災害を語り継ぐ―天明3年浅間災害  関俊明  2020.7.15.


2020.7.15. 【普及版】 災害を語り継ぐ
――複合的視点から見た天明3年浅間災害の記録――

著者 関俊明 1963年群馬県東吾妻町在住。群馬大教育学部卒。16年國學院大大学院文学研究科史学専攻博士課程後期修了。博士(歴史学)。県内小中学校勤務を経て、現在群馬県埋蔵文化財調査事業団に勤務。0405年内閣府中央防災会議「災害教訓の承継に関する専門調査会」小委員会委員。著書に『浅間山大噴火の爪痕―天明3年浅間災害遺跡―』(2010)、『1783天明泥流の記録』(共著、2016)

発行日           2018.1.25. 初版発行           2020.3.25. 普及版発行
発行所           雄山閣

本書初版の刊行に当たっては國學院大學課程博士論文出版助成金の交付を受けた

軽井沢図書館の新刊本の棚で見て


初出一覧
序章    新原稿
第1章     新原稿
第2章     「天明3年浅間災害の語り継ぎの構成」『群馬県立女子大学第1期群馬学センターリサーチフェロー研究報告書』(2014)
第3章     新原稿
第4章     「我が国の火山系列の博物館について」『國學院大學博物館学紀要』第37(2012)
第5章     「「風土記の丘」構想の再検討から学ぶ」『國學院大學博物館学紀要』第38(2013)
第6章     新原稿
終章    新原稿


災害の語り継ぎ
災害の語り継ぎは、防災や減災に生かされる知恵と言える。どのような出来事だったのか、それに対して先人がどう対処し行動してきたかを、各個人の尺度を通して知ることは、自ずと、今と将来を懸命に生きていこうとする我々にとっての指南となる。手立てを講じなければ人々の心の中から遠退いてしまう性質の「災害の記憶」は、その存在自体が、かけがいのない力を持つことになる。整理集約することの必要性と取り扱うべき重要性に気づかされる
先人たちが被った災害像、復旧から復興への道筋、犠牲者への供養、歴史と災害像、現象に対する自然科学からの歩み寄り、今日的な課題への転化・・・・。災害に対して、実に多くの視点があり、どれも実に大きな課題で、学問的なアプローチが存在
天明3(1783)に発生した浅間山の噴火災害を調査研究し、無形としての口承、有形としての行事や事物など、様々な方法で後世に語り継がれる罹災記録を紐解くうちに、研究領域を超えた「語り継ぐ」という1つの括りが必要だと思えるようになってきた
歴史にはいつ何が起こったのかという事実記録のほかに、当時の人たちが何を思い、暮らし行動してきたかを知る手掛かりが隠されている。本研究でも、歴史学者が言うように、「過去の時の断面を独り占めしたかのような感動」を覚えることがあり、それが研究を進める源にもなっている。それまで、理解できているようで分かっていないことに出会し、新たな解明に巡り合い得られた時の感動、それがここまでの原動力だったと思う
考古学の時間スケールで見ると、時間経過の230余年はかなり短い。歴史災害に対して、カルテのような記録があってもよい、というのは持論かも知れないが、「記憶」という個人の体験が多くの人々に伝わる力の集約の具現として、本書を扱っていただければありがたい。いつ起こるか予測もつかない次なる様々な災害へ、判然として不安を感じているよりも、復興へ又防災へと強い意志を熟成させてくれるためのものと信じている
1つの歴史災害の語り継ぎというアプローチが、社会へ還元されることになるなら嬉しいし、自然災害が多く発生する現代社会に本書が活かされれば幸甚

序章 天明3年浅間災害・歴史災害の記憶

I.     「天明3年浅間災害」
浅間山は、群馬と長野の県境に位置する標高2568mの活火山
天明3(1783)の噴火は概ね3か月の活動
軽石や降灰の被害・岩屑なだれと呼ぶ土砂移動とそれらが吾妻川・利根川を流れ下った天明泥流、今日「鬼押出し溶岩」と呼ばれる火口から流れ出た溶岩の流出などが、火山噴火に伴う現象
人的被害は、降下物による1名の犠牲者を除けば、北麓側に流れ下った岩屑なだれと天明泥流により犠牲者が1500人を数え、そのほとんどを占める
災害としてはそれだけにはとどまらず、既に前年から続く天候不順の中で発生した噴火活動は、気候の要因とも重なり、天明の飢饉と深く絡み合って、歴史のうねりを作る
天明3年の噴火では、天明泥流の発生がなければ、噴石により軽井沢で死者が出た程度で、我が国の火山災害史でもこれほどまでに注目はされなかったともいわれ、泥流発生のメカニズムなどにも学際的な興味が集まる理由にもなっている。当時の人口が25百万とされることから、犠牲者数を4倍に見積もると、先の阪神・淡路大震災に匹敵する数の犠牲者を出した歴史災害ということにもなる
「災害」とは、火山の噴火活動をいうのではなく、それによって人間がどのような被害を被ったのかをいう。人文の視点からだけでなく、諸領域を融合させることの必要性もある。更にニ次的被害も含めながら、噴火活動によってもたらされた災害として重ねていくことも求められる。噴火から天明の飢饉へと拍車をかけたという要因の含みを持たせ、「天明3年浅間災害」と総称する

