡って喧嘩になることは考えにくい。 こうして「人間関係のもつれ説」も否定された。
では、彼ら9名の生命を奪ったのはいったい何なのか? ソ連当局が「未知の不可抗力」として、捜査を早期に打ち切ったのはなぜか? アイカー氏によれば今なお、最も強く信じられている2つの説があるという。
旧ソ連の核実験説。 当時は米ソ冷戦の真っ只中…兵器開発競争が勃発していた時代だった。 実は、旧ソ連時代、ウラル山脈の裏側に、弾道ミサイルの発射基地があった。 彼らがキャンプを張ったのは…まさにそのミサイルが上空を通過する場所だった。
あの夜…核ミサイルの実験が行われ、誤爆。 強い放射線を浴び、失明したことで、パニック状態になったのではないか?と言うのだ。 放射線を浴びたため、遺体は黒く変色し、髪も白くなったのではないか?そう疑う遺族は多くいたという。
旧ソ連の核実験説。 当時は米ソ冷戦の真っ只中…兵器開発競争が勃発していた時代だった。 実は、旧ソ連時代、ウラル山脈の裏側に、弾道ミサイルの発射基地があった。 彼らがキャンプを張ったのは…まさにそのミサイルが上空を通過する場所だった。
あの夜…核ミサイルの実験が行われ、誤爆。 強い放射線を浴び、失明したことで、パニック状態になったのではないか?と言うのだ。 放射線を浴びたため、遺体は黒く変色し、髪も白くなったのではないか?そう疑う遺族は多くいたという。
さらに…イヴァノフ捜査官は、殺人に重きを置きながらも、他の可能性も捨てず、様々な情報を集めようとしていた。 その中の1つに、遺体が身につけていた衣服の放射線量の検査があったのだが、モスクワから呼び出され、捜査本部に戻ってきた彼は…以後、一切の捜査を中止。 「未知の不可抗力」と結論づけ、事実上、捜査に幕を下ろした。
だがその数日後、遺体の衣服から通常の約2倍の放射線が検出されていたことが判明するのである。 やはり旧ソ連は、イヴァノフを呼び出し、何らかの核兵器実験を隠蔽するため、捜査を打ち切ったのか?
だがその数日後、遺体の衣服から通常の約2倍の放射線が検出されていたことが判明するのである。 やはり旧ソ連は、イヴァノフを呼び出し、何らかの核兵器実験を隠蔽するため、捜査を打ち切ったのか?
さらにもう1つ、この2倍の放射線を根拠に根強く囁かれている説がある…UFO説。 彼らは、UFOに遭遇したのではないか?というのだ。
その根拠は、放射線だけではない。 当時、9人を捜索していた人々が、ディアトロフ峠周辺で、オレンジ色の“光の球”が飛ぶのを目撃したと証言。 捜索隊だけでなく、山の麓に住む人々や「マンシ族」からも、目撃報告がいくつも上がっていた。
その根拠は、放射線だけではない。 当時、9人を捜索していた人々が、ディアトロフ峠周辺で、オレンジ色の“光の球”が飛ぶのを目撃したと証言。 捜索隊だけでなく、山の麓に住む人々や「マンシ族」からも、目撃報告がいくつも上がっていた。
ソ連の核実験説、UFO説、2つの説の根拠になっている「放射線」。 被害者の衣服から、通常の2倍に上る放射線が検出されたのは、紛れもない事実だ。
そこで…アイカー氏はシカゴ大学放射線科の准教授に、取材データを見せ意見を求めた。 すると…通常の2倍という数値は、危険でもなければ異常な高さでもないという答えが返ってきたという。 またその程度であれば、大気汚染などによって容易に説明がつくというのだ。 さらに皮膚が変色し、髪が白くなった原因は放射線被曝ではなく、直射日光を長期間浴びたせいだと、専門家が証言。 事実、最初に発見された遺体でも、30日近く、雪原で日光にさらされていた。
