聞き書 緒方貞子回顧録 緒方貞子 2020.3.7.
2020.3.7. 聞き書 緒方貞子回顧録
著者 緒方貞子
編者
発行日 2015.9.10. 第一刷発行
発行所 岩波書店
はしがき 緒方貞子
自分の人生は振り返らないが、いつのころからか、自分がどういう時代の中で、どういう仕事をしたことになるのか、確認してみたいという漠然とした希望を持っていた
国連難民高等弁務官を退任した時、米フォード財団から時間と場所を提供するとの申し出あり、UNHCRの体験を回想録として執筆できた
その後さらに10年活動し、全体を俯瞰することはほとんど不可能と思っていた時に、岩波からインタビュー形式での回顧録という話があり、私の生い立ちから現在に至るまでの活動を通して、時代の流れ、世界が抱えている深刻な問題、日本の国際社会との関わりの一端を、後の検討のために残すことに意味があるのではないかと考えた
読み返してみてあらためて気付かされたこと
1つは、自分から手を挙げて始めた仕事はあまりなかったということ。現場に飛び込んでみるフットワークの軽さ、楽天性が助けになって、次第にそれぞれの仕事が転職のように感じられて全力投球することになった
次いで、世界が大きく変動する中で仕事をしてきたのだという感想。多くの方と苦境を乗り越えるためにともに取り組んだことは誇りであり、具体的な政策や新しい行動の多くは、実は現場の知恵から生まれたという思いが強い。新しい政策枠組みとしての「人間の安全保障」という考え方も現場からの説明や報告、助言を基礎に組み上げられたもの
さらには、実務にあたりながらも、他方で研究者の目でも日々の出来事や政策の作られ方を見ていたようだ ⇒ 私のものの考え方にとって大きかったのは、米国留学で、世界を見る私の感性にまで大きな影響を与えた
最後に、日本外交についても考えさせられるところがあった ⇒ この70~80年で日本は国際社会で責任ある行動をとれる国になったのか。日本国内の政治における関心のあり方、問題意識、行動のスピード感が、国際社会の動向と開きがあると感じることが一再ならずあった。豊かで安定してはいるが、日本は政治のみならず、経済、社会、教育まで大きな課題を抱え、その課題への向き合い方がよく見えなくなっているように感じることがある
本書は、編者2人とのインタビュー記録に私が全面的に手を加えたもの
私の活動を通して、時代の様相や日本と国際社会との関わりが垣間見え、日本の今後を考える手掛かりになれば、望外の幸せ
第1章
子どもの頃
生まれたのは霞町22番地の芳澤謙吉の家
祖父の芳澤は、犬養毅の長女・操と結婚、後に犬養内閣の外相
父・中村豊一は大阪出身、三高から東京帝大卒、外務省勤務で、芳澤の長女・恒子と結婚
30年サンフランシスコ、32年ポートランド、35年福州、36年広東、37年香港、39年帰国。43年父がフィンランド特命全権公使となるが単身赴任
45年3月軽井沢に疎開。「泉の里」の芳澤の別荘地に家を建てていた。三笠ホテルにあった外務省の分室に勤務。終戦後のしばらくは軽井沢に滞在
父は、47年から特別調達庁の副総裁で、アメリカからの調達要請に応じて駆けずり回った
第2章
学生時代
疎開先から戻って聖心の専門学校に入り、48年の学制改革で大学に昇格、その1期生として文学部に入り、哲学と歴史学を学ぶ
51年卒業、すぐにジョージタウン大に留学。外交史で修士号を取得して53年帰国
東大法学部の岡義武の日本政治史研究室に入り、国際政治学の理論の勉強のためには留学がよいと勧められ、55年UC Berkeleyの博士課程に進む
ある政策が生まれるときの国内外の環境、決定過程、結果との相互連関がモデル化されていて、政策決定の全体像を把握するのに役立ち、私の研究者としてのプロセス全般に大きな影響を与えた ⇒ 政治や組織を考える上での発想、考察の基点となる
58年、父が倒れたのを機に帰国
第3章
満州事変研究
帰国中に片倉日誌(満州事変機密政略日誌)と出会い、博士論文のテーマとして考えた「日本がなぜ戦争へ至るような拡大主義的な政策をとるに至ったのかということを、政策決定過程論を使って解明する」という目的に符合するものとして、満州事変研究がスタート
事変当時関東軍参謀の片倉大尉(のちに陸軍少将)の日記(31年9月の奉天事件(柳条湖事件)~32年3月溥儀執政就任)で、写しを直接本人から借りて内容を写し取る
63年、博士論文提出。66年には『満州事変と政策の形成過程』と題して日本でも出版
60年、緒方四十郎と結婚 ⇒ 英国大使館が留学帰りの若者を集めて定期会合を開催していた時の仲間の1人で、当時日銀大阪支店勤務。長男は関西でできた
第4章
研究と教育
69年、河口湖会議 ⇒ 真珠湾に至るまでの過程について日米の研究者が議論し合う
77年、『日本の対外政策決定過程と財界――資本自由化・日中国交正常化過程を中心に』を共著でまとめる
88年、カリフォルニア大の東アジア研から日米の対中国交正常化をトータルに比較する研究論文発表。92年訳書『戦後日中・米中関係』刊行
65~79年 ICU非常勤講師から准教授(東アジアの国際関係史)、最後の3年は国連公使を兼務
80~91年 上智 教授から学部長、国際機構論
第5章
国連にかかわる仕事
68年、国連総会に日本政府代表団として出席 ⇒ 40~50人の団体で、国連本部に1か月ほど滞在して、総会他各種委員会に分担して出席。以後も70年、75年と参加
76年、国連公使、78年特命全権公使(筆頭公使)。平和維持活動特別委員会に3年出席
76年、ユニセフ(国連児童基金)の執行理事会役員就任 ⇒ いきなり行財政委員会委員長、翌年計画委員長、78年には執行理事会議長。日本の拠出額大幅増
79年、帰国後日本政府のカンボジア難民救済視察団団長としてタイ視察
82~85年、国連人権委員会の日本政府代表 ⇒ 日本は82年から委員団に加わる
90年、人権委員会の下で、ビルマの人権状況に関する特別報告者に ⇒ 現地視察し軍政権とも面談
第6章
国連難民高等弁務官として(上)
91年初~00年末、第8代国連難民高等弁務官として、内戦で大量に出来した難民救援に奔走 ⇒ 就任直後から、湾岸戦争後のクルド難民、ソマリアから大量難民が移動したエチオピア危機、アルバニア難民のイタリア流入が立て続けに発生
イラク北部のクルド人居住区で反政府勢力が蜂起したがイラク軍に制圧され、拍買いを恐れたクルド人が大量の難民となって移動し始める ⇒ 130万人がイランとの国境に、イランは国境を開放して自前で緊急支援をしたが、トルコとの国境に向かった40万人は受け入れを拒否され、山岳地帯で生存が脅かされた状態の難民を視察に向かう。イランへはUNHCRが支援物資の空輸を続けたが、トルコは受け入れを拒否、かろうじて国境地帯にキャンプを作って国連が難民対応に全責任を持つことで合意したのみ。ブッシュが多国籍軍による作戦実行を表明し、イラク国内のクルド人居住区に安全地帯を作ろうとしたが、国内にとどまる限り難民の地位に関する条約(1951年)の対象とはならず、UNHCRの本来の任務ではなくなるため、内部でもイラクでの救援活動に疑問の声が上がる
状況を見た現実的判断として、難民を守るという原則に立って、イラク国内での活動を続けるためにイラクの同意を取り付け、まずは安全地帯を構築するために多国籍軍の力を借りるが、アメリカは可及的速やかに手を引いてUNHCRに後を任せようとするため、軍民協調の新しい仕組みを作り、さらにはUNHCRとしては初めてとなる緊急復興事業も実施し、難民がそこで生活を続けられるような援助も実行
続いて起こったのがバルカン半島での紛争 ⇒ 91年スロヴェニアが独立を宣言、クロアチアが続くことで民族紛争の連鎖が始まる。クロアチアの独立承認前だったので、ここでも国内避難民を対象に保護を始める。国内に国連保護区域を作って、国連平和維持活動の国連保護軍が駐留して紛争を防止し、何とか落ち着かせる
