かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた  Vladimir Alexandrov  2020.2.29.


2020.2.29.  かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた
2つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯
Black Russian    2013

著者 Vladimir Alexandrov 亡命ロシア人二世としてニューヨークに育つ。プリンストン大で比較文学の博士号取得。ハーヴァード大を経てイェール大スラヴ語・スラヴ文学科教授として長年ロシア文学を教えてきた。アメリカにおけるロシア文学研究の第一人者として知られる。著書に『アンドレイ・ベールイ――主要な象徴主義小説』(1985)、『ナボコフの異世界』(1991)

訳者 竹田円 東大大学院人文社会系研究科修士課程修了。スラヴ文学専攻
解説 沼野充義 東大大学院人文社会系研究科・文学部教授(現代文明論・スラヴ語スラヴ文学研究室)

発行日             2019.9.15. 印刷         10.10. 発行
発行所             白水社

プロローグ 生きるか死ぬか
1919年ロシア革命のさなか、オデッサに逃げてきたフレデリック一家はアメリカ領事の助けを得て船でコンスタンティノープルへ向かう
フランス軍がロシア革命への介入をやめて撤退を決断したため、ロシアからの難民がトルコへと向かう
フレデリックはロシアですべてを失い、コンスタンティノープルで再起を期す

1.      南部のなかの南部
南北戦争後の1869年、フレデリックの両親ハナとルイスはミシシッピ州北西部のデルタで相続人のいなくなった200エーカーの農場を落札、黒人土地所有者となる ⇒ 郡内230余りの農場のうち、黒人所有は6つ。3年分割、20ドルという格安で購入し、初年度で綿花を主に5100ドルの収穫を得て、最も成功した黒人家族の仲間入りを果たす
続く15年間、デルタ経済の上下動に合わせて土地の売買を繰り返し、86年には625エーカーまで拡張していたが、親密にしていた白人地主に裏切られ、白人社会から恨みを買っていると嘘をつかれて着のみ着のままで放り出される。白人地主の政敵の弁護士の助けを借りて地主を提訴、1審では勝って土地を取り戻したが、控訴が続く
ルイスはメンフィスに移り住み下宿屋をやったが、下宿人の夫婦喧嘩に介入したため夫の恨みを買って惨殺され、ハナが後を引き継いで訴訟を継続
1890年父親の死の直後、フレデリックはメンフィスを出て独立

2.      フレデリックの修業時代
10年間は世界を広く旅する
最初はアーカンソー州、次いで全米第4の都市セントルイスへ、次が人口110万の第2の都市シカゴ。人口の78%が外国生まれか両親が外国生まれの2
シカゴで最も繁盛していた花や果物を売る店の「ボーイ」で、フレデリックのその後の生活と職業人生の雛形となる ⇒ 金と地位のある人々のために存在する、いわゆる高級サービス産業の世界に入る
花屋のあとが給仕で、人種差別的な就労パターンのために黒人が就職できたごく限られた仕事の1つであり、当時シカゴでは、全黒人人口の1/3が家事奉公を始めとするサービス業に従事。幸運だったのは、当時シカゴで最も評判の新しい建物であるオーディトリアム・ホテルのレストランに職を得たことで、その後もシカゴのレストランを渡り歩く
1893年、シカゴ万博の途中、「1893年恐慌」の直前にシカゴを去って、人口150万のニューヨークに移り、ブルックリンのクラレンドン・ホテルのベルボーイ長の職に就く(21)
数か月で辞める時には地元の著名な実業家でNY地域最大のヴォードヴィル劇場のオーナーとなるパーシー・ウィリアムズの身の回りの世話をする従者となる
短期間で、予てからの夢であった音楽の道を志すためにアメリカを飛び出しイギリスへ
イギリスは、人種的偏見と無縁の聖域ではなかったが、黒人、なかでもアメリカ生まれのニグロは珍しく、驚くほど寛容で、訪英するアメリカ人を驚かせた。大学の舞踏会で黒人が貴族の娘や高い身分の奥方と踊っているのは珍しくなく、肌の色が不利どころか目新しさのために有利になりさえした
ロンドンに到着後音楽院への入学を申請するが、学校で働きながら学ぶことで授業料と生活費の免除を願い出たが却下され、恐らく実母からの仕送りを元手に下宿屋を始めるが、ほどなく95年パリに移動
フランスは、イギリス以上に黒人に寛容どころか、黒人が奇跡と思うほど進歩的。数か月ごとに違う都市で働きながら、たくさんの国境を越えて旅する。パスポートは不要
96年、カンヌの有名ホテル、オテル・デザングレに雇われ、リヴィエラでそのシーズンのメートル・ドテル(ホテル・レストランなどで客を出迎え見送るまですべてのサービスを監督する責任者)に抜擢されるが、その後も旅を続ける
98年、モナコのオテル・ド・パリのメイドをしているときにアメリカ人の著名な新聞記者ドライスデールと遭遇、ドライスデールはフレデリックに好意、と言っても無意識の家父長的な人種差別に染まった好意を抱く
99年、ロシア人に給仕として雇われ、必要なパスポートとビザを取得したが、その過程でロシアの反ユダヤ主義という偏見に出遭って、ほかのヨーロッパで経験してきたのとは全く異なる帰属意識を味わう。ロシアでは、フレデリックは明らかに、蔑まれ虐げられている少数派の1員ではない者となる。その違いは、どの国の大多数の白人よりもアメリカ生まれの黒人の心に突き刺さったはず

