指揮官の決断~樋口季一郎 早坂隆 2022.10.13.
2022.10.13. 指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎
著者 早坂隆 1973年愛知県出身。ノンフィクション作家。著書に『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』『松井石根と南京虐殺事件の真実』『昭和17年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち』など
発行日 2010.6.20. 第1刷発行 2018.5.5. 第3刷発行
発行所 文藝春秋 (文春新書)
表紙裏
昭和13年、ナチスに追われたユダヤ人を満州に逃がした陸軍軍人・樋口季一郎。5年後、戦局が傾く中、今度は司令官として非情の決断を迫られる・・・・。運命に翻弄されたヒューマニストの生涯を追い、戦場における生と死のドラマを描く力作評伝
序章
日本人によるユダヤ人のもう1つの救出劇が1938年、満州で樋口季一郎特務機関長によって行われていた――オトポール事件
5年後の1943年、月寒の北方軍司令部では傘下のアッツ島部隊が米軍の上陸部隊と交戦、増援を大本営から断られた樋口は、自らの名前で現地に打電しながら号泣していた
2600名の将兵は見殺しにされ、「玉砕」という言葉が用いられた最初の戦いとなった
第1章
オトポール事件の発生
1938年、満州国西部の満州里駅の対岸に位置するソ連領オトポールにナチスに迫害されたユダヤ人の姿が現れた
ドイツからの難民はまずポーランドを目指したが、ドイツの目を恐れたポーランドは受け入れに難色を示し、次に向かったのはソ連。シベリアの開拓に本腰を入れていたソ連は一旦は入植を許可、「ビロビジャン」と呼ばれるユダヤ人入植地の設置を開始、1934年には自治州が正式に発足、世界各地からユダヤ人移住者が集まったが、ほどなく農作業が全くできないことが判明、途端にその後の滞在を拒否し彷徨が始まる。そんな彼らがオトポールに集まり出した。オトポールはシベリア鉄道ザバイカル線のソ連内の終着駅
ユダヤ人は、満州国を通って、当時世界でただ1つユダヤ人難民をビザなしで受け入れている上海経由で、アメリカやオーストラリアに渡ろうとしていた
満州国は、日中和平交渉の仲介役をドイツに期待していたことからドイツに気兼ねして、ビザの発給を拒否
樋口に働きかけたのがハルビン・ユダヤ協会会長のアブラハム・カウフマン。ソ連のユダヤジン定住地区で生まれたカウフマンは1912年からハルビンに住みシオニズム運動に積極的に関与
ハルビンは帝政ロシアが鉄道建設と中国進出の拠点として整備した都市で、時の大蔵大臣ウィッテは極東ロシアの経済振興を最優先に、大規模な資本を有するユダヤ企業に対し寛容な態度をとった結果、ユダヤ資本はこの地域の経済発展に重要な役割を果たしたため、ロシア本土ですでに制度化されていたユダヤ人差別がここではほぼ存在しなかった
日露戦争の際には多くのユダヤ人が流入、8000人にものぼり、さらに革命時にも増え続け、1920年には1万人を超え、満洲国建国時には15千人を超えた
ユダヤ人口増大でカウフマンの地位も上がり、ユダヤ人問題が発生すると彼の意見を聞いていた。アジア地域におけるユダヤ人解放運動の実力者として名を上げる。大の親日家
l 第1回極東ユダヤ人大会
1937年カウフマンからの要望に樋口が応える形で、ハルビンで開催
ユダヤ人との交渉にあたったのは、樋口と陸士同期でユダヤ問題のエキスパート安江仙弘(のりひろ)やハルビン憲兵隊本部特高課長の河村愛三少佐
大会当日、樋口は平服で来賓として臨み、ナチスを批判し、ユダヤ人の立場を擁護
関東軍司令部の内部からは峻烈な批判の声が相次ぐが、懲罰問題には発展せず
l 樋口の決意
カウフマンは、オトポールの難民の救助を樋口に強く求める
本来であれば満州国外交部が動くべき案件だが、樋口は人道上の観点から早急に動くべきと判断し、満州国の外交部のハルビン駐在員下村信貞に対し、難民受け入れに向けた事態の改善を強く指示するとともに、以前から面識のあった満鉄松岡洋右総裁に、救済のための特別列車を出すよう要請
満州国はほぼ無条件で5日間の滞在ビザを発給――杉原ビザの2.5年前の出来事
第2章
出生~インテリジェンスの世界へ
1888年淡路島の小さな漁村の生まれ(以下Wikipedia参照)
淡路島には淡路人形浄瑠璃という伝統芸能があり、季一郎も少年時代には、「将来淡路浄瑠璃の人形遣いになる」との希望を抱いたこともあって、生涯を通じて芸術に強い関心を示し、ヨーロッパ駐在中はオペラ鑑賞にも足繫く通ったという
1907年、中央幼年学校卒業後、上等兵として東京の第1師団歩兵第1連隊へ配属。成績上位12番までは本人の希望で配属され、季一郎は9番。石原は成績は良かったが教官の評判が悪く13番で山形へ
この時期、子どものいなかった樋口勇次の養子となり、同家が美濃大垣藩の武術指南役だったことから、以後、岐阜県士族という家柄になる
中央幼年学校卒業生は、任地で伍長に昇進し、陸軍士官学校に入学
1909年第21期卒業時の成績は、歩兵335名中の17番、1位は飯村穣、石原は7番
卒業後は原隊に復帰、半年の見習い期間が終了すると少尉に任官
1914年、勇次の同僚の娘、丸田静子と結婚。静子は府立第三高女卒
1915年、2,30倍の難関を突破して陸軍大学校入学。石原や3浪の阿南と同期。年限3年。陸大卒でなければ省部(陸軍省、参謀本部、教育総監部)は難しい。その年養父急逝
1918年、陸大第30期卒。首席は後の陸軍中将、鈴木率道。航空隊の発展に尽力したが、東條に疎まれ不遇のうちに没する。陸大卒業生は菊花と星を象った徽章が授与されるが、江戸期の100文銭に似ているところから「天保銭組」と呼ばれ、それ以外の「無天」と陸軍内でよく対立
1919年、大尉に昇進し参謀本部付きとなり、第4課2部のロシア班に属し、東外大夜間部でロシア語を勉強
l ウラジオストック派遣軍司令部付
1919年末、ウラジオへ特務機関員として異動。シベリア出兵以後4個師団が駐屯
共産主義の台頭に対抗して、ロシア語の新聞を発行するが、その主筆となる
l ハバロフスク時代
半年ほどでハバロフスクへ異動、第14師団司令物情報参謀だが、特務機関長に昇進
国家としてのロシアは危険視したが、ロシア人とは親密な交際を広げ、善人だと評した
1922年、第14師団撤退と、ロシア国内の共産勢力と反共勢力との戦い慢性化から反共勢力の劣勢が明らかとなり排日運動も激化、特務機関自体の撤退が決まり、日本に戻る
l 家庭の中での樋口
池尻に家を借りたが、震災の被害は免れる
直後に朝鮮軍参謀となり、一家でソウルへ。対露諜報活動を担当
第3章
ポーランド駐在~相沢事件
l ポーランド公使館付武官
1925年、ポーランド駐在武官少佐としてワルシャワへ赴任、対ロシア研究における最重要ポストであり、出世コース。ポーランド語には手を焼いたが、フランス語を習得
l 社交界での振る舞い
様々な情報が飛び交う空間としての舞踏会を積極的に活用、ダンスのレッスンを受けたり、オペラも鑑賞し絵をもかくなど、西洋文明に対してもおおらかな柔軟性を持っていた
当時としては珍しく、妻を呼び寄せ。子どもは養母の下に残る
l コーカサスへの旅