II.   歴史災害としての派生
一次災害として、岩屑なだれと天明泥流の流下や噴火降下物による被害があり、山麓から吾妻川・利根川へと流下し多くの犠牲者を出した
水陸交通網の遮断として、中山道や例幣使街道の陸路、吾妻川や利根川の水運の遮断、橋梁流失や関所機能の麻痺などが挙げられる
二次被害として派生した天明の飢饉への影響は、餓死者の増加や食糧の価格暴騰、富農や富商の売り惜しみに対しての打ちこわしなどの直接行動を誘発し松平政権を誕生させた。地域の疲弊と絡み合いながら、農村荒廃や人口減少と都市への流出、貧富の差拡大などを導いたとされる
災害史の研究からは、災害が発生した時に、以下のような視点が挙げられ、実例を通して学ぶことができる
   先人がどう対応してきたのか
   非業の最期を迎えた人々に対してどう追悼の表現の形をとってきたのか
   神仏とはどのように関わってきたのか
   経験を通してどのような知恵や工夫が出されて来たのか
   災害の経験を後世にどう伝達してきたのか

III. 「災害の記憶」の存在
「記憶」とは、「歴史」という概念よりも、遥かに個人的であったり、限られた人達にしか明確にされていなかったりする存在、また、特定の個人の内面に存在する性格のようでもある
時間の経過とともに出来事は社会的関心から忘れ去られ、風化していくが、「災害の記憶」は「先祖の供養や慰霊」の気持ちをもたらし、地域の経験として「地域の防災意識」にも繋がる性格を持つ。「負の遺産」であっても、観光や地域に活力をもたらす「地域資源」として未来創造に繋げられる可能性すら含む
「語り継ぎ」は、生命や環境を守るという人々の意識を高め、被災地の復興や、災害に強い地域づくりを進める原動力にもなり、更には地域を超えた連帯の意識を生み出すなど、社会全体にとって多くの可能性を持った重要な活動。出来事を「忘れない」ようにすることであり、意識してそのことを明らかにしていくこと、情報発信していくことだと言える
浅間噴火と天明飢饉は、本来一線を画すべきだが、両者が絡み合い、時間経過の中で起因する流れをいかに語り継がれてい来たかを把握することに努め、「どのように語り継ぎがなされ」「どのような方法、手立てを講じることができるか」に繋げていきたい

IV.  「語り継ぎ」の枠組
「語り継ぐ」ことは、個人や社会が世代を越え、時間が経過しても災害という出来事を忘れないようにする工夫や努力を捉えていくことを意味
災害の「語り継ぎ」の向かうべき、活かされるべき方向は、社会全体の将来のためという括りで見れば、「災害の教訓」ということ
時間の経過とともに地域の文化として概念化されていく傾向や世代を超え地域社会の地盤形成の要因にもなり、地域の人たちのアイデンティティにもなり得る性格のものにもなる
歴史災害が語り継がれることのあるべき構図、求められる理想の姿とは、社会全体や地域社会の機会において活かされる場面があること、過去の出来事に派生した行事や行為を通して過去の出来事が日常的に目の当たり(ママ)にされる環境や、そういったことが人々の生活に根付いていることが求められる

V.    歴史災害と今日的な災害事例との接点
天明3年の噴火の影響が及んだ地域に残存している認識可能な出来事の断片を辿り、230余年の経過の中で、消えゆく変遷や経時的事象を分析・系列化して整理していくことに取り組み、「土地に刻まれた地域の歴史」を語り継ぐことの検討、防災意識や地域創造への萌芽・種まきを本論の狙いとしたい
今日的な災害事例でいわれる「震災遺構」を通して人々がどう出来事を語り継ぐことができるかという発想と同様に、歴史災害の視点として、このテーマを見ていくことを課題とする
この解決のために、考古学及び援用する周辺領域を通した天明3年浅間災害の解明と同時に、災害の記憶の語り継ぎと博物館学の接点を見出そうと試みる
   「天明3年浅間災害」を俯瞰する ⇒ 歴史災害が今日まで伝えられている事物を項ごとに集約。地域姓が色濃く映し出され地元に残されている「草の根的」な情報の集約作業
   本テーマに関わる国内の博物館・遺跡の広域保存を実現させた風土記の丘構想について概観 ⇒ 災害を含めた火山の事例を扱う博物館についてより広い枠組みで見渡そうとし「火山系列」の文言を用いる。既に制度は終了している「風土記の丘」構想を見直す
   「語り継ぎ活動」展開の具現化のための布石として、地点情報を取り上げ模索しようとした ⇒ 「語り継ぎ活動」が根付いている鎌原地区の現況を見渡したうえで、50km下流の渋川市旧川嶋村を、天明泥流に被災し、「地下に眠るもう1つのムラ」として、そこでの出来事や地点情報をまとめようとした
多くの研究領域からのアプローチをクロスさせ、人々の苦難や災害という出来事自体を語り継ぐこと、さらにそれらを社会全体の可能性に繋げていくといった研究は初の試みであり、火
山学、歴史学、歴史地理学、考古学、砂防学等々の研究諸領域で別々に扱われていた歴史災害像を、横断した複眼的な思考によって、背景にある人々の思いや社会の姿を見つめ直し、事実・経過の集積という形で取りまとめていく展開を試みるのが本研究の課題であり、歴史災害を源とする「語り継ぎ」の研究として、本論がその契機となることを目指す