問題は、ボスニア・ヘルツェゴビナで、独立を問う国民投票を行いセルビア系の反対を押し切って独立を宣言すると、最大民族のムスリム人、独立反対のセルビア人、クロアチア人の三つ巴の軍事衝突となり、夫々が自民族の支配領域を拡大しようとして、他民族の浄化に発展。ボスニアの首都サラエヴォがセルビア系に包囲され完全孤立状態となったため、UNHCRが救援物資を空輸したが、各国の空軍も参加して実に3年半も続く
92年には、UNHCRが主導して旧ユーゴスラヴィア人道支援国際会議開催、難民問題の根本解決のための実効性のある政治解決を促し、旧ユーゴ国際和平会議に発展、ようやく紛争解決を目指す国際的な場が作られたものの、安保理にも働きかけても進捗しない解決に業を煮やして救援活動のストップを宣言したところ、政治指導者が動き出す
93年、セルビア系武装勢力によるムスリム住民へのスレブレニッツァ虐殺が勃発、国連決議に基づきNATO軍が空爆に参加して95年のデイトン和平協定へと進展
98年にはセルビア共和国のコソヴォ紛争勃発。自治権回復を期して蜂起したイスラムのアルバニア系住民をセルビア治安部隊が弾圧、追放を進めたため、大規模な国内避難民や難民が発生。今回もNATOが難民救援活動にコミットしたことでコソヴォからセルビアが撤退、和平が実現し国連コソヴォ暫定行政ミッションに統治が委ねられる
第7章
国連難民高等弁務官として(下)
91年、ロシアの要請でモスクワ事務所開設。旧ソ連の共和国に居住していたロシア人を始め、100万単位の移動が始まり、民族紛争として噴出 ⇒ 最大のものはチェチェンで、自治共和国だったため、ロシアは独立を認めず、100年越しの分離独立を目指す武装勢力と、ロシア軍の戦闘が94年から激化、多くのチェチェン人が難民となって流出。ここでも国内避難民の問題となり、95年ロシア政府の要請で人道援助が始まる
99年には二度目のチェチェン紛争に発展。プーチンに市民への過剰攻撃抑制を要請、UNHCR職員の安全保障を要求して支援を継続
90年にはルワンダ難民が大量発生。周辺国も含め、2大民族が互いに主導権を競い合ってどこかで政変が起こると影響が周辺国に伝搬するという、それまでにない新しい問題に遭遇。植民地の宗主国が旧来のエスニックな共同体を無視して境界線を引いたのが国境となって独立したため、民族紛争が起こりやすい構造となっている。93年一端和平合意するが、翌年ルワンダとブルンジの大統領を乗せた飛行機が撃墜され、両民族間に虐殺が始まる。安保理も各国に派兵を呼びかけたが応じるところはなく、多国籍軍が出動、UNHCRもザイールの協力を得て国境にキャンプを設営、スイスで各国大使にも援助を要請したところ、真っ先に動いてくれたのはクリントン
94年には米仏両軍の任務を引き継ぐ形で日本の自衛隊が平和維持活動を開始
難民キャンプには、政権から追われた武装勢力が混在し、政権奪還を期してキャンプの軍事化が進み、治安の悪化が深刻化。武装勢力が人道支援物資を基盤とした経済に依存しているとの非難さえ噴出
98年、東アフリカ9か国を訪問し、この地域の難民問題に包括的に取り組む必要性を訴え、カンパラ会議開催 ⇒ 議論の焦点は、難民キャンプの軍事化への対処で、国際警察か軍隊の存在が欠かせないとなったが、安保理による効果的な介入は見送り
人道支援は、政治が解決を求めて動いてくれないと機能しない
紛争継続の中での難民支援には軍の役割も必要
大規模な国内難民への支援も重要な課題
難民キャンプの武装化も問題
人道支援から開発援助へシームレスにつながらないギャップの問題も顕在化
難民保護という基本原則を守りつつも、従来の行動規範を超えた選択をせざるを得なかった。人の命を守ることが一番大切なことで、そのために従来の仕組みやルールを変えた
どんなに妥協的であっても、救える命があるならそこで救うしかない
人間を大事にするという価値は絶対に譲れない。原則は「人の命を助けること」
第8章
人間の安産保障
2000年の国連ミレニアム・サミットで日本の呼びかけで、01年国連の「人間の安全保障委員会」設立、緒方とケンブリッジ大トリニティカレッジのセン学長が共同議長に
97/98年の『世界難民白書』では、「同じ人間としてすべての人々の安全を保障する責任」が課題として書き込まれた ⇒ 現場での対応をどうするかというところから始まる
国連開発計画UNDPが、『人間開発報告書」の1994年版を「人間の安全保障」という題にして、貧困問題に根本から取り組み、さらに、1人1人が人間らしく生きられる能力の開発をサポートする必要性を提起・この報告書は、厚生経済学者でノーベル賞受賞のアマルティア・センの「潜在能力capability」という考え方を土台にしたもので、その後の「人間の安全保障」の議論に強い影響を与える
「人間の安全保障委員会」は、開発に基づくアプローチに加えて、人々に対する政治的保護を考えるアプローチを組み込む形で立ち上げられた ⇒ 人間の安全保障は、具体的にどの自由が重要で、社会がそのうちどれを承認し保護し促進するかに応えようとするもの
03年報告書を日本政府と国連事務総長に提出
安全保障の考え方の転換 ⇒ 脅威の質が変わったことに起因。紛争を背景にした人々を暴力から守る「保護」に力点を置くUNHCRなど人道支援系のアプローチと、貧困を背景にした人々の「開発・能力向上」を重視するUNDP系のアプローチがある
第9章
日本の開発援助を主導して
03~12年、JICA理事長 ⇒ 独立行政法人に移行するにあたり、労組内でのアンケートの結果、白羽の矢が立った。開発援助は未知の世界だったが、「人間の安全保障」の実践を目指して引き受け
国際社会の変化を受け日本の援助方針に「人間の安全保障」や「平和構築」が取り入れられた
人道支援から開発援助へスムースに移行できるようにする
08年、JICAと国際協力銀行JBICの統合 ⇒ 円借款、無償資金協力、技術援助を一体的に運用可能な体制に
08年、JICA研究所設立 ⇒ 事業の質の向上というニーズに対応
終章 日本のこれからのために
今の日本の対外関係が抱える最も重要な課題は、中国 ⇒ 日米関係以上のもの
日本社会全体が、亀が甲羅に引っ込むように、居心地のいい同質的な場に閉じこもっていたいと思っているように見受けられる
何が自分たちの本当の課題なのかを見極めることができていないからではないか
はっきりとしたヴィジョンを持つこと
まず足元を固めることから始めなければならない。そのために必要なのは多様性diversity
世界は多様性に基づく場所だということを心底から受け止め、自らも多様性を備えた社会に成長していくことが重要
世界の多様な文化や価値観、政治や社会に目を開いて、そこから何かを学び取ること、それとともに、国内でも多様性を涵養していくことが不可欠
そのために最も大事なのが教育。日本の教育の最大の問題は、画一的であること。世界の中で生きていく力を身につけるための、多様性を育む教育を積み重ねていくべき
より広がりのある視野を持とうとする好奇心、異なる存在を受容する寛容、対話を重ね自らを省みる柔軟性、氾濫する情報をより分ける判断力、そうした力の総体こそが求められている
岩波書店
■編集部からのメッセージ 世界各地で民族紛争が激化し,住み慣れた土地から膨大な人たちが難民となって流出した1990年代に,緒方貞子さんは,国連難民高等弁務官を務め,救援活動に心血を注がれました.小さな体ながら困難な状況に毅然として立ち向かう姿が,記憶に刻まれている方も多いのではないでしょうか.本書は,生い立ちから現在までの緒方さんの歩みを,聞き書によってたどる回顧録です.
