断面 北の昭和史  北海道ノンフィクション集団  2022.10.9.

 

2022.10.9. 断面 北の昭和史

 

著者 北海道ノンフィクション集団――1980年、合田一道、菊池寛、脇哲、沖藤典子、川嶋康男の5人で結成。’82年、『凍野の残映 北海道人物誌』を出版。以来メンバーが出入りするなか、『明治・札幌の群像』『異星 北天に煌めく』などを出版

 

発行日           2022.6.15.

発行所           柏艪舎

 

【戦前】

l  二・二六事件 村中孝次大尉の遺書                                            合田一道

はじめに

二・二六事件の首謀者として処刑された19人の中に、旭川出身の村中大尉がいる事件の歴史的評価は定まっていないが、中心人物だった村中の膨大な遺書を読み解いてみる

文中の資料は、『二・二六事件 獄中手記・遺書』(河野司編)

 

村中は1903年旭川生まれ。札幌一中から仙台陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校卒。少尉任官と同時に旭川歩兵第27聯隊付となり、'28年中尉に昇進、陸軍士官学校予科の区隊長になる。逸材とうたわれ、陸軍大学校から'34年大尉に昇進、歩兵第26聯隊大隊副官

一死報国の気概で戦線に立つ兵士の親元である農山漁村や小商工業者の疲弊しきった姿を部下から聞いて最も不満を抱き、兵農一致こそ重要だと考える

1931年陸軍内部で3月事件、10月事件と相次ぎ、翌年は血盟団事件、五・一五が発生して国家刷新への動きが台頭

村中ら皇道派は、ロンドン条約を統帥権干犯と見做し、国体の本義に悖るものとし、一君万民たるべき皇国本然の真姿を顕現する必要があるとした

北一輝の『日本改造法案大綱』がバイブルとされた

'35年、村中と磯部は陸軍上層部の事なかれ主義と青年将校運動弾圧の陰謀を指摘して「粛軍に関する意見書」を頒布したため免官となり軍籍剥奪

直後に相沢中佐による永田軍務局長斬殺事件勃発

1224日、村中ら同志は北一輝邸にて決起趣意書を起草

'36226日、麻布歩兵第1、第3聯隊、近衛歩兵第3聯隊第7中隊の兵士約1500人が決起、栗原中尉率いる第1聯隊が永田町の総理官邸を襲い、岡田総理と間違えて予備役大佐を殺害、丹生中尉率いる部隊が陸軍大臣官邸を占拠、安藤大尉率いる歩兵第3聯隊が鈴木貫太郎侍従長を襲撃するが留めは思い止まる、坂井中尉率いる部隊が斎藤実内大臣を殺害、高橋少尉らの率いる部隊が渡辺錠太郎教育総監を殺害、中橋中尉率いる近衛歩兵第3聯隊が高橋蔵相を殺害

村中と磯部は香田大尉と共に川島陸軍大臣官邸に至り、大臣に野中大尉を代表とする決起趣意書を朗読、真崎大将らを招致して事態の収拾を要請

午後3時半、軍事参事官らが宮中に駆け付け、荒木大将、阿部信行大将らで、山下奉文少将が条文化したものを川島陸軍大臣に見せてその同意のもとに「陸軍大臣告示」を発表、青年将校の行動が天聴に達せられたとして認めたため、決起部隊はそのまま占拠地に留まる

1師団長は、戦時警備を発する一方、決起部隊を友軍と見做し、軍相互の衝突を避けるよう指示

午後815分、陸軍省は襲撃先と犠牲者名を公表。東京警備司令部は「戦時警備」を命令。海軍省も東京湾、大阪湾の警備につく

27日早朝突然「戒厳令」発出。天皇による「奉勅命令」

 

29日、東京警備司令部の香椎司令官が戒厳令司令部司令官となり、叛徒の鎮圧に乗り出す

28日、陸軍第1師団長から「奉勅命令」が発出され、決起部隊の原隊復帰命令が出るが、決起部隊には届かないまま、原隊復帰に応じようとしなかったことが奉勅命令違反だとされ、逆賊扱いとなり、部隊を率いた20人の幹部を免官処分に

