わたしの日本語修行 ドナルド・キーン 2022.9.12.
2022.9.12. わたしの日本語修行
著者
ドナルド・キーン
河路由佳 1959年生まれ。慶應大大学院文学研究科(国文学専攻)修了。一橋大大学院言語社会研究科博士後期課程単位取得退学。博士(学術、一橋大)。現代歌人協会会員。国際学友会日本語学校、中国・西安交通大学外語系日本語課、東京農工大留学生センター、東外大大学院総合国際学研究員を経て、現在、東洋大国際教育センター日本語講師。専門は日本語教育学
発行日 2020.2.1. 印刷 2.24.発行
発行所 白水社
はじめに 河路由佳 2014年
きっかけは教科書。キーンは、長沼直兄(なおえ)の『標準日本語讀本』を教科書として日本語を学び、その質を高く評価しているが、その教科書が和綴じの原本、海賊版共々2011年に長沼スクールから東外大図書館に寄贈。図書館のウェブページから全文を閲覧できる
寄贈を記念して展示会と講演会が開催され、私が委員を務めていたので、連絡を取ったのが始まり。講演会は断られたが、東外大の卒業生でもある、後に養子縁組をする浄瑠璃奏者の鶴澤淺造こと上原誠己(せいき)氏の理解を得て、原本を見てもらうことになる
第1章
わたしと海軍日本語学校
1.
外国語との出会い
ニューヨークで生まれ育ち、貿易商をしていた父のもとに来る手紙の切手から外国への興味を持つ
9歳で父に連れられてヨーロッパへ。フランス語を学びたいと思ったが、果たせず
15歳のとき両親が離婚し、母と2人で暮らす。中学に入ってから外国語を学び始める
1938年16歳でコロンビア大入学。フランス語とギリシャ語を専攻
中国人の友人ができる
2.
漢字、そして日本語との出会い
李さんから漢字を習ったのがきっかけで、学部生として中国語を選択
古本屋で英訳の『源氏物語』に出会い、美の世界に耽溺。日米開戦の直前、ノースカロライナのグレート・スモーキー・マウンテンズの友人の山荘で日系人について日本語を学んだのを機会に、大学でも日本語を専攻したが、指導法も教材も不十分
「日本の思想史」の講座で一生の師に出会う――角田(つのだ)柳作(1877~1964、群馬県出身、1909年仏教布教のため渡米、本願寺ハワイ中学校長、'17年ニューヨークへ移りコロンビア大で学ぶ、戦時中は逮捕されるが戦前戦後同大で教え、同大に日本文化研究所を設立、日本研究のコレクションのキューレーターを務める、その功績をキーンが称えたことから世に知られる)で、最初は1人だけの授業、後に3年間の講義内容をまとめて出版
3.
海軍日本語学校での日本語学習
1942年海軍日本語学校の存在を知って志願。2回生として採用され、カリフォルニア大学バークレー校に入学、11カ月で読み書きを覚え、その時から日本語が特別な、運命的なものとなる
卒業後は海軍の少尉任官。陸軍日本語学校は日本語の勉強の傍ら軍事訓練にも参加したが、海軍は日本語の勉強に専念
4.
海軍日本語学校の先生・仲間たち
帰米の先生はほとんどが日系2世で、日本で教育を受けていた
第2章
海軍日本語学校での日本語修行
1.
海軍日本語学校での授業
教科書は長沼直兄の『標準日本語讀本』――「これは本です」から始まり、最初から文を勉強
2.
『標準日本語讀本』を巡って
この教科書は、どこか何かに偏るという心配は全くない。教材の内容は、読み物としてもとても面白い
第3章
海軍日本語学校時代の書簡
1.
発見された手紙
2.
手紙にまつわる思い出
第4章
戦時中の体験――日本文学研究の道へ
'43~’46年海軍陸軍海兵隊の日本語将校として勤務
1.
語学兵としての仕事
最初の勤務地は真珠湾。押収された日本語の文書の翻訳
行書を習っていたお陰で手書きの文章や日記も読めるようになり、一種の特殊技能とされた――アメリカでは兵士が日記をつけることは禁止、敵の手に渡ったら機密が漏れる恐れがあるためだが、日本兵はみな記録を残していた。日本人の日記文学はその後わたしの大きなテーマの1つになる
アッツ島に行って捕虜の尋問にも立ち会う
2.
戦時下のハワイ大学で日本文学を学ぶ
子供のころハワイに移住した日本人が教授で、日本の近代小説を読む
日本語を書く時には、英語で考えて日本語に訳していたと思う
3.
日本語の専門家としての新たな出発
海軍除隊の際の履歴に関する質問で、今後海軍に参加したいかという問いにはNO、準備要員Ready ComponentにもNO、待機要員Standby ComponentにはYESと回答と答え、海軍の訓練Indoctrinationを受けたものではないので、待機要員としての活動への参加は、私の専門に係るものに限ると条件をつけている
日本の荒廃を見て多くの日本語専門家はこの先50年100年日本は立ち直らないだろうと考え日本語から離れていったが、私は自分が日本語に向いているという確信を持った
フランス語と日本語の選択で迷っていた時、フランス語ではいくら頑張ってもフランス人ほど上手にはなれないが、日本語なら専門家が少ないから価値が上がると助言された
アーサー・ウェーリの『源氏物語』に出会い、圧倒的に美しい英語に感銘を受け、第2のウェーリになろうと思った
戦後コロンビアに戻ったとき、日本語と中国語も勉強したが、中国語のほうは『紅楼夢』が教材でその内容が好きになれず、日本語だけに絞った
日本関係の先生はほとんど占領関係の仕事で日本に行ってしまい、日本語の先生は角田先生1人だけ、歴史、思想史、文学を一手に引き受けて教えただけでなく、漢詩や漢文にも通暁、どれか専門に集中するというより幅広く日本語・文化を学ぶことができ、後に日本文学者となるための基礎は角田先生の基で築かれた
このとき読んだ『国姓爺合戦』で後に博士論文を書く
その後のハーヴァード、ケンブリッジでは中国語を学ぶ
第5章
日本語・日本文学の教師として
1.
ケンブリッジ大学での第一歩
「日本語会話」の教師としてスタート。当時のケンブリッジの日本語の入門書は、同大の古典語を学ぶ伝統に則って『古今和歌集』。その授業が認められて副講師になる
1953年京大に留学
1955年コロンビア大で日本語と日本文学を教える――それまで使われていた教科書『大学生のための日本語基礎』に代わって夏目漱石の『三四郎』を講読したところ、学生の人気が高まる。会話と漢字を同時に勉強するのが有効
翻訳が重要で、最もふさわしい英語に翻訳するというのが授業の中心となる
2.