3.      モスクワにまさるものなし
ロシアでは外国人の乳出国が厳しく管理されているほか、汽車の軌道も幅が異なり、暦もユリウス暦(グレゴリオ暦に比べ12日遅い、1900年からは13日遅れに)
フレデリックは、サンクトペテルブルク、モスクワ、オデッサを旅して歩き、各町の感触を得、最終的にはモスクワに落ち着く
100万を超す人口の中で黒人は10人に満たず、人種的偏見に一切遭遇することなく自由に職業を選ぶことができた ⇒ あちこちで転々と働きながら1年後にはドイツ人女性と結婚、次々に子供を設ける。結婚に際してカトリック教徒として申請、アメリカ文化の旗印を捨て、国際的なヨーロッパ人に生まれ変わる決定的な一歩を踏み出した
03年、アクアリウムという娯楽庭園のメートル・ドテルとなる ⇒ 上流の富裕層を対象にしたナイトライフの中心地で、フランス人経営者に雇われ、出世の階段を駆け上がる
南北戦争から戦後にかけて友好関係にあった米露は、専制的な絶対君主制への嫌悪と、ユダヤ人待遇への反感から、アメリカの世論はロシアに背を向け始め、フレデリックが暮らしている国は、生まれ故郷の国で悪しざまに言われるようになっていった
ロシアは、日本との戦争に負けたこともあって、全土に騒乱の波が広がり始める ⇒ 労働者や学生、農民がストライキを行い、戦闘団がテロに走る
05年第1次ロシア革命で、アクアリウムも騒動の中に巻き込まれ、深刻な打撃を受けたが、その間フレデリックはモスクワから離れていた可能性が大
07年には、モスクワで最高級のヤール・レストランのメートル・ドテルに就任
09年、3人目が生まれた1年後に妻死去、享年34
革命の動きが小康状態になって景気が回復したのを見て、フレデリックは自ら事業を起こす道を進む決断をする

