証言・フルトヴェングラーがカラヤンか  川口マーン惠美  2020.3.17.


2020.3.17. 証言・フルトヴェングラーがカラヤンか

著者 川口マーン惠美 大阪生まれ。日大芸術学部卒。ドイツ・シュトゥットガルト国立音楽大学院ピアノ科卒。シュトゥットガルト在住。著書に『フセイン独裁下のイラクで暮らして』など

発行日           2008.10.25.
発行所           新潮社 (新潮選書)

20-02 フルトヴェングラーがカラヤンか』参照

ベルリン・フィル全盛時代の楽員たちが、初めて語ってくれた本格インタビュー集。ドイツ精神主義の化身・フルトヴェングラーと、飽くなき音響美の追求者・カラヤン。共同作業した音楽家でなければわからない二大マエストロの秘密を、臨場感溢れる語り口で解き明かす。音楽ファンならずとも巻き込まれること請け合いの1

プロローグ
フルトヴェングラー(188619541922年ベルリン・フィルの芸術監督)
カラヤン(190819891955年ベルリン・フィルの常任指揮者・芸術監督)
07年、両方の指揮者の下で演奏したベルリン・フィルの団員の何人かがまだ健在だということを知った私は、彼らに2人の指揮者のことを語ってもらおうと考えた。最高齢者は96
本書は、彼らにありのままに語ってもらった、在りし日の両巨匠とのつれづれを書き記したもの。彼らが語ったのは両巨匠の生身の人間の物語だった

第1章        テーリヒェン氏との対話
ブルックナーの第8番最終楽章冒頭でティンパニのソロが始まると聴衆の視線が彼に釘付けになったといわれる圧倒的な存在感を誇った名人ティンパニ奏者。1921年生まれ
筋金入りのフルトヴェングラー信奉者
47年、非ナチ化の措置で禁じられていた音楽活動を再開したベルリン国立歌劇場での《トリスタンとイゾルデ》のリハーサルが最初の出会い。前奏曲がチェロのアウフタクト(メロディの冒頭が小節線の直前の音符()から始まる形式)から始まるが、フルトヴェングラーはものすごくゆっくりと右手を下ろしていき、こんな合図で誰が出られるのかと思ってじっと待つと、いつ出てきたのかもわからないうちに、完全な無の中から限りなく濃厚で温かいずっしりとしたチェロの音が湧き出てきた
音楽を愛することとはどういうことかを、身をもって団員に示した
彼の指揮棒は、こう弾けという命令を出す指揮棒ではなく、作曲家の意図を受信するアンテナであり、オーケストラの響きを受信するアンテナ
フルトヴェングラーは、指揮を始める前に、すでに体全体で音楽を感じ、体中が感動で一杯になっている。ベートーヴェンの第5番の冒頭では、強い感動を表わすかのように、ただ指揮棒をブルブル震わせているだけ。団員はどうやって始めたらいいのか、彼の感動を分かち合おうと必死になった
カラヤンに代わったとき戸惑いもあったが、カラヤンは目を瞑(つむ)ってただ手を動かしているだけだったので、オーケストラはフルトヴェングラーの遺産を踏襲し、独自の能力で演奏していけた。室内楽的能力のある団員がそろっていたので、他の楽器の音を聴きながら曲を作り上げるのはわけもなかった。それが魔術師カラヤンの正体
死後10年は影響が続くが、カラヤンの全面的影響下に入ると、それなりのクオリティしか発揮できず、ベートーヴェンだって最後まで大きな変化はなかった
カラヤンとベルリン・フィルは、ベートーヴェンの交響曲を3度録音。最初が数々の賞を取った62年、次いで76年、最後がデジタルで83年。どれほどの変化はなく、ただエレガントなだけ。病気の後2度録音をし、以前とは違った境地に達したとの評判から売れたし、CDも同じことをやって爆発的に売れたが、カラヤンの演奏が変わったとは思わない。聴衆がそう錯覚しただけで、カラヤンは自分の病気まで売り込みの材料にした
カラヤンの指揮に欠けているのは感情。オーケストラも感情なしで演奏。終始目を瞑っていてはオーケストラとの交信はないも同然。フルトヴェングラーは、自分のイメージした音を引き出そうとするとき、我々に向かって悲痛な、懇願するような目をしたもの
フルトヴェングラーの音楽には、無邪気さとか、ひたむきさがある。感情から作られ、オーケストラと指揮者が互いに感情を享受し合い、その結果出来上がってくる響き
フルトヴェングラー亡き後の指揮者候補は何人もいて、カラヤンが第1候補ではあったが、団員の誰も終身の首席にしようとは思っていなかったのに、アメリカ公演の前の記者会見で、文化大臣に根回しして、「フルトヴェングラーの後継者になりたいか」との質問をするよう頼み、カラヤンは「千の喜びを持って!」と回答したのが世界中に発信され、事実上後継者が決まってしまった ⇒ オーケストラを統率するのに権力を必要としたカラヤンの下では、団員にとって不幸だった
カラヤンが終身に拘ったのは、駆け出しのころウルムで首になって1年間無職だった体験がトラウマになって、1度手にしたポストを失うのを常に怖れていた
フルトヴェングラーの不安は、音楽上の表現が叶わないことへの不安で、地位や名声ではない
音楽において一番大切なのは、感情を表現することで、感情のない音楽は音楽ではない
カラヤンのオペラの指揮はよかったが、それは歌手や脚本が感情面を補ってくれたから
カラヤンを否定しながら、自らが描いたカラヤンの水彩の肖像画を書斎に架けていた

第2章        バスティアーン氏との対話
テーリヒェンの紹介で訪問。96歳。第1ヴァイオリンで、後年第3コンサートマスター
フルトヴェングラーに初めて会ったのは34年。音大卒後すぐのベルリン・フィルの仮入団試験の時。爾来20年をフルトヴェングラーの下で、その後22年をカラヤンの下で演奏
45年にはバスティアーン弦楽四重奏団を結成し、オーケストラと並行して活動
カラヤンは世界に名の通った広告塔のような存在。フルトヴェングラーは音楽の中で生きていた。指揮している間は、自分だけの別世界に生きていたが、カラヤンの指揮にはいつも計算があった。フルトヴェングラーが感情の人なら、カラヤンは知性の人
フルトヴェングラーとカラヤンを較べることはできない。フルトヴェングラーの音楽に対する態度は最高のものだったが、カラヤンの態度が演奏の邪魔になったことはない
音楽家として自分のために音楽をしているので、どの指揮者の下でも自分がいいと思った音楽をしているから、テーリヒェンの言うような不幸を感じたことはないが、私が誰かのために音楽をしたことがあるとするなら、それはフルトヴェングラーのためだった
フルトヴェングラーはいつも、自分の心の中に音楽を引っ提げてリハーサルに来る。そしてそれを動作で私たちに示そうとした。音楽を体の動きで目に見える形にするにはどうすればよいかを知っていた唯一の指揮者。フルトヴェングラーにとっては音楽が一番重要で、指揮をしている時が最高の時間だった
カラヤンにとっては、音楽がすべてではなかった。自分が聴衆に対してどういう効果を発揮するかということが非常に重要だった。フルトヴェングラーは音楽のために指揮をしていたが、カラヤンは聴衆のために指揮をしていた。カラヤンの音楽は聴衆のためにあった
カラヤンは新しいものが好きだったが、フルトヴェングラーは新しいものに対して常に懐疑的 ⇒ 録音がいい例。フルトヴェングラーは曲が中断されることに堪えられなかった
音楽は、演奏者にとっていつもその瞬間、新しいもので、過去のものと比較することはできない。音楽は恒久的なものではなく、常に変化していくもの
バスティアーン夫人が、ご主人の言葉で一番印象に残っているのは、「フルトヴェングラーのリハーサルはいつもコンサートのようだった」というもの。いつもお互い真剣勝負だった
娘婿はベルリン・フィルのヴィオラ奏者で、音楽は次の世代へと受け継がれている