教え子たちの活躍
インタビューを終えて ドナルド・キーン
最初のインタビューは2012年、以後翌年末まで数回行った
戦争で日本は負けたが、日本文化は勝利を収めたと確信する
解説 ドナルド・キーン氏と『ナガヌマ・リーダー』 河路由佳
キーンは戦争中『ナガヌマ・リーダー』をテキストとして日本語を学び、この教科書を比類なく優れたものとして高く評価
長沼は、1894年群馬県生まれ。アメリカ人と結婚。大変な読書家で、日比谷図書館の本を片っ端から読んでいたという。英語教授研究所所長ハロルド・パーマーのみちびきで1923年より米国大使館の日本語教師を務めた。その生徒のために作成したのが『標準日本語讀本(全7巻)』で、入門から、幅広い文体・内容の日本語が読める教養ある日本人と同等のレベルまでを段階的に学ぶことができる。’41年から文部省内の日本語教育振興会の理事となりアジア向けの日本語普及事業に従事。戦後はGHQの日本地区語学科の主任となり、それと並行して’48年には言語文化研究所付属東京日本語学校を開校、外国人一般を対象とする日本語教育と教員の養成、教材開発に取り組む
アメリカでの日本語教育は、19世紀後半、日系移民の子どもへの「継承語教育」に始まり、半世紀ほどは日本語を使う人は日系人に限られていた。非日系人の日本語教育は軍事関係のニーズに始まり、1907年以来米国陸海軍は毎年2名の将校を日本の米国大使館に派遣して日本語を習得させ、日本の情報収集を担当。このコースを長沼が担当
開戦直前「ナガヌマ・スクール」は閉鎖されるが、語学兵の教育体制が準備され、ナガヌマ・リーダーや各種の教材が採用され、ミシガン大学の陸軍日本語学校とも併せ、この時期アメリカの陸海軍で養成された日本語の語学将校は5000名あまりに上る
ナガヌマ・リーダーの戦後の改訂版と付属教材の一式は、米軍側が長沼直兄に、「戦時中勝手に複製したお詫びに、印刷費を出すから自由に作ってもらいたい」と申し出たことで実現。全8巻に改訂された戦後版『改訂標準日本語読本』は1970年代に至るまで広く国内外で日本語を学ぶ人々に使われ、戦後の日本語教育に大きな影響を与えた
人が言葉を学ぶメカニズムを長沼直兄は若き日にイギリス人ハロルド・パーマーから教わった
日本文学の研究、英語への翻訳の数々によって、日本文学は広く世界に知られることになったが、ドナルド・キーンの果たした役割は測り知れない
ドナルド・キーンさんが愛した軽井沢 文豪と交流し、研究に没頭した
滝沢隆史2022年9月6日 13時08分 朝日
軽井沢山荘で仕事をするドナルド・キーンさん=2015年、長野県軽井沢町、キーン誠己さん提供
世界に日本の文化や文学を広めた日本文学研究者のドナルド・キーンさん(1922~2019)は、長野県軽井沢町に小さな山荘を構えた。96歳で亡くなる直前まで半世紀以上にわたって夏を過ごし、研究に打ち込んだ。なぜ、キーンさんは軽井沢を研究の地に選んだのか。同町の軽井沢高原文庫で開催中の「生誕100年展」でその関わりをたどることができる。
「庵」と呼んだ小さな山荘
キーンさんは、米ニューヨーク市生まれで、米コロンビア大在学中の18歳のとき、書店で「源氏物語」(アーサー・ウエーリ訳)を手に取り、日本の文化に興味を持った。
戦後の1953年に京都大へ留学し、下宿先で後に文部大臣を務めた故・永井道雄さんと出会う。永井さんから中央公論社長の故・嶋中鵬二さんを紹介され、三島由紀夫や川端康成ら多くの作家と親交を深めるようになり、さらに研究にのめり込んだ。
永井さんはキーンさんを自身の軽井沢の別荘に何度か招待しており、キーンさんも軽井沢を気に入った。1年の半分を過ごす日本の拠点に京都や奈良、鎌倉も考えたようだが、65年、永井さんの別荘から5分ほど離れた場所に、10坪ほどの和風の山荘を建てた。当時の信濃毎日新聞の取材に答えている。
「川端康成さんをはじめとする日本の作家たちや大学教授が、ほとんど軽井沢に集まっている。東京ではひどく忙しい人たちばかりだが、軽井沢では楽しく付き合えて、とても便利です。そのうえ、静かで勉強にはもってこい」
2012年にキーンさんの養子になった浄瑠璃三味線奏者のキーン誠己(せいき)さん=東京=によると、山荘は食事をとるスペースを兼ねた畳敷きの寝室と書斎、小さな台所があるだけの簡素な造り。松尾芭蕉に憧憬の念を抱いていたキーンさんは「庵(いおり)」と呼んだ。
誠己さんは12年から17年までの毎夏、キーンさんと一緒に山荘を訪れた。「90歳を過ぎても、朝から晩まで研究に没頭していた。すごい集中力で、トイレもめったに行かない。午前1時ぐらいまで平気で仕事をしていた」。無理をしないで休むように促しても、「僕は無理は大好きです」と笑っていたという。
亡くなる前年の夏「僕たちの軽井沢へ行こう」
キーンさんは中世の文人に自身を重ねながら、小さな庵で「徒然草」の英訳などに取り組んだ。「二つの母国に生きて」(朝日新聞出版)で、こう述懐している。
「雨の音を聞きながら注釈書と首っ引きで着実に翻訳を続けていた私は、何の問題もなく兼好法師の感情に入ることができた。私の翻訳の中では『徒然草』が一番よく出来ていると思うが、これは軽井沢の庵のお陰であろう」
研究に打ち込む一方で、息抜きも欠かさなかったようだ。周辺の森の散歩や料理、オペラやクラシック音楽の鑑賞。「新聞記者や編集者らの訪問客も絶えなかった。軽井沢の生活を楽しみながら、好きなことを存分にやっていた」と誠己さん。
キーンさんは軽井沢での生活をつづった晩年のエッセーで、「太陽が緑の葉の上に光る時、世界でこれより美しい景色はない」と振り返っている。
キーンさんは亡くなるまで、誠己さんのことを文楽時代に名乗った「浅造(あさぞう)」と呼び続けた。山荘を構えてから半世紀。親しんだ軽井沢の風景を形づくる浅間山を見ると「浅造山」と言って喜んだという。
亡くなる前年の18年夏も「僕たちの軽井沢へ行こう」とキーンさんから何度も頼まれたが、体調を崩して実現することはなかった。誠己さんは「そのことがいまだに心残り」としつつ、「6回も軽井沢で一緒に夏を過ごせたことは満足です」と話した。
軽井沢高原文庫の特別展「生誕100年ドナルド・キーン展~軽井沢と日本語の美」は、軽井沢の書斎を当時のまま再現。愛用のタイプライターや机、イスなどを展示するほか、軽井沢の魅力についてつづった直筆原稿、「徒然草」の英訳作品など約200点を公開している。
入館料は大人800円、小中学生400円。10月10日まで。(滝沢隆史)
◇
〈ドナルド・キーン〉 米コロンビア大名誉教授、文化勲章受章者。谷崎潤一郎や川端康成、司馬遼太郎ら日本を代表する作家たちと交遊した。「徒然草」「おくのほそ道」などの古典や、三島由紀夫ら現代作家の作品を英訳したほか、「明治天皇」「石川啄木」などの評伝にも取り組んだ。
1982~92年に朝日新聞の客員編集委員を務め、平安から江戸期の日記文学を論じた「百代(はくたい)の過客(かかく)」などを連載。2011年の東日本大震災後、日本への永住を決めて日本国籍を取得し、講演などで被災地を励ました。
2014年10月24日
新潟紀行、D・キーン、良寛、会津八一の旅でした(前半)
