日本橋高島屋と村野藤吾  長谷川堯  2019.4.16.


(視線)百貨店建築、増築が生んだ現代性 「日本橋高島屋と村野藤吾」展
20194161630分 朝日
 国の重要文化財になった初の百貨店建築といえば、東京・日本橋の高島屋。建設の経緯を紹介する「日本橋高島屋と村野藤吾」展がその4階に今春オープンした「高島屋史料館TOKYO」の展示室で526日まで開催中だ。実空間を体感しながら見る建築展だ。
 展示室中央に置かれた1965年制作の白い模型を見ると、この建物が、重厚で歴史的な様式とガラスブロックによる近代的な顔つきのハイブリッド建築であることがよく分かる。
 歴史を振り返ると、まず応募390案の中から高橋貞太郎の案を選んだのが30年のこと。33年に地上8階・地下2階の建物が完成した。売り上げが好調だったこともあり、40年完成を目指して、高橋のデザインで増築される予定だった。
 ところが日中戦争が始まり、建設は中断。戦後になって、高橋に代わり、「そごう大阪店」などの実績がある村野が起用され、4度にわたる増築で、既存部分のイメージを尊重しつつ、ガラスブロックによるモダンな外観が生まれた。
 展覧会を監修した松隈洋・京都工芸繊維大教授は「様式建築に習熟しつつ、近代性を取り込んでいた村野だからこそできた」と話す。高橋の増築案の図面など初出の資料も多い。
 低成長時代の今、既存の建物に改修や増築をほどこして活用する考え方が広がっている。高島屋の場合、誰もが利用する百貨店建築ならではの、時代ごとの公共性やデザイン感覚を身にまとって成長してきたと考えれば、現代性十分の建築プロジェクトだったといえる。(編集委員・大西若人)


建築史家の長谷川堯さん死去 俳優・長谷川博己さんの父
20194201706
 建築家・村野藤吾の研究などで知られた建築史家、建築評論家で武蔵野美術大名誉教授の長谷川堯(はせがわ・たかし)さんが17日、がんのため死去した。81歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、お別れの会を開く予定。俳優の長谷川博己さん(1810NHK連続テレビドラマ「まんぷく」出演)は長男。
 島根県出身で、早稲田大第一文学部を卒業。近代建築の記念碑性、合理性を疑う論考で知られ、72年に著書「神殿か獄舎か」で建築界に衝撃を与えた。村野らによる豊かな細部を備えた建築や都市の評価に力を尽くした。
 日本建築学会賞のほか、「都市廻廊」で毎日出版文化賞、「建築有情」でサントリー学芸賞を受けた。


INAX住宅設計営業課主催 「INAX建築家サミット-3」長谷川堯講演会「現在に生きる建築家・村野藤吾、『神殿か獄舎か』、その後」
講演日時: 2008122日(火)

Part-4村野籐吾の歴史観―1
長谷川先生が後藤慶二の後に出会った建築家が、村野藤吾です。長谷川先生は、 村野藤吾研究の第一人者であることは言うまでもありませんが、同時に公私ともに大変近しい、 信頼し合うご関係でもありました。
村野藤吾はちょうど後藤慶二が亡くなる1年前、大正7年(1918)に早稲田を卒業し、その後、 渡辺節事務所を経て、昭和4年(1930)に独立します。いわば大正時代に建築家としての修行を 終えています。そして昭和67年頃から、作品が発表され始めます。「森五商店東京支店」、 「神戸大丸舎監の家」、「大阪パンション」、「ドイツ文化研究所」「都ホテル旧6号館」など。
森五商店
大丸舎監の家
大阪パンション
ドイツ文化研究所

Part-4村野籐吾の歴史観―2
1970年代に、村野藤吾がそれまで手掛けてきた数々の仕事を見て歩いた時、村野藤吾の設計の 中には"最終的にはモダニズムが到達点だ"という歴史観は、どこにもなかったことに気付いた と言います。そこが村野藤吾のすごいところだと。例えば昭和33年(1958)に大阪で連続唐破風の 「新歌舞伎座」を発表しました。極めてモダンな建築をつくっている傍らで、様式的で見方によっては キッチュなデザインを、恥ずかしげもなくやってのける。学生だった長谷川先生は、「こんなものを つくっていいのか!」、「これが近代建築のデザインか」と、当時はつくづく考えたものだと回想します。 そして約10年後、「今度は強い衝撃を受けた」と語ります。御堂筋の南端に立って見ると、周りの ビルの方がはるかにキッチュで軽薄に見えた。つまり周りのモダニズムの、あるいは インターナショナリズム、合理主義、工業主義に基づいてつくられた建築の方がはるかに安っぽくて軽い。 ところが村野藤吾が設計した「新歌舞伎座」はデンと構えて身動きもしない。「これは一体何だろう!?」 と考えざるを得なかったと語ります。
都ホテル旧6号館
新歌舞伎座