第3章        ハルトマン氏との対話
テーリヒェンの紹介。1920年ライプツィヒ生まれ。87歳のコントラバス奏者。ゲヴァントハウスでエキストラをやり、ロシア戦線で右手を負傷して退役。43年ベルリン・フィルへ入団、以後85年まで活躍
フルトヴェングラーは、絶対的に最高の指揮者。オーケストラを極めて上手にまとめた、教育したといってもいい
戦争でフィルハーモニー・ホールは焼け落ちたが、石の建物は残り仮修復されて、45416日にはベルリン・フィルが「帝国オーケストラ」として最後の演奏会をしている
521日には戦後初のリハーサルを行うなど、ベルリン・フィルは戦中も戦後も間断なく活動を続けている
正真正銘のナチ党員がトランペット、チェロ、ヴァイオリン3人の計5名いて、戦後まもなく去ったが、残りは決してナチではない
カラヤンは、団員の無記名投票により、圧倒的多数で選ばれた
チェリビダッケは、フルトヴェングラーのいない間ベルリン・フィルを指揮。フルトヴェングラーがウィーンに行くかもしれないとなって、ベルリンの聴衆はチェリビダッケを次の首席指揮者と見做し始めていた。ベルリン・フィルの危機を救った貢献者であるチェリビダッケが、自らをフルトヴェングラーの後継者だと思い込んだとしても間違いではなかったが、団員は2小節ごとに過酷な注文を付けるリハーサルにはついていけなかった
特にチェリビダッケにとってコントラバスやファゴットは常にうるさ過ぎたようで、どんなに弱く演奏しても「もっと弱く」とくる。フルトヴェングラーは重厚なバスが好きで、低音部をしっかり構築するタイプの指揮者。だから彼の響きはしっかり安定していて美しい
あとになって終身というのはよくないとわかったが、選んだときは候補者はただ1人だったといってもいい
カラヤンは、団員の期待を裏切らなかった。就任直後のアメリカ公演もカーネギーホールの外では(抗議の)ハトが飛んでいたが大成功だったし、どんどん新しい曲をレパートリーに加え、どこに行っても演奏会は大成功。短期間にベルリン・フィルを大躍進させたし、団員は経済的にも豊かになり幸せだった
ただ、栄光は長くは続かず、カラヤンとオーケストラの関係が崩れ始める ⇒ 70年代から不協和音の兆候があり、過密スケジュールの中でカラヤンが体調を壊し始めたのに、体調の悪さを隠したままただただ気難しく、わがままで怒りやすくなるばかりで、誰もそこまでの重病だとは知らないまま、その酷さが団員の忍耐の限度を超えてしまった
そこに勃発したのがザビーネ・マイヤー事件で、一応の和解に漕ぎ着けたが、最後まで元に戻ることはなかった
体調が悪化したのをオーケストラがカバーすべく他の指揮者を起用しようとすると、徹底的に妨害。カラヤンの最後は、不名誉な、恥ずべきもので、非常に残念な結末だったが、だからと言って彼の功績を過小評価したくはない
フルトヴェングラーは前任者のニキシュから多くを学び、受け継いだが、カラヤンは、フルトヴェングラーの息の長い美しい響きを受け継ぎ、それを次第にほっそりとしなやかに改変、アメリカ風、トスカニーニ風にしていった。トスカニーニがカラヤンのお手本
フルトヴェングラーとカラヤンを較べるのは不可能
カラヤンの悪口は一切言わず、指揮者としては認めていても、有能なボスに対する敬意であり、敬愛ではない
カラヤンは亡くなってまだ20年も経たないのにもう忘れられつつあるような気がするが、フルトヴェングラーは没後50年以上も経つのにいまだに偉大で傑出している

第4章        ピースクとの対話
ファゴット奏者。194787年団員、57年からソロ。55年から音大で教鞭。3845年召集。45年末捕虜収容所から戻り、46年にはベルリン放送交響楽団で演奏
政治に対する無関心は、往年のベルリン・フィルの団員の共通項
人間関係には興味はなく、フルトヴェングラーであろうとカラヤンであろうと、ベルリン・フィルという素晴らしいオーケストラで演奏し、学べることが嬉しくてたまらなかった
フルトヴェングラーの音楽が予測できなかったのに対し、カラヤンは自分がどういう風に演奏したいかを事前に示し、その通りに指揮をした
カラヤンは、あらゆる機会を使って録音した。ほかのところで録音したものを挿入するなんてことは朝飯前だったし、あとから吹いている真似だけをした画像を撮るプレイバックも日常茶飯事で、引退後もプレイバックに引っ張り出された。コーラスの中に入るソリストのカットが不自然だったのもプレイバックだったからだし、ビデオをよく見ると団員の動作と音楽が合っていないところがたくさんある。当時は皆、カラヤンのこのやり方に対して怒っていたが、出来上がったビデオはよく売れたので、我々も儲かったのは事実
どの演奏がよかったとか好きだったかなど考えても見たことはない
録音で変わったのは、カラヤンの音楽というより録音の技術で、音楽性の変遷ではなく、技術の進歩といえるし、カラヤンにとっても一番興味のあったのはまさにその技術だった
熱心だったのは、録音や録画の技術を取り入れる努力で、技師には熱心に指示を出したが、オーケストラに対しては大した要求を出さなかった
指揮者の批評をするのはオーケストラの仕事ではない。指揮者の要求に従って全体として音を合わせなければ、オーケストラで演奏する資格はない。オーケストラは指揮者の娼婦で、指揮者の要求したことを全部叶える。その代り、出来上がった音楽についての責任はすべて指揮者が持つ
優秀なオーケストラとは、指揮者のしたいことを、そのままそっくり実現させてやれるオーケストラで、団員全員が、自分の音楽性を指揮者のそれに即座に擦り合わせる能力を持っていること。それには知性と冷静さが必要
オーケストラで一番大切なのは、一体になる気持ちで、ドイツ的とか何的かということではない。ベルリン・フィルは前も今もこれからも変わらない

第5章        テーリヒェン氏との対話 その2
カラヤンは、意識的に音楽表現の中からプライベートなものを一切排除した。彼の手の動きは、いつも円を描く、目を瞑って円を描く。突起や点のような動きを使わない。回転運動は、主観の排除であり、客観のみを表わす。最晩年には感情が入ってきたのは、感情の必要性に気づいたからでは。特に、オペラにおいて、非常に劇的な演奏に移行していった
音楽にはそれ自体の力がある。その力が指揮者の心に訴え、響き、影響を与えるので、主観なしで指揮するということは、音楽の訴えに対して心を閉ざすことでしかない
カラヤンのベートーヴェンには、フルトヴェングラーの持っていた灼熱=焼けつくような激情激情=恐ろしいばかりの絶望といった要素がない。クールでスマート、それが新しい解釈として持て囃されたが、それがドイツ的かというと疑問
今のベルリン・フィルは非常に変わった。前面に出ているのは、能力力量、技術といったもので、感情はとても希薄なので、フルトヴェングラーの時のように我々を震撼させることはない
カラヤンの下でも30年いたが、その間9年間はオーケストラの幹事を務め、多くの成功を収めた。独自の活動をし、しばしば新聞にも登場したが、同僚から妬まれ、もう1人の首席奏者との関係が悪化し、不協和音が明るみに出たのが原因で、最後の2年はカラヤンの下では全く演奏をしなかった。カラヤンは調停することもできたが、決してそれをしなかった。オーケストラの父親役を演ずる興味や力量は彼にはなかった