29日、戒厳司令部は武力による鎮圧を開始、「兵に告ぐ」とのビラを撒いて帰隊を促す

2名が自決

64日、東京陸軍軍法会議は免官した13人と村中ら4人の民間人に死刑の判決。第2回判決では80人に禁錮刑を言い渡す

村中は磯部とともに、北一輝や西田税(みつぎ)の軍事法廷での死刑判決を待って処刑

1966年、村中の書いた「同志に告ぐ」の紙片が見つかる――腐敗した国家を改革するため、維新に結び付けようと、身を挺して蜂起した経緯が分かる

かつて軍都と讃えられた旭川の街だが、戦後は軍隊色が拭い去られ、変わって(ママ)陸上自衛隊旭川駐屯地が現存

二・二六事件など一連の将兵が眠るのは港区麻布の賢崇寺の「二十二士之墓」――処刑された19人と自決した2人に相沢中佐を加えた22

かつての処刑場跡には1965年に「二・二六事件慰霊像」が建つ

村中の墓は仙台市。戒名は自性院孝道義運居士

 

l  ソ連船インディギルカ号遭難の謎に迫る                                       北国諒星

宗谷管内猿払村のさるふつ公園に、「インディギルカ号遭難者慰霊碑」が建つ

193912月猿払沖でソ連船インディギルカ号(2690)が遭難、犠牲者は700人以上

ウラジオストク港を出港、シベリアのオホーツク海北端の現マガダン市に向かい、カムチャッカの漁業コルホーズでサケマス漁業に従事していた漁民ら1125人を乗せ(乗員39)、ウラジオストクに戻る途中時化にあって、宗谷郡猿払村浜鬼志別の沖合1.5㎞のトド岩(海馬島)に衝突、800mの浅瀬で座礁。5人が上陸して救助を求める

北海道庁警察部外事課に報告。風速16mの暴風雨で、稚内港にはすべての船が出航できないまま避難、ノモンハン後の敵国船だけに救助出動に躊躇

浜鬼志別の浜には次々に死体と積み荷が打ち寄せられるが手の出しようがない

連絡を受けたソ連大使館は仰天

宗谷岬は最大の難所で救助も難航したが、稚内から3隻の救助船が出動、402人を救助、600700人余りが溺死か行方不明。正確な乗客数は未だに不明

追加で救助された人も含め430人が23日、迎えのソ連船でウラジオへ帰国

戦時中も地元では毎年命日に慰霊祭を催し、33回忌の1971年には樺太を望む丘に慰霊碑建立したのを機会に日ソ交流が盛んになり、友好の輪が広がる

戦後長い年月を経て、事件の背景にはソ連の強制収容所の存在が密接に絡むことが判明

1938年の能登沖・D30号事件は、ウラジオからナホトカへ鰯積み取りのための艀2隻を曳航したソ連舟艇が期間途中に時化で曳航していた鉄鎖が切れて艀が漂流、漁民83人が行方不明に。13日後に能登半島珠洲郡三崎村粟津沖合で発見され七尾港に曳航。救助された44人は翌年連絡船で帰国、船体もソ連側に引き渡し。ウラジオの強制収容所の囚人を内務人民委員部(KGBの前身)経営の漁場で働かせていたものと判明

インディギルカ号は囚人護送船で、1990年に極東の新聞に手記を寄せた生存者の証言では、船には季節労働者と囚人が乗せられ、戦争から外に出ようとした囚人を中に閉じ込め、発砲すらした事実が明らかにされた。事件の真相解明の機運が高まると、猿払の浜で荼毘に付されソ連に引き渡された遺骨はウラジオ近海で海中に投棄されたことも判明、捜査記録も公開されさらなる詳細が明らかに

ロシア極東史が専門の原暉之北大名誉教授の調査結果が2018年北海道新聞に寄稿され、スターリンが大量の労働力確保のために多数の自国民をラーゲリ送りにしていた実態が明るみにでた

 

Wikipedia

インディギルカ号(ロシア語:Индигиркаインヂギールカ)は、旧ソビエト連邦貨客船19391212の未明、北海道猿払村浜鬼志別沖合で座礁沈没。全長80m内外。船名は、シベリア地方のインディギルカ川に由来。