第1章      天明3年浅間災害にかかわる研究史
第1節      学際的な視点と天明3年浅間災害
近代科学の手法分析が可能になる以前の災害は「歴史災害」と呼ばれる
2003年、国立歴史民俗博物館の企画展《ドキュメント災害史1703-2003~地震・噴火・津波・そして復興~》 ⇒ 元禄地震に始まる我が国の災害史年表で、65の災害を掲げた展示
災害を知り、災害の「その後」を考えるという2つのテーマからなり、日本人が不慮の災害に遭遇した時に、いかに対応し、供養してきたかを取り扱う
   災害当時の絵図や記録が何を記録するために作られたのか
   歴史災害の記録から何がわかるのか
   そこから災害像の復元が行えるのか
   科学的分析に基づく災害像から災害予知が可能か
災害と社会の両輪があって初めて災害史の研究の成果が生かされる
災害の全体像を捉え、他領域との融合をもって、教訓として語り継ごうとする動きは、国の防災の動きとも関わっていく ⇒ 03年中央防災会議にて「災害教訓の継承に関する専門調査会」設置、災害種別に取りまとめ、教訓テキストを整備。災害の実態を知って、地域の防災意識の高揚や地域資源として地域開発の資産として注目させていくことを模索すべきと提言
1979年、「浅間山麓埋没村落総合調査会」による第1次発掘調査実施 ⇒ 埋没した鎌原村や天明泥流に埋もれた渋川の中村遺跡などの発掘
天明初期は気候が不順で、11月につつじが咲いたり、10月に麦の穂が出たりと季節外れの自然現象が記録。不順な天候の兆しは前年から現れ、8385日の噴火を飢饉の直接的要因と見做すことは出来ないが、凶作がほぼ決定的となった段階での噴火による降灰が、稲作以外の作物生産にまで大きな被害をもたらし、飢饉に追い打ちをかける結果となったことは否定できない
近隣では、生育不良で年貢が免除される「破免」の割合が4割に達し、110㎞離れた埼玉の北本市でも皆損28.8%他、減免理由の9割以上が「砂降引」で残りは「水引」、減免なしは1.2
小氷河期ともいわれる寒冷期に当たり、世界的な火山活動の活発化、エルニーニョ年でもあった可能性も高く、世界的規模の気候異常が発生していたと考えられる

第2節      地方史、郷土史における「天明3年」研究
天明3年浅間災害史研究の先鞭を付けた研究第一人者の萩原進は、「悲劇中の悲劇になった3原因」を、①天明3年が凶作期の絶頂だった、②降灰砂に加えて泥流を交えた出水となったこと、③社会情勢が転換期にあった、とし、3つが絡み合った複合的な大変だったと指摘
萩原進(191397) 郷土史家。群馬県師範学校(現・群馬大)卒。嬬恋小群馬県議会図書室長、前橋市立図書館長を歴任。『浅間山風土記』『浅間山天明噴火資料集成』他。31年の150回忌の大法会などに触発されて、浅間噴火に興味を持ち、古記録を収集・整理

第3節      自然科学から見た天明3年浅間山噴火
近代科学としての火山学は、地震学に派生し、火山の噴火現象・噴出物・形態・構造・成因・分布・年代などを研究する自然科学として、1世紀余の時間の中で培われてきている
1876年、工部省教師に招かれて来日したジョン・ミルン(18501913)は、日本地震学の基礎を作ったお雇い外国人。イギリス人鉱山技師で、近代科学としての日本火山学の先鞭を付ける。1887年、浅間の火口に登り、火口の様子を計測すると同時に、噴火と地震の関連性についても指摘 ⇒ 浅間とイタリア・カラブリヤ州の地震、1906年のベスビオスの噴火とシスコの地震、寛永(1627?)の東南西海地震と富士山の大噴火など
考古学や砂防学、水理学などの研究もある
浅間山には、わが国初の火山観測所が1911年開設。火口から西南西の山腹、通称「湯の平」で、峰の茶屋の火山観測所は1933年の開設、24時間体制の観測が行われている