外国人の入国を厳しく管理していたソ連に、草の根ルートを開拓して侵入に成功、1928年にはコーカサスからウクライナまで1カ月にわたり視察。東外大夜間部で一緒にロシア語を学んだ秦彦三郎が陸大31期卒後ソ連駐在武官補佐官として勤務、樋口に同行
l 青島時代
1928年、ポーランドから帰国し、静岡の歩兵第34連隊付となるが、1カ月で青島へ
第3次山東出兵に伴い在留邦人保護のための増派部隊の一員として派遣されたが1年で帰国、静岡で家族そろって暮らす。任務は連隊の教育係
l 新聞班に転任
1929年、東京に戻って陸軍省の新聞班の次席として誕生後間もない班の組織作りに励む
l 東京警備司令部参謀
1930年、かつて参謀本部で仕えた橋本虎之助少将に招かれて警備司令部に呼ばれる
関東大震災に特設され、一旦廃止された後後継組織として出来たもので、樋口の任務は首都の防衛計画策定だったが、樋口は民間の啓蒙宣伝を重視し、自ら講演して回る
満州事変勃発に際しては、これ以上支那人と争わないという目的で起こしたものと理解を示したが、思想宣伝を先行させるべきだったと批判もしている
l 桜会
1930年、参謀本部ロシア班長だった橋本欣五郎中佐が首唱者の桜会の発起人の1人に
政党政治の腐敗を非難、農民窮状を訴え、満蒙問題に解決の活路を求め、軍事国家化と翼賛議会体制への改造を目指す結社だったが、樋口中佐の役割は血気にはやる青年将校たちに軽率な行動を控えるよう抑えること
急進的な橋本の主張に対し、樋口は警備司令部参謀の立場から反対の立場を表明したため喧嘩別れとなり、10月事件で橋本のクーデター計画が表面化し、橋本らは一斉検挙
l 統制派と皇道派
統制派は、永田鉄山や渡辺錠太郎らをリーダーとし、天皇機関説を軸として軍部が合法的に権力を手にした上で、列強並みの総力戦体制を確立することを目指し、軍中央のエリート幕僚が多く集まる。樋口も統制派に数えられる
皇道派は、小畑敏四郎や荒木貞夫のもと、若手士官が集まり、天皇親政での世直しを掲げ、観念的で過激で、非合法にでも権力を握ろうとした
l 相沢三郎
相沢は1889年白河の生まれ。仙台幼年学校で石原の1年後輩。伊達藩士の家系。士官学校卒。1931年歩兵第5連隊大隊長
相沢が北一輝を樋口に紹介。樋口は北に、天皇の軍隊を革命の道具に使うなと釘を刺した
樋口の主張は、「本務は国家改造に先行する」
l 福山へ赴任
1933年、大佐になって関東防空演習を準備した後、福山歩兵第41連隊長。上司は第5師団長小磯国昭。相沢が連隊付として着任、樋口の補佐となるが、樋口は相沢の「革新熱」に批判的
l 大亜細亜協会
欧米の脅威に対するアジアの自立を謳った大亜細亜主義運動にも、協会幹事として参加
樋口の考えは、「日支親善も日露親善も、日満関係の調整の結果として必然的に好転すべき」だとし、「大亜細亜主義の根本は畢竟日本そのものの調整に外ならない」とまで断定する
l 相沢事件
1935年、ハルビンの第3師団司令部参謀長へ異動。同時に樋口は相沢の熱を覚まさせるために外地赴任を進言し、台湾の歩兵連隊に異動させる
樋口の離任3日後に相沢事件勃発。皇道派の真崎教育総監更迭を、統制派の永田の陰謀だとした皇道派が決起し、相沢が凶行に及んだ
つい先日まで自分の部下だった相沢が、しかも満州行きを希望していながら台湾へ異動させられたことへの不満も関係しているとあって、樋口は自責の念に駆られ陸軍大臣宛に進退伺を出すが、師団長の小磯が握り潰す
l ドイツ視察旅行
ハルビンでは、排日的な傾向の強い匪賊への対策に奔走したが、翌年所属する第3師団は名古屋へと帰還。家族と名古屋に暮らす
1937年、帰京。参謀本部付となり、モスクワ、ワルシャワ経由ドイツ視察旅行に出る
出迎えたのがドイツ駐在武官の大島浩少将。大島は翌年予備役となりドイツ大使に任命
大島の広いドイツ人脈を使ってナチスの発展ぶりを目の当たりにする
第4章
オトポール事件とその後
l 少将に昇進
樋口が盧溝橋事件を知ったのはまだドイツ旅行中で、急遽海路帰国の途に就く
帰国途上で、少将と関東軍司令部付としてハルビン特務機関長の辞令を受け取る
l ハルビンへ出発
関東軍は本部の不拡大方針に反して積極的な動きを止めない中、ハルビン特務機関での軍務を開始
l 数字の信憑性
1938年、オトポール事件
事件は3月に起こったが、8カ月後の「水晶の夜」の体験者がいるとの記録があり、3月以降も「ヒグチ・ルート」として大勢のユダヤ人がこのルートを利用したことが考えられる
総勢2万とも3万ともいわれるが、正確な記録はない
l 亜細亜旅行社(現JTB)の資料
実際に車両の手配などに奔走した亜細亜旅行社の社内報には、推定100~200名との記録があり、その後も難民は増え続け、'40年には3574名に急増したが、そのうちユダヤ人がどのくらいいたかは不明だし、それ以降の記録もないまま、’41年のドイツのソ連侵攻でルートは閉鎖されたと思われる
樋口の手書きの回想録には「何千人」とあるが、出版の際なぜか「2万人」と書き換えられているのも謎
l ユダヤ人利用論との関係
日露戦争でアメリカのユダヤ資本の対日協力が日本の戦勝に大きく貢献したことから、ユダヤ人受け入れに抵抗のない日本では、ユダヤ人を自国のために利用しようとする意見があり、満州国でもユダヤ人資本を入れた上でアメリカ、ユダヤとの戦略的三角関係を夢想していたところから、樋口のオトポールの決断にもその影響があったという
1938年末、公式のユダヤ政策が5相会議で「ユダヤ人対策要綱」としてまとめられ、「ユダヤ人は排斥せず、招致はしないが資本家や技術者など利用価値あるものは例外とする」としているが、その決定は事件の大部後の事
ユダヤ人の満州への移住計画である「河豚(ふぐ)プラン」との関係でも、ユダヤ人のことを味はいいが猛毒を持つ河豚に譬えて言及されたもので、プラン自体の公式な存在には疑問があり、計画自体は在野に鮎川義介などが唱えていたが本格的に動き出したのは事件以後
樋口自身も回想録で、「ヒットラーのユダヤ人追放に反撃を加えたのは、純粋に私の人道的公憤に基づくもの」としながら一方で「日露戦争の恩返し念頭に、極東において対ユダヤ関係の緊密化を希望」と矛盾した内容も綴ったあと、原文ではすべて斜線で削除の指示が出ている。書いた意図も消した意図も不明にも拘らず、そのまま活字になってしまった
後日ドイツ政府から正式に抗議が来て、外務省から陸軍省、関東軍へと回付され、樋口処分の声が高まる中出頭した樋口は東條参謀長に向かって、「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることを正しいと思うか」と詰め寄り、東條も理解を示して不問に付した
事件は家族も知らず、1970年死去した際の朝日新聞の評伝で初めて公にされた
l ゴールデンブック
イスラエルがユダヤ人に対する功労者を顕彰する最高栄誉とされユダヤ民族基金JNFが作成する『ゴールデンブック』という献金記録簿(第1回は1901年、現在26巻まである)には、樋口、カウフマン、安江の名が並ぶ。ハルビンの極東ユダヤ人協会が'41年に彼らの名前で寄付をしたためで、エルサレムでも樋口より杉原の知名度が高かった
第5章
アッツ島玉砕
l 参謀本部第2部長
1938年7月、参謀本部第2部長に任命。「情報」担当
