中国に生きた75年  王林起  2020.3.13.

2020.3.13. 中国に生きた75年 日本人残留孤児の自伝
~ 我が中国の両親に感謝を込めて

著者 王林起(日本名:渡部宏一) 19358月山形県生まれ

訳者 日野正子

発行日           2019.8.30. 初版発行
発行所           東京書房出版

本書は、1611日に北京西苑出版社から正式出版された中国語版を一部割愛して翻訳されている

閉ざされた記憶の封印を解く――故郷を望む  陳援
友人の仲立ちで、以前20余年働いた北京重型電機廠で一緒に働いていた小日本と呼ばれていた王林起と会う
満蒙開拓団から瀋陽の避難民収容所にいた王林起は弟とともに中国人に救助され生き延びたが、育てきれずにまた収容所に舞い戻り、善良な中国人家庭にもらわれ、王家の長男として待遇され教育も受け戸籍も取って中国の公民となる
工場では優秀な熟練の研磨工として知られたが、日本人戦争孤児であることを知る人はいない
72年の国交正常化の実現で、日本人孤児であることが広まり、小日本として工場内でも知られるようになるが、本人には養い育ててくれた養父母の下を去る選択肢はなかった
奇跡が起きたのは、何年もたって王林起が、生前養父が息子の故郷を見てみたいといったことを思い出したからで、故郷に連絡を取ってみると、日本から本名が渡部宏一で山形県生まれ、親戚もいることが判明、日本政府の戦争残留孤児帰国の条件に合致したことから帰国の手続きをとる
懐かしい故郷に戻り、周囲は日本での定住を呼びかけたが、王林起は残った養母の恩に報いるために中国に戻ると宣言
現在、王林起は2つの祖国を持ち、同等に重要だと言う。彼の苦難の経歴と、他の戦争残留孤児とは異なる特殊な状況から、多くの日本メディアや著名人に接触する機会を持ち、自己の願いである、侵略戦争への反対と中日人民の友好交流促進を訴える。日本政府は、戦争残留孤児に補償を与えるだけでなく、残留孤児を引き取って育てた中国の養父母も見舞い、感謝すべきと提案。11年、当時の丹羽大使が大使公邸で中国の養父母への感謝状を王林起の養母にも手渡し、養母が嬉しそうに笑ったのを見て、王林起も心からの喜びと安堵を感じた。王林起はすでに80を超えたが、生涯世界平和を呼びかけ、侵略戦争に反対するため、中日人民の友好のために微力を尽くそうと決意している
仲を取り持ってくれた友人が王林起に自身の経験を書き留めておくことを提案し、私に出版への協力を求めた。15年の世界反ファシズム記念活動のためにも喜んで同意


前書き
「特異」な経験を、周囲に勧められ、周囲への心遣いに感謝するためにも、書き記す
思考、言葉の表現能力、生活スタイルは、すでに「中国化」


第1章        故郷と幼少期
米沢盆地、最上川の上流の村で生まれる。地元の両親の親戚と大家族の幼少期を送る

第2章        異国の地へ
l  満州国の開拓団民に
40年晩秋、一家5人で新潟から黒竜江省牡丹江市の北にある林口県に満蒙開拓団として移住
l  国民学校入学
42年地元の国民学校入学

l  中国の農民と接触
現地の村落とは一定の距離があったが、我が家は数少ない例外で、現地で雇った中年男性と交流があった

第3章        悪運が降り掛かる
l  形勢急変
45年春、両親の留守中に弟と火遊びしたのが原因で大事に発展。悪運の予兆となる
終戦直前、開拓団にも召集が来て、父も動員。何年も後になって、ソ連の捕虜となり、抑留中に病死したと知らされたが正確な情報は今もって明らかにされていない

l  避難途中
8月初め、ソ連の参戦により避難命令が来て、牛車に全財産を積んで徒歩で避難を開始
飢餓の中山野を彷徨い、ようやくソ連の支配する避難民収容所に収容

l  瀋陽の避難民収容所
母は収容所でソ連兵に襲われ、殺され、避難民の子供を引き取る人の群れに晒され、妹はすでに逃避行の間にさらわれ、今度は現地で生まれた幼い弟を失う