Part-4村野籐吾の歴史観―3
村野藤吾のプロポーション感覚の素晴らしさを西宮の修道院のスライドで具体的に説明しました。 そして「これは明らかに『ラ・トゥーレット(修道院)』の写しですが、村野藤吾はそういう ことを何の抵抗感もなくやってのける。ある意味ではル・コルビュジエよりも大胆かもしれない」 と豪快に言ってのけました。それは「村野藤吾はあらゆる様式がほぼ同時並存的に存在する。 そういうかたちを、建築の設計上の理想とした人」だからできるのだと語ります。
この村野流の考え方が大事なのではないか。そこを真剣に考えて、建築をつくっていかなければ ならないのではないか。その時にこそ、後藤慶二で触れたような、建築家の「自己の拡充」とか、 「個々の建築家の想像力の重要性が、なおさら強く求められる」と締めくくりました。予定時間を はるかに超える熱演でした。
西宮修道院外観
西宮修道院中庭
西宮修道院教会堂内部
西宮修道院ドーミトリー

長谷川堯氏プロフィール
はせがわ・たかし――武蔵野美術大学 教授・建築評論家/1937年生まれ。 1960年、早稲田大学第一文学部卒業。以後、建築評論家として活躍。1977年、武蔵野美術大学に着任。 専門は近代建築史。
主な著書:『建築有情』(中央公論社 1977)、『建築の生と死』(新建築社 1978)、 『生きものの建築学』(平凡社 1981)、『日本の建築 明治大正昭和 4 議事堂への系譜』(三省堂 1981)、 『建築逍遥 W.モリスと彼の後継者たち』(平凡社 1990)、『田園住宅 近代における カントリー・コテージの系譜』(学芸出版社 1994)、『建築の出自』(鹿島出版会 2008)、 『建築の多感』(鹿島出版会 2008)など。


TOTO通信
2016年新年号
過去にも未来にもとらわれない、村野藤吾の和風建築
インタビュー 建築評論家/長谷川堯
独自の和の展開というと、まず第一に村野藤吾を思い出す。正統な日本建築ではなくても、不思議としっくりくる村野の和風建築。それはなぜか。そのひとつである「千代田生命本社ビル(現・目黒区総合庁舎)」の和室「しじゅうからの間」にて、村野藤吾の研究者として知られる建築評論家・長谷川 堯さんに話を聞いた。
聞き手・まとめ/伏見唯 写真/山内秀鬼(特記を除く)