政治家・外交官の一家に生まれ,早くから海外経験をもった幼少期.戦後のアメリカ留学を経て,満州事変研究からスタートした研究者生活.国連に関わり始め,国連難民高等弁務官や「人間の安全保障」委員会代表などの国際人として活躍した時期.緒方さんのこれまでの多面的な活動が,インタビューを通して瑞々しく語られていきます.回顧録の決定版と言える本です.
政治家・外交官の一家に生まれ,早くから海外経験をもった幼少期.戦後のアメリカ留学を経て,満州事変研究からスタートした研究者生活.国連に関わり始め,国連難民高等弁務官や「人間の安全保障」委員会代表などの国際人として活躍した時期.緒方さんのこれまでの多面的な活動が,インタビューを通して瑞々しく語られていきます.回顧録の決定版と言える本です.
(書評)『聞き書 緒方貞子回顧録』 野林健、納家政嗣〈編〉
2015年9月20日 5時00分 朝日
■「人道」と「現実」、タフに融合
それにしても、タフな人である。好きなジントニックを一、二杯飲めば、眠れない夜はなかったそうだ。
イラン、トルコ、ボスニア、セルビア、ルワンダ……。国連難民高等弁務官(UNHCR)として1991~2000年までの十年、地域紛争や内戦で難民が大量に流出する各地を、防弾チョッキを着て飛び回ったころも。
昭和初期に首相を務めた犬養毅を曽祖父にもち、祖父はその内閣で外相、父親も外交官。太平洋戦争や日中戦争が重なる幼少期を米国や中国で過ごした。育った時代と家庭環境を背景にした経験にタフさが加わり、徹底した人道主義と現実主義を備えた「緒方貞子」になっていく過程が語られる。編者はあとがきで、「柔軟だが透徹したリアリスト」と評している。
緒方氏は、国家中心の安全保障に代わる概念として、紛争や貧困などあらゆる脅威から人々の生存や尊厳を守る「人間の安全保障」の重要性を提起したことで知られる。国家の枠組みから外れた難民を支援する現場の実践から生まれたものだ。「人道主義と政治的リアリズム」を共存、融合させる姿勢は、欧州でまさにいま起きている難民の問題への対処はもちろん、日本の今後への示唆に富む。
いまの日本の対外関係が抱える最も重要な課題として、中国をあげる。「中国とどう付き合うのか」は、実は「日本が自分の国とどう向き合うか」と同じ問いだ、と。
*
(難民 世界と私たち)島国根性でやっていけるのか 緒方貞子・元国連難民高等弁務官
2015年9月24日 5時00分 朝日
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップとして、世界の難民問題に取り組んだ緒方貞子氏(88)。国際社会がシリアなどの難民問題に直面するなか、難民の受け入れに消極的な日本の現状に苦言を呈し、「積極的平和主義」のあり方を問うた。
――日本の難民受け入れをどう考えていますか。
「物足りない、の一言です。特に人道的なこういう事件(シリアなどからの大量難民)が起こったときに『まだか』という感じですよね。日本は、非常に安全管理がやかましいから。リスクなしに良いことなんてできませんよ」
「簡単に言えば、難民受け入れがものすごく厳しいですよ。私が(難民高等弁務官だったのが)2000年までで、今、15年でしょう。変わっていないみたいですよ、残念ながら」
「日本を目指して逃げて来る人は少ないんですよ。だけど、(日本にたどり着いた人については)もうちょっと面倒をみてあげてもよいんじゃないかと思います」
■ ■ ■
――日本が難民受け入れに消極的である根本的な理由は何だと思いますか。
「長い間、島国を守っていくということだけで来たからでしょう。島国根性的なことは変わっていないと思いますよ。だけど国際化が進んで、非常に国際協力が発達したなかでは、前と同じ島国根性でやっていけるんでしょうか」
「外国は難民条約に基づいて審査するというのはベースになっているけれど、人道的な配慮とか政治的な問題とか、非常に多様な原因に基づいてやっている。だけど日本はなかなか厳しい。私は難民高等弁務官のとき非常に苦労しました」
「日本の法務官は、厳しい法律的な視点で(認定審査を)するんですね。日本の法務システムそのものが厳しい。人道的な考え方というものを、教育とかでもっと広めないとダメですよ。私の時代と変わっていないというのは情けないことだと思いますけどね」
「本当ですか? 本当ですかと聞いたのは、どこが本当に変わったのかと。特定できませんでしたけど」
■ ■ ■
「一度ならずなんてもんじゃないですよ。だけど、私が弁務官をしているころは、いろんなことをしてあげようという気持ちは(日本側に)今よりあった。今はかなり自信たっぷりの国になったと感じますね。思いやりが減ったんですよ」
――回顧録で「日本は、父祖の時代よりも外に開かれ、多様性に富み、国際社会で責任ある行動を取れる国になったのであろうか」とも自問していました。
「今でも『あろうか』ですよ。石油とかいろんなこともあって中東などへの関心は増えてきたけれど、中東にどれだけ援助しているのか。特にそこに飛び込んでやろうとはしていない」
「例えば、難民の受け入れは積極的平和主義の一部ですよ。本当に困っている人たちに対してね。それから開発援助も底辺に届くようなものをどれだけやるのか。それが積極的ですよ。難民の受け入れに積極性を見いださなければ、積極的平和主義というものがあるとは思えないと言っていたと、書いて下さい」
■ ■ ■
――犠牲が出る可能性をきちんと議論したうえで、ということですか。
「どのくらいの犠牲を払う用意があるかということについて、もうちょっとはっきりお考えになる必要があるんじゃないですか。そういう議論をおっしゃらないもんね。おっしゃれないかもしれない。今の日本の考え方は、みんな『犠牲はない』と。だけど積極的平和主義はやると。そういう矛盾の中で暮らしているんじゃないですか」
「国際益と国益のバランスが常にODAにとって大事です。もう一つ、ODAはこちらが言い出すんじゃなくて、どのくらいの需要が出てきたのかに対して、合わせていかないといけないでしょ。でもそういう考え方はやや薄いんじゃないの。供給ベースでやっていると思います。需要ベースでやったらもっと増やさないといけませんよ」
*
おがた・さだこ カリフォルニア大バークリー校で博士号(政治学)。上智大教授などを経て、91年から00年まで国連難民高等弁務官。03年から12年まで国際協力機構(JICA)理事長を務めた。現在はJICA特別フェロー。
■日本の審査、条約を厳格解釈 昨年申請5千人、認定わずか11人
難民条約は、難民を「人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員、政治的意見」を理由に迫害された人と定めている。日本は1970年代後半からインドシナ難民約1万1千人を受け入れたこともあったが、難民認定審査については、欧州などと比べると、条約を厳格に解釈する傾向がある。
今月、法務省が発表した難民認定制度の運用見直しでは、紛争から逃れた人々の在留を「待避機会」という考え方で認める方向を打ち出したものの、「難民条約の迫害理由にない」として、難民認定を増やす方針は示さなかった。紛争から逃れたシリア難民が急増する欧州では、条約上の難民と認める例が増えている。
日本政府は各地の難民向けに国連を通じた支援などを実施している。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のマイケル・リンデンバウアー駐日代表は朝日新聞の取材に「日本の財政支援はありがたい」としたうえで、難民受け入れについても「シリアの子どもに日本の病院で医療を提供したり、滞在ビザを出したりできる。大学生に奨学金を出し、日本の大学で学んでもらうこともできる」と語った。
(鈴木暁子)
(人生の贈りもの)わたしの半生 元国連難民高等弁務官・元JICA理事長、緒方貞子:1 89歳
2016年10月3日 16時30分 朝日
■ルールに縛られず、人間を助ける
今の国際政治にもっとインパクトを与えるようなことも必要ではないかと思いました。
――その辺のところを怒りに任せてうかがえればと。
私が国連難民高等弁務官に就任した際も、難民への対応は、難民条約はじめ多くの規定に束縛されていました。イラクのクルド人は、国境を越えていないから国内避難民で難民ではない。それでは解決できない状況になったときにどうするのか。私は人間を助けるということが何より大事であると考えました。本能的な常識といえますが、どんなに条約を守っても、そこにいる人々の半数が殺されたのでは何にもならない。このような判断ができるのは当時、私しかいなかったのです。