第4章        新たな生を得る
l  命の恩人
弟と2人、親切な中国人に拾われ命拾いする

l  私の新しい家
一旦収容所に戻された後、45年末、瀋陽近隣の7世帯の住む集合住宅の1人に拾われ、弟と別々の家で世話になる
養父になったのは王殿臣という30代半ばの物売り。子供のいない家庭で、一から中国語の教育を受ける。養母は賈鳳朝といい、王林起は長男として戸籍と国籍を持つ
別な家にもらわれた弟はほどなく死去。警察にも行ったが原因もわからず仕舞
すぐに新しい家庭生活に適応し、集合住宅の人たちとも親しくなる
47年には養父が食品・雑貨の店を開く

l  北京での新生活
48年北京に転居して間もなく、八路軍が北平市を平和裏に解放し、北京市となって新中華人民共和国の首都となった
養父は、正陽大通りに小さな店舗を賃借りし、服や靴を扱う小さな商売を始め、私を小学校に行かせて仕事を手伝わせた
私は、新中国が創設した最初の少年先鋒隊に入り、大隊旗手に選ばれた
小学校は1番で卒業、先生の強い勧めで中学に進み、共産主義青年団に入団
成人後は工場に出勤
57年の夏休みに、盲腸炎の誤診から重症の腹膜炎となり、生命の危険に晒されながら、何とか一命をとりとめるが、家の貯えの大半を使い果たしたため、7人の兄弟姉妹のためにやむなく退学

第5章        工場での歳月
l  労働者の隊列へ
58年豊台鉄道工事隊で仕事を見つけ、高校生で字が書けたところから、生産現場から離れて宣伝活動に従事したが、半年で辞めて北京汽輪機廠(蒸気タービン工場)に入り、鋼鉄研究院に派遣され研磨機の操作を学ぶ、1年の訓練期間後本廠に戻る
北京汽輪機廠は、58年国の3大動力工場として建設され、火力発電設備と大型モーターを製造。正規の従業員として、退職まで勤続
社会主義国を建設するために人々が苦しみも疲れも恐れず、損得を抜きに入魂の間柄になる精神状態は、懐かしむに値する歴史過程だった

l  金属切削機械をパートナーに
何種類かの研磨機を操作、研磨機工学を独学
63年、合併で北京重型電機廠と改称、新たに必要な工作機械の自製にも参加
研磨機の持ち場で20余年、それを含めて機械補修作業場で30年近く過ごす間、粗食と過重労働からひどい十二指腸潰瘍で危うく潜出血で腸穿孔を引き起こすところだった
85年、職業病ともいえる珪肺に罹り、一線を離れ設備管理部門に異動

l  兼職で宣伝係
職場内で共産党青年団総支部の宣伝委員と作業場の労働組合支部の宣伝委員となり、工場内の大スローガンを書き、大壁画を描く。工場内のアマチュア文芸団体のために、舞台道具を作ったり舞台背景を描いたりした

l  養父の他界
60年、養父が急逝。享年47。死亡診断書から食道がんに侵されていたことを知る。死に目には間に合わず、数日前に話したのが最後。その時珍しく世間話が始まり、「お前の故郷に行ってみたかった。大学に行かせてやれなくて済まない」と言われる。

l  豊台正陽大通り143番地
経済状況の改善に伴い、養父の家族共々移り住む
63年、同じ作業場の女性と結婚。11女を設けるが、後に性格不一致などから破綻
大家族は今ではバラバラになったが、毎年1回は集まることを約束している

l  10年の動乱」の中で
文化大革命の最中、本来外国人は「革命の対象」と認定され、批判闘争の標的にされるが、私はいかなる迫害も受けないどころか、終始派閥闘争に参加したのだから、動乱中の幸運児と自認している
「革命造反者」という保守派に属し、工場内の臨時宣伝チームに参加して、随時毛主席が発表する最高指示を待って大スローガンを描き、祝賀の爆竹を鳴らす役割を果たす
「造反派」が権力を握っていた時に一時的に給料を差し引かれた以外、無事に過ごしたが、狂気じみた派閥闘争が、私と前妻の深刻な政治的観点の対立、感情的破綻をもたらし、婚姻を終わりに向かわせる

l  油絵を習う
両派閥からの推薦で毛主席像を描くことを学びに中央美術学院に通い、訓練終了後は工場内外の職場のためにたくさんの毛主席像と、「革命を掴み、生産を促す」というポスターを描いた

第6章        一時帰国
l  同級生の助言
小学校、初級中学校、途中退学した高級中学校の同窓会の仕掛人として、毎年同級生との会合を続けているが、高級中学の同級生でアメリカに渡った友人から、故郷で私の身を案じている人たちに消息を知らせ、彼らの心配にけりをつけるべきと忠告される
54年、叔父の米屋の手伝いで日本人家庭に米を届けた際、「中国残留の日本人帰国の通知があり、帰国の最後のチャンスだ」と聞かされたが、きっぱり断ったことがあり、初級中学の頃には、養父母の養育の恩に報いるため中国で生涯を送ろうと決心し、72年の国交正常化のニュースを聞いた時も心は動かなかった
友人の忠告に従って、うろ覚えの住所宛てに、漢字で手紙を書くと、3週間後に故郷の町長から返事が届く。翻訳してもらうと、親戚が健在であることが判明。教えられた住所に手紙で状況を知らせると、戸籍回復の手続きをしているとの返事が来て、一度帰ってきて欲しいという。周囲も私が故郷の親族訪問のために帰ることに同意して、帰国が実現

