災害と復興 天明3年浅間山大噴火  嬬恋郷土資料館  2022.10.7.

 

2022.10.7. 災害と復興 天明3年浅間山大噴火

 

編者 嬬恋郷土資料館 1983年開館の浅間山大噴火に関わる展示を中心にした博物館。設計は坂本鹿名夫。鎌原村のシンボル的存在であるのみならず、嬬恋村の文化財保護・活用の役割も担う

 

発行日           2022.3.30. 第1版第1刷発行

発行所           新泉社

 

はじめに

いまから240年ほど前の1783年、浅間山が大噴火し、北麓に位置する嬬恋村及び周辺地域は甚大な被害を被ったが、この噴火活動の自然科学的解明と、歴史学・考古学による被災の研究が進んでいる

かつて浅間山大噴火で、実際にどのような災害が起こり、被災をどのように乗り越え、語り継ぎ、復興してきたのかを見ていきたい

 

 

I.     嬬恋村と浅間山

01     高原の村・嬬恋村

嬬恋村は、南に浅間山、西に四阿山(あずまやさん)、北に草津白根山と標高2000mを超える山々に囲まれた群馬県西端にある高原の村

鳥井峠近くの田代に源を発する吾妻川(あがつまがわ)が、八ッ場ダム、吾妻渓谷を通り、渋川で利根川に合流(延長76)

村の人口9500人。居住域は標高8001200m。平均気温8度前後と札幌に気象環境が近い。2/3は上信越高原国立公園に含まれる

鎌原地区(旧鎌原村)は、1783年に浅間山大噴火により壊滅的な被害を受けた場所

 

02     浅間山

浅間山は標高2568m、活火山。同じ場所で噴火活動を繰り返して火山体が形作られる「複成火山」

10万年前には黒班(くろふ)火山があったところ、2.4万年前山体崩壊を起こす噴火が起こり、その跡が現在の浅間山西側に黒班山という外輪山として残る。東側では21.3万年前に仏岩火山の活動で小浅間山という溶岩ドームができる

その後活動を続けて成長したのが前掛(まえかけ)火山、現在の浅間山

嬬恋村から南を望むと、黒班山から浅間山、小浅間山と並ぶ稜線は、「寝観音」と呼ばれる

浅間北面山麓は鎌原平と呼ばれる

 

II.   天明3年の浅間山大噴火

03     噴火の実相

天明3年の噴火は58日の鳴動と降灰に始まり、58月にかけて3カ月に及び、84日に最大級の噴火

浅間山北麓では8日に土石なだれが発生し、土砂は鎌原村を埋没させ、吾妻川に流れ込み、天明泥流となって銚子に達したという

    吾妻火砕流――人家には達せず、のみ込まれた樹木は「浅間山溶岩樹型」として残る

    土石なだれ――発生場所は鬼押出し園付近。既存の土砂が地滑りで流れ出した?

    鬼押出し溶岩――ゆっくり河口から斜面を流れ下った溶岩。土石なだれの跡を隠す

    天明泥流――吾妻川の大堀沢~小宿川約6.2㎞の範囲で流れ込む

    降灰――東南東方向、軽井沢から高崎、江戸方面の広範囲に被害をもたらす 

 

04     鬼押出し溶岩と浅間山溶岩樹型

火砕流の痕跡は、火口の北東側の黒豆河原(鬼押出し溶岩の東側)と北西側の藤原地区(同西側)に残る

浅間山溶岩樹型とは、火砕流にのみ込まれた樹木が蒸し焼きになって、樹立した状態の空洞が残ったもの。火砕流は比較的緩やかに流れ下り、樹木をなぎ倒すまでの勢いはなかったのが特徴。火砕流によってつくられた樹型は世界中でここだけ(⇒国指定天然記念物/国特別天然記念物)。最大規模のものは直径2m、深さ7m

 

05     土石なだれ

昭和50年代の発掘調査により、基本は常温の土砂の流れだったことが判明

「岩屑なだれ」「土石なだれ」「粉体流」などとも呼ばれ、火口の北4㎞あたりから崩れ始めた

 

06     天明泥流

吾妻川に流れ込んだ天明泥流は、12時間後には40㎞下流の中之条を通過、24時間後には70㎞下流の利根川との合流点の渋川から前橋付近を通過

川の両岸12㎞幅で、川面から2050mに及ぶ高さにもなって沿岸の田畑・屋敷を飲み込んでいく ⇒ 吾妻渓谷の「千人窟」には川床から70m以上にもなる地点に泥流が達した痕がみられる