極めて現実主義的(プラグマティック)だったと思います。軍隊だから頼まないとかいうよりも役に立つなら頼めばいいじゃないかという発想でした。現地の人たちの要請に引っ張られた部分もありました。
せっかちだから、ぐずぐずと長い理屈をつけた説明を聞くのは好きではなかった。テニス部など体育会系の出身だから、身体を動かしていろんなところに行くのは平気でした。やっぱり現場をみて判断しないとわからないことは多い。
――国連組織に限らず、組織というのは都合の悪いことは、なかなか本部に上がってこないところもありますよね。
絶対信用していい部下をちゃんと使わなければだめです。直属の補佐官のような人は、自分で選ばなければなりません。国際機関は修羅場ですから。正式なブリーフィング(状況報告)が始まる前に、直属の部下等できちんとわかっている人に最初に報告を受けていました。
いや、そんなことを自分は感じたことなかったですね。女だからできないことっていうようなことは、そんなになかったと思います。
(聞き手・石合力)=全9回
*
おがた・さだこ 27年、東京生まれ。外交官の父の勤務で幼少期、米国と中国で暮らす。聖心女子大卒業後、米国に留学し、カリフォルニア大バークリー校で政治学博士号。国連日本政府代表部公使、上智大教授などを経て、91年から00年まで国連難民高等弁務官。03年から12年までJICA理事長。アフガン復興支援首相特別代表、国連「人間の安全保障」委員会議長も務めた。
(人生の贈りもの)わたしの半生 緒方貞子:2 89歳
2016年10月4日 16時30分
■幼少時から米国へ、多様な教育受けた
――外国暮らしの長い緒方さんですが、とりわけ米国との関係は深いですね。
私は家庭内では、アメリカ人(アメリカン)だって言われていました。米国で育ち、留学もし、日米関係や対米戦争を勉強してきた。米国は自分の中に入っているし、友達も多い。
もちろん、日本人から離れるってことはなかったですよ。フレッチャースクール卒ですが極めて日本的な夫(元日銀理事の四十郎氏)と結婚していますし。ハーバード大を出た息子の篤(映画監督)はもっとアメリカ人的かもしれない。
――最初にサンフランシスコに渡ったのが1930年の夏。3歳になる直前でした。
外交官の父(中村豊一〈とよいち〉氏)は割と教育熱心で、オレゴン州ポートランドに移ってから、非常に多様で自由な教育をする私立の小学校に入りました。
中国に赴任すると日系2世のような人が家庭教師、子どもの世話役として一緒に来て、本を読むなど英語の勉強はずっと続けていました。やっぱり英語を知らないといけないと親が強く思っていたのですね。
――それでワシントンのジョージタウン大・大学院に進まれます。
比較的に小さいイエズス会の大学でしたので最初に行くにはよかった。授業やゼミに出て、議会図書館でこつこつ勉強しました。
後に博士課程でカリフォルニア大学バークリー校に行って、学問するのはああいうところかなと。学術的に優れた先生がいくらでもいる。考えてみれば、そこに最初に行っていたら埋もれちゃったかもしれないと思いました。
――後に暮らすニューヨークとはずいぶん違いますか。
でも世界全体を見るのはニューヨークですね。国連があるからだけではなく、人間は経済と一緒に動くものです。
――その米国も影響力の低下が指摘されていますね。
大国がなくなったというよりも、富の分散とIT等の発展により、世界の在り方が大きく変化してきたのだと思います。いま、世界地図を見ているとバラバラの時代に入っているのではないかという気がします。
いやいや、多国間で決めるときには米国が出てこなきゃだめです。米国がおとなしい間は世界はまとまらないと思います。世界の警察官的な役割は必要だと思います。
世界は大してひどくはないけれど、統一されることもない。ダラダラ坂の途中まで下がり始めているような気がしてきました。ダラダラ坂なんて言葉、いま急に出てきたのですけれど。
(人生の贈りもの)わたしの半生 緒方貞子:3 89歳
2016年10月5日 16時30分
――米国のあと、幼少期は中国各地で過ごされました。
そうです、私は、総領事だった父の仕事で中国の福州、広東、香港と。全部、南部でした。
――天津には、今でもおじいさんゆかりの家が残っていらっしゃるとか。
天津でのダボス会議に出た2年前に、資料館があるというので、車でそこへ行ってみました。宣統帝(清朝最後の皇帝。後に日本の傀儡国家、満州国の皇帝になった愛新覚羅溥儀)が祖父に宛てた書が、飾ってありました。
――1924年に国民党が北京を占領して、宣統帝が天津に来たときのものですね。
日本側が宣統帝を天津に引っ張り出して住まわせたところです。住んでいた屋敷がそのまま残っています。
洋館でピアノだってありました。家具もそのときのもの。そこに、祖父の足跡が残っていることは、やはり感慨無量でした。
――中国で一番最初の福州に行かれたときが35年ですから当時7、8歳ですね。
「咲いた咲いた、桜が咲いた」というのを、(「さ」にアクセントを付けて)教えたのですが、母がこんな日本語を教えられたら大変だと言ったのは覚えています。それまでは、米国の小学校に行っていました。
米国では、オレゴン州のポートランドで、かなり先進的な教育方針の私立の小学校に入れられて。星座であるとか、詩とか、そういうのを習ったのを覚えています。中国の日本人学校は(規律が)きちっとしていてびっくりしました。そこに「日本」があるのです。
――天文学者を目指したこともあるとか。
船で長々と米国から帰ると、空を見るほか、することがないわけでした(笑)。船長さんにお願いして、上に行って、星座なんかずいぶん見せてもらいました。当時で船旅は、10日間か、2週間。(オレゴンに近い)シアトルだと、泊まらないで行きました。サンフランシスコからは途中、ハワイに泊まるわけです。
相当厳しくなっていくときだったと思います。治安の面でも警戒しながら、学校には車で通っていました。
37年7月には盧溝橋事件が起きて日中戦争になった。香港総領事になった父は38年、(近衛文麿内閣の宇垣一成外相と、国民党政府の蒋介石側との秘密交渉)「宇垣交渉」のため南京にいきました。電信は領事館ではなく、総領事邸の中にあったので非常に厳重な形で通信されていたのをよく覚えています。
(人生の贈りもの)わたしの半生緒方貞子:4 89歳
2016年10月6日 16時30分
■歴史の中に家族が入り込んでいた
直接の記憶はないですけれど、私は初ひ孫で、麻布区霞町(今の港区)で生まれたとき、名前を付けてくれたのは曽祖父でした。私の名前を記した「名記(めいき)貞子」の書があって、今も我が家の廊下にかかっています。(青年将校らに暗殺された)1932年の五・一五事件の時にはサンフランシスコにおりました。そのときのことを聞いて、軍部はよほど悪い人たちに違いないと思いました。だから、子どもの頃から「軍部は悪い」という感じを強く持っていました。
――留学先の米国から戻られてからは、日本政治の研究で軍部について調べることに。
日本に帰って、東大の特別研究生になって、岡義武先生のところで日本政治外交史の勉強をしました。(皇道派の重鎮で青年将校のカリスマ的存在だった)荒木貞夫さんに聞き取りにいったこともあります。衰えて、寝ておられたところに行きましたが、異様な感じがしました。事件当時の陸軍大臣ですからね。私は犬養のひ孫ですってことは言ったかもしれません。
――やりとりを踏まえて、イメージは変わったのですか。
荒木さんは大いばりの悪い人だと思っておりました。歴史的な評価は変わるものではないけれども、うかがうと軍人なりに国のことを思ってやったんだと。そういうお答えでした。私は政治思想史をずいぶん勉強してきました。だからどういう思想をもとにどういう人が動いたのかに一番関心を持っていました。思想史的にみると、五・一五事件を起こした軍の中にもドイツなどからの社会主義的な影響があったことがわかりました。
その通りです。政治家がなぜそのとき、限られた選択肢のなかでそれを選んだのか。米国で学んだ政策決定過程論を当てはめてみました。私が研究し始めた頃はまだ当事者が生きていて、研究の素材があったのです。東京裁判も2度ほど傍聴しました。宣統帝(満州国の皇帝溥儀)が出てきたときのことは忘れられません。お気の毒で申し訳ない気はしました。半分は歴史の中にうちの家族が入り込んでいましたから。
――夫の四十郎さんとの出会いもその頃ですね。