l  出発前後
日本の親戚たちは、私の存在を証明して裁判所の裁定をもらって戸籍を回復しないと帰国が実現しないことや、家族を伴って帰国して移住するための住まいや仕事探しに奔走
私は日本語を取り戻すために勉強を始め、養母の求めに応じて2人の弟を北京勤務に変えさせ、離婚手続きもして、ようやく2年後出発。勤務先の工場からは特別の配慮により、出国者待遇に従って給料1年分の支度金が支給された
815月皆に見送られて出国

l  故郷に帰る
親族6人に出迎えられたが、何の親しみも湧かなかった
家屋敷は父の姉が引き取って、そこに私たちが帰国して住めるように2間新築してあった
14か月滞在
一番親切に世話を焼いてくれたのが長男のお嫁さんだったが、胃癌で早くなくなった
滞在中に脳梗塞や、急性腸梗塞、急性腎炎などを患う
3人の母方の叔母たちは、私が離婚した時に負った借金があると聞いて、すぐに30万円を集めて債務を返済してくれた

l  東京でのアルバイト
冬になると、親戚の1人とともに東京に出稼ぎに行き、板橋のスーパーで貨物の配送を手伝ったが、どこも高度成長期で人手が足りず、3カ所から、それも年収の何倍もの月収という高報酬で働かないかと誘われたが、経済的利益に負けることはなかった

l  訪日中の見聞
4月末にアルバイトが終わった後、帰国の日まで関西の親戚を訪ね、奈良、京都、大阪を旅行
7月の離日の際は、親族はじめ親切にしてくれた周囲の人を思って、機上で涙が止まらなかった。後で思い返してもなぜだかわからなかった

第7章        退職生活
l  たび重ねた親族訪問
90年健康上の理由で退職。最初にしたことが、再婚相手を故郷に連れていくこと
10年ぶりに戻った古郷では、中国からの代表団を出迎える際の通訳を頼まれる
10年で故郷は一層豊かになっていた
09年からは、厚労省の「集団短期帰国親族訪問活動」という、中国に住む残留孤児が毎年12日間日本の親族を訪問できるという制度に乗って、連れ合い共々日本の親族を訪ねている
当時厚労省の統計では2800余名の日本の孤児を中国の養父母が引き取って育て、うち2500余名が帰国、定住したので、200余名の老年「孤児」が中国で生活している。ただ、私の周囲には、身分を明かしたくないものや連絡を取らない者が何人かいるので、少なくともあと1000人以上は中国に生存しているのではないか
何度も日中の間を行き来し、「中国人」として恥ずかしくない行動をしたので、各方面から尊重と敬愛を得たが、私も1本の小さい丸木橋となって両国を行き来する客人に便宜を図りたい
故郷の高畠町の日中友好協会の平和友好代表団は、3度にわたって北京に来訪、出迎えた

l  引退後の貢献
2度目の親族訪問から帰った後、個人で重型電機廠の木型作業場のために、フライス盤製造を手伝ったり、日本から導入した数種類の工作機械の研究、製造を手伝う。その中には日本の個人が開発特許を取った風力発電装置もあり、八達嶺に実験機を設置

l  人との和やかなお付き合い(“和諧相処”)
86年から同じ職場の72世帯が入る集合住宅に移り住んでいるが、昔の寄り合い住宅のような住民同士の交流がなくなったのを残念に思う
できるだけ多くの人と出会い、助け合い、交流を深めたいと願う。その1つが学校時代の同級生の集まりであり、工場でのアマチュアの宣伝活動で知り合った絵画愛好者との繋がり

l  養母の100歳の長寿を祝う
養母は10数年前に脳血栓を患い、半身不随と言語障碍が残ったが、それ以外は元気で、多くの家族に囲まれて暮らす。100歳まで長生きするよう祈りたい

第8章        私の連れ合い
52年、4歳下の養母の兄の娘が田舎から家族で出てきて一緒に住むようになったのが今の連れ合い。そのころから勉強の面倒を見てあげるうちに、淡い恋心が芽生える。養父は長男の嫁にと考えていたようだが、彼女は1人娘で母親が相手を決めて半ば強制的に結婚させられる。結婚生活はうまくいかずに、何年か後に離婚
81年、日本帰国が決まった時、もう会えないと思った彼女が見送りに来て、一瞬にして往時が甦り、万一私が中国に戻ってこられない場合でも親族訪問ができるよう、急遽婚姻届けを出すことになり、出発2日前に辛うじて手続きが完了
日本から元の職場に戻り、彼女も武漢の小学校教師から、私と同じ職場に異動、工場が住宅も手配してくれた
90年、私の退職と同時に彼女も退職
07年から今日まで、いくつもの病気と闘ってきたが、連れ合いがよく面倒を見てくれたことに感謝したい

