翻訳のスキャンダル  Lawrence Venuti  2022.9.16.

 

2022.9.16. 翻訳のスキャンダル ~ 差異の倫理にむけて

The Scandals of Translation ~ Towards an Ethics of Difference          1998

 

著者 Lawrence Venuti 1953年生まれ。コロンビア大で博士号取得後、テンプル大で40年にわたって教鞭をとる。現在はテンプル大名誉教授。北米における翻訳研究の第一人者として知られ、その同化・異化概念は後続の研究に影響を与えた。著書に『翻訳者の不可視性――ある翻訳の歴史』(1995)など。自身も、イタリア語、フランス語、カタルーニャ語の翻訳者としても活動し、数々の賞を受けている

 

訳者 

秋草俊一郎 1979年生まれ。東大大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。現在日大大学院総合社会情報研究科准教授。専門は比較文学、翻訳研究など

柳田麻里 1988年生まれ。上智大国際教養学部卒、日大大学院総合社会情報研究科博士前期課程修了。現在、出版物やメディカル文書の翻訳者として活動中

 

発行日           2022.5.25. 初版発行

発行所           フィルムアート

 

イントロダクション

翻訳のスキャンダルは、文化や経済、政治にまでまたがる問題

翻訳は、著作権法には疎まれ、学術界では軽視され、出版社や企業、政府、宗教団体からは搾取されるという烙印を押されている

翻訳があまりにも不利な扱いを受けているのは、支配的な文化的価値観や制度の権威に疑念を抱く契機になるから

本書の目的は、翻訳を現在のマージナルな地位に追いやっているカテゴリーや実践の幅と、翻訳そのものとの間の関係に立ち入り、そうしたスキャンダルを暴露する――翻訳研究

翻訳についての現行の考え方を前進させることを狙いにしている

各章ごとに、いくつもの異なる言語・文化・時代・ディシプリン・制度を行き来しながら、翻訳されたテキストの社会的な影響力を記述・評価し、翻訳プロジェクトの可能性を拡張し、アカデミズムで研究分野として翻訳を確立し、特に米英に於て翻訳者に文化的により強い権限と法的により有利な立場を勝ち取ろうと模索

翻訳とは文化横断的な営みであるため、別個の「著者性」を必要とする。それは外国語のテキストに準じ、外国だけでなく国内のコミュニティに奉仕する類のもの

翻訳は孤独な営みだが、無数の人々と繋がる

196772年、アメリカの翻訳者ディ・ジョヴァンニは、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスと共同作業でボルヘスの小説と詩の英訳を刊行しただけでなく、文芸エージェントの役割も兼ねて、ボルヘスが今日遇されているような正典作家としての地位を確立する手助けをしたが、彼はスペイン語のテキストを過度に編輯、翻訳し、アメリカ人が読みやすいものにした。アメリカで文学的とされる文体に同化させ、現在の標準語に合わせ、ボルヘスの散文にある突然の転調を滑らかにし、具体的な言い回しを好むあまり抽象的な表現を避け、作家が記憶から呼び起こした引用すら修正してしまう。稀に見るほど知的な作家を反知性主義で翻訳したに過ぎず、ボルヘスは共同作業を突然打ち切った

作家たちのほうでも翻訳者を搾取してきたが、自分の作品の翻訳を公然と批判したものはあまりない

翻案翻訳――時代と好みに合わせたもので、訳者の好みに合わせた翻案

同化翻訳――翻訳する側の価値観に無理やり合わせるもので、翻訳を必要としたであろう異質さの感覚を消し去ってしまう

作家は、外国語のテキストの意味が翻訳で変わらず、外国の作家の意図が言語・文化的隔たりを越えてそのまま伝わることを期待するが、翻訳とは常に解釈を伝えるものであり、翻訳する言語の特徴で補われ、同化的な文体で理解し得るものとなる

著作権法は、作品についての権利を著者に独占的に与えるため、著者が書いたものに対する解釈は全て著者が専決するという

著者自身で翻訳する場合、以前の他人がした翻訳から「多くの冴えた解釈や忠実な訳文と明晰な表現」を継ぎはぎしても、以前の翻訳者たちの名前が挙がっていないのみならず、翻訳者の同意を得たのかもはっきりしない

翻訳が提起する問題は倫理的なもので、まだ解決の目を見ていない。翻訳のスキャンダルの存在を確認するだけでも1つの裁定になる。ここでは、翻訳が置かれた非対称性への改善案を発見し、翻訳を実践・研究する上で良い方法論と悪い方法論を識別する倫理の存在が前提となる