売りに来る 鋸鎌(のこぎりがま)や 百舌鳥(もず)の声 (井月)
明治の中ごろまで信州伊那に暮らした井月(せいげつ)のこの句、「鋸鎌」とは、刃が鋸のような鎌で、これで稲や麦を刈るそうです。秋の風物詩だったわけでしょう。井月は、元来は新潟県の長岡の武士の生まれとか。北越から信濃に流れてきました。
さてその越後の国新潟を先日しばらく旅して来ました。きっかけは、このBlogでもたびたび紹介していますが、小生がエッセイ「アート・スパイラル・ノート」を連載させてもらっています俳誌「白茅(はくぼう)」の発行元である、新潟は加茂市の古刹・雙璧寺(そうへきじ)のご住職で俳人の坂内文應さんと里美さんご夫妻からお招きをいただいたからですが、ちょうど越後出身の文人である良寛や会津八一への関心が当方のなかに育ってきたためでもあります。
秋晴れの午後、東京駅から乗った上越新幹線を、新潟駅のひとつ手前の燕三条の駅で下車しました。坂内さんが迎えてくださいます。向かったのは、加茂川の谷合に作られた加茂の街。桐の箪笥が特産であるのが象徴的ですが、京の都との古い結びつきのある、まさに「小京都」ですね。お寺も神社もどこもただならぬ!由緒を持っているようです。さあ、雙璧寺に着きました。開祖は上杉謙信という、曹洞宗のお寺です。
本堂をはじめお寺のなかを案内いただきました。小生の郷里の紀州の田舎にある浄土真宗の菩提寺なんどとは寺格が違うのは言うまでもありませんが、さりとて京都や奈良で拝観する有名なお寺の、いわば観光地化した空気とは全然違う、「生きた古刹の佇まい」というものに触れる思いでした。心地よい緊張感が流れます。随所に掛けられた書画もいいですね。池のあるお庭に面した座敷を一夜の宿としていただきました。
翌朝は、坂内さんの車で柏崎に向かいます。昨年にこの町に、日本文学研究者のドナルド・キーンさんを顕彰するD・キーン・センター柏崎がオープンしたばかりとのこと。われわれもそこを訪ねました。地元の製菓会社のブルボンがスポンサーですね。一昨年にキーンさん、日本に帰化されたのを機に、住み慣れたニューヨークを離れたわけですが、そのNY時代の書斎をそっくり移築した空間がこのセンターにありました。はい、「白茅」編集長である羽野里美さんと記念のスナップ、「チーズ」です(笑)。
続いて日本海沿いの道路に沿って向かったのは、出雲崎の町です。ここは江戸時代にあの良寛が生まれたところ。生家跡には、良寛堂が建ち、また日本海の向こうの佐渡島を眺める格好で良寛像が置かれています。この日ずっと車のドライバー役で、細かな心配りで諸方を案内くださった坂内文應さんをパチリ、です。
さらに新潟方面を目指しましょう。次の目的地は、その良寛が暮らした五合庵です。この庵の建つ山はそう高いわけではないのですが、しかし庵の場所は中ほど、高齢の良寛には上り下りは難儀だったのでは。ここを訪ねると、ボランティアのお年寄りがここでの良寛さんの暮らしぶりを詳しく語ってくれました。晩年のあの貞心尼とのロマンスも忘れずに、です(笑)。うーん、この旅の予習にと、唐木順三の『良寛』を読んだのですが、名著の多い筑摩の「日本詩人選」の一冊としては、どうも物足りなかった。その理由がわかった気がします。つまり唐木はこの五合庵を訪ねていません。出雲崎にも行っていない。良寛が74歳で没したのは、天保2年、1831年のことですから、そんな遠い昔じゃありませんよ、なのに信濃人の唐木はどうしてここに来なかったのか。どうも腑に落ちませんね。良寛、曹洞宗の禅を学びながら、歌人で漢詩を書き、書も大人気です。その書をご覧あれ。
さて新潟紀行、まだまだ続きますが、だいぶ長くなりました。今日はこのくらいにして続きは追ってまた。お別れの引用句、良寛の和歌で行きましょう。
「やまかげの 岩間をつたふ 苔水の かすかに我は すみわたるかも」(良寛 『良寛歌集』)
ドナルド・キーン(英語: Donald Keene、1922年6月18日 - 2019年2月24日[1])は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。コロンビア大学名誉教授。
日本文化研究の第一人者であり、日本文学の世界的権威[2][3]とされた。文芸評論家としても多くの著作がある。日本文化の欧米への紹介でも数多くの業績がある。ケンブリッジ大学、東北大学、杏林大学ほかから名誉博士。受賞歴は全米文芸評論家賞受賞ほか多数。2002年文化功労者。2008年文化勲章。
日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「キーン ドナルド」へと改めた。鬼怒鳴門(きーん どなるど)[注釈 1]との当て字も用いる[4]。
来歴[編集]
生い立ち[編集]
ニューヨーク市ブルックリン区で貿易商の家庭に生まれる[6][7]。9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる[6][8]。しかし、世界恐慌の最中に妹が死亡し、15歳のときに両親が離婚[9]。以後母とともに生活を営むこととなり経済的困難に遭遇したが、飛び級を繰り返していたキーンはニューヨーク州最優秀生徒としてコロンビア大学のピュリッツァー奨学金を得ることに成功し、1938年(昭和13年)に16歳で同大学文学部に入学した[6][10][11]。
同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受け、フランス語や古代ギリシア語を習得[6][7][11][12]。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生李と親しくなり、そのことがきっかけで中国語、特に漢字の学習に惹かれるに至る[7][11][13]。
第二次世界大戦と日本語との出会い[編集]
1940年(昭和15年)のある日、ナチス・ドイツのフランス侵攻など、欧州情勢に鬱屈とした日々を過ごしていたキーンは、タイムズスクエアでゾッキ本として売られていたアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』を手にとった。本の厚さに比して安価だったというだけの理由で49セントでこれを購入したキーンは、やがてその世界に魅せられるようになる[6][7][11][13][14]。
その後も反日感情を持つ李への遠慮から日本語は学ばなかったが、ジョージ・H・カー[注釈 2]の誘いを受けて、ポール・ブルーム(後:CIA初代東京支局長)とともに有志による日本語勉強合宿に参加。サクラ読本を教材にして日系アメリカ人の猪俣[注釈 3]からレクチャーを受けた[11][16]。合宿を終えたあとも、最初に愛着を覚えたフランス文学にうちこむか中国語と日本語の研究を続けるかキーンには迷いがあったが、フランス出身のブルームから「フランスで育って完璧なフランス語を話すアメリカ人は山ほどいる、しかし日本語がわかるアメリカ人は皆無に近い」と説得された。大学では、カーの勧めにより角田柳作の日本思想史を受講し、日本研究の道に入る[15][17]。