第9章        体験と感得
l  鉄道との縁
汽車に乗ること、中でも普通寝台車のボックスの旅は得難い楽しみ
鉄道の旅に関してはいくつものエピソードがある

l  気功から受けた益
57年、重い腹膜炎の後、何度も腸閉塞を起こし、消化器疾病を併発、ラクナ梗塞(脳梗塞の一種)もあって、健康が革命の元手であることを強調した時代に始まった気功ブームの中で、数種類の気功を学ぶ
退職後長い間心臓病に悩み、全身脱力症状が現れた97年に巡り合ったのが先天自然功
人体内の潜在意識を掘り起こし、次第に健康を回復

l  病気治療の雑感
病気になってみて、人の健康の度合いは、自己の身体の状況に対する理解、いくらかの医療常識のわきまえ、良好な心理状態の保持と大きく関係すると考える
体内に備わった強大な免疫機能を固く信じて、生存の主動権を自らの手中に掴み、楽観的で平和な心理状態を保ち、健康で無事に過ごせるよう努力したい

l  のんびり過ごす時間
現在の住まいは石景山地区の階段ビル。唐山地震後に建てられた横に倒した大きな石段のような形をした防震ビル
手がすいた時には絵筆をとって油絵を思いつくままに描く

l  中日両国政府の「中国残留孤児」への関心
温家宝首相と聶栄臻(じょうえいしん)元帥の「日本人残留孤児」に対する姿勢に打たれる
敵国の子供に対して、戦火の中にあった彼らを生命の危険から救ったばかりでなく、終始彼らの成長に関心を持ち、人生の正しい道を歩むよう励ました
人民軍を率いていた聶栄臻は、両親に死別した幼い姉妹を保護して日本陣営に戻したが、80年人民日報に当時の姉妹を探す記事を掲載、都城に住む女性を探し当て、北京人民大会堂で感激の再会を果たす。それが縁で、都城市と元帥の故郷江津市が友好都市となる
温家宝は、07年に日本の国会で演説、中日両国の友好交流は世界の文明発展の歴史に類を見ないもので、我々が共有する歴史の伝統と文明の財産であり、代々伝えていくに値するものと語る。09年には日本人残留孤児が中国の養育の恩に感謝する訪問団を北京に招待
75年、厚生省は「中国残留孤児」問題の調査を正式に開始。8199年の間30回の中国残留孤児による訪日調査を実施。86年には末に帰国定住した孤児の養父母に中国赤十字社を通して毎月60元の15年分を補償金として支給
2010年頃から、在中国日本大使公邸で春の花見と冬の天皇誕生祝賀会に招待されるようになり、同じ身分の6,7人と知り合う
11年には丹羽大使が北京在住4名の「残留孤児」家庭のために昼食会開催、その席で改めて、日本政府が、日本人孤児を救助、養育した中国の養父母に感謝の意を表し、一定の補償を与えて欲しいとの要望が、長い間厚労省で店晒しになっていることを訴えたところ、1週間後に日本大使館のホームページに丹羽大使が、直接各地を訪れて感謝の意を表したいと触れているのを見つける。すぐに大使公邸で盛大な儀式が催され、北京在住の数組の養父母に日本政府からの感謝の意が表された。遅きに失したため、生存者は私の養母のみ

l  20131125日、在中国日本木寺昌人大使に宛てた書簡
中日友好のさらなる促進を祈って、木寺大使に手紙を書き、一部の「利民無償援助プロジェクト」の援助規則を変更して、高齢化が進む社会のために、高齢者のための施設や設備に援助を投入してもらえないかと要請

l  真心を込めた祈り
誤った戦争によりただ安定した平安な生活を望んだ家庭生活が粉々に打ち砕かれた
一方で、中国の養父母と一族の慈愛に満ちた眼差しがある
80年を振り返って、幸運に恵まれたと感じる
善良で寛容な民族は、すべての侵略戦争に反対する。この民族の心情と徳性は、私という戦争孤児の心も深々と育んだ
多様な肌の色、多様な民族からなる世界人類の平和のために、子供たちの幸福な未来のために、二度と争奪のないよう、二度と戦争のないよう、平等に共存し、貧困をなくし、地球村の自然生態環境を回復するために共に努力したい

