ザ・ナイン  Gwen Strauss  2022.9.18.

 

2022.9.18. ザ・ナイン ナチスと闘った9人の女たち

The Nine ~ The True Story of a Band of Women Who Survived the Worst of Nazi Germany       2021

 

著者 Gwen Strauss 詩人、短編作家、随筆家。ハイチで生まれ幼少期を過ごす。現在は南フランス在住。『サンデー・タイムズ』紙などに作品が掲載される。邦訳に『ナイトシミー:元気になる魔法』がある。執筆活動の他、ドラ・マール・ハウスで芸術家の滞在研究プログラムにも携わっている

 

訳者 笹山裕子 翻訳家。上智大学外国語学部英語学科卒業。訳書に『世界でいちばん働きがいのある会社』『すごい博物画』『真夜中の北京』など、共訳に『アウシュヴィッツのタトゥー係』『歴史を動かした重要文書』などがある

 

発行日           2022.8.20. 初版印刷  8.30.初版発行

発行所           河出書房新社

 

 

カバー裏

私はまだこの世に生きた痕跡を残せていない

今諦めたら、何も残らないじゃない

フランスでレジスタンス活動に身を投じ、逮捕され、収容所で囚われの身になっていた9人の女たちは、1945415日、強制収容所から移動中に脱出を決行する

前線を目指す逃亡の旅と、それぞれの人生の旅

その2つの物語には、常に固い友情の絆と苦境さえ笑い飛ばすユーモア、そして何よりも生き延びようとする強い意志があった

戦争とは、生きるとは何かを問いかける、傑作ノンフィクション

 

 

l  「ナイン」の9

エレーヌ・ポドリアスキー(クリスティン)――著者の大おば。24歳のとき、仏北西部でレジスタンス活動をしていて逮捕。優秀な技術者。5か国語を話す。逃亡中のリーダー役

スザンヌ・モデ(ザザ)――エレーヌの高校時代からの友人。リセでも一緒。22歳でパリのユースホステルで働いていた時に逮捕。結婚直後。グループの書記を自認。終戦直後に逃亡についての楽観的な手記を書いたが、出版されたのは2004

ニコル・クラランス――レジスタンスで重要な役職に。22歳の誕生日の翌日パリで逮捕。1944年パリ解放のわずか数日前に移送。有名な「57,000人」の1

マデロン・ヴェルスティネン(ロン)――グループ中2人いたオランダ人の1人。27歳のときレジスタンスネットワークで活動していた兄に合流しようと、パリに到着したところで逮捕。エレーヌとともにドイツ語を堪能で、偵察役を務める。頑固で勇敢。1991年に逃亡について書き残している

ギエメット・ダンドルス(ギギ)――ロンのオランダ時代からの友人。23歳のときロンとともにパリに到着した翌日逮捕。穏やかで、グループの調停役。メナと親しくなる

ルネ・ルボン・シャトネ(ジンカ)――グループ一勇敢で最年長。29歳のとき夫を探しに刑務所に行ったところを逮捕。フランス刑務所内で出産。コメットネットワークの一員で、撃墜されたり取り残されたりした連合国側の兵士のスペインへの逃亡を助けた

ジョゼフィン・ボダナヴァ(ジョゼ)――スペイン人。最年少。仏南部の養護施設で育つ。20歳のときマルセイユで逮捕。マルセルネットワークで活動し、ナチスから身を隠しているユダヤ人の子どもやレジスタンス活動家の家族に物資を供給した。美しい歌声

ジャクリン・オベリー・デュ・ブレ(ジャッキー)――戦争で夫を亡くしている。逃亡前からジフテリアに罹患。29歳のときパリで逮捕。ブルータスネットワークで活動。タフで、思ったことをはっきり言い、悪態もつく。有名な「57,000人」の1

イヴォンヌ・ル・ギヨー(メナ)――パリでオランダ人のレジスタンスネットワークで活動。22歳のとき逮捕。楽しいことが好きで、チャーミング、気まぐれ、恋愛気質。家族はブルターニュの出だが、イヴォンヌは労働者階級として育つ

 

l  9人がたどった道

ラーフェンスブリュック強制収容所(北ドイツ) → ライプツィヒ → コルディッツ(ドイツ東部) → ノイエブレム強制収容所(独仏国境) → ロマンヴィル強制収容所(パリ北部郊外) → フレンヌ収容所(パリ南部郊外) → アンジェー(仏西北部) → マルセイユ