4.      最初の富
1911年、アクアリウムの再建を2人のロシア人パートナーとともに引き受ける
自らを「フョードル・フョードロヴィチ・トーマス」と名乗り、外国語を駆使して興行師としてヨーロッパの大衆演芸を呼びに行く
アクアリウムの敷地で売春を奨励したことはなかったが、色事を好む人たちが気軽に楽しく公序良俗を棚上げできるエロスの園とでもいったものになり、大好評を博して初年度から黒字を計上。ロシアの一流興行師たちの世界に続くレールを走りだした
13年には、街のど真ん中にある経営破綻した庭園付きの劇場シャンテクリアの再建を、今回は単独で引き受け、マキシムと名を変えて開業 ⇒ 3つもの協会がある地域でのナイトクラブの開業に反対の声が上がったが、地元の有力者を懐柔して僅か5日遅れで開業を成功裏に導き、以後革命までモスクワでも最も人気があって繁盛した店となる
13年、子供の世話係として雇っていたリガの女性と再婚。並行してドイツ人の踊り子とも付き合い、2人の息子を設け、18年には結婚し最後まで苦楽を共にする
12年秋、20世紀初頭、「地球上最も有名で、最も悪名高いアフリカ系アメリカ人」と呼ばれていた「ジャック」・ジョンソン。当時世界で最も人気のあった観戦型スポーツの頂点にあったボクシング世界ヘビー級チャンピオンを、客足の落ちる冬場の目玉にしようと考えた。当時白人のチャンピオンを撃破したために、白人社会から非難の的にされ苦境に陥っている黒人の同胞に救いの手を伸べようとして、大評判となったが、最終的にジョンソンがロシアに到着したのは14年後半。148月にはドイツがロシアに宣戦を布告しており、ジョンソンは荷物もそこそこに米国に帰らざるを得なかったが、2人の交遊は続く

5.      ロシア人になる
日露戦争後、ロシアの政局が不安定で停滞していたその時期は、工業、農業、商業全般が急速に発展した時代でもあり、これほど大勢の人がこれほど多くの金を稼いだ時代はロシア史上かつてなかったので、アクアリウムにしてもマキシムにしても、店に入るだけの金を持つ人は常にいて、フレデリックにとっては何も遮るものがなく順風満帆だった
サラエボの一発の銃声により10数か国で数百万人の命が失われ、数百万の人びとの生活が一変したが、フレデリックもその数百万の1
開戦後2週間もしないうちにフレデリックは運命の決断をし、ロシア皇帝の臣民になることを願い出る ⇒ 紙切れだけのアメリカ市民権より、この後数年間羽振りのいい生活が続くが、その後は遥かに深刻な脅威に直面し、わが身に跳ね返ってきた
申請から約1年後に承認された。人種は、書類では言及されたが、一度も問題にならず
ロシア国籍取得をアメリカ当局には隠していたし、ロシア当局もアメリカに伝えなかったため、アメリカ当局はフレデリックのアメリカ国籍離脱を気づかなかったため、4年後フレデリックがオデッサでロシアの革命から逃れるためにアメリカ市民権を正式に放棄した事実をひた隠すことで家族と自分の命を救い、31年彼の死の3年後には、ロシアで生まれた息子2人が父親の(存在しない)アメリカ市民権を楯にしてアメリカ人として認められた。されに、フレデリックは、2番目の子どもたちの乳母だった妻にロシア人になったことを隠していたため、妻は16年にアメリカのパスポートを更新した時にも認められている
不本意にもロシア国籍を申請した背景には、それまで緊密だった露独間の繋がりが、反ドイツ暴動でひっくり返ったことがある。皇后アレクサンドラは歴代皇后のようにドイツの公女だったし、ロシアの全輸入品の50%はドイツ製であり、輸出先の30%はドイツ
商売に最も打撃だったのは酒類の製造販売の禁止。特に法律はなく、開戦まではアルコール飲料販売の一連の規制、戦時には帝国全土でアルコール飲料の販売を禁止するという皇帝の「ご意向」によって、一時は「人類史上最大の改革」と呼ばれるほどロシアから酔っ払いが消えたとまで言われたが、古い習慣はすぐに復活。フレデリックも賄賂を活用して規制をすり抜け大儲けしている
成功が妬みを買い、モスクワでの排外感情の高まりとともに、かつてのパートナーからも激しい攻撃を受けるが、都度ロシア魂をアピールし続けることで見事に跳ね返す
戦争が2年目に入ると負傷兵が街にあふれ、戦争の様々な負担が興行師たちにものしかかり、劇場は時短、公式慈善団体への莫大な寄付の要求、増税等に見舞われたが、逆に娯楽や気晴らしに熱病のような空気が忍び込み、アルゼンチンで始まったタンゴのブームが世界的に拡大、ロシア人もタンゴに解放感を見出す。次いでコカイン中毒が蔓延
16年に入ると、フレデリックの店は相変わらず繁盛していたが、ロシアは悲惨な戦争への支持をやめ、反帝政のデモやストライキが頻発、ラスプーチンの悪行が火に油を注ぐ
フレデリックは、徐々に店を従業員たちに貸し出すなどして任せ、受動的な投資家に転身し始め、帝国滅亡の数日前にも街の中心部近くの不動産を大枚をはたいて購入。取引の相手がグラント大統領の孫娘の結婚相手の公爵だったのは皮肉

