分かれ道  Judith Butler  2020.3.10.


2020.3.10. 分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判
Parting Ways           2012

著者 Judith Butler 1956年オハイオ州クリーブランドのユダヤ系コミュニティに住むシオニスト色の濃い一家に生まれる。カリフォルニア大バークリー校教授(修辞学、比較文学)。社会の性差別構造を告発してきた高名なフェミニスト

訳者
大橋洋一 日本の英文学者、東京大学名誉教授。名古屋市生まれ。愛知県立明和高等学校卒業。1976東京教育大学文学部卒業。79年東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了、同大学助手、81中央大学専任講師、83学習院大学文学部専任講師、85年助教授、94年教授、96東京大学大学院人文社会系研究科助教授、99年教授。2019年定年退任、名誉教授となる。2007―09日本英文学会会長。
本来の専攻はシェイクスピ筒井康隆の『文学部唯野教授』に材料を提供したとされ、そのモデルとも言われる。研究対象は次第にフェミニズム、ゲイ文学、サイードなど左翼的な方向に移る。イーグルトン『クラリッサの凌辱』の訳者解説では、西部邁による『屋根裏の狂女』の書評が朝日新聞に載ったことを非難し、最近では前英文学会会長・高橋和久が、サイードがいたためにナイポールの評価が遅れたと発言したことを批判している(『文学』20021112月号)
岸まどか アメリカ文学研究者。バトラーはじめジェンダー理論、文化理論にも詳しい

発行日           2019.10.25. 第1刷印刷     11.5. 発行
発行所           青土社


はじめに――自己からの離脱、エグザイル、そしてシオニズム批判
本書の完成は、明確な解答などない困難な課題に対処しえたかどうかにかかっていた
イスラエル国家に対する、いかなる、そしてすべての批判は実質的に反ユダヤ的であるという主張を突き崩そうとする本として執筆が始まる
国家暴力や、住民に向けた植民地主義的制圧、住民の追放や権利剥奪などを批判できるようなユダヤ的文化資源があると証明できれば、イスラエルの国家暴力に対するユダヤ的批判が可能であることの証明になる
非ユダヤ人との共生を巡るユダヤ的価値観が存在すること、しかもそれは離散ユダヤ性のまさしく倫理的根幹になっていると証明するなら、社会的平等や社会正義の実現に関与することは、ユダヤの世俗的・社会主義的・宗教的伝統の不可欠な一部となっていたと結論を下すことができるだろう
社会正義を求めるユダヤ人の闘争そのものが、反ユダヤ的という烙印を押されかねない風潮を打ち破らなければならない

第1章        不可能で必要な責務――サイード、レヴィナス、そして倫理的要請
第2章        殺すことができない――レヴィナス対レヴィナス
第3章        ヴァルター・ベンヤミンと暴力批判論
第4章        閃いているもの――ベンヤミンのメシア的政治
第5章        ユダヤ教はシオニズムか――あるいはアーレントと国民国家批判
第6章        複数的なるものの苦境――アーレントにおける共生と主権
第7章        現在のためのプリーモ・レーヴィ
第8章        「エグザイルなくして、私たちはどうしたらよいだろう」――サイードとダルウィーシュが未来に語りかける