私の『回想録』に対する妻の思い
『回想録』の出版で、王林起はすでに念願の半分を達成したと思う
彼の真心は得難いものであり、心に深く感じたことを描いたものは、助けられた中国残留日本人孤児の悲惨な境遇の記録であり、彼が中国の大地に感じた感謝の表現でもある
彼の、早逝した養父の天にある魂が、長男の心に深く刻まれている思慕の情を感じ取れるよう願う
60数年前、厳冬の寒さの中で、両手を布で巻き、鮮血の滲み出た「小さな男の子」の姿は、永遠に私の心中にとどまっている。未来の歳月が楽しくても苦しくても、私は彼を支え続ける。これは恩のある私の叔父、養父の王殿臣に対する孝心でもある

終わりに
私という「特異」なものが中国語で記録した、個人の経験と考えだと理解してくれることを願う
改めて中華民族の大家族から再び賜った生命と温かい情愛に心から感謝し、生きている間に侵略戦争に反対し、世界平和を維持するために、ささやかな努力をする


国際善隣協会 会報
「日中国交正常化45周年」 北京市・甘粛省の旅  日野正子(会員)
旅行に参加した最大の動機は、中国の内陸部を見たいという願い。北京は89年以来28年ぶり。善隣植林地のある甘粛省永靖県、康楽県を巡り蘭州へ
北京で中国国際放送局を訪問。日本語部の王小燕アナウンサーから説明を受けた後、食事の席で『大地の子』のモデルとなった人物が中国の養父母のために自費出版した『我在中国75年』の日本語訳の依頼を受け、応諾するとすぐ著者の王林起と連絡してすぐに自宅での面談が実現
今回の旅行は、艱難辛苦の旅で、『孫悟空』の中に越・(寸にしんにゅう)火焔山朝西天取経という話があるが、火焔山も見た私にとって、その御経は『我在中国75年』だった気がする


(私は○○人:3)中国のお母さん、愛情くれたから
2020.1.3. 朝日
日野(森谷)正子が翻訳して2019年末に邦訳出版
 北京市内のマンション。車いすに座った養母の賈鳳朝(チアフォンチャオ)さん(96)の手を、王林起(ワンリンチー)さん(84)が優しく握った。賈さんは脳血栓を患い、今は話をすることができない。視線を向けた賈さんに、王さんは「12歳差のお母さん。僕にすべての愛情をくれた」と、優しいまなざしを返した。
     *
 王さんは山形県で「渡部宏一」として生を受け、5歳の時、家族と共に旧満州に渡った。戦争の混乱で残留日本人孤児となり、中国の養父母のもとで「王林起」として育てられた。大陸で過ごした年月は、もうすぐ80年になる。
 王さんの記憶にある最初の中国は、1940年秋、列車から見た荒涼とした大地の風景だ。緑の中の小川でカニを捕った山形と違い、寂しさを感じたのを覚えている。林口県(現在の黒竜江省林口県)で農業を始めた両親と弟2人、妹1人の6人家族。だが、家族で一緒に過ごした時間は短かった。
 国民学校4年生だった45年春、父が軍に現地召集され、間もなく消息が途絶えた。ソ連軍の攻撃からの逃避行の中、妹や弟は行方知れずに。たどり着いた奉天(現瀋陽)の収容所で寒さと飢えに耐えていたある夜、乱入してきたソ連兵に母が銃剣で刺された。「宏一、お前」。母はそう言って息絶えた。泣きたいのに、涙は出なかった。
 2歳離れた弟と路上で物乞いをしていた時、中国人に声をかけられ、別々の家に預けられた。
 王さんを預かった家の女性は夜なべして温かい綿入れを縫い、夫は丁寧に言葉と字を教えてくれた。
 養母となった女性の名は賈鳳朝、養父は王殿臣(ワンティエンチェン)。数カ月経つと、幼い頃の生活に戻ったように感じた。ある日、占師が来て「君の名は王林起」と宣言した。
 7人きょうだいの「長男」として中学生になった頃には、日本語もすっかり忘れていた。60年に養父が病死すると、養母と2人で家族を支えていこうと強く心に誓った。
 王さんの出自は学校や職場で知られていたが、差別を感じたことはない。王さんは「周囲の人々に恵まれ、幸運だった。自然と中華民族の中に溶け込んだ」と振り返る。
     *
 中国人として暮らしていた王さんが日本との接点を持ったのは、残留孤児が帰国し始めた78年のことだ。友人から「日本の親族に自分のことを伝えるべきだ」と言われたのがきっかけだった。記憶を頼りに故郷へ手紙を送ると、親類から「会いたい」と返事が届いた。
 養母は「安心して日本へ行きなさい。戻らなくていい」と言った。心に日がさすような温かさを感じた。「必ず戻る」。王さんは81年春、日本へ渡った。
 40年ぶりの故郷。自宅のそばの小道に立った時、自分の手を引く母の姿が確かに王さんのまぶたに浮かんだ。「お母さんが僕を守るために、養父母に会わせてくれたんだ」。故郷をよく知りたいとの思いで12カ月を日本で過ごしたが、一方で「中国に戻る」との思いは揺るがなかった。
 日本を発つ日。飛行機が離陸すると、急に涙があふれて止まらなくなった。つらくても涙を流したことがなかった王さんが、初めて声を上げて泣いた。理由は今もわからない。「これで本当に故郷を離れる、そんな感情だったのかな」
 中国に戻った後も、養母は以前と変わらない。顔を見る度に「少し太った」と喜んだり「少しやせた」と心配したり。ただ「日本に戻れ」とは言わなかった。
 日本と中国の間を揺れ続けた人生。だが、王さんはこう言って笑う。「中国人か日本人かなんて考えたことはない。ただ無意識に生きてきた。周りは『お前は中国人だ』と言うけど」
 今も妻を連れ、毎年のように日本を訪れる。失った日本の家族への思いは、今も心の中にある。だが、寂しくはない。中国にもう一つの家族がいるから。(北京=平井良和)
 「二つの祖国」、2818人認定
 1932年に現在の中国東北部にできた日本の傀儡国家「満州国」などに、日本政府の移民策で約27万人の満蒙開拓団員が移住した。終戦前後、軍の護衛もないままソ連軍などからの逃避行を強いられ、飢えや病気で約8万人が犠牲になった。
 中国残留日本人孤児は、そんな状況で親と別れて孤児となった子どもたち。72年の日中国交正常化の後から本格的な調査が始まり、これまでに2818人が認定された。
 認定者のうち2557人が日本へ永住帰国。一方、200人以上が中国に残った。孤児の多くは日本語を話せず、日本と中国を「二つの祖国」と表現する人も多い。