そこで…アイカー氏はシカゴ大学放射線科の准教授に、取材データを見せ意見を求めた。 すると…通常の2倍という数値は、危険でもなければ異常な高さでもないという答えが返ってきたという。 またその程度であれば、大気汚染などによって容易に説明がつくというのだ。 さらに皮膚が変色し、髪が白くなった原因は放射線被曝ではなく、直射日光を長期間浴びたせいだと、専門家が証言。 事実、最初に発見された遺体でも、30日近く、雪原で日光にさらされていた。
では、一体なぜ、ソ連当局は事件の早期幕引きを図ったのか? 事件から30年後、イヴァノフ元捜査官は当時の状況について、新聞にこう明かしている。
「ミサイルや核技術に関するデータが漏れるのを恐れて、共産党委員会からそのような問題を取り上げることは禁じられていた。」と。
冷戦のさなか、共産党は核にまつわる情報が国外に漏れるのを恐れていた。 よって当局は、事件が放射線の影響であることを疑い…情報の公開を迫ったイヴァノフを煩わしく思い、捜査を中止させたのだ。
「ミサイルや核技術に関するデータが漏れるのを恐れて、共産党委員会からそのような問題を取り上げることは禁じられていた。」と。
冷戦のさなか、共産党は核にまつわる情報が国外に漏れるのを恐れていた。 よって当局は、事件が放射線の影響であることを疑い…情報の公開を迫ったイヴァノフを煩わしく思い、捜査を中止させたのだ。
こうして、アイカー氏が3年にわたり、数々の説を検証した結果、たどりついたのは…全て『不可能』という事実だった。 そこで、最も不可能性が低い答えはやはり、なんらかの自然現象ではないか?と考えた。
アイカー氏はアメリカ海洋大気庁の気象学の専門家、ベダード博士に面会を申し込んだ。 博士はこれまで、ディアトロフ峠の悲劇について、聞いたことがなかったという。 そこで、アイカー氏は一連の出来事を事細かに伝え、現場の写真を見せた。 すると、ベダード博士は、ディアトロフたちがテントを張った場所の写真を見てこう言った。 「これは、ヘアピン渦が出来るのに、あまりにも理想的な地形だ。」 それは長年、気象の研究を続けきた博士だからこそ辿り着くことができた、事件の真相だった。
アイカー氏はアメリカ海洋大気庁の気象学の専門家、ベダード博士に面会を申し込んだ。 博士はこれまで、ディアトロフ峠の悲劇について、聞いたことがなかったという。 そこで、アイカー氏は一連の出来事を事細かに伝え、現場の写真を見せた。 すると、ベダード博士は、ディアトロフたちがテントを張った場所の写真を見てこう言った。 「これは、ヘアピン渦が出来るのに、あまりにも理想的な地形だ。」 それは長年、気象の研究を続けきた博士だからこそ辿り着くことができた、事件の真相だった。
ヘアピン渦とは、強い風が丸い半球状の障害物にぶつかる時に発生する、特殊な渦のこと。 渦自体の形がヘアピンに似ているため…こう呼ばれ、チューブのように大気を巻き込んでいる。
これはもともと流体力学の分野で、観測された現象。 その後、1990年代に入りメカニズムの研究が進んだものの、現在でも気象現象としての観測例はわずかである。 ヘアピン渦は、周囲の地形に凹凸が無ければ無いほど、パワーが強力になり…風速は実際の3倍にまで達する。 そして、ある程度風が強まると、竜巻に変化するという。 ディアドロフ達は、この竜巻が通過する間にテントを張ってしまったのだ!
これはもともと流体力学の分野で、観測された現象。 その後、1990年代に入りメカニズムの研究が進んだものの、現在でも気象現象としての観測例はわずかである。 ヘアピン渦は、周囲の地形に凹凸が無ければ無いほど、パワーが強力になり…風速は実際の3倍にまで達する。 そして、ある程度風が強まると、竜巻に変化するという。 ディアドロフ達は、この竜巻が通過する間にテントを張ってしまったのだ!
