ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝  木内是壽  2022.10.15.

 

2022.10.15. ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝

 

著者 木内是壽 1935年さぬき市出身。早大法卒。日本興業銀行勤務。定年退職後執筆業。『相続百景』『文豪の遺言』など

 

発行日           2014.6.10. 初版発行

発行所           アジア文化社

 

初出 『相模文芸』2124号に掲載された内容をまとめたもの

 

 

はじめに

ナチス・ドイツに追われたユダヤ難民は、今日に至る世界の難民問題のはしり

多くの難問に身を晒し、深謀苦慮の末の勇気と決断をもって自己の信念とするヒューマニティを貫いた将軍。その精神的バックボーンは日蓮イズムと武士道精神

オトポール事件、キスカ撤退、占守島の水際作戦等の勲功は、相手国との外交関係への配慮から伏せられてきたため、今日まで日本人の多くは知らないできた

特筆すべきは、難民問題の起点ともいうべきユダヤ人難民問題に対して我が国は、人道的に取り組んだ唯一の国。ユダヤ人に同情的であった英米さえも、ユダヤ人難民930人を乗せたセントルイス号の接岸を沿岸警備隊が阻止し、ドイツに戻って大半が強制収容所送りとなっている。我が国の難民救済の伝統は現代においても息づいている

 

 

第1章        極東の島国とユダヤ人実業家をつなぐ線

l  武士道の人

ワルシャワでは各国武官が毎月親睦会を催していたが、貴族ばかりの武官の間に、ソ連は鍛冶屋の息子で周囲から軽蔑されていたのを見た樋口は見かねて近づき、夫妻を自宅に呼んでもてなし、友情を交わす

そのお礼を兼ねて、樋口のロシア国内の1か月の視察旅行が決まる

l  極東侵略を強めるロシア

陸軍士官学校の授業で、日露戦争の戦費調達にユダヤ人シフが貢献したことを聞く

日露戦争の1億円の戦費調達に際して、イギリスのロスチャイルドの協力で半分の500万ポンドは調達したが、残りについて苦戦する中、クーン・ローブのシフに紹介される

直後に日本軍が鴨緑江の戦いでロシア軍に大勝利を挙げ、一気に日本の既発公債の値が上がり、新発公債が飛ぶように売れたという

l  帝政ロシアのユダヤ人迫害

全米ユダヤ人協会の会長でもあったシフは、ヨーロッパ列強のうちでも最もユダヤ人に非寛容的態度を取りポグロム(虐殺)を進める帝政ロシアに強い怒りを持っていた

シフには旭日勲章が授与され、明治天皇に謁見

 

第2章        革命期ロシアにて

l  樋口季一郎の生立ち ⇒ 『22-10 22-10 指揮官の決断 Wikipedia』参照

l  ウラジオストック特務機関員の初仕事

1920年初、ウラジオに赴任、ユダヤ人を知る最初の機会となる――目的は各地にある租界の居留民の保護にあり、ロマノフ王朝の現地の支配体制を実質支えていたが、共産主義革命に沸く市民に圧倒され、辛うじてロザノフ政権崩壊前に現地トップを救出

l  ユダヤ研究の基礎、ユダヤ家庭との交流

樋口は、ウラジオで隣に住むユダヤ人一家と交流、一家を通じて地元ユダヤ人社会にも溶け込む。後に、「外国で下宿する黄色人種の日本人を親身に世話してくれたのは、その大半がユダヤ人家庭であったことを忘れてはならない」と述懐している

l  ハバロフスク特務機関長となる

半年後に異動。3カ月後赤軍が軍司令部を設置、退去を求めてきたが、そこでも樋口は敵将と友好裏に話しを進め、名誉の撤退を勝ち取る

 