第4節      歴史学から見た「天明3年」
『武江年表』 ⇒ 江戸末期の町名主が記した江戸市中の基本資料を集約編纂したもの。家康入府の15901873年の出来事を編年体で記述、時勢を網羅
『後見草』 ⇒ 杉田玄白が、明暦~天明期の世相を編纂・記録した史料
『武江年表』によれば、噴火は春から始まり、強くなったのは6月末(旧暦)、以後9日まで雷の如き山鳴りが続き、降灰砂石、松井田では3尺積もる、伊豆の海辺まで悉く濁る
天明の飢饉は、178287年、奥羽から関東地方を襲った大飢饉。疫病の流行もあって、餓死病死者90万を超え、各地で打ちこわしの騒動が発生
被害を受けた村々では復興作業が始まるが、鎌原村では同年10月から救済事業を兼ねた田畑の復旧作業が始まり、復興作業としての具体的な施工は復興費用として田地1畝につき人夫10人で作業に当たり、1人につき銭17文が支給され、近隣の村々の人々が雇用され、その賃金によりその冬を凌ぐことが出来たという
飢饉と噴火がどこまで影響を及ぼしたか線引きは不可能だが、密接に係わり合っているのは確か ⇒ 繰り返し冷夏が襲った1819世紀の気候変動と歴史の関係を地球規模の史料から分析した研究もある

第5節      考古学から見た天明3年浅間災害
歴史研究全体に広がる考古学的手法の一例として、1979年に始まる浅間山麓埋没村落総合調査会の発掘調査が、近世考古学の先駆的試みとして注目
きっかけとなったのは1973年村老人会が鎌原村観音堂の15段の石段の下に続く11段を掘り出したことと1975年に地表面から45mで遺物30点余りを発掘したこと
1979年には皇太子ご一家も現地を視察
1982年には渋川市中村で天明泥流の発掘調査実施 ⇒ 関越道のインターチェンジ建設に伴う発掘調査で発見され、95年以降は八ッ場ダム建設予定地でも発掘調査が進められている
火山灰考古学では、広域に噴出したテフラ(広義の火山灰)を鍵層として扱う。群馬県下では浅間、榛名、白根等の代表的なテフラの特徴が整っていて、その分布も把握されている
更に現在までの経過時間の中で荒廃した耕地の再開発「復旧の痕跡」さえも発掘調査の中で検出されてきている

小結
災害から230余年が経過し、人々の記憶から消えようとしながらも、災害の現象の痕跡を辿ることが多くの領域から可能なことを見てきたが、先人の困窮した体験が言葉として直接残されたり、地元の人々や次世代に伝えられるためには人々の災害の体験が形を変えて語り継がれていることを整理していくことが求められる
災害を文化現象として祝祭にまで転換させてしまう民衆の心意こそは、災害を地域に語り継ぐ原動力にもなっている

第2章      天明3年浅間災害の語り継ぎの構成
関東大震災に際し群馬県は唯一いち早く消防団員を中心とする民間救護団を派遣し、摂政宮から褒詞をいただく。阪神大震災でも群馬県から多額の義援金が贈られているが、これらは天明3年浅間災害という歴史災害発生の経験と語り継ぎによってもたらされたのではないかという出発点に立ち、その語り継ぎの時間軸を可能な限り忠実に復元し、その過程を捉え直すことが必要なのではないか
また、保存や活用を考えていくうえで、語り継ぎの要素を明らかにすること、具体的な項目の整理を行い、語り継がれている機能や系譜を明確にしていくことは、歴史研究に留まらず、減災文化の創造へつながる可能性を示すもの

第1節      取り組みの意義
歴史災害発生後の復旧・復興過程における語り継ぎの事例を時間軸の上で眺め直していくことは、災害を避けて通れない我々にとって、今日的な出来事の上からも、その出来事限りで終わりにしない、「何をどう語り継いでいくべきか」という、ある意味での「備え」として考えておくことが出来る。来るべき出来事に備え「復興」と「語り継ぎ」の関わりを明らかにしておく
天明3年浅間災害は、語り継ぎが極めて良好に行われてきた歴史災害の事例であり、群馬の減災文化を培った出来事でもあった