第6章        ハルトマン氏との対話 その2
「すべては自分のために」というのが、カラヤンの欠点だった

第7章        ゲアハルト氏との対話
1928年生まれ。ヴィオラ奏者。フランクフルトの音楽エリート・ギムナジウム(5から高4までの9年の一貫教育)卒。55年フルトヴェングラー没後半年してベルリン・フィル入団
カラヤンの最初の印象は、素晴らしい記憶力の持ち主で、一緒に良いリハーサルのできる男、というもの
フルトヴェングラーからカラヤンへの移行に戸惑っていたことは、団員の間でもしばしば話題になっていた。56年のアメリカ公演中、大都市以外ではカラヤンはほとんどリハーサルをしなかった。バスで大陸を移動したので、体力を使いたくなかったのと、小さい都市での演奏は彼にとっては関心なく、大都市での反響が大事だったからだろう
カラヤンが目を瞑って指揮していたのはよくない。当時のソロ・フルートのニコレも、「すべてを頭の中に持っているのに、それを我々に示して、オーケストラを統率しようとしない」と嘆いていた。オーケストラに弾かせて彼はそれに乗るだけ。オーケストラのやったことが気に入らなくてカラヤンが顔をしかめたこともあった
カラヤンはもともと自己を厳しく律するタイプ。そんな彼でもオペラの時は感情を出した。自己を律するカラヤンの気質は病気になってから最大の効果を発揮。晩年のカラヤンは自己を律する力のみで指揮をしていたようなもの。誰も絶対に彼を助けてはならなかった。指揮台に上がることが困難になった時でも手を貸してはいけなかった
家族のことも含め、プライべートなことは一切話さず
ベルリン・フィルの首席でありながら、ザルツブルクとサンモリッツとウィーンに家を持ち、ベルリンではホテル住まいということは、彼にとってベルリンは自分の欲望を満足させるためのポジションでしかなく、それをとことん利用した。特にレコーディングのために、ベルリン・フィルとの時間を最大限利用 ⇒ 19711月の日記を見ると、2日から毎日どころか、1日のうちでも何曲もひたすら録音ばかり
ビデオは、カラヤンの晩年のおもちゃ。自宅のスタジオでフィルムの切り貼りをやっていた。団員はプレイバックばかりやらされてうんざり
マイヤー事件のずっと前からオーケストラとカラヤンの関係は悪化。ゲアハルトは76年にオーケストラの幹事を辞退したのは、カラヤンがひどいエゴイストになっていってしまったからで、彼との話し合いすら困難。ベルリン・フィルの独占領分だったイースター音楽祭をウィーン・フィルとやることが新聞に報道されてカラヤンを問い質したが明確な答えは返ってこなかった。後継者について考えるべき時だと慎重に切り出した際の答えは、「その時はどうせすべてが崩壊するだろう」で、それが70年代のカラヤンだった
カラヤンは、「私は命令を受けるためではなく、命令を下すために存在する」と何度も言った
聴衆やマスコミもカラヤンを祭り上げ、オーケストラはカラヤンなしでも演奏できたが、聴衆はカラヤンを見に来た
演奏会の後、カラヤンは拍手に応えるために4回舞台に現れる、それでおしまい。こうなったのは70年代、このころからカラヤンは非常にうぬぼれが強くなった。以前は引っ込み思案で人と接することを避けていたが、この頃になると必要とあらばにこやかにサインをしたり、人々と鷹揚に話したりするようになった。ベルリンの名誉市民となったのもこの時期。カラヤンの演出のうまさも、聴衆の熱狂ぶりも尋常ではなかった。特に音楽祭や新しいホールの落としなどそれが顕著で、最初に元ファッションモデルの妻エリエットがスポットライトを浴びて客席につき、そのあとおもむろにカラヤンが登場
病気で指揮できなくなっても代わりの指揮者を使うことを妨害。セミョン・ビシュコフというロシア人を自分の後継者として提案したことがある。力をつけてきた指揮者で何度か彼の指揮で演奏、今はケルン放送交響楽団の首席を務めていてなかなかいいが、カラヤンの後継者とはだれも思っていない。フルトヴェングラーの時も自分の後継者にシュトゥッツガルト室内管弦楽団の指揮者カール・ミュンヒンガーを提案したことがあり、その時と同じだったかもしれない
カラヤンの評価は近い将来確定するだろうが、今でも確かなのは、①一番有名な指揮者、②一番たくさんの録音を残した指揮者、ということは誰よりもたくさん仕事をしたということ、③にもかかわらずある意味、失敗した指揮者、我々がカラヤンと大きなトラブルを抱えていたのに、あまりにも長くすべてのものを手放さずにいた
カラヤンが映像に夢中になったのは、57年初の訪日で、演奏会がライヴで放映された翌日、デパートで多くの日本人に話しかけられ、映像の影響力に気づいたからで、当時ドイツではまだ演奏会のライヴなど放映していなかった
ゲアハルトも最初はカラヤンのファンだったが、彼があまりに変わってしまってついていけなくなった。カラヤンの政治力、そして彼が団員に対してとった態度に我慢がならなかったのが私がカラヤンから離れた理由
カラヤンは録音で凄まじく儲けたし、公演旅行でも興行主と別途契約を結んでいた。金持ちなのにケチで、若いフルート奏者が幼い家族を残して死んだとき、団員が寄付を集めることになり、カラヤンに報告すると、集まった額と同額を寄付するといい、団員が頑張って2万マルク集めたら、そんなに出せるわけがないと言って5千マルクに値切ってきた