中国の和平派「汪兆銘工作」は、軍務課長の影佐禎昭(谷垣禎一の祖父)が中心となって進められた日中和平工作だったが、離任後の’40年新政府は設立したものの重慶の蒋介石との和平は不調のまま
l 三国同盟締結
1939年、ノモンハン事件、独ソ不可侵条約、ドイツのポーランド侵攻と続く
10月、中将に昇進、金沢の第9師団長に転補
‘40年9月、三国同盟締結により、ユダヤ人利用論は失速。樋口の第9師団は満洲防衛の第一線に立つため渡満、第3軍隷下となり、牡丹江に駐屯
l 真珠湾攻撃
1954年記述された樋口の感想。出張途上で、皆で万歳を三唱し乾杯したが、家に帰った夕食は不味く、酒も喉を通らなかった
l 北部軍司令官に着任
‘42年8月、北部軍司令官として月寒に着任。2か月前アルーシャン列島のアッツ島とキスカ島を占領
l アッツ島の戦備
アッツ・キスカへの補給に海軍が船舶の不足を理由に消極的――両島は大本営の直轄だが、補給は北部軍司令部の担当
アッツには1143名、キスカには3000名弱が駐留――米ソの連携の遮断、アメリカの侵入防禦、カムチャッカ攻略の基地などの目的だったが、厳寒の地で絶対的に兵力が不足
l 戦備の調査
着任直後の「北方調査団」の報告で、アメリカ軍の両島奪回作戦が明らかとなり、両島を北部軍の指揮下に移して防衛部隊を増強
l 北方軍に改組
北部軍は北方軍に改組され、西部アリューシャン列島の確保が命じられ、アッツ・キスカ両島に兵力が重点配備されたが、航空兵力はほとんどなし
l アッツ島上陸作戦の開始
アッツ島の防御態勢を整える前に米軍が制海権を獲り、’43年5月米軍の上陸作戦開始
2600の守備隊に対し米軍兵力は1万超。日本側は水際作戦を取り、敵の上陸時の殲滅を狙う。すぐに4700名の増援部隊を派遣、米軍の挟撃を図る
開戦8日後、大本営は増援放棄を指示、樋口はキスカ撤退を条件に指示を呑む
l アッツ島玉砕
さらに10日後の電報を最後に突撃を敢行
樋口は「最初の玉砕戦の司令官」との汚名を背負う
日本側の戦死者は2638名、米軍捕虜となって戦後帰国できたのはわずかに1%のみ
‘41年月寒に建てられた北部司令官官邸は、現在「つきさっぷ郷土資料館」として維持。樋口自身が着用していた軍服が勲章を取り外して着せられた等身大のマネキンが立つ
l キスカ撤退作戦の開始
陸軍2700名と海軍2500名の撤退だが、制海権も制空権も米軍に握られた中、最初は潜水艦での救出で800名ほど帰還したが、途中で阻止され、巡洋艦に切り替え濃霧を待ってキスカ島に突入、兵器を遺棄・放棄して、5183名が無事に千島に帰還を果たす
幾重にも幸運が重なった結果、奇跡的な成功を収めた――濃霧や米軍の誤爆、同士討ち
帰還部隊は、その後千島第一守備隊の根幹兵力となる
l 合同慰霊祭
9月、札幌中島公園で合同慰霊祭挙行、白木の棺が並べられたが遺骨は入っていない
札幌護国神社境内には「アッツ島玉砕雄魂之碑」が立つ
樋口の頼みで、アッツ島玉砕の英霊を慰霊するために、藻岩山に近い住宅地に日蓮宗の無量寿山・常不軽寺が開かれ、玄関先に高さ7mの「大東亜戦争諸霊位追善菩薩」の碑が立つ
軍司令部が唯一の檀家だったため、終戦で全てを失うが、托鉢で浄財を集めながら存続
第6章
占守島の戦い
l 東條との再会
‘44年3月、北方軍は新たに第5方面軍に改編され、樋口は新方面軍司令官に親補され、宮中に参内し、東條と6年ぶりの再会を果たす
‘45年初、本土決戦計画を決定し軍の大幅改編を行い、樋口は北部軍管轄区司令官を兼任、総兵力は7個師団、4個旅団の計23万で、北千島、樺太、北海道の防衛を担う
樋口は全体を俯瞰して、2個師団2個旅団約5万を内地防衛のために拠出
l 対ソ戦開始
ソ連が、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しを条件に対日参戦
総勢160万ともいわれるソ連軍が一斉に各地で侵攻を開始
8月14日22:00参謀長からポツダム宣言受諾を聞かされる
不思議と何らの感懐も湧かず、敗れる者が敗れたと当然のことと感じた
l 終戦後の戦い
終戦に関する師団命令は17日の午後、交戦中の連隊にまで達し、現地軍は戦闘を中止
撤退命令とともに、自衛目的の戦闘行為についても18日午後4時までと徹底したが、樺太での戦闘は終わらず。さらにソ連軍最高統帥部は千島、南樺太への侵攻作戦を発令
18日未明、千島最北端の占守島への奇襲上陸開始、樋口は徹底抗戦を指示
大本営はマッカーサーを通じて停戦交渉するが、ソ連は拒否。日本側は午後4時で武器を置いたが、まだ戦闘は続き、最終的に21日に停戦成立
戦闘には勝利したが、武装解除に応じるほかに手はなかった
占守島の戦闘で日本軍の実力を体感したソ連首脳は以後日本に対して慎重な姿勢を見せ、その隙に米軍が北海道に進駐。占守の反抗が日本の国の形を守ったと言える
最終章 軍服を脱いで
l 朝里へ
1945年10月参謀本部廃止、11月陸軍省廃止。樋口は札幌で復員監として復員業務に従事、翌年春無官になり、小樽の朝里の知人宅に移る
樋口に対し、札幌駐屯のアメリカ軍CICから、捕虜虐待につき尋問があり、虐待がなかったことが立証され、逆に樋口に対しアメリカ軍の特別顧問の要請があったが断る
東京裁判では東條の証人の1人として7番目の出廷を要請されたが、未実現に終わる
樋口の東條評は、「善悪については善、賢愚については愚に属すべし」とした
ソ連からの戦犯引き渡し要請が来た時、樋口を救ったのがユダヤ人脈で、ニューヨークの世界ユダヤ協会がソ連の要求を拒否するようアメリカ国防総省に強く訴えた
1948年には宮崎に移り、養鶏と畑仕事をしながら晴耕雨読の日々を送る
晩年は文京区白山の自宅で静かに暮らす
1970年、日本イスラエル協会から名誉評議員の称号を贈られる
同年自宅で老衰で死去、享年82
iRONNAアーカイブス(産経?) 2020/8/15
17:23
※オピニオンサイト「iRONNA」に掲載された論考です。肩書などは当時のものです。
早坂隆(ノンフィクション作家)
令和2年は戦後75年という一つの重要な節目である。私はこれまで約20年にわたって昭和史に関する取材を続けてきたが、「日本の軍人の中で今、最も語り継ぐべき人物は?」と聞かれたら、樋口季一郎の名前を挙げたい。
旧陸軍中将、樋口季一郎の存在を知る人は近年、増加しつつある。樋口の功績を知れば、「こんな人がいたのか」と驚くのは当然のことだろう。令和2年が「没後50年」にあたることもあり、その再評価は着実に進んでいる。
しかし、一般的に言えば、まだまだ知名度は決して高くない。樋口は戦後社会の中で「埋もれた存在」とされてきたのである。
昨今、杉原千畝の名前は、かなり知られるようになった。1940(昭和15)年、リトアニア駐在の外交官だった杉原は、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に対して日本通過ビザを発給。約6千人もの命を救ったとされる。戦後、杉原の功績は「命のビザ」として知られるようになり、近年では映画化もされた。
実は「日本人によるユダヤ人救出劇」はもう一つ存在した。その中心的な役割を果たしたのが、樋口である。
樋口は1888(明治21)年、兵庫県の淡路島で生まれた。陸軍士官学校、陸軍大学校を優秀な成績で卒業した樋口は、対ロシアを専門とする情報将校として、極東ロシアやポーランドに駐在。「インテリジェンス」の最前線で情報収集などに尽力した。