第2節      天明3年浅間災害と伝える事物
天明3年浅間災害は、浅間山の新暦178385日に最大規模の噴火を起こし収束に向かう概ね3か月の噴火活動で発生した歴史災害。人的被害をもたらしたという点で最大の出来事が、5日の北麓への岩屑なだれと吾妻川~利根川を伝う天明泥流の流下。この時、北麓の鎌原村では、生存者93人。村人の85%が死亡、全員死亡の家60%。土砂は吾妻川へ注ぎ天明泥流となって沿岸の人馬や田畑家屋敷を呑み込んでいき、吾妻川50㎞、利根川と合流し180㎞、更に途中江戸川へ分岐し流下。この流下による犠牲者は、鎌原村では477人、全体で37か村1500人以上。埼玉、都内、千葉等に残される供養碑からは、被害の広がりがわかり、泥流による被害は145か村以上に及び、被害の中心は群馬県に集中
語り継ぎの時間軸とキーワード ⇒ 事例分類のため、領域の枠を超えたキーワードを設定
「語り継がれる行為」 ⇒ 回忌供養。33回忌以降も節目の周年行事として継続し、犠牲者への追善供養とともに、災害の記憶が継承されている。天明3年浅間災害の供養に際して建立され、一旦は焼失した埼玉県本庄児玉の成身院百体観音堂栄螺堂再建の趣旨に1888年の磐梯山噴火(死者477)が加わり、1910年の再建が実現、記憶が新たな形で継承
「供養」 ⇒ 鎌原観音堂でも230回忌供養祭が営まれ、広域で執り行われている。各地の寺社と連携して災害を仲立ちに人々の交流に派生する例もある
「口伝」 ⇒ 口伝いに出来事が伝えられてきた例として「ケイホツ」「ダシツチ」などと呼ばれる作業がある。吾妻川沿岸で最大2mの堆積土を取り除く作業の跡。文字記録化がなされない伝承は、消えていく傾向にあるのは当然だが、伝承の対象や変遷を明らかにする努力は、それを通じて生活文化(例えば減災文化)を見直そうという方向へと向かう力を持っている
「政策」や「情勢」 ⇒ 自然災害の発生は領主の体制を揺るがしかねない出来事であったため、時の政策については正史として歴史研究の対象となるが、地元資料の中には多くの情報が含まれている。激甚災害地では、被災地を見分し御救普請である復旧工事は幕府直轄の救農工事方式がとられる。総社藩(前橋市辺り)の領主の当主だった山形藩主から総社にある菩提寺に被害状況の照会があり、報告と折り返しに多額の金品が送られてきたという記録もある
被災地を見聞(ママ)する幕府の勘定吟味役が近隣に不穏な動きを感じたという報告をもとに、10余年後に関東取締出役を設け、博徒や無宿などの取り締まりを強化、災害がどのように社会に派生していったかを知る断面として貴重な記録
尊王思想の先駆的な行動を取り全国を遊歴した群馬県太田市出身の高山彦九郎が、被害状況を光格天皇へ奏上しようとした記録がある

第3節      事例と分類の試み
天明噴火に関わる学問領域には多くの研究が存在するのは、かかわる事物が多岐にわたり、時間経過の中で多くの関連事物が派生することに起因
ここでは、複合的な災害としての天明3年浅間災害を一括りとして見渡していく

第4節      自然的要素
本来自然科学の領域の研究対象だが、展示物として注目でき、人々の語り継ぎの要素ともなっている
「降下物」 ⇒ マグマ起源の本質的な噴出物を包括して捉える。分布は3方向、北は佐渡、北東は北上市まで、東南東が降灰量は圧倒的に多く、当時の状況も厳密に伝える
「本質岩塊」 ⇒ 噴火で形成された岩塊。絵図や文字記録にも残されている
「旧堆積物」 ⇒ 天明泥流は既存の周辺の土砂を巻き込んで流下。「鎌原火砕流/岩屑なだれ」が本質岩塊を含みながら鎌原村を襲った
「二次的形成地形」 ⇒ 天明泥流は吾妻川や利根川の川床に堆積、3年後には大水害の原因となる。土砂は二次的、三次的に大水害の都度移動、河岸などにも大きな影響を与える
「災害由来自然物(記念物)」 ⇒ 渋川市指定天然記念物の「人助けの榧(かや)の木」は樹齢400年、地上13m。天明3年浅間災害の生き証人。村では泥流による死者53人を出すが、数十人がこの榧の木に登って難を逃れたという

第5節      人文的要素
鎌原村の発掘は「災害考古学の幕開け」
「石造物(石碑)」 ⇒ 人智ではどうにもできない、自然の猛威によってもたらされて悲しみを風化させないために、不変を求めることが出来る石材に文字などを刻み込んだ人々の記憶を凝集。個人の墓標から顕彰的な意味合いを含めた碑文まで、碑文は116基以上確認

小結
「記憶」とは「過去の体験や出来事を記銘し、保持し、再生する働き、あるいは再生されたもの」であり、歴史に集約される前の、より身近にある個人や地域のなかにあるもの
災害では、被災時以来の第一次世代とその関係者がいなくなった時、語り継がれるかどうかという大きな転機を迎えるので、地域に伝えられた資料や史料を要素として、起こった地域の「記憶」を未来に伝えるには、それらをどう位置付けるかを考える作業が求められる
本章では、地元に残された間口の広い情報を分類整理しようと試みた
同時期に生きた人々の間における「災害の記憶」と時系列上の記憶の受け渡しなど検討したうえで、この災害を通して歴史災害の語り継ぎの法則性を漉(こ)し出し、浮かび上がらせるという次の段階の課題に取り組みたい

