かんじき飛脚  山本一力  2019.5.26.


2019.5.26. かんじき飛脚

著者 山本一力 本名:山本 健一。1948高知市生まれ。小説家都立世田谷工業高校電子科卒。生家は高知市の大地主であったが没落、14歳の時に上京。通信機輸出会社、大手旅行会社(近畿日本ツーリスト)、コピーライターなど十数回の転職を経て、1997『蒼龍』で第77オール讀物新人賞を受賞してデビュー。02年『あかね空』で第126直木賞を受賞。他に『大川わたり』などの時代小説がある。02年、現在の妻になる英利子と出会い、小説を書く時のモデルになってほしいなどと口説き、半年後に3度目の結婚。妻の実家の相続トラブルで親族に17億円の支払い命令されるも土地を売却することで相殺。その後、バブル時代に支払いの足しのために設立した会社は事業失敗で2億円の借金を抱える。その借金返済及び結婚をきっかけに49歳で小説を発表した。自転車愛好家で、外出時は一家で自転車を用いる。テレビのコメンテーターの活動も行っている。ペンネームの「一力」(いちりき)は作家を始めたときにあと一歩で賞がなかなか取れず、妻から名前が悪いのではないかと言われ、姓名判断ソフトの中から候補を選び、名前は12画のバランスが山本姓に合っていたためこの名前になったという(Wikipedia)

発行日           2005.10.25. 発行
発行所           新潮社

初出:『週刊新潮』047月~056
山本一力は、この7月から『小説新潮』で、飛脚シリーズの最終版を連載予定

伊藤忠/小寺氏の紹介で、赤坂の女将さんの語りを一力が本にしたということ

序章
1789年天明から寛政へと改元。旗振り役は2年前老中首座に就いた松平定信。田沼意次失脚の後、徳川御三家と一橋治済の強い推挙で就任
江戸生まれで吉宗の孫とあって当初は歓迎されたが、緊縮財政による倹約令に庶民の不満が高まると、棄捐令を出し札差の武家に対する貸金を帳消しに

定信は隠密を使って諸大名以下の将軍家への忠誠を探ろうとする
最も気にしていたのが加賀藩11代当主前田治脩(はるなが)。抜きんでた大身。藩主就任後19年目の45歳で、剛健ぶりに家臣が心酔。火消しとして強い団結を誇る
加賀藩国本と江戸本郷上屋敷の間約145里を、毎月3度、夏場なら5日間で走り抜くのが加賀藩御用の飛脚浅田屋の3度飛脚 ⇒ 運ぶのは藩の公用文書と藩主及び内室御用の品で、浅田屋は江戸と国許の両方に常時8人の飛脚を抱えていた
毎月3の付く日に国許から江戸に向けた定期便が仕立てられる。北国街道、中仙道経由
定期便を扱う問屋は、大店だけで17軒あったが、1663年公用の定期便「江戸3度飛脚」の創設が命じられた。淺田屋(創業1662)と村松屋が双璧

