大学の問題 問題の大学  竹内洋/佐藤優  2020.3.14.


2020.3.14. 大学の問題 問題の大学

著者
竹内  京都大学 名誉教授。関西大学 名誉教授。関西大学 東京センター長。1942年生まれ。京都大学教育学部卒業後、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得満期退学。教育学博士。関西大学社会学部教授を務めた後、京都大学へ移り、教育学部教授・大学院教授・研究科長・教育学部長を歴任。20054月に関西大学教授に再任、人間健康学部長を経て現職。日本教育社会学会会長、読売新聞読書委員、中央教育審議会大学教育部会専門委員、日本学術振興会特別研究委員等審査委員会委員などを歴任。著書に、『革新幻想の戦後史』(中央公論新社)、『メディアと知識人』(中央公論新社)、『大学の下流化』(NTT出版)等多数
佐藤  作家・元外務省主任分析官・同志社大学神学部客員教授(学長特別顧問、東京担当)。1960年東京都生まれ。埼玉県立浦和高校卒業後、同志社大学神学部に進学。同大学院神学研究科修了。在学中は組織神学、無神論を学ぶ。在英国日本国大使館、在ロシア連邦日本国大使館に勤務した後、本省国際情報局主任分析官(課長補佐級)。2002年鈴木宗男事件に絡む疑惑で東京地検特捜部に逮捕、起訴され東京拘置所で512日間拘留。2013年執行猶予期間満了。刑の言い渡しが効力を失う。時事通信社からは『日本でテロが起きる日』『一触即発の世界』を刊行

発行日           2019.10.19. 初版発行
発行所           時事通信出版局

まえがき        佐藤優
中学で英語教師になろうと考え、ハンガリーの高校生と英語で文通。高校では、受験勉強が嫌で、浦和の社青同事務所に入り浸り、そこで知り合った資本論研究会に入ってマルクス経済学に触れる。高校では、倫理社会の先生とアメリカのプロテスタント神学者の原書講読を通じて進学に関心を持ち、1浪ののち同志社神学部に入り、大学院神学研究科に進む
16年から同志社で、18年からは浦和高校の教壇にも立つと、教師も学生も優秀で、教育環境も整っているのに、うまく噛み合っていないことに気づく。日本の社会と国家を強化するためには、まず日本の高等教育を立て直す必要がある。方向性は明確で、教師と学生が信頼関係を構築し、学びの共同体であるという大学の原点に立ち返ること。まずは現下の大学が抱えている問題をできるだけ正確に捉える必要がある
竹内先生の著作に通底しているのは、人間に対する強い関心。教育の基本が人間に対する関心を持ち続けることだという竹内氏の教育観から私も強い影響を受けた


1.   大学でなぜ学ぶのか(Why
l  「生き残るためには高等教育が必要だ」
戦時中の軍需産業や軍隊で民衆が高学歴者に接することで、「学歴の効用」を痛感させられたことが、戦後の中等教育や高等教育進学率の爆発的上昇を呼ぶ
戦争末期と敗戦後は、都会生活者や満州など旧植民地からの帰還者が地方へ逆流したことが、地方でも子供の教育の大切さが広く認識された

l  大学で学ぶことの意味
昔は親が大学に行っていなくても、子供はとにかく勉強させて自分より学歴をつけて欲しいという意識があったが、今はどうもそういう感じではない
君子=教養人 ⇒ 知識に加え、徳性、判断力、構想力を身につけている人
小人=知識人 ⇒ 知識だけをつけた人

l  クイズと学問の境界線
マークシート式の入試が、クイズと学問の境界線を曖昧にしている

l  逆の「再配分」
富裕層は情報強者で貧困層は情報弱者という情報ギャップができて、貧困層はそれなりに幸せに暮らせてしまう
貧困層が払った税金で比較的恵まれている家庭の子女の高等教育の学費を出しているのは、逆再配分

l  国立大学は授業料を年間12万円に
今の奨学金の額では勉学に集中するには不足
現在の国立大の授業料535,800円を12万円位にすれば、自宅通学ならなんとかできる

l  授業料が高すぎる
世界的に見ておかしいのは、大衆高等教育を私立大学に任せているところで、にもかかわらず授業料が高い
短期大学はコミュニティ・カレッジがモデルだったが、女子のみの一過的な需要に対応した変則に終わり、コミュニティ・カレッジの日本版は専修学校になった
地方の国立大学の活性化も考えて欲しい