第3章      語り継ぎの継続
第1節      語り継ぎの所在と変化の実例
    浅間山噴火和讃と回り念仏 ⇒ 鎌原地区では現在でも「浅間山噴火和讃」が詠み継がれており、「末世に伝わる供養なり、慎み深く唱なうべし」と結ばれ、災害の記憶が現在も脈々と語り継がれている。噴火の始まりから経過が綴られ、被害や復興の様子から、成仏できない霊魂の悲鳴が続く超常現象を伝え、7日の月命日の念仏を慎み深く唱えると結ぶ
    鎌原観音堂奉仕会 ⇒ 地元の老人会は助かった93名の被災者から6,7代目で構成、先祖の供養と噴火を後世に伝える活動を続ける。79年の発掘調査以降全国から参拝者が
    記述・伝承の変化――「鞍」と「蔵」 ⇒ 書き記される史料には、時間経過とともに書き換えられてしまうことがあり、多くの誤謬が存在する原因となる
    口伝による語り継ぎの変化――鎌原観音堂の段数 ⇒ 79年の発掘調査で石段の下から女性2人の遺体発見。120余段から113段、150段など変遷の後、7950段と判明
    「後来のために」 ⇒ 災害を経験した世代が後世に出来事を伝えようと文字にした記述は、子孫のために災禍を語り継ぎ、末代までの幸福を願う意志を表現、歴史災害の中から抽出できる「語り継ぎ」本来の大切な要素を多分に含んでいる

第2節      災害からの救済と復興
    被災の時間経過の中で見る天明被害 ⇒ 78日の午前10時ごろ発生というのが通説。被災者の避難救助の先頭に立ったのは近隣の村々の有力者。幕府が「御救普請」の実施を決め、代官が見分に発ったのが825
    激甚被害地近隣での個人の救済活動 ⇒ 3人の百姓の慈善活動に対し、幕府から苗字帯刀御免を許されたり、江戸へ召被出されたりした
    耕作地の復旧――開発 ⇒ 天明泥流に覆われた耕作地の復旧作業は、「一番開発」で石を取り除き、「二番開発」で被災前の耕土を掘り起こして新しい畑に敷いたり、客土する
    「砂山」――降下後90年経過の軽石集積場所 ⇒ 「砂山」とは、降下軽石被害による耕地の復旧を目的とし、耕地の一部に軽石を集積し、その他の耕地を利用可能にする地上集積タイプの復旧方法が取られた場所で、戦前まであった砂塚・浅間塚のこと。降下した不要な軽石を塚状に集めて置いた場所。65年以降の田畑の整理で姿を消す
    湯引き――長左衛門の大笹温泉開設 ⇒ 個人奇特者の1人だった大笹村(現・嬬恋村)の名主・黒岩長左衛門は、私財を投じると同時に、大笹宿の温泉開発事業を浅間押し被災者の救済のための引湯事業として展開。鬼押出しの押し際から温水が湧き出ているのを見て大笹村を湯元として温泉を引く
    武州に広がる個人の救済活動 ⇒ 中山道最大の宿場だった本庄宿の豪商は慈善家でもあり、救援金の拠出に加え、自らの土蔵(「お助け蔵」)の建設に困窮者を雇用して支援
    少林山達磨寺 ⇒ 高崎市にある福達磨発祥の地・黄檗宗少林山達磨寺は1697年開寺。後輩被害が大きく、経済状況の良くない周辺の農民救済のための殖産事業として達磨像の作り方を伝授し、「縁起達磨」として広めた
    伊与久新沼 ⇒ 伊勢崎市の伊与久新沼は、「困窮沼(コンキンヌマ)」と呼ばれ、鯉の養殖で栄えたが、天明の被害を受けた民への救済という形で地域に伝承された。65年以降埋立
    北牧村の渡船事業 ⇒ 江戸時代、三国街道に架かる橋として重要な刎(はね)橋で、流失のたびに架け替えられてきたが、天明の噴火では渡し船とし以後60年にわたってその賃金を北牧村の収入とし、災害復興の一手段とした。北牧宿の再開は25年後
    復旧復興に関わる救済行為 ⇒ 幕府の救済措置よりも、半自治的支配下にあった私領の方が迅速かつ完全に行われた事例がある。復旧のための御手伝普請は、熊本藩に命じられた。噴火がらみで阿蘇のある熊本になったのではないか。郷土愛、隣人愛を根幹として救済の手立てが講じられてきたのは、災害という出来事から派生した事実として語り継がれ、議論される必要性を考えるべき