訳者解説        岸まどか
著者は、90年の『ジェンダー・トラブル』や93年の『問題=物質となる身体」などによって、セックス・ジェンダー・セクシュアリティというアイデンティティ・カテゴリーの一見した連続性と物質的事実性の言説的捏造を仮借なく晒しだし、またそうしたカテゴリーの境界を力強く揺り動かしながら、以降四半世紀以上にわたりポスト構造主義フェミニスト哲学とクィア(同性愛?)・スタディーズの議論を牽引してきた論客の1人。同時に2000年前後からアクチュアルな政治状況により密着した形で、哀悼と生存の政治の在り方を模索してきた。9.11以降の「対テロ戦争」のロジックが防衛機制的に覆い隠し滅却しようとする自己と他者の生の根源的な傷つきやすさを、危うさを、そしてそれがいかに異なる人口集団の間で制度的に不均衡に配分され、維持され、諸規範に則った生を営まない/営めない者たちの生の喪失を嘆くことはおろか認識することすら不可能にしてきたかを、繰り返し思い起こさせてきた
本書において著者がまなざすのは苛烈な暴力の連鎖の中にあるパレスチナ・イスラエルの地であり、そこでも彼女は根源的な生の危うさを共通の基盤とした協同の政治を、パレスチナ人・ユダヤ人が共生する2民族主義の可能性の中に模索する。パレスチナ人に対するイスラエルの国家暴力に著者が対峙するとき、彼女はまた自らを形成してきた「ユダヤ人」というアイデンティティ・カテゴリー自体を粘り強く問い直すことになるのだが、それと同時にこの地を排他的なユダヤ人主権国家とすることを目指すイスラエル国家の思想基盤をなすシオニズムに対して「ユダヤ的」批判を行うこととなる
近代におけるシオニズムは19世紀末、ヨーロッパ及び帝政ロシアで反ユダヤ主義が熾烈化する中、ユダヤ人が迫害を逃れ「帰郷」すべき故郷を「シオンの丘」、パレスチナ地方のエルサレム周辺に建設することを目指す運動として始まった。
1次大戦後、パレスチナ地方が英国委任統治下に置かれると、この地を巡る情勢は一挙に複雑化、17年英国政府とシオニストの間で取り交わされたバルフォア宣言によって英国がパレスチナにおけるユダヤ人の民族的郷土の建設の支持を表明して以降、ユダヤ人のパレスチナ移民は増加。30年代以降ナチス政権下の迫害によってさらにパレスチナに向かうユダヤ人難民の数が増加し、現地のアラブ民族との間で衝突が頻発。第2次大戦後、国連によるパレスチナ分割案決議の後に英国が委任統治から撤退した48年、イスラエルの建国が宣言されたが、直ちに第1次中東戦争を誘発、暴力的に土地を追われイスラエルによって帰還権を認められずに難民となったパレスチナ人の数は75万人に上る
パレスチナ人にとっては「ナクバ=大破局」であり、以後70年にわたって未解決
87年、「石の革命」として知られる第1次インティファーダ=民衆蜂起を導き、93年にはイスラエルとPLOの間のオスロ合意によりパレスチナの暫定自治が認められたが、力の不均衡が露呈した7年後の00年には第2次インティファーダにより、イスラエルによるパレスチナ弾圧とそれに対するパレスチナの抵抗運動が過激化。06年にパレスチナ選挙ではマース政権になるとますます対立が先鋭化
18年に至っても、パレスチナ人居住区の封鎖の解除と、500万人を超えるという難民の帰還を求めるデモに対する苛烈な武力弾圧が続く
生の危うさが生々しく剥き出しにされるパレスチナ・イスラエル情勢を前に本書を執筆するが、原題は、長くともに歩んできた相手と別れ、別の道を行く、という意味を持つ。著者がそうした訣別を告げる直接の対象はシオニズムだが、どこかやるせない哀惜を、そしてそれでもなお袂を分かつほかないという覚悟を響かせる
著者の苦境は、一つには、シオニズムとイスラエルの国家暴力に対する批判があまりにも頻繁に反ユダヤ主義と結びつけられ、そしてその批判がユダヤ人によってなされた場合には、その者のユダヤ性に疑義が突き付けられるという事態から生ずるもの。実際、12年に複数のイスラエルのユダヤ人批評家たちが、イスラエルに対するBDS=boycott,
divestment投資引き上げ, sanction制裁運動を支持する著者に対してアドルノ・プライズが授与されることを巡って抗議を行い、その中で著者が反ユダヤ主義の道具と揶揄されている。著者自身、シオニスト色の濃い家に生まれながら、サイードらによるイスラエルの国家暴力批判に同調して、シオニズムとの繋がりから自らを引き離すようになった経歴を持つことが、本書の表題にも表れている
本書は、著者の「形成と断絶を巡る間接的な記録」であり、それが「同様の葛藤を経験してきた他の人々にとっても有益であることを」希求すると言っている