l  生活保護家庭の優秀な生徒
高校の授業料も深刻な事態
偏差値が73の浦和高校でも、住民税免除家庭が4%程度いる
京都では一時公立高校をフラット化したために、進学名門校は私学となり、授業料の安い名門公立高校から難関大学進学という貧困層のキャリアパスは消滅 ⇒ 今また復活

l  地方公立大学の面白い動き
名護市の名桜大学 ⇒ 周辺自治体による運営で、入口のハードルを低くするが、入学後すぐに数学と英語の学力をチェックして、チューター制度で底上げする仕組み
多くの大学ではTA(学習指導助手)が形骸化して「無償奨学金」しているが、名桜では学生のアルバイトとして認められ、上級生が下級生を教える仕組みになっている
県外からの学生が50%で、地元出身の学生は入学金や初年度納付金が安い
カナダの大学との間で、授業料が追加で必要にならない交換留学制度があり、他の諸国の大学とも交換留学協定がある

l  地方にあった名門高等教育
戦前は地方にも高等商業/工業とか高等師範に名門がたくさんあって良い教育をしていた
大学の研究職も、どんなに早くても35歳ぐらいから就職で、65歳が大学教員の定年となると、定収入が得られるのはわずか30年。職業として割りに合わない
私大だと、まず博士号をとって、学術振興会の特別研究員になって就活が始まる。42歳が専任の募集の限界なので、40歳くらいでやっと専任教員として活躍の足場ができても定年が60歳であれば、大学で中心的に活動できるのは20年のみ
大学の授業料の推移:
年度
国立大学
公立大学
私立大学
1975
36,000
27,847
182,677
1980
180,000
157,412
355,156
1990
339,600
337,105
615,486
2000
478,800
478,800
789,659
2010
535,800
535,962
858,265
2017
535,800
538,294
900,093

2.   大学で誰が学ぶのか(Who
l  当世大学生気質
何に適性があるのか、何を勉強すればいいのか分かっていない学生が多い

l  病気に逃げ込む学生
表面的にはものすごく従順になっている
何かの病名をつけてもらって、それを言い訳にしようとする学生が多い

l  隠された教育イデオロギー
「多様性」とか言いながら、非常に画一的な教育イデオロギーが支配している
「普通人」教育イデオロギーがしっかり根付いていて、少しでも普通ではないと思われる生徒に敏感になり、矯正しなくてはという教育者の職業的熱意になる
大学でもカタカナ語学部とかがどんどん増えてくるのは、大学の拡大と関係しているが、もう1回原点に帰ることで、どうやって教育を立て直していくか、非常に重要な問題

l  入学歴社会の終わり
今、確実に起きているのは「入学歴社会の終わり」であり、1819歳の時に記憶したことを再現する能力をテストするという偏差値型で序列をつけ、どの大学に入ったかによってその人間の一生の能力が評価されてきたが、明らかに崩れてきている
しかしその後、学歴社会が来たかといってもそうはなっていないし、学士や修士といった学歴もどの程度の意味があるのかと、社会でも適正に評価されていない
その背景には「新自由主義」があって、学知の内容を問われる代わりに、いくら稼げるのかという観点だけで見る

l  学べる時間が少ない
さらに重要なのは学べる時間の問題 ⇒ 3年には就活が始まって1年もかかっているので、実質勉強するのは2年だけ
教養教育にせよ、専門教育にせよ、高等教育のレベルの質を担保した教育を行うことが死活的に重要

l  就活が問題
就活は日本の経済界の問題 ⇒ 役に立つ勉強を大学に強要するのであれば、自分たちの採用方法を考えないといけない。専門も重視していなければ、OJTも十分にしない
現今の経済界の大学の学業軽視は、日本型雇用の伝統でも何でもない。以前は東大・京大でも法経卒でなければ大企業にはいけなかったように、専門はきちんと重視していた
大学院は定員を増やし過ぎ、安易に院に学生が流れているため、以前は学部・院共通授業が多く、学部生が「接触効果」で意識が高まったが、今はそれをやると院生の程度が知れて逆効果になり兼ねない
大学の学部で出す紀要も査読制度を取り入れているが、指導教員などが知り合いに査読を頼むから、査読者の忖度が入るので、すべてがレベルを満たしているという保証がない