前田藩本郷上屋敷の近くで出火、真っ先に加賀鳶が駆け付けて纏いを振っている ⇒ 5代綱紀の時に本格的な火消し集団を創設。通常武家の大名火消しは町屋の火事には出てこないが加賀藩だけは違った
その最中に老中定信から初潮を見ようと新年祝賀の私的な宴への招待状が届く ⇒ 寛政2年の正月定信の築地下屋敷(藩主私邸)にて、招かれたのはいずれも藩主が在府中の外様の加賀藩と土佐藩のみ
格違いの土佐と同時の招待に不審を抱いた治脩は、内密にしていた奥が臥せっていることが露見したと悟る。奥は肝臓の病で黄疸症状が出るため、密丸で抑えていたが在庫が底をついてきたので、淺田屋伊兵衛の飛脚で取り寄せる
淺田屋伊兵衛の江戸店(だな)は、本郷2丁目の角地500坪の屋敷、新築の普請中
金沢でやっている割烹の評判がよく、江戸屋敷内にも料亭を開店
城下の南東の湯涌温泉は、加賀の奥座敷と称されるが、氷室の里で有名 ⇒ 冬場に降り積もる雪を固めて雪氷を拵え蓄えおく設備。2間幅の立方体。翌年61日が氷室開き
氷室作りの無事を祈願する酒が、鶴来(つるぎ)町にある白山比咩(しらやまひめ)神社醸造の「萬歳楽」
氷室の氷を湯涌から金沢経由江戸まで運ぶのが淺田屋に課せられた最重要の任務
氷塊は15㎏で3重の桐箱に収められ、丸5日で本郷の加賀藩上屋敷まで走り抜ける
金沢から江戸まで、幅3間以上の川が73 ⇒ 加賀7、越中27、越後26、信濃13
土佐藩内室もいの病で臥せっており、同じ密丸が効く
9月に発布された棄捐令が効果を表し始め、羽振りの良かった札差たちが財布のひもを閉じたため師走に入って江戸の景気は凍り付いた
密丸運びのために加賀藩は内密に特別便を仕立てるが、飛脚の中に定信側に内通するものがいて筒抜け、秘かにその飛脚を襲撃しようと手配する
加賀藩が公儀に悟られぬよう拵えている火薬を塩硝といい、五箇山でヨモギから製造。内密にしていたが、定信の密偵は察知
徳川家直属の家臣(直参)は、当時旗本約5200家、御家人約17400家 ⇒ 禄高1万石以下で将軍御目見得格の家柄が旗本で、その格のないのが御家人
年利12分で札差から借金した直参の窮状を見かねて棄捐令を出したが、札差は資金枯渇を理由に貸し渋りで意趣返ししたため、却って困ったのは直参の方だった。定信は公金を札差に貸し付けて、転貸させようとしたが、札差は返済の当てがないとして借り入れを拒否、思い余って考えたのが臥せっている内室が招待に応じられないのを理由に加賀と土佐に金を出させようという魂胆
幕府の隠密が飛脚を狙うのは、追分に入る手前の峻険な山道。追分宿の西の外れは中仙道と北国(善光寺)街道の分岐点「分去れ(わかされ)
牟礼から追分の間21里には、新町、善光寺、丹波島、篠ノ井追分、矢代、下戸倉、上戸倉、坂木、上田、海野、田中、小諸の12宿があり、特に小諸と追分の間の煮えたぎった熱湯が溢れかえる巨大な湯壺が口を開けて待つ龍(たつ)ノ口を過ぎると熊ノ沢の急峻な崖の道が続き飛脚を狙撃するには格好の場所
飛脚は、大雪降る中追分を手前にした断崖の山道で定信側の刺客に狙われながら、お頭の機転で自ら犠牲になりながら地元の猟師の助けを得て潜り抜け、何とか残りの者が密丸を江戸に持って帰る
定信の招宴は、刺客の失敗によって、取り止めとなり、加賀藩は難を逃れるが、またいつ何時幕府から難題を吹きかけられるかもしれない



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この脚だけがお国を救う――加賀から江戸へ、命を賭しても秘薬を運べ! 児玉清氏絶賛! その心意気に圧倒される、傑作時代長編!!
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かんじき飛脚
853円(税込)
発売日:2008/10/01
江戸老中松平定信から、内室同伴という前例のない宴に招かれた加賀藩主前田治脩。それは治脩の内室が病床にあることを知った定信が、藩を意のままにしようと企てた陰謀だった。窮地に陥ったお国の命運を救うため、選ばれたのは16人の飛脚。彼らの任務は、病の特効薬「密丸」を運ぶこと。行く手には、大雪、荒海、刺客が立ち塞がる――戦う男たちの心意気に圧倒される、骨太の傑作時代長編!