 

第1章        エレーヌ

19435月エレーヌは23歳でレジスタンスに参加、航空作戦局でノルマンディー、アンジュー方面を担当、諜報員の移動を支援

エレーヌはソルボンヌで物理学と数学を学んでいたが休学し、電球製造会社で技術者として責任ある地位に。レジスタンス活動用の偽名はクリスティンでナチスの記録にも載っている。パラシュートで落下する地点を決め、落とされた物資を配布する

レジスタンスに加わってから逮捕されるまで平均36か月

‘442月将軍にメモを届けに行くところをドイツ兵に捕まって監獄をたらいまわしにされ、アンジェ―では水責めに会う

エレーヌは、戦後レジオンドヌール勲章始め多くの勲章をもらっている。2002年私の祖母を囲んで食事をしている時にこの話をしてくれた

その2年後、エレーヌの友人のザザが書いた『死にたくなかった9人の娘たち』が出版される。書いたのは逃亡の数カ月後だが、彼女の死後10年経って表に出た

ニコルも移送から20周年の記念に『エル』誌に寄稿、他にもラジオインタビューに何回か出る

2012年には、ロンが書いた『わたしの戦争年代記』をもとにドキュメンタリー映画《逃亡》が制作されたのを機に、エレーヌはロンと再会

9人とも政治犯として捕らえられた。エレーヌの父親がユダヤ人、ニコルがユダヤ人家庭の出身だったことが判明するが、何れも伏せらていた

‘446月、エレーヌはラーフェンスブリュック強制収容所へ移送。バルト海近くで、「小さなシベリア」と地元では呼ばれていた。初めて建てられた女性専用の強制収容所で、リセ時代の友人ザザに出会う

 

第2章        ザザ

被収容者たちは国籍で分けられ、収容所内部の運営を一部の被収容者に任せる

ザザは、19歳のときドイツ軍のパリ入城を目撃、以来反戦に燃えたが、’43年にはユースホステル(アジステ)の活動を開始。ユースホステルはドイツにヒントを得て戦間期に始まったもので、若者が国境を越えて旅し、歩き回り、経験を分かち合うことで、平和と理解を広めようという運動で、ドイツ占領下でも活動が認められていたが、’43年禁止されると多くはレジスタンスに移行、特にドイツが労働者を強制的に徴用し始めると、地下活動が活発化。ザザはその地域リーダー役だったルネと結婚

‘443月、結婚して1か月後に密告による大掛かりな捜索にかかり逮捕

幾つかの収容所を回ってラーフェンスブリュックからさらにライプツィヒに移送され、兵器製造会社の強制労働収容所で働かされる

収容所にはドイツ軍が持ち込んだジフテリアが蔓延したが、被収容者にはわからない

収容所では、働き盛りの男はみな前線に徴用されているので、高齢の一般人が監督に駆り出されていて、中には心優しい人たちもいた

エレーヌはその中の1人に脱走を助けてほしいと頼む

9人のグループの最後の2人が9月にライプツィヒに到着

クリスマスまでの解放を信じて寒さに耐える――’44年の12月はヨーロッパの歴史に残るほどの寒波だったが、最後のクリスマスのために準備に奔走

年が明けるとドイツ軍の撤退が始まり、被収容者は1人も生かして帰さないとの命令に従って殺されるか死の行進で他の収容所まで歩かされる――戦後死の行進のルートや規模が目撃者の証言によって明らかにされているが、動線はドイツを縦横に走っていた

410日ライプツィヒ収容所は連合軍による空襲で壊滅的な被害を受け、翌日は120㎞南のブーヘンヴァルト収容所が解放され、14日にはライプツィヒから死の行進が始まる

東に向かって、行先さえわからず、次第に幻覚を見るようになる

 

第3章        ニコル

28時間歩き続けて耐えられなくなった9人がお互いに脱走の意思を確認し合う

ドイツ軍による統制が乱れ、監視が手薄になったところで

ニコルは1922年生まれのユダヤ人で豊かな中産階級で育つ。22歳の誕生日翌日に逮捕。早くからプロテスタントのスカウト活動を通じレジスタンスのリーダーだった。パリ解放の数日前のドイツに向かう最後の列車で男1654人女543人と共にラーフェンスブリュックに移送、さらにライプツィヒに移送されて8人の仲間に出会う