真珠湾攻撃から間もない1942年はじめ、カリフォルニア大学バークレー校に設けられた海軍語学校[注釈 4][注釈 5]に志願し、西海岸に渡る[6][7][20][21]。語学校には、語学に長けた一流大学の学生や日本または中国に駐在していた宣教師や実業家の子弟らが集められ、日本語教育のカリキュラムでは長沼直兄の『標準日本語讀本』[注釈 6]が用いられ言語の習得のみに専念できる環境が整えられており、日本で教育を受けて帰米した日系アメリカ人らが教師を務めた[22]。同年6月、虫垂炎を患い、海軍病院に入院中に火野葦平の『土と兵隊』を読む。これが初めてキーンが読んだ日本文学作品となった[7][24]。同年、コロンビア大学にて学士号を取得し卒業[7][25]。
翌年1943年(昭和18年)2月にキーンらのグループは軍務に急を要するとして語学校を繰り上げ卒業となり、キーンは卒業生総代として在学中にマスターした日本語で「告別の辞」を述べた[22][20]。
その後キーンは海軍情報士官としてハワイの翻訳局に赴任し、日課の報告書や物資の明細書などのガダルカナル島の戦いで得られた日本軍の文書を英語に訳す任務を負った。中には死亡した兵士から押収された日記もあり、くずし字を習得したキーンは好んで翻訳した。最期の思いが赤裸々に綴られた手書きの文書を通じてキーンは日本人の心に接した[注釈 7][14][26][29][27][28]。通訳官として尋問[注釈 8]した最初の捕虜は、のちに作家となった豊田穣[30]。
その後オーテス・ケーリ(後:同志社大学名誉教授)とともにアッツ島の戦いに参加する部隊に同行。初めての実戦経験となる。アッツ島では激しい抵抗を見せながらも最後には集団自決で果ててしまう日本兵たちに、キーンは困惑する[注釈 9][14][32][33]。続いてコテージ作戦にも参加し、キスカ島上陸部隊の一員に加えられる。実際にはキスカ島撤退作戦により日本軍はすでに島を去っていたが、キーンのもとに持ち込まれた"標識"は大騒動をもたらし、大量の血清を求める緊急電が本国に向けて打たれた。その看板には『ペスト患者収容所』と日本語で書かれていたのである[32][34]。キーンがこれが日本軍の軍医によるいたずらだったと知ったのはそれからかなり時間が経ってからのことであった[32]。
1945年(昭和20年)には、沖縄攻略作戦に従軍。沖縄本島へ向かう途上、乗艦していた輸送船が神風特別攻撃隊の標的となるが、特攻機は突入直前に別の船のマストに接触して水中に墜落し、命拾いした。上陸初日に接触した現地住民とは意思疎通ができず、沖縄にいるうちの多くが日本語話者でないことを知った。その日の遅く、日本語を上手に話す少年が見つかり、彼を通訳にしてガマに潜む住民に投降を呼び掛けた[35]。陸軍の第96歩兵師団が語学将校を求めていることを知るとこれに志願[35]。主に普天間に駐留して捕虜の尋問を担当し、前線ではスピーカーで投降を呼びかけたが、勝ち目がない中で日本兵や民間防衛隊が自爆攻撃を行い、女性や子どもが自殺する姿を目の当たりにした[注釈 10][36]。沖縄での軍務は7月まで続き[37]、終戦の玉音放送はグアムの収容所で日本人捕虜とともに聞いた[38]。
日本のポツダム宣言受諾後、キーンは日本に赴任することを望んだが、折り合いが悪い上官によってこの願いは聞き届けられず、第6海兵師団として中国に派遣されることとなった。赴任先の青島では当初現地の日本軍人と良好な関係を築いたが、まもなく混乱に乗じた腐敗や密告が入り乱れるようになり、戦争犯罪の取り調べなどに嫌気が差したキーンは帰国願いを出し、原隊復帰の命令書を得てこの地を後にした[6][38]。
帰路、厚木飛行場を経由したキーンは、初めて訪れた日本を見て回りたい衝動を抑えられず、原隊の現在地を横須賀と「誤って」報告。横須賀の司令部に出頭し、自分が「誤解」していたと申告するまで、1週間にわたり滞在し戦後間もない日本を堪能した[注釈 11][6][39]。
研究者として[編集]
戦争が終わると、遠い未来まで日本が強国の地位を取り戻すことはないという考え方が一般的であり、語学将校だった者の多くは日本語に対する興味をなくしてしまった。一方、前職を持たないキーンは、将来のあてがあるわけではなかったが、気質的にあっていると感じた日本研究を続けることを決め、復員兵援護法の制度を利用してコロンビア大学に戻り、大学院で再び角田に学ぶ[6][40]。キーンの願望は日本へ再び渡航することであったがGHQによる制約などにより叶わず、代わりに中国へ行くことを考えて中国語会話の授業を受けたが、クラスメートから中国の不穏な情勢を伝えられて断念した[40]。1947年(昭和22年)に修士号を角田のもとで取得[6][7]。
同年秋、ハーヴァード大学に転じ、海軍語学校時代の友人であったジョゼフ・レヴェンソン(英語版)とともに学び、エドウィン・O・ライシャワーやウィリアム・フン(英語版)の薫陶を受ける[注釈 12][6][41]。
1948年(昭和23年)から5年間ケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める[注釈 13][注釈 14][6][7]。同校ではバートランド・ラッセルに気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、E・M・フォースターや自らが日本語との関わりを持つきっかけとなった源氏物語を英訳したウェイリーとも交際した[6][43]。この間、1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了[44]。
1953年(昭和28年)、エリザベス2世の戴冠式出席のための来英に際しケンブリッジを訪問した明仁皇太子(現・上皇)の案内役を務める[45]。同年、フォード財団の研究奨学金を得て京都大学大学院に留学[7][46]。京都市東山区今熊野の下宿「無賓主庵」[注釈 15]にて知り合った永井道雄と生涯の友となり、永井の紹介で嶋中鵬二とも親友となった[48][49]。
1955年(昭和30年)、留学を終えて帰国しコロンビア大学助教授[注釈 16]。のち同教授を経て、1978年(昭和53年)ケンブリッジ大学文学博士号[51]、1992年(平成4年)に同大学名誉教授となった(1987年(昭和62年)から1989年(平成元年)の2年間は国際日本文化研究センター教授も併任)[51]。
1982年(昭和57年)から1992年(平成4年)まで朝日新聞社客員編集委員[51]。1986年(昭和61年)にはコロンビア大学に自らの名を冠した「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された[51]。1998年(平成10年)、早稲田大学より名誉文学博士号を授与される[51]。1999年(平成11年)から「ドナルド・キーン財団」理事長[51]。2006年(平成18年)11月1日、源氏物語千年紀の呼びかけ人となる[51]。