3.   大学で何を学ぶのか(What
l  続く大学入試改革
大学改革は90年代から続いている
大学改革の本質は入試改革 ⇒ トリクルダウンのトップが入試改革で、入試制度を変えないと大学は大きく変わらない
今の入試を画期的に変えたのは79年の「共通1次試験」で、初めてマークシート方式が採用され、それまでは足切り程度の意味でしかなかったのが、東大など900点満点で9割取らないといけないため、注意力のテストになっている
学生をマークシートで選別するという発想はなかったのに、東大の2次試験で110点分に圧縮して加点すると550分の110となって、受験生はそこにウェイトを置かなくてはいけなくなった
センター試験導入の結果、偏差値が過剰な意味を持つようになり、大学の序列化が起こる
私大では文系の数学離れが顕著で、入試から数学を外すと受験生が集まるので、偏差値が5くらいは上がる ⇒ 最後まで数学を入試に入れていたのが慶應の経済と同志社の商学部で、慶應の経済では早稲田の政経に水をあけられたのがショックで、日数学受験枠を作ったという話がある。数学がなくなった結果、数学がほとんどできない経済学部卒や経済学修士号を持った人が出てくるという異常事態
大学が変えようとしても、いつも受験産業が対応して大学の先を行くので、改革がうまくゆかない

l  AO的人間」
20年から「大学共通テスト」に変わる ⇒ 思考力・判断力・表現力を重視する(ために、英語を民間の外部試験とし、数学と国語に記述式などを導入しようとしたが挫折)
試しにやってみたらなかなか難しく、国立大でも有意な差が出るのは旧帝大プラス一橋のトップレベルで、中堅以下は軒並み平均点が下がって選別できない恐れあり
推薦入試と、小論文や面接などで判定するAdmission Office入試を導入してから大学が迷走し始めた ⇒ 少子化で学生集めのいい口実に使われていて、半分以上推薦やAOで入っていたら偏差値も当てにならなくなる
推薦やAOで入ると、「コミュ力」と言われる万能的「能力」のお墨付きを得たとして、世の中を甘く見るようなところが出て、「AO的人間」ばかりができる

l  丸投げされる入試問題
医学部の小論文など、「裏口入学」のためにあるようなものに成り下がっている ⇒ 客観的な知識を問うのではなく、受験者の考えを聞くような設問になっていると、採点基準がどこにあるのかもわからない。一例が「脳死問題をどう考えるか」というような設問
単科医大/単科大学全般の問題として、作問能力に疑義
総合的な教養をつけることを重視していた戦前は、軍医になる時、医専と医学部出身で1階級違ったくらいで、今の単科医大は昔の医専に似ている

l  「作問力」が大学入試の決め手
早慶と同志社は作問の方針が明確 ⇒ 早慶は東大合格の受験生をいかに落とすか、同志社は京大合格の受験生をいかに落とすかで、どこまでできるかは作問にかかっている
滑り止めで入学してきても結局不本意だと、いずれ全体の士気が落ちて学部の勉強についていけなくなるので、「滑り止め」にしないことが作問の生命線で、記述式を重視
採点は地獄だが、生き残りがかかっている

l  理系か文系か
一部進学校や中高一貫校における理系信仰、特に異常な「医学部信仰」は問題
社会の超上層部は全部文系で、専門職としては常に「見えざるガラスの天井」がある
サラリーマンの社会では、「不遇感」よりも「優遇感」に注目。トップになったのが僥倖によるものではないかという「優遇感コンプレックス」があって、部下の異論に出会うと激昂するのは、胸の奥にある不安感と同期するからで、「イエスマン」で周囲を固めるのもそうした地位不安が意識化することを避けるためではないか

l  理系的思考
企業のトップが率直に自らの判断の間違えを認めるのは重要 ⇒ 理系的なマインドが役立つ

l  国際常識と理系研究者
日本で受付嬢のロボットを開発してオリンピックで使おうと考え、技術者が作ってしまったが、国際社会のジェンダー意識を無視していたため、国際的には通用しない
ハウステンボスや、「変なホテル」では、恐竜型の受付ロボットを作って成功している

l  努力と全能感
努力すれば何でもできると思い込む人もいて、受験で挫折していないと「全能感」から離れられず、恋愛で初めて全能感が阻害されると悲劇が生まれる

l  受験エリートの悲しい性
東大の医学部は常に10%弱の国家試験不合格者がいるが、中に完璧主義ゆえに不合格の学生がいる。高い山に登ること自体が目的となった受験エリートの悲しい性