九谷焼諸江屋店長日記 
(諸江屋:小説内にも登場する金沢の和三盆を惜しまずに使ったらくがんの名店)
山本一力の「かんじき飛脚」を読みました  2008 12 12
江戸時代の人情小説の第一人者の山本一力さんの「かんじき飛脚」を読みました。
江戸と金沢とを結ぶ加賀藩御用の三度飛脚の話で、現在も金沢の老舗料亭として知られる
浅田屋さんの物語です。
寛政の改革で有名な老中 松平定信の時代、徳川幕府に目をつけられている外様大名の筆頭の加賀藩は、ちょっとのことでも目をつけられてお取潰しになる危機があります。
江戸に生活をしている藩主の夫人は病があり、加賀藩の秘密の特効薬「密丸」が常に必要でした。
急に老中に前例のない夫人同伴で食事の誘いを受けて「密丸」が必要になり、密命を受けた飛脚達が冬の北国街道を命からがら「密丸」を運ぶという話です。
当店と同じ諸江屋の落雁が出てきたり現在でも金沢で活躍している老舗が出てきたりしてなかなか面白いです。

還暦過ぎの文庫三昧
 この作品、ストーリーはいたって単純である。寛政の改革で知られる松平定信が、正月の賀宴に加賀前田家と高知山内家の藩主と内室を招待したが、実は定信は両藩の内室が重厚な病に侵されていることを承知の上であった。内室は幕府にとって大切な人質として江戸に在住しているのであり、病であれば速やかに届け出ることになっているのだが、どの藩も内情を幕府に知られたくないため、隠していたのである。さらに両藩には、加賀藩には塩硝(火薬)の製造、高知藩には鉄砲の貯蔵と、幕府には知られたくない事情があって、情報を得た定信はそれらも一挙に暴いて、改革による不景気に対する世情の不満を転化させようという計画なのだ。
 定信の意図を見抜いた加賀藩は、これに対抗する手段を考える。内室の病気の症状を抑えるには、秘薬「密丸」が必要で、藩御用達の飛脚問屋「浅田屋」の三度飛脚を総動員して、金沢から「密丸」を取り寄せる手はずを整えたのだ。一方の幕府側も、お庭番を動かして、「密丸」が江戸へ届くことを妨害することになる。折しも12月で、北国街道は雪が降り積もる季節である。果たして飛脚たちは困難を乗り越えて「密丸」を江戸藩邸まで届け、藩の危機を救うことができるのか? 物語は実にその一点に絞られて展開してゆくわけで、まぎれもないストレート勝負なのだ。
 そして、こういう物語であれば、結果も見えている。若干の犠牲は伴うものの、「密丸」は間違いなく江戸へ届くのである。我々は加賀前田家が取り潰されたり改易されたりしなかったことを知っているし、飛脚が主人公であるこの物語で、彼らが全滅するなどということはあり得ないのも、容易に想像できるのだ。意外性などは小指の先ほどもなく、予定された結末に向かって、粛々と進行してゆくという手はずなのである。
 三度飛脚とは、江戸と金沢のおよそ145里(570キロ)を、毎月3度、夏場なら5日間で、冬場なら7日間で走り抜くことからきている。著者は彼らの並外れた脚力や、宿場での身体のいたわり方、北国街道の難所の風景描写など、飛脚の実態を丁寧に描くので、その部分は好感が持てる。また、飛脚仲間内や浅田屋内部の料理人にまで幕府隠密が入り込んでいて、スリリングな展開も楽しめる。クライマックスの雪中の戦いなどは、相当にサスペンスフルでもある。要するに、部分部分は楽しめるけれど、全体は凡庸という内容。第一、「密丸」という内臓の万能薬が眉唾であるし、捻挫の特効薬「竜虎」の効能も疑問だ。物語の前提にそもそもの難があったのではないだろうか?
 山本一力という作家が登場したとき、時代小説の新しい書き手として、大きな期待を抱いたものだけれど、売れ子になって沢山の作品を発表するようになってからは、失望感のほうが先に立つ。それが濫作の弊害であるとしたら、とても残念だ。
 なお、この作品の解説は俳優の児玉清が担当している。彼は読書家としても知られているけれど、文芸評論家とは言えないのであって、専門家が引き受けなかったから芸能人が提灯記事を書いたということであるなら、これも悲しいことだと思う。
  2008年10月8日  読了