遭難[編集]

シベリアのマガダンからウラジオストクを目指している途中に暴風雨に巻き込まれ、宗谷岬の位置を見誤ったことから漂流。 1212日午前二時頃猿払村の浅瀬に座礁。左舷に穴が開き浸水しながら西北方に押し流された。ここにきてSOS信号が発出されて稚内港から北日本汽船の樺太丸などが出航。樺太丸は現地でボートを出してインディギルカ号の乗客を救助、13日午後までに395人が救助されたほか、7人が海岸に泳ぎ着いたことから猿払村の住民が総出で救出活動にあたった[1]。結果的に子供も含め429名の生存者を救出するものの1214日午前10時時点で海岸で収容された遺体は293人となった。収容できなかった者も含め700名以上が死亡したと思われたが[2]、なぜか正確な乗客数を把握している乗組員は存在しなかった。また、先に救助された船長が「船内にもう残る乗員はいない」と述べたため、船内に取り残された乗客が多数犠牲になったという証言もある。

救出後[編集]

当時、船長や乗客の説明では、乗客は漁期を終えた漁業者であり、カムチャツカ半島から引き上げてくる途中に遭難したというものであった。しかし個々の乗客の素性や目的等、その詳細については明らかにされなかった。前述の船長による乗客の扱いも不審な部分であり、一方、事件を知ったソ連政府は日本政府に対して、船体の所有権を放棄したばかりか遺体の収容は不要、遺品の返還も無用、という異例の連絡を行っている。救助された乗組員らは、当月中に小樽港から離日、ウラジオストクへ向け帰国していった。

猿払村は、1971昭和46年)にオホーツク海に面した場所に慰霊碑を建立するなど、事故後も手厚く遭難者の慰霊を行ってきた。ソ連当局は慰霊碑の建立には協力したものの、冷戦時代に付きものであった派手なプロパガンダはなく、事故に対して比較的冷淡な姿勢を示したことは、長らく事故の詳細と共に謎とされてきた。

謎の解明[編集]

ソビエト連邦の崩壊後の1991歴史学者原暉之は旧ソ連の公文書をひもとき、乗員の多くがコルィマ鉱山などのシベリア地方に点在していた強制収容所グラグ)からの送還者であり、船自体が政治犯および家族の護送船であったとの説を発表している。

記念碑[編集]

前記の通り、1971年に道の駅さるふつ公園近くの海岸に記念碑が建立された。費用は寄付によって賄われ、土台は当時のソ連政府から寄贈されたシベリア産の石材である[3]。道の駅さるふつ公園の敷地には、事件の資料などを展示した「日ソ(ロ)友好記念館」が1972年にオープンしたが、施設の老朽化を理由に2011年に閉鎖・解体された[4]。展示されていた資料の一部は道の駅さるふつ公園の管理棟内に展示されていたが[4]20218月時点では非公開となっている。

余談[編集]

のちにソ連の宇宙開発の第一人者となるセルゲイ・コロリョフはコルィマ鉱山のセヴォストラクに収監中、再審の知らせを受けてモスクワに出頭するためマガダンからこのインディギルカ号に乗船する予定だったが、コルィマからマガダンにコロリョフが到着したときにはすでにインディギルカ号が満員だったため乗船を見送り、難を逃れたという逸話がある[5]

脚注[編集]

1.    ^ ソ連船が遭難、水死・不明七百三十人『東京日日新聞』(昭和141214日)『昭和ニュース辞典第7 昭和14-昭和16年』p739 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994

2.    ^ 三百九十三人の遺体を収容『東京日日新聞』(昭和141215日夕刊)『昭和ニュース辞典第7 昭和14-昭和16年』p739-740

3.    ^ インディギルカ号遭難者慰霊碑 - じゃらんnet

4.    a b おしらせ 日ロ友好記念館閉館について - 猿払村観光協会のブログ(20111117日)

5.    ^ ゴロヴァノフ Ya. K., コロリョフ:事実と神話 (1994), p. 275, ナウカ

 

 

【終戦前後】

l  1945 ウラジオのカミカゼ                             相原秀起(北海道新聞社の記者)