6.      喪失と逃走
19172月ペトログラードで革命勃発。すぐに各地に波及。帝政は瞬く間に帝国議会の穏健な改革派によって樹立された臨時政府に取って代わられる
フレデリック等の資産家たちは一種の無政府状態に戦慄したが、演劇界は政治的現実に素早く対応。フレデリック自身も旧時代の名誉の称号であり、ひときわ高い社会的地位を約束されたモスクワ「第1ギルド商人」の会員に認められるが、タイミングとしては最悪で、自ら金満ブルジョア資本家を証明するようなもの
ドイツは革命直後に、革命の熱狂を煽るために、スイスに亡命していたレーニンをペトログラードに送り込み、非力で国民の心も離れていく一方の臨時政府を攻撃
フレデリックは、モスクワ兵士代表ソヴィエトと手を組むべく動く
子どもたちの乳母とは、開戦とともに支援と政治が絡み合った毒々しいものに変化し、革命によってロシアの伝統的な規範が悉くひっくり返されると、まるでアメリカの白人女性のように夫を「ニグロ」呼ばわりし始め、遂には離婚に至る
ボリシェヴィキがプレスト=リトフスク条約を調印したことをきっかけに事態は一変、ウクライナの占領を開始したドイツはオデッサも支配下に収め、フレデリックは愛人と再婚し、息子をオデッサの別荘に避難させようとする。自身の許可書は却下されたが、家族のチケットだけは確保することに成功
フレデリックは、事業に専念し、新たな借り手を見つけて高額の賃貸料を手にするが、ボリシェヴィキ政権によって施設は国有化され、さらに国が行う接収とは区別がつかない武装集団の強奪によって、旧体制で手にした富は全て引き剥がされた
18年夏、命に危険が迫っていることを知ってモスクワを脱出、国境を越えてドイツの支配するウクライナのオデッサに到着。混乱の最中とはいえ、ロシアに比べればまだ自由があった ⇒ 1811月ドイツの降伏によって事態が一変。フランス軍がオデッサに駐留すると知って、ロシアからの難民は狂喜乱舞したのもつかの間、5か月後にはボリシェヴィキが連合軍を破ってオデッサに接近してくる

7.      コンスタンティノープルでの再起
フレデリック一家は、何とかコンスタンティノープルに到着、屈辱的な検疫所を経験したと、ホテルに落ち着き、ルーマニア人の音楽家の昔馴染みに出会い、ボスポラスの夜を征服しようと力を合わせることに合意。習い覚えたフランス語が役立つ
終戦により、連合軍はトルコの占領に着手し、英仏伊で分割統治 ⇒ 占領軍の軍人の多くは酒と女と歌が大好きな独身男性で、彼らが好むこういったものは、保守的なトルコのイスラム文化とは相容れなかったが、西欧化が進んだ鷹揚な地区は嬉々として彼らの欲望を満たそうとした。この手の商売を熟知していたフレデリックの出番が来て、もう一度一からやり直すチャンスが到来
19年夏、早速共同経営者を募り、高利だが資金調達も行い、アクアアリウムのような野外娯楽庭園を始める。たちまち人気スポットとなり、コンスタンティノープルのナイトライフの新時代が始まる ⇒ ジャズバンドの初公演を呼び込んで大成功、世界各地でのジャズ大流行のはしりとなったが、さらには当時始まったばかりのトルコ社会の革命的変革に寄与することにまでなるとは予見できなかった
19年、フレデリックは、ルーマニアで芸人を手配するために、アメリカ総領事館にパスポートを申請するが、白人の若い担当者は故意に申請書を本国に送らず宙に浮かせる。その間、事業は成功したが諸々のコスト高から経営は悪化するばかりで、借金問題に苦しめられる
20年初頭、連合軍がコンスタンティノープルの占領体制強化を打ち出し、ロシアでも白軍が再編され劣勢を挽回しだして、フレデリックが喜んだのも束の間、ロシア南部から黒海を渡ってくるロシア人避難民が急増、商売敵も現れ競争激化、アメリカ人の裁判権を管轄するアメリカ総領事館にはフレデリックの金銭問題に係る苦情が殺到して、厄介者扱いされる