私が弁護する倫理的な立場とは、言語的・文化的差異にさらなる敬意を払って翻訳がなされ、読まれ、評価されるべきというもの

翻訳は異文化間のコラボレーションである以上、異文化交流という文化的な営みにおいて、翻訳が果たすべき役割は大きい

 

第1章        異種性Heterogeneity

「翻訳研究」と呼ばれる分野の成長は、「1980年代のサクセス・ストーリー」と語られるが、翻訳史や翻訳理論の研究は依然として学術界で取り残され、独自の学術分野ですらなく、その時々で、言語学・外国語・比較文化・人類文化学を始めとする様々な学術分野に依拠するインターディシプリンといった方が正しいだろう

現在の翻訳研究の傾向は2つのアプローチに分けられる――言語学寄りの経験科学の1分野となるべく研究を進める動きと、美学寄りの文化的・政治的価値観が翻訳の実践と研究に影響を与えているとする動きで、両者は言語学と文化学の異種性に起因する

l  マイナー文学を書くということ

私がマイナー文学を英語に翻訳するときの前提で重きを置いているのは、言語が、一定のルールに従って個人が使用するコミュニケーションの道具でしかない、という見方は間違っているということ。コミュニケーションが言語の果たす役割の1つであるのは確かだが、言語は常に変化に晒されるところから、文章による表現は著者が想像し創造したものかもしれないが、本質的に意味が不安定かつ非属人的であり、マイナー文学が発現する異質性によってメジャーな言語は常に変異に晒される

私の嗜好は、アメリカ国内の政治的課題でもある国際的な英語支配への対抗から来ている

英語の中にある多様性を深めることで、文化の革新を促し、異文化への理解を深めること

翻訳の最たる役割は、外国テキストを国内の人々の理解度や興味にあわせて記述すること

l  マイノリティ化プロジェクト

19世紀イタリア人作家タルケッティの翻訳をする際、著者のマイナーな境遇に魅かれ、当時のイタリアの慣習に逆らった社会の不平等が浮き彫りになり問題視される世界を描いていて、翻訳は英語をマイノリティ化すると気付く。作品の1つで『パッション』という英題で訳したものはブロードウェイミュージカルに取り上げられ大衆受容へと発展

メジャー言語の中でマイナーな文学作品を作り出すという目標は達成できた

l  言語学の限界

翻訳の理論と実践の中で、1960年代に台頭して今や主流となっている言語学的なアプローチに疑問を抱く――翻訳の役割を文化イノベーションと社会変動のみに制限している

言語学的なアプローチで最重要となる前提は、言語は個人が一定のルールに沿って用いるコミュニケーションツールであるという点で、翻訳とは翻訳者が国内の読者の協調を得ながら外国テキストを伝えるものとする。「協調」とは、①情報の量、②情報の質=真実性、③関係=コンテキストの一貫性、④様態=わかりやすさ、という4つの「格率」に分類

外国テキストに付加された国内の言語的様式により、テキストは国内の文化においても「意味のとおる」ものになるが、時に伝えたいと意図するメッセージを超えてしまう

l  科学的モデル

言語学的アプローチの最も憂慮すべき特徴は、科学的モデルを推進したがる点にある。言語を文化や社会の多様性から独立したシステマティックな制度として定義しているため、翻訳は文化・社会構成から独立したシステマティックな行為一式として研究される

そのため、翻訳行為の持つ文化的な意義・効果・価値観について翻訳者に考える余地を与えない

 

第2章        著者性 Authorship

著者性とはオリジナリティのことで、翻訳が現在おかれているマージナルな状況の一番の原因となっている。著者性という概念がはびこる以上、翻訳は誤り、歪曲、汚染を引き起こすもの

外国語テキストの言語的、文化的差異を抑え、ターゲット言語の文化で主流の価値観に取り込み、理解可能にすることで、一見翻訳には見えないようにする。この同化を経て、翻訳されたテキストはオリジナルとして、外国の著者の意図を表現したものとして流通する