第3章        ナチスが台頭するドイツを視察

1937年、参謀本部付きの樋口にドイツ視察の特命。ロシア通の樋口を選んだのは、独ソ関係の軍事情報が重要視されたから。参謀本部第1部長石原の画策、2カ月にわたり視察

l  ヒトラーのユダヤ人憎悪の原点

1次大戦に従軍して勲功をたてたヒトラーが帰国したバイエルンはユダヤ人社会民主主義者が共和国政府を樹立し、恥ずべきフランスとの休戦条約に署名しベルサイユ条約の受諾を促したのがユダヤ人のエルツベルガーだったことがユダヤ人憎悪の一因

「社会民主主義政権とユダヤ人のドイツ民族にとっての危険」についてのレポートでヒトラーは激しい口調でユダヤ人との戦いについて言及、さらにミュンヘン蜂起のあと獄中で『わが闘争』を著し、自らの世界観の2大思想を「生存圏の確保」と「ユダヤ人排撃」とした

l  ソ連経由でドイツに向かう

ソ連のビザを待つ間、仮想敵国であるロシア視察のため、ソ満国境を歩く

シベリア鉄道では、複線化が遅々として進まない満鉄に比べてかなり進んでいるのを見て、計画経済の成功を実感、ソ連の意図を車窓から読み取る。モスクワでは政治犯の強制労働も目にしてソ連の恐怖政治を目撃

l  ドイツ全土に広がる反ユダヤ主義

ドイツにおける反ユダヤ主義の風潮は、ヒトラーの政権樹立以前から社会全般に広がっていた――ユダヤ人の判断基準は、祖父母のうち1人でもユダヤ教徒がいるかどうか

1936年のオリンピック期間中のみ米国のボイコット回避のためユダヤ人迫害を棚上げ

エリート養成を兼ねた勤労奉仕団、アウトバーン建設現場、少年職人育成労働教育、計算機メーカーなどを視察。オリンピック直後のためユダヤ人迫害は目撃せず

 

第4章        ハルビンへ

l  盟友石原莞爾にドイツ視察報告

参謀本部第1部長だった石原に、ロシア復興とドイツ恢復の勢い、欧州戦争不可避を報告

l  ハルビン特務機関長要員として満洲へ

19378月、ハルビン赴任。赴任途上で少将に昇進

松岡はアメリカの東アジアにおける圧力に対抗することを考え、日本の安全を脅かすソ連を封じるためにドイツと握手し、独ソを味方につければ英米と力の均衡をとって対峙でき、それによって日米関係を打開しようとした。後年、近衛が外相ポストを松岡に拘ったのは、論文『英米本位の平和主義を排す』で示した自らの国際秩序構想と、松岡の国際感覚に共通項があったから

l  独走する関東軍への危惧

本部も知らないうちに関東軍は内蒙古に進入。田中隆吉参謀は上海に行って海軍陸戦隊と中国軍の間の衝突を演出

l  水と油の石原と東條

樋口を追うように石原が関東軍参謀副長として新京に赴任。参謀本部でも拡大派が優勢となって不拡大に拘泥する石原が邪魔になった

満州事変直後に2人は関東軍参謀の石原と参謀本部第1課長の東條は、新設の満州国の統治形態を巡って対立。関東軍の干渉を排除して文治組織による指導を考えていた石原に対し、東條は関東軍の指導機構を創設して武力支配を維持しようとしたが、議論では石原に分があり、喧嘩別れになった経緯がある

l  ハルビン特務機関長に着任

日本は、ハルビンがソ連の対日赤化謀略の拠点となっているとし、その裏面にユダヤ人がいると睨み、早くから諜報員を潜入させていたが、いざ現地に行ってみると、ハルビンの治安を悪くしているのはユダヤ人と白系ロシア人の抗争で、ユダヤ人は満洲に彼らの永住の地を作ろうとしていることが判明、ユダヤも加えた6族協和を考えて、ユダヤスペシャリストの安江仙弘を大連特務機関長に呼ぶ

 