8.      アメリカ市民権を求めて
20年秋、白衛義勇軍が赤軍に敗退、ボルシェヴィキにはさらに大勢のロシア人避難民が押し寄せる。所定の書類を持っているか否かで官憲の扱いがまるで違うのを見て、フレデリックは改めて音沙汰無しのアメリカ市民権申請の行方を調べると、本国からは人種差別的な表現を使いつつも、書類不備の指摘があり、国外滞在中にアメリカ大使館と領事館で住民登録の手続きをし、パスポートの延長を8回もやっているのに、本国にはその記録も残されていないという呆れるばかりの旅券審査の無能の証拠が出てきたが、現地の領事館では再申請を取り上げてもらえなかった
21年秋、ムスタファ・ケマル率いるトルコ国民軍が、連合軍の支援を受けてトルコを侵略したギリシャ軍を破ると、国内の不穏な空気が一気に広がる
フレデリックは、借金問題を片付けると、パスポートを再申請するが、ヨーロッパとロシアでの事業があって当面はアメリカに戻らないと正直に言ってしまったために、アメリカの保護に値しないと領事館が判断する
2111月、フレデリックが社運を賭けたマキシムが新たにオープン
22年には、コンスタンティノープルが地中海周遊クルーズの人気観光地として再び脚光を浴びるようになり、アメリカ人観光客が大挙して押し寄せ、街で最高のナイトクラブだったマキシムはさらに繁盛し、フレデリックは有名人となる

9.      ジャズのスルタン
22年後半、トルコを外国の侵入者から解放しようという抵抗運動が本格化
エーゲ海岸のスミルナ(現イスミル)を奪回し、アジア側国土を完全に取り戻した勢いをかって、ダーダネルス海峡の連合軍が「中立地帯」と決めた地域に侵入、一触即発の状態に
コンスタンティノープルの国際管理を定めた過酷なセーヴル条約の見直しが同意される
11月にはスルタン制の廃止が宣言され、メフメト6世はマルタ島に逃れ、イタリアのリヴィエラに亡命して余生を送る
237月、ローザンヌ講和条約締結、連合軍のコンスタンティノープルからの即時撤退が決まり、フレデリックはアメリカ総領事館の慈悲にすがる。マキシムの上客だった連合軍総司令官まで動員して国務省の決定を覆そうとしたが徒労に終わる
コンスタンティノープルの事態は恐れていたほどには悪化せず、フレデリックは国外追放にはならず、マキシムも差し押さえられなかった
23.10.29.トルコ共和国の建国宣言。首都アンゴラ(現・アンカラ)。初代大統領ムスタファ・ケマル(35年にはアタチュルク父なるトルコ人の名誉称号を贈られる
マキシムは、以前同様町の住民からも観光客からも人気で、しばらくは羽振りのいい時代が続くが、次第に外国人排斥と、イスラム化が進行。公営カジノの開設とも相まって、徐々に客足が遠のき、借金も嵩んだ275月、アンゴラに夜逃げするが、借金取りに掴まり逮捕、コンスタンティノープルの牢屋に拘禁、急性気管支炎?で病院へ移送、そのまま28年死去、享年55.町の墓地に埋葬されたが、墓の正確な位置は不明。ある新聞では彼をコンスタンティノープルの「ジャズのスルタン」と呼んだ