さらに、その竜巻は…2分〜3分に1回、彼らの間をすり抜けていったと考えられる。 彼らがテントを張った時の風速は、およそ15m、元々冒険家の集まりだったディアドロフ隊にとって、それはさほど大きな問題ではなかった。 しかし、誤算が生じる…ヘアピン渦が発生したことにより、風はその3倍へと強まった。 ベダード博士によれば、当時の天気図から、その竜巻は風速45メートル以上に達していたと推測できるという。 かなりの強風ではあるが、テントが吹き飛ばされていない以上、直接、竜巻が事故の原因になったとは考えにくい。 ではなぜ、ディアトロフ達は慌ててテントを飛び出したのだろうか?
ベダード博士は、こう説明してくれた。
「風速45mの竜巻は、地響きを伴い、まるで頭上を旅客機が離着陸するような、恐ろしい轟音を生じさせたのです。さらに…超低周波音を生み出します。」
そもそも空気の振動である音には、周波数で測る高さと圧力で測る大きさがある。 超低周波音の場合、周波数が低いため、ほとんどの人が聞き取ることができないが、圧力が大きくなると感じることができることがある。 そして、この超低周波音は、自然界でよく発生すると言われる一方、人体に影響を及ぼすと指摘する専門家もいる。 ベダード博士もその1人。 博士によれば、超低周波音を感じると頭痛や気だるさだけでなく、時に恐怖を覚えることもあるという。
「風速45mの竜巻は、地響きを伴い、まるで頭上を旅客機が離着陸するような、恐ろしい轟音を生じさせたのです。さらに…超低周波音を生み出します。」
そもそも空気の振動である音には、周波数で測る高さと圧力で測る大きさがある。 超低周波音の場合、周波数が低いため、ほとんどの人が聞き取ることができないが、圧力が大きくなると感じることができることがある。 そして、この超低周波音は、自然界でよく発生すると言われる一方、人体に影響を及ぼすと指摘する専門家もいる。 ベダード博士もその1人。 博士によれば、超低周波音を感じると頭痛や気だるさだけでなく、時に恐怖を覚えることもあるという。
ヘアピン渦が引き起こす、竜巻の凄まじい轟音。 加えて、超低周波音がもたらすパニック。 それに耐え切れずディアトロフ達は、風下へと逃げ出した。 だとすれば…冬山のエキスパートである彼らが、なぜ、テントを切り裂き…上着も着ず、しかも裸足でマイナス30度におよぶ夜の雪原に飛び出していったのか…ほぼ全てに説明はつく。
そして、真っ暗な夜の雪原へ飛び出した9名のうち、6名が低体温症による凍死。 脱ぎ捨てられた衣服は、矛盾脱衣と呼ばれる行動だと考えられた。 人は体温が下がりすぎると、皮膚の血管が収縮、体を中から暖めようとする働きが生じる。 すると、体内の温度と気温の間で温度差が生じ、寒い環境下でも、暑いと錯覚に陥ることがあるという。
そして、竜巻の影響もあったのか、4名が足を踏み外し、谷底に落下。 1人は雪がクッションになり、大きな外傷は負わなかったものの、低体温症で凍死。 残る3人は、落下した際、雪の下にあった岩に激突、肋骨や頭蓋骨の骨折など、激しい外傷による大量出血が死因になったと考えられた。 そして、彼らの命が奪われたその場所こそ、奇しくもマンシ族が『死の山』と名付けた山だった。
そして、竜巻の影響もあったのか、4名が足を踏み外し、谷底に落下。 1人は雪がクッションになり、大きな外傷は負わなかったものの、低体温症で凍死。 残る3人は、落下した際、雪の下にあった岩に激突、肋骨や頭蓋骨の骨折など、激しい外傷による大量出血が死因になったと考えられた。 そして、彼らの命が奪われたその場所こそ、奇しくもマンシ族が『死の山』と名付けた山だった。
60年前に比べ、遙かに進歩した科学の力で、9人の若者の命を奪った真犯人は見えてきた。 ヘアピン渦という未知の脅威にさらされた恐ろしさはいかほどだっただろうか? 彼らは何も語らぬまま、土の下に眠っている。
アイカー氏はこう話す。 「私はこれが、真相だと信じている。少なくともこれが、不可能でない唯一の説だから。」
アイカー氏はこう話す。 「私はこれが、真相だと信じている。少なくともこれが、不可能でない唯一の説だから。」
9名の若者たちが命を落としたにも関わらず、解決不可能と言われたディアトロフ峠事件。 しかし、発生からおよそ60年の時を経て、1人のジャーナリストの丹念な取材によって、ついに真相が浮かび上がってきた。 当時の科学では知る由もない、ヘアピン渦、その発生によって、今後、同様の悲劇が繰り返される心配はないのだろうか?