第5章        日本人の見たユダヤ――安江仙弘と犬塚惟重

l  陸軍のユダヤ問題専門家 陸軍の安江仙弘大佐と海軍の犬塚惟重大佐

2人は、ナチス・ドイツとは一線を画し、ユダヤ民族に日本の人道主義を理解させ、日ユ相互の協力関係を築き、彼らを故なき迫害から守ろうとしていた

2人とも、軍部内では異端者扱いされながら、シベリア出兵をきっかけに同志となった

安江は樋口と同期、連隊長の推薦で東京外国語学校の第1回委託学生に選ばれ、ロシア語科に編入学、学生に戻って常識人としての人格形成を養う貴重な2年を過ごす

海軍の犬塚は、第1次大戦で地中海での英国艦隊と輸送船団の護衛の任務中ドイツ潜水艇の魚雷にやられた生き残りで、シベリア出兵では警備艦の分隊長として、白系ロシア軍と赤軍双方に多くのユダヤ人をみつけてその二面性を目撃して以来、ユダヤ問題に着目

満州・北支方面のユダヤ対策を安江が担当、上海のユダヤ処置とユダヤ財閥の反日運動対策及び日米国交調整は犬塚が軍令部から上海在勤海軍府の特務機関として担当

l  日本政府、ユダヤ人対策(保護)を決議

犬塚は政府内部に「回教ユダヤ問題研究調査委員会」の設置を働き掛け、第1次近衛内閣の陸相板垣征四郎を提案者として、首相、陸相、米内海相、近衛外相(兼務)、池田蔵相の5相会議で極秘に決議したのが「ユダヤ人対策要綱」で、人種平等の精神に則り公正な扱いをすることとし、特に資本家、技術者は積極的に招来するとした

l  ユダヤ難民に門戸を閉ざさなかったのは日本だけ

米国のハル国務長官は、1938年ン29か国に対し、独墺からの避難民に便宜を与えるための国際委員会設置を呼び掛けるも不調、米国議会もはんたいで、米国自身既に3年先までの移民受け入れ計画枠に達していて入国を制限、ウィーンでは米国行きビザの発給を停止

1939年には、ドイツ系ユダヤ難民930人を乗せたセントルイス号が米英での接岸を拒否されドイツに戻された

英統治領のパレスチナでは、沿岸に着いたユダヤ難民船に対し英軍が機関銃で撃退

ソ連は、ハバロフスク郊外にユダヤ人によるブロビジャン自治州を設けたが、実質的な隔離政策で、安住の地とはならなかった

世界で唯一ビザなしで上陸できるのが上海の日本租界・蛇口だった――犬塚の尽力による

ユダヤ問題に異論を唱える者に対する錦の御旗は「八紘一宇」(世界は1つの屋根の下)と天皇のシフへの感謝の言葉

l  日米関係の打開工作と在米ユダヤ人

世論が制作を動かす米国においてメディアを握るユダヤ人の存在が大きいところから、日本も極東ユダヤ指導者を通じて日米関係の緊張打開工作が行われたが、米国ユダヤ筋は疑心暗鬼で工作は難航

1937年、日産コンツェルン総帥鮎川義介は日産を解放して満州重工業を立ち上げ、米国ユダヤ資本導入を図るとぶち上げ、無定見な戦略なき行動にでる

l  世界中に分布するユダヤ人

世界のユダヤ人総人口は1611万、ヨーロッパに969万、アメリカ大陸に500万、アジア61万。国別ではアメリカ422万、ポーランド360万、ソ連287万、日本1000

 

第6章        オトポールでの難民救出事件とその後

l  1回極東ユダヤ人大会の開催

1937年末、ハルビン・ユダヤ人協会のカウフマンから、ナチスによるユダヤ人迫害の暴挙を世界の良識に訴えるための大会開催の申し出あり、樋口が個人の資格で来賓として祝辞