米国大使館が留学帰りを集める会合がありました。日米の歴史を勉強するというので、六本木の国際文化会館の研究室を借りて同じところで勉強していました。四十郎は父親(朝日新聞副社長、副総理を務めた緒方竹虎)のことを書くというので、私の祖父(元外相の芳澤謙吉)とは親しかったようです。私は博士論文を書いていました。
――当時、ひときわ美人で誰が結婚するのかと言われていたそうですね。
冗談じゃない。そんなの聞いたことないです。私は運動部の出身でテニスはずいぶんやっていましたけど四十郎は全然テニスはへたくそでした。社交的でにぎやかな人ですから話すのは面白い人でした。彼からしっかりとアプローチ? いえいえ、気がついたら結婚していました。そんな大昔の話、聞かれても(笑)。
(人生の贈りもの)わたしの半生 緒方貞子:5 89歳
2016年10月7日 16時30分
そうでしょうね。大学院で米国に行っていたから。その方が自然だったかもしれません。でも日本に帰って日本政治外交史の勉強をしました。そうするとやっぱり学者の方にということになりますよね。
そのころから、ユニセフ(国連児童基金)の執行理事会役員もやっていました。フィリピンのマニラにスモーキーマウンテンというゴミの山のスラムがある。みんなが登って利用できるビニールなどを拾う。それで私も登ってみたのです。それが新聞記事になり、上智大学のヨゼフ・ピタウ学長(大司教)がどうしても来いと。「学問と同時に行動する人が教授に欲しい」と言って引っ張られたのです。
そう。ある種、エスニッククレンジングに手を貸してしまうんじゃないかと言われました。ぎりぎりの線で民族浄化がない場所だったら認めるとか。UNHCRの中で現場の状況に非常に通じている人たちからのアドバイスがずいぶんありました。
長期間にわたるとは思っていませんでしたがベルリン空輸の1年数カ月より長い3年半も続きました。輸送トラックが攻撃され死傷者も出ました。そうした状況で93年にサラエボ市議会は、政治的理由で援助物資をボイコットすると宣言したのです。人道援助を政治に利用するなんて考えられないことです。
ショック療法でした。こちらが本当に怒ったときにはやっぱり効きました。そういうときには、そこで犠牲になる人々のことを考えますから。緊急の行動を起こさないと物事は変わらない。ボスニアの大統領が空輸再開を求め、停止宣言から5日後に空輸を再開しました。
難民支援の一番中心にあるのはやはり人道的な配慮です。ただそれを実現に移すには政治も軍事も大事。広く状況判断ができる学者も必要。ハート(心情)だけでなく、ハートと理性がないと効果ある支援はできないことを痛感しました。
(人生の贈りもの)わたしの半生 緒方貞子:6 89歳
2016年10月11日 16時30分
■現場を知らねば本当の和解はない
ええ、飛行機が突っ込んで煙が見えました。当時、自宅は高層ビルの53階だったと思います。何が起きたのかと非常に驚いたのを今も鮮明に覚えています。日本に戻ったら、小泉首相から特別代表に、ということでアフガニスタン支援に関わりました。小泉さんにつかまったのです(笑)。
――アフガンにはそれまで何度も行かれていたのですか。
いや、そんなに行ったわけではありません。私は、現地の人々の文化や風土を理解するということはとても大事だと思っていましたので、すぐに現場に行ったのです。それを理解しないと本当の和解も解決への道も付けられない。ニューヨークの5番街の頭でやろうとしたってだめだと思います。
――02年1月、東京で開いたアフガン復興支援国際会議では共同議長を務められた。
お金は大事でした。外からの期待もお金だったと思います。あの頃の日本は国際的にいろんなことをしたいという気持ちになり始めていたころです。私はお金を本当に役に立つように出してほしいと。そのためには現場をわかってもらわないといけない。お金は出し方が下手だと現地にとってマイナスになるのです。一緒に議長をしたアフガンのカルザイ暫定政権議長(後の大統領)は日本をどうやって使おうかとしたたかにみている。西洋ばかりに支援されたくないという気持ちはあったと思います。日本としては、米国や英国なんかと並んでやらなきゃという発想の方が強かったが、どうやって使われるかという頭はまだその頃にはなかったのではないでしょうか。
――当時、緒方さんに外相をという待望論がありました。
お誘いはありました。しかし、父も祖父もみんな外務省にいたので、それは案外私には向いていないということは知っていましたよ。あの役所は細部までしっかり詰めて、その中で方針を立てていかないと成り立たないところです。それを引き受ける冒険ダン吉じゃなかったわけです。その頃のアフガンなんかはそんなことじゃできないと思ったのです。
最初はJICAの労働組合から要請がありました。JICAの何が一番問題だったかというと一人一人の専門家はしっかりやっているのにその全体像が見えにくいということがありました。専門と専門をつなげてそれを一つの政策に持っていく組織になっていなかった。
――全体を見るリーダーの力が問われる。
多様な人に会って多様な経験をするのは大事なことだろうと思います。ただ、大きい決断というのはそういうものからは出てこない。高等弁務官の時代を含めて、これはいま動かないといけないというような直感は勉強したのではなくてどこかに持っていた。自分でもそれをどうやって、もらったのかはわかりません。
(人生の贈りもの)わたしの半生 緒方貞子:7 89歳
2016年10月12日 16時30分
――歴史を踏まえて、日本の将来について、気になることはありますか。
曽祖父犬養毅は、1932年の五・一五事件で青年将校に暗殺された。そして夫四十郎の父、緒方竹虎が主筆だった朝日新聞は36年の二・二六事件の時に反乱軍に活字棚をひっくり返された。軍部の恐ろしさは子どもの時から深く私の中に入っています。言論機関とか銀行、外務省などの専門的(プロフェッショナル)な組織をしっかり維持しないといけない。そうしないと訳のわからない乱暴者にやられる。そういう哲学で育ってきた。もちろん、軍隊全部に反対しているわけではありませんよ。ただ、軍部が政治に介入すると危険だという教訓は身にしみています。
福州、広東、香港で子ども時代を過ごし、親近感があります。今の外相の王毅さん(元駐日大使)とも天津ダボスの機会も含め何度もお会いしています。話してみると、「うまくやれそう」ではなくて、「やらなければならない」なんです。侵略など日本が悪いことをした部分はあるけれど、日中関係というものは長い歴史の中で持ちつ持たれつで来たのですから。
島周辺の制海権などに関係があるにせよ、中国は広い領土を持っているので、もっとほしいなんていう発想はどうかしているのではないかと思います。ただ、日本は中国との関係を敵対視したままで繁栄できるわけがありません。向こう側もそうですよ。常識と歴史の上に立てば、日中関係の重要性はわかるはずです。
――政治家の対応に問題があるとお考えですか。
歴史を勉強してきた者としては、あまりに知らなすぎると思うことはありますよ。大きく世界を見ない。広く人間を見ない。長く将来を見ない。政治家が“ないないづくし”では困ります。日中関係をしっかり両方のプラスに持っていくことは常識でしょう。中国も発展して教育のレベルもずいぶん上がった。だんだん近代国家になりつつある。お互い、プラスになるように持っていかないと。
ひとつには日本の優越感があると思うのです。確かに近代化はアジアで一番早かったかもしれないけれど、いつまでも日本がナンバーワンで居続けるわけがない。日中、日韓、あるいは日米関係の上で初めて日本の将来があるということを徹底しないと。「持ちつ持たれつ」でいくことの意義を考えるべきです。
どれほど優越的か、経済の伸びだけでなく、支援のあり方や教育などもう少し広く考えてもいいと思います。日本という国は、放っておくと何とも言えない「けちくささ」が出てきます。島国だから視点が非常に小さい。自信と同時に狭さがあります。日本人がそこをどうやって乗り越えていくかがとても大事だと思います。
(人生の贈りもの)わたしの半生 緒方貞子:8 89歳
2016年10月13日 16時30分
■今でもテニス、夕食前にスコッチ
そう、平気なの。だって私、体育会テニス部の出身ですから。大きな病気はしたことがありません。
――テニス以外にジムとかには行かないのですか。
面白くないのですよ。身体のためだけにやっているものは。以前、どこかの新聞に、日本が戦争に突入したとき、どこにいましたかって聞かれて、雨天体操場にいて跳び箱を跳んでいましたと答えたら、答えがドラマチックではなかったみたいで、記事になりませんでした。
――ゴルフはしますか?