第3節      人物伝に登場する「天明3年」
噴火勃発時は、田沼の時代、学問・文化・芸術が花開いた時で、1774年『解体新書』刊行、1797年本居宣長の『古事記伝』刊行、蕪村が天明3年末に死去、円山応挙が《水仙図》を描くなど、江戸中期以降の文字記録の庶民層への普及は、より多くの情報を今日に伝えることに貢献し、この災害を語り継ぐ要因ともなっている
    明治維新を導いた高山彦九郎――救民の法 ⇒ 「寛政の3奇人」で旅日記が貴重な資料として知られ、噴火の際は京都に滞在、そこで義援金集めなどの活動をしている。東海道の入口だった三条大橋東詰めにある高山彦九郎皇居望拝之像は1928年日向市の住職の発願建立で、台座の銘は東郷平八郎の揮毫だが、44年金属回収に供出され、61年再建
    菅江真澄が記した天明の浅間噴火――信州本洗馬での記述 ⇒ 生涯を旅に生きた日本民俗学の先駆者・菅江真澄(17541829)は、三河の生まれ。長い旅に出た直後塩尻近くの本洗馬(浅間から西南西60)で大きな音を聞き、降灰の影響はなかったが多量の軽石が降って浅間の噴火だと教えられた記録が紀行文に記されている
    一茶が記し、田善が描いた――碓氷峠からの風景 ⇒ 3尺以上の降灰で碓氷峠往還は8日間通行不可能になったが、1791年一茶が江戸から郷里の信州柏原迄の20余日の紀行文『寛政3年紀行』には碓氷峠から軽井沢を通過する間に「先の出来事」として天明3年浅間災害の情報を取りまとめている。亜欧堂田善(あおうどうでんぜん:17481822)は江戸後期の洋風画家で銅版画家として知られるが、《浅間山図屏風》は、噴火からそう時間が経過していない時期に、峠の熊野神社の見晴らし台付近から描いた図
    塙保己一の飾刀寄進――噴火鎮静の祈願 ⇒ 本庄市児玉生まれの盲目の国学者・保己一(1746)は、天明3年噴火の始まった日に盲目者の最高位である検校に昇進、その年故郷の稲荷神社に飾太刀を寄進。現在太刀の行方は不明、坐像は渋谷区にある。文字を音読して学問をするという方法を取り、太平記全40巻を6か月で丸暗記したが、その中の新田義貞が鎌倉攻めの際切通し3カ所の突破に難渋し、稲村ケ崎に太刀を投じると龍神が潮を引かせたという逸話に倣って、噴火鎮撫のために太刀を寄進したことは想像に難くない
    寛政の5鬼・亀田鵬斉――蔵書を救済にあてがう ⇒ 群馬県千代田町生まれの亀田鵬斉(17521826)は昌平校で儒学を教えたが、90年の寛政改革で朱子学以外が禁止され(寛政異学の禁)、千人以上の門下生を失い、酒に溺れるが、蜀山人、谷文晁などと交流、特に出雲崎での良寛との運命的な出会いがあり、60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求め、欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容される、空中に飛翔するような独特な書法が有名。浅間の噴火と天明の飢饉の発生に際し、大切な蔵書を売り払い、救恤(じゅつ)金に充てた
    無双力士・雷電為右衛門――噴火が取り持った角界デビュー ⇒ 雷電(17671825)は信濃国小県郡大石村(現・東御市)出身、勝率.962と史上未曽有の最強力士だが、噴火と飢饉の最中に、江戸相撲の浦風一門が興行不能となって信州長瀬村に滞在中に雷電を見て角力入りを勧め、翌年各界入りを果たし谷風に預けられた。1793年噴火した普賢岳を02年訪れ、噴火後の復興の様子を浅間との対比で『雷電日記』に残している
    彦部家9代目当主彦部信有(17651832) ⇒ 桐生市の農家で国学を学び、家督を譲ったあと出府して医学・本草学を学び、丸薬を製造、医療に従事したが、飢饉に際して薬代を支出、病気の無料治療をしたと伝えられる。家屋敷5棟が国の重要文化財指定
    「中村開田の父」真下利藤太――荒地を開田して ⇒ 吾妻川と利根川の合流地点から少し下流の中村は天明泥流が直撃、30町が荒廃し貧農部落となったが、県会議員だった真下の働きかけで1931年美田に生まれ変わる

第4節      供養碑
    石造物の建立と近世歴史災害 ⇒ 被災直後の生活一辺倒の時期から抜け出し始めると、犠牲者の慰霊の気持ちを込め、災害を風化させないために災禍の「記憶」が石に刻まれ始める。暮らしに根付いた身近な信仰対象物といえる石造物を通して、私たちは人々が災害にどう向き合ってきたかを知ることが出来る
    慰霊のための石造物 ⇒ 天明3年浅間災害に関わる語り継ぎの背景には1つの要素として石造物があり、供養碑と同時に顕彰碑や開墾の記念碑など被害から派生したものもある
    流域の供養碑 ⇒ 泥流が流れ下った沿岸に点在する供養碑は流れ下った犠牲者の弔いのためで、東京都や千葉県にまで広がる
    確かな信仰――原町善導寺の供養塔 ⇒ 「確かな信仰」とは、宗教者の立場からの論考による表現。原町では犠牲者は1人もいないが立派な供養塔がいくつもある。手厚い供養の背景は不詳。施主もバラバラ
    蜀山人の碑(噴火記念碑) ⇒ 大笹村は鎌原村の隣村で被害を免れたが、名主兼問屋の黒岩長左衛門大栄が、災いが再びあることを子孫に戒めるため、蜀山人(太田南畝)に揮毫を依頼して建立を計画したもので、大栄の13回忌に息子が建立。その後人手に渡り、現在は鬼押出し園に移設。十返舎一九(17751831)も善行寺参詣の帰路大笹で名主の所に泊まった際記念碑を目の辺り(ママ)にして、1821年出版の『諸国道中金草鞋』にこの碑を収録
    馬頭観音 ⇒ 馬の供養塔で、当時馬は大切に扱われ、被害書にも人間と並んで馬の頭数が記載されており、その数856頭。30㎞も流されて助命された記録もある
    再建された記憶――守り通される信仰 ⇒ 長野原町には、観音像と尊像を流失したが、翌年信心により聖観音を造立した記録がある
    戒名に刻まれた天明泥流 ⇒ 『鎌原村流死人戒名帳』には「川」「流」などが用いられ、逆流現象で犠牲になった人には「逆水」なども用いられている