樋口は、日独関係とユダヤ問題とは切り離して考えるべきと主張、ドイツ側の抗議もうやむやに葬る

l  ユダヤ難民、吹雪の中で立ち往生

1938年、オトポール事件――ソ連に通過ビザをもらったユダヤ難民が満州目指して東上するが、満州国は入国を拒否

カウフマンに泣付かれ、樋口は人道問題として満州国に入国を要請、同時に満鉄に列車の手配を依頼

ドイツの猛抗議に対し、東條参謀長が樋口を査問したが、人道上の筋を通した樋口の主張に、問題は不問に付された

l  東條の樋口への眼差し

東條は樋口の4期先輩、東條が内蒙古出兵の再援軍を拒否されたこともあったが、ソ連通の逸材であることは認め、今回も、外交官的条理で理路整然と国家主権と国是の大義を説き、捨て身の覚悟の行動に深い感銘を受けたのは間違いなく、直後には参謀本部第2部長に栄転し、後に北方軍司令官にも登用する

l  上海に集まるユダヤ難民

樋口のあとの難民救済を担当したのが安江

上海の日本租界に集まるユダヤ難民に対応するため、ヒトラーの「ユダヤ人絶滅」に対し「ユダヤ人に安住の地を与える」旨を公に打ち出し、ユダヤ財閥の協力を得て上海にユダヤコロニーを設定

当時ユダヤ人に同情的だった米国さえ、フランス政府からのユダヤ人難民のアメリカ大陸移住要請を拒否するなど、避難民の受け入れには否定的態度だった

l  祖国を失った白系ロシア人に救いの手

安江は、各地にある白系ロシア人事務所を中心に彼等の民生安定と教育問題を支援

l  日米関係打開のためのユダヤ人工作

拡大する日中戦争がますます米国の対日感情を悪化させる中、安江は日本のユダヤ人保護政策を米国の有力ユダヤ人に知らせ、対日感情悪化に歯止めをかけるための対米工作に着手するが、米国ユダヤ人は、枢軸国の日本によるユダヤ人援助を悪徳だと切って捨てる

カウフマンを中心に極東ユダヤ人会議は全世界のユダヤ人に向け日本の善意を訴え続ける

l  ノモンハン事件

参謀本部第2部長の樋口は、外務省と連携して事件の収束に動き、かつてのソ連人脈が役立ったことは想像に難くないが、軍事機密でもあり樋口の回想録にも伏せられているが、ソ連が動いた理由について樋口は、ソ連が蒋介石との約束上行った作戦とみている

l  安江解任、私設特務機関誕生

1940年、三国同盟締結。その翌日安江は予備役に編入。東條に抗議し一旦は遺留されたが、大連の特務機関長を辞めたが、満鉄や関東軍からの遺留で再起を決意、満州国政府勅任顧問兼満鉄総裁室付嘱託の肩書で私設特務機関が誕生

外相の松岡も安江の努力を支持し、ヒトラーの反ユダヤ主義を日本に持ち込む積りがないことを宣言

l  樋口と安江の名前が『ゴールデン・ブック』に

1941年、ハルビンで世界ユダヤ人会議代表の署名による『ゴールデン・ブック』への登録証書授与式が安江に対して行われ、樋口の名前も同時に登録

『ゴールデン・ブック』への登録は、その功績を永遠に顕彰し、全ユダヤから感謝と敬慕を受け、神聖な「神の記録」の如く扱われるところに大きな特徴がみられる

もう1人『ゴールデン・ブック』に載った日本人が小辻節三。満鉄時代の松岡との縁で、ウラジオから敦賀港への避難民の救助活動に心血を注ぐ

 

第7章        悲壮なる闘い――アッツ・キスカ・占守島の攻防

l  樋口、北方軍司令官に

1942年、北部軍司令官に転任

アッツ1200名、キスカ2900名の兵站の問題で樋口の提言に基づき、北部軍司令官のもとに北海守備隊を編成し、アリューシャンの基地を確保することになり、ほぼ棄軍だった両島が樋口の支配下に入る