l  待ち時間は意外と短い
会社でも役所でも定年は60でも、それより10年も前に先が見えてくる
01年度から外交官試験がなくなって国家公務員試験に1本化されたが、生涯給与が他の省庁に比べて3倍近いことが分かったとたんに、公務員試験の上位者が入省してくるようになった ⇒ 今の外交のレベルが落ちた原因

l  「俗物」を生み出さない教育
開成・東大を出た40ぐらいの男3人が、今の境遇を語るが、揃いも揃って「俗物」
同志社とか関大とか、学力的にボリュームゾーンにある人たちを受け入れている大学は、意外と俗物を生み出さなくて、いいのかもしれない

l  大学入試(共通試験)の変化
    194754年 進学適性検査 ⇒ GHQの民間情報教育局からの要請で、米国のScholastic Aptitude Testと同様の入試制度が求められ、文部省が作問し全国一斉に実施。大学独自の入試も適性検査を使用することも可能だったが、55年国立大学協会、全国高等学校長会からの要望で、「練習効果が顕著に出る」「受験準備が激化」などの理由から廃止
    196768年 能力開発研究所テスト(能研テスト) 大学、高校、文部省が発起人となって、財団法人能力開発研究所を設立、6368年度の6年間、大学入学者の選抜と高校の進路指導に役立つ共通テストの開発が行われたが、大学側が導入に消極的だったため、使われたのは最後の2年のみ
    19791月~ 共通1次学力試験(共通1) 高校教育に悪影響をもたらすとされた大学入試の「難問奇問」をなくすため、並びに、1期校・2期校の枠組みをなくして2期校は滑り止めとする「2期校コンプレックス」をなくすために導入されたが、「大学の序列化」や「輪切りの進路指導」が問題となって廃止
    19901月~ 大学入試センター試験 内閣総理大臣の諮問機関である臨時教育審議会が提言した「多様化・個性化路線」を踏まえ、受験教科・科目を国公立大も含めて各大学(学部)の自由に任せる「アラカルト」方式になる。私大も参加
    20211(予定) 大学入試共通テスト 高大接続改革で学力の3要素を入れるため、特に「思考力・判断力・表現力」を見るため、国語と数学に記述式を導入。英語は民間試験を活用し、話す力を含めた4技能「読む・書く・聞く・話す」を見る

4.   どうやって教えるのか、学ぶのか(How
l  勉強嫌いの大学教員
勉強嫌いの大学教員が多いのに驚く。学生時代に、「世の中で一番偉いのは教授」だと勘違いしたのか、人生の目標が大学教授になったため、実際に大学教員になると、身分が安定されたことで安心してしまうのか、博士論文を書く気すら起こらないという人がいる
大学の予算とポストが減って講座制が崩れたことも原因
ゼミなどを通じて師弟関係の感化があるとか、主任教授が締めるとかしないとひどくなる
学位論文が書けたとしてもそこで燃え尽きる
コースドクター(課程博士)が主流になったため、ドイツのような教授資格論文制度を入れて、40代くらいでもう1回しっかりとした論文を書かせる必要がある
アメリカでも、任期付き若手教員Assistant ProfessorFull Professorになるのに関門が2回ある。まず終身在職権を獲得してAssociate Professorになり身分を保証された後、Full Prof.になるためにさらに審査がある

l  大学教授は「届出制」
日本では教授が全体で40%とかなり高率。戦後私大が優秀な教員を集めるために安上がりのインセンティブとして乱発した弊害が残る
大学教授は一種の「届出制」みたいなもの、よほどの不祥事がない限り問題は表面化しないが、それに対して、小中高特別支援学校は免許制なのでハードルが高い
大学教員の場合は、教授会で認められるほか、新設の学部や大学院では、大学から出された予定者の研究・教育業績が文科省の大学設置・学校法人審議会の大学設置分科会で審査され、適格とされる必要がある。候補者の論文の抜刷もなく、論文の中身ではなく学術誌に書いているか、教える科目と論文の題目とに整合性があるかの形式判定になる。それも学部なら新設4年たてば以後は教授会の専決事項となり、教授会自治の形骸化の1
特に文系に顕著だが、博士号を持っていない人が多い。指導教授が持っていないから、学生は取るわけにいかない