和風建築も「様式の上にあれ!」
——今号では、正統な日本建築のスタイルにとらわれずに、日本の伝統的な意匠や材料を用いている建築を特集します。「大阪新歌舞伎座」(1958)の唐破風など、村野藤吾も正統な日本建築とは異なる和風意匠の用い方をしますね。
長谷川 堯 かつて僕は村野さんに、「先生は日本建築をどういうふうに考えて設計していますか」という質問を何度かしたことがありますが、村野さんにはいつも「私のは日本建築なんていうものではありませんよ」と言われました。「和風」と言われるのはいっこうに構わないけど、「日本建築」と言われると困る、という答えだったのです。じつは当時は、この答えの意味がよくわからなくて、村野さん特有の一種の照れのようなものだろうと思っていました。村野さんは、歴史的な日本建築をたいへん尊重していましたからね。ただ、後でだんだんとわかってきたのですが、おそらく村野さんは、伝統的な日本建築の正統性を引き継いでいるととらえられるのを、避けたかったのだと思います。いわゆる大工の伝統的な規矩準縄(きくじゅんじょう)に則って、日本建築を発展させているつもりはまったくない、と彼は言いたかったのだと思います。
——「和風」という言葉には、抵抗がなかったのでしょうか。
長谷川 本人も「和風」という言葉を使っています。彼は、過去に手をつっこんで自分に必要なものだけを取り出してきて、それを現在の建築のデザインとして復活させる、というもののつくり方をしていましたから、日本の過去に手をつっこんで、いわゆる和風建築もつくっています。
——そういった村野藤吾の手法の源泉は、どこにあるのでしょうか。
長谷川 大学を卒業した翌年、『日本建築協会雑誌(現・建築と社会)』に、「様式の上にあれ!」(19)というとても長い論文を書いていますよね。要は和風建築についても「様式の上にあれ!」なんですよ。彼がこの論文で述べている「現在主義」というのは、過去の美的カノンにのめり込んで、それをマスターしてから自分の設計をする、ということとは違う。日本主義みたいな、あるいは当時でいえば国粋主義のような建築をデザインするつもりはない、ということです。それから、未来のために設計をしているわけでもない、ということでもあります。あの時代、多くの建築家たちが、モダニズムのスタイルを「未来の建築」として、その実現のために邁進するような姿勢をとっていましたが、彼は違った。未来の実現のために現在を犠牲にするような立場を、村野さんは絶対にとりませんでした。それが現在主義です。
——村野藤吾の建築には、時にはモダニズム、あるいは様式的なものもあります。その多様な作風も、村野が現在主義者だからでしょうか。
長谷川 そうですね。自分の内部から湧き出てくる創造力を実現するためには、過去にも未来にも手をつっこんでいた人ですよ。たとえば、「森五商東京支店」(31)、「大阪パンション」(32)、「宇部市渡辺翁記念会館」(37)などは、ル・コルビュジエやロシア構成主義を連想させます。ただそれらは、未来の理想を宣言するような未来主義者としてデザインしたわけではなく、未来に手をつっこんでいるけれども、あくまで現在主義者のデザインです。同じように、和風建築を手がけるにしても、現在主義的なものになる。だから、この「千代田生命本社ビル」(66)の和室でも、基本的には和の設(しつら)えを用いながらも、こういう過去には見たこともない障子をつくることが、彼にはできてしまうんですね。
村野藤吾は「現在主義」
——「様式の上にあれ!」を書いたとき、村野藤吾はまだ20代ですね。20代の青年が、過去にも未来にもとらわれないという、熟練ともいえる発言ができた背景はなんでしょう。
長谷川https://jp.toto.com/tsushin/2016_newyear/img/txt-space.gif「様式の上にあれ!」の原型は、彼の卒業論文「都市建築論」にすでに出ています。おそらく、そうした考えは出身校の早稲田大学での教育の影響があるのではないかと思います。佐藤功一が主任教授でしたが、彼のルネサンス建築の講義は、じつにすばらしいものだった、と村野さんに聞かされましたよ。ただ、設計課題では、たとえばバロックの銀行建築などといった様式指定があったにもかかわらず、村野さんは全部セセッション、つまりモダニズムのデザインを描いていたそうです。そういうことをしていたので、「佐藤先生はいつも僕の後ろを通りすぎ、ほかの学生のところに行ってしまう」と村野さんは言っていましたが、僕は佐藤功一は村野さんを認めていないから通りすぎたのではないと思いますね。むしろ言うことがなかったというか、あの時代の学生のひとつのピークを感じとっていたのではないかと。
——過去の様式を学ぶ環境にいながら、自分自身は未来的なセセッションに取り組み、両極の世界の狭間にいたのですね。
長谷川 早稲田大学を出たばかりの頃は、まだ未来主義的な価値観をもっていましたが、渡辺節の建築事務所に就職してから、その考えが変わったのだと思います。渡辺節の村野さんへのオーダーは、「売れる図面を書いてくれ」ということでした。セセッション、つまりモダニズムのデザインは売れないと徹底して言われ、村野さんも様式建築を本気で勉強したそうです。大学で様式建築を高尚に学ぶのとは違って、施主が喜ぶような「売る」ための様式を学んだのですよ。建築のそういう側面を、村野さんは渡辺節の建築事務所で見たのだと思います。そんな仕事を続けるうちに、村野さんのなかでは「様式の上にあれ!」という想いが固まっていったのでしょうね。要するに、過去には真実はなく、未来にも真実はない。真実があるのは現在だけ、という想いです。
——仕事として様式と向き合うことによって、理想よりも現実を重視した考えになっていったのでしょうか。