第8章        カール・ライスター氏との対話
1937年生まれ。58年仮入団。ソロ・クラリネット奏者。サイトウ・キネン・オーケストラでは25年の常連。外部でも華やかに活動したのがカラヤンの気に障ったのか、カラヤンの生前は激しく対立した時期も長かった。カラヤンの死後「何かが突然欠けてしまった」として4年後に退団、ベルリン音楽大学の教授として後進の指導に当たる
カラヤンとの最初の出会いは55年、同じクラリネット奏者の父親が所属するオーケストラの指揮をしたときに、オーケストラ・ピットから見た
59年正式入団以来30年カラヤンの下で演奏。カラヤンの没後アバドの下で4年、さらに自由契約の団員として4年、後任のソロが決まるまで留まる
今年のイースター音楽祭では、ラトルに招かれて演奏したが、ラトルはカラヤン程響きを大切にする指揮者ではない。カラヤンの響きに対する感覚は異常なほどで、4種類の木管の響きを1つの木管グループとして調和させるが、ラトルは違う楽器の11つの響きを際立たせようとする
カラヤンは、確固としたビジョンを持ち、生涯追求した。最後までそれに到達するために努力し続けた。特にリハーサルでは、執拗に自分の理想の音楽を追求し思い通りになるまで諦めなかったし、彼のその姿勢は最後の最後まで一度も壊れることはなかった
他の団員の評判とは裏腹に、カラヤンは卓越したリハーサル人間だという
対照的に、アバドはあまりリハーサルをせず、演奏会では素晴らしい指揮者であることを証明したが、オーケストラの音楽は、響きも技術も多くはカラヤンの遺産だった
カラヤンは、独裁者どころか、音楽のために我々にとことん要求した要求者
入団したころはまだ新入りに同僚をみんなで指導していたが、カラヤンさえ屡々11で新入りの養成に取り組んだ。私もカラヤンの部屋で教えてもらい、本当に細かいところまで、どうしたいかをはっきりと伝え、要求するのが常だった
要求され、その要求に応えて努力すること。カラヤンはいつも過酷なほどに要求した。これこそがカラヤンの偉大なところ。徹底的にリハーサルをした後は、オーケストラを信頼し、自主的に演奏させる
カラヤンはかつて「自分にとって一番困難な曲は《ボレロ》、何故ならソロの誰かに何かが起こったとしても、私はどうすることもできない。だから私の恐怖は、あなた方ソリストよりももっと大きい」と言ったが、カラヤンは指揮台上で全責任を負い、孤独だった
一番印象に残る演奏はオペラで、《ラ・ボエーム》。カラヤンはムゼッタ役にソプラノを6人呼ぶ。彼が聴きたかったのはディミヌエンド。6人目でようやく完璧なものを得たときは幸せの絶頂だったようだ。こんなことができるほどカラヤンの力は絶大
カラヤンの響きに対する理想が完全に実現されたのが、ドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》で、ソプラノはシュターデ。45年前のヴェルディの《レクイエム》も素晴らしい録音。スカラ座でパヴァロッティとのもの。84年のカーネギーホールでのマーラーの《第9番―死の交響曲》も凄まじい演奏
カラヤンはオペラの指揮が最高。彼にとって歌手は何か特別の存在。カラヤン程歌手たちと良いリハーサルをした指揮者はいない。下積みから経験しているから歌手たちと良い仕事ができた。すべての歌詞を暗記。言葉のできないオペラ座の指揮者はあり得ない
フルトヴェングラーにとっては、音楽は1つの作品で、部分を取り換えることはできなかったが、カラヤンは1小節でも取り換えた
時間がたってからのプレイバックはいつも大変。楽器は整然と並んでいなければならず、実際の演奏ではありえないので不自然だが、カラヤンの頭の中の美しさのためにやった
ザビーネ・マイヤー事件では、カラヤンの無理な要求を拒否したオーケストラに対し、彼は「オーケストラが的確な判断を下せるかどうか疑わしい」と言ったので、我々は「あなたを選んだのも私たちだ」と答えた。結果的に両者の関係は二度と修復できず。カラヤンのようなセンシティヴな人間は、我々との和解など絶対に認めず、関係はどんどん悪化
イースターの演奏会で、ヴェルディの《レクイエム》を指揮した後、聴衆の拍手を制止し、ベルリン・フィルに対して「もう二度と指揮しない」という手紙を送りつけてきた

第9章        ヴァッツェル氏との対話
1943年生まれ。現役コントラバス奏者。ケンペのミュンヘン・フィルから68年入団。65歳で定年。カラヤンの下で21年演奏したが、一度も言葉を交わしたことはない。私は畏怖の念を覚えるし、カラヤンは私のことなど知らなかっただろう
カラヤンには、こうしたいという理想があり、決して妥協しなかった。厳格な教育者だが、コンサートではその手綱を緩めて、オーケストラに多大な自由を与え、我々はリハーサルでやったことを元に、演奏会では自由に演奏することができた
カラヤンにとって聴衆は大した意味を持たなかった。一例は、大阪公演でのこと。最初の曲はリヒャルト・シュトラウスの《ドン・ファン》なのに、ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》と勘違いし9/8拍子を振り始めた。テレビの録画も入っていて、困ったオーケストラは思い切ってコンマスの合図で《ドン・ファン》に飛び込む。見事な始まりで、聴衆も気づかなかったろうが、カラヤンは即座に中断しやり直した。彼にとって自分の名声より音楽が大切だったことが分かる
21年でカラヤンが変わったのは、指揮者は自分の欲しい音楽を体で表現してオーケストラに伝え音を出してもらわなければならないが、年とともに表現することが困難になってきた。美を追求するため、レガートに関して異常なほどの拘りがあったことと、響きに対する驚くべき敏感さが素晴らしい
音楽が、それぞれの指揮者によって異なって解釈されるのは当たり前。指揮者には自分の望むように音楽を作る正当な権利がある。フルトヴェングラーとカラヤンは、まるで違った理想を掲げていたので、違った音楽になるのは当たり前
フルトヴェングラーは生前カラヤンを認めなかった。彼のカラヤン攻撃は凄まじく、書簡集を見ると、いくら嫌ったからと言っても、いろいろな人に宛てた手紙の中でカラヤンの音楽について書いている部分はあまりにもひどく、読むに堪えない
フルトヴェングラーからカラヤンに代わったときは、どちらかというと緊急事態だったので、カラヤンは出来上がったものをそのまま受け継ごうとしたのだろう。アバドのときは、カラヤンの音楽を何も受け継ごうとはしなかった。アバドにとって大切なのは絶対的な美ではなく、正確ではないかもしれないが、本能やひらめきがある。現在のラトルの音楽には、おおらかで、寛いだ、人間的な温かさがある
カラヤンが目を瞑って指揮をしていたのは、自分の存在を引っ込め音楽に席を譲ったのか、はたまた傲慢だっただけだったのか。晩年目を開けて指揮をするようになったからといって、何も変わらなかった。カラヤンは目を開けても我々を見てはいなかったのだから
カラヤンは、信じられないほど自分に厳しい人。仕事に対する姿勢は凄まじかった。すべての曲を熟知し、オペラでもスコアを見ずに最後まで指揮できた
録画は演出が多過ぎて見るに堪えない。本物のカラヤンはもっと良かったと言いたくなる
カラヤンは自分のの基準に合わせて映像を作った。オーケストラの団員にはスタジオでプレイバックさせた。不自然極まりない。まったくバカバカしいこと
ザビーネ・マイヤー事件は、カラヤンが自分に対する抵抗を感じた初めての瞬間だったろう。他人が自分と違う意見を持つことに我慢がならない。批判を受け入れられないというのは自分に自信がないから。昔失業したのがトラウマになっているし、彼にとってオーケストラは常に敵なのだ