l  ビジネスエリートと政治家の出身大学
ビジネスエリートの出身大学はかなり分散 ⇒ 78年は旧帝大・一橋で42%だったのが、07年では慶應を筆頭に有名私大がトップテンに入り、東大中心の覇権構造は緩和
衆議院議員では、69年は東大が121/25%でダントツのトップだったが、16年には90人にまで減、逆に私大が伸びている
学生の地元志向が強まっているのも最近の傾向

l  私学任せの大衆高等教育
大学進学人口増大の受け皿を、主として私学が担ったのは日本的特徴 ⇒ 戦後の高等教育の初期的大衆化の受け皿になった私大や私立専門学校という「遺産」があったから
戦後の本カウ的な大衆化の波に対応するために、当時の文部省は私学の学部増設や定員増加、敷地面積などの縛りを大幅に緩和、その代わり私学への財政的支援を極小にする私学政策をとったため、財政支出を抑えて進学需要の拡大に対応することができたが、教育の質が劣化し、放漫経営に堕する ⇒ 少子化で放漫政策を見直すべきだったが、市場競争で淘汰されることがよいことだとされて、大学新設や学部増設を認めたため、大幅な定員割れを出来(18年には私大で36.1%、私立短大で70.4%が定員割れ)
大衆高等教育を私学に任せすぎたツケが回ってきている
オーナー系の規模の小さい私大は家族経営のようで、若い研究者も搾取されているし、「校務」という名の雑用が多く、勉強もできず抜け出すこともままならない

l  「裏口入学」の大学教員
学生のほうは、AO入試や自己推薦、学校推薦、付属校からのところてんなど、相当程度の大学で可能となり、一般入試の人が割を食っているが、教員のほうも「客員教授」や「特任教授」といった得体のしれない教授職を出し過ぎ。特に実業界から入ったりするとまともな研究もせず業績もない、しかも教授会に入らないので雑用も免れてラク。コスパがいい
コツコツ積み上げてきた本職の教員から見るとやってられない感じ
文科省からは、「実学に近づける」という大学改革の一環で、「実務家教員」という校長や教育委員会経験者を採用しろとの圧力がすごく、それに伴う予算もつけてきたりするが、大学側にはほとんど役に立っていない ⇒ 社会経験とアカデミックな業績は無関係
大学無償化の動きでは、社会貢献度を国が計るため、政策誘導的な人事に影響が出るので、高等教育無償化は怖い ⇒ 無償化の対象の大学は、①実務経験のある教員による授業科目が標準単位数の1割以上、②法人の理事に産業界等の外部人材を複数任命していること、などの条件がある

l  コミュニティ・カレッジの可能性
Fランク」とは、受験者と比べて不合格者が少ない大学で、予備校のAEの格付けに入らないBF=Border Free(合格率50%を判定する基準が設定できない)ということで名付けられたが、コミュニティ・カレッジと考えればいい
ユニークで実績を出している、小規模で歴史の浅い私学がもっと知られるようになってほしい

l  劣等感と向上心
「向上心」のない学生が増えたように感じる
関西では、就職も含め関西エリアで完結しているので、関西から出ないと決めれば、やっていけないことはない

l  東大・京大と作家
京大ですら、戦前は地方大学
京大は自由な学風がいい。「自由な学風」ということで作家を見ると、旧帝大の教師で研究をしていて、小説を書いているのは、京大の高橋和巳以降出ていない
190232年に日本文学作品の小説家、劇作家、詩人68人の出身大学は、東大21(漱石、谷崎など)、早稲田11(正宗など)、慶應6(小島政二郎など)に対し京大は菊池寛のみ。京大文学部も野間宏などがいるが、圧倒的に少ない

l  複線制度で「社会的上昇」ができた
昔は夜間や通信教育など、教育制度が複線だった。経済的に苦しい家庭の子は軍隊の学校に行くか、師範学校に行ったが、そこでも掬い上げる仕組みがあったが、戦後は単線化され、それが生き方が狭小になった理由の1

l  日本は中間層の厚みが強みだった
普通の人のレベルが高いのが明治以来の取り柄で、かつてのイギリスにおいて上流階級が担っていた経済としての「ジェントルマン」資本主義ではなく、「ヒラ」の資本主義
今はかなりレベルが落ちて、国立情報学研究所の新井紀子教授によれば、中学の教科書を読めている中学生は3割強程度だし、偶数と奇数を足して必ず奇数になるという証明ができるのはトップ国立で8割だが、難関私立では3割弱