学問は、そもそもの前提として、オリジナルな著者性に重きを置く傾向が根強く、オリジナリティを構成する著者の意図を確かめようとするものなので、翻訳は論外

翻訳は、語学上の正確さの次元に徹底的に矮小化されてしまいがちで、翻訳を目標文化の文学観の運び手と見做すのを拒絶する

さらなる隠された巨大スキャンダルは、凡そどんな翻訳も受け付けようとしない不合理なほど極端な外国語・外国語文学の崇拝で、外国語アカデミズムの翻訳嫌いは、外国語学習が脅かされるように思えるからだろう

翻訳が暴くのは、言語や文化の変化によって引き起こされるずれについて考えるのなんてうんざりだという、外国語の専門家の間にはびこる根深い嫌悪感だが、そういった方面こそ外国語研究が率先して手続きを調え、研究を促進しなくてはならないはずのもの

l  二次的な著者性

著者が翻訳としてオリジナルの作品を提示する「疑似翻訳」は、文化に新たな血を取り入れるための便利な手段だが、もともと模倣などによって捏造された原作をギリシャ語詩のフランス語訳として提示した文芸詐欺のケースでは、主流だった文化的価値観を覆した点で注目され、翻訳・著者性・学術のさかいを曖昧にした

l  学問のバイアス

前記の詐欺事件は、翻訳と著作の区別を曖昧にするだけでなく、史実をもとに著者のオリジナリティを証だてる学術に疑問符を突き付ける

l  翻訳の再定義

翻訳は著者性の一種と捉えることができる。ただし、著者性はもはや二次的なもので、そもそも独自のものではない。書くこととは既存の題材に想を得ることであり、ある価値観に従って、著者が選び出し、優先順位をつけ、書き直したもの

翻訳は学術の取り得る形の1つでもある。翻訳と学術はともに、古語や外国語のテキストを私たちの理解に供する上で歴史研究に依拠するが、どちらも著者の意図を完全に再現することはできない。それどころか反対に翻訳も学術も、その意図を必然的に補うような、同時代の、国内の価値観に応えてしまう

 

第3章        著作権 Copyright

著作権とは、知的創造物の保有権利を規定する法律や慣習を指すが、往々にして翻訳に関する言及は限定的――著者が自らの作品を流通させる権利を保護する動きが強まる傾向にあり、翻訳出版の許可も著者の権利に含まれる

1990年のアメリカでは、翻訳の大半が買い取り形式で行われ、翻訳者は固定の金額しか受け取れず、ペーパーバック版を出すための使用料や映画製作での使用料などの取り分がない

著作権法は翻訳の創造性を奪うだけでなく、外国作品の革新的な翻訳により生まれる文学全般の創造性も奪っている

l  現況

現在の著作権法は、翻訳の定義が曖昧。著者は翻訳者とは別で、著作権は著者のためだけにある。著者は原作の形式の創造者だが、著作権がカバーするのはその形式のみであり、形式を通して表現される概念や情報は含まれない

一方で、著作権法では二次的著作物の権利を制作者に与えられるとし、翻訳者を著者として認めている。翻訳とは新しい表現の媒体であり、外国テキストと言語や文章が異なる別形式であるため、翻訳者は翻訳物の著者といえる

ただ、判例は著作権法が保護する著者性の概念は物質的な形式に埋め込まれているわけではなく、むしろ非物質的で神懸かり的な個性であり、文化特性に縛られず、様々な形式やメディアに浸透していくとされ、著作者人格権に近い考え方

l  矛盾まみれの「独自な著者性」

かつては、書籍出版業者が著作権を永久的に占有

当時の文壇及び出版業界の慣習として、翻訳と著者性の境界線は明確でないことが多い

l  翻訳者の著者性の根拠

著作権法は、翻訳を決定づける複雑な関係を認識できずにいる。翻訳と外国テキストを区別できるような形式の正確な定義を、集合的な著者性の概念から導き出せる。形式の集合的かつ派生的な側面は、言語や文化の違いから生まれてくるものであり、翻訳者が著作権所有を訴える根拠となるだけでなく、外国の著者の、翻訳に対する権利を制限する主張の根拠にもなり得る

l  救済策

最近の判例や法解釈では、翻訳を外国テキストの「フェアユース(公正利用)」として捉え、外国の著者の二次的著作物に対する独占的著作権の対象から外す可能性を提示している

著作物の使用は、「批評、開設、ニュース報道、教授、研究または調査等」に供する場合は公正であると定義され、翻訳もこの利用にあてはまる。文芸翻訳の場合、翻訳は常に外国テキストの解釈の一種、国内の読者が受け取る意義を定義する批評もしくは解説と考えられる