第10章     ヴァインスハイマー氏との対話
カラヤンは、僕の人生に決定的な影響を与えた。僕の人生を決定した
ヘアフルトの北西ドイツ・フィルのチェリストから、56年ベルリン・フィルのオーディションを受け、まったく自信がなく即席の練習だったのに14人の候補の中から選ばれた
リハーサルではいつも明確に、カラヤンが何を求めているかが提示された
57年の日本での16公演はすべて違うプログラムで、リハーサルを全然やらないのにどれも完璧。音楽の上でカラヤンはすべて正しく、彼の指揮に従って演奏すればベスト。同時に、ソリストには自由を与え、思いのままに演奏させた。これこそがカラヤンの信じられない功績。カラヤンのリハーサルは徹底していた。絶対に必要だと思ったことだけを簡潔に説明し、全員がそれに耳を傾けた。こういう指揮者を僕は他に知らない
僕の発案で、チェロ・セクション12人全員が参加した史上初のチェロだけで編成したアンサンブル「ベルリン・フィルの12人のチェリスト」を結成、わずか5年で世界的に有名になり、現在でも継承されている。74年のザルツブルクでの演奏会にカラヤンを招待。ブラッヒャーが我々のために書いた《ブルース・エスパニョーラ・ルンバ》というひどく難しい曲を演奏。彼に感想を聞くと「あんな曲を指揮者なしで演奏できることが信じられない! あなた方にまだ何を要求できるかがよく分かった」といった。我々の成功に焼きもちを焼いたのか、その年の後半カラヤンは唐突に思い付き、「チェロ12本と木管・金管・打楽器で演奏会をする、指揮者は私だ!」と言われ、翌年ヴァインベルガー作曲の《プレイズ》を初演、他の音楽祭などでも演奏し、大成功を収める
ベルリン・フィルのカーネギーホールでの公演の時も、同日の夜同じホールで「12人のチェリスト」の公演が予定されていたが、急にエージェントからキャンセルが入り、慌ててドイツ大使館から小ホールを手配してもらって無事演奏会をすることができた。同じホールで同日の夜に我々が演奏会をするなどカラヤンは許せなかったのだろう
カラヤンの響きは信じられない美しさ。印象に残る演奏は、67年のザルツブルクでの《ワルキューレ》、65年アテネでのヴェルディの《レクイエム》
カラヤンのために一生懸命弾いた。座っているとカラヤンの意思や要求、求めているイメージをはっきりと感じ取ることができた。彼は非常な集中力で内に向かって指揮をする。その緊張が我々に伝わる。カラヤン以後この響きは二度と達成されなかった
一度だけ、カラヤンに「もう、あなたにはうんざりだ!」といったことがある ⇒ 79年、初の北京公演の時、東京から一足先に北京に行って会場の下見をすると、大きな体育館に絨毯が敷いてある。子供たちのためにどかせないという。団員が北京に到着した時には、タラップが壊れ、団員の2人ソロ・オーボエのコッホとチェロのヴェドウが6m落下して大怪我。コンマスも絨毯には反対だったが、カラヤンは自分が連れてきた音響技師に異存なければいいと言ってそのまま本番へ。満員の聴衆で演奏会はベルリン・フィル史上最悪の結果を招き、夜になってカラヤンが僕が絨毯を敷いたせいで台無しにしたと怒っているというので、カラヤンに説明したが、自分の非は一切認めず、さすがの僕も堪忍袋の緒が切れて冒頭の一言となった。でも彼は別に気を悪くしなかった。相性かも
マイヤー事件の時、私はオーケストラの幹事だったが、カラヤンは誰とも話さなかった
一番不愉快だったのはマスコミ。元旦の新聞に「カラヤンのオーケストラで騒動」とのスクープ。エスカレートさせたのはマスコミ
誰が語っても、カラヤンの晩年は悲しい
ヴァインスハイマーは、義父が日本語学の教授だった関係もあって、66年から早稲田大と繋がりがあり、大隈講堂でチェロの四重奏の演奏会を開催、その後もベルリン・フィルのメンバーによる室内楽の演奏会がしばしば開催された。早稲田大のオーケストラの名誉理事もしていて、大学のオーケストラは78年国際青少年オーケストラコンクールでカラヤン金賞を受賞、カラヤンも79年早稲田大から名誉博士号を授与

第11章     ツェッペリッツ氏との対話
誰のインタビューも受けないということだったが、例外で面談。すべては終わったことで、今更どうこう言いたくはないというのが本音
84年、インタビューでこう語っていた。「オーケストラは、フルトヴェングラーの父親みたいなもの、カラヤンも同じ。マイヤー事件での対立の間も我々はベストを尽くさねばならない。1年間の反目が何でしょう。彼と袂を分かつようなことはしたくない。我々は慎重に行動し、最後まで共演した。カラヤンは偉大な指揮者であり、彼のことは大目に見なければならない。我々はフルトヴェングラーの狂気に耐えたのだから、今また同じことをすればよい」
チェリストだった父の仕事の関係でオランダ領ジャワ島で生まれた。戦前にドイツに戻りデュッセルドルフの音楽大で教え、ツェッペリッツ氏もそこで勉強。最初はヴァイオリンだったが父の移行でコントラバスに転向。18歳でデュッセルドルフのオーケストラで補助要員として演奏、19歳でボンのソロ。51年に23人の中から選ばれてベルリン・フィル入団。チェリビダッケの全盛期だが、フルトヴェングラーの指揮で演奏した時は衝撃的。音楽の大きさが違った。感動し畏敬の念を持つ。人間的にも難しかったが、3年間は貴重な経験。フルトヴェングラーは偉大なロマンチスト。常に美しい響きを追求し、大概不満そうだったが、カラヤンは晩年ひどい病気だったが、指揮している間だけはどんな痛みも忘れていた
ツェッペリッツはカラヤンのことを、ベルリン・フィルの広報誌の中で、「理想的な首席指揮者」と語り、「ベルリン・フィルは彼のおかげで、オペラを演奏することを学んだ」とも。17年間オーケストラの幹事を務め、カラヤンの難しさをよく知るが、浅からぬ敬意を抱く
今の団員は、定年までの契約でない人が多いが、昔はクビの心配がなかった

第12章     ハルトマン氏との対話 その3
1934年、破産寸前だったベルリン・フィルは、「帝国オーケストラ」として新設の「国民啓蒙とプロパガンダ省」の傘下に入る。大臣はゲッペルス。ベルリン・フィルは経済的な保証を得て、団員も公務員のステータスを得る
ドイツの威信のために利用されたが、初めて党大会で演奏したのは36年ペーター・ラーベの指揮で、1か月後にはベルリン・オリンピックの開会式にもリヒャルト・シュトラウスの指揮で登場。以後政治的色彩の濃い場面で演奏。ヒトラー追悼の音楽もフルトヴェングラー指揮の録音でブルックナーの第7番のアダージョとワーグナーの《神々の黄昏》葬送行進曲
団員の中にバリバリのナチが5,6人いて、ヴァイオリン奏者の1人は「血の犬」と呼ばれた密告者で、戦後団員の手で追われた
戦時中は特権を享受していたのも確か。兵役は免除。オーケストラの中では最高の給料。国内外の演奏旅行では貴重な物資も入手できて家族が潤った
敗戦前の最後の演奏会は416日の昼。終戦直前でも人々は唯一の気分転換を求めて殺到した
降伏の日の8日には支配人ヴェスターマンからから演奏の準備ができているかどうかの問い合わせがあり、13日には打ち合わせ、ドイツ人指揮者はナチ協力の嫌疑で連合軍から音楽活動を禁じられており、ようやくロシア人のレオ・ボルヒャルト(18991945)と折り合いがつき、26日には焼け残ったティタニア・パラストで戦後初の演奏会。これも満員
ボルヒャルトは、直後に事故で死去、チェリビダッケの短く華やかな全盛時代が始まる
ソ連軍による統制や妨害はなかったが、ベルリン駐留のロシア人は皆田舎者で、彼らのためにショスタコーヴィチの交響曲を演奏した際、第1楽章の終わりで盛大な拍手をしてくれたので、チェリビダッケはにっこり笑ってそれで曲を終りにした