エピローグ 死者と生者
ドイツ市民権を取り戻そうとした3人目の妻はチェコまで逃げて夫の死を知る
パスポートがないためドイツへの入国は認められなかったが、歩いて国境を越え、5年かけて市民権を回復、33年にはトルコの息子たちの元に戻る
2人の息子は、アメリカの市民権を申請すると、今回はフレデリックの過去のパスポート更新の書類が見つかり、アメリカ市民として条件を満たしていることが認められ、2人にパスポートが発行されたが、渡航費に困り、38年漸くアメリカ商船に1名欠員が生じて乗船、以後2人と母親を含め消息は不明
フレデリックの5人の子どもの中でどん底の苦難を免れることができたのは、長男のミハイルのみ。プラハで農学を学ぶかたわらボクシングに熱中、大戦中はフランスのレジスタンス運動にも参加、戦後は映画俳優として脇役で生計を立て、87年パリで没。ミハイルの息子の1人が結婚した相手はセクシーな高級ランジェリーで世界的に有名はフランス人デザイナー、シャルタン・トーマスで、フレデリックの苗字であるトーマスの名は、世界中の多数の流行発信地に点在する彼女のブティックの名前の中に今も生き続ける

解説 境界を越え、歴史に抗って生きた「ロシアの黒人」――伝記文学と学術研究の化学反応  沼野充義
l  研究者から伝記作家への転身
著者はアメリカ生まれのロシア人。81年博士号を取得したばかりで、博士論文で取りあげたロシアの象徴主義作家アンドレイ・ベールイについて最初の著書をまとめようとしているところで、ハーヴァード大の授業ではナボコフの小説を扱っていた
亡命ロシア人家庭に生まれ、第2次大戦後まもなく幼児の頃アメリカに来てニューヨークで育つ。完璧なバイリンガル。プリンストン大大学院で比較文学を専攻、以後ロシア文学を中心に研究を続ける
その後イェール大に移り、北米きってのロシア文学者の1人として名声を轟かせたが、09年には研究所をプロダクティヴに書き続けるという学者としての「王道」を離れ、伝記作家に転身
本書は、伝記作家の物語の才能と、第一線の研究者の緻密さが理想的に組み合わさって、絶妙のバランスを保っている

l  「無名」の黒人の驚くべき冒険
全く無名の人物の伝記は珍しい
Black Russianとは、ウォッカにカルーアなどを使ったカクテルの名称と同じ題名
冒頭の章は、アメリカ文学ではスレイヴ・ナラティヴ(奴隷の物語)として確立しているジャンルに連なるもの。次いで放浪の旅の部分は「アメリカ黒人のヨーロッパ遍歴時代」として優に1冊の小説になる。そのあとがようやく本題のロシア

l  ロシアの「黒い白鳥」と広い魂
生涯を貫く1つの筋のようなものは、フレデリックが常に「黒人」という少数者の立場にあって、自分とは違う大多数の「白人」たちとともに仕事をして生きながら、差別を跳ね返し、むしろ少数者であることを長所と魅力に変えて生き抜いたということだろう
著者がフレデリック・トーマスという名前に初めて出会ったのは、トーマスと同様に亡命してコンスタンティノープルにいた歌手の著作の中でのことで、初めて聞く「ロシアの黒人として有名なフョードル・フョードロヴィチ・トーマス」という名前に驚愕
ヨーロッパの言語には「白いカラス」という慣用句があり、「あり得ないもの、際立って珍しいもの」を意味する表現で、しばしば、人並外れて優れているために孤立し、疎外される存在についても使われる。フレデリックの場合は、色を考えると「黒い白鳥」か
本書の魅力は、トーマスの波瀾万丈の生涯そのものであると同時に、彼の人物像を描き出す著者の筆致そのものにある。主人公を手放しで礼賛せず、至る所で彼の行動を貫いていたのが人間的な親切心や優しさだけでなく、抜け目のない計算でもあったことが繰り返し指摘されている。政治や宗教についてどんな考えを持っていたのか一切語られていないが、その代わり「冷徹な現実主義者」としての肖像がくっきり浮かび上がる
トーマスは「黄金の心」の持主であり、「ロシアの広い心broad Russian nature」で人々を魅了したが、「ロシアの心()」というのはロシア独自の精神文化に関連してしばしば使われる言い方で、それが西欧では「謎めいた」という形容とともにロシアの特徴として認識されることになった。「謎めいたロシア魂」は善良だが、極端から極端に走りやすく、異常なまでに幅が広く、普通だったら両立しないものを同居させる器量の大きさ、気前の良さを持っている ⇒ ロシアの広い「魂」は、アメリカ南部の黒人の「魂」と響き合うものではないか、と考える。「魂」という言葉を頻繁に好んで使うことで際立つのはロシア人とアメリカ黒人である、とすれば「ソウルフル」なアメリカ出身の黒人の魂が、「広い魂」の本場ロシアと出会った、その稀有な記録が本書であり、自分も亡命ロシア人である著者がトーマスに魅了されたのも、アメリカの黒人とロシア人に共通する「魂」ゆえだったのかもしれない