1994年の米国の判例では、パロディをフェアユースと認定。「表面上はユーモラスな形式を採った批評のようなもの」とした

翻訳は外国テキストの全文を訳すことが期待され、テキストを部分的に変えたり削除したりした場合は、もはや翻訳としては認められず、翻案や抄訳といった異なる種類の派生形式として扱われる

 

第4章        文化的アイデンティティの形成 The Formation of Cultural Identities

翻訳は、外国語のテキストを同化し、国内の一定の層に向けた言語的・文化的価値観を刻み込まずにはいられないところから、しばしば疑惑の目が向けられるが、そのような影響力の中でも重要なのが文化的アイデンティティの形成

l  外国文化の表象

学術翻訳ですら、外国の文化やテキストの明らかに内向きの表象を作り上げてしまう

l  国内の主体の創造

翻訳プロジェクトが外国文化の国内独自の表象を生み出すだけでなく、特定の文化的構成員を対象としているため、同時に国内のアイデンティティの形成にも関与することになる

l  翻訳の倫理

翻訳が社会に対して広範な影響力を持ち、文化的アイデンティティの形成において社会的再生産や変化に寄与するのなら、その影響を評価し、良いのか悪いのか、結果として生まれるアイデンティティが倫理に適うのか問うことは大切

翻訳の倫理が、忠実さという概念に収まるようなものではないのは間違いない

何が正確かという規範自体も当の国内文化で洗い直されて適用されるので、いかに表面上は忠実で語学的には正しいものであっても、基本的に自民族中心主義なものになる

翻訳がスキャンダラスなのは、国内の状況はどうであれ、異なる価値や慣習を作り出すことができるから

 

第5章        文学の教育 The Pedagogy of Literature

英語は世界で最も翻訳されている言語だが、同時に最も翻訳しない言語

英米の出版社が刊行する翻訳書は、刊行物の約24%だが、諸外国では規模の大小、東西に関わらず%は顕著に高い――日本では6%、フランス10%、ドイツ15

英語による国際的な支配は、英米文化圏で現在翻訳がおかれたマージナルな状況と表裏一体――英米文学が世界中で流通して、多数の海外出版社の資本を意のままにしているのに対し、外国文学の英訳はそれほど投資も、関心も集めていない

l  教室での翻訳

大学で翻訳の使用が避けられないにもかかわらず、翻訳は冷遇されている――学術機関で教えられ出版される解釈は、英訳者の翻訳言説に媒介されるため、しばしば外国語テキストとは隔たりがあるという事実にはほとんど注意が払われていない

l  翻訳文学の教育学

教育学は、やがては外国語テキストとその翻訳の間の差異だけでなく、翻訳それ自体の内部に潜む差異も検証するようになるだろう

 

第6章        哲学 Philosophy

哲学も他のディシプリン(学問分野)と同様に、翻訳にまつわるスキャンダルから免れない

哲学研究は翻訳テキストに広く依存しているにも拘らず、各テキストの翻訳状況を鑑みないため、翻訳により生じる差異に言及できていない

l  翻訳により得られるもの

哲学の文脈で複雑な概念を語る場合には特に、言語は意見をそのまま表現できるという思い込みを捨てなければならない。翻訳の言語を通して伝える際には、意見は必ず不安定になったり再構築されたりするもの

どのような言葉の使用も、予測不可能な「余計なもの」の発生に対して脆弱――翻訳に伴い、外国のテキストと繋がった国内的な余計なものは、より予測が難しくなり、原作者だけでなく翻訳者の意図をも超えた動きをする

l  哲学翻訳の方略

余計なものを外国哲学の翻訳に有効利用するには、外国テキストと国内読者の両方を考慮し、正確性(=単語の同等性)という概念を変革しなくてはならない

翻訳は、外国テキストを再構成して伝える事しかできないので、国内読者にテキストの言語学的・文化的違いを伝えられれば、翻訳者は翻訳をよいものと判断してよいだろう

 