第13章     フィンケ氏との対話
チェリスト。1920年生まれ。まだレコーディングを続けている。37年ベルリン音大でチェロの勉強を始めるが、39年召集。開戦直後に解除され復学するが、師のザルツブルク移住を追ってザルツブルクへ。兵役免除の試験に合格するが、間もなく全面戦争に突入して兵役に戻りチロルで終戦を迎えザルツブルクに戻る
ドイツが正常に復するには時間がかかると見限って、47年ブラジル交響楽団のソロ奏者となったが、それがオーケストラと演奏する初めての体験
50年ベルリン・フィルの第1ソロ・チェリストに応募して採用。はじめてフルトヴェングラーの指揮でリハーサルに臨んだ時に《魔弾の射手》で聴いた音は、今まで知っていたオーケストラの音とはまるで違う、信じ難いほどの素晴らしい響き
フルトヴェングラーは、技術的なことはうるさく言わず、それぞれの楽器グループに任せ、弓使いはコンマスが皆と相談しながら決めていた。ソロ奏者には自由を与え、ソロ・パートにはほとんど口を出さなかった。彼が決定したのはテンポであり、フレーズとフレーズの繋ぎの部分のみ
フルトヴェングラーの指揮のテクニックはそれほどではなく、あまりにも個性的だったが、どんな音楽を作りたいのかということがしっかりオーケストラに伝わったので、素晴らしい音楽が生まれた。彼の指揮は素晴らしく柔らかい
大きな楽器はトウッティ(全楽器が一斉に弾き始めること)の場合、他の楽器より一瞬早く弾き出さないと、音の立ち上がりが微妙に遅れてしまうが、フルトヴェングラーの場合、そうでなくてもアインザッツが分からないなか、チェロやバスはどうして弾き出せるのか不思議。バスは一瞬早く出て重厚な響きを構築することがフルトヴェングラーの狙いだったのは確か。カラヤンの響きもいいが、アバドの時以降、今のベルリン・フィルからは大きくて重たい低音の響きはすべて失われてしまった
フルトヴェングラーはラヴェルが好きで、《優雅で感傷的なワルツ》など演奏会前のリハーサルでしょっちゅう自分のためだけに演奏させた
フルトヴェングラーは、晩年耳が不自由になったが、亡くなる1年ぐらい前には団員も気づいていた。難聴が初めて顕著に表れたのはハンブルクの演奏家でのこと。ブラームスのヴァイオリン協奏曲でソリストが走り過ぎてオーケストラと完全にずれたがフルトヴェングラーには聴こえなかった。暫くして元に戻ったが、団員全員は彼に何が起こったかを知っていた。何週間か後、ベルリンの音楽祭で自作の交響曲2番を指揮した時も、始まりのファゴットの音が聴こえていないことに団員が気づいた。その後補聴器を調達したが、54年、アメリカ公演のためのリハーサルで試したがうまくいかないまま会場を後にしたのが、ベルリン・フィルを指揮した最後。聴力を失うと同時に生きる力も失い、急速に衰弱
カラヤンは、フルトヴェングラーの最高の後継者だった。追い求めた「響き」は同じで、カラヤンはフルトヴェングラーの響きをほとんど変えずに継承。特に最初の2年は、細かい部分を除きほとんど何も変えず
フィンケによれば、テンポすらも大して違わないという話だったが、CDに書いてあるタイミングは明らかに違うところからすると、フィンケは両者のテンポの違いを決定的なものとは思っていないということ。両者のはっきりとした違いは、フルトヴェングラーが機械を嫌ったのに対し、カラヤンは機械マニアだったことくらい
カラヤンの最期は悲しかった。彼が強情で、私達との和解を拒否したから。私は85年引退した後、88年彼の最後の日本公演に付き合ったが、年老いて太り、歩くこともできないほど具合が悪く、惰性とした思えない指揮
2度目の大阪で起こった事件で日本人は、カラヤンが真面目にやっていないと思って怒ったが、同じことはスカラ座でも起こり、アンコール曲をバッハの《アリア》と決めていて、直前にコンマスのミシェル・シュヴァルベが確認しているのに、マスカーニの《友人フリッツ》のつもりで振り始めた。カラヤンの頭の中でブラックアウトが起こっていた。ロンドンでもバルトークを指揮した時、1つの楽章が終わり、私達がまだ譜をめくっていないのにもう次の楽章を振り始めたこともあった

第14章     フォーグラー氏との対話
1930年生まれのティンパニ奏者。父親も打楽器奏者で映画館付きの楽団員。早くから木琴を学び、陸軍音楽学校に入学するが、戦後はドルトムントのコンセルバトワールで3年勉強。49年ハーゲン市立オーケストラに就職。3年後にボッフムのソロ・ティンパニ奏者となり18年演奏。69年ベルリン・フィルとベーム指揮で演奏、70年正式入団。アフゲリノスが外されてテーリヒェンとともにソロをこなした
テーリヒェンがあんな本を書くなんて信じられない。あそこまで侮辱し、攻撃するとは! 書いてあることはでたらめばかり。外されたことに対する逆恨みで、ティンパニは下手
夫人はルフトハンザのスチュワーデスで、魔の北京公演の時のクルー。カラヤンのお気に入りとなって、どの公演にも遠距離飛行はルフトハンザで彼女を指名。その手配をしていたのがオーケストラの幹事だったヴァインスハイマー
初めてカラヤンの前で演奏したとき、合成皮革か自然皮のどちらを使うかと聞かれて、当然自然皮と答えた。彼は合成皮革をどう思うかと聞いてきたので、評価しないと答えたが、当時は合成全盛で、カラヤンも音色より音程の正確さを重視し合成を重用していた
自然皮は温度の管理が難しいので嫌われるが、この時を境にカラヤンも自然皮に傾倒、カラヤン・アカデミーが創設され楽器を購入するときは、フォーグラーに任された
79年、カラヤンとテーリヒェンの亀裂は決定的になった。ベートーヴェンの交響曲全曲録音の際、それまで47番をテーリヒェン、56番をフォーグラーと決めていたのに、カラヤンが突然テーリヒェンではだめと言い出した。カラヤンはテーリヒェンの能力に満足していなかったからで、フォーグラーの正確無比で、なおかつ速い打ち方がカラヤンの気に入ったのに対し、テーリヒェンは演奏会でもリハーサルでも準備しなかった
指揮者、コンマス、ティンパニ、これがオーケストラの根幹
カラヤンの言葉を幹事に託せばよかったが、フォーグラーが直接テーリヒェンに伝えたため大揉めに、何とか収まって演奏会は手分けしてやっていたが、79年のヨーロッパ公演の最初のロンドンで決定的な事件に。カラヤンとテーリヒェンが喧嘩して、カラヤンは二度とテーリヒェンを見たくないと言っているとなったが、予定通りテーリヒェンが乗って、一触即発のまま次のパリ公演へと移動、テーリヒェンが同日の曲を2人で分担しないかと提案、フォーグラーも反対したがカラヤンも拒絶してテーリヒェンの出番はなくなり、テーリヒェンは荷物をまとめてベルリンへ帰る。以降テーリヒェンがカラヤンの指揮で弾くことはなかった
カラヤンは、テーリヒェン以外のティンパニ奏者も本番直前になって降ろしてしまうことが再々あった。日本公演の時も、若い優秀なティンパニ奏者と一緒で、彼の奥さんは日本人、夫妻揃って幸せの絶頂の演奏旅行だったが、カラヤンは本番前に突然フォーグラーに代えると言い出しまたまたフォーグラーを困らせた
カラヤンは音楽表現上なにも要求しなかったが、彼の指揮を見ていればすべてが分かった
オーケストラにとって指揮者は永遠の敵だが、カラヤンが怖いと思ったことは一度もない

エピローグ
フルトヴェングラーとカラヤンの音楽の美しさは、まるで異質なもののような気がする
カラヤンの音楽の美しさが完璧さにあるなら、フルトヴェングラーのそれは、不完全さにある。完璧でないからこそ温もりがあり、その情景に抵抗なく引き込まれ、自分の気持ちを委ねることができる