ひところ熱心にやりましたけどね。私にとってはやっぱり時間の割に運動量が少ない。時間がかかりすぎるのでしょうね。だから結局、今でもテニスをします。ダブルスとかミックスダブルスとか。ゲームをします。私は全日本選手権のシングルスでベスト16になったことがあります。
――寝る時間は決まっているんですか。
眠くなるから、11時前には寝ています。酔っ払ってから本を読んだり、物を書いたりはしません。そんなことをしたら効果が上がらないもの。朝は8時には起きています。毎朝、新聞がどさっと来ます。日本の主要紙に加えて、英紙FT(フィナンシャル・タイムズ)や米紙のインターナショナル・ニューヨーク・タイムズも取っています。(朝日の元主筆、緒方竹虎が義父で)朝日は特別な新聞だと思っています。国際的にも国内的にも優れた新聞であってほしいと思います。
――長寿のご家庭ですよね。
――晩酌はされますか。
1人で飲むとき私はやっぱりスコッチ(ウイスキー)ですよ。ご飯前に水割りでちょっと飲む。それから台所へ行ってあるものをかき集めて食べ物を作る。夕飯の時に飲むのはワインか日本酒ですね。何か飲まないと食事にならないもの。ジントニックも飲みます。米国の影響ですよ。二日酔いみたいなものはあまりないですね。
――どんな料理を作るんですか。
食べられる程度のものです。日銀のロンドン支店に勤務した夫について60年代にロンドンに住んでいたころには、オックスフォード大にいらした東大の岡義武先生や丸山真男先生を自宅にお呼びして、私の料理した鶏の煮込みなどを食べていただいたことがあります。
――時差ぼけの解消法はありますか。
(人生の贈りもの)わたしの半生 緒方貞子:9 89歳
2016年10月14日 16時30分
■日本だけ心地よい(カンフォタブル)、ではいられない
――長年、外から見てきた緒方さんにとって、日本社会の特質はなんでしょうか。
私の結論は、日本は人と社会が非常にオーダリー(規律正しい)なんですよ。だれかが仕切ってくれないと動かない。官僚制が強いというのは、日本の社会の内部から来るものではないかしら。経済でも企業を経団連が組織化していく。本来において非常にオーダリーだから、きちっきちっとやる方がカンフォタブルなのですよ。心地よさ、とか安心感というのかな。
――そうですね。逆にちょっと堅苦しいかもしれない。
突き詰めて考えると、こういった小さい島国にたくさんの人たちがいたら、オーダリーじゃなければ暮らせない。土地は限りがあるのですから。米国なんて放っておけばあらゆる格好、やり方になってしまう。そのかわり、学校での質問なんかは、パパッと手が挙がりますね。子どもの時から。
――同じ島国ですが英国は?
結婚して最初に行ったのがロンドンでした。イギリス人もオーダリーですよ。でも、やっぱり大英帝国だったからそんなに細かく仕切ってはいません。帝国の中に多様なものを入れていますから。教育が素晴らしいと思いましたよ。非常に多様な教育です。
――国際的な(グローバル)人材づくりが求められるなか、留学に出る学生はむしろ減っていますね。
私はやっぱり留学は、した方がいいだろうと思います。日本はいい教育はしているけれど画一化が激しいですから。個別にしっかり教育をしていくけれど、全体を見るということが少ない。例えばヨーロッパでは政治は思想史、哲学であり、プラトン、アリストテレスから入っていく。日本の政治学は哲学とつながっているかどうか。
――国際的に活躍する日本の女性が増えています。
一つは日本の中で期待されていないからではないかと思います。ものすごく伝統的だから。女の人はこうあるべきだという風でしょう。そこから外れたいのですよ。もうちょっと男の人にもしっかり何かやっていただきたいです。
――緒方さんからみてグローバルな日本人はいますか?