長谷川 当時の時代背景としても、国家や社会を主役に据えていた時代に対し、「私」という一人称で世界を見ていくような、現実的な運動が始まっていますよね。日露戦争が終わって、少し社会に余裕が出てきたときに、文学では白樺派が出てきたりして、沸き立つように「個」の存在が重要視されました。村野さんが学生時代を送ったのは、まさにそういう時期です。そして、学生時代に村野さんが愛読していたのが、有島武郎(たけお)。じつは、村野さんとそっくりなことを有島が言っているんですよ。「センティメンタリズム、リアリズム、ロマンティシズム——この三つのイズムは、その何れかを抱く人の資質によって決定せられる」(『惜みなく愛は奪ふ』新潮社)です。センティメンタリズムが過去、リアリズムが現在、ロマンティシズムが未来にあたります。そして、有島は「私にも私の過去と未来とはある。然し私が一番頼らねばならぬ私は、過去と未来とに挾まれたこの私だ。現在のこの瞬間の私だ」と言っています。村野さんは、有島に共感し、現在の自身を大事にするような設計の仕方を考えるようになったのだと思います。
吉田五十八の「形式知」、村野藤吾の「暗黙知」
——なるほど、そうした村野の考えが、和風建築に対しても表れているんですね。同時代の建築家と比べると、たとえば吉田五十八(いそや)とは和への向き合い方がだいぶ異なります。
長谷川 吉田五十八と村野さんは同世代の、とても仲のよい仲間同士でした。おもに吉田五十八は東京で、村野藤吾は関西で活躍し、お互いを意識していたと思いますね。吉田五十八が亡くなった後、村野さんは「吉田流私見『吉田五十八先生の一周忌を迎えて』」(『建築雑誌』753月号、日本建築学会)という追悼文を書いています。これはなかなかすごい文章でして、追悼文なのに、ある種の吉田五十八批判になっているんですよ(笑)。そこで村野さんは、東京の職人が隅々まで非常に正確に仕上げることに感心し、そこに吉田五十八の影響を感じたと書いているのに、続く後々の文章では、正確な仕事には味気がない、遊びや自然味もない、といったことを主張しています。逆に村野さんの流儀は、自然や遊びを意図した好みだと言っているのです。
——吉田五十八と自分を、対の存在のように考えていたのですね。
長谷川 ものづくりには2種類の考え方があって、吉田流のもののつくり方は、計画できるものだと言っています。ピシッと目に見える正確なつくり方ですから、そのために必要な腕とか、かけるべき大工の手間などが、計画できるつくり方だと。そういう建築は、建築を享受する側ではなく、生産者の論理でできているということを、村野さんは言いたかったんじゃないかな、と思います。一方で、自分の建築は、たくさんの計画できないものを含ませている、ということを主張したかったのでしょうね。村野さんに言わせれば、「絹を裏地に表を木綿にした衣物で美人に見せるようなお洒落」という考え方で、腕のよさを殺し、技を隠して、時には遊びを交えながら、見えないところに心を込めて建築をつくる交えながら、見えないところに心を込めて建築をつくることの大事さを語っています。こういうことを理解できない大工もいるわけですから、はっきりとした目標を定めにくいので、生産者が計画できないつくり方なのだ、ということです。
——言葉にするのが難しい感覚ですから、時には共有できない場合もあるでしょうね。
長谷川 そう、だから村野藤吾のことを理解できない人もなかにはいますよ。吉田五十八の建築は「近代数寄屋」と呼ばれていますが、この追悼文には、「近代」という時代との、村野さんなりの闘いがよく表れていると思いますね。この追悼文を僕なりに解釈すると、多くの近代建築が、資本主義の生産者の論理、あるいはメーカーの論理としてつくられているけれど、自分は違う、という主張です。自分は単純には生産者の側には立っていなくて、メーカーとユーザーのあいだに立って、両者を調整するのが自分の仕事だと思っていた。そして、生産者側が計画できない部分にこそ、心をこめて、使う側が気持ちいいように建築をつくってきた、それが自分の和風建築なんだ、ということを村野さんは言いたかったのだと解釈しています。
——建築史家の伊藤ていじは、「大壁造による木割からの解放」など、吉田五十八の「近代数寄屋」の特徴を6つ挙げて、その手法を整理していますが、村野藤吾の建築の場合、そういう整理は難しいでしょうか。
長谷川 そうそう、村野さんの建築は論理ではないですから。かつてモダニストの側から、村野藤吾がしばしば非難されていたのは、その点をつかれていたんです。論理がない、訳のわからないところがいっぱいある、というふうにね。最近は、村野藤吾が再評価されていますが、論理ではない、あるいは言葉にはできない村野さんの真価は、今になってもまだあまり理解されていないのではないかと思います。
——哲学者のマイケル・ポランニーが、言葉や数式などによって表現できる知識を「形式知」、言葉などによる表現が難しく、経験や勘などに基づく知識を「暗黙知」と定義しましたが(『暗黙知の次元』筑摩書房)。
長谷川 村野さんの主張は、まさにそのことだと思います。追悼文では、理解されやすい吉田流は、多くの追従者や亜流をつくり、社会に大きな足跡を残した、といって吉田五十八の功績をたたえながら、一方で自分は違う、ということを暗に言いたかったのでしょう。だから、追悼文といいながら、自分のことを語っているのが、あの文章のすごいところです(笑)。建築家が自分の身体を建築のなかに投げ込んで、その空間を使う人間にとって使いやすいのは当然だけど、心地よいものであったり、親しげなものであったり、あるいはいつも触っていたいようなものであったり、そういうものを、論理ではなく、経験や勘なども結集させてつくりあげるのが建築家の仕事なんだよ、と村野さんが言っているように、僕には思えました。
大阪新歌舞伎座」の原型は、道後温泉
——それにしても、「大阪新歌舞伎座」での唐破風の用い方は大胆です。