訳者あとがき



かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた ウラジーミル・アレクサンドロフ著
無名の米黒人 規格外の人生
日本経済新聞 朝刊 2019119 2:00 
原題=THE BLACK RUSSIAN(竹田円訳、白水社・4200円)
著者は亡命ロシア人二世として米で育つ。ロシア文学研究の第一人者。
1872年に米国南部ミシシッピの村に生まれ、20歳になる前に黒人差別を正当化する「ジム・クロウ法」のある祖国を離れ、ロンドン、パリ、その他ヨーロッパの観光地をレストランの給仕として働きながら旅して、黒人差別のないロシア帝国にたどり着く。そこで劇場主・興行師として財をなすが、ボリシェヴィキ革命が起こり、命からがらトルコ帝国へ逃げのびる。そこでも再び財をなすが、トルコ国民軍が立ちあがり……
たとえ無名であっても、主人公のフレデリック・ブルース・トーマスという人間が面白い。この男の人生には、語るべき波瀾万丈(はらんばんじょう)のエピソードが満載だ。持ち前の愛(あい)嬌(きょう)やルックスのよさに加えて、ロシアでは、カトリック教徒に改宗したり、フョードル・フョードロヴィチ・トーマスと改姓したり、皇帝の臣民となりロシアの国籍をとったりするなど、ロシアを自らの「故郷」とするような進取の精神があり、現実主義的な生き方ができる。
そうした規格外の男を歴史の闇の中から「発掘」した著者自身も、亡命ロシア人の子で、ナボコフやベールイをはじめとするロシア文学の優れた研究者だというが、伝記作者としても超一流だ。
というのも、主人公だけでなく、すでに100年以上前の「歴史」が、まるで私たちの目の前にあるかのように、活写されているからだ。
南部の農地の匂いや、モスクワの教会の鐘の音による「交響曲」や、コンスタンティノープルでの、祈りの時刻を告げる寺院からの呼び声など、「風景」の秀逸な描写によって、この都市たちも主人公として浮かびあがる。
ヨーロッパとアジアの接点であるトルコ国境地帯では、いまなおクルドの民をはじめ、難民問題が絶えない。
戦争や紛争によって、故郷にいながらにして少数民族が難民化するのが現代の特徴だとすれば、フレデリックが巻き込まれる生涯の旅は、まさに時代の動乱によって故郷を追われる旅であり、現在の難民と同じである。
本書が読まれるべき本当の理由はそこにある。
《評》明治大学教授 越川 芳明
著者は亡命ロシア人二世として米で育つ。ロシア文学研究の第一人者。


好書好日 2019.12.7.
かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた [著]V・アレクサンドロフ
 フレデリック・ブルース・トーマスという黒人がいた。1872年生まれ。アメリカ南部の黒人解放奴隷の子どもとして生まれ、父親を惨殺されたあと、18歳で家を出る。シカゴ、ニューヨーク、そして、欧州に渡り、高級ホテルのベルボーイや給仕として研鑽を積み、エンターテインメントの世界に足を踏み入れていく。
 20世紀初頭のモスクワで、アクアリウム庭園という遊びの場を演出し、富を築くが、ロシア革命でオデッサからトルコへと逃げる。この事件ですべてを失っても、トーマスはあきらめない。コンスタンティノープルで、人々の娯楽にジャズを導入し、またもや大成功を収める。欧州では、黒人差別はそれほどでもなかった。それにしても波瀾万丈の生涯。何があっても七転び八起きの精神には脱帽するほかない。
 この無名の黒人興行師を発掘し、これほどの読み物に仕立て上げた著者にも脱帽である。
長谷川眞理子(はせがわまりこ)総合研究大学院大学学長
 東京生まれ。専門は、自然人類学、行動生態学。著書に『ダーウィンの足跡を訪ねて』『科学の目 科学の心』『生き物をめぐる4つの「なぜ」』『クジャクの雄はなぜ美しい?』など。