編集部による「補足説明」
カデンツァ 1 老巨匠と若きマエストロ
カラヤンのベルリン・フィルへの初登場は38年、30歳の時。アーヘンの音楽監督だったカラヤンを招いたのはベルリン・フィルの支配人ハンス・フォン・ベンダ。フルトヴェングラーとは全く対照的な解釈でオーケストラを従わせ、聴衆は熱狂し批評家も絶賛、奇跡のカラヤンの文字が踊り、オーケストラ奏者にも「新しい時代の息吹」は確実に伝わった
もっとも、最初のリハーサルではベルリン・フィルはカラヤンを完全に満足させたわけではなかった。ブラームスのようにメンバーが熟知している曲で、パートごとに練習しようとしたのでメンバーは不快感を露にした。コンマスが「こんなことはしたことがないし、この曲は皆よく知っている」と拒否すると、カラヤンは「5分もすれば私が正しいと理解いただける。とにかくやってみよう」と始め、ヴィオラ・パートの難所を取り出して弾かせると全く正確に弾けなかったという
2度目は1年後、フルトヴェングラーが十八番としたチャイコフスキーの《悲愴》を取り上げ、濃厚な表現で聴衆の涙を誘ったベルリンの主のスタイルとは正反対の、斬新ですっきりした演奏形式でマエストロに挑戦し、熱狂的な賛辞を受ける
カラヤンは、リハーサルにもコンサートにも足繁く通ったといわれるが、野心も露にベルリン楽壇を虎視眈々と窺うようになった若者をフルトヴェングラーが嫌い、カラヤンの次のベルリン・フィルへの登場は53年まで途切れる
46年末、チューリヒに向かうフルトヴェングラーにカラヤンが会って和解を図ろうとしたが徒労に終わり、別れて帰ろうとしたカラヤンは天候の急変で遭難しかけたという
48年のザルツブルクでの音楽祭では、カラヤンは《オルフェオとエウリディーチェ》《フィガロの結婚》を、フルトヴェングラーは《フィデリオ》を受け持ったが、その際EMIのウォルター・レッグが2人の仲を取り持とうと夫人同伴で「手打ち」晩餐会に招待。カラヤンはベートーヴェンの7番第2楽章アレグレットを話題に挙げ「あるべきテンポ」について教えと助言を乞い、フルトヴェングラーも打ち解けて和やかな歓談に終わったが、翌日フルトヴェングラーは、「自分の目の黒いうちはあのKをザルツブルク音楽祭に一切関わらせないように」と音楽担当者に厳命したため、54年のフルトヴェングラーの死までカラヤンは故郷ザルツブルクでオペラの指揮台に立つことができなかった。その背景には、態度も大物になったカラヤンの音楽界への要求が尊大さを増し、出世へのあくなき欲求が周囲を辟易とさせていたこともある
カラヤンは、レッグが組織した優秀な録音用オーケストラ、フィルハーモニア管弦楽団とロンドンで旺盛に仕事をこなし、レパートリーを拡大。ウィーンでもウィーン交響楽団を鍛え上げ、名声をもたらす。イタリアではミラノ・スカラ座でオペラに打ち込む
53年ベルリン・フィルに14年ぶりに登場したカラヤンは、誰もがドイツの伝統的な音楽の継承者と見做し、楽員も彼の力量に感服。フルトヴェングラーの健康問題は深刻で、楽 員の最大公約数は後継に「カラヤンを」と希望した
2か月後、フルトヴェングラー逝去。直前にベルリン・フィルの支配人から後継の打診があり、アメリカの音楽エージェントの最大手コロンビア・アーティストからも、「カラヤンの指揮でなければベルリン・フィルのツアーは行わない」との連絡が入る。最右翼はチェリビダッケだったが、オーケストラとの不和が決定的となって、僅差でカラヤンが楽員の信頼を勝ち取る

カデンツァ 2 2人の首席ティンパニ奏者
カラヤンはティンパニを学んだことがある。音量が大きく、音楽の流れを1打で決めてしまうこの楽器は、指揮者の懐刀にもなる
50年代と60年代の主役はテーリヒェンで、64年ドイツ・グラモフォンに録音されたシベリウスの交響詩《フィンランディア》の凄絶なティンパニの響きは彼の代表的名演
カラヤンがリハーサルでテーリヒェンに、「もっと硬いマレット(竹製のバチ)を使ってくれないか」と注文、テーリヒェンは代えようとして同じマレットで演奏を再開、カラヤンも満足した。テーリヒェンによれば、硬い音が欲しいならそういえばいいのに、バチを奏者に指示するのは失礼。どうやって硬い音にするかは奏者が考えることで、叩きかた次第で同じマレットでも音色はどうにでも変化させられるという
70年代半ばまでは、カラヤンも名人気質の奏者に一目置いていたし、楽員たちも、幹事としてオーケストラとカラヤンの抜き差しならない関係を和解に導いた彼の手腕の認めた
カラヤンとオーケストラの対立は何度もある
60年頃には首席ソロ・ホルン奏者の選定を巡って、カラヤンの推すスウェーデン人をオーケストラが拒否。テーリヒェンが仲立ちとなったが、突然カラヤンの気が変わって下りた
首席ソロ・ティンパニは、60年代末難聴で苦しんだアフゲリノスが退団した後、なかなか決まらず、40歳のとうの立った新人が入団。正反対の音色を持つ2人で70年代が始まる
喜んだのが首席指揮者で、フォーグラーの切れ味鋭い音を得て、ベルリン・フィルの新しい音の創造に乗り出し、録音でははっきりとフォーグラーを重用
いささかやり過ぎではないかと思えるほど、巨大な音量、硬い音質とも際立っている。これほど叩きまくると近くに座る周囲のメンバーからは「うるさい」との苦情が出るものだが、カラヤンに絶対的信頼を寄せられていたフォーグラーには誰も何も言えなかったのかも
一方、「ティンパニ奏者に、過酷なほどの音量を求めた」と書いたテーリヒェンは、まさにこの点でカラヤンと対立。79年のロンドン公演のリハーサルで、トランペット奏者からティンパニの音が大き過ぎると苦情が出たが、カラヤンは大きな音を諦めず、録音時に使うアクリル樹脂の大きな衝立をテーリヒェンの周囲に置いたため、テーリヒェンの鼓膜が破れそうになり、猛烈に抗議したが容れられなかった。カラヤンは、「砲兵隊に行くことを考えたほうがよかった」と言い、テーリヒェンは以後耳栓をして演奏。以後カラヤン・コンサートへの出演は激減
テーリヒェンの真骨頂は、783月のザルツブルクでの録画。ブラームスの《ドイツ・レクイエム》の第3局の途中、173小節から延々と6連符を叩き続けるテーリヒェンは、カラヤン以上にオーケストラを先導し、支配しているといっても過言ではない