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中国残留日本人は、第二次世界大戦末期のソ連軍侵攻と関東軍撤退により日本へ帰国できず、中国大陸に残留した日本人である。日本の法律などでは、中国在留邦人ともいう。
l  概要[編集]
l  満州・蒙古への開拓[編集]
満蒙開拓移民」も参照
1931918日以降の満州事変の直後に、日本はの最後の皇帝である溥儀を担ぎ出して現在の中国東北部にあたる旧満州満州国を建国し、同時に満州事変以前より提唱されていた日本の内地から満州への移住計画の「満蒙開拓移民」が実行され、1936廣田内閣の計画で500万人、実数では32万人以上の開拓民を送り込んだ。
当時の日本は、アメリカ合衆国発の世界恐慌から引き起こされた昭和恐慌にあり、地方の農村地域は娘を身売りさせる家が続出するなど困窮、疲弊しきっており、農業従事者の移民志向も高いことから大規模な移民となった。
l  ソ連の対日参戦[]
ソ連対日参戦」、「引揚者」、および「引揚援護庁」も参照
第二次世界大戦末期の194588日に、ソ連は日本と結んでいた中立条約を一方的に破棄して宣戦布告して89未明満州国へ侵攻した。関東軍は民間人からトラックや車を徴用して列車も確保した。軍人家族らはその夜のうちに列車で満州東部へ避難できたが、翌日以降に侵攻の事実を知った多くの一般人や、遅れをとった民間人らは移動手段もなく徒歩で避難するしかなかった。国境付近の在留邦人のうち、成人男性は関東軍の命令により「国境警備軍」を結成してソ連軍に対峙したことから、避難民は老人や婦人、子供が多数となった。
ソ連侵攻と関東軍の撤退により、満州における日本の支配権とそれに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部への入植者らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした者も少なくなかった。遼東半島へソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は、日本人収容所に数年間収容されて帰国が足止めされた。1946春まで帰国は許可されず、収容所での越冬中に寒波栄養失調や病気で命を落とす者が続出して家族離散や死別の悲劇が生まれた。この避難の最中に身寄りがなくなった日本人は、幼児は縁故または人身売買により中国人の養子として「残留孤児」に、女性は中国人の妻として「残留婦人」になり命脈をつないだ。一方で樺太では、樺太庁長官大津敏男の尽力により残留孤児の問題が発生しなかった[注釈 1]
満州からの集団引揚げは1946年春から一時期の中断を含めて実施され、葫蘆島などの港から100万人以上の日本人が帰国したが、国共内が再開するにつれ、中華民国軍中国共産党軍徴兵されたり労働者として徴用された。日本人に対する過酷な支配によって通化事件などの虐殺も発生した。日本国政府は、のちに中国大陸に成立した中華人民共和国国交を結ばず、1953に「未帰還者留守家族等援護法」を制定[1]して1958に集団引揚げ終了し、1959年に「未帰還者に関する特別措置法」を制定[2]して残留孤児らの戸籍を「戦時死亡宣告」で抹消した。
日中国交正常化を機に、帰国していた肉親らは中華人民共和国に残留させた子供や兄弟の消息を求めて長岳寺住職山本慈昭周恩来へ書簡を送り、中華人民共和国でも残留孤児探しが開始されたが文化大革命周恩来の死去、日中両国政府の緩慢さなどから、19813月に初めて「残留孤児訪日調査団」47人が、以降199911月まで30回で2116人が、肉親との血縁関係確認に訪日した。
l  中国残留邦人の現在[編集]
2016831日現在、永住帰国を果たした中国残留邦人とその家族は20,911人である[3]2015年の調査では、およそ93.4%70歳を超えた[4]と高齢化が進んでいる[5]。神戸市では中国残留邦人のための共同墓地に土地を提供する事になった(建立費は帰国者持ち)[6]。中国から帰国した日本人の団体としては、NPO法人「中国帰国者の会」などが存在する[7]
l  問題[編集]
埼玉県 所沢市 中国帰国者・定住促進センター