元奴隷の家に生まれ、ロシアで高級レストランのオーナーに登りつめた黒人の生涯
ピーター・フランクルが『かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた』(ウラジーミル・アレクサンドロフ 著)を読む
 僕はフレデリック・ブルース・トーマスという名前を、彼の非常に面白い生涯を描いたこの本を手に取って初めて知った。フレデリックは明治初期に当たる一八七二年に米国南部で元奴隷の家に生まれた。差別と偏見の下で力強く生きた彼の人生を辿りながら、脳裏には常に我が祖父アーロンがいた。1880年旧オーストリア・ハンガリー帝国南部でユダヤ人一家に生まれたアーロンと黒人のフレデリック、彼らの差別に対する対処法は対照的だ。
 南北戦争で勝利した北軍は一応奴隷制度に終止符を打ったが、人種差別的な全ての法令が撤廃されるまでには更に100年かかった。奴隷解放後はフレデリックの両親の懸命な仕事ぶりが実を結んで地主になったが、差別的な白人の脅しに屈してその土地を去る。18歳の彼は黒人にもっと住み良い場所を求めてシカゴに出た。当時は世界中から米国に移民する人が多かったが、差別から逃れたい一心でヨーロッパへ渡って、二度とアメリカに戻らなかった。それからロンドンやパリでの経験を活かして、黒人に対する差別が全く無かったロシアで成功して高級レストランのオーナーになる。
 一方のオーストリア・ハンガリー帝国は名実ともに多民族国家であり、各民族に市民権を与えた。差別や偏見が消えたわけではないが、ユダヤ人にとっては初めて体験する法の下の平等であり、他国からも多くのユダヤ人が移住していた。アーロンは父の許しを得ずに一文無しで首都ブダペストに行き、赤貧の学生時代を経て地方都市の医者になった。
 二人とも結婚して子どもも授かって順風満帆に見えたが、第一次世界大戦が勃発し、戦争のせいでロシアもハンガリーも社会の混乱が続く。財産全てを失ったフレデリックは、かろうじて黒海を渡ってトルコに逃げることができた。イスタンブールでも成功したが、連合軍が撤退した際に民族主義が強まり、黒人であることが理由でアメリカのパスポートを手に入れることができず、1928年に一文無しで獄死した。
 一方、戦場に送られたアーロンは軍医として無数の負傷兵の腕や足を切断した。敗戦後のハンガリーでは反ユダヤ主義が強まり、家は放火され全焼。息子(僕の父)に「アメリカに亡命しよう」と勧められたが応じず、結局、妻とともに収容所で銃殺された。
 父から祖父の話を聞いた僕は、フレデリックの道を選んだことになる。親元と祖国を離れて安住の地を求めて放浪した末、ユダヤ人差別がない日本に辿り着いた。
 祖父アーロンの生き方も立派だったと思うが、僕にはやはりフレデリックの冒険精神に満ちた波乱万丈の人生が魅力的に思え、彼の人生を追体験しているようで、ワクワクしながら徹夜で読破した。大勢の人に読まれることを心より望む。
Vladimir Alexandrov/作家、ロシア文学研究者。亡命ロシア人二世としてニューヨークに育つ。プリンストン大学で比較文学の博士号を取得。ハーバード大、イェール大の教授を歴任。

Peter Frankl
1953年、ハンガリー生まれ。数学者、大道芸人。『数に強くなろう』『ピーター流生き方のすすめ』など著書多数。


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