脱走王と呼ばれた男  David M. Guss  2020.7.2.


2020.7.2.  脱走王と呼ばれた男 第二次世界大戦中21回脱走した捕虜の半生
The 21 Escapes of Lt Alastair Cram          2018

著者 David M. Guss タフツ大名誉教授。カリフォルニア大ロサンゼルス校で博士号。作家、人類学者として多くの著作がある。アメリカとヨーロッパの様々な地域で暮らす

訳者 花田知恵 愛知県生まれ。英米翻訳家

発行日           2019.3.28. 第1
発行所           原書房


はじめに
アレスター・クラムは、脱走を描いた物語にたびたび登場する伝説的な存在。本人も手記を書き始め、出版も想定していたようだが、判読不可能なまま原稿が残されていた
アレスターは1994年死去しているが、06年妻のイザベルは生存、アレスターが1930年に入会したスコットランドの山岳クラブに照会したところ、戦争中の自分の行動を詳述した手記が山岳クラブの書庫に保存されており、閲覧できるばかりか、イザベルとも面談してアレスターの人となりを詳しく聞くことができた
イザベルは2016年逝去、享年96

第1章        脱走は登山に似ている
194112月、連合国側初の勝利となったクルセーダー作戦のトブルク守備隊を解放するためのシディ・エゼグの戦いでのこと、爆発で気を失い、ドイツ軍に捕らえられ、枢軸国軍内の規則に従ってイタリアの管理下へ引き渡し
ベンガジ港で乗船する前に既に2回脱走を試みた後、船首楼に閉じ込められたが、大時化で引き返し、別途爆撃機でシチリア送りとなる
収容所から脱出し、未開の山地を彷徨い、村を抜け河を渡り、捕まった時はドイツ兵だと言い逃れ、漸くマルタ島の見える海岸まで来たが、マルタまで渡る食糧調達をしようと歩き回るうちに地元の警察に引き渡され、イギリスの脱走兵の人相風体と一致するとばれる

第2章        「男爵」の登場
滅多にないイギリス人脱走兵だと地元民からは歓迎されたが、イタリア陸軍の地区司令官が来て警察署の地下に閉じ込められる
パレルモから憲兵が来てナポリ湾へと連行、北のカプアの収容所に入れられたが、劣悪な環境で誰も彼もが鬱状態
責任感と自覚の欠如によって活力を殺がれ、無気力になるのが一番の敵、それに抗うためには脱走の事を考えるのが一番確実で強力な武器になるとアレスターは考える
エディンバラ大学時代、クロスカントリーやトラック競技に打ち込み、山登りを楽しんだのが役に立つ
毎日の体操や鍛錬に加え、14日間のシチリア逃避行はすぐ有名になり、「偏執的」とか「脱出芸の奇術師」と称える者もいて、何時の間にか「男爵」の呼び名が定着したのは、同年のドイツ人で国際テニス界の花形だったフォン・クラム男爵に因んでのこと
捕虜の世界では脱走する者は軍のエリートとされたこともあって男爵と呼ばれた
前の脱走の懲罰のために別の収容所に移送されることになるが、列車で向かう途中アペニン山脈で吹雪の中列車が立往生し、逃げ出したが雪に阻まれ、そのまま収容所に連れていかれる。山中の収容所は豪華な施設で、監視のイタリア兵は話し相手を渇望していた
脱走の準備をしていたのが露見して、また別のパドゥーラの収容所へ送られる
パドゥーラでは、珍しく脱走を狙う同志ができ、一緒に2度実行し、2度目には同志の支
援で一人脱出に成功したが、結局捕らえられて逆戻り、同志と一緒の懲罰房に入れられた

第3章        要塞の生活と脱走常習者たち
42年夏、ジェノヴァの北の新設収容所ガ―ヴィに送られる
脱走は名誉であり、将校の義務でもあり、逃亡した捕虜を再び捕まえる敵側の負担を増やすためだったが、逃げているときの強烈な興奮という脱走の魅力に憑りつかれた者もいる
ガ―ヴィでは、殆ど全員が熱心な脱走者で、捕虜たちには目的と闘志があり、それが彼等を結束させただけでなく、怠惰と虚しさという捕虜の最大の敵を克服するのに役立った
繰り返し反抗的態度を見せ「危険人物(ペリコロージ)」とされていた
住環境はひどかったし、要塞自体脱走が不可能とされている点が重くのしかかっていたが、それを除けば殆どの収容者はどこよりもカーヴィがよかったと言った
似たように士気の高かったのがドイツの懲罰収容所だったコルディッツで、「コルディッツ神話」とまで呼ばれた