2008年、外国人の学術研究者として史上初めての文化勲章受章[51]。2014年(平成26年)に京都名誉観光大使。2017年(平成29年)から田原市博物館名誉館長[52][53]。
東日本大震災と日本国籍取得[編集]
キーンは、ニューヨークと東京に半年ずつ交互に棲む生活を約35年間続けていたが、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災を契機に日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明[54]。同年9月1日に永住のため来日したキーンは、「不思議なことに、和歌や物語には古来、地震や津波がほとんど出てこない。自然の無慈悲を嘆いて廃墟のまま放っておかないで、何度でもそれまで以上のものを立て直してきた。それが日本人です」「美意識さえ心にあれば、形あるものをなくしても必ず再建できる」と日本に寄せる思いを語り、「地元の人々を少しでも勇気づけたい」と東北地方で講演活動を行った[注釈 17][57][58][59]。2012年(平成24年)3月8日に帰化が認められ、正式に日本人となった[60][61]。
2013年(平成25年)1月24日、北区立中央図書館1階に、キーンが寄贈した書籍や絵画を公開する「ドナルド・キーンコレクションコーナー」が開設した[62]。
同年9月21日、菓子メーカー・ブルボンが、新潟県柏崎市にキーンの業績を紹介する記念館「ドナルド・キーン・センター柏崎」をオープンした[63]。
2019年(平成31年)2月24日6時21分(JST)、心不全のため東京都の病院で死去。96歳没。日本をこよなく愛した文学者の死は、大きく報じられた。叙従三位[69]。
2020年(令和2年)1月8日、養子のキーン誠己(#養子の項を参照。)は、ドナルド・キーンの命日2月24日を「黄犬(キーン)忌」と名付け、キーンを顕彰するイベントを毎年開くことになったと発表した[70]。自宅近くの寺にある墓標にも幼少期に飼っていた愛犬の黄色いイラストともに「黄犬」の文字が刻まれている[37][71]。
業績[編集]
「日本文学の伝道師」を自認し、主に英語圏への日本文化の紹介・解説者として大きな役割を果たした[注釈 19][14]。
数多くの日本文学の翻訳を手掛け、「日本のシェークスピア」と称された[注釈 20][74]。非常に多作であり、2021年9月現在、OCLC / WorldCatに登録があるだけでも関連書籍は801作品(出版物3,049冊)が確認される[75]。幅広い知識に裏打ちされた、客観的な読解に定評がある[注釈 21][注釈 22]。文科省公認の高等学校の英語科の教科書にも、その功績が記されている[78][79]。
近松門左衛門・松尾芭蕉・太宰治[注釈 23]・三島由紀夫[注釈 24]など古典から現代文学まで研究対象の幅は広く[注釈 25]、『百代の過客』などにみられるように紀行文や日記に関する研究分野を独自に開拓したことが特筆される[81]。英語版の万葉集や19世紀日本文学、中国文学のアンソロジーの編纂にも関わった。明治天皇・正岡子規・石川啄木[注釈 26]などの評伝にも取り組み、日本人の精神を浮き彫りにした[66]。
1976年より、日本語版、英語版で『日本文学史』(近世、近代・現代、古代・中世の三部構成)の刊行がなされた。2011年から2018年にかけ『著作集』(新潮社、全15巻)が刊行された[78][82]。
ノーベル財団が公開したノーベル文学賞の選考資料(1960年代)においては、エドワード・G・サイデンステッカーとともに日本人文学者の選考に当たって参考意見を求められていたことが明らかになっている[83]。キーンは日本社会の年功序列にも配慮して、挙げられた候補者(川端康成・三島由紀夫・谷崎潤一郎・西脇順三郎)の中で、谷崎が最も受賞に値し、次点が川端で、三島がそれに次ぐと回答。谷崎は選考の途中で他界し、川端が日本初のノーベル文学賞受賞者となった[14]。誠己によれば、キーンは川端と三島の自死にノーベル賞が関わっていたと考え、「三島さんは死ぬべきじゃなかった」と晩年まで悔やんでいたという[68][84]。
人物[編集]
養子[編集]
浄瑠璃三味線の奏者である上原誠己を養子にしている[85][86]。誠己のことは、文楽座での芸名「鶴澤浅造」にちなんで、「Asazo」と呼んでいた[68][87]。
本名[編集]
日本国籍を取得した際、戸籍上の本名は片仮名表記の「キーン ドナルド」[88]として登録した。また、日本国籍取得時の記者会見の席上、「人を笑わせる時に使います」と述べつつ、漢字で「鬼怒鳴門」と表記した名刺を披露した[5][58]。
日本感[編集]
日本人の特徴として、以下の5点を挙げている[14]。
あいまい(余情)[注釈 27]
はかなさへの共感[注釈 28]
礼儀正しい[注釈 29]
清潔
よく働く
「私はだいたいにおいて日本は良い方に来たと思います」としながらも「自分たちの伝統に興味がないということは一つの弱点だと思います」としている[14]。
趣味[編集]
クラシック音楽[注釈 30]、特にオペラの熱心な愛好家であり、関連する著書にエッセイ集『音盤風刺花伝』『音楽の出会いとよろこび』(音楽之友社刊)がある。ただし、オペレッタは好まなかった[90]。 伊勢神宮に対する崇敬が厚く、神宮式年遷宮の遷御に際して4度特別奉拝に立会っている[91] 他、第62回式年遷宮に際して特別神領民としてお白石持神事にも参加している[92]。 京都留学時代には、日本の文化をより理解するために茂山千之丞に師事して狂言を学び、1956年に喜多能楽堂で『千鳥』の太郎冠者を演じた[注釈 31][93]。「碧い目の太郎冠者」[注釈 32]と報じられ[94]、キーンのこのような文化活動は日本の作家たちとのつながりを作るきっかけとなった[14]。
生活[編集]
日本滞在中は、自宅がある東京都北区の「霜降銀座商店街」で買い出しを行い、地元の人々に親しまれていた[95][96]。甘党でアイスクリームが好物であったが、和菓子は苦手であった[96]。
長野県軽井沢町に別荘を所有し、夏になると必ず滞在した[97]。豪華な洋風建築ではなく、日本家屋風のシンプルな山小屋であった[98]。
政治思想[編集]
平和主義者を自認し[注釈 33]、アメリカの選挙ではいつも民主党に投票していて[100]、2016年アメリカ合衆国大統領選挙でドナルド・トランプが大統領に選出されたときには立ち上がれないほどのショックを受けていた[101]。2013年に書き送ったメールでは安倍晋三首相の靖国参拝に触れて、「以前、私は日本が左翼に乗っ取られるのではないかと心配していたが、今は右翼が乗っ取らないか心配だ」と述べている[56]。
皇室について[編集]
日本の皇室制度については高く評価し[注釈 34]、特に自らも面識がある明仁天皇・美智子皇后(当時)について「私は、両陛下は天皇と皇后である前に、最高の夫婦だと思います。いろんなしぐさにお互いへの愛情を感じます」と述べている[102]。