ロシア極東の玄関口ウラジオストクには、浦港と表記され20世紀初頭まで多くの日本人が暮らしていた。ロシア語の語源「ウラディ・ボストーク」は「東を征服せよ」の意

2004年著者が現地で聞いた話では、終戦直後の18日に日本機がウラジオに突入。タンカーを目掛けたが撃墜されたものの、ソ連はウラジオの防空網が破られたことに衝撃を受け、箝口令を敷いて事件を闇に葬ったというが、海中から引き揚げられた機体の一部が「ウラジオのカミカゼ」として現地の太平洋艦隊博物館に展示されている

1990年と'95年に計3回事件を伝える記事が新聞に載る

引き揚げられたパイロットは陸軍少尉で、携行していた「任務書」には、「目を閉じず、停泊している船舶のブリッジに突入する。船舶がいない場合は、最も大きな建物を直撃する」とある

陸軍機で1人乗り飛行機で単独飛行となれば、満洲から飛んだ可能性が高い

終戦後もソ連との戦闘が続いていた満洲では、一部将校が長年の仮想敵国だったソ連軍に降伏することを拒んで、特攻を含む反撃に出たため痛ましい犠牲が相次いだ

これらの調査結果を踏まえ、2010年北海道新聞に「ウラジオでも特攻あった」との記事を掲載したところ、終戦時札幌の丘珠飛行場で働いていた勤労動員の女学生から、引き揚げられたパイロットと同じ「イシハラ」の名の少尉が終戦後に丘珠を飛び立って樺太に向かうのを見送ったとの情報が寄せられた。どこに行って何をするかも知らされず、ただ本人の意思で飛び立って行く将校を、みんなを代表して見送ったという

漸く輪郭を見せ始めたが、事件の真相に一歩でも近づきたい

 

l  北海道独立論を唱えた河野広道博士                                            出村文理

終戦後、GHQは民間検閲支隊Civil Censorship Dept.による検閲を’49年まで続けたが、書籍については’47年まで施行

‘46年、『北海道自由国論』を出版した北海道新聞北方文化室長の河野博士は、帰米2世のあや子夫人と共にCCDの喚問を受ける。同署では、北海道独立論を展開、日本聯邦制を提唱、検閲を通って無事出版、売れ行きも好調だったが、反響は少なかった

独立論と並行して、北海道文化論も展開。移民社会の北海道に本州の文化と異なる新しい文化を構築しようとする思考で、大正末期から今日まで議論が続いている

河野の「自由国論」は、戦前から唱えていた「北方文化の主潮」が言論統制と政府批判不可で表現できなかったことを、GHQによる戦後の言論・表現の自由化を得て表面化したもの

河野博士は、北大における昆虫学研究で高い評価を得るとともに、人文科学の考古学・民族学の研究においても、父の影響を受けて従事、アイヌ文化にも関心を示していたが、戦前治安維持法違反で逮捕され北大を辞職

武田泰淳の小説『森と湖のまつり』の主人公でもある

 

l  北方領土返還運動の先駆け――根室町長・安藤石典(いしすけ)          森山祐吾

根室町(1957年市制)は、敗戦直前まで北海道と千島列島との連絡地点で、北太平洋を防備する日本軍の重要な前線補給基地。終戦の1か月前、米軍機の空襲により170人が犠牲に。翌日の爆撃で市街地はほぼ全滅。1か月後には北方4島も奪われ、安藤町長以下町民は不安と恐怖に戦き、茫然とするばかり

終戦時の千島列島は、根室支庁所管の得撫(うるっぷ)島、占守(しゅむしゅ)島など18島と、根室支庁直轄の歯舞・色丹・国後・択捉の4島があり、直轄4島には7村、17291人の日本人が在住