多くが幼い頃から労働力として扱われて教育を受けずに中国人として養育されており、日本語はほとんど身につけておらず、キャリアアップなど日本での社会適応能力に乏しく、帰国者の8割以上が生活保護を受けており、国や政府からの援助金や、ボランティア団体の寄付金などで生活をしている。社会から孤立[8]、高齢化など様々な問題が起きている。
l  社会からの孤立[編集]
介護保険等の福祉支援に対し言葉の壁から利用されないケースがあり高齢化した帰国者が家にこもりがちになるといった事が生じている[9]。老人ホームに入った後も日本語、日本の風習がわからず孤立する問題も生じている。これに対し中国語の出来るスタッフを配置する対策を取るなどしているが財政的に余裕がない状況である[10]
l  生活保護の不正受給[編集]
2010に大阪で中国残留孤児を名乗る福建省出身中国人姉妹の親族ら48人が、訪日直後に生活保護申請して32人が受給していた[11][12]法務省大阪入国管理局は大阪市に在留資格の再調査を行うよう指示し[13]、大阪市は2010722日に「生活保護受給を目的に入国したと判断できる」として、既に支給されていた26人の生活保護を打ち切り、審査中の2人も申請を却下した[14]。大阪入管の調査で、入国から3か月以内に生活保護を申請した中国人のうち8名が、申請書の職業欄に「生活保護」「無職」、扶養者欄に「区役所」と書いていたことが発覚した。元法務省入国管理局警備官の久保一郎は「中国残留邦人は人権がからむので特に審査が甘い。書類が揃っていれば、確認もろくにしないで自動的に許可していたのでしょう」と語った[15]
残留邦人の親族を偽り不法滞在して10年以上にわたり生活保護を不正受給する事件で、初めに残留邦人を偽り入国していた中国人は、本物の残留邦人の存在が判明したのちに帰国した[16][17][18][19]
l  偽残留日本人と斡旋ブローカーの問題[編集]
無関係の中国人を残留日本人やその親族として大量に入国させるブローカーが存在する。ブローカーは数百万円の手数料を受け取り、孤児の家族に謝礼を渡し、中国で戸籍・パスポートを偽造し、中国人を残留日本人であると偽り入国させる[20]
20059月に、中国陝西省に住む残留日本人女性が、同姓同名で同戸籍を持つ中国人がすでに日本に入国しているため、日本への帰国が認められないという件があった。この事例では、95年に残留日本人を騙る中国人女性と親族らが入国、その後女性は帰国したが、親族が生活保護を受給しつづけるなどして2007に逮捕された[21][22]。この中国人女性の長男が、日本に入国するため中国人である母親に残留日本人を名乗らせ入国させたという[18]。逮捕されたブローカーはこの事例だけで57人の中国人を親族として入国させる計画だったという[23]
残留日本人と血縁関係があるとして来日したが、血縁関係を証明できず、両親が収容されその後国外退去になる事態も起きている。例として、妻が残留日本人の子を名乗って入国した奈良県在住の夫婦が、血縁関係を証明できず、大阪入国管理局が収容し、国外退去処分を言い渡し、両親は中国に強制送還された。日本に残された夫婦の子の2人の姉妹が在留特別許可を求め、2009109千葉景子法相1年間の在留特別許可を認めた[24][25]
残留孤児の総計は2700人で、うち2476人と残留婦人等3775人が日本に帰国しているが、残留孤児の中国人の親族約19000人が日本の援助で来日し、更にその数倍の人間が自費帰国したといわれる。1人の孤児に数十人の中国人の「親族」がついてくる事も珍しくはない。
2005年には法務省により、残留孤児・婦人の親族呼び寄せ範囲が養子や継子にも拡大された。その結果、1人の残留婦人について中国人夫の連れ子7人と実子8人をはじめひ孫まで総数91人の「親族」が入国した例がある。このケースでは、夫の連れ子3人の親族が、過去に別の孤児の親族として相次いで偽装入国し強制送還されていた[26]
中国残留孤児給付金訴訟[編集]
2004福岡県で、残留孤児32人が、戦後に帰国の機会を奪われ帰国後も国が十分な支援をしなかったとして1人あたり3300万円(総額105600万円)の国家賠償を求め訴訟を起こした。孤児らは中国にいたので国民年金に加入しておらず、ほとんどが生活保護を受給していた。福岡の原告32人のうち75%が生活保護だった[27]