1937(昭和12)年には満州のハルビン特務機関長に就任。「ソ満国境のオトポールという地に、多数のユダヤ難民が姿を現した」という知らせが樋口のもとに届けられたのは、38(同13)年3月のことであった。
満州国はユダヤ難民へのビザの発給を拒否していた。当時の日本はドイツと親密な関係にあったが、満州国外交部は日独の友好に悪影響を及ぼすことを不安視したのである。その結果、ユダヤ難民たちは酷寒の地での立ち往生を余儀なくされていた。
ポーランド在住経験のある樋口は、ユダヤ人問題の存在を深く理解していた。樋口は「人道的見地」から、直ちにビザを発給するよう満州国外交部に対して指示した。
さらに樋口は、南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁の松岡洋右のもとを訪ね、難民を移送するための特別列車の手配を要請した。松岡はこの申し出を受諾した。
日本側の多くの決断と努力により、ユダヤ難民へのビザの発給は実現した。その後、この「ヒグチ・ルート」を利用して、多くのユダヤ難民がナチスの弾圧から逃れることができた。杉原の「命のビザ」の2年も前の話である。
この救出劇は舞台となった地名から「オトポール事件」と呼ばれる。このオトポール事件に対しては後日、ドイツ外務省から日本政府に対して正式に抗議が伝えられた。関東軍内でも、樋口に対する非難の声が上がった。
樋口は新京の軍司令部に出頭。樋口は関東軍参謀長の東條英機に対して、次のように言い放ったという。
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか」
東條は「当然の人道上の配慮」として、樋口を不問に付した。
杉原の功績が広く語り継がれたのに対し、オトポール事件はなぜ埋もれた存在になってしまったのか。それは杉原が外交官であったのに対し、樋口が軍人だったことが最大の要因であろう。
戦後日本に定着した「日本軍=悪」という偏向した前提の中で、樋口の功績は埋没した。しかし、歴史的評価というのは、あくまでも史実に基づきながら、是々非々で捉えていくべきであろう。
ソ連の侵攻に「徹底抗戦」
樋口の功績はそれだけにとどまらない。むしろ以下に語る史実こそ、樋口が真に語り継がれるべき最大の要因とも言える。
終戦後、旧ソ連軍が千島列島に侵攻。旧ソ連の最高指導者であるスターリンは、千島列島から一気に北海道まで軍を南下させ、釧路と留萌を結んだ北海道の北半分を占領する考えを持っていた。
このとき、「北の備え」である第5方面軍司令官だったのが樋口その人であった。日本はすでに国家として降伏を受け入れていたが、樋口は旧ソ連軍の侵攻に対する戦いを「自衛戦争」と断定した。
そして、千島列島北東端に位置する占守島の守備隊に「徹底抗戦」を命じた。一時は終戦の報を聞いて、「故郷に帰ったら何をしようか」などと笑みを見せながら話し合っていた兵士たちが、再び銃を取った。
結果、占守島の守備隊は多くの犠牲者を出しながらも、旧ソ連軍の侵攻を見事に食い止めた。この戦いにおける日本側の死傷者は600~1千人。対する旧ソ連側の死傷者は1500~4千人に及んだ。占守島で旧ソ連軍が足止めされている間に、米軍が北海道に進駐。スターリンの野望はこうしてくじかれた。
この占守島の戦いがなければ、北海道は旧ソ連によって分断統治されていた。日本がドイツや朝鮮半島のような分断国家となる道から救ったのだ。小さな孤島での戦いであったが、日本という国家にとっては極めて大きな意味を持つ戦闘であった。
にもかかわらず、現在の日本においてその存在は北海道民でさえも十分に認知しているとは言い難い状況にある。このような歴史教育で本当によいのだろうか。
占守島の戦いを指揮した樋口に対しては戦後、旧ソ連から「戦犯引き渡し要求」がなされた。これをロビー活動によって防いだのは、かつて「ヒグチ・ビザ」によって救われたユダヤ人たちであった。
『22-04 [新版]日本国紀』(百田尚樹著)のネット検索過程で表出
産経新聞 正論 2017/9/26 12:30
杉原千畝は有名なのに…樋口季一郎中将はなぜ忘却されたのか
新潟県立大学教授・袴田茂樹
9月初め、露ハバロフスクに近いユダヤ自治州ビロビジャンのユダヤ教会を訪問した。スターリン時代にユダヤ移住地に指定された自治州は、実際は辺鄙な「幽閉地」で、移住したユダヤ人も殆ど逃げ、人口の2%以下だ。
教会内展示室には、1940年に「命のビザ」で多くのユダヤ人を救ったリトアニア領事代理の杉原千畝の写真もあった。
l パターン化された歴史認識
教会の案内人に、では杉原以外にも、38年にソ連・満州国境で、ナチスの弾圧を逃れソ連を通過した数千人のユダヤ難民を救った日本人がいるのをご存じかと尋ねたら、全く知らないと言う。
樋口季一郎中将(1888〜1970年)のオトポール事件のことで、彼の名はユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」にも載っている。わが国でも、樋口を知っている人は少ない。露でも日本でも政治により戦前の歴史には蓋がされて、国民にリアルな現実認識がないからだ。このような状況下で、今日また深刻化した戦争や平和の問題が論じられている。
近年、冷戦期に二大陣営の枠組みに抑えられていた民族、宗教、国家などの諸問題が、国際政治の表舞台に躍り出て、混乱と激動の時代となり、世界の平和と安定の問題が喫緊の課題となっている。
われわれ日本人がリアルな現実認識を欠き、パターン化した歴史認識のままで、複雑な戦争や平和問題を論じ安保政策を策定するのは危険である。一人の日本人による満州でのユダヤ難民救済事件を例に、歴史認識のパターン化について少し考えてみたい。
樋口は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸大卒の超エリートだ。戦前の陸大は東京帝大より難関とされた。1938年のユダヤ難民事件のころ彼は諜報分野に長けた陸軍少将で、事実上、日本の植民地だった満州のハルビン特務機関長であった。同機関は対ソ諜報の総元締で、樋口は日本陸軍きってのロシア通だった。
l 捨て身でユダヤ難民を助けた
38年3月10日、彼は満州のユダヤ組織代表、カウフマンから緊急依頼を受けた。ソ満国境のオトポールにたどり着いた多数のユダヤ人が、満州への国境通過許可がもらえず、酷寒の中で餓死者、凍死者も出る事態になっており、すぐにも彼らをハルビンに通してほしいとの必死の依頼だ。
当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでおり、ナチスに追われたユダヤ人を満州に受け入れることは、日本の外務省、陸軍省、満州の関東軍にも反対論が強かった。しかし緊急の人道問題だと理解した樋口は馘を覚悟で、松岡洋右満鉄総裁に直談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車がハルビンに到着した。