第4章        トンネル作戦の仲間たち
カーヴィは17世紀の要塞の中に建てられた築1000年の城郭であり、配管や排水溝の迷路が広がっていることが、捕虜たちの創造力(ママ)と闘志を掻き立てた
大抵の収容所には脱走委員会があって、前もって委員会の承認を得る必要があり、方法や日時を調整し、人選に介入したり、種々の支援も行った
多くの収容所でトンネル掘削が好まれ、カーヴィでも主要産業になった
4211月、連合国側がエル・アラメインで初めて決定的な勝利を収める
432月、全長9mのトンネルが完成、アルプス越えが可能となる4月中旬まで待つべきだったが、待ちきれずに3月末決行となり、メンバー11人が脱走委員会で決められる
アレスターもその中の1人として脱走、大怪我をしながら逃走を続けるが、結局は精鋭山岳部隊のアルピーニ部隊が加わった追っ手に捕まえられカーヴィに戻される
結局誰も逃れることは出来なかったが、少なくとも難攻不落と豪語され、鉄条網や固い岩にあれほど囲まれ、無数の将兵と24時間の監視にさらされていたにもかかわらず、敵を出し抜き、捕虜たちは面目を保つことができた

第5章        ドイツ軍に占拠された収容所
438月、アレスターは収容所で2度目の誕生日を迎える
3か月前に枢軸国はチュニジアで降伏、北アフリカ戦線は終結。7月には連合国軍がシチリアに上陸。一方でドイツ軍がイタリアに進軍、捕虜収容所にもドイツ軍が来たが、所長も赤十字の定期視察に来る使節団も捕虜はドイツ兵に渡さないと約束
突然休戦が発表され、収容所内も湧いたが、捕虜による計画的な要塞乗っ取りの暴動の命令は発出されなかった。休戦合意には、全てのイタリア兵はドイツ軍に抵抗し、イタリアを解放するために連合国軍に合流することとあり、収容所の監視に当たっていたイタリア兵も間近に迫るドイツ軍に抵抗の気配を見せたが、ドイツ軍による数回の発報で簡単に白旗を掲げ、収容所はドイツ軍に明け渡された
イタリア全土と地中海全域で同じようなことが起こり、重武装の守備隊がドイツ軍に降伏、その後60万に及ぶ捕虜がドイツへ送られ、奴隷労働を強いられた。本格的な抵抗運動も起こったが、ナチスが残虐性を発揮して簡単に鎮圧されたし、一部ではイタリア駐留軍司令官や幹部将校らとともに捕虜全員が虐殺された
7月ムッソリーニが逮捕され、国王エマヌエーレがパドリオ元帥を後釜に据えたが、元帥は36年エチオピア人に対し毒ガスを使用したことで知られ、ファシストと親密に結びついた政治的日和見主義者で、休戦条件を巡ってもたもたしているうちにドイツ軍がローマを占領、休戦合意後はイギリス陸軍に警護を要請したため、ドイツはムッソリーニを救出して傀儡政権を樹立したため、イタリアは内戦に突入し何カ月も長引くことに。パドリオがドイツに抵抗したのは唯一イギリス人捕虜の扱いについてで、ドイツからすべての捕虜の引き渡しを要求された際、予めその事態を予想したイギリスからの警告もあって、全てのイギリスの白人捕虜の解放と帰国支援を収容所長に対し指示する命令を発出
72ヶ所の捕虜収容所の全てに命令が届いたか否かは不明だが、大半の所長は革新的なファシストで命令は無視された。それより深刻な問題は、イギリス人捕虜の指揮官たちが正反対の対応を取ったこと
438月時点でイタリアには8万人の捕虜がいて、その85%はイギリス人か英連邦出身者。ボーア戦争中、南アの捕虜収容所から脱走して頭角を現したチャーチルは、特に捕虜の身を案じ、捕虜解放は休戦協定に明記されていることから、各収容所の先任将校宛に秘密裏に「待機/動くな」命令を発出していた
収容所によって対応は様々。所長が捕虜を鉄道駅まで見送ってくれたところもあれば、イタリアの監視兵が退去した後も収容所に残ることを強制したイギリス先任将校もいた
休戦締結後5万人の捕虜が逃亡、半数は捕まったが、半数は逃げ延びる
ガ―ヴィではドイツ軍が来たことで脱走計画が加速、地元のカトリックの司祭で毎日宗教上の奉仕と称して収容所に来ては秘密の通路などの情報をもたらしてくれた。結局ガ―ヴィ―から脱出に成功したのは1人だけ
脱走用のトンネルが完成に近づいたころ、移送が突然決まり、1/3は秘密の場所に隠れたものの、先任将校までが隠れたため、流石の監視に不慣れなドイツ兵もおかしいと気づき徹底的な捜索が開始され、アレスターも含め58人全員が捕獲された