5.   どこでいつ教えるのか、学ぶのか(Where,When
l  受験刑務所としての中高一貫校
私立の中高一貫制の進学校は2通り ⇒ 灘や武蔵などの伝統的な私立では、受験を意識せず、最後の1年で勝負するのに対し、新興の一貫校では高校1,2年で数学の適性を見て、適性がなければ早慶など文系狙いで国・英・社に特化、医学部志望者には国・社を捨てさせる。教育内容がひどく、あれでは大学行ってから伸びない
まるで刑務所で、勉強が嫌いになって大学に入るから、学ぼうという意識に欠ける

l  伸び代のある教育
武蔵では、5年間受験勉強をさせず、どの大学に行っても活躍できる伸び代を蓄える教育
90年の大学入試センター試験導入以降、東大合格者がガタっと減るが、生徒の底力は変わっていない

l  テキストを精読し、興味を引き出す
教科書をきちんと読んで理解を深めると、生徒の興味も増して勉強を面白くやれるようになる

l  周りの人たちへ思いをはせる
社会にはいろいろな人がいるということを皮膚感覚で分からせる

l  大学内での見えざるネットワーク
灘や麻布の出身者は、学内でも固まって、進学を振り分けるような内部試験の点数を上げるための横のネットワークを作って他者を寄せつけない

l  教育とは異なる「受験教育産業」
79年の共通1次導入により「偏差値教育」が入ってきて1つのスタンダード化が起き、受験教育産業のビッグバンが始まる
予備校に担任がいて、生徒の大学合格状況に応じて業績評価される仕組みが出来上がっていて、評価を上げるために生徒を徹底的に絞り上げる。こういうのがいつの間に「教育」になってしまっている

l  「お前たちは商品だ」
予備校の教師のほうが、受験技術的に見れば、教え方がうまいが、情報の効率的な伝達はあっても、教育はない
予備校で鍛えられた生徒たちは、教養や遊びのない詰込みで大学に進学するため、公務員試験や司法試験など就職の際に試験が必要となるところにかえって受かりづらくなる
徹底した勉強嫌いに加えて、履修していない科目における知識の欠損が著しい

l  『十五の夏』
高校ではいろんな経験をしてほしい。読書も高校でしない生徒は大学生になっても読書をすることは少ない
『十五の夏』は、18年刊行の佐藤の体験記

l  「星野君の二塁打」の解釈
2018年から小学校で道徳科が必修化され、教科書問題が話題に
右派の人たちは道徳観を重視するが、道徳の教科書で道徳が身に付くと思っているとしたら、それは典型的な設計主義で、むしろ左翼的な思考 ⇒ 一種のイデオロギー教育
道徳は感化なので、本来は先生の生き方で示すもの
教科書の内容をいろいろな切り口から材料にして議論したら、真の道徳教育になるにもかかわらず、文科省が価値観を押し付けてきている

l  新解釈「忠臣蔵」
今の学生に『忠臣蔵』の粗筋を話すと、刃傷沙汰や復讐を否定し、切腹論を展開した荻生徂徠が正しいとする
大石内蔵助に感情が近くなるところは、相当のイデオロギー操作がないと出てこないため、忠義より合法性が優先
議論するにはいいテーマ

l  講義録ビジネス
進学塾にしても、お稽古ごとにしても、いろいろな形で一旦煽っておいて、後にクールダウンさせ、そのプロセスで教育産業が成り立っていく

l  文脈と言論

6.   あり得べき、未来の大学
l  教育は子孫への贈り物
「守破離」 ⇒ 日本における学芸や武術の伝統的考え方で、「守」で型を覚え、その後に型を離れることを言うが、学問でも同じで、先人の知恵や知識の基盤の上に自らのものを付け加えるのが学問。論語の「学びて思はざれば、則(すなは)ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば、則ち殆(あやう)し」と同様で、知識をつけても自分で深く思索しなければ生かせないし、自己流儀の思索だけでは独断的で危険
現状は、基礎学力も不十分で、知識の活用力も不十分という「あぶはち取らず」の危険さえ感じる。「古い学力観」として軽視される知識の記憶と理解中心の基礎学力は日本の児童・生徒の長所なのに、それさえ失くしてしまい兼ねない
教育の本質は子孫への贈り物