米軍のアッツ島攻撃を受け、大本営は一旦増援を決定するが、海軍の協力が得られず断念

2609名が玉砕、捕虜として生き残ったのは29名のみ

並行して進められたキスカからの5639名の撤退作戦は、第5艦隊の駆逐艦と重巡が大小12隻と潜水艦12隻で行われ、制海権を米軍に握られた中、濃霧に頼るしかなかったが、2度目の出撃で5183名の救出に成功。陸海軍の軋轢が多かったこの時期、これほど協調がうまくいった事例はない

l  終戦後にソ連軍が占守島を奇襲

ソ連参戦に際し、大本営は関東軍と北方軍に対し

スターリンは参戦に当たって、トルーマンに対し、日本の降伏条件として千島全島、北海道北半分の占領を要求。終戦宣言後に実力行使に出る

18日、ソ連軍が占守島を攻撃。樋口は自衛行動として反撃を指示。21日になって漸く停戦交渉成立。日本軍の猛反撃がソ連の北海道武力占領を思い止まらせた

l  ユダヤ人が動いた「戦犯」樋口救出運動

ソ連極東軍は、樋口を戦犯に指名し、GHQに引き渡しを要求したが、マッカーサーは拒否、米国防総省を動かしたのは米国ユダヤ会議で、オトポールの恩を受けた人が中心になって立ち上がった

l  捕虜虐待調査将校の感動

GHQによる捕虜虐待調査では、1600人の捕虜を抱えた樋口の指示による軍規遵守と人道的処遇を徹底した結果、樋口以下の温情的処遇を知るに及んで米軍将校が感激

以来米軍側の樋口に対する信頼は厚く、高額で特別顧問に迎える旨申し出があるも断る

l  樋口の死を悼む新聞各紙

1970年老衰で死去。勲1等旭日大綬章追贈。戦後軍人に対しては異例

 

 

 

2021.6.28. nippon.com

もう一人の「東洋のシンドラー」: 2万人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将

リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝がナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られるようになった。その一方で、もう一人の「東洋のシンドラー」、樋口季一郎陸軍中将の史実は知られることが少ない。杉原が救ったとされるユダヤ人の数6000人を優に上回る2万人のユダヤ人を樋口中将が救ったことは、ユダヤ人社会で記録に留められているほどだが、今、彼の功績を広く世界に伝えるべく、日本、イスラエル、米国で連携の輪が広がろうとしている。

ルトワック氏ら22人のユダヤ人が銅像建立の発起人に

第二次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、ポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道侵攻を阻止した樋口季一郎陸軍中将(18881970年)の史実に今、新たな光が当てられようとしている。

その功績を顕彰する銅像を建立する募金計画が有志の間で進み、孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授を会長理事とする一般社団法人「樋口季一郎中将顕彰会」が設立された。募金活動は日本のみならず、イスラエルや米国のユダヤ人社会にも呼びかけられ、銅像を通じて樋口中将の功績を世界に伝え、国際的な友好の輪を広げようとしている。

2022年秋の完成を目指す銅像について、隆一氏は「(出身地の)淡路島では伊弉諾(いざなぎ)神宮、北海道では北方領土を遠望できる場所が望ましい」と語る。「顕彰会」には、淡路島と北海道の関係者のほか、戦略論研究で世界的権威の米国の歴史学者、エドワード・ルトワック氏や日本のユダヤ人組織のラビ、メンディ・スダケヴィッチ代表ら国内外のユダヤ人計22人が発起人として名を連ね、約3000万円の寄付を募る。

樋口中将は満州国ハルビン特務機関長だった19383月、迫害を逃れ、ソ連を通過してソ連・満州国境オトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた。リトアニアのカウナスで杉原千畝領事代理が命のビザを発給し、6000人のユダヤ人を救うのは、この2年後の40年のことである。

ユダヤ人難民は、ドイツ国籍であれば上海へのトランジットが可能だったが、満州国外交部がドイツと日本に忖度して通過させなかった。樋口は「日本はドイツの属国でもなく、満州国もまた日本の属国ではない」と日本政府と軍部を説き伏せ、上海までの脱出ルートを開き、その後、この脱出路を頼る難民が増えた。ユダヤ民族に貢献した人を記した「ゴールデンブック」を永久保存するイスラエルの団体「ユダヤ民族基金」では、救出した総数は2万人としている。