泥流は利根川を通って銚子へ、一部は千葉県の関宿で江戸川に入り江戸湾に到達

 

07     天明泥流の記録

長野原(火口からの流入距離25)では、跡形もなく押し流され、高台にあった雲林寺の鐘撞堂が残ったので、長野原町だったことが分かる

横谷(37)は、吾妻渓谷を抜けた村だったが、峠道に30mの高さまで泥火石が押し上げられ、通行できなくなった

温川(44)は、吾妻川に注ぐ支流だが、5㎞ほど逆流(実際は2)

伊勢町(52)では、正午頃、高さ1530mの波が3波にわたって押し寄せた

川嶋村~北牧村(67)は村も街道も埋没、高い場所に集落を移動させ、上にあった祖母島街道が本通りになった

利根川合流点(71)では、利根川の流れを止め、4㎞ほど逆流した後一気に決壊して激流となって下る

玉村(102)では、堤防へ3.6x5.4mほどの火石を押し上げた。少し増水しただけだが泥は川の外に2300m押し広がり、深い所は軒先よりも高く埋まる。34度来ては堆積を繰り返したが人命には拘わらなかった

 

08     浅間石

鎌原地区の田んぼには8m四方で高さ2.6mの巨岩が居座り「こじはん石」と呼ばれる

「こじはん」とは農作業の合間にとるおやつのこと。農作業の休憩に腰かけたのでは

地表に出てきたマグマが比較的短時間で冷え固まった特徴を示す

利根川流域にかけてこうした巨岩があちこちに残り、「浅間石」と呼ばれる

泥流で運ばれてきた溶岩は「火石」と呼ばれ、小さいものでも1mまわり、大きいものは9m四方もあり、1カ月以上たっても高温の状態を保っていた

いずれも地表面にじかにのっておらず、泥流堆積物中にあることが判明しているので、もともとその場所にあったものではなく、天明3年の泥流で運ばれてきたことが分かる

 

09     降灰

大規模な降灰は、3時期、3方向にまとめることができる

717日には北方向へ降灰 ⇒ 上越市から、翌日には佐渡まで到達

72729日には北東方面に降灰 ⇒ 福島、仙台、岩手にも到達

825日には土石なだれと天明泥流の中、東南東方向に大量の軽石が降る。火口から4㎞ほど離れた千ヶ滝付近では12mの堆積が見られる。大きな軽石(火山弾)で死者1名を記録。42㎞離れた甘楽町の天引向原(あまびきむかいはら)遺跡では灰掻き山の下から軽石に覆われた畑が見つかる。江戸近郊まで達した

 

コラム 絵図に見る大噴火

《吾妻川・杢(もく)の関所泥流襲来の図》では、三国街道が吾妻川を渡る南岸にあった杢の関所の家屋や火石を含んだ泥流が襲い、刎橋(はねばし)が流される。被害の大きかった対岸の北牧村は災害復興の手段として、勘定吟味役の指導で渡しの船賃を利用者から徴収して災害復旧の財源に充てる策がとられ、60年にわたって渡し舟が運航

 

III. 被災の実相

10     甚大な災害

1784年、長野善光寺で犠牲者の施餓鬼供養――各村で納められた犠牲者の経木(きょうぎ)が計1490枚とあり、また吾妻川流域の流失倒壊家屋が1300戸以上との記録もある

天明の飢饉(178288)を深刻化させる一因ともなった

鎌原村では観音堂に避難した93人だけが生き残り、村人477人が犠牲となり、95軒の家屋、耕地の95%を失う。一家全滅が58軒、1人しか残らなかった家が14

 

11     観音堂の石段

観音堂は1713年建立。かつては120150段の石段があったとされ、1979年から発掘調査が始まり、発掘した50段の最下部で2人の遺体が見つかる。'81年に2人の復顔模型が完成

 

12     十日の窪の倒壊家屋

1975年の発掘を機に、'7981年正式な発掘調査により、表土から26mほど下に3棟の家屋の埋没を発見。建築部分や生活用品が出土して、当時の生活の様子が明らかに

ガラスの鏡も出土、遺物からは一般の民家の所持品としては考え難い種類と数量の品々が含まれ、山間地における豊かな暮らしが映し出された

 

13     あらわれた延命寺

1039年建立と伝えられる鎌原村の延命寺は、江戸時代に再建され、東叡山寛永寺の末寺として栄えたといわれるが、天明3年に埋もれてからは所在不明の幻の寺院となっていた