 

第4章        ロンとギギ

ナチスの思想原理は、民族浄化や優生学、社会進化論の考え方を基にしていた。それも一般的に広く受け入れられ、ヨーロッパやアメリカで支持されていた。強制収容所のシステムは、そのような考えを究極的な実践に移したもの。そこでは残忍なヒエラルキーが再構築されている。最底辺はいわゆる反社会的分子で、シンティ・ロマ人やエホバの証人の信者、同性愛者、売春婦、犯罪者が含まれるが、彼らは生存者のグループに入っていなかった。戦後自らの権利を主張する政治団体もなく、英雄とも犠牲者とも見做されていなかったし、被収容者の間にもこの層に対する偏見があった。戦後売春婦は群衆によって制裁を受け、その罪を周知するために髪の毛を剃られ、通りを歩かされ、中傷の言葉を浴びせられることが多かった。そのような女たちは「丸刈り女」と呼ばれた。ナチスが実行したシンティ・ロマ人の絶滅政策「ポライモス」では、少女たちが鎮痛剤も使用せずに不妊手術を施され大半は後遺症で亡くなったが、その存在をドイツ政府が認めたのは1982年になってから。反社会的分子の収容棟は常に満員で、激しい罰が下されていた

ロンは裕福な農家の生まれ、学生時代はライデンでアッシリアの研究

学生寮でギギと出会い、ストで閉鎖された学校をあとに、'443月パリでレジスタンス活動をしていたロンの兄を頼ってパリに行き、2人でレジスタンスに身を投じる

ギギは1920年貴族の家柄に生まれ、思春期に一家は破産、両親は離婚、父親は死去

2人はパリでロンの兄と会った翌日、仲間の密告によりグループ共々逮捕

収容所で人気者だったロンは、重い袋を持ち上げようとして背中を痛め歩けなくなったが、処分されかねないところをポーランド人の女ボスに救われ固い友情を誓い合う

 

第5章        ジンカ

9人はフランスの難民と偽ってある村の宿屋に落ち着く

エレーヌは腰痛が酷くなり、ジンカは結核に罹患、ジャッキーはジフテリア、ジョゼの両足は感染性の発疹、ニコルは肺炎、メナは神経が参っていた。ロンは疲れ切って足に血が滲む

ジンカは1914年生まれ、2年後母がスペイン風邪で死去、母の妹に育てられる。祖父が大臣、母方の大叔父は駐露大使。ド・ゴールと親しく、父親は生涯ド・ゴール信奉者

2次大戦とともに家族でレジスタンスに参加

‘429月結婚、半年後に夫婦でネットワークに参加し、撃墜されたイギリスのパイロットの本国帰還を支援

'436月夫が先に逮捕され、妊娠に気付いたジンカが収容所に夫を探しに行って逮捕される。妊娠していたためフランスの刑務所に留め置かれ、’442月出産。18日後には引き離され、ジンカは移送。9人の中では最初にラーフェンスブリュックに到着

ドイツの戦況悪化に合わせるように、9人はドイツの奥へ奥へと移送

 

第6章        ジョゼ

4月ライプツィヒ郊外のテクノロジーら収容所では悪名高いアプトゥンドルフの大虐殺が起きていた――数千人が直前に9人と同じ道を死の行進をさせられていたが、身体が弱って行進に参加できなかった300人を建物に閉じ込めて火を放つ。ほんの数時間後にアメリカ軍が到着、黒焦げの死体を発見、驚いたアメリカ軍は現場を撮影し、わずかに生き残った者から証言を集め、ニュルンベルク裁判に証拠として提出

ジョゼは開戦の前年にスペインから移民してきた家庭の子供。世界大恐慌と内戦から逃れるために多くのスペイン人が越境したが、多くは不法入国者でフランスは受け入れを拒む

ジョゼの父親は労働者で、10歳のときカンヌの児童養護施設に預けられたが、施設は越境してきたユダヤ人子どもを受け入れる地下活動の拠点となり、ジョゼも'42年初めにはレジスタンスに参加。マルセイユで逮捕され、ドイツへ移送

 

第7章        ジャッキー

ジャッキーは1915年フランス西部の生まれ、古いプロテスタントの家柄。’39年結婚した直後に夫は召集。夫は結核に罹患し死去。その後レジスタンスに参加し逮捕

 