大部の評伝『明治天皇』も書いているが、「明治天皇は乃木希典が嫌いだったと思う。乃木を学習院長に任命したが、これは名誉ある仕事なのか。乃木は教育者として強い信念があったわけでもない」と持論を述べ、キーンと交流があった司馬遼太郎らの「乃木愚将論」に同調している[103]。
交友関係[編集]
日本文壇[編集]
1954年に知り合って以来[104]、親交を重ねた[注釈 35]。ドナルド・キーンの当て字「怒鳴門鬼韻」は文通時に三島が書いて送ったものである[106]。三島事件で三島が死亡したときには日本への渡航を調整し、自らの『仮名手本忠臣蔵』の翻訳本を祭壇に供えた。当初キーンは弔辞を読むことも引き受けたが、三島の右翼思想を擁護しているように捉えられるとの友人らの説得により葬式には出席せず、そのことを後に何度も悔やんだと著書で述べている[105]。キーンは誠己に対し、「天才はそんなにいるものではありません。僕の知っている天才はウェイリー先生と三島由紀夫さんだけです」と語っている[107]。
初対面時、荷風の話し言葉があまりに美しかったため、彼のように話せたら「死んでもいい」と思った。彼の『すみだ川』を英訳し、それを読んだ荷風から褒められた[108][109]。
文学者の中でキーンと一番親しい友人であった[110]。
中央公論が主催した講演旅行が縁で知り合い、キーンが大江の著書の翻訳を取り計らったことなどで親交を深め、大江が仲を取り持ったことで[注釈 36]安部公房とキーンは終生の親友になることができた。しかし、大江はその後キーンを避けるようになった。1994年にキーンが井上靖文化賞を受賞したときには大江が急遽授賞式に駆けつけて祝辞を述べるなど、時折好意を見せることもあったが、結局最後まで関係が修復されることはなく、キーンにもその原因がなんであったのか不明だった模様である[110][111]。
他に谷崎潤一郎[14][112]・川端康成[注釈 37][14][113]・大岡昇平[14]・有吉佐和子[14]・吉田健一[112]・石川淳[112]・篠田一士[112]・司馬遼太郎[注釈 38]・瀬戸内寂聴[115]など。指揮者の小澤征爾とも交流があった[80]。
日本国外[編集]
コロンビア大学での同僚。キーンが英訳した三島の『班女』の初演では吉雄の役を演じた[116]。
京都留学時代の留学生仲間[46]。
受賞・栄典[編集]
受賞歴[編集]
1969年 国際出版文化賞
1985年 日本文学大賞
1990年 全米文芸評論家賞
2012年 コミュニケーション・リーダーシップ賞[注釈 39]
他多数
栄典[編集]
2008年 文化勲章(外国出身の学術研究家としては初の受章)[121]
名誉博士[編集]
1990年 セント・アンドルーズ大学, ノースカロライナ州
1995年 ミドルベリー大学
顕彰碑[編集]
2022年(令和4年)7月、埼玉県の草加市文化会館内の「漸草庵 百代の過客」庭園内に顕彰碑が建立された[125]。
著作[編集]
日本語の著作[編集]
単著[編集]
吉田健一 訳 『日本の文学』中公文庫、改版2020。
芳賀徹 訳 『日本人の西洋発見』中央公論社〈中公叢書〉、新版1976。
『日本の作家』中央公論社、東京、1977年。
篠田一士 訳 『日本文学散歩』朝日新聞社出版局、東京〈朝日選書〉、1975年1月。
中矢一義 訳 『ドナルド・キーンの音盤風刺花伝』音楽之友社、1977年5月。
『わたしの好きなレコード』中公文庫、1987年。ISBN 4-12-201477-8。
『日本文学を読む』新潮社、東京〈新潮選書〉、1977年11月。
『日本文学を読む・日本の面影』新潮社、東京〈新潮選書〉、2020年。
『日本を理解するまで』新潮社、1979年5月。
『日本文学のなかへ』文藝春秋、1979年。文春学藝ライブラリー 2022年
中矢一義 訳 『日本細見』中央公論社、1980年。のち中公文庫
中矢一義 訳 『音楽の出会いとよろこび―続音盤風刺花伝』音楽之友社、1980年6月。
『音楽の出会いとよろこび』中公文庫、東京、1992年5月。
中矢一義 訳 『ついさきの歌声は』中央公論新社、1981年9月。
『私の日本文学逍遥』新潮社、1981年5月。
『日本人の質問』朝日新聞社、東京〈朝日選書〉、1983年6月。
『百代の過客―日記にみる日本人 (上)』朝日新聞社、東京〈朝日選書〉、1985年7月。
金関寿夫 訳 『百代の過客―日記にみる日本人 (下)』朝日新聞社、東京〈朝日選書〉、1985年8月。のち講談社学術文庫
塩谷紘 訳 『少し耳の痛くなる話』新潮社、東京、1986年6月。
『二つの母国に生きて』朝日新聞社、東京〈朝日選書〉、1987年1月。
金関寿夫 訳 『続 百代の過客―日記にみる日本人(上下)』朝日新聞社、東京〈朝日選書〉、1988年1月。のち講談社学術文庫
『古典を楽しむ―私の日本文学』朝日新聞社、東京〈朝日選書〉、1990年1月。
金関寿夫 訳 『日本人の美意識』中央公論社、東京、1990年4月。
金関寿夫 訳 『声の残り―私の文壇交遊録』朝日新聞社、1997年7月。
金関寿夫 訳 『このひとすじにつながりて』朝日新聞社〈朝日選書〉、1993年11月。
『日本語の美』中公文庫、東京、2000年1月。
『明治天皇を語る』新潮社、東京〈新潮新書〉、2003年4月。
『日本文学は世界のかけ橋』たちばな出版、東京、2003年10月。
『私の大事な場所』中央公論新社、2005年2月。
『私が日本人になった理由 日本語に魅せられて』PHP研究所、東京、2013年4月。
共著[編集]
司馬遼太郎との対談 『日本人と日本文化』中公新書、1972年5月。
安部公房との対談 『反劇的人間』中公新書、1973年。
大岡昇平との対談『東と西のはざまで』 朝日出版社、1973年
瀬戸内寂聴と対談『日本の美徳』、中公新書ラクレ、2018年7月。
評伝[編集]
『ドナルド・キーン 世界に誇る日本文学者の軌跡』河出書房新社〈道の手帖〉、2014年2月
『ドナルド・キーン 知の巨人、日本美を語る!』小学館〈和樂ムック〉、2017年6月
『ドナルド・キーン 日本の伝統文化を思う』平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉、2017年8月
注釈[編集]
3.
^ その後猪俣はコロラド大学海軍日本語学校に教員として勤務した[16]。
4.
^ アメリカ陸軍では情報部[18] や第442連隊戦闘団などで日系二世に活躍の機会が与えられたが、アメリカ海軍は日系人の入隊を認めていなかったため、日系人以外の通訳を必要としていた[19]。
5.
^ 戦時法規により講師を務める日系人が西海岸での滞在が許されなくなったため、途中で内陸にあるコロラド大学に移転している[20]。
6.
^ 駐日米国海軍士官向けに長沼が作成した教科書[22][23]。
7.
^ 中には日記を発見するであろうアメリカ人に宛てて、戦後家族に届けてほしい旨の英文が住所とともに書かれていたものもあり、解読を通して兵士らに同情したキーンはこれを密かに保管していたが、後で没収されてしまった[26][27][28]。
8.
^ このときの尋問は同僚であったオーテス・ケーリが主に行った[30]。
9.