ユダヤ人の境遇に深い理解と憐憫

なぜユダヤ人難民を救ったのだろうか。オトポールでの救済の直前、193712月にハルビンで開かれた「第一回極東ユダヤ人大会」で樋口はユダヤ国家建設に賛成するあいさつを行うなど、ユダヤ人の境遇に理解と憐憫の情を示していたことが大きい。

『陸軍中将樋口季一郎回想録(以下、回想録)』(芙蓉書房出版)によると、樋口は1919年に特務機関員として赴任したウラジオストクでロシア系ユダヤ人の家に下宿。ユダヤ人の若者と毎晩語り明かして親交を深め、ユダヤ問題を知った。ワルシャワ駐在陸軍武官として25年から赴任したポーランドでは、弾力性ある国際感覚を身に付けたが、人口の3分の1を占めたユダヤ人が差別と迫害を受けるという流浪の民族の悲哀を垣間見た。

一方、有色人種への差別意識が強い中で、樋口をはじめ1921年からワルシャワに駐在した海軍の米内光政、樋口と同じく25年に暗号解読技術習得のため留学した陸軍の百武晴吉らをユダヤ人が下宿させ助けてくれた。この厚遇を忘れなかった樋口は、隆一氏に、「日本人はユダヤ人に非常に世話になった。彼らが困った時に助けるのは当然だ」と話している。

『回想録』によると、コーカサス地方を視察旅行した1928年、ジョージア(旧グルジア)のチフリス(現在の首都トビリシ)で、玩具店のユダヤ人老主人から、ユダヤ人が世界中で迫害される事実を吐露され、「日本の天皇こそユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主。日本人ほど人種的偏見のない民族はない」と訴えられたという。

この体験がユダヤ難民救済の際、影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。さらに37年にドイツに短期駐在して、ナチスの反ユダヤ主義に強い疑念を抱いたこともあった。

人道主義と共にソ連諜報の目的も?

またシベリア出兵以来、優秀な情報士官だったことも無縁ではない。杉原千畝研究家である外務省外交史料館の白石仁章氏は、「ソ連から逃れたユダヤ人からソ連国内の機密情報を得る狙いもあったのでは」と推測する。白石氏がユダヤ人に詳しい外国人にオトポールで救出されたユダヤ人の写真を見せたところ、(彼らは)ロシア系ユダヤ人との意見が多かったためだ。

ソ連でも帝政ロシア時代から、ナチス・ドイツに勝るとも劣らず、反ユダヤ思想が強かった。ハルビンでは、ユダヤ人と白系ロシア人が互いに反目し合い、頻繁に抗争が起こっていた。白石氏はこうした事情を熟知していた杉原は、カウナスでは「狭義にはむしろ『スターリンの脅威から守った』」(『諜報の天才 杉原千畝』)と評価。ポーランド陸軍の情報士官を使った杉原はインテリジェンスの天才だったと主張する。樋口中将も、人道主義とソ連諜報目的からユダヤ人を救済したとすれば、対露情報士官としての面目躍如だろう。

日独防共協定を結んでいたドイツはユダヤ人救済に抗議したが、上司だった関東軍の東条英機参謀長は、「当然なる人道上の配慮によって行った」と一蹴した。東条は「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」と主張した樋口を不問に付し、日本政府は、軍事同盟を結んだナチスの人種思想に同調しなかった。

樋口は「ユダヤ民族基金」の「ゴールデンブック」に掲載されたが、杉原のようにホロコースト(大虐殺)の犠牲者を追悼するためのイスラエルの国立記念館「ヤド・ヴァシェム」から『諸国民の中の正義の人』(英雄)には列せられていない。

