面従腹背  前川喜平  2019.4.27.


2019.4.27. 面従腹背

著者 前川喜平 1955年奈良県御所市生まれ。東大法卒。79年文部省入省。宮城県教育委員会行政課長、ユネスコ常駐代表部一等書記官、与謝野文部大臣秘書官などを経て、12年官房長、13年初等中等教育局長、14年文部科学審議官、16年文部科学事務次官。171月「天下り問題」で懲戒処分を受け退官。現在、自主夜間中学のスタッフとして活動

発行日           2018.6.30. 第1            18.7.30. 第3
発行所           新聞出版

はじめに 個人の尊厳、国民主権(17.6.記者クラブでの会見で書いたもの)
l  公務員としての匿名性 ⇒ 公務員は代議制民主主義の下、国民・住民の代表者の下でその政治的意思に従い、組織として一体となって仕事をするところから、一体となった組織の中で個人の意思は捨象される、という意味で匿名と言える
個人としての意見を持つことは自由にも拘らず、組織の中で仕事をしているうちにその組織の論理に完全に同化していく人間が出来上がる。その方が楽だし、人間は無意識のうちに、楽な選択、得な選択をし、それを正しい選択だと考えようとする性を持つ ⇒ 正当性のシェルター
l  尊厳のある個人として ⇒ 何よりもまず「個」であるべきということは誰にも当てはまる。自分の頭で考えることは人間として最低限の条件であり、憲法も「個人の尊厳」を至高の価値として認めることを大前提としている。組織人である前に自由な意志を持つ一個人であれ、個人である自分が常に組織人である自分の姿を見詰めることが必要
l  主権者である国民として ⇒ 公務員として行っている職務が、真に国民のためになっているか否か、国民である自分が公務員である自分を見つめる。主権者である国民としての視点を常に持つこと
加計学園問題で、文科省の内部情報を外部に提供した現役職員が少なくとも3人はいるが、主権者感覚を持ち得た人なのだろう
他方、集団的自衛権を認める閣議決定は勝手に解釈改憲を強行しようとする行為であり立憲主義に対する重大な侵犯であるにも拘らず、決定に先立ち意見を求められて「意見なし」と伝えた法制局参事官は、憲法99条が定める公務員の憲法の尊重・擁護義務に反する行為を行なっているということは、彼の中にいる「主権者」はこの日に死んだ
2015.9.23.違憲立法成立の日、退庁後に国会前のデモに参加。84年前の柳条湖事件の日も金曜日
l  面従腹背は座右の銘
38年に及ぶ公務員生活を振り返り、自分の理想と組織の現実との矛盾や相克の経験、すなわち面従腹背の日々を書き連ねたもの

第1章        文部官僚としての葛藤
l  組織への違和感
青臭い書生論をかわした先輩と寺脇氏のお陰で組織に埋没することなく、違和感を覚えながらも自己を保ち、組織の中に住み続けることが出来た
一係員だった時の大臣官房総務課、長が加計学園事件関連の加戸守行。将来の事務次官候補が89年リクルート事件の渦中に西岡文相に首を切られる形で官房長を最後に退官、99年愛媛県知事に当選。国家主義的思想の持ち主。教科書選定に知事の職権乱用で介入、紀元節復活とも見紛う団体に後援を与えたりしていた
省内での麻雀、裏金で飲み食い、政治家のパーティー券を役所の金で買うのが常態、出張とは名ばかりのゴルフ三昧、文部省ならずどこの省でも当たり前
l  陳情から学んだこと、大学教員として考えたこと
入省当初配属された部署が陳情受付窓口で学んだのは、義務教育から外れた夜間中学やフリースクールの存在
9705年上智大で教育行政学の講義は、教育行政を客観的、学問的に見直す好機
l  動かない組織の中で
外国人学校からの公立学校入学の黙認や、才能教育(飛び級)の実現、公立の中高一貫教育、国際バカロレア課程の導入、高校専攻科からの大学編入学(看護師養成)
l  やりたくなかったユネスコ憲章改正
やりたかった仕事が出来た例は少ない ⇒ コミュニティスクール設置、高校の無償化や奨学給付金制度、フリースクール・夜間中学生支援など
やりたくなかった仕事をさせられたケースは多い ⇒ 教育基本法改正、ユネスコ憲章改正
イギリスに修士留学した際の研究テーマにユネスコを選び、89年からはユネスコ常駐代表部に勤務 ⇒ 実務を動かす執行委員会を意図的に非政府的に運営するために委員は個人の資格だったが、日本の提案で国の代表としたもの。政治的利用を加速