案の定、独のリッベントロップ外相から外務省にこの件に関して強い抗議が来た。樋口の独断行為を問題にした関東軍の東条英機参謀長は、新京の軍司令部に樋口を呼び出した。しかし強い決意の樋口は、軍の「五族協和」「八紘一宇」の理念を逆手にとり、日露戦争時のユダヤ人の対日支援に対する明治天皇の感謝の言葉なども引き、ナチスのユダヤ人弾圧に追随するのはナンセンスだと、人道的対応の正しさを強く主張した。
樋口の捨て身の強い信念と人物を見込んだ東条は、彼の行動を不問に付すことに決めた。樋口は関東軍や東条の独断専行には批判的だったが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」とも述べている。
l リアルな理解が国際政治の基礎
樋口がユダヤ人にここまで協力したのは、若い頃ポーランドに駐在武官として赴任していたとき、ユダヤ人たちと親交を結び、また彼らに助けられたから、さらに37年に独に短期駐在して、ナチスの反ユダヤ主義に強い疑念を抱いていたから、といわれる。
戦後、ソ連極東軍は米占領下の札幌にいた樋口を戦犯としてソ連に引き渡すよう要求した。その理由は、樋口がハルビン特務機関長だっただけでなく、敗戦時には札幌の北部司令官であり、樺太や千島列島最北の占守(しゅむしゅ)島でのソ連軍との戦闘(占守島でソ連軍は苦戦した)の総司令官だったからだ。
しかし、マッカーサー総司令部は樋口の引き渡しを拒否した。後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口を守るために米国防総省を動かしたのである。
私たちは、同じように日独関係の政局に抗して数千人のユダヤ人を救い、映画にもなった外交官の杉原は知っていても軍人の樋口についてはあまり知らない。それは「将軍=軍国主義=反人道主義」「諜報機関=悪」といった戦後パターン化した認識があるからではないか。ビロビジャンのユダヤ教会も、遠いリトアニアの杉原は知っていても隣の満州の樋口は知らない。露でも「軍国主義の戦犯」は歴史から抹消されたからだ。
私は、リアルな歴史認識こそが国際政治や安保政策の基礎だと思っているので、自身も長年知らなかった事実を紹介した。(新潟県立大学教授・袴田茂樹 はかまだ しげき)
Wikipedia
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[2]。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。
曾孫は現在、ダーツのプロフェッショナルツアーJAPANに在籍する樋口雄也プロである。
第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満州国通過を認め[3]、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路が有名。大戦中はアッツ島の戦い、キスカ島撤退作戦、ソ連対日参戦に対する防衛戦闘(占守島の戦いなど)を指揮した[3]。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
1888年、淡路島にある兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万(あま)村、現:南あわじ市阿万上町字戈の鼻)に父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟(異母兄弟を含め9人)の1人息子として出生。奥濱家は廻船問屋で代々続く地主であったが、明治以降、蒸気船の普及に伴い時代の流れに取り残され、扱っていた千石船の沈没事故もあって父・久八の代で没落した。11歳の時、両親が離婚し、母・まつの阿萬家に引き取られる。
1901年、三原高等小学校2年終了後、丹波にあった旧藩校の名門、私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。1902年、大阪陸軍地方幼年学校を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子(父・久八の弟・勇次が樋口家の婿養子となり季一郎を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。
中学進学は陸軍経理局勤務だった勇次の薦めによる。同中学は軍人志望校として名高く、職業軍人への道を進むことに。寄宿舎に入るが、3年上にいた後に駐米大使として活躍する堀内謙介から人格的に大きな影響を受けたという
幼年学校はエリート将校の早期養成のため1896年東京ほか6カ所に創設され、各校50名、計300名の狭き門で、年限は3年。陸軍内でKD(Kadett:士官候補生)と呼ばれた
卒業時の首席は、後に第4軍司令官となった横山勇で、、季一郎が次席
軍歴[編集]
1905年東京市谷の中央幼年学校入学、年限2年。仙台幼年学校卒で同期同区隊に配属された石原莞爾と親交を結ぶ。2人を接近させた磁力が法華経。外にも2年後輩の岸田國士(今日子の父)とも友人関係に。岸田は親に勘当されながら軍籍を離脱して文学の道へ
1909年、陸軍士官学校(第21期)に進む一方で東京外語学校でロシア語を徹底的に学ぶ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校(第30期)を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年にウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満州、ロシア(ソビエト連邦)方面部署を転々と勤務。
1925年、公使館駐在武官(少佐)としてソ連西隣のポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭(後年の首相)に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。
オトポール事件[編集]
1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下のドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた[4]。
そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。
極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満州鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[5]。
その後、ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、ドイツから満州里経由で満州へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている[6]。ただし、早坂隆によると1941年(昭和16年)の記録がなく、数字のうち少なくない割合でユダヤ人が含まれていると考えられるが、その割合が不明であり累計が2万に到達したかは不明としている[6]。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている[7]。そのほかの証言として松岡総裁の秘書だった庄島辰登は、最初の18人(1938年3月8日)のあとに毎週、5あるいは10人のユダヤ難民が到着し3月-4月の累計で約50人を救ったという[8]。しかし、ドイツへの外交的配慮からか、多数の難民が殺到した際の具体的な人数に関する公的文書は残されていない。[独自研究?]1941年に書かれたKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(KKL-JNF)本部に現存する6冊目の「栄誉の書」には「樋口将軍-東京、在ハルビン極東国家ユダヤ総領事-エイブラハム・カウフマンの銘入り」とその功績が記されている[9]。