828日~95日にかけて突如ソ連軍が進駐、日本軍を武装解除し、赤軍司令官の布告が行われる。慌ててた各村長は根室支庁に対応を要請するが、離島とあって対応困難

'4512月、安藤町長はマッカーサー宛に「復帰懇請陳情書」を送り、日本固有の領土たる北方4島のソ連の占領を解き、GHQの管轄下に置くことを要請

'467月、北海道付属島嶼復帰懇請委員会が結成され、安藤が会長として、マッカーサーに再度陳情書提出。これを機に力強い返還要求運動が、全国に広がっていく

南千島4島を日本固有の領土と主張――根拠は1855年の日露和親条約や、1875年の樺太千島交換条約

‘471月には3回目の陳情書提出

'51年、マッカーサーの罷免に際し、吉田茂外相(ママ)とリッジウェイ中将宛に陳情書送付

漁業関係者は、安全操業の暫定協定を優先させるべきとしたが、町長は領土返還を優先

‘55年、ソ連は平和条約締結を前提に、2島返還用意ありとの提案をしてきたのに対し、安藤はあくまで4島返還に固執したが、直後に彼の急逝により返還運動は終わりを告げる

'80年、国会両院において「北方領土の日」設定を含む「北方領土問題の解決促進に関する決議」がなされ、和親条約締結の27日とされた

 

 

【特別寄稿】

l  忠魂碑――道内戦没者の慰霊                                                 井上和男

戦没者追悼式は1963年に始まり、'82年の閣議決定により815日が「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされた

「慰霊」には宗教的な見解が含まれる

「追悼」は宗教的な観念を前提としていない

「顕彰」は、「功績」を前提とするため、何らかの価値観に立って評価している

国内には戦死者の慰霊の宗教上の施設として靖國神社があり、各地にも独自の戦没者招魂の祭祀を執行する護國神社がある

さらには、明治維新以降

の戦争や事変で戦死した地域出身兵士の栄誉を称え追悼する忠魂碑等があり、本書は、道内における忠魂碑の実態を明らかにするもの

北海道では、箱館戦争終結の1869年に建立された招魂社が最初で、1881年内務省指定の函館護國神社と改称、旭川の北海道護國神社・札幌護國神社も指定護國神社となり、地域ごとに合祀の対象は異なるが、札幌には戦後の殉職自衛官も含まれる

忠魂碑・招魂碑等は、幕末期に国事に殉職したものを慰霊・顕彰する目的で建立され、西南の役で広がり、日露戦争後は夥しい数に上る

戦後の国家神道の廃止、政教分離により、公共用地内の忠魂碑は、軍国主義的な目的を持つものは撤去の対象となったが、戦没者のための碑の場合は存続が認められた

在郷軍人会は、1907年の東京を皮切りに設立が進んだ在郷軍人の親睦・修養団体で、1910年には全国組織が作られたが、終戦とともに解散

道内には2019年現在522基の忠魂碑等が存在

終戦前は全て軍人(旭川の旧第7師団長)の揮毫で、130基が現存

乃木希典揮毫の忠魂碑が旭川市忠別公園他14基ある――第7師団が乃木の第3軍に組み入れられたため、戦死者は乃木の直接の部下

増毛町の乃木揮毫の忠魂碑は、同町創業の「國の誉」酒造の社長が発起人となって建立されたが、直接乃木に会って揮毫を依頼した際、乃木の度量の大きさに圧倒された社長が乃木の一字を取って「國稀」と改名。ただし同じ字は憚られた

民間人で多いのは自治体の長で、中でも道知事の町村金五(16)、堂垣内尚弘(8)は多い

 

 

【戦後】

l  異国に消えた美唄(びばい)市議――怪僧「ガンシン」の足跡を追う    

阪井宏(北海道新聞社記者)

1966年、美唄市会議員の吉田岩信(いわのぶ)が突然僧侶となってベトナムへ。共産政権に捕らえられ、13年の獄中生活を送り、'89年帰国、入院生活ののち死去。自由奔放な生活から突然出家し、獄中生活を送ったにもかかわらず、最後にはまたベトナムに帰りたいといった吉田の一生に興味をもって追った

1922年、唐津の炭鉱に生まれ、中卒後満蒙開拓団に加わったり、船員になったり、やがて応召し、戦後はいわき市の炭鉱に入って養子となり、’49年美唄の炭鉱の再炭員となる