第2章        面従腹背の教育行政
l  教員免許更新制 ⇒ 政治の圧力と教育現場の実態との間で教育行政が呻吟した事例
自民党内には教員の質的向上を企図して教員免許更新制という構想が古くからあった
教員免許自体は教育委員会が大学の卒業証書と教職課程単位取得証明書があれば自動的に発給するもので、適格性担保の思想は含まれない。更新制の代替案として出てきたのが10年経験者研修制度で03年施行されたが、09年には遂に更新制施行、教員には不人気な研修制度が導入され、うっかりミスの受講漏れで免許喪失の事態が出来
「研修」とは、「研究」と「修養」のことで、教師自ら行うものであり、教師自身の自発的な研修の重要性を、政治家たちに理解させ納得させて政策化していくことが文科省に期待される
l  教育課程行政 ⇒ 「個」から出発する思想と「国家」から出発する思想とは正面から衝突。77年改訂で導入された「ゆとり」路線は08年に改訂されるまで存続したが、基本路線としては最小限の記述に限定した「大綱的基準」に回帰し、教育現場の自主性に委ねるべき。国旗・国歌の指導(89年義務化)、全国学力テスト(07年開始、犬山市だけが拒否、その後全校実施へ)
l  八重山教科書問題 ⇒ 1114年著者が面従腹背で決着させた。共同採択制下にある3市町の意見が割れた際、自民党(当時野党)の義家の圧力によって初等中等局は同一の教科書を強制しようとしたものの最終的にはそれぞれの選択を尊重し、少数派は無償の対象外として決着。その後も自民党政権は圧力をかけ続けたが、無償制度の法改正で共同採択地区の見直しを行ない、それぞれの選択を有効とした。本来教科書選択は各学校の権限にすべき

第3章        教育は誰のものか
l  政治と教育 ⇒ 03年の七生養護学校事件(ここから裁判)は、政治家による教育現場への介入が基本法の「不当な支配」に該当すると最高裁が認めた画期的なもの。知的障碍児同士の性的関係発生により先進的な性教育プログラムを始めた学校に対し都議会議員や知事が「不適切な性教育」として現場に介入、教職員を処分したのに対し、現場が「不当介入」として損害賠償を起こしたもの。著者が退官後名古屋の市立中学で講演したことに対しても安倍チルドレンから教育委員会を通じて質問状という形での無言の圧力がかかった。1976年の旭川学力テスト事件の最高裁判決では子どもの学習権を憲法上の人権として認めた。文部官僚が政治に対抗する砦は法令と審議会しかないが、法令の砦は教育基本法の改正によりかなり弱体化、審議会も政治任用や人選に大臣が自分の考えを反映させる傾向が強まることで砦としての機能が危うくなっている
l  臨教審のパラドックスと教育基本法改正 ⇒ やりたくなかった仕事の最右翼が06年の教育基本法の全面改正。80年代中曽根内閣が臨教審を設置して始まった法改正の水面下の動きは、保護者の第一義的責任として生活習慣を身につけさせることなどに「努めるものとする」との法的義務規定が設けられ、国家が学校教育のみならず家庭教育に対しても介入できる法的根拠が出来た。国家統制に通じる門が開かれた
00年森首相が基本法改正を公言、教育を政治によって支配できるようにし、国家主義の方向へ変えていこうとする動きが加速、一旦小泉政権で後退したかの印象を受けたが中曽根の圧力で、06年第1次安倍政権で「全部改正」の改正教育基本法が成立。前文の全面書き換えにより、47年制定の現行憲法との関係が断ち切られた。著者は大臣官房総務課長として各方面に法案の説明に回る
l  道徳の「教科化」 ⇒ 基本法改正とともに、「国家に立脚する教育改革」の方向性が強まり、特に第2次安倍政権による国家主義への急傾斜が始まる。その象徴が18年小学校で実施された道徳科の授業、中学は19年度からとされ、「自由・平等・平和」などの憲法的価値と一致するものもあるが、それ以上に憲法からは導き出せない価値である「家族・学校・国」等集団への帰属意識や、「節度・礼儀・公共の精神」など集団を束ねるための規範が必要以上に強調されている。「父母・国を愛する心」など個人の尊厳という憲法的価値に違背する疑いのあるものも含まれる。個人の尊厳と地球市民の視点欠如
17年には安倍内閣は、憲法や基本法に反しない形と断りつつも、教育勅語の復権を閣議決定 ⇒ 48年に国会で憲法・教育基本法と相容れないものとして排除を決議済
「個人」と「国家」の相克という臨教審のパラドックスは、30年の時を経て道徳教育の教科書と実践の相克として現出