第7章        ベストセラー The Bestseller

今日において翻訳が周辺に追いやられている理由の1つに、その経済的価値の低さがある

翻訳書は制作に金がかかるため出版が限られ、1970年代以降ベストセラーに投資する傾向が強くなったが、大衆読者をターゲットに翻訳書を出せば、文化的エリートからは軽んじられる事態を生みかねない

l  受容

195070年代にイタリアの風刺ユーモア小説作家グァレスキのドン・カミロ・シリーズの英訳が爆発的な成功を収めたのは、作品が反共的だったというだけではなく、大衆嗜好という口実のもと、英訳の反共主義が大衆読者に馴染み深い国内の価値観と親和性があったからで、さらには、イタリアは根っからの男尊女卑だというアメリカ人が抱くステレオタイプに与する一方で、1950年代のアメリカ文化で主流だった家父長的な家族像(肉体的にも倫理的にも強い男性像を理想とした)をより強固にするものだった。この理想像はアメリカに忠誠を誓う国民は強く、対して国家に反する共産主義派の支持者は弱く女々しいとのイメージを植え付けようとする政治的な意図もはらんでいた。イタリア人作家を特定のジェンダー、階級、国柄に当てはめ、イデオロギーと結びつけたのが、アメリカでの彼の作品の受容の特徴であり、対立などないと示すことで、アメリカ人が敵対するイデオロギー(=共産主義)に抱いていた恐怖を拭い去った。ただし、これはアメリカ固有の現象で、イタリア国内では共産党を揶揄したものとして共産党党首から公的に弾劾されているし、作品の人気で得をしたキリスト教民主主義者からも名誉棄損で訴えられ有罪になっている

この作品のアメリカの受容を巡るスキャンダルは、大衆の嗜好にあるわけではない。問題のある国内の価値観を助長した点のほうがスキャンダルで、作品が即座にアメリカの共産主義に対する狂気を制御・維持しただけでなく、様々な人種やジェンダーのステレオタイプと絡み合わせて、イタリアの文化的・政治的状況を歪めて伝えてしまった

l  編集と翻訳

グァレスキ作品の成功の秘訣は、翻訳書の制作過程にある――イタリア語テキストが意図的に編集・翻訳されている。用意された英訳を入手したアメリカの編集者が、イタリア国内の時事的風刺の部分をカット、まえがきについても、君主主義的な立場の記述を削除する一方でアメリカ人読者を意識した分かりやすい言い回しに書き直してもらう

翻訳言語は大衆嗜好に合わせた完全なる同化を伴い、極端なまでに流暢さを追い求めることで物語に感情移入しやすりリアルさという幻想を作り出しつつ、イタリア語テキストにアメリカのコードやイデオロギーを埋め込むのが目的で、最初の英訳に使われたイギリス英語は完全に排除されアメリカの言い回しを入れている。悪者やその仲間を勝手に「ギャング」とか「ごろつき」と意訳したり、当時アメリカでは違法とされかねない「宝くじ」を「バザー」と言い換えたり、豊富な話し言葉の使用によって滑らかな文章にしたりしている

出版社自身が本の美学と役割にハイブラウという分類を作ってしまい、文学的価値を支えるためにハイブラウの認知を求めたが、それでは商業的関心を追及できないという自己矛盾に陥る。ノーベル賞作家などの本を出版する会社として文化的権威を築いていた出版社が、社長が持っていたグァレスキ作品の副次権を25年後に利用して出版に踏み切ったのは、ハイカルチャーへの忠誠を誓っていた出版社の唯一利益に走った汚点となって残った

グァレスキ作品の翻訳は、出版社がハイカルチャーを優先させるのと同時に経営で利益を上げるのは不可能だと示しただけでなく、作家がノーベル賞でも受賞しない限り、一般読者をエリートの考える文学の概念にひきつけることは不可能だと示した

よりスキャンダラスなのは、利益から翻訳者が弾かれたことで、アメリカでの受容が、成功に必要不可欠だった翻訳者たちへの多大なる搾取と並行して進んだ――出版社が英語訳の全世界での独占出版権を保有、翻訳者は雇用契約労働者として扱われ、翻訳単語当たりの固定額が払われるだけで、副次権から得られる莫大な収益の取り分は全くなかった

l  ハイブラウのベストセラー

出版社は本国でベストセラーになった外国テキストに注力し、映画や演劇などですでに英語圏で多数の読者を有する外国テキストを探すようになり、古典の海外文学作品の安価なペーパーバック版の大量発生に繋がって、翻訳はハイブラウのベストセラーというハイブリッドな存在になる――それを最も効率的に量産してきたのは電子メディアで、映画とテレビが商業的に強大な影響力を持つようになり、様々なマーケティング手法を展開して、出版前から本をベストセラーに仕立てられるようになる