1982年の発掘調査で虚空蔵菩薩座像の一部や仏具が発見され、その後の6次にわたる調査により本堂・庫裏・納屋跡の存在が明らかにされた

浅間山信仰を司った寺院だったことが判明

 

14     鎌原村の馬

噴火で犠牲になった馬が856(ひき)、うち鎌原村には200疋との記録があり、鎌原観音堂の死馬供養碑は火の犠牲になった馬を弔った珍しい地蔵尊で、台座には165疋とある

鎌原村の人口570人に対し犠牲になった馬だけで200頭と多くの馬がいたことは、農民が持ち馬を使って駄賃稼ぎをしていたからと考えられる

 

15     信州街道と鎌原村

鎌原村は、信州と上州、北国と上州を結ぶ信州街道の重要な地点に位置する集落

高崎から榛名山西麓を通り、鳥井峠を越えて須坂・飯山に向かう道は追分から中山道と別れて上田経由長野に向かう北国街道の脇往還で、大笹街道/仁礼(にれい)/大戸通りなどとも呼ばれた

飯山・須坂・松代3藩にとっては、江戸まで北国街道経由より10里短いところから、輸送・商品流通ルートとして重要な街道

中山道の沓掛から草津へ通じる「沓掛通」にも連絡・近接する場所

江戸時代には公用の伝馬のほか、「中馬(ちゅうま)」「手馬(てうま)」という制度があり流通を担っていた。中馬は駄賃稼ぎの馬、手馬は農民が持ち馬を使って近在に物資を運ぶ

 

16     天明泥流の痕跡

熊川が長野原の東で吾妻川に合流する地点の新井村では、熊川を逆流した天明泥流が村を襲う

鎌原村から49㎞、吾妻川が関東平野に出る境界辺りの川島村の甲波(かわ)宿禰神社跡は上野国四ノ宮という格式高い神社だが、社殿が押し流され、厚さ2mの泥流堆積物の下から基檀と礎石だけが発見。ご神体は江戸川沿いの下総国真間まで流され、1785年に再建

利根川との合流地点から2.5㎞下った中村遺跡では、20人の犠牲者があり4mもの堆積物の下から畑跡が見つかる

前橋市吉岡町では、天狗岩用水や前橋城の堀が埋まっていた

火口から100㎞、高崎市東近郊の上福島中町遺跡、福島曲戸遺跡や宮柴前遺跡では民家の土壁が傾きながらも倒れずに出土、生活用具も発掘された

 

17     村々を飲み込む天明泥流

鎌原村から12㎞、旧坪井村の助右衛門屋敷(小林家屋敷跡)の発掘調査では、泥流に押し流された建物や蔵の一部が見つかる――吾妻川から300m離れた現在の川床から40m高い河岸段丘上にあった

東宮(ひがしみや)遺跡は、八ッ場ダムで水没した川原畑村の大型建物跡で、川床から40m以上の高台にあった

 

コラム 絵図に見る被災

《浅間焼吾妻川利根川泥押絵図》は1856年の制作。火口及び吾妻川流域の嬬恋村田代から利根川流域の千代田町舞木まで、村々の広範な被害の状況が描かれている

千代田町までの川は土色だが、下流は青色に描かれ、20㎞ほど下流の島悪途遺跡では土層断面に泥流堆積物が判別できない

 

IV.  救済と復興

18     被災民の救助

鎌原村が土石なだれにのみ込まれたのは8日の午前10

近隣の村々が先頭に立って救済に動く――吾妻川対岸の干俣(ほしまた)村や吾妻川上流の大笹村の名主たちが先頭に立って私財を投じて炊き出しを行い、逃げてきた住民を保護

周辺の村々が救済に動き、江戸へも注進に向かう――代官から周辺の村の名主たちに渡された褒美状には、「銭10枚一代に限って刀を差すことと子孫に至るまで苗字を名乗ることを認める」とある

 

19     支配者による救済・復旧

幕府は7(旧暦?)10日に普請役を現地に派遣し、土石なだれから13日後の721日には現地に到着し、すぐに被災民に「救助米代」を手当て――1560歳の男にくろ米(玄米)2合、それ以外には1合、60日分、11石の相場にて代金が分配された