第4章        加計学園問題の全貌を激白 (京都造形芸術大寺脇研教授x毎日新聞倉重篤郎専門編集委員x前川の鼎談)
前川は、政権内部にいた立場から、加計学園の獣医学部認可を行政の私物化として告発
前川は、和泉首相特別補佐官に呼ばれ、首相が言えないから代わって言うとして、開設認可を早く進めるように言われた
獣医学部新設は儲かる事業で、認可は特権の付与 ⇒ 既存16学校で930人のところ、加計の定員は140人と4校分に匹敵
加計の申請を通すための策が構造改革特区に代わる国家戦略特区
同じ国家戦略特区では、17年国際医療福祉大学の医学部が開校 ⇒ 高木理事長が政界に広い交遊網を持っていたことと、厚労省が人材需要を示したが、加計の場合は安倍1人しかいなかったのと、農水省が獣医師の需要予測を出さなかった
15年加計、愛媛県、今治市の3者が官邸を訪問し、実質的なキックオフ会合を行う
16年石破が特区担当大臣を外れて一気に動き出す
パリのユネスコで一緒だった文科省の先輩木曽が加計系列の千葉科学大の理事長をしていて、前川にユネスコ大使のポストをちらつかせながら、獣医学部の認可をトップダウンで進めるよう迫ってきた
18年秋の選挙での自民党大勝を受け、林芳正文科相が設置審からの答申後5日で認可
全ては加計学園ありきで動いていた
今の座右の銘は「眼横鼻直(がんのうびちょく)」 ⇒ 曹洞宗/道元禅師の言葉で、真実をありのままに見て、ありのままに受け止める、そうすれば自他に騙されることもなくなる

おわりに
文部官僚として本当に国民のため、子どものため、現場の教師のために働くことを考えたら、その時々の上司である大臣など権限を持つ政治家の言うことを、そのまま聞くわけにはいかない場合がある
国民は、政治家を取り替えることはできても官僚を取り替えることはできないので、政治家が上位にいなければならないのは当然だが、官僚には官僚の専門性があり、長年にわたって蓄えられた知識と経験がある。政治家と官僚の間にはある種の緊張関係がなければならず、どちらかがどちらかに依存してしまってはいけない
政治家が理に合わないことをせよという場合には面従腹背も必要で、官僚には粘り強さや強靭さを持ってほしい