それぞれの章の中で、自らを育んできたユダヤ思想、ユダヤ人思想家、そしてパレスチナ人思想家の著作と四つに組み合い、ユダヤ性とは何かを徹底的に問いながら、イスラエルの国家暴力に異を唱え続ける。シオニズムに対するユダヤ的批判の可能性をユダヤ性の内部から追い求める
パレスチナ・イスラエルの政治に照らして言えば、著者が追い求めるのは1国家解決One State Solution。国際政治が模索するのは、現在のイスラエルが存在する土地を分割し、ユダヤ人とパレスチナ人にそれぞれの国家を樹立させる2国家解決だとすれば、著者が可能性を模索するのは、2民族主義に基づく1国家解決で、両民族が1つの地に共生する政体を目指す。そのためにはユダヤ人のみに「帰還権」を認めるイスラエルの思想的基盤としてのシオニズムを解体するための足掛かりを提示しようとする
1章では、エルサレムにパレスチナ人として生まれ、生涯にわたって故郷喪失者として帝国主義とイスラエルの国家暴力に抵抗し続けたサイードを取り上げる。サイードは、アラブ人であると同時にユダヤ人である存在としてのエジプト人モーセをユダヤ教の始源に想像すると、モーセを通して描かれるのは、ユダヤ性の基盤とされるユダヤ教の起源そのものにすでにアラブ性とユダヤ性とが分かちがたく結ばれているということで、根源的なユダヤとアラブの混淆性は、パレスチナ・イスラエル問題の根底にあるユダヤ対パレスチナというアイデンティティの2項対立そのものを揺り動かし、両民族を分かち、それぞれに主権国家を与えるという解決策はもはや立ち行かないとする
2章では、シオニスト的政治に与するレヴィナスを取り上げる
3章では、ベンヤミンの暴力批判論を考察。ベンヤミン自身はシオニズムに対する立場を明確にすることを回避し続けたが、著者はベンヤミンの「法的暴力」批判と、この暴力に対抗するものとしての「神的暴力」の概念に、国家暴力とそれを裏書きする法への抵抗可能性を見出す
4章では、シオニズムの完遂をメシアの訪れに結び付けるような目的論的歴史観に抗い、過去に散逸する苦しみの記憶のかけらを現代において想起する政治を呼び起こす
5章では、アーレントの思想的変遷を辿りながら、アーレントにとってユダヤ性とは、そしてある種の信仰喪失の時代に世俗的ユダヤ人であるということは、何を意味するのかを問う。30年代にファシスト政権下のヨーロッパにおけるユダヤ人の無国籍状況に関する分析を中心的に行ってきたアーレントは、ユダヤ的状況から離れ、国民国家が必然的に難民と無国籍者を生み出す構造そのものを検討するようになる。そして彼女の打ち出す無国籍者の権利を中心とする政治は、彼女をイスラエル建国と、その無国籍者・難民を産出し続ける政策に対する徹底した批判に導いた。彼女に対しては、「ユダヤ民族に対する愛の欠如」という難詰が向けられたが、イスラエルのナショナリズムに対する彼女の批判は、彼女自身が経験したナチス・ドイツ政権下での強制退去の経験から導出されたもの
6章では、アーレントにおける複数性と共生の可能性をさらに追究するが、それは共生の困難を正面から受け止めることでもある。異なる者同士の共生は、目指すべき政治であるだけでなく、私たちの存在条件そのものだともいえる。著者が注目するのは、アーレントが63年のアイヒマン裁判で、死刑判決自体に異を唱えることはなかったが、法廷の判断の過程を痛烈に批判。アーレントの下す判決はいかなる実定法にも依拠しない。彼女にとってアイヒマンの罪とは、共生の非選択性を否定して一部の人口を殲滅しようとしたことに加えて、彼が悪法に盲目的に服従してジェノサイドを行ったこと、さらには彼が思考し損ね、判断し損ねたことだという
7章では、ホロコーストを巡る記憶と物語の間の緊張関係を探りながら、その苦しみに語りを与えようとする行為が、現代における倫理的・政治的枠組みに寄与し得る可能性を問う。ホロコーストの生存者である作家レーヴィを取り上げる。イスラエルに対するあらゆる攻撃が「事実上のナチス」によるユダヤ人虐殺の企図に擬えることによって、イスラエルの軍事行動を正当化するために利用される一方、反ユダヤ主義に根差したイスラエル批判にも、「イスラエル国が今やトラウマ的にナチス政権を模倣している」との企図が見られる。かかる状況で私たちは何をするべきか――すべての迫害の歴史は、特殊で異なるものとの認識を明確にし、異なるものであるからこそ、いつでもどこでも起こりうるのであり、そこからはじめて、いかなる迫害も阻止されるべきだという政治が導かれる
8章では、サイードとその友人であるパレスチナ人詩人ダルウィーシュを取り上げ、故郷喪失という別離を受け入れることなくして、連帯を生きることは不可能だという