第6章        ドイツ行き移送列車
不慣れなドイツ兵に代わってガ―ヴィ―の捕虜移送を指揮しに来たのは野戦憲兵の異名を持つ非情な殺戮者部隊。第1陣の移送中に脱走者が続出したための措置で、ドイツの収容所に着いた時は半数に減っていた
後日捕虜生活についての最初の備忘録を『ご婦人方のいない生活』として著した将校は、ガ―ヴィ―では誰もが高潔な目標を共有し、その実現がある意味、捕虜の屈辱を払拭する役目を果たしたと、特別な敬意を込めて書いている。要塞からは脱走できなかったがその後の移送中の脱走の驚異的な成功率は、多くの者たちが長年の不屈の努力を続けてきた証であり、イタリア人から与えられた「ペリコロージ(危険人物)」の名に恥じない行動をしたと語る
隠れていて捕獲された58人は第2陣で移送。60/hで走る列車から脱走するのは極めて危険だったが、何人もが試みる
アレスターは、ブレンナー峠を越える最後のイタリアの町で盲腸の仮病を使い列車から降りて軍病院に収容、危うく手術は逃れ病院から脱走するが、山の中でドイツ人に見つかってまたドイツ行きの移送車に乗せられる

第7章        森の中、街の中
ミュンヘンの北のモースブルクはドイツが最初に設けた捕虜収容所で国内最大。湿原にある荒涼とした不健康な施設。収容1万人規模だが、すぐに10倍に膨れ上がり戦争末期にはさらに増加。国別に区画を分けられ、非常に多くの捕虜が絶えず入れ替わるので、収容所内の発達した闇取引はますます栄え、十分の元手とたばこがあれば、欲しいものは何でも買えたし、アレスターのような脱走のベテランには隙だらけに見えた
チャーチルが「成功とは失敗から失敗へと熱意を失うことなく移れる能力」だと語った時、アレスターのことを指して言ったのではないかと思うくらい、彼に似つかわしい
収容所に入って脱走の為の体力の回復と情報集めに腐心
10月になって天候が変わり始めたのを狙って脱走を敢行、18日間にわたって嗅覚を頼りに森の中を東に向かう。予想通りドナウ川に出てパッサウに向かう。街で捕まりかけたが何とかウィーンに辿り着く。親しい登山家も多勢知っていたが、町は見る影も無く荒廃し、助けてくれそうな地下組織とも連絡が取れなかったので汽車でトルコを目指す
スイスに逃げてきた捕虜は終戦まで抑留されるが、トルコならすぐに中東に派遣される
彷徨している間にまた捕らえられ、巡り巡ってまたモースブルクに逆戻り
次は西へ向かうことにするが、今度はゲシュタポに尋問され、軍刑務所に送られる。何度かの尋問の後、何が幸いしたか不明だが、再度モースブルクに戻され独房に入れられたが、その後またゲシュタポに引き渡される