第8章        メナ

メナは1922年仏北西部ブルターニュの生まれ。レジスタンスの活動家に恋をして仕事を手伝うようになり

10人に1人は妊娠し、あちこちで出産したが、赤ん坊は母乳は出ないままミルクも与えられずまとめて放置され、長くても1カ月しか生きられなかった

9人はようやく前線に近づき、親衛隊ではない指揮官の守る村に入り、前線の川を越えるための通行許可書をもらうことに成功

 

第9章        とてつもなく長い1

421日、橋の壊れた川を何とか伝い歩きで越え、漸くアメリカ軍と出会う

 

第10章     人間らしい生活へ

最初に解放された収容所は、ソ連が、1年近く前の’447月にポーランドのルブリン近郊で発見したマイダネク強制収容所だが、’451月にソ連がアウシュヴィッツを解放したのをきっかけに、秩序だった大量殺戮が行われていたことが明らかになった

9人はアメリカ軍の前線司令部がある街で1週間過ごす

赤十字の難民収容所に移動したが、強制収容所と変わらない境遇に我慢ならず、司令官に掛け合って女性の難民を纏めて世話する家の運営を任せてもらう

 

第11章     わが家への道

516日、9月に収容所が閉鎖されるまで引き続き運営に携わることになったエレーヌとジャッキーを残して、7人は帰国の汽車に乗る

国境で兄を探しにオランダに帰るロンと別れ、残りの6人はパリへ

ド・ゴールは、強制収容所からの帰還者の受け入れにオテル・ルテシアを用意

移送された政治犯とレジスタンス活動家は9万人で、帰還したのは4.8万人

6人はそれぞれに帰還者の確認の手続きをしているうちに離れ離れになって、別れの挨拶もしないままにそれぞれの道を歩み始める

帰還者たちは、フランスに戻ってからも長い間、心から安らぐことはなかった。健康上の後遺症や、心理的な問題も大きい。結婚も破談になった。強制収容所にいた女は純潔とは見做されず、家族の一員として迎えるのは恥だとされた

1953WHOが初めて強制収容所経験者の精神的な問題を戦傷として認め、「強制収容所症候群」と名付けた――強制収容所での連帯は孤立を防いでくれたが、家族の所に戻ると孤独を感じるようになった。レジスタンス被強制移住・強制収容者協会が設立され、互いに支え合うことと、生き残れなかった者たちの記憶を大切にすることを目的とした

帰還者たちは帰還者同士で結婚することに安心を求め、9人のうち6人は帰還者と結婚

9人はバラバラになって、それぞれが必死に前に進もうとし始めた。改めて連絡を取り合ったのは60年後で、生き残った何人かと家族が集まり当時の経験を話し合った

 

第12章     ただの別れ

6月にザザの夫が生還しナントに移り住み子どもを設ける。帰還後数カ月の間に逃亡の経験を書き留め『憎まないけれど忘れない』と題して、逃亡のことだけを記録に残し、’61年女性誌『マリ・クレール』に寄稿したが、どうやら断られたようで、2004年本人の死(’94)後に出版。子どもたちは不幸で、4人のうち3人は精神疾患に苦しみ、1人は自殺、1人は精神病院で死亡、1人は自殺未遂で療養施設で暮らす

トラウマの世代間伝達の研究は、ホロコーストを生き残った人たちの子供世代に、両親のトラウマの影響が出始めた’70年代に急速に発展。子どもたちは、親が処理しきれなかった恥や怒り、無力感、罪悪感に向き合うことになった。生還者の家族は、決して口にされない、表現されない、深い悲しみを感じていた。常に恐怖と不安を抱え、どんなリスクも避けようとする。世の中に対して、特に国家や政府に対して、不信感があった。子どもたちの多くは医療系の職業に就き、緊急救命室の医師や心臓学の専門医として、生死に係る現場で働いた。命を救いたいという使命感と共に、人との繋がりを実感できないという不安定さがあった。何かに追い立てられているような強迫観念を持ち、親や祖父母に対して相反する感情を抱いていた。憂鬱と悲しみが心から離れず、哀悼の念が消えず、いつも喪失感があった

9人とも、家族は一様に、戦争中の経験を決して話さなかったが、その記憶が常に心の中にあることが分かったという。にも拘らず、親の体験した恐怖は確実に子どもたちに伝わっている