誰とでも親友となり、労組の執行委員となって、’55年には社会党から出て市議会議員に当選、無所属となって3選を果たす

2期目の頃突然仏舎利塔を建てると言い出し、セイロンの高僧に渡りをつけ、'65年賛同金を手にセイロンに生き仏舎利(釈迦の骨)を持ち帰るが、帰りがけに立ち寄った南ベトナムで、僧侶が反政府デモの先頭に立って、各地で焼身自殺をして抗議している姿に衝撃を受け、行動派右翼トップで歯科医の若者・佐藤耕治と一緒に街頭でカンパして再度ベトナムへ向かう

ベトナムに向かう時、吉田を支援したのが福島県の曹洞宗・円通寺の住職で、日本ベトナム文化会長も務めていた吉岡棟一、吉田が釈放された際はハノイまで迎えに行った

ベトナムでは、吉田はサイゴン市内の南ベトナム仏教会穏健派の寺に入ってベトナム国籍を取って得度、吉岡が日本の仏教会代表として南ベトナムで行った様々な支援事業を仕掛けている――佐藤も吉岡も、吉田が逮捕された際、釈放を求めて日本政府に働きかけた

1999年、筆者はベトナム戦争の背後に見え隠れする宗教対立の研究を目的に英国へ留学したが、対立の背景はわからず仕舞い。吉田も、ベトナムの仏教徒間の対立はいずれ消え去って一つのものになると確信していたことが窺われる

 

l  散骨の海へ――永山則夫の網走                                                  嵯峨仁朗

網走生まれの連続射殺魔と獄中結婚した女性は、1997年永山の死刑が執行されると、既に離婚していたが約束を果たすため網走に遺骨を譲り受けに行き、永山の希望通り海に散骨。永山は5歳までした網走にいなかったのに、なぜ網走の海に散骨して欲しかったのか。彼女に言わせると、永山の悲しみが網走に始まったからだという

永山の父親は博打のために家族を捨てたと言われていたが、青森の農事試験場で働く剪定技師で、リンゴの生産最北地の網走の農園が腕を見込んで誘い、移住してリンゴの北限を広げることに貢献、「呼人(よびと)のリンゴ」として千疋屋にも出荷するほどに発展

父親は、賭博癖のため農園からも解雇され、母が網走市内で小売店を始めたが失敗

母や乳飲み子だけを連れて出稼ぎに青森に行くが、実質永山や残りの子は置き去りにされ、暫くしてようやく保護施設に収容される。母親代わりに面倒を見てくれた長姉が過酷な生活に精神を患って入院してしまったことも永山にとってショック

逮捕後その頃のことを書いた自伝小説が新日本文学賞を受賞

1968年、呼人リンゴ園は、腐乱病が蔓延し、木の伐採と焼却に追い込まれ、作物転換が進み、現在は出荷されていない

永山事件と裁判――'68年、約1カ月の間に東京、京都、函館、名古屋と4人が同じ拳銃で殺害され、1年後に永山が逮捕。集団就職で上京した「金の卵」だった。1審は死刑、2審で結婚による心境の変化などを酌量に無期となったが、最高裁で敗訴。’97年死刑執行

 

l  五稜郭タワー創業秘話――創業者中野真輔の未完の自伝より             濱口裕介

1864年、蘭学者武田斐三郎が箱館奉行所を守る土塁として、西洋の稜堡式築城(星形城郭)に倣って築造

1964年、初代タワー開業し、観光振興に利用した成功例

1912年、東京・小平で祖父が創業した蚕種製造業(交配させたカイコの卵(蚕種)を養蚕農家に販売)を営む中野家の長男として生まれたのが真輔。第1次大戦後の養蚕業の挫折で父が多額の借金を残して家出、家督を継いだ真輔は苦労して借金を返済したところに召集令状が来て応召、戦地で負傷、終戦後は農家に転身、周囲に担がれて小平町議会議員に当選、28年務めた後農協の常務理事に就任。辟易としていた真輔に誘いをかけてきたのが小平出身の事業家・平定厚が立ち上げた大和土地開発(のちに大和土地観光)で、五稜郭タワーを企図

一人出版社を起こし広告宣伝で成功させた平は、戦後小平の土地が急騰したのを見て日本初の土地投資専門会社・大和土地開発を興し、高度経済成長の追い風に乗って事業を拡張、特に観光業に注力し、青函トンネルの開通を見越して道南の将来性に目をつける