第8章        無謀すぎる脱走計画
軍服を着ていなかったために特殊任務を帯びた諜報活動をしていたものと見做され、ベルリン郊外の収容所で尋問を受けた後、ズデーテン地方の収容所送りとなり、また昔の捕虜仲間と一緒になる
1581人の捕虜のうち400人も参加する脱出作戦が計画される
444月シュレジエンの収容所から「大脱走」が発覚、多勢処刑され、激怒したヒトラーは以後再び捕まえた捕虜は銃殺だと命じる。その後集団脱走計画は中止に
チェコの地下組織が活発化したことに伴い、ズデーテンも収容所ごと移転が決まり、北ドイツに新設のブラウンシュヴァイクの将校捕虜収容所に向かうが、アレスターは隠れ家に籠って残る脱出に成功

第9章        秘密警察と非常手段
チェコの地下組織として教えられた住所を探すが実在せず、移動の汽車を待つ間にまた秘密警察に咎められ尋問されたが、ドイツ軍が彼のファイルをチェコには送っていなかったため身分がばれなかったことと、チェコ語を理解できたのが幸いして、地下組織のスパイ容疑が明かされないままバンクラーツ刑務所の呼び名で有名なゲシュタポ拘留所へ連行
2000人を超える囚人の多くがいずれ裁判で死刑を宣告され処刑を待つ不吉な場所だったが、また元のブラウンシュヴァイクに戻される
連合国軍のノルマンディ上陸以後は、終戦が近いとの期待から、脱走を考える捕虜はアレスターを除けば殆どいなくなった
捕虜収容所を軍事施設の近くに置くのはジュネーヴ条約違反だったが、ドイツ人はお構いなしで、ブラウンシュヴァイク戦闘機飛行場とヘルマン・ゲーリング国家工場を標的とした英米空軍の爆撃が始まると収容所も爆撃に晒される
アレスターは鬱病を偽装したのが成功して、民間施設の警備の厳重な精神病棟に入れられ、一旦は詐病が露見して戻されたが、またローテンブルクの11番目の収容所へ送られる
453月、収容所の撤収命令が下り、ミュンヘンに向けて移動、味方からの誤爆を防ぐために白いシーツにPWと大書して掲げる
2週間逃避行続けた後、隠し持っていた民間人の服に着替えて脱走、終戦を待つ一群の人々に出会い、直後にアメリカ軍の先遣隊が来て解放され、一緒にジープに乗って帰国の途に
これが彼の21回目の脱走で、家まではもうすぐ

第10章     戦争犯罪の追及
アレスターは43年以降家族からの手紙を受け取っていなかったため、3か月前に父が死去したのも帰国してから知らされる
4510月、少佐に昇給してドイツに派遣され、ナチスの戦犯を捜し出して告発する戦争犯罪委員会に参加を下命。脱走に対しては戦功十字勲章授与。表彰状は、「18人の将校が彼の奮闘を称えて推した」という異例の言葉で締めくくられていた
アレスターが参加したとき、イギリスの管轄下にあったベルゲン・ベルゼン強制収容所の45人の看守と幹部がイギリスの軍事法廷で殺人罪及びその他の罪状により裁かれていた
ナチスの指導者の裁判がまだ終わってもいない頃、あらゆる戦犯裁判の手続きを停止するという騒ぎが起こった。占領には金がかかり、戦争で経済が疲弊したイギリスにとっては特に負担が大きいという声が出てきたためだが、ナチスの戦犯追及継続を妨げる最大の勢力は、ヨーロッパに生まれた新たな権力の方程式だった。ソヴィエト連邦とその従属国がドイツに代わって安定と平和を脅かす主勢力となっていた
戦争犯罪を追及するのは僅かな人員だけ。対照的に、ソ連に先を越される前にドイツのとりわけ優秀な科学者と工学者を見つけて勧誘する「ペーパークリップ作戦」には3000人もが投入された。戦犯追及という重苦しい仕事は敬遠され、配属された者も早く除隊して市民生活に戻りたいと思っていた。アレスターだけは例外で、必要なスキルを全て備えていた。多種の語学、地理に詳しく、何より人間がどこまで下劣になれるかを見ていた
本国からは、戦犯委員会の告発は連合国市民に対する犯罪に限定し、ユダヤ人その他マイノリティに対する残虐行為は国内の暴力行為と見做して裁判の対象にはならず、裁判の数も20%減らすよう命じられた
空襲から逃れた王立温泉保養地バート・エーンハウゼンにイギリス人村ができそこに滞在
イギリス政府は、戦争犯罪委員会に対し、489月以降は新たな裁判を開始しないと通告
委員会の仕事が終わり、ケニアの駐在治安判事の職を受ける。登りたい山があったからで、帰国後山で出会った女性を呼んで51年に結婚、ガ―ヴィ―も巡礼地として訪れる
帰国すると、非常事態宣言が発令され、内紛状態になり、大規模な虐殺事件へと発展。アレスターは捜査官の1人として手伝う。57年には収まり、6年後に独立
61年、アレスターは隣のニヤサランド保護領(現在のマラウィ)の高等裁判所のNo.2に任命され、引退するまでの7年間滞在を続ける
その後はエディンバラに戻って普通の生活を送り、誰も気に留めなかった。94年死去
彼の死亡記事は多くの人を驚かせた。すべては注目を浴びるのを嫌った1人の寡黙なスコットランド人が内に秘めていたことだった。唯一妻にだけは、未だに悪夢に出て来る出来事について打ち明けていた