2011330日水曜日
山本一力『かんじき飛脚』
 昨夜は、山本一力『かんじき飛脚』(2005年 新潮社)を「?」と思いながら読んだ。これは寛政の改革を行った松平定信(17591829年)の統治下で、加賀金沢藩の存亡をかけた藩御用達の飛脚の活躍とその姿を描いたもので、江戸から金沢までの、特に難所の多い北国街道を藩の密命を帯びて駆け抜ける飛脚たちの厚い友情や信頼、人情、そしてそれを阻止しようとして放たれた公儀お庭番との攻防を描いたものである。  作者らしい「男気」や「信頼」、また「愛情」の姿を描いた場面が随所に盛り込まれているし、当時の飛脚の生活、各宿場の様子など、食べ物から寝食に至るまで細かな描写があり、それはそれで物語として面白く読めるが、「?」と思ったのは、全体の構成の中で飛脚が加賀金沢藩の密命を帯びて駆け抜けなければならない肝心の理由に納得がいかない点があったことである。
 加賀金沢藩が老中松平定信から正月に内室同伴で招待を受けた。こうした招待を受けること自体や内室(藩主の正室)同伴というのも前例のないことであり、そこに松平定信の企みの匂いをかいだ加賀金沢藩では困惑が走る。調べてみると招待を受けたのは加賀金沢藩と土佐藩だけであり、それぞれの留守居役どうしが互いに信頼して内情を打ち明けてみると、両藩共々に内室が病の床にあることがわかり、「内室同伴」というのが不可能に近いことが分かる。
 加賀金沢藩では、内室の病状回復のための「蜜丸」という秘薬があり、「内室同伴」を果たすためにはそれが必要となる。そこで、その「蜜丸」の運搬を飛脚に依頼するのである。松平定信は、その秘薬の運搬を阻止し、加賀金沢藩の落ち度を攻めるために、公儀お庭番を送るのである。
 しかし、なぜ松平定信がそのような画策をしたのか、果たしてそれが有効で必要な画策なのかの根拠がいまひとつわからない。
 本書では、松平定信が行った札差(武家の俸給であった米をあずかり、それを担保に武家に金を貸した)への借金棒引き策である「棄損令」によって、金を貸し渋るようになった札差からの借金ができなくなった武家が一気に窮乏に陥った。江戸の経済も全く停滞した。松平定信は、貸す金がないといって武家への貸し渋りをする札差に五万両もの金を貸し付けようとするが、札差たちはこれを拒否し、武家の生活はさらに窮乏を極めていくことになる。
 そして、「かくなるうえは、内室同伴を果たせぬことを責めるしかない」(257258ページ)となるのだが、札差への公金貸付と加賀金沢藩と土佐藩を責めることが、どうにもつながらない。加賀金沢藩と土佐藩は、それぞれに幕府に内密にしている火薬の製造や鉄砲の貯蔵などがあるが、江戸の経済打開策と両藩を責めることに根拠が見いだせないのである。
 もうひとつは、松平定信が老中であったとしても、内室同伴の招待は「私的な招待」であり、内室の病状が幕府に届けられていなかったにしろ、「内室が急な病ゆえに」という理由が立つはずで、それを藩の存亡をかけたことがらとして受け止める加賀金沢藩の姿にリアリティーがない。また、飛脚たちが命がけで守ることになる「蜜丸」という秘薬で、病の床にある内室の病状が一時的にしろ招待に応じられるほど回復するというのも、どうもしっくりこない。
 飛脚たちや飛脚問屋の主人たちの姿は、それぞれに味のあるものになっているが、その飛脚たちを走らせる根拠に「?」を感じてしまったのである。飛脚の姿を描くのに妙な政争を持ち込まなくても良かったのではないかと思ったりする。
 作者は歴史的考証も丹念であり、物語の展開にも力量があって読ませる力をもっているが、もちろん、それは本書でも充分に感じられるが、本書に関してはそういう思いをもった次第である。