同様の訴訟は全国で行われ、2006に永住帰国した孤児の約8割にあたる2201人が原告となり、全国15地裁、1高裁で係争する集団訴訟となった。原告団代表によると、残留孤児の七割以上が生活保護を受給していた[28]が、原告らは生活保護とは別の賠償を要求した。
2005大阪地方裁判所は請求を棄却したが、2006年に神戸地方裁判所は、原告65人中61人について国の責任を認め、46860万円を支払うよう国に命じた。判決文では「拉致事件被害者への手厚い保護及び支援に比べて差別的である」と判断が示された[29]2007130日の東京訴訟では裁判所が請求を棄却、2007323日、徳島地方裁判所も原告らの請求を棄却した。
当時の安倍晋三首相は、原告団と面会し、柳澤伯夫厚生労働大臣(当時)に新たな支援策の検討を指示、厚労省は基礎年金満額支給と生活保護に代わる特別給付金制度を提案した。
これに対して、生活保護世帯を対象とする給付金が生活保護と同一水準支給とされるため、 原告団は「衣を変えた生活保護に過ぎない」などと反発、全国原告代表団副代表の宇都宮孝良は、「厚労省の案はとうてい受け入れられず、生活保護とは独立した補償制度が必要」と中国語で訴えた[30]
20075月残留孤児ら500人は厚労省の特別給付金制度案に抗議し座り込みを行った。厚労省の有識者会議も同日開かれ、委員からは、「生活に制約のある生活保護の形態では抵抗が大きい。できるだけ自由に使える形で検討すべきではないか」などの意見が出た[30]
l  改正中国残留邦人等支援法による給付制度[編集]
20071128日、与野党合意の議員立法により「改正中国残留邦人支援法」が成立。(2007125日公布、200811日施行(一部を除く))この法律で、中国残留邦人の生活の安定のため、老齢基礎年金等の満額支給(約66,000円(2007年現在の水準))や、公的年金制度によっても生活の安定を図ることができない場合には生活支援給付(約80,000円。この他に、医療や介護等、必要に応じて無償で支給。)等を定めた。またこれに伴い、予算措置として、中国残留邦人が地域社会の中で暮らせるよう、身近な地域での日本語教室や地域との交流事業等も適宜実施されている。
200712月、永住帰国者約2200人が行ってきた日本政府への損害賠償請求の集団訴訟は、上記の法成立を受けて、各々訴訟を取り下げた。法成立後も訴訟を継続した2訴訟については、20092月、最高裁判所が上告を棄却、すべての訴訟が終了した。
l  2世・3世のマフィア化[編集]
羅権」も参照
近年、中国残留孤児の2世、3世が、マフィア化するケースもみられる。中国残留孤児が中心となった中国人マフィアが、東京で同胞の中国人が経営する店にみかじめ料を要求するケースが増えている。中国残留孤児の2世、3世は日本国籍や一般永住者であるため、被害者は報復を恐れ警察に通報しない傾向があるという[31]
みかじめ料を断った人間を暴行したり、無関係の通行人を暴行殺害するなど、中国残留孤児マフィアの勢力は拡大・凶悪化している。拳銃を所持して暴力団とも抗争し、中国残留孤児マフィアの1つ、怒羅権20029月に歌舞伎町住吉会幹部を射殺している。
東京では、過去に福建省上海出身の中国人マフィアが活動していたが、警察の努力により次々と逮捕強制送還され、マフィア組織は縮小・壊滅していた。しかし、中国残留孤児マフィアは逮捕されても強制送還できないケースが多く、勢力を拡大している。現在では、大陸の中国マフィアを日本に手引きしたり、不良日本人や中国人留学生を手下として使う場合もある。
l  その他の問題[編集]
外務省職員が中国残留孤児二世の男性(民間人。国籍は日本)に中華人民共和国での諜報活動を依頼し、中華人民共和国当局に逮捕されるという事件が発生している。 また、2005年の衆議院総選挙に於いて、選挙権を有しているのに日本語を解せず選挙権を行使できないのは人権侵害であるとして、中国語での公示を求める訴えを起こした。
l  残留孤児が題材の作品[編集]
小説[編集]
不夜城 (馳星周1996) - 佐藤夏美と呉富春が残留孤児二世。
カルテット大沢在昌 - 登場人物の一人が中国残留孤児三世。

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