翻訳されることにより時代に即した大衆的なフィクションの形式に同化されて初めて商業的に成功した作品もある――ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(15-03』参照)や、パトリック・ジュースキントの『香水――ある人殺しの物語』(07-10』参照)

 

第8章        グローバリゼーション Globalization

何世紀にもわたって国際情勢を作り上げてきた非対称性を、翻訳は他にないやり方で明らかにしてくれる――多くの発展途上国では翻訳は已むに已まれぬもの

195580年の間に最も翻訳された著者はレーニン

訳すという行為は如何にとりとめもなく、アバウトに映ろうとも、常に特定の読者を対象にしたもの。それゆえ想定し得る動機や結果は、地域に根差した、条件付きのものになり、グローバル経済における立ち位置(有力国かそうでないか)によっても変わってくる

l  商業と文化の非対称

2次大戦以降の翻訳の傾向は、英語文化の圧倒的な支配を示しているが、最も翻訳される言語である一方、最も翻訳しない言語の1

1987年のユネスコの統計によれば、世界の翻訳の総数は6.5万店、うち3.2万が英語からの翻訳で、仏語からの6.7千、露語からの6.5千などを大きく凌駕。ブラジルでは新刊本の60%が翻訳で、うち75%が英語からのもの

対照的に、英米の出版社は翻訳をほとんどしない――’94年米国の書籍出版総数5.2万点に対し翻訳は1.4千しかなく、翻訳は英米文化の中でマージナルな位置にしかない

英米の出版社は英語からの翻訳で大儲けしているのに、英語への翻訳への投資には無関心

万国著作権条約(1955年発効)は著者に自作の翻訳権を許諾する権利を与えることで、英米の出版社に有利にはたらいている。ベルヌ条約(1887年発効)は翻訳者の翻訳物に対する著作権を認めてはいるが、原作品とその二次的著作物に対する著者の独占的な所有権を依然として保護している

発展途上国が覇権国の文化や経済に依存している現状を、翻訳が暴露するとして、そこから生まれる無数の副次的問題は、その依存が相互的なものだということも明らかにする――発展途上国は、欧米の科学、技術、文学テキストの翻訳と輸入を当てにする。教育レベルに関わらず学校の教科書もである。アフリカやインドのような英語圏文化の作家は、米英での文学的、商業的な成功を当てにしてる。同時に英米出版社の投資方針は、発展途上国からの収入への依存を高める結果になった。196080年の間ディズニーは世界で最も翻訳される作者のベスト5に常にランクインしているように、外国の市場で競争するための効率的な現地語の翻訳の仕方にも依存している

l  トランスナショナル・アイデンティティ

出版社にしろ、製造者にしろ、広告代理店にしろ、多国籍企業が組み込む翻訳は、根本的にヨーロッパの植民地主義と同じ様に機能する。主たる違いは、翻訳が今は国家や商社、布教活動の代わりに企業資本に奉仕するようになったこと。変わらないのは、メジャー言語とマイナー言語、覇権文化と従属文化の間のヒエラルキーを確立するのに翻訳が使われる点で、翻訳は植民する側とされる側、多国籍企業と現地の消費者のような、不平等なアイデンティティ形成のプロセスを策定する

16世紀のフィリピンでは宣教師がタガログ語で布教し、翻訳が改宗と植民地化を同時に可能にしたばかりか、鍵となる言葉はラテン語やカスティーリャ語のままとし、タガログ語が教義上も外国語に依拠していることを示した

翻訳は文芸文化に影響を及ぼすものであるがゆえに、植民地政府は自らの支配に都合のいい文学を植民地に作ろうと、翻訳を巧妙に利用してきた

l  抵抗としての翻訳

植民地体制にあって、翻訳の機能は極度に多様化し、効果は予測不能になり、押しつけられた差別的なステレオタイプを回避したり、書き換えたりする言説空間を、いつも被植民者に用意する。抵抗の余地は、植民地の言説の両義性に本質的についてまわる