「ヒグチ・ルート」で救われたユダヤ人の数は、総数は最大で2万-3万人であった可能性があるとされていた[注 1][注 2]。1939年当時の有田八郎外務大臣の公式見解では「80人強」とされている[11]。 2万人のユダヤ系難民が救われたとも伝えられていた中で、白石仁章はあまりの数の多さに事件の存在自体を疑問視している[12]。 松浦寛はこの2万人という数字は、樋口の回顧録を出版する際の誤植などから流布したものとしている[13]。 早坂隆は、樋口自身の原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記されていたものが、芙蓉書房版の『回想録』にある数字では「二万人」に変わっており、これが難民の実数検証に混乱をきたす原因になっていると指摘している[14]。早坂は上記東亜旅行社の記録の多くがユダヤ人ではないかと考え、数千人と推定している[15]。 松浦寛は当時の浜洲線の車両編成や乗務員の証言から割り出された100-200人という推計[16]を追認している[13][13]。満鉄会では、ビザを入手できなかった厳密な意味での人数は100人程度と推計しているという[17]。
樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと述懐している[18]。
この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いた[19]。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[19]。そんな中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[20]。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした[21]。東条の判断と、その決定を植田司令官も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[22]、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した[23]。
孫の樋口隆一(明治学院大学名誉教授)は2018年6月15日にイスラエルのテルアビブKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund本部において「ヒグチ・ルート」で逃れた生存者カール・フリードマンの息子から「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーに対する前向きな姿勢がユダヤ人救出を可能にした」事により「ゴールデンブック」証書を授与されている[5][9][24]。
ちなみに、樋口に関してよく言及される「ゴールデンブック」とは、パレスチナで土地購入、植林、イスラエル国家の境界線の設定などを主な業務とする組織Keren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(ユダヤ民族基金)が管理する貢献者や献金者の名簿である[25][26][27]。
太平洋戦争[編集]
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦翌年の1942年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。日本軍が重要視していなかったアメリカ領のアリューシャン方面の戦いも、1943年に入るとアメリカ軍が反攻に転じ、激しい争いが行われた。
1943年5月に樋口の指揮下にあった陸軍部隊のうち、アラスカ準州のアッツ島守備隊は玉砕したものの、キスカ島撤退は成功した。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要請に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した[28]。
帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視していた[29]。撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという[28]。
同年10月2日には、札幌三越で開催された「忠烈山崎部隊景仰展」会場を訪問し、藤田嗣治の戦争画『アッツ島玉砕』に見入った[30]。1944年3月10日に、北海道に拠点を置く第五方面軍司令官を務め、南樺太や千島列島を担当地域に置いた。また1945年2月1日には兼北部軍管区司令官に就任した。
対ソ連占守島・樺太防衛戦と戦後[編集]
日本の降伏直前の1945年8月10日、ソ連対日参戦が発生。北方軍を指揮していた樋口は停戦後の8月18日以降、占守島、南樺太におけるソ連侵攻軍への抗戦を指揮し、これを成功させた。
そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。しかし世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救済運動が展開された結果、日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した[31][32][注 3]。
晩年[編集]
1946年に北海道小樽市外朝里にソ連の動きもあり隠遁。さらに1947年に宮崎県小林市(その後、都城市)へ転居する。その後も役職につかず事実上隠遁生活を送り続けた。樋口隆一によると、過去は語らず、アッツ島の絵の前で毎朝、戦死者の冥福を祈っていた[3]。
1970年に東京都文京区白山に転居し、その年に死去した。墓所は神奈川県大磯町の妙大寺。
死後[編集]
樋口季一郎の孫で音楽学者の樋口隆一明治学院大学名誉教授が祖父に関する調査を行っており、日本で講演などを行ったり2018年にイスラエルを訪問したりしている[33]。隆一は24歳まで季一郎と同居していた[34]。同じく孫の篠田江里子(札幌市議会議員)は静かにロシア語の本を読んでいたと回想している[3]。
人物[編集]
橋本欣五郎と共に桜会の中心的人物であったが、意見の相違から喧嘩別れした。また、二・二六事件を起こした青年将校らとも懇意で、武力に訴えて行動を起こすことを諌めていたと言う。さらに、相沢事件が起きたとき、樋口は、永田鉄山を惨殺した相沢三郎の直接の上官であった。血盟団事件では大蔵栄一から血盟団員の古内栄司を匿うよう依頼を受け了承している。