生還者はよく、自分は2つの世界に生きているという。独立し、現在進行中で、常にそこに存在しているトラウマの記憶の世界と、現実の世界だ。そして彼らはたいていその2つの世界を調和させることを望まずまたその力を全く持ち合わせていない

ザザの手記の語り口が喜びと幸福感に溢れているのは衝撃的。記憶と現実の不調和は、1つには自分の心を守るための防衛機制によるものだろう。戦後ザザの苦しみと悲しみはほとんど認識されなかった。生還者でありながら、顧みられることがなかった。ある意味で、ザザにはすべてがうまくいっているふりをするしか選択肢がなかった。子どもたちが自らに向けた暴力は戦争のトラウマの世代間伝達を語る出来事として記憶に残る。帰還から18年後に脳卒中で倒れた後、夫との距離が縮まり、2人で世界中を旅してお互いをみつけることができたようだ

6人と別れたロンは、途中アメリカ軍に助けられながら独力で自宅に戻るが、兄はすでに1月に強制収容所で死去。ロンの自費出版した手記と映画《逃亡》

ロンは’48年双子を出産したが、父親が誰か明かそうとはしなかった。一族の体面を保つために金を払って1年だけ結婚、相手の名前を名乗りながら仕事を続け、子どもたちに愛情を抱くこともなく、乳母に育てさせた。’90年代に手記を書いて落ち着いたが、いつまでも兄を失った悲しみを抱えていた。男性並みのキャリアを積むことのできた最初の世代で、仕事を通して欧州連合の設立に関わり、ヨーロッパの産業や法律を支援する重要役職に就いた。9人のうち最後まで生き残り、2017101歳で逝去

ギギは収容所で会った男性と結婚、パリのオランダ大使館で働き、ロンともよく会っていた。時々収容所でのことが表に出てきたのが孫たちの記憶に残る。200787歳で死去

ニコルは、同じ日にパリに戻ったダッハウからの帰還者と結婚。レジスタンスの一員で戦時中から面識があった。結婚生活は長くは続かなかったが、以後60年にわたってコンタクトは続いた。『エル』誌に職を得て、1964年解放を記念して強制収容所と逃亡の経験に関する記事を寄稿したところ、同じ強制収容所で生き残った女性から、「誰もこんな話を読みたくはない、見苦しい」との批判の投書が来た。己惚れた自慢話の類いはわずかに仄めかすことさえも慎みわきまえるべきと忠告され、生還者の口を封じようとする雰囲気が広がっていた

ド・ゴールはリベラシオン勲章を創設し、レジスタンスの英雄を称えたが、受章した1038人中女性は6人のみ、うち4人は終戦時には死亡。ド・ゴールは女性たちに栄光を男性に譲るよう頼んでいた。1940年男は1人も残っておらず、レジスタンス活動を始めたのは女たちだった。参政権も銀行口座もなく、仕事もない女たちでも抵抗は可能だった

ザザの手記にも、逃亡中に出会った地元のドイツ人やフランス人の戦争捕虜にまで、親衛隊員に「奉仕」するために自ら収容所に行った売春婦だと思われていた、と苦々しげに書かれている。命を賭してまでレジスタンス活動に加わったという事実はあり得ないこととして片付けられた。女たちが受けた苦しみを、誰も想像することができなかったし、若くて可愛らしい20代の娘が自分たちの経験を話してもまともには受け取ってもらえなかった

当時のニコルの友人の多くは、ニコルがレジスタンスで重要な役割を果たしたことを全く知らなかった。1991年シモーヌ・ヴェイユと共にレジオンドヌール勲章の将校級の略綬を受けた時、呆気にとられた友人もいた。ジャーナリズムの世界における30年の輝かしいキャリアを築き、ラーフェンスブリュック強制収容所からの生還者を支援する組織とは頻繁に連絡を取り、生還者たちと毎月昼食を共にした。200785歳で死去

前線に残って女性生還者の療養施設の運営を続けたジャッキーも数カ月後にはパリに戻り、レジスタンス活動で上司だった人の証言でクロアドゲール勲章が贈られた

経済的自立を目指したジャッキーは映画編集者になって活躍。後に結婚した相手は熱心な共産主義者で著名な出版社を経営。2001年死去

ジョゼは戦後音信不通になったが、貴族階級の軍人と結婚したが10年で離婚、南フランスに戻り、カンヌで2014年死去、享年90

ジンカはすぐに夫の行方を捜したが不明、1年余りの後行方不明で死亡したと思われるという軍からの正式な通知が来て、2年後「レジスタンス活動による被収容者、フランスのために死す」という身分が認められ、中尉の位が追贈