現地視察と復旧計画の立案を勘定吟味役に命じ、総勢59名が江戸を出立。『浅間山焼に付見分覚書』がまとめられ、天明4年正月に熊本藩に手伝普請が命じられた

吾妻・群馬郡を管轄する中野陣屋の代官が視察に訪れ、農具代(流家に2)が渡される

勘定吟味役と代官が打ち合わせて原村の名主から95両を借用し救民に充当

幕府主体の「御救普請」の復旧工事は、救農工事方式がとられ、泥流や降灰で埋もれた田畑の起返し、土砂がたまった川の浚い、ずたずたになった道の復旧、流された橋の架設が優先され、幕府から一定の開発費用が支給されたが、それだけの「一番開発」では手間代にもならず、自費で「二番開発」に取り組み、荒土の上に1尺ほど掘り起こした元の耕作土を敷き大豆を作るとよく成長したという

降灰の被害が大きかった安中藩では、将軍家より拝領した先祖伝来の茶器を売って2万両を作り、領民の飢餓を救ったとの史実が残されている

 

20     温泉の引湯

救済復興事業として注目されたのが温泉場の開設

鬼押出し溶岩の末端付近の水脈が溶岩の熱で温水が湧き出したのを利用して、6㎞先の大笹村に温泉場を天明5年夏に開設。作業のため延べ人足4063人に賃金を払ったとある

温泉は次第に温度が下がって1806年廃止となったが、地域振興策の役割を果たす

 

21     鎌原村の再生

御救普請を請け負ったのは大笹村の有力者

被害を免れた田畑が生存者に均等配分され、御救普請でも各人に均等の土地が割り当て

夫を亡くした女と妻を亡くした男を結婚させ、親を亡くした子と子を亡くした親を養子縁組させるという家族の再生が図られ、10組が結婚し、幕府普請役人からも祝儀が贈られた

南北の街路の左右に短冊状の屋敷割りがなされるが、路村(ろそん)形態と呼ばれ、江戸時代に開発された新田集落に多く見られる。道路の中央には鎌原用水が流れ、街路に面して間口10(18m)、奥へ67歩の屋敷割り、その背後に沢や林に向かうまでは各戸の所有地となり、畑、雑木林などに利用されたが、整然とした地割は今日まで残る

新たな11軒が鎌原村復興の出発時の姿で、100年後に51戸とようやく増加の傾向

被災直後45反と1/20にまで減少した耕地は、翌年の御救普請により338反に回復したがその後長く横ばい状態で、開発された土地の地味も悪く、復興は困難を極めた

 

コラム ポンペイの2人と鎌原村の2

西暦79年噴火で埋没したポンペイの遺跡で20022人の遺体発見(1046番目の遺体)

城壁のすぐ外側、7mの深さで、厚く積もった軽石層の上位に堆積した火砕流の中にあり、最初に降下した軽石では生存、そのあと退避する最中に襲われたとみられ、鎌原村の女性2人の姿に酷似。埋もれた人は長い年月で朽ちるが、空洞となっている事例が多く、そこに石膏を流し込んで元の姿を復元し、当時の生活や文化の研究が進められている。嬬恋の資料館にもその1体のレプリカが寄贈されている

 

V.    慰霊と語り継ぎ

22     慰霊のはじまり

新井村(現長野原町)は、吾妻川の支流の熊川を300mほど遡った6軒ほどの村だったが、天明泥流が逆流し悉く流された。被災後再建されたが、その共同墓地には「逆水寛浣信女」と刻まれた墓標がある

江戸時代に慰霊を担ったのは寺院と僧侶――善光寺の大僧正は多くの僧侶を連れて被災地入りし、流死者への回向と被災者への施しを30日間続け、1周忌には追善大法要を執行

追善では吾妻川の両岸に分かれて経木を回し送ったが、右岸の鎌原村から半田村まで19か村996人、左岸の大前村から北牧村までは19か村494人、計1490枚の経木を記録

救済された村人たちは住職等順の恩に感謝して表大門の前の放生池を掘ったり、鎌原観音堂境内に碑を建立したりした

他の宗派、宗教者による救済も記録に残る

 

23     供養碑

鎌原村では33回忌に最初の供養塔建立

東吾妻町の原町は、家屋24戸で犠牲者はなかったが、町の善導寺山門脇には6回忌、23回忌、33回忌、50回忌、150回忌と長年にわたり供養塔が建てられている

100㎞下った伊勢崎市八斗(やった)島には、利根川沿いの共同墓地に供養塔が立ち、39人の戒名を刻むが、流れ着いた遺体を合葬し、墓標として建立したものといわれる

江戸川区東小岩の善養寺にも流れ着いた遺体を供養した碑がある

 