l  なぜ不祥事が起きるのか
大学の問題を考えるときに、優秀な大学を出た人たちがなぜ問題を次々に起こしているのかは重要 ⇒ 合理的に勉強するが、真理の追求とかには関心がない、社会に入ってからも明確な目標がなければ、周囲に流されてうまく立ち回る。本質においてニヒリズム。それではよい教育や良い国家制度が出てきにくい
教員が大学自治の伝統であまりに多くの決定権を握り、多くの意思決定を迫られるが、意思決定の多くは教員が関与しなくてもいいもの

l  文部科学省の謎
最近文科省がいろいろ問題を起こしているのは、中の部局がバラバラで、文化も違う
特定の省内幹部に責任を負わせると省内秩序が崩れるし、省に罰を与えると、一律に1段階ステップが遅れるだけで、まったく処分しないのと一緒。処分というのはメリハリをつけて特定の人間だけにやらないと意味がないが、それをやると面倒なことになるという意識が文科省内で強かったのではないか

l  これからの教育は
学知として、1つの自分のフィールドを確実に理解するには20年はかかる。10年で基本ができて、20年たったくらいで自分なりの独創性のある研究を出すことができて、それを次世代に伝えていくということだから、四半世紀はかかる仕事
60歳になっても70歳になっても、情熱のある人はいるし、逆に50歳くらいで何もしない先生もいる
大学改革が、学内政治好きな「廊下鳶」を増殖させる構造になっている

l  近代大学の滅亡の先に
資格試験や就職について予備校や塾に頼るようになったのは大学が崩れた証拠
難関校の学力低下は大学崩壊の理由の1
オンライン教育の充実も崩壊の理由 ⇒ 世界中に公開された講義がネット上でとれる
大学に光が差したのは、19世紀初めごろ、ドイツの大学が自然科学のイノベーションの基地となり始めたからで、それを後光に、研究と教育を一致させる「フンボルト理念」の下に、大学の精神科学(人文学)も威光を持つようになった



【書評】『大学の問題 問題の大学』竹内洋、佐藤優著
2019.12.15 08:30 産経新聞
 「鬼才と碩学」の教育論
 大学問題は教育問題と同じで誰もが一家言もち、しかも的を外す。「大学生は遊んでばかり」「学問は社会の役に立っていない」という批判は人口に膾炙しているが、その根拠はたいして勉強してこなかった自分の狭い経験だったりする。だが、政策形成に影響力をもつ指導者層や、わが子の教育方針に責任をもつ親がそれでは困る。
 「今の大学はどうなっているのか、どう考えたらよいか」。こうした問いなら昔からあるが、巷に溢れているのは「これから入試はどう変わる?」とか「AIに負けない教育とは?」など変化に即応して先行者に追いつく方法を伝授するものばかり。この構図に刻印された決定的な「遅れ」は解消されないから、新奇の情報が出るたびに振り回されることになる。
 本書が凡百の教育対談と一線を画すのは、まさにこれらの点においてである。元外務省主任分析官の経歴をもつ佐藤優と教育社会学の第一人者の竹内洋(帯文のとおり「鬼才と碩学」)、異なる世界で生きてきた2人の接点は「教養」、すなわち知を重んじる態度であるが、知の働きは対話者を得て自由度を増す。佐藤が個別の経験や事例を掘り下げて含意を引っ張り出してくれば、竹内がすかさず別の文脈に置き直して異なる含意をかぶせてくる、という具合だ。
 攻守所を変えながら縦横に展開していく対話は刺激的であるが、ところどころ両者の教育観が一致する瞬間にハッとさせられる。例えばお金の話題から始まる最終章。読者は「誰が教育費を負担すべきか」「財源をどうやりくりするか」という資源をめぐる争いを思い浮かべるはずだが、対話は想定の斜め上に跳躍する。京都の商家における子弟の祇園通いへの投資(竹内)や必要な本を学生に自ら買い与える(佐藤)といった豪儀な挿話から、「子孫への贈り物」という教育観に着地する。贈り物といっても私たちがゼロから自前で用意するのではない。上の世代からすでに受け取っているものに気づくこと。それを「少しでもよくして」次世代に渡していくことなのだ。
 不安を煽り、勝ち抜けを勧める巷の教育論に馴染んできた者には大いに活が入ること間違いなしである。(時事通信社・1500円+税)
 評・井上義和(帝京大准教授)




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