HMV & BOOKS -online- 2009212 ()
『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』を読む
転載 平林直哉の盤鬼のつぶやき 第12
「『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』を読む」
 昨年、『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』(川口マーン惠美著、新潮選書)を読んでいたが、これについて一度も書く機会がなかったので、今回はこれについて触れてみたい。
 帯に「二十世紀最大の巨匠は、果たしてどちらなのか!?」とあるように、本書は往年のベルリン・フィルの楽団員へのインタビューをもとに、彼らがどちらのシェフを高く評価していたかを検証するものである。結論を先に言うと、この大前提そのものにちょっと無理がある。なぜなら、フルトヴェングラーとカラヤンのどちらが偉大かは言うまでもないことだ。勝負はついている。この本はフルトヴェングラー、カラヤンの双方の時代を体験した元ティンパニ奏者テーリヒェンの著した『フルトヴェングラーかカラヤンか』(音楽之友社)の拡大版を狙ったのであろう。しかし、あの本はカラヤンが生きている間に、フルトヴェングラーとカラヤンの内情を知る人物が出版したからこそ意味があったのである。まあ、簡単に言うと、「我々のようにフルトヴェングラーを体験した者にとってはね、あんた(カラヤン)よりもフルトヴェングラーの方がずっと偉いんだよ」と、こんな感じである。
 このことをカラヤンは百も承知であっただろう。だが、それをはっきりと突きつけられるのは、カラヤンにとっては決して触れられたくない話題だったに違いない。でも、何人かの楽団員が語っているように、彼らは指揮者の要求に答えることが最大の任務である。それに、フルトヴェングラーが偉大だと感じていたところで、その時代が永遠に続くわけでもない。フルトヴェングラーが世を去ってしまえば、それで終わりなのだ。聴き手は死者を懐かしもうが奉ろうが勝手だが、現場の人間はそうはいかない。
 従って、本書で著者が無理に白黒をはっきりつけさせようとしているのも、いささか強引な印象を受ける。それに、フルトヴェングラーを知らない楽団員に、フルトヴェングラーとカラヤンに対する評価の違いを引き出そうとするのも適切ではなかろう。それ以上に、証言の間にはさまっている著者の素朴な疑問や驚き、あるいは推測などが、的を射ていなくていささか読みづらい部分もある。
 とはいえ、優劣や白黒を題材にしたのではなく、フルトヴェングラーとカラヤン時代の楽団員の貴重な証言集として読むならば、それはそれで十分に興味深いものだ。少なくとも、この2人の指揮者のどちらかに興味のある人には、読んで損はない。
 本の基本的な作りが以上のような内容なので仕方はないが、私はフルトヴェングラー・ファンのひとりとしてもっと聴いて欲しいことがたくさんあった。特に戦前から在籍していたバスティアーンやハルトマンらだ。彼らは戦時中の困難な時代、どんな思いで演奏をしていたのか。それに彼らはきっとフルトヴェングラーのベルリン復帰演奏会にも出演していただろう。その最初のリハーサル、楽団員はどんな気持ちでフルトヴェングラーを迎えたのか。そして指揮者が最初に発した言葉は何だったのか。演奏会当日の会場の雰囲気はどのようなものだったか。あるいは、映像が残っているシューベルトの「未完成」はどこで収録したのか、など。
 テーリヒェンはさきほどあげた著作『フルトヴェングラーかカラヤンか』の中で、カラヤンの目をつぶって指揮をする方法がとてもやりにくく感じたので、カラヤンと一部の楽団員とで話し合いが持たれ、「ある種の折り合いをつけた」と記している。私は本書にあるテーリヒェンの「カラヤンの音楽には感情がない」という過激な発言よりも、この「折り合い」がどんなものだったのかが知りたかった。でも、それは今となってはもはや尋ねることが出来ない。テーリヒェンは昨年4月に他界している。
(ひらばやし なおや 音楽評論家)


「フルトヴェングラーかカラヤンか」
フルトヴェングラーはフルトヴェングラーだし、カラヤンはカラヤンだよ~~~。
音楽理論でふたりの巨匠を比較するのはそれなりに読み応えがありそうだが、この手の暴露めいた内容を予測されるタイトルはNGか。しかも、その前に証言がついているぞ。音楽の芸術性とはちょいかけ離れたベルリン・フィルの舞台裏を踊った両巨匠の超絶技巧?が、今こそあかされる・・・のか。
品のない話はいつも聞き流し、できれば近寄らないことにしているのだが、芸能週刊誌のノリのタイトルをさけられないのが、標的が指揮者という謎の領域。ところが、クラ女子の私が、ついつい手に取った一冊は、読み始めたらやめられなかった。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、18861月ベリリンに生まれ、1954年に亡くなるまでベルリン・フィルの芸術監督として不動の地位と名声を誇りつづけた。彼の亡き後、当時の文化大臣が「フルトヴェングラーの後継者になりたいか」という事前に頼まれていた質問するや、カラヤンは、実に晴れ晴れとした笑顔で「千の喜びをもって!」と応えたそうだ。その瞬間、この言葉は世界中に発信されて、事実上、終身の首席指揮者のポストを手にした帝王カラヤン。1908年生まれのヘルベルト・フォン・カラヤンは亡くなっても尚、世界で一番有名な指揮者だろう。今日のベルリン・フィルの名声を築いたふたりだが、フルトヴェングラーはまだ若造だったカラヤンを徹底的に排除しようとしたエピソードは、これまでも様々に語られている。ベルリン、ウィーン、そしてカラヤンが生まれた故郷のザルツブルク音楽祭からもフルトヴェングラーは彼をしめだそうとし、又、実行させた。
音楽の中に生き、音楽を愛することを体現したかのようなフルトヴェングラーと、世界中を自家用ジェット機で飛びまわり自ら広告塔のような存在のカラヤン。感情豊かで感情の人だったフルトヴェングラーと、知性的な音楽家だったカラヤン。そんなふたりの確執を反映したかのような世論と音楽理論は、何度も転調しつつ今日に至っても奏でられていて鳴り止まない。著者の川口マーン惠美さんは、名前から想像されるようにシュトゥッガルト国立音楽大学院でピアノを学び、ドイツ人とご結婚されて同地在住。彼女が、2007年からほぼ10ヶ月かけて、ふたりの指揮者のもとで演奏したベルリン・フィルの11人の元団員たちに会い、そして彼らについてそれぞれに語ったインタビューが本書である。(5人はカラヤンだけ)
本書からの印象は、フルトヴェングラーを絶対化し、本物の暴露本を書いちゃったティンパニー奏者のテーリヒェン氏をのぞいて、団員の証言は、総じて理性的で考え抜いたような回答だった。著者はピアノを学んだ者として音楽を理解しているが、日本人女性で若くはない、、、が、それが本書の成立としてプラスに働いている。相手を思いやる細やかな日本人女性らしい気配りが感じられ、団員の誠実な証言というよりも誠実な回想をひきだしている。人生の集大成を迎えた第一線で活躍してきた老いた音楽家たちは、最高年齢96歳の品格のあるヴァイオリニストも含めて、それぞれの音楽家の人生を感じさせてくれる。彼らはみな人間的な味わいがあり、一方で音楽家としてベルリン・フィルで演奏していたという誇りと情熱が感じられる。そして、そんな彼らを支えているのが、有能な秘書のように知性的で美しい妻の存在だ。予想外に質素なアパート暮らしのコントラバス奏者もいるが、大方の団員は閑静な高級住宅街に屋敷を構えている。昔の世代の演奏家は、音楽家の血筋をひく育ちのよい人が多い。
そして本書を読んで自分の誤った思い込みに気がついたのだが、カラヤンは実に計算高くベルリン・フィルの終身の首席指揮者をものにしたが、ライバルのチェルビダッケはその前に団員からおいだされる予定だったことだ。あまりにも過酷なチェリの注文に、団員たちの反発があったのは残念だが、その時の指揮者は団員たちにとってはカラヤンがオンリーワンだったのだ。カラヤンは帝王として君臨したようにみえながら、実は大変な努力家でもあった。何も新しいことを学ばなかった日は、彼にとっては失われた1日になったという名言もあるくらいだ。カラヤンの指揮で演奏してきた団員で一致しているのは、あまりにも有名なザビーネ・マイヤー事件だ。彼女がオーボエ(ママ)奏者としてベルリン・フィルの音にあわないという団員たちの一致した意見を受け入れなかったカラヤンのふるまいは、やはり越権行為の謗りを受けてもしかたがないと思う。晩年のカラヤンは、自身の健康不安もあり、満身創痍だったのは悲しい事実だ。
フルトヴェングラーかカラヤンか。そもそもふたりの音楽性を比較することに意味はない。しかし、私にとってフルトヴェングラーは豪華なフリルをふんだんに使ったオートクチュールのドレスだ。そしてカラヤンは、世界中に流通するプレタポルテのようなもの。ベートーベンの「運命」だけは、フルトヴェングラー以外にないのだが、カラヤンは好きだ。私は、96歳のバスティアーン氏の、「聴く者の心境が変わると評価も変わる。音楽には絶対などない。それは、愛情に似ているかもしれない。一度目の愛情は、二度目、三度目とは違う。でも、その瞬間は、やはりどれも最高で本物」という言葉を思い出している。







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