イスラエルを巡る問題が、単に2つの民族間の関係に留まりようがないのは、イスラエルの建国とアクバ、それに続く70年余りの暴力の歴史が諸外国の政治に翻弄されるものであり続けたことから明らかであり、無関心を装った関与の否認自体が倫理的問題であることも間違いない。「考えないことの帰結は、ジェノサイド的である」

訳者あとがき            大橋洋一
イスラエル政府の自己防衛の名のもとに継続されるパレスチナ人への暴力的政策は、即刻停止すべきものであり、批判の声を抑えるのは困難
著者のシオニズム批判の議論は、力強く緻密で、首尾一貫している
同じユダヤ人思想家として内部からの告発する姿勢は、自虐的裏切りという批判を覚悟の上だろうが、一読すればそのような批判は不適切だとわかるのは、著者がパレスチナ問題の倫理的解決への示唆としてユダヤの知的精神的文化遺産について熱く語っているから
パレスチナ問題への最も重要かつ深い示唆をユダヤ的精神文化遺産が与えてくれることを、レヴィナス、ベンヤミン、アーレント、レヴィの緻密な読解を通して立証するに留まらず、ユダヤ思想に貢献する精神的文化遺産を、イスラエル政府支持のためのイデオロギー的支柱としてではなく、イスラエル政府の暴力を批判する根拠として提示している










(書評)『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判』 ジュディス・バトラー〈著〉
2020125 500分 朝日
写真・図版
 自己切開の痛み伴う、思想的格闘
 世界各地に離散し差別され続けたユダヤ人は、学問と金融という対照的な二つの領域に活路を見いだした。とりわけ前者で彼らが大きな足跡を残せたのは、そこに「翻訳」可能な論理があったからである。非西洋・後発国として、国づくりを急いだ近代日本人が依拠した種本に、ユダヤ人の著作が多かったのは偶然ではない。しかし、同時代のユダヤ人著作者アーロン・マルクスは、ユダヤ人には自らの精神的伝統との関連を「部外者にはわからなくする固有の技術」があった、と指摘している。彼らなしには成り立たない現代文明には、翻訳困難なユダヤ性が抜き難く伴っている。我々にはそれがわからないだけなのである。
 しかも、反ユダヤ主義の高まりのなかで1897年の第1回シオニスト会議に参加した、マルクス自身がそうだったように、ユダヤ性のなかに本来的にシオニズムが埋め込まれているのだとしたら、事柄は一層深刻である。離散するユダヤ人たちは、ナチスによるユダヤ人虐殺の体験を乗り越え、イスラエルを建国したが、それはパレスチナ住民の虐殺・離散と引き換えだった。ナクバと呼ばれるその悲劇は既に70年も継続し、欧風の立憲主義国家イスラエルが、同時に中東地域の火種であり続けてきた。トランプ政権の親イスラエル性も、対イランの強硬姿勢に連動している。この問題を解決しない限り人類に明日はないだろう。
 活路は果たして存在するのか。これを正面から問うたのが、ジュディス・バトラーの『分かれ道』である。社会の性差別構造を告発してきたこの高名なフェミニストは、同時に自らのユダヤ性と闘ってきた人だ。ユダヤの信仰と文化のなかで育ち、ナクバの加担者側に立つ自身を直視する彼女は、サイードやダルウィーシュといったパレスチナの目線を共有しながら、自らに知的養分を与えてくれたユダヤの知的巨人たちと格闘する。ベンヤミン、アーレント、レヴィナス、そしてプリーモ・レーヴィ。彼らとの対決は自己切開の痛みを伴う。それが本書に独特の凄みを与えている。
 リベラル派=社会契約説の想定とは異なり、ユダヤ人にとっては、他者との「望んではいない近接性」と「選んだわけではない共生」が、存在の前提条件である。バトラーは、そうしたユダヤ性を反転させ、「翻訳不可能なもの」に左右されず「同化吸収」を前提としない、「他者」との応答性を基盤とする「倫理的関係性」を追求する。「国民国家」や「等質的国民」を解体しつつ、「植民地主義的征圧」を清算せぬままの「二国民主義」をも批判する。日本とその周囲世界にとっても示唆的な本だ。
 評・石川健治(東京大学教授・憲法学)
     *
 『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判』 ジュディス・バトラー〈著〉 大橋洋一、岸まどか訳 青土社 4180円
     *
 Judith Butler 56年生まれ。カリフォルニア大バークリー校教授(修辞学、比較文学)。著書に『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱(かくらん)』『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学』など。


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