^ 後に、「あの複雑怪奇なカラクリと兵士の死が理解できた」として小田実の『玉砕』を翻訳している[31]。
10. ^ 「捕虜になると女性は強姦され、子どもは殺される」と書かれた日本軍の文書を沖縄で見たキーンは、これがその一因であったと考え、「だから、死ななくていい人たちが命を絶った。日本軍がしたことは許せない」と語っている[36]。
11. ^ 軍隊での勤務を通してこれまでに知り合った捕虜などの日本人が無事生きていることを知らせるため、その家族に会うことを試みた後、翻訳局での仲間であった日系二世らとともに日光東照宮などを訪問した[39]。
12. ^ 当時アメリカで最も著名な日本学者であったセルゲイ・エリセーエフの講義も受けたが、その内容も彼の姿勢もキーンを失望させるものであり、後年自分が教鞭を執ったときの反面教師としている[41]。
13. ^ 1952年には、「日本の文学」についての5回連続の講義を開くが、250人入る大教室に僅か10人しか集まらず挫折を覚えたキーンは日本文学研究を棄ててロシア語を学ぼうとするも習得できず、日本語が一番合っていることを再確認して日本文学研究を続行した[6][7]。
14. ^ 朝鮮人捕虜から習った経験を生かして朝鮮語の講師も務め、受講者には後にロンドン大学で朝鮮語の権威となるウィリアム・スキレンド(英語版)がいた[42]。
15. ^ この下宿はオーテス・ケーリがキーンに紹介した。現在は同志社大学今出川キャンパスに移築されている[47][48]。
16. ^ ケンブリッジ大学が留学の延長を認めなかったことから、コロンビア大学に再移籍している[50]。
17. ^ キーンは、国籍取得を決意した当時の心境を「私の思いは、今まで受けてきた親切に応える謝意から生じたもので、生涯の最後を自分に最も愛着の深い人々と共に過ごしたいという望みなのである」「外国人が日本から逃げていくニュースにも落胆していた私は、今こそ、最も率直なかたちで日本のみなさんと一緒になる、その思いを表明しなければと思ったのである」と綴っている[55]。一方、キーンと交流があったタフツ大学のチャールズ・イノウエは「キーンさんはずっと日本のよいところを語ってきたわけなんですけれども、いまになって、もう少し、悪いところも言わなければならないけれど、アメリカ人として言うのはつらくて、できないと。愛する日本を外国人として批判するのではなく、日本人として苦言を呈したかったんです」としているが、国籍取得後の2014年にイノウエに宛てたメールでキーンは「私が懸念しているのは、日本人は私がいかに日本を愛しているかを語ったときしか、耳を傾けてくれないことだ」と述べている[56]。
18. ^ キーンの死後、日本海新聞は「キーンさんは日本の文学や歴史を世界に紹介、多大な功績を挙げる。キーンさんによれば、芭蕉は『おくのほそ道』で中国の杜甫の『国破れて山河あり…』を引用しているが、山河もなくなることはあるとも言っている。では何が残るか。それは『人間のことば、詞』なのだと。深い洞察から生まれる言葉が引き付ける」とするコラムを掲載している[64][65]。
19. ^ 小説家・日本文学者松浦寿輝は、「キーンさんの仕事は、というよりむしろ彼の人格ないし存在自体が、日本とその外部との間にかけられた、比類のない『橋』だった。九十六年の長きにわたる彼の生涯は、国と国、言語と言語、人と人との間に立ち、両者の間に実り豊かなコミュニケーションを実現することに、途方も無い無私の情熱を捧げた歳月だった」と述べている[72]。
20. ^ フランス文学者野崎歓は、「このあまりにも偉大な日本文学研究者が、英語で書き続けたのは素晴らしいことだ。英語読者に多大な恩恵を与えたというだけではない。キーンさんの著書は、日本においては幾人もの優れた翻訳者達によって訳され、いわば翻訳文学として愛読されてきた。そのことにも貴重な意義があると思うのだ」「質量とも圧倒的なお仕事を遺してくださったことにいまは感謝し、その澄明な文体のなかにキーンさんとの新たな出会いを求め続けたいと思う」と述べている[73]。
21. ^ 日本文学者芳賀徹は、「あれだけ多彩で重厚な日本文学・日本文化史にかかわる英語、日本語の著書・訳書・エッセイを毎年のように発表してきて、その数は一〇〇冊、一五〇冊をもこえるか。学者・文化人として青年の時代から日本と欧米の両文明にもっとも親密に相渉ってきたその生涯は、稀有でまたみごとなものだった」「『徒然草』にせよ『奥の細道』にせよ現代作家の作品にせよ、キーンさんの英訳が余計な思い入れを一切排除して平明かつ的確であることは、いまさら言うまでもない。その膨大な訳業と著書はこれからいよいよ日本の宝として世界に広く読みつがれてゆくだろう」としている[76]。
22. ^ 小説家平野啓一郎は、「キーンさんは、要するに、信頼されたのだった。多くの人が、彼を日本人よりもよく日本のことを知っている、と感じていたし、同時にアメリカに止どまらず、世界文学についての教養豊かな理解があった。ここが重要だと思う。キーンさんは決して日本文学オタクではなく、一時はフランス文学の研究者になろうかと思っていたほど、欧米の文学を知悉した上で、日本文学を愛し、選択したのだった」「キーンさんの読解は、博識で非常に頭の良い人が普通に読めばこう考えるだろう、というようなオーソドックスなものだったと思う。これは決して悪い意味ではなく、だからこそ彼は日本文学の通史を書けたし、多くの日本人作家が彼の意見を知りたがったのである。その点を物足らなく感じていた人もいるだろうが、私自身は、三島について話していても、芭蕉について話していても、概ね意見が合った。特に、私が文壇にデビューした頃には、キーンさん的な読解とは正反対の批評が溢れ返っていただけに、そのことを大いに心強く思ったものだった」としている[77]。
23. ^ キーンいわく、「太宰治は非常に訳しやすかった」「まったく自分が書いているような感じでした」[14]。
24. ^ 「日本の小説を翻訳するときに誰(の作品)が大変だったか」との渡辺謙の問いに対し、キーンは「三島由紀夫さんは難しかった」「彼は非常に複雑な比喩があって」と答え、渡辺も「お芝居し始めた頃に読んでもさっぱりわからないことが多かったですからね」と同意している[14]。
25. ^ 日本文学者中西進は、「教科書的な古典だけではなく、笑いを中心とした芸能からも日本文学を研究し、大衆的なスタンスを一貫して持ち続けていました。皮膚感覚で日本を世界に紹介した、絶大な功績があった」と述べている[80]。
26. ^ キーンは、「石川啄木について連載しているが、難しい。彼の作品のすばらしさと、彼の人を不快にさせるような人生との間で揺れ動く」と述べている[56]。
28. ^ 源義経のような悲劇的な最後を迎える人物を英雄視する点などに着目し、人間的な弱さに同情するようなものの見方が日本的だと考えた[14]。
29. ^ 敬語など、社会的立場を示す言葉が用いられることなどに着目した[14]。
30. ^ 軍隊時代、日本人捕虜たちのために収容施設に蓄音機を持ち込んで即席の音楽会を開いたことがある[89]。