ほぼ独り言の「腹背発言集」~12年改憲方針を公にしている第2次安倍政権誕生を機に強い危機感を抱いて、「右傾化を深く憂慮する一市民」としてTwitterをしたもの
l  12.2.18. 好戦的国家主義者の憲法改悪を許してはならない。今平和憲法の真価が問われている
l  13.1.8. ファシズムが忍び込んできている。精神の自由は絶対に譲らないぞ
l  13.1.24. 今日教育再生実行会議、教育勅語と修身科の復活を主張した委員がいたとか。危ない (この委員こそ加戸前愛媛県知事)
l  13.1.24. 愛国心はならず者の最後の拠り所。個人の尊厳を踏みにじるイデオロギーとは徹底的に闘う (国会議員の中にも個人の尊厳や立憲主義の何たるかも知らず、真っ当な議論をする意思も能力もなく、「反日」「自虐」「偏向」などの言葉を投げつけて相手を威嚇する輩がうようよいる)
l  13.1.24. ヒトラーは民主主義が生んだ独裁者。日本国民のみなさん、このドイツ国民が80年前に犯した過ちと同じ過ちを犯してはいけない (多数決原理にのみ正当性を与えてしまうと民主主義はとんでもない暴走を招く危険性を持つ)
l  13.1.25. 平和憲法で平和が守れるなら、台風も禁止すればよい(田中美知太郎)。この比喩は間違い。台風は自然が起こすもの、戦争は人間が起こすもの
l  13.1.25. 平和は、平和を守ろうとする人間の意志がなければ守れないが、台風は、台風を避けようとする人間の意志があっても避けられない
l  13.2.21. 高校無償化制度から朝鮮高校生を排除。拉致問題や核実験を理由に? 生徒には関係ない! 江戸の仇を長崎どころか火星で打つようなもの。露骨な民族差別だ。情けない
l  13.4.5. 防犯ブザーを朝鮮学校の児童にはあげなかった町田市教委。「空気」への過剰適応。ファシズムへの傾斜の兆候を感じる。このような差別は、徹底的に糾弾すべき
l  13.4.5. いわれなき差別を受け、心無い暴言を浴びせられる在日コリアンの子どもたちこそ、防犯ブザーが必要
l  13.3.1. 義家文科政務官が竹富町に「育鵬社の教科書を使え」と迫ったと。やくざの言いがかりに等しい蛮行。負けるな小さな竹富町!
l  13.3.3. がんばれ竹富町! 負けるな慶田盛教育長!
l  13.3.28. 権力ある不正義は正義を僭称し、権力のない正義は不正義の汚名を着せられる。竹富町の正義は文科省の不正義によって押し潰される
l  13.4.1. 329日参院予算委で民主党小西が「憲法の中で最も大切な、個人の尊厳を総括的に定めたのは何条か」、安倍総理「いきなり聞かれても答えられない。クイズのような質問は生産的ではない」。個人の尊厳を謳う憲法第13条は、安倍氏にとってはクイズ程度の軽さなのか? (この程度の憲法知識しかない人に改憲を口にする資格があるのか)
l  13.5.11. 人権は憲法によって「与えらた」ものではない。憲法によって「保障された」もの。誰からの侵害に対して? 国家権力からの侵害に対してだ
l  13.5.11. 「国賦人権論」などというものをのさばらしてはいけない。「国が与える人権」なんてものは無い。それはもはや人権ではない (今改憲を声高に唱える人たちは個人より国家、人権ではなく国権を先に考える人。彼らの改憲は現行憲法改正の限界を超える)
l  13.4.23. 靖国神社の前身は招魂社。戦争する国家のための装置で、廃止を唱えた石橋湛山は正しかった (石橋が終戦直後東洋経済新報を本拠とするジャーナリストの時代に発言したもの。湛山の息子は戦死)
l  13.4.24. 間違った戦争に駆り出されて亡くなった人たちは、決して英霊でも名誉の戦死者でもない。国家権力によって人殺しを強制され、意味もなく犬死することを強いられた犠牲者
l  13.12.27. 靖国問題はまず日本国民の問題。国民を戦争へ駆り立てる装置だった靖国神社は、戦後真っ先に廃止すべきだった。「九段公園」として花見の名所にしたらよかった
l  14.4.9. 教育勅語は「至極真っ当」と下村文科大臣。真っ当な人間の言うことじゃない! (前日の大臣の発言を受けたもの)
l  14.4.9. 教育勅語には、基本的人権も国民主権も平和主義もひとかけらも含まれていない。神武天皇なる架空の存在が、国を肇め、徳を樹てたなどという作り話から始まるカルト的文書。戦前の日本をカルト国家に仕立て上げた教義そのもの
l  14.4.27. 教育勅語「ヨク忠ニヨク孝に億兆心ヲ一ニシテヨヨソノ美ヲナセル」は「日本の国柄を表している」と下村文科大臣。「国體の本義」まで再生させるつもりか!! 話にならない!
l  17.4.7. 学校で児童・生徒に教育勅語を朗読させても構わないと義家副大臣。冗談じゃない!
l  17.4.7. 個人の尊厳を真っ向否定する価値観に立つのが教育勅語だ。憲法とも教育基本法(改悪後においても)とも両立し得ないもの
l  17.4.7. 道徳には唯一の正解はない。人間社会の中で揉まれながら形づくられるもの。天皇のご先祖(皇祖皇宗)が決めたものではない
l  17.4.7. 教育勅語は、天皇家をご本家とする家族国家の観念に立つ。家父長制家族制度とも一体のもの。忠と孝とで国民を家族国家に縛り付ける道徳だ。それを「我が国体の精華」などと言っているのだ。そんな虚構を信じ込ませる教育など、「教育」の名に値しない
l  14.5.2. 石破自民幹事長「集団的自衛権は当初は限定的。必要なら広げる」と米で講演。衣の下の鎧丸出し。集団的自衛権など絶対に認めてはならない。アメリカと一緒になって戦争するようなことをしてはならない
l  14.5.9. 安倍政権はいよいよ危険になってきた。集団的自衛権を認める解釈改憲は絶対に許してはならない (14.7.1.閣議決定)
l  14.7.2. アメリカがいかに多くの大義なき戦争を繰り返してきたことか。僕らのこの国を、アメリカと一緒に戦争する国にしてしまうなんて、断じて許せない
l  15.9.17. アメリカがやったベトナム戦争は何だったんだ! イラク戦争は何だったんだ! 正義なき戦争を仕掛けてあまりにも多くの罪なき人々を殺したではないか! もう戦争はしないと誓ったこの国を、アメリカと一緒に戦争する国には絶対にしたくないのだ!
l  16.4.1. 憲法は核兵器使用を認めているとの政府見解。ついにそこまで言うか! 一般市民を大量に虐殺することが、最小限の自衛力の行使に含まれるはずがない!
l  16.6.27. 橋下徹がTVで在日コリアンを「大阪にいる北朝鮮の人」と呼んだ。大阪で府知事・市長までやった人間が、在日に対してこの程度の認識しか持っていないとは!
l  17.3.25. 安倍右翼政権を脱出し、僕は本当に一市民になった。空を飛ぶ鳥のように自由に生きる (文科省退官の2か月後のツイート)
l  17.3.25. 面従腹背さようなら。国家戦略特区の仕掛けを造り上げ、「岩盤規制の突破」という大義名分のもとを、人獣共通感染症対策などを口実にして、お友達の為に、嫌がる文科省に無理矢理「1校限りの獣医学部新設」という超特別扱いを認めさせたのも、国家権力私物化の極み
l  17.4.7. 道徳の教科書検定。文科省がなんと言い訳しようと、パン屋で通らなかったものが和菓子屋にしたら通ったという事実は残る。バカな話だ。パン屋さんたちが憤慨するのは当たり前 (小学校の道徳の教科書検定で、教科書会社が「パン屋」を「和菓子屋」に修正したというニュースを受けて
l  17.4.7. パン屋を和菓子屋になどと言うあほらしい変化から、恐ろしいファシズムが少しづつ成長していく。危険だ
l  18.3.16. あれ? フォロワーが急に増えている
l  18.3.16. フォロワーそんなに増えちゃ困る。。。。
l  18.3.17. あらら、1000人を超えてしまった。。 (独り言ではなくなったので非公開に)