長谷川 あの建築の是非は意見が分かれるのですが、僕は「大阪新歌舞伎座」を評価しないで、村野藤吾を評価することはできないと思いますね。村野さんは、先ほどの現在主義の手法によって、自分のイメージソースになるようなものを過去から見つけてきて、それをファサード前面に張り付けて連続させているわけ。破格のアイデアですよ。ただ、僕も大学を出た頃は、ちゃきちゃきのモダニストでしたから、できたばかりの「大阪新歌舞伎座」を写真で見て、村野さんは変なことをやるな、と思っていたのは間違いない(笑)。それから10年くらいたってから大阪に行ったとき、御堂筋を歩いていて、とにかく、まあ驚いたね。いわゆる近代的なビルが立ち並ぶあの通りのなかで、格別にリアルに実存しているというか、でんと構えていて、すごい、やられた、と思いました。それまではキッチュなファサードデザインくらいにしか思っていなかったので、ガツーンとやられましたよ。建築とはなんだろう、ということを真剣に考えさせられました。
——あの唐破風のイメージソースはなんでしょうか。
長谷川 村野さんは公表していませんが、僕は原型を見つけたんですよ。愛媛の道後温泉です。あそこに「神の湯本館」(1897)という3階建ての建物があるのですが、その1階部分に3つの唐破風が連続している意匠があるんです。それは、もうそっくりですよ。結局、本人に聞くことはできなかったのですが、村野さんは戦前から愛媛で仕事をしていましたから、おそらく影響を受けているだろうと思います。
——確かに「大阪新歌舞伎座」は正統な日本建築よりも、大衆的な賑わいを感じる道後温泉の世界観のほうが近い感じがしますね。
長谷川 それはそうですよ、歌舞伎ですから。正統から傾(かぶ)く、つまりはずれるものですから。社会体制にはまらないで、むしろドロップアウトするような個人主義ですから、あれくらい傾いていて当然です。
——イメージソースといえば、村野藤吾の和風は、古歌を自作に取り入れて自分の和歌をつくる「本歌取りの手法」といわれることもありますが。
長谷川 そうですが、村野さんとしては「本歌取り」というのは、あまり意識していなかったのではないかと思います。先ほども言ったように、村野さんは自分自身を表現するために、過去の建築、未来の建築を含めて、あらゆるものを自分の頭の中に入れて、それを熟成させるというか、発酵させていた人だから、その対象をいわゆる「本歌」として探し出すことはできるけれども、本人はそれを「本歌取り」というかたちでは考えてはいなかったでしょうね。村野さんの建築を見ると、和風に限らず、たとえばルドルフ・シンドラーとか、ルイス・カーンとか、いろいろな建築家からの影響も見て取れますよ。でも、それは真似ではありません。自分の文脈のなかで、自分の語彙としてそれを用いている、ということだと思います。
村野藤吾は生涯、ポストモダンをやりきった
——過去の様式の引用というと、いわゆるポストモダンの建築も連想します。
長谷川 ポストモダンの潮流が1970年代に始まりますが、「大阪新歌舞伎」は58年ですから、村野藤吾をポストモダンの走りだととらえる人もいますね。ただ、僕に言わせれば70年代の動きとはなんの関係もないですよ。これまで話してきたとおり、村野さんはモダニズムの定式をすべてくずして生きているのだから、それをポストモダンだというのなら、彼は設計者として、最初から最後までポストモダンをやりきった人です。
——ポストモダンは一時代の潮流ではない、ということですね。
長谷川 そう。ポストモダンをひとつの流派みたいに考えて、そのポストモダンの建築はある時期にははやったけれど、またすぐにモダニズムが復活した、という言い方をされることがありますよね。あれは一種の徒花(あだばな)だった、と。ただ、僕はそうは考えない。ポストモダンの建築の本質というのは、建築の歴史はだるま落としみたいに、新しいものの上にさらに新しいものが積み重なってなりたっているのではない、ということなのだと思います。たとえば、ゴシックの後にルネサンスが出てきて、さらにその後にバロックが出てきて、というふうに歴史を学ぶけれど、実際の歴史はそういうものではない。ゴシックの誕生以来、そのままずっと続いてきて、21世紀の現在まで、細々としているかもしれないけれど、続いているんです。ルネサンスも、バロックも。日本建築でも、書院造や数寄屋、あるいは民家などが、今でも生きているんです。つまり、今現在の歴史の断面を切り取れば、モダニズムが一番大きな径をもったチューブかもしれませんが、ほかにもゴシックや数寄屋のチューブも細々と残っています。歴史というのは、そういうチューブの束でなりたっている、ということを認識するのがポストモダンだと思います。モダニズムという大きな束で、この世界全体が覆われるなんて幻想だよ、という主張がポストモダンの考え方だと理解すると、それは今でも非常に意味をもっていることだし、おそらくそれは、村野藤吾が考えていた歴史観と同じなんじゃないか、と僕は思います。
——そうした村野藤吾の考え方は、現在の建築家も引き継げるものですね。
長谷川 僕自身も死にそうだから、あえて言いたいのですが(笑)、建築家が建築家としての主体性をもっともっと強めていってほしい、とすごく思います。村野藤吾は、時には時代の潮流に背を向けながら、自分自身の内部に湧いてくるイマジネーションを実現するため、和風をはじめ、いろいろなものを過去や未来から取り入れ、それを自分の内側で燃やしているようなエネルギーをもった人でした。だから村野さんのように、自分の内側をもっと外側に出してほしいのです。かつてヴァルター・グロピウスが丹下健三に、人間の尺度が大事だと言ったそうです。それは、いわゆるヒューマンスケールなどの寸法のことを言ったのではないと思っています。僕の解釈では、建築家が自分の内側から湧いてくるもの、つまり人間としての自分の尺度を設計に投げ込むことが大事だ、ということなのだと思います。