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のコンサルタントを務め、今も世界中で難民や被災者支援の住宅づくりにかかわる建築家の坂茂(ばんしげる)氏は非常にユニークです。自分の技術にものすごい誇りがあります。日本人が全部、島国的に一体化しているのではないといういい証拠になっています。
――日本は内向きで「日本はすばらしい」というような本ばかりが売れるようです。
すばらしかったらそれを広めるということが一つの使命です。この国は物がなくなったりもしないし、犯罪もひどいわけじゃない。やや、心地よすぎるのです。だけど、ほかの国も心地よくならないと、いつかは、私たちも心地よくなくなる。それをもう少しはっきり認識することが必要ではないかと思います。いくら島国だって日本だけカンフォタブルではいられないから。
聞き書 緒方貞子回顧録 野林健、納家政嗣編研究と実務の有機的な結びつき
2015/11/9
緒方貞子氏は現代の日本で最も著名な国際人であろう。1990年代を通して国連難民高等弁務官を務めたことで緒方氏は国際的な敬意と友情を得た。緒方氏自身による回顧や研究書もすでに複数存在するが、本書は氏がかつて教えた国際政治学者による聞き書であり、これまでの氏の生涯全体をカバーしている事に加え、研究と実務の関係についても議論がなされている点に特徴がある。
本書を読めば、氏の難民高等弁務官としての活躍が偶然ではなく、それまでの蓄積の結果であったことが分かる。外交官を父と祖父に、母方の曽祖父に五・一五事件で暗殺された犬養毅首相をもつ氏は、戦後初期の日本で外交史を、アメリカの大学院で政治学を学び、満州事変に関する政策決定過程分析を博士論文とした研究者として出発した。
60年代末に日本政府の国連代表団に参加したことを皮切りに国連公使、国連人権委員会日本政府代表などを歴任し、国連外交の現場を経験していた。意思決定の手続きがある程度制度化されている国内政治と違い、国連外交は規則主義と人脈主義が入り交じる複雑な世界である。ここで活躍するのに政策決定過程の研究が大いに役立ったと氏は振り返る。
氏が難民高等弁務官に選ばれた背景には当時の日本の経済力への期待も当然あったろうが、それまで積み重ねられてきた氏の活動への評価もあったに違いない。しかし冷戦終焉(しゅうえん)後の地域紛争の続発は従来の難民政策の枠組みを大きく踏み越えることを求めた。氏は危険な現場に飛び込んでいく勇気と共に、国内避難民といった新たな概念を提示し、多数の利害関係者を説得して冷戦後の人道活動の基本枠組みを形成することに大いに貢献した。
この過程の中で氏がつかみ取ったのが「人間の安全保障」の概念である。この言葉に対してはその曖昧さを批判する研究者もいるし、途上国ではこの言葉を名目に内政不干渉の原則が侵されることへの警戒心も強い。氏もこうした批判を認識しつつ、「人の命を助けること」を国際社会の目標に設定する実践的なソフト・アプローチを表現する言葉として「人間の安全保障」の意義を強調する。
本書は緒方貞子氏の足跡を辿ることで、国際政治の舞台において研究と実務がいかに有機的に結びつき、重要な役割を果たしうるかを教える。実務家、研究者、そして国際社会に関心のある全ての人にとって大きな示唆を含んだ回想録である。
(京都大学教授 中西 寛)
[日本経済新聞朝刊2015年11月8日付]
ようやく見えた歴史の奥深さ防衛大学校長 国分良成氏(1953年東京生まれ。81年慶応大博士課程修了。同大法学部教授、東アジア研究所所長、法学部長などを経て2012年から現職)
2017/4/15
防衛大学校のあり方を考える時は、新時代にふさわしい豊かな教養あるリーダー育成を目指した先人の書をひもとき、その知恵に学ぶ。
防大は戦後の民主主義下の士官学校として戦前の体制を一新して誕生しました。当時の首相、吉田茂の下で初代校長に就いたのは、慶応義塾長を務めた小泉信三が推薦した政治学者、槇智雄でした。
英オックスフォード大で政治思想を学んだ槇は、小泉の片腕として慶大日吉キャンパスを建設しました。総合的な人材を育む英国の「リベラルアーツ・カレッジ」への思いが強く、防大では将来の幹部自衛官が備えるべき広い視野、科学的見方、豊かな人間性を育てる教育に力を注ぎました。著書『防衛の務め』は槇イズムとして今も読み継がれています。
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5年前に慶大から防大に来て驚きました。慶応の創立者、福沢諭吉の精神を感じたのです。幹部自衛官にも福沢ファンは多く、最近の方が福沢の書を読む機会が増えました。
著書『学問のすゝめ』では「一身独立して一国独立する」「独立の気力なき者は、国を思ふこと深切ならず」と記しました。福沢は合理主義と抵抗の精神を持つナショナリストですが、自立した個人をつくることで国も自立すると考えました。
冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」が有名ですが、その後に多くの示唆に富む記述があります。「人にして人を毛嫌ひするなかれ」。最終第17編の締めの言葉は人間への温かい目が感じられて大好きです。
『歴史とは何か』は高校生で初読し理解できなかったが、歳を重ねて奥深さが分かった。
E・H・カーのこの著書は学問や歴史の面白さに気付くのに最適です。「歴史とは歴史家と事実との間の(中略)尽きることを知らぬ対話」。この言葉は、歴史は歴史家が選んだ事実でつくられ、大半が勝者による歴史であることを示しています。負けた者による歴史もあるはずですが、歴史家はそこを選びません。
1980年前後、中国史の大家でお茶の水女子大学長だった市古宙三が退官後に「所詮、中国史は勝者の歴史で本当なのか分からない。私は今まで嘘を教えたかもしれない」と私に話されたのは忘れられません。
確かに中国共産党が作り出した歴史には、学生らの民主化運動を武力鎮圧した89年の天安門事件はなく、多大な犠牲者を出した文化大革命の本当の様子も分からない。これは歴史ではありません。
難しかったといえば大学2年で読んだ中国研究の先人の2著作です。それは私の研究の出発点です。
ゼミの恩師で後に慶応義塾長になる石川忠雄が59年に出した『中国共産党史研究』。過去の中国政治研究は上辺を追う中国革命史ばかりでしたが、共産党の党内闘争に焦点を当てます。共産党は一つではなく、内部に色々な集団があり、政策と権力を巡る闘争の中で動くことを実証的に解明した画期的な書です。
もう1冊は64年に中嶋嶺雄が28歳で書いた『現代中国論』です。後に文化大革命の分析を加えた増補版が出ます。中国共産党と毛沢東への批判的視点は斬新でした。私は卒業論文で社会主義中国の自由と民主の問題を取り上げ、それがライフワークになりましたが、その契機は中嶋の書を精読したことでした。
中国とは何かを考える時、立ち返るのが魯迅の視点です。『阿Q正伝・狂人日記』は中国人の奥底にある土着性をえぐり出し、その価値観を批判しました。だが締め付けが厳しい最近の中国で魯迅が取り上げられる機会は少ないようです。「現代中国にいたなら鋭さ故に牢屋(ろうや)に入っていただろう」との見方もあります。
現代中国史の理解に役立つのが山崎豊子の『大地の子』です。日本人なのに中国で育った残留孤児の生き様を通して、正義を追求しています。その取材力にも感銘を受けます。
最後に『聞き書 緒方貞子回顧録』を取り上げます。学者から転じ、国連難民高等弁務官として人道支援を指揮した姿に憧れ、今でも時々お話を伺っています。緒方が満州事変を研究した出発点は首相だった曽祖父、犬養毅の軍部による暗殺事件です。冷戦時代、ある学会で机上の空論を闘わせていた面々を彼女が批判した場面に居合わせました。そこには理念に留まらず現実を重視する生き方がにじみ出ていました。
(聞き手は編集委員 中沢克二)
[日本経済新聞朝刊2017年1月22日付]
[FT]信念とビジョンの人 国際機関を変えた緒方さん
日本人として唯一、女性としても初めて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を率いた緒方貞子さんが死去した。92歳だった。確固たる信念とビジョンを持って任務にあたり、国際的救援活動の概念を大きく広げた。
緒方さんはアフリカや東南アジアからバルカン半島に至るまで世界各地で紛争が相次ぎ、紛争から逃れた人が支援を必要としていた1991年初めから2000年末までの10年間、国連難民高等弁務官を務めたことで最もよく知られている。
最大の功績は、湾岸戦争でイラクのクルド人が窮状に陥ったのを受け、UNHCRの支援対象を国外に避難した難民だけでなく、国内の避難民にも広げたことだ。人道的取り組みを妨害する勢力に対しては、相手が政府でも国連の上司でもひるむことなく直談判した。
さらに、UNHCRの連携機関としての役割を変え、従来の法的保護に関わる組織から外交や人道主義の力で支援活動をする部隊へと変貌させた。
緒方さんは高等弁務官就任早々、画期的な「世界難民白書」の作成を指揮し、世界が直面している問題の重大さを各国に知らしめた。
■日本は人道支援に動かず
日本でも主に若い世代に対し、人道支援の必要性や日本の国際社会での義務について意識を喚起した。だが、これは必ずしも多くの行動にはつながらなかった。
この世代の日本人女性には珍しく、両親や夫の四十郎氏の支えに恵まれた。四十郎氏は日銀で国際畑を歩み、理事などを歴任した後、14年に死去した。2人は1男1女をもうけた。
緒方(旧姓中村)貞子さんは1927年9月16日、東京で生まれた。外交官だった父親の仕事で幼少時に米国、中国、香港で暮らし、英語を身につけた。聖心女子大を卒業後、米ジョージタウン大学で修士号、米カリフォルニア大バークレー校で博士号を取得した。