石原莞爾と阿南惟幾とは友人だった。また、ミハエル・コーガンとも親交があった。
安江仙弘らと共に河豚計画を進めるが、シベリア出兵に参加した軍関係者の多くがユダヤ陰謀論に傾くなか、彼は「『排ユダヤ主義』否定だけで十分であろう」という立場であった。彼は、酒井勝軍の日ユ同祖論を一笑に付する一方で、極めて反ユダヤ的な偽書『シオン賢者の議定書』を当初から眉唾物としており、ユダヤ主義とマルキシズムを同一視できないとしている。樋口は、当時の軍人たちが陥った陰謀論、あるいは過度のユダヤ贔屓から離れ、極めて冷静な判断をしている。
年譜[編集]
明治21年 (1888年) 淡路島の阿万村に生まれる(旧姓奥浜)
明治34年 (1901年) 三原高等小学校2年終了後、篠山の私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。
明治35年(1902年)9月 - 大阪陸軍地方幼年学校に入校。
明治42年(1909年)5月 - 陸軍士官学校卒業(21期)。
大正7年(1918年)11月 - 陸軍大学校卒業(30期)。
大正8年(1919年)7月 - 陸軍歩兵大尉に進級、参謀本部附勤務。
12月 - ウラジオストク特務機関員として派遣軍司令部附(シベリア出兵)。ロシア系ユダヤ人ゴリドシュテイン家の一室に住む(同家はキャディラックを扱う貿易商)。
大正9年(1920年) - ハバロフスク特務機関長として孤立(無責任な上層部への義憤)。
大正11年(1922年)4月 - 参謀本部部員。
大正13年(1924年)8月20日 - 陸軍歩兵少佐に進級[35]。
大正14年(1925年)5月 - ポーランド公使館附武官。ウクライナほかを視察。
昭和3年(1928年)2月 - 中華民国山東省青島に駐留。歩兵第45連隊附。
7月 - 帰朝。
昭和4年(1929年)8月 - 技術本部附(陸軍省新聞班員)。
昭和5年(1930年)8月1日 - 東京警備参謀。
昭和8年(1933年)
8月1日 - 歩兵第41連隊長(福山)。
昭和10年(1935年)8月1日 - ハルビン第3師団参謀長。
昭和12年(1937年)3月1日 - 参謀本部附(ナチス・ドイツの首都ベルリンへの出張)。
12月26日・27日 - 第1回極東ユダヤ人大会がハルビンで開催。
昭和13年(1938年)
3月 - ユダヤ人難民事件(オトポール事件)。
7月15日 - 参謀本部第二部長。
12月 - ユダヤ人対策要綱。汪兆銘を重慶から脱出させ、1939年5月、ハノイ経由で東京に迎えた。滝野川の古河虎之助男爵別邸に匿う(日中戦争の和平工作)。
昭和14年(1939年)
5月~9月 - ノモンハン事件 停戦努力。「臆病軍人」と呼ばれる。
10月2日 - 陸軍中将に進級。
昭和17年(1942年)8月1日 - 札幌北部軍司令官[1]。
昭和18年 (1943年) - 北方軍司令官として太平洋戦争のアリューシャン方面の戦いを指揮(アッツ島玉砕、キスカ島撤退作戦)。
日本のポツダム宣言受諾後も続いた、8月18日以降の占守島・南樺太防衛戦を指揮。
12月1日 - 予備役編入。
昭和21年(1946年) - 北海道小樽市外朝里に隠遁。
昭和22年(1947年) - 宮崎県小林市(その後、都城市)に転居。
昭和45年(1970年) - 東京都文京区白山に転居し、老衰のため死去。82歳没。墓所は妙大寺(神奈川県大磯町)。
栄典[編集]
位階
勲章等
ドイツ鷲勲章功労十字星章 :1940年(昭和15年)1月18日[42]
顕彰[編集]
樋口季一郎を顕彰して駐日イスラエル大使が寄贈したオリーブの樹の説明パネル(大垣市丸の内公園、2019年2月27日撮影)
平成21年(2009年)12月8日、樋口が岐阜県大垣市に約30年間本籍を置いていたことを知った駐日イスラエル大使から大垣市に対し2本のオリーブの苗木が贈呈され植樹式が執り行われる。また、樋口はユダヤ民族に貢献した人物を記したイスラエルの「ゴールデンブック」にも記載されている[43]。
北海道石狩市に2020年、記念館が開設された[44]。古民家を改築したホテルを経営する江崎幹夫が知人から樋口のことを教えられて敷地内の石蔵を記念館として提供することを決め、樋口隆一に相談して了承を得た[3]。
文献[編集]
著作[編集]
「東京の防空に就て」 『東京の防空 附・各都市防空法』帝国国防協会出版部、1932年5月、1-46頁。 NCID BA45754132。全国書誌番号:47011032。
『アッツ、キスカ軍司令官の回想』芙蓉書房、1971年10月。 NCID BN14143511。全国書誌番号:73005961。
『陸軍中将樋口季一郎回想録』(新版)芙蓉書房出版、1999年4月。ISBN 9784829502266。 NCID BA42001488。全国書誌番号:99095343。
『陸軍中将樋口季一郎回想録』(復刻新版)啓文社書房、2022年9月。ISBN 9784899920809。全国書誌番号:23730569。
樋口自身の直筆原稿との照合の結果、書き換えられている部分があると指摘されており、参照には注意が必要[45]。
『陸軍中将樋口季一郎の遺訓 ユダヤ難民と北海道を救った将軍』樋口隆一編著、勉誠出版、2020年3月。ISBN 9784585222736。 NCID BB30211298。全国書誌番号:23393203。
伝記[編集]
相良俊輔 『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社、1973年4月。
相良俊輔 『流氷の海 ある軍司令官の決断』(新装版)光人社、1988年5月。ISBN 9784769800347。
相良俊輔 『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社〈光人社NF文庫〉、1994年1月。ISBN 9784769820338。
相良俊輔 『流氷の海 ある軍司令官の決断』光人社〈光人社名作戦記 11〉、2003年8月。ISBN 9784769811114。
相良俊輔 『流氷の海 ある軍司令官の決断』(新装版)光人社〈光人社NF文庫 さN-33〉、2010年3月。ISBN 9784769820338。
早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍樋口季一郎』文藝春秋〈文春新書 758〉、2010年6月。ISBN 9784166607587。
木内是壽 『ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝』アジア文化社文芸思潮出版部、2014年6月。ISBN 9784902985665。
将口泰浩 『アッツ島とキスカ島の戦い 人道の将、樋口季一郎と木村昌福』海竜社、2017年6月。ISBN 9784759315493。
将口泰浩 『人道の将、樋口季一郎と木村昌福 アッツ島とキスカ島の戦い』(改題版)潮書房光人新社〈光人社NF文庫 し1270〉、2022年7月。ISBN 9784769832706。
岡部伸 『至誠の日本インテリジェンス 世界が称賛した帝国陸軍の奇跡』ワニブックス、2022年3月。ISBN 9784847071522。
脚注[編集]
注釈[編集]
1.