べダード博士によれば、ヘアピン渦が発生するのは、人里離れた場所に限られるゆえ、都市に住む人間がヘアピン渦に巻き込まれる危険はない。 しかも…都市部では建物が複雑に入り組み、風の流れを遮るので、おそらくヘアピン渦は発生しないだろうという。
べダード博士によれば、ヘアピン渦が発生するのは、人里離れた場所に限られるゆえ、都市に住む人間がヘアピン渦に巻き込まれる危険はない。 しかも…都市部では建物が複雑に入り組み、風の流れを遮るので、おそらくヘアピン渦は発生しないだろうという。
そしてベタード博士が今回の悲劇の要因の一つだと語る「超低周波音」。 博士は、それが人間に及ぼす影響についてこう語る。
「超低周波音は自然界でもよく発生します。雪崩、海の波、火山や地震、その他様々なところで確認されています。しかし大抵の場合、音の圧力のレベルが低く、人体に影響を与えることはありません。」
しかし9名の学生は、その命を奪われ、悲劇的な最期を迎えた。
ベタード博士は、こう話してくれた。 「竜巻が起こっている間、通常ではありえない、非常に強力な超低周波音が彼らを襲ったと考えています。それは何度も繰り返され、中にはその音を感じ取った隊員もいたと思います。竜巻や轟音と相まって彼らに強い恐怖を抱かせたのでしょう。」
世紀のミステリーと言われたディアトロフ峠事件。 彼らには決して知ることの出来なかった現象が、その原因だった。 しかしこの事件は、まだ地球上には未知の現象が潜んでいると、警鐘を鳴らしてくれているのかもしれない。
「超低周波音は自然界でもよく発生します。雪崩、海の波、火山や地震、その他様々なところで確認されています。しかし大抵の場合、音の圧力のレベルが低く、人体に影響を与えることはありません。」
しかし9名の学生は、その命を奪われ、悲劇的な最期を迎えた。
ベタード博士は、こう話してくれた。 「竜巻が起こっている間、通常ではありえない、非常に強力な超低周波音が彼らを襲ったと考えています。それは何度も繰り返され、中にはその音を感じ取った隊員もいたと思います。竜巻や轟音と相まって彼らに強い恐怖を抱かせたのでしょう。」
世紀のミステリーと言われたディアトロフ峠事件。 彼らには決して知ることの出来なかった現象が、その原因だった。 しかしこの事件は、まだ地球上には未知の現象が潜んでいると、警鐘を鳴らしてくれているのかもしれない。
Russia
Beyond
ロシア史上最も不可解な事件「ディアトロフ峠事件」に衝撃の新説
2018年11月29日
ダニエル・チャルヤン
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59年前、10人のスキーヤーがウラル山脈にある「死者の山」に登った。下山したのは途中で引き返した一人だけ。身の毛もよだつような失踪事件の顛末と不可解な状況は悪夢を思わせ、ハリウッド・フィクションの題材にもなった。長い年月を経た今、事件の真相に最も迫ったと自信を見せる一人のロシア人ブロガーが現れた。
失踪事件の結末は科学者らと捜査班に衝撃を与えた。遺体は異なる場所で異なる時期に発見された。何体かは骨折などの重症を負った形跡があり、また何体かには放射線被曝が見られた。遺体の半数は裸か、あるいは他のメンバーの服を身に着けていた。近辺に事件の原因となるようなものはない、というのがソビエトの捜査当局の結論だった。
精神病に起因する殺人から宇宙人による犯行、政府の極秘実験まで、さまざまな説が提唱された。
事件から60年近くを経た今、新説を唱える人物が現れた。超常現象や不可解事件に関するジャーナルを発行しているロシア人ブロガーのワレンチン・デグテリョフ氏だ。彼は、ディアトロフ一行の死が、威力の小さなミサイルが山に直撃したことによるものだと考えている。自身のオンラインジャーナルで彼が述べたことには、この一帯の衛星写真を詳しく調べると、証拠となる直径30メートルのクレーターが見つかるが、それは彼らのテントから約3キロメートルしか離れていないという。