当時の外務省では女性、まして2人の幼い子どもを持つ母親は歓迎される存在ではなかったため、学者の道に進んで国際政治学の教授となり、後に上智大の学部長を務めた。
ところが、国際政治の専門知識(と卓越した英語力)を見込まれ、国連人権委員会など様々な国連機関の職に任じられた。人権委ではカンボジアとミャンマーの難民問題に取り組み、世界の子供を支援する国連児童基金(ユニセフ)の執行理事会議長にも就いた。
リベラルな環境で育ったが、日本の政界とは距離を置いていたため、高等弁務官のポストが空いても推薦してくれる国内の後ろ盾はいなかった。日本では最も優れた人材よりも、定年間近の必ずしも優秀というわけではない高官を国際機関に推すのが通例だった。
■英外交官が後ろ盾に
だが結局、こうした後ろ盾は必要なかった。親日家の英外交官ロバート・クーパー氏と、米政府の支援を受けた在ロンドン日本大使館の若手外交官がうまく働きかけてくれた。緒方さんは高等弁務官に就くことができたのはフィナンシャル・タイムズ(FT)紙に書いた私のコラムのおかげだと事あるごとに感謝してくれたが、彼女は高等弁務官として最適な人材であり、就任が決まる前の週にコラムは掲載されたものの大勢は既に決まっていたと私は答えていた。
緒方さんは高等弁務官退任後ものんびり休んではいなかった。02年には当時の小泉純一郎首相から外相就任を要請されたが、固辞した。
とはいえ、東京に戻ると海外支援やアフガニスタンを担当する閣僚級の要職を歴任した。回顧録も執筆し、支援に尽力した難民のことを常に気にかけていた。3年前の日本の新聞とのインタビューでは、日本が難民をごくわずかしか受け入れていないことについて「日本が特別な理由と必要性のある人に門戸を開いていないのなら、それは人権侵害だ」と断じた。
それでも、緒方さんは仕事一辺倒の戦士ではなかった。テニスはなかなかの腕前で、ジュネーブ在勤時にはゴルフも始めた。一日の終わりにクセの強いスコッチウイスキーをたしなむのが何よりの楽しみで「自分はたまたま日本人だった」と口癖のように言っていた。緒方さんと知り合えたことを光栄に思う。
By Jurek
Martin
(2019年11月1日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)
Wikipedia
緒方 貞子(おがた さだこ、1927年〈昭和2年〉9月16日 - 2019年〈令和元年〉10月22日[1][2][3])は、日本の国際政治学者。学位は、政治学博士(カリフォルニア大学バークレー校)。上智大学名誉教授。独立行政法人国際協力機構理事長、国連人権委員会日本政府代表、国連難民高等弁務官、アフガニスタン支援政府特別代表を歴任。また日本における模擬国連活動の創始者でもある。
1927年9月16日、東京府東京市麻布区(現東京都港区)に外交官・元フィンランド特命全権公使の中村豊一・恒子夫妻の長女として生まれる。命名は犬養毅による。父の転勤で幼少期をアメリカ・サンフランシスコ(バークレー)、中国・広東省、香港などで過ごす。
小学校5年生の時に日本に戻り、聖心女子学院に転入、聖心女子大学文学部英文科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を卒業(自治会の会長も務める)。その後、父や、聖心女子大学学長のブリットの勧めでジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校の大学院で学び、政治学の博士号を取得した。大学院での指導教員はアジアの政治・国際関係を専門としたロバート・スカラピーノ。
国際基督教大学准教授、上智大学教授を歴任する。在籍中は上智大学国際関係研究所長や外国語学部長などを務め、また模擬国連団体として初めて組織化された「模擬国連実行委員会[4]」の顧問として、発足に携わった。指導学生に野林健一橋大学名誉教授、納家政嗣一橋大学名誉教授などがいる[5]。
1968年(昭和43年)、国際基督教大学 (ICU) 講師を務めていた時に、参議院議員を務めていた市川房枝の訪問を受けて、市川から「今年(1968年)の国際連合総会日本代表団に加わって戴きたい」と要請される[6]。これが契機となって緒方自身は国際連合の仕事に関わるようになる[7]。
国連は1975年(昭和50年)を国際婦人年とすることを宣言。日本社会党の田中寿美子が参議院の外務委員会で「国際婦人年にちなみ、女性民間人を大使、公使に起用しては」と提言すると、宮澤喜一外務大臣は「ぜひ実現したい」と返答。曾野綾子や中根千枝など10人近くの候補が挙がるが、いずれも断られ、結局緒方が口説き落とされた。これにより緒方は女性国連公使第1号となった[8]。
国際連合児童基金 (UNICEF) 執行理事会議長、国連人権委員会日本政府代表、第8代国連難民高等弁務官:1990(平成2)年-2000(平成12)年他を務める。2001年(平成13年)からアフガニスタン支援政府特別代表、2003年(平成15年)から2013年 (平成25年)まで国際協力機構 (JICA) 理事長を務めた。
2002年(平成14年)、外務大臣田中真紀子の更迭時にはその後任に推す声もあったが、辞退した。本人は外相就任について後に、「かなり迷った」と述懐しており、就任に前向きだった時期もあったとされる[9]。しかし同時期に夫・四十郎の健康が悪化したことが最終的な辞退に繋がった[10]。
小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関として、2004年(平成16年)12月27日に設置された「皇室典範に関する有識者会議」に、メンバーの一人として参加した[11]。これは、いわゆる日本の皇位継承問題やそれに関連する制度(皇室典範)について、2005年(平成17年)1月より17回の会合を開き、同年11月24日には皇位継承について女性天皇・女系天皇の容認、長子優先を柱とした報告書を提出したようなものとなった[12]。なお、緒方と平成の皇室とは、上皇后美智子の母校が自身と同じ聖心女子大学であるという共通点がある。
2012年(平成24年)4月17日には、東京都内の外務省飯倉会館にて、当時の玄葉光一郎外務大臣主催で「緒方貞子氏の我が国及び国際社会への貢献に敬意を表すレセプション」が開催され[13]、当時の野田佳彦首相もあいさつをした。野田首相は、「昨年3月に私どもは東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)を経験しましたが、160を越える国から、40を越える国際機関から、温かい支援の申し出をいただきました。(中略)世界のために最前線に立って汗を流した日本人(=緒方貞子)がいたからこそ、このような世界から温かいご支援をいただいたものと思います。」とも述べた[14]。
夫・緒方四十郎(元日本銀行理事)は、朝日新聞社副社長や自由党総裁、吉田茂政権で副総理をつとめた緒方竹虎の三男である。緒方姓は竹虎の祖父・郁蔵(本姓大戸氏、備中(岡山県)出身)が緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗らせたことに始まる。長男の緒方篤(英語: Atsushi Ogata)は映画監督。
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中村豊一
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恒子
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(おば)
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緒方貞子
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1968年:国連総会日本政府代表顧問
1974年:国際基督教大学準教授(当時、他大学では助教授の職位が、ICUでは準教授と呼ばれていた)
1980年:上智大学教授
1981-85年:婦人問題企画推進会議委員
1982-85年:国連人権委員会日本政府代表
1983-87年:国際人道問題独立委員会委員
1987-88年:上智大学国際関係研究所長
1989-91年:上智大学外国語学部長
1999年1月1日:国連難民高等弁務官に再任(1998年9月29日国連総会にて再選。任期2年)
2000年12月31日:国連難民高等弁務官を退任
2001年:フランス・スウェーデン・ロシア・ドイツ・イタリアで受章
2002年1月21-22日:アフガニスタン復興支援国際会議共同議長
単著[編集]
Defiance
in Manchuria: the Making of Japanese Foreign Policy, 1931-1932, (Greenwood Press, 1964).
Normalization
with China: A Comparative Study of U.S. and Japanese Processes, (Institute of East Asian Studies,
University of California, 1988).
The
Turbulent Decade: Confronting the Refugee Crises of the 1990s(WW Norton, 2005).
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