浅田屋の使命
私たちは、金沢の風土を愛し、
心くばり溢れる事業活動を通して、
新しい文化を創造します。
浅田屋の経営方針
私たちは、
1.
お客様に感動していただける気働き金沢ナンバーワンの組織を目指します。
浅田屋の企業文化の構築
1. お客様の健康を預かるものとして、安全で衛生的な環境づくりを追求します。
食に携わる企業の責任
1. 競争が働きがいを生み出し、かつ公正な評価が信頼を育む企業を目指します。
実力社会を醸成する職場
1. 高品質の商品とサービスを通して、地域社会への責任使命を果たします。
適正な利益の追求
1. 過去の実績にとらわれず、つねに自由な発想で次への主題に挑戦します。
現状を否定する創造力
企業概要
会社名
株式会社 浅田屋
本社住所
920-0906 金沢市十間町23番地
創業
萬治2(1659年)
代表者
代表取締役社長 浅田久太
資本金
4,500万円
売上高
20億円(関連会社を含む)
社員数
200(80名、女120)
事業所
金沢市内7事業所
事業内容
旅舘、料亭、レストラン
関連会社
株式会社アサダヤコーポレーション
(
食品製造・販売)
長い歴史の中で先取の精神とチャレンジ精神を培ってきました。
浅田屋の歴史は、1659(萬治2)までさかのぼることができます。萬治2年は関ケ原の戦いから、わずかに50有余年が過ぎたばかりであり、三代目加賀藩主、前田利常が死去した翌年にあたります。
この年、初代伊兵衛が加賀藩より中荷物の御用を命ぜられました。これが浅田屋の江戸三度飛脚の創始です。その後、江戸詰め飛脚頭取を務めたり、幾多の変遷はありましたが、明治維新まで約200年間、代々江戸三度飛脚を拝命したと伝えられています。
そして1867(慶応3)、中荷物御用を返上して旅館経営を始め、今日の浅田屋の原型を形成しました。
大きな転機を迎えたのは1964(昭和39)、金沢市広坂に料亭「加賀石亭」を開業したことでしょう。旧来の旅館専業の枠にとどまることなく、未知の飲食業に進出したのです。しかも、当時東京で広まり始めたばかりのしゃぶしゃぶをいち早く導入し、人気を得て「加賀石亭」の名は一気に広がっていったのです。
その後、「六角堂」「松魚亭」など金沢にはなかったコンセプトの店を次々と出店。1995(平成7)には、振興著しい金沢市南部地区の拠点として金沢国際ホテルを取得し、ホテル業へも進出しました。このように、先取の精神とリスクを恐れないチャレンジ精神が浅田屋の歴史には息づいています。
会社沿革
1659
(
萬治2)
初代浅田伊兵衛、加賀薄中荷物御用を拝命。
五人扶持・名字帯刀を許される。
1867
(
慶応3)
浅田庄平、中荷物御用を返上し、金沢十間町(現在地)に旅籠「淺田」を開業。
1868
(
明治元年)
旅籠を改め、正式に旅館業を創業。
1930
(
昭和5)
浅田屋に改称。浅田勝次、旅館の4代目を継承。
1960
(
昭和35)