31. ^ 谷崎潤一郎・川端康成・三島由紀夫・八代目松本幸四郎が観覧した[93]。野村万作は、「ご自身が狂言『千鳥』を演じた時、驚くほど大きく立派な声だったのを覚えています。音楽にも詳しく、狂言芸と囃子の関係を見事にとらえ、鋭く評価でき、しかもはっきりものを言う方でした」と述べている[80]。
33. ^ 黒い洋服を好んで着ていた誠己に対し、「僕は黒い色はファシズムの色だから嫌いなんです。できれば、他の色にしてもらえませんか」と求めた[99]。
34. ^ 「日本の民主主義も素晴らしいと思いますが、たとえば選挙のときには『憲法を変えます』とか『原発を造ります』とかは小さな字で書いておいて、勝ったら堂々とやる、というところがあります。為政者が、民主主義の仕組みを状況に合わせて上手に使うわけですね」「ですから、一方に天皇のような、その時々の世の中の変化に動じない存在があるというのは、とても意味のあることではないでしょうか。もちろん皇室は政治的な存在ではありませんが、ずっと動かない精神的な柱があるのは、国にとってとてもいいことだと思うのです」としている[102]。
35. ^ 両者は意気投合したものの、三島は「べたべたした」関係は望まないと明言しており、キーンも気楽な昔なじみのような話をするよう提案した三島に応じず、秘密の共有などすることなく文学談義や雑談をする間柄であった。キーンは、「私は三島の『心の友』ではなかった」としているが、完結間近の『豊饒の海』について、作家として身につけたすべてをこの作品に注ぎ込んだ、あと残っているのは死ぬことだけだと三島が言うのを聞いて「なにか悩んでいることがあるんだったら、話してくれませんか」と問いかけた。このとき三島は目をそらして何も言わなかったという[105]。
36. ^ 初対面ではキーンが時差ぼけでやられていた上に日本語が話せるにも関わらず通訳(オノ・ヨーコ)をたてられたことで立腹していたことなどから、阿部のキーンに対する当初の印象は悪かった[110]。
37. ^ 誠己は、「作家としては、三島さん、川端康成先生への思いが一番深かったのだと思います」としている[68]。
38. ^ 酒に酔った司馬が朝日の編集局長に「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、ドナルド・キーンを雇うことだ」と主張したことを契機に客員編集委員のポストが与えられ、キーンの連載が始まった[114]。
39. ^ トーストマスターズ・インターナショナル日本支部(District76)は、受賞理由を「東日本大震災以降、将来に対する希望を失いつつあった多くの日本人に対して、『日本国籍を取り余生を日本で過ごす』との『言葉』(コミュニケーション)と、東京都北区に移住されたという『行動』(リーダーシップ)により、深い感銘と勇気を与えたこと」としている[119]。
40. ^ 解説 三島由紀夫、元版は筑摩書房、1963年
41. ^ 「日本文学史」は先に、近世篇から近代・現代篇が出版、新版は古代・中世篇追加
42. ^ 日本文学史 The history of Japanese literatureは未収録
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ごあいさつ
公益財団法人ブルボン吉田記念財団 理事長ドナルド・キーン・センター柏崎
2013年9月に、ドナルド・キーン・センター柏崎をオープンさせていただいてから、これまでご来館の皆様はもちろんのこと、協賛企業、ボランティアの皆様など大勢の方々に支えられて運営させていただきましたことをご報告すると共に深く感謝を申し上げます。
江戸時代の古浄瑠璃「越後國柏崎 弘知法印御伝記」の復活上演をキーン先生にご提案いただいたことから、柏崎市と先生とのご縁が始まりました。その後、最後の講義のためニューヨークのコロンビア大学におられたキーン先生は、東日本大震災の報道に接し、「日本に戻り日本人になる」と決心されました。さらに、ニューヨークの書斎をそのまま柏崎に移設し、日本文学や日本文化への数々のご業績を語り継いでいきたいという私たちの提案に、ご理解とご協力とをいただき、現在につながります。
2019年に先生はお亡くなりになりましたが、これからも平和な世界の実現を求められたご遺志を継いでまいりたいと思います。今後とも何卒よろしくお願いいたします。
館設立にあたって
柏崎に、ドナルド・キーン・センター柏崎ができたことは、日本文化を国外と国内でよりよく理解されることを願って、これまでの人生を送ってきた私にとって、勿論非常に嬉しい出来事です。その上、このセンターに私の名前がついていることは言葉で表現できない悦びです。私はコロンビア大学で、角田柳作先生の許で古典文学と思想史を勉強しました。海外の日本研究の最初の世代でした。現在孫弟子が活躍しています。戦前、日本語を教えるアメリカの大学は六、七しかなく、多くは二世の多い太平洋に近い大学でしたが、現在は殆どの評判のいい大学では日本語を教えて います。もう珍しい外国語でなくなりました。各国で人気のある外国語です。ドナルド・キーン・センター柏崎は一人の名前の冠を持っていますが、海外で一生懸命に日本の研究をし、日本への道を切り開いた全ての人達と一緒にこの喜びを分かち合いたいと思います。
ドナルド・キーン(ドナルド・キーン・センター柏崎図録より抜粋)
施設概要
1階ロビーには、在りし日を写すキーン先生の写真に囲まれて、先生の著作本をゆったりと閲覧できる図書閲覧コーナーがあります。ここはフリースペースで、出会いと交流の場として利用できます。1階の大型映像ホールの手前に「柏崎とキーン先生の絆」を語る常設展示コーナーがあり、誰もが知りたいと考える「ドナルド・キーン・センターは、なぜ柏崎なのか」を明かしてくれます。大型映像ホールでは、200インチの大型スクリーンで、キーン先生を紹介する映像作品を視聴できます。
2階には、ニューヨークに在ったキーン先生の「書斎」と「居間」をそのまま再現した復元展示室、キーン先生の「人となり」「作品・業績」「日本への思い」をさまざまな視点で伝える2つの常設展示室(展示室1、2)、キーン先生自らが語る半生や著名な作家たちとの邂逅、講演会やイベントなどの豊富な映像を視聴できる映像ライブラリー、収蔵図書やキーン先生から寄贈された千枚を超すレコード、CDなどの収蔵資料検索コーナーなどがあります。
設立の背景
ドナルド・キーン先生は、世界に日本文学や日本文化を伝える発信者であり、ニューヨークの書斎は、その発信基地でした。
2011年3月11日、未曽有の災害をもたらした東日本大震災が起こった後、キーン先生は、被災地で懸命に生きる人々の姿を見て、「いまこそ、日本人になりたい」と日本国籍取得の決意を表明しました。しかし、それは、ニューヨークの書斎がなくなってしまうことを意味していたのです。この事実が「ドナルド・キーン・センター柏崎」設立構想の大きなモチーフとなったのです。キーン先生と柏崎市民との間には、2007年以来、古浄瑠璃「越後國柏崎 弘知法印御伝記」の復活上演活動を通して育まれてきた絆が在りました。その絆の上に、市民を中心とした文化活動の発信基地として、「ドナルド・キーン・センター柏崎」が設立されることになったのです。
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