米国の戦略論研究家のルトワック氏は、「ヒグチ・ルートで生き延びた2万人の中には、その後、米国やイスラエルの大使や科学者になった人もいる。混乱して予測不能の困難な時代に、欧州ではチャーチル英首相も含め政治家、官僚、軍人がユダヤ人保護の行動を起こせず、ホロコーストで600万人のユダヤ人が犠牲となった。そんな中で樋口中将は、率先して勇気ある大胆な行動を取った。このことは英雄として広く顕彰されるべきだ。人道主義を持った良い日本人軍人もいたのだ」と顕彰活動を支援する。

スターリンの北海道侵攻の野望を阻止

また樋口中将は、北海道、南樺太と千島列島の「北の守り」を担当する札幌の第5方面軍司令官だった19458月、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)に侵攻したソ連軍に対して自衛戦争を指揮した。それはポツダム宣言の受諾を決め、終戦の詔書が出された後の18日、大本営の停戦命令を無視して独断で行ったものだ。陸軍随一の対露情報士官としてソ連の野望を見抜いていたからにほかならない。

ソ連のスターリン首相は、日本が降伏文書に署名する前にヤルタで密約した樺太と千島列島、さらに北海道まで占領し、既成事実にするつもりだった。実際、同16日、トルーマン米大統領に留萌釧路以北の北海道占領を要求。拒否されるが、南樺太の第八十七歩兵軍団に北海道上陸の船舶の準備を指示している。

しかし、樋口の指示による抗戦で、占守島攻防は同日まで続き、ソ連は千島列島占領が遅れ、北海道侵攻に及ばなかった。北海道占領を断念したスターリンは同28日、北海道上陸予定だった南樺太の部隊を択捉島に向かわせ、国後島、色丹島、歯舞諸島を無血占領し、北方四島の不法占拠は現在に至る。樋口の反撃の決断がなければ、ソ連が北海道に侵攻し、日本が分断国家となっていた可能性が高い。

「戦犯」反対はワルシャワ武官仲間の英参謀総長の圧力?

野望をくじかれたスターリン首相は、樋口中将を極東国際軍事裁判に「戦犯」として身柄を引き渡すよう申し入れたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官は拒否した。

世界ユダヤ協会が反対したためとされるが、『回想録』では、「終戦後に取り調べを受けた連合国軍の某中佐(キャッスル中佐)から『イギリスが大変あなたをご贔屓にしており、イギリスはソ連の貴殿逮捕要求を拒絶した』と聞いた」と記している。

樋口隆一氏は「ポーランド武官時代に同僚だった英国のアイアンサイド少将(当時)が第二次大戦時、元帥として英国の陸軍参謀総長まで上りつめており、マッカーサーに圧力をかけたのではないか」と推測する。ワルシャワ駐在時代に演習視察や対ソ情報共有などを通じた交流が奏功した形だ。

樋口中将の赴任を契機に始まったポーランドとの暗号協力で日本の「暗号力」は格段と向上し、ポーランドと日本の諜報協力は、初期は杉原、第2次大戦末期にはストックホルムの陸軍武官、小野寺信少将にソ連が対日参戦を約束した「ヤルタ密約」を提供するなど深い絆に発展した。樋口がその嚆矢(こうし)となったことを考えれば、樋口には対露インテリジェンスオフィサーとして天賦の才があったのだろう。

外交官だった杉原千畝と違い、樋口季一郎は軍人ということもあってか、顕彰すべき対象としては扱われてこなかった。しかし、202179日には、憲政記念館で「樋口季一郎中将顕彰会」設立を記念したシンポジウムも行われるなど、ここにきて樋口中将のグローバルな再評価の動きが加速していることは、日本人として好ましいことではないだろうか。

 

岡部 OKABE Noburu経歴・執筆一覧を見る

産経新聞論説委員。1981年立教大学社会学部卒業後、産経新聞社に入社。社会部記者として警視庁、国税庁など担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に留学。外信部を経てモスクワ支局長、東京本社編集局編集委員、201512月から194月までロンドン支局長を務める。著書に『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書/第22回山本七平賞)、『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)、『イギリス解体、EU崩落、ロシア台頭』『新・日英同盟』(白秋社)『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)など。

 

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