経営体を資本金300万円の株式会社浅田商事に改組。尾山町に「富士ホテル」を開業。
(昭和42年に譲渡)
1962
(
昭和37)
長町に旅館「加賀乃井」を開業。(昭和43年に譲渡)
1964
(
昭和39)
広坂1-9-23に料亭「加賀石亭」を開業。
1968
(
昭和43)
東山1-38-28に中華料理レストラン
「ホワイトハウス」を開業。
1971
(
昭和46)
東京都港区赤坂に料亭「浅田」を開業。
浅田グループに改組し、浅田裕久が社長に就任。
1973
(
昭和48)
東山1-38-28に「パークホテル」を、東山1-38-27に「ステーキ六角堂」を開業。
片町2-2-15に「焼肉レストランお寺」を開業。
(昭和5210月「徳大寺」に改称)
1977
(
昭和52)
浅田屋改築、金沢の宿として再開。
片町北国ビル屋上に「サントリー ビアレストラン」を開業。
片町258に「加賀石亭・六角堂片町店」を開業。
1978
(
昭和53)
「徳大寺」を改装し、「三十間長屋」を開業。
1981
(
昭和56)
片町・イズミビル2Fに和洋膳所「ジョン万次郎」を開業。
1982
(
昭和57)
「ジョン万次郎」を改装し、「三十間長屋柿の木畠店」を開業。
「ホワイトハウス」を閉鎖し、「活魚料理松魚亭」を開業。
1984
(
昭和59)
片町・北国ビル地階に「ヤキニクルーム徳大寺」を開業。
1985
(
昭和60)
浅田グループを「株式会社浅田屋」に改組。
食品事業部、製造・営業を開始。
1988
(
昭和63)
東京・港区赤坂の料亭「浅田」を分離独立し、
「浅田屋伊兵衛商店株式会社」が別法人となる。
1990
(
平成2)
食品事業部、金沢市南塚58に移転。
1992
(
平成4)
各種保険代理店業を株式会社浅田屋より分離し、
「株式会社アサダコーポレーション」を設立。
1995
(
平成7)
片町1-4-18に「カプリチョーザ金沢竪町店」を開業。
西洋環境開発より「金沢国際ホテル」を買収、開業。
1996
(
平成8)
金沢国際ホテルの全舘リニューアルオープン、ホテル最上階に「浅田屋高尾店」開業。
「高尾ガーデンチャペル」新設。
N-36.5」開業。金沢国際ホテルクランドオープン。
1998
(
平成10)
金沢国際ホテルに神殿「白山殿」御造営。
2002
(
平成14)
ひがし茶屋街に「螢屋」を開業。
2004
(
平成16)
大阪梅田 阪急うめだ百貨店に惣菜店(アサダヤコポレーション)オープン。
2005
(
平成17)
「六角堂せせらぎ通り店」を開業。
2008
(
平成19)
金沢国際ホテル1階にファーマーズキッチン「セロリ」を開業。
2011
(
平成23)
金沢国際ホテル 結婚式場チャペルを「水と光の教会」にリニューアルオープン。
2012
(
平成24)
浅田久太が社長に就任。
2014
(
平成26)
「金沢国際ホテル」を呉竹荘に譲渡。