フォームの始まり
村野藤吾の建築 昭和・戦前

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村野藤吾の建築 昭和・戦前

価格 ¥9,180(本体¥8,500
鹿島出版会2011/02発売)
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サイズ A5判/ページ数 861p/高さ 22cm
商品コード 9784306045538
NDC分類 523.1
Cコード C3052


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内容説明
膨大な建築作品を残し、93歳で没した建築家村野藤吾。戦前の主要な作品を、図面や写真を併せて細部に至るまで検討し、論文・講演を手がかりに、作品に塗り込められた秘密を解き明かす。村野作品を追い続けてきた長谷川堯による村野研究の集大成。
目次
渡辺節建築事務所への就職と村野の修業時代
渡辺節作品の中の村野藤吾
「動きつつ見る」、欧米への独立直後の旅で見たもの
「森五商店」と、その他の最初期作品
「大阪パンション」をめぐる思惟の周辺
ロシア構成主義との結びつき「中島商店」と「キャバレー赤玉」
宇部の「渡辺翁記念会館」に見る構成主義の手法
講演「日本に於ける折衷主義建築の功禍」が投げかけた波紋
大阪「そごう百貨店」と神戸「大丸百貨店」の差異
「ドイツ文化研究所」への特別な想い
「叡山ホテル」と大和の民家を繋ぐもの
「中山悦治邸」から「中山半邸」への展開
関西建築階の先輩たちの仕事を追って
「村野自邸」に塗り込められたもの
村野藤吾の出自と「藤吾」への転進
著者等紹介
長谷川堯[ハセガワタカシ]
1937年島根県生まれ。1960年早稲田大学第一文学部卒業。1977年武蔵野美術大学助教授。1982年武蔵野美術大学教授。2008年武蔵野美術大学名誉教授。主な著作『都市廻廊』(相模書房、中央公論社・中公文庫、毎日出版文化賞)『建築有情』(中央公論社・中公新書、サントリー学芸賞)。一連の建築評論活動に対して、日本建築学会業績賞(1985年)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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