小平町議会の地域振興事業で平と知り合った中野も、大和土地の常務として土地を物色して歩く途上で道南に目をつけ、道南植林の所有する広大な土地を買収

1963年、中野の下に、函館市観光課から五稜郭築造100年記念事業としてタワー建設の構想が持ち込まれ、旧尾張藩鷹場を持ち裁く意識の根強い土地柄の小平出身だった中野個人として旧幕臣が立てこもった五稜郭には特別の思い入れがあったことから応諾したが、会社の発展と共に平の経営が怪しげなリスクを取り始めたのに嫌気して中野は辞職

タワー建設のために大和土地と地元の共同出資で北海道大和観光を設立、中野を社長とするが、直後に大和土地は事業からの撤退を表明し出資の払い込みを拒否。総工費70百万は内装費を加えて120百万に膨れ上がるが、地元の20百万以外は調達のめどが立たない

中野は自ら10百万を拠出し資本金20百万で同名の新会社を起こし、叔父からも追加の10百万を借金して開業にこぎつける

初代タワーは60m、展望台は45m。会社名も’66年に五稜郭タワーと改称

初期の赤字を埋めるために中野は先祖伝来の土地を切り売りし、'70年からは五稜郭祭も始め、NHKの連続テレビドラマ《北の家族》は視聴率46.1%となって函館の観光客が激増するに及んでようやく赤字経営から脱却

大和土地観光は、藤田観光に高値で大沼の土地を譲渡、隆盛を誇ったが、1967年倒産

青函トンネル開通でタワーの来館者はさらに増え続け、’87年には年間50万、'91年には通算10百万を超える。中野も’86年北海道産業貢献賞、'87年函館市功労者として表彰

中野は’94年急逝、享年81

本稿は、中野の『自伝』に基づくもの。『自伝』は病床にあった最後の1年に口述筆記されたもので、序文の日付は逝去した月の1日、跋文の日付は3月とだけあって日にちはブランク、後から逝去した26日と手書きで付け加えられている

現在のタワーは、2006年に完成、高さ107m、展望台は90m

 

l  地底への道                                                                            木村裕俊

本州の最北端の津軽半島竜飛岬は、100mを超す断崖にあり、岬の先端には灯台が建ち、北海道が意外に近く見える。対岸の松前町・白神岬との間は22㎞と狭く、日本海から太平洋に向かう流れは最大8ノット

最初に海底トンネルを提案したのは1923年、函館の海産物商・阿部覚治の『大函館論』

次いで戦前の鉄道省――関門トンネルの掘削が順調に進み、鉄道建設技術者が自信を持つ

間宮、宗谷、津軽、関門、対馬、朝鮮の各海峡を海底トンネルでつなぐ大計画もあった

1954年の台風15号での洞爺丸など5隻の遭難事故で死者・行方不明1155名を出したのを契機に、’46年以降も調査中だった海底トンネル建設構想が一気に進む

翌年歌会始での天皇の御製《その知らせ 悲しくききて 禍を ふせぐその道 疾くとこそ祈れ》も後押し

国鉄本社内に「津軽海峡連絡隧道技術調査委員会」発足――’56年の報告では、竜飛岬から松前郡の吉岡まで総延長36㎞、工期10年、総工費600億円との結論を出す。実際は総延長54㎞、工期24年、総工費5000億円(土木工事費)

1963年、試掘開始。鉄道の新線建設は鉄建公団が担当

日本の鉄道工事は、明治以降鉄道省が直轄事業として直接工事を進めてきたが、敗戦で直轄組織の技術者が残っていたのは岐阜工事局のみ。'64年親不知トンネル竣工で、漸く岐阜工事局の作業員78名が青函トンネルに向けられたが、多くは素人集団を教育して育てながら作業を進めていく

1964年、松前郡福島町吉岡から斜坑を掘り始め、作業員の増加とともに12交代から3交代へと移行。’66年には竜飛岬側からも掘削開始するが、毎日が湧水と軟弱地盤との闘いで、'71年漸くトンネル掘削の確信ができ、工事線に昇格