「花崗岩は一度溶解し、基本的に赤いガラスに変質している。衝突の際の温度は非常に高かったと考えられる。これは衛星写真ではっきりと確認できる。」
彼はこう続ける。「衝撃波に叩き起こされ、[ハイカーらは]眩しい光に目がくらみ、おそらく一時的に視力を失っていた。彼らが突然逃げ出し、森へ駆け下りた理由が説明できる。」
奇妙にも聞こえるが、ミサイルの発射は実験ではなかったとデグテリョフ氏は考えている。
「ミサイルはおそらく軌道から外れて針路を変え、誤って山の側面に激突したのだろう。」
ブロガーは、もし犠牲者の衣服から放射線が検出されていなければ、彼は隕石落下説を採っただろうと述べる。
「春になったら現場を徹底的に調べる必要がある。もし実際に放射線が検出され、衝突のクレーターが見つかれば、ディアトロフ峠の謎は解けたと考えて良い。」
だが、デグテリョフ説ですべてが説明できるのだろうか。
そもそも何が起きたのか
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23歳のイーゴリ・ディアトロフ率いる一行は、1959年の冬にオトルテン山へトレッキングに行ったきり戻って来なかった。その後の調査で分かったことは、2月2日に一行が宿泊していたテントが内側から引き裂かれ、中にいた人々は寝巻き姿で夜の闇の中へと飛び出し逃げ惑ったということだ。遺体はすべて数週間以内に発見されたが、何人かは他の仲間の衣服を着て死亡していた。衣服は高い放射線量を示していた。
実に奇妙なことに、何体かの遺体に低体温症の形跡しか見られなかった一方で(だがなぜ彼らは裸だったのか)、森の奥深くで発見された他の遺体は、内出血や骨折、頭蓋骨のひびなど、体内に大きな損傷が見られたのだ。メンバーの一人リュドミラ・ドゥビニナの遺体には舌がなかった。
捜査班はこの状況になす術なく、事件性はないと判断した上で捜査を打ち切った。最終的な報告書では、一行が「正体不明の抗い難い力」によって死亡したと記された。
当局がようやく情報公開したのは1990年代のことで、当然これもさまざまな憶測を呼んだ。核実験から宇宙人による犯行まで、多くの陰謀論が囁かれた。事件と同名のホラー映画まで登場した。
さまざまな説
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さて、デグテレフの新説は発表から間もなく賛否両論を呼び起こした。彼の「発見」に対し肯定的なコメントを残す人もいれば、他の説と同様に慎重な検証を要するとする立場の人もいる。吹雪の中で起きた怪奇事件には、知られているだけで合わせて60以上の仮説が提起されている。
科学的に断言できることは、9人のスキーヤーの怪我が、近辺にあった何物によるものでもないとうことだ。
特に興味深い説の一つは、「現地のマンシ族が生贄を捧げる儀礼に用いていた聖なる洞窟」をめぐるものだ。マンシ族はそもそも部外者が山に立ち入るのを嫌っていた。彼らは、ディアトロフの一行が生贄の洞窟から貴重な品々を盗み出したことに憤慨して、一行に夜襲をかけて殺害した、というのだ。しかしこの説は事実無根のでたらめにすぎない。
その他、無秩序で暴力的な死の原因が、一行が現地の狩猟民から得た有毒な密造酒(これも「儀礼用」だとか)だというものだ。この酒は容易にサイケデリックな幻覚を引き起こすのだという。一応この説は、一行がばらばらに逃げ、一見不可解な行動を取ったことの説明にはなり得る。
テントが内側から引き裂かれていたということに加えて、テントの外にディアトロフの一行のメンバー以外の足跡がなかったという事実もある。一行がテントから飛び出してさまざまな方向に逃げ出したことは確かなようだ。事件は依然謎に包まれたままだ。
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