収容所で生んだ女の子の行方も不明のまま、’48年結婚、相手は元レジスタンスの闘士、武勲を上げた軍人一家の生まれで、両親も兄弟も全員がレジスタンス活動に参加

結核に罹患し深刻な症状となってサナトリウムに長く入り何度も手術して、娘もよそに預けられた。1978年心臓病で死去

エレーヌも数カ月遅れて帰還。軍服を着て、アメリカ車で英雄として戻ってきた。元の電球製造会社に復職し、27歳で結婚。相手は軍人で成功した事業家の父とペタンの支援者だった母の間に生まれた。娘が出来た後’57年に離婚、さらに著者の祖母の弟と再婚して著者の大叔母となる。娘は心理学を専門にし、ソーシャルワーカーになって、麻薬依存者のために働く。引退した今もホームレスのためのシェルターで理事を務める。彼女が仕事の基本原則としてるのは国連が採択した世界人権宣言で、強制収容所やホロコーストの教訓から生まれたもの。彼女にとってその精神は、母親から直接受け継いだもの。彼女自身も精神面で悩みを抱え、偏執狂や境界性パーソナリティ障碍に苦しんだ。どちらも世代間伝達によくみられる症状

エレーヌは、50代に入ってから重い鬱病で入院。原因は不当解雇と母親の死、娘の結婚などが考えられ、様々な喪失が一度に来たため、過去を思い出し悲しむようになったと推測される。過去と折り合いをつけることに苦労していた。2012年死去

映画《逃亡》は、逃亡から62年後にエレーヌとロンが再会する感動的な場面で幕を閉じる

2007年ニコルの死の直前、9人のうち何人かと家族が再会。エレーヌは行けなかったが、ニコル、ギギ、ザザ、ロンが家族と共に集まる。ジョゼは音信不通。ジャッキー、ジンカ、メナは他界

 

読者のみなさんへ

登場する9人の女性は実在の人物。レジスタンス活動に加わった女性たちに起きた大きな物語の一部。彼女たちがどのような人生を送ったのか、どのような選択をしたのか、なぜそのような選択をしたのかはわかっていない

当時、彼女たちには選挙権はなかった。’444月レジスタンス女性たちの懸命な努力もあって、ド・ゴールは女性に参政権を認めた。そのとき9人のうち7人は刑務所から強制収容所にいた

終戦直後は、フランス社会も世界も、ユダヤ人の大量虐殺にほとんど注目していなかった。レジスタンスの男の英雄を称賛したが、レジスタンスに加わった女たち、その結果移送された女たちの話はタブーだった

1961年アイヒマンの裁判の頃から大量虐殺の真実への関心が世界中で高まり、生き残った人たちの証言を記録し、伝えるべきだという考えから、記念博物館や文書館の設立、映画やインタビュー動画の製作が活発化。その根底にあったのが、教訓を広め、同じことを繰り返さないという目標

多くの人が苦しんだ場所を訪れるダークツーリズムに多くの人が参加し、さらには、このような場所が何度もプロパガンダに利用されてきた事実は、問題を複雑化させる――アウシュヴィッツの跡地を’47年に公開したソ連にはこの場所を象徴として利用しようという明らかな意図があった。ここで110万のユダヤ人が死んだことは’89年まで全く公表されず、跡地は国際ファシズム犠牲者記念館と名付けられ、「資本主義のナチスが革命の同志を虐殺した」と説明していた

現在は暴力の歴史を積極的に顧みようという新たな態度が生まれ、記憶を保存する場所を作るようになった。記憶することが、道徳的な義務になったとはいえ、トラウマとなる記憶には持続性があり、世代を超えて受け継がれるが、同時に脆さもあり、たびたび誤って伝えられ、握り潰されることもある。記憶している人が皆死んでしまったらどうすればいいのか

 

 

 

 

 

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ザ・ナイン ナチスと闘った9人の女たち

祖国フランスのために、愛する人のために、レジスタンス活動に身を投じ、収容所に送られた9人の女たち。その過酷な日々と壮絶な逃亡劇、そして仲間の絆を描き出す感動のノンフィクション!

 

 

 

 

 

 

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