掘削は3本、1本は調査を重視した先行掘削で、2本目が本トンネルを複数個所から施工できるように先行掘削を進める作業坑、3本目が電車の走行を目的とした本トンネル

世界一の長大トンネルかつ海底ということで困難な技術課題が山積

海底だけでも23㎞、両端に各11㎞の地中部分があり、掘削方式だけでなく、排出土砂の処理など未知数

安全性でも、海面下240m、海峡中央部では海底まで140m、岩盤の下100mを掘削するため、浸透してくる海水は1㎡当たり240tにもなり、一旦侵入したら建設放棄に繋がる

最大の技術課題は、地質を探る水平先進ボーリング調査と、掘削前に浸透水を極力抑える止水注入、掘削後にトンネルを安定させるための吹付けコンクリートの施工などがある

    渡海三角・水準測量――’65年国土地理院に津軽・渡島両半島の位置と高さを決定するため渡海三角点と渡海水準点の設置を要請、以後毎年渡海三角・水準測量を実施

もともと日本の測量界では本州と北海道の高さの基準が同一に結ばれていなかった

測量の結果、調査のための先行掘削では、両岸からの出会い差は水平方向で64㎝、高低差は20㎝であり、本トンネルでは海峡中央部の曲線部で若干の修正を行う

    水平先進ボーリング――調査掘削で前方の地質状況確認のため行われるが、大量の湧水や不良地質区間に悩まされて難航、ボーリング孔が重力で下方向に進む傾向があり、調整しつつ最長2150mの長孔掘削記録を達成、海峡中央部の精度の高い「想定地質図」を作成

    注入工法――岩盤からの浸透水の止水は最大の難関。湧水はポンプで強制排水するが、海水は無尽蔵なだけに、完全に近いかたちでの止水が求められる

軟弱地盤は断層破砕帯では地盤強化が必要で、種々の注入工法や材料の開発がなされ、適正な工法を確立し、最初の段階の竜飛斜坑で遭遇した断層破砕帯での高圧出水事故をはじめ3度の大きな異常出水を克服

材料は主にセメントだが、液状珪酸ソーダ(水ガラス)を混入させて強度を高めた

    吹付けコンクリート工法――最初から鋼製支保工を導入し型枠を使わない吹き付けコンクリート工法を採用、トンネルと地盤との間の空隙を極力なくしてトンネルに無用な圧力がかからないようにした

    全断面掘削機、TBM(トンネルボーリングマシン)――1960年代は、世界的にトンネルの掘削の省力化と高速化を目的に、機械による掘削の技術研究が進められた時期

'66’65年にかけ豪州製掘削機を5台導入したが、海底の地質が一定せず、本格的な採用には至らなかったが、新幹線トンネル工事などにその技術は応用され、大幅な機械化が図られた

竜飛斜坑の出水事故――破砕帯の予測はついていたし、対応技術水準も上がっていたので、油断という人為的なミスによる事故ともいえる。切羽(きりは:坑道の先端)から異音と共に濁水が侵入、150m上がったところにあるポンプのフル稼働でようやく水圧の抑制に成功、切羽まで排水し終えたのは10日後、止水注入を終え再び掘削して旧に復したのは半年後

この経験がその後3回の出水事故でも生き、出水事故のたびに技術力を向上させた

調査目的の先進導坑の完成は、予定より6年遅れて1983年。首相官邸で最後の発破のボタンが押され、1mの壁が吹き飛んで貫通。’85年には本トンネル貫通

完成が遅れている間に日本の交通事情が大きく変化、モータリゼーションの進展により鉄道輸送が落ち込み、青函トンネルも無用の長物と非難された

1987年、国鉄民営化に伴い青函トンネルはJR北海道に所属し、‘88年から在来線を通し、新幹線が通るようになったのは2014

 

l  あとがき                                                                               合田一道

集団としては6冊目

昭和史をテーマに、昭和という戦争と平和の2つの道を歩いた時代に起こった様々な事象を炙り出そうとした

本集団発足の1982年から40年を機に、代表を相原秀起に交代。北海道新聞社きっての敏腕記者

 

 

 

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