24     語り継ぎ

嬬恋村鎌原地区では、災害を様々な形で語り継いでいる

罹災後の集団結婚式では味噌をつけた団子が近隣の村より振舞われ、村人たちの身を守ってくれたということで、「身を護る団子」=「身護団子」と呼ばれ、その後村で春の彼岸に米粉で作り、観音堂に飾って供養する風習が生まれた ⇒ 現在でも再生鎌原村のシンボル的な年中行事として継続されている

鎌原村観音堂奉仕会 ⇒ 観音堂の発掘が始まると、増加した参拝者に対し、湯茶を接待し、鎌原村の被害と復興について説明をしている

廻り念仏講 ⇒ 多目的活動センターで女性によって行われる。33回忌の供養塔建立以来続けられ、農繁期を除き毎月2回、年20回ほどで、477人の犠牲者の名を書いた掛け軸を掲げ、噴火の状況から家族の再生まで語る「浅間山噴火大和讃」が唱えられる

 

25     新たな語り継ぎ

2009年、嬬恋郷土資料館にボランティアガイド会結成 ⇒ 「天明3年を歩く」ガイドを受け付け

2021年、市民学芸員制度導入 ⇒ テーマに沿った情報収集活動に従事

研究テーマの1つに、「統合型天明3年浅間災害情報マップ」の構築がある

 

VI.  嬬恋村の今

26 「高原キャベツ日本一」の村

夏秋キャベツ収穫量の第1位は嬬恋村で約22t。特に鎌原村の南西に位置する田代地区のパッチワークのように広がる丘陵地帯は見事

1923年甘藍(キャベツの漢名)の作り方がもたらされ京都の瀧井商店に種子を注文した記録が残る。馬鈴薯づくりと養蚕、冬の炭焼きと営林署の日雇いといった稼業からの転換を図ったのが成功。1925年水力発電のため田代湖という人造湖が作られたが、その時の工事の労働者に提供したところ評判を得てキャベツ栽培が本格化したとのエピソードが残る

1933年、鳥井峠の県道が改修され自動車運搬が可能となって、共同体制によるキャベツの初出荷が実現

先駆的な功績が嬬恋村の発展につながったとして3人の顕彰碑が立つ――大前地区の2体、戸部彪平は’32年に産業振興5か年計画を進めた嬬恋村村長、塚田國一郎は'32ねん吾妻郡農会嬬恋村駐在技術員として村に派遣され甘藍栽培を推進、田代地区にある青木彦治は上田市で青果業を営み甘藍施策を進め販路開拓に奔走

 

コラム キャベツ料理事始

l  ローマ人の饗宴とキャベツ――キャベツは紀元前にケルト人がケールのような結球しないキャベツの原種を地中海地方に持ち込んだというのが通説。大プリニウスの『博物誌』にはキャベツを使った87種の薬が列挙され、整腸剤として用いられた。ローマ軍と共にヨーロッパ各地に広がり、1000年くらい前には結球キャベツとして今日の姿になった。キャベツには胃の粘膜を丈夫にするビタミンUやビタミンCも多く含まれる

l  「農業の文明開化」の中で――明治以降、白菜・キャベツ・落花生・玉ねぎといった外国の有用な作物の導入が始まるが、その中心人物が長野県飯田市出身の本草学者・田中芳男(18381916)。初代農務局長であり、「日本の博物館の父」とも呼ばれる

l  明治の洋食事情とキャベツ――1895年創業の銀座・煉瓦亭では、日露戦争にコックが徴兵され、付け合わせの温野菜の代わりに生のキャベツの千切りを考案し、好評だったところから、トンカツの普及とともにキャベツの生食が伸びた。以降「トンカツに千切りキャベツ」という和風の洋食スタイルが定着。1910年制定の軍隊調理法のメニューにもカツレツやロール・キャベツが登場、’37年の改定ではカツレツの付け合わせとして「玉菜(キャベツの和名)または白菜」の記述があり、「玉菜巻き」の調理法が掲載

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとがき

嬬恋郷土資料館は、天明3年の火山災害で埋没した旧鎌原村の出土品を柱に、嬬恋村の歴史と文化を扱う小さな博物館。大地に刻まれた火山活動の痕跡と災害の実相、悲しみや困難を乗り越え、浅間山と向き合いながら再生・復興してきた地域の人々の歴史を学ぶことができる

 

 

 