(書評)『面従腹背』 前川喜平〈著〉
2018.7.14. 朝日
メモする
 個人か国か、せめぎ合う教育行政
 「面従」を続けていればたいていは「腹従」に変わっていく。まして官僚制の規律はそれを求めてもいる。その中で「腹背」の姿勢を貫き通すのは生半(なまなか)のことではない。
 本書を読むと、戦後の教育行政の現場では、「個から出発する思想」と「国家から出発する思想」とが激しくせめぎ合ってきたことが分かる。1947年に施行された教育基本法は明らかに前者に立脚しているが、岸政権から中曽根、森、安倍政権へと続く保守の系譜は、それを後者によって覆そうとしてきた。実際、2006年の改定によって、歴史の中で鍛えられてきた普遍的価値を重視する教育の指針は、伝統と文化を尊重する方向へと大きく傾いた。
 「個人の尊厳に基礎を置かない超越的な価値(国家、民族、伝統、共同体など)を認めたとたんに、個人の尊厳は際限なく掘り崩される危険に直面する」と著者は明言する。改定後の教育基本法はなおも「個人の尊厳」を重視し、「不当な支配」を排する原則を維持している。だが、それを切り崩そうとする動きは現に進行中であり、教育行政も教育の現場も政治的な介入や圧力に曝(さら)されている。
 本書を、たんに「腹背のすゝめ」として読むべきではないだろう。「腹背」はあくまで「腹背」。組織の論理に従わざるをえないという限界がある。組織の論理に縛られない、自由な意見の公表と交換をI・カントは「理性の公共的使用」と呼んだ。「腹背」や公益通報などの行動も、組織を超えて理性を使用する公共の議論によって支えられている面が多分にある。
 公務員は「全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(憲法15条)。行政がその時々の政治権力によって曲げられないようにするためには、監視だけではなく連携も必要である。公務員は叩(たた)きやすい標的になってきたが、そうではない市民と行政の関係を築くことができるだろうか。
 評・齋藤純一(早稲田大学教授・政治学)
     *
 『面従腹背』 前川喜平〈著〉 毎日新聞出版 1404円
     *
 まえかわ・きへい 55年生まれ。79年に文部省(現・文部科学省)入省。官房長、事務次官などを経て17年退官。


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