^ 祖父である季一郎より当時の話を直接聞いていた孫の樋口隆一(明治学院大学名誉教授/音楽学)は、正確な数字は「不詳」との立場であるが、「2万人」という難民の数は極東ユダヤ人協会のアブラハム・カウフマン会長か現場の河村愛三少佐(当時)からの報告によるものとした上で、「1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、近年のドイツの調査では25万人から31万人といわれていますから、二万人という数もあながち荒唐無稽ではありません」[10]と述べている。
2.
^ 他にも小説『流氷の海』(1973年)の作者・相良俊輔が「2万人説」を唱えている。
3.
^ 樋口が終戦前後まで指揮をとっていた部隊内では、捕虜の虐待や戦争犯罪とみなされる事件は一件も起きていない。
4.
出典[編集]
5.
^ a b c 『官報』1942年8月3日 叙任及辞令「昭和十七年八月一日 陸軍中将 正四位 勲一等 樋口季一郎 補北部軍司令官」
6.
^ “ユダヤ難民救った樋口中将 北海道に銅像建立へ実行委設立”. 産経ニュース (2021年12月11日). 2021年12月11日閲覧。
7.
^ a b c d e 外岡秀俊【道しるべ】足元に埋もれた歴史に光『朝日新聞』朝刊2021年5月27日(新・木曜「カルチャー・考える」)2021年6月9日閲覧
8.
^ “ユダヤ難民救う 樋口/
"もう一人の杉原千畝" ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上)” (日本語). 丹波新聞 (2018年10月29日). 2019年4月2日閲覧。
9.
^ a b [1] 満州でもユダヤ難民救出=「ヒグチ・ルート」孫が講演-イスラエル[リンク切れ]
10.
^ a b 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、136-137頁。
11.
^ 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、136頁。
12.
^ 渡辺勝正『真相・杉原ビザ』(大正出版、2000年)213頁。
13.
^ a b Grandson of Japanese General who Saved Jews
Visits KKL-JNF Books of Honor Wednesday, June 13, 2018KKL-JNF
14.
^ 「ウォッカの小瓶と鴨居の小さな水彩画 … 祖父の思い出」『歴史街道』2012年4月号
15.
^ 貴族院第74回予算委員会(1939年)の2月23日の質疑では、有田八郎外務大臣が「何日頃のことかは不明だが、シベリア経由で満州に入ったユダヤ人は80人強、100名には届いていないと記憶している」旨の答弁を行なっている(速記録のp.8最上段中ほど)
16.
^ 『歴史読本』平成25年8月号 白石仁章「樋口季一郎とユダヤ人脈
17.
^ a b c 松浦寛『日本人の〈ユダヤ人観〉変遷史』2016年、72-73頁。
18.
^ 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、138-140頁。
19.
^ 『正論』2016年3月号「忘れられた将軍・樋口季一郎と中国の対日歴史謀略」
20.
^ JTB『観光文化』別冊特集「ユダヤ難民に"自由への道"をひらいた人々」
21.
^ 渡辺勝正『真相・杉原ビザ』大正出版、2000年、218頁。
22.
^ 樋口季一郎 - NPO法人 国際留学生協会 / 向学新聞 より。
23.
^ a b 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、147頁。
24.
^ 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、147-148頁。
25.
^ 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、148頁。
26.
^ 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、149頁。
27.
^ 樋口季一郎物語~中編~[リンク切れ]
28.
^ “4370人のユダヤ難民救済で語り継がれる樋口季一郎陸軍中将”. NEWSポストセブン. 週刊ポスト (2019年8月10日). 2019年4月2日閲覧。
29.
^ 『歴史街道』2012年(平成24年)4月号、PHP研究所、38頁
30.
^ 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、155-161頁。
31.
^ Golden Book KKL-JNF
32.
^ a b 藤井
2019,
pp. 226–236, 第六章
- 陸海軍の確執がもたらした壮大なる破綻 - アッツとキスカの明暗
33.
^ 秦
2005,
p. 737, 第5部 陸海軍用語の解説-さ-三八式歩兵銃(陸軍)
34.
^ 【五感紀行】藤田嗣治「アッツ島玉砕」『北海道新聞』日曜朝刊別刷り2021年5月30日2面に写真で収録された同紙1943年10月3日夕刊記事「名畵に偲ぶ玉碎」による。
35.
^ “「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男”. 読売新聞. (2019年1月27日). p. 3
36.
^ “初の「玉砕戦」司令官/ "もう一人の杉原千畝" 初の「玉砕戦」司令官 樋口季一郎とは”. 丹波新聞. 丹波新聞 (2018年10月30日). 2019年4月2日閲覧。
37.
^ Grandson of Japanese General who Saved Jews
Visits KKL-JNF Books of Honor
38.
^ 戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎 HiramekiTV
39.
^ a b c 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 昭和7年9月1日調73ページに記載。
40.
^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
41.
^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
42.
^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
43.
^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
44.
^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
45.
^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
47.
^ “もう一人の「東洋のシンドラー」: 2万人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将” (日本語). nippon.com. 2021年10月11日閲覧。
48.
^ 「もう一人の杉原」樋口季一郎中将の記念館開館 北海道・石狩 産経ニュース(2020年9月15日)2021年1月14日閲覧
49.
^ 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文藝春秋〈文春新書〉、2010年、138-140頁。ほか
コメント
コメントを投稿