会社名 浅田屋伊兵衛商店株式会社
代表者名 浅田 松太
設立 昭和3512
創業 
第一次創業:萬治二年(加賀藩中荷物御用・浅田屋伊兵衛)
第二次創業:慶應三年(旅人宿浅田・浅田庄平)
資本金 1,627万円
店舗
■赤坂浅田 東京都港区赤坂3-6-4 地図はこちら
■赤坂伊兵衛 同上
■青山浅田 東京都港区北青山2-7-13プラセオ青山ビルB1 地図はこちら
■名古屋浅田 愛知県名古屋市中村区名駅1-1-4 セントラルタワーズ12Fタワーズプラザ 地図はこちら
■名古屋伊兵衛 同上
加盟組合
赤坂料亭組合・東京都料理生活衛生同業組合・東京日本料理業芽生会
浅田の由来書
http://www.asadayaihei.co.jp/company/img/yimg1.png
加賀百万石の豪華絢爛な文化を創り上げた金沢藩。
江戸時代の三百年を過ぎてなお現代に至るまでもその文化を伝承した前田家歴代の藩主の功績は今あらためて多大な評価を得ています。
前田利家初代藩主は信長と共に転戦を重ね名古屋の荒子城から、能登、そして金沢へと領地が移封されてきます。
一方浅田屋の始祖浅田屋伊兵衛は萬治二年(1659年)、時の加賀藩主前田綱紀卿より「中荷物御用」を百ヵ年間忠勤したことを認められ五人扶持・苗字帯刀を許されました。
前田利家初代藩主に認められてから百年、商人でありながらその業績を具体的に認められた浅田屋伊兵衛はその後「江戸三度」という組織を立ち上げ棟取りを勤めました。
江戸三度とは一ヶ月に三回金沢と江戸本郷の上屋敷を結ぶ物流の定期便です。
藩主の夏冬の衣類から藩の重要書類に至るまで、信頼された者だけに許された仕事を明治時代直前まで継続して参りました。
その間2年に1度の参勤交代時の二千人を超える藩士の食事の手当て、消耗品の手当て、宿舎の段取り等々の仕事も勤めて来ました。
徳川幕府の体制が終わろうとする慶応三年(1867年)、時の浅田屋の経営者浅田屋庄兵衛は加賀藩に中荷物御用の鑑札を返上、金沢本店跡地に旅人宿「浅田」を開業しました。
上の版画はその当時の「浅田」の模様を描いたものです。(石川、加賀商工百店・明治二十年刷)
江戸では、加賀藩下屋敷は板橋に(現在の加賀町)、上屋敷は赤門で有名な本郷にあり慶応三年まで浅田屋の江戸の店はそれぞれのお屋敷内にありました。
飛脚業と加賀料理料亭という業種こそ異なりますが江戸あらため東京には昭和46年(1971年)に104年ぶりに赤坂店を出店、同じく平成6年(1994年)に青山店を出店しました。
そして、このたび平成16年(2004年)ご縁に恵まれ、前田家ゆかりの地、名古屋に参りました浅田屋でございます。
何卒よろしくお引き回しの程お願い申しあげます。
浅田のクレド
浅田は「お客様の大切な場面で安心して任される料理店」を目指します。
お客様の心が豊かになる店として品格と非日常性を大切にします。
お客様がゆっくりお過ごしいただく居心地の良い「空気」を創造します。
料理
きめ細やかな心遣いで工夫されたおいしい料理を提供します。
愛情を込め誠意をもって料理をお作りします。
四季を感じ、時代背景をとらえ旬の献立を考え抜きます。
接客
すべてのお客様を、心からの笑顔と感謝の言葉でお出迎えします。
お客様の行動や表情に気を配り一歩先回りをした行動を取ります。
常にお客様の立場にたって考え誠実な対応をします。
空気
細部まで清々しく徹底した清掃をおこないます。
身だしなみを整え心の姿勢を正します。
藩政時代より受け継ぐ金澤の豊かな文化をお伝えします。
浅田の約束
浅田はお客様と従業員にとって一番の料亭を目指します。
凛とした空気
そこはかとない美味しさ
心地よい余韻
非日常を感じる空間。
日本古来の伝統を重んじながらも過去に捕らわれることのない新しい料亭です。
人として磨かれる場や機会を提供し
浅田の従業員であることを誇りに思える会社にすると約束します。
 浅田屋の始祖 初代浅田屋伊兵衛は、萬治二年(1659) 加賀藩五代目藩主前田綱紀卿より、中荷物御用を命ぜられます。 これが浅田屋「江戸三度」の創始です。 江戸三度とは、月に三度江戸と金澤間を往復する加賀藩御用飛脚のことで、その後約二百年間、浅田屋は代々江戸三度を勤続いたしました。
 明治維新を翌年に控えた慶應三年(1867)、浅田庄平は江戸三度の免許を加賀藩に返上。加賀藩御用飛脚の棟取として永年培った体験を基に、旅人宿「浅田屋」を金澤市十間町で開業します。
 昭和四十六年(1971)、当時の主人浅田勝次は東京赤坂に加賀料理店「赤坂浅田」を開業。 この赤坂店が、青山店(1993)、名古屋店(2004)を生み出し今日に至っております。

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