【書評】法政大学名誉教授・川成洋が読む『脱走王と呼ばれた男 第二次世界大戦中21回脱走した捕虜の半生』
2019.5.19 10:05ライフ
「絶望の拒否」精神を貫徹
 第二次世界大戦期、ドイツやイタリアの捕虜収容所から21回も脱走を試み、仲間から「男爵」と呼ばれた男がいた-。まるで映画やドラマの定番キャラクターだが、実在の人物である。イギリス陸軍のアレスター・クラム中尉、当時30代前半の弁護士だった。
 本書によると、194111月、アレスターは北アフリカ戦線においてロンメル軍団に対する英軍の奇襲攻撃「クルセーダ作戦」発動4日目に捕虜となる。彼は、独語、仏語、伊語を流暢に話し、ベテランの登山家、長距離ランナーといった人並み外れた身体能力を備えていた。しかも根っからの一匹おおかみ、まさに脱走のために生まれたような男。収容所の脱走は朝飯前だが、封鎖線を突破しながら正体を見破られて逮捕され、1カ月間の懲罰房の繰り返しであった。
 イタリア軍が連合国軍と休戦した439月、イタリアで収監中のイギリス軍捕虜は68000人。その中に陸軍大将や中将も含まれていた。大半の将校は、脱走は義務だと認識していた。これが将校の矜持なのだ。各収容所には、佐官クラス3人の「脱走委員会」も組織されていた。
 イタリアの休戦後、捕虜はドイツへ護送され、さらに厳しい監視体制に置かれる。ことに「危険人物」というお墨付きのアレスターにはナチス特有の加虐嗜好たっぷりの監視兵が付いた。「死の恐怖の館」と言われるゲシュタポ本部での残虐な取り調べの最中、何回も死を覚悟したという。
 それでも死を免れたのは、外国語の堪能ぶりにゲシュタポがMI6(英国海外秘密情報部)工作員と思い込み、さらなる情報収集のために銃殺隊の前に立たせなかったからだ。
 大西洋上の島国イギリスは20世紀のヨーロッパにおいて2つの世界大戦に敗北しなかった唯一の国である。
 これには、将校たる者には責任が伴うノブレス・オブリージュ精神がたたき込まれていたのであり、さらにアレスターのように失敗を重ねながらも、断固とした「絶望の拒否」の精神がイギリス朝野をあげて貫徹されていたためかと改めて思った。(デイヴィッド・M・ガス著、花田知恵訳/原書房2,800円)


紀伊国屋
内容説明
トンネル作戦、綱渡り、列車からの飛び降り、そして詐病仲間とともに、あるときは単独で脱走を繰り返し、裏切りにあってもゲシュタポに睨まれても不屈の精神力で目的を果たし、英雄として称えられた脱走王「男爵」。

出版社内容情報
開戦直前にイタリア軍捕虜となり、以来21回のあらゆる手段で脱走を繰り返した英軍将校アラステア・クラム。彼は終戦直前に脱走に成功し英雄として迎えられた。本書はその破天荒にして不屈の「脱走半生」を克明にたどったノンフィクションである。





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