「日本のポンペイ」掘り伝え 浅間山噴火240年

群馬・嬬恋村 防災へ史料発見に期待

 [有料会員限定] 日本経済新聞

火山噴火で壊滅した古代ローマの都市になぞらえて「日本のポンペイ」と呼ばれる村が脚光を浴びている。1783年(天明3年)の浅間山噴火で470人以上の犠牲者を出した群馬県の鎌原(かんばら)村(現・嬬恋村鎌原地区)。今年、噴火から240年を迎えるのを前に、2022年7月にイタリアのポンペイ市と友好都市協定を結んだ。遺跡の発掘調査も始まり、防災対策上の貴重な史料の発見に期待が集まる。

「239年前の地表面です」。22年11月中旬、鎌原地区の北部にある発掘現場で開かれた市民向け見学会。深さ約2メートルの地中に真っ黒な地層が広がり、集まった人々は担当者の説明に熱心に聞き入った。

見学会で案内役を担った地元のボランティアガイド会によると、周辺は浅間山噴火に伴って発生した「土石なだれ」が停止した境目にあたり、地元では「押しぎっぱ」と呼ばれている。

発掘調査は学識者らでつくる浅間山麓埋没村落総合調査会などによって1970年代に始まり、後に嬬恋村教育委員会が主体となって続けられてきた。長く中断されていたが、2021年に30年ぶりに再開。これまでに村民の遺体などが見つかった「鎌原観音堂」の石段や家屋などのほかにも遺跡がないかを調査し、国史跡の指定を目指すという。

標高2568メートルの浅間山で大噴火が起きたのは、江戸時代の1783年8月。土石なだれが吾妻川や利根川に流れ込み、東京湾や千葉の銚子まで達する「天明泥流」となった。下流の住民も含めて約1500人が命を落とし、1300戸以上の家屋が被災したとされる。

火口から約12キロ離れた旧鎌原村も大半が埋もれ、村民570人のうち477人が亡くなった。生き残ったのは観音堂などに避難した93人だけとされる。

中断前に行われた発掘調査では、家屋の建材や陶磁器、鍋やげたなどの生活用品が見つかり、被災当時の生活の一端が明らかになった。古文書には大噴火の10日ほど前から住民が火山灰などに悩まされていたとの記述もあり、今回の調査では噴火によって発生したとみられる軽石が見つかった。

「日本に名高き浅間山/日増に鳴りひびき 砂石(しゃせき)をとばす恐ろしさ/残りの人数(ひとだね)九十三 悲しみさけぶあわれさよ/妻なき人の妻となり 主なき人の主となり」

引き継がれてきた七五調の「浅間山噴火大和讃」は、生き延びた住民同士が結婚し、親を亡くした子が養子に入り、村を守った歴史を今に伝える。ただ伝承活動などを担う「鎌原観音堂奉仕会」のメンバーは、かつて100人ほどいたピーク時から約30人にまで減った。

そのうえ新型コロナウイルス禍で行事が制限され、鎌原郷司副会長(74)は「このままでは歴史を語り継げる担い手がいなくなってしまう」と危惧する。

「嬬恋郷土資料館」の館長、関俊明さん(59)は今回の発掘調査に期待を寄せる一人だ。「調査が進めば、村を襲った土石なだれのメカニズムや当時の村民の生活がさらに解明できる。全国から見学者が訪れ、防災意識を高められる場所にできれば」と話す。

噴火から240年を迎えるにあたり、群馬や長野、埼玉の博物館や資料館などが連携し、噴火に関する展示や講演会を実施している。嬬恋村もポンペイ市と友好都市協定を結ぶ以前から重ねてきた交流の歩みを村内の施設に展示するなど「日本のポンペイ」として鎌原地区をアピールしていく方針だ。

(木村梨香)

 

「避難確保計画」進まず

49活火山の周辺自治体

14 2:00 [有料会員限定] 日本経済新聞

活火山法は全国49の活火山を対象に、スキー場や病院、山小屋などを「避難促進施設」に指定し、管理者が避難確保計画を策定するよう義務付けている。

内閣府によると、該当施設を抱える143自治体のうち、避難促進施設を指定済みなのは56自治体のみ(20223月末時点)。さらに指定された全施設で計画作成済みの自治体は31にとどまった。

浅間山も例外ではない。群馬県嬬恋村によると、村内に避難促進施設となりうる建物はあるが、指定に至っていない。「観光への影響を懸念する声があり、各施設と慎重に協議している」と担当者。浅間山周辺は別荘も多く、住民以外にも目を向けた避難計画の策定が求められる。

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