植民者の言語を押しつけることで結果的に、雑種的(ハイブリッド)な文学形式が出現する

ヨーロッパ言語で書かれた西アフリカの小説には、「トランスリンガル」という特徴がみられるが、これは仏語や英語のテキスト越しに、現地語の語彙や構文の痕跡が窺えるような作品のことで、現地の文学と様々なヨーロッパの正典テキストとを融合させている

l  モダニティを翻訳する

(ポスト)コロニアルは状況における翻訳が解き放つ雑種性は、実際にヘゲモニックな価値観を侵食し、ローカルな変種のもとに置いてしまうが、それら翻訳の文化・社会的影響力は翻訳されたテキストのジャンルとその受容によって必然的に制限される

l  場所の倫理

従属文化で翻訳が果たす役割は、覇権を握る英語圏の国家で、翻訳が現況おかれたマージナルな立ち位置というスキャンダルを掘り下げる

発展途上国の出版社が翻訳に関心を示すのも、間違いなく覇権国の出版社と同種の商業主義によるもの

翻訳が擁する文化的権威と影響力は、その国が地政学的・経済的にどのような立場にあるかで変わってくる。覇権国家では、著者だけが持つオリジナリティや相手文化の信憑性といった形而上的概念に囚われて、翻訳は二線級のもの、派生的かつ純正ではないものとして貶められてきたがゆえに、特に米英では、翻訳は作家・批評家・教員から比較的わずかな関心しか集めない。他方発展途上国では、翻訳は文化資本だけでなく経済資本も蓄積する。メジャー、マイナー言語間でコミュニケーションする必要性が、翻訳産業やトレーニング・プログラムを生み出す。翻訳は多言語主義や文化的雑種性の良き調停役でもあり、国民文学を確立し、覇権言語や文化の支配に抵抗する上で有用な言語改革運動の生みの親でもある

 

 

訳者あとがき

本書は、著者の主著の1つとして、広く参照・引用されてきたもの。著者の初の邦訳書

本書で著者が暴くスキャンダルとは、世界の文化、政治や経済を覆う不均衡――英語からの翻訳が圧倒的な割合を占め、英語への翻訳は少ないにもかかわらず、英訳は様々な制約や制限を受ける。その不均衡や、翻訳が文化に取り込まれ、あるいは取り込まれた様に見せて文化を改変する様子を克明に綴る

翻訳を「著者に忠実な訳」か「読者に歩み寄った訳」のどちらにするかは、19世紀初頭からの問題だが、著者はそこに言語による権力構造を持ち込み、異化/同化という対概念として鋳直した。強大な、主流の/支配的な言語(たとえば英語)は、翻訳のプロセスにおいて、外国のテキストを自文化の価値観に従属させてしまう。そこでは徹底して翻訳や翻訳者の顔が見えなくされている(不可視性)

l  異化domestication ぎごちない直訳。受け手の文化規範において摩擦を生む翻訳

l  同化foreignization 滑らかな意訳。作品選定やプロモーション、パッケージなど様々なレベルで働き、外国のテキストを国内の主流の価値観に阿らせる圧力

翻訳者は出版や学術といった様々な制度の中で交渉し、異質なものを持ち込むことで自国の文化を変革しなくてはならない。それこそが本書の提唱する「差異の倫理」であって、翻訳者の使命だ

著者は前著のエピローグで「行動への呼びかけ」と題して、「翻訳に今まで以上に疑いの目を向け、翻訳者が交渉しなければならない差異を今よりも受け入れてくれるような未来を希望することにつなげたい」と締めくくっている

本書でも様々な交渉が描き出されている――第4章では日本文学の英訳事情を取り上げ、サイデンスティッカーやキーンらによる英訳は一部のアカデミッシャンの価値観を反映したもので、谷崎・川端・三島は冷戦下の同盟国としての望ましい日本像を提供するものだったのに対し、商業的成功を収めた吉本ばななの『キッチン』は日本文学の多様性を欧米の読者に開示するものとして再評価している。その延長線上に村上春樹がいる

著者自身も翻訳者としてグッゲンハイム・フェローシップほか国内外のさまざまな賞を受賞しているだけに、翻訳者が不可視化されていると非難し、同化翻訳を押しつけてくる制度を糾弾するのも、翻訳実践者としての実感によるところが大きいのだろう

「翻訳大国」とかつて呼ばれ、欧米に比して翻訳者の地位が総じて高かった日本においてもこの「スキャンダル」は無縁ではない。翻訳書の新刊書に占める割合は10%を切って久しいどころか、'19年には5.7%にまで急落し、翻訳者の報酬は低水準に抑えられている

さらに問題は日本の翻訳書の大半が英語からの翻訳で、かかる現状では「国内の価値観」に何らかのインパクトを与えることは難しい

学術においては英語偏重はさらに重大な問題で、本書ですら長い間翻訳の対象になっていなかった

 

 

 

 

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