第5節      鎮撫・慰霊と奉納
    噴火に対する人々の振る舞い――宗教的な視点 ⇒ 人々が災害に見舞われた際、仏教の果たした役割についての考察として、230余年が過ぎ去った今日なお連綿として相続されている生者と死者の深い結びつきの中に我が国における仏教思想の展開・功用がみられ、仏教者に課せたれた務めがあるとしている
    降灰と鳴動に対してとった人々の行動
    激甚被害直後にとった宗教者の行動
    成仏できない死者の霊魂の超常現象

第6節      信仰や地域文化への特化
    信仰の特化 ⇒ 災禍に遭い、それによって生じた様々な事柄や人々の身持ちが形を変え、世代を越えて営まれてきている例を抽出する。先人の供養を例祭といった地域の行事・文化へと形を変えたり、人々の暮らしの節目に位置付けたりする
    鎌原観音堂の厄除け ⇒ 1974年から観音堂の留守番が始まる
    根古屋の念仏講 ⇒ 鎌原村で始まったのは33回忌の頃。今でも年20回程の講が行われ、組織的な供養として各地で行われる念仏講の起源と、天明3年浅間災害の激震被災地での年中行事が融合した継続性を示す。根古屋は鎌原から20㎞下流の村。今日まで伝わる
    元三(げんさん)大師厄除けの起源(青柳大師、龍蔵寺) ⇒ 前橋在の寺で、浅間噴火の際、僧が読経で堤防工事の人夫を救ったという伝説がある。元三大師とは天台宗比叡山中興の祖と仰がれる良源(91285)のことで、正月3日に亡くなったので元三大師という
    戸谷塚地蔵尊 夜泣き地蔵 ⇒ 伊勢崎市戸谷塚町には700を超す遺体が漂着、夜ごとに泣き声が聞こえことから、犠牲者の霊の成仏を願って、村人が浄財を出して地蔵様を建立
    太田高林の焼き餅行事
    身護団子――再興鎌原村の出発の記憶 ⇒ 現在の鎌原村には、春の彼岸に全戸から茶碗一杯の米を集めて「身護団子」を作り観音堂に飾り、先祖を供養する風習がある
    安中板鼻の八坂神社祇園祭 ⇒ 京都八坂神社の祭礼は、古くは祇園御霊会と呼ばれ、896年全国に流行した疫病の厄災払いとして始まったが、安中板鼻地区でも八坂神社に由来する板鼻祇園祭があり、起源は浅間噴火による降灰と大雨による碓氷川の氾濫と飢饉により疫病が流行した際に行われた祇園信仰で、神輿の渡御により無病息災を願う行事として現在も続く
    久喜の久喜堤燈祭り・天王様 ⇒ 祇園信仰と結びつく八雲神社の祭礼、久喜の夏祭り。毎年7月実施。けんか祭とも
    鎌原獅子舞 ⇒ 嬬恋村重要無形文化財。春(4)、秋(9)、鎌原神社の宵祭りに奉納
    田ノ入のお地蔵さま ⇒ 渋川市にあって、1780年建立。総高230㎝の石仏

第7節      災害地名
    災害地名としての意義――「泥町」「荒れ場」 ⇒ 流下距離43㎞の原町善導寺周辺に「泥町(どろちょう)」の呼び名が残され、山門前で流れ着いた遺体の弔いが行われた伝承があり、その対岸の川戸村には泥流が置き去りにした巨大な溶岩塊があり、付近一帯を「荒れ場」と呼んでいるとの記録はあるが、道路などの開発が進んだ現在、名称も岩塊すらも残っていない
    「鬼」にまつわる地名――「鬼押出し」 ⇒ 浅間山北斜面に分布する溶岩原で、標高1200m、東西12㎞、南北は5㎞。天明の噴火で流出した溶岩流が凝固したもの。岩質は複輝石安山岩。1949年上信越国立公園指定、63年鬼押出し園、67年に火山博物館開設。浅間山と鬼との関連には、修験との関連に着目し「修験者山伏」や「天狗」との関わりが伝えられる。近隣の人々は噴火以前から浅間山を鬼が関わる山として眺めていた
    吾妻火砕流にまつわる地名――「押しぎっぱ」と「押切場」 ⇒ 鎌原地区の「田の石仏」辺りに浅間押し(岩屑なだれ)の押し止まりがあり、土質の違いが明確に確認できるが、ここを地元では現在でも「押しぎっぱ」と呼ぶ。火山噴出物が押し出した最先端、押し際の意。現在の「押切場」は火口から北へ7㎞。土地台帳には記載されず、資料や伝承もないが、吾妻火砕流の分布との一致から浅間焼けによる新地名と判断できる。「押しぎっぱ」の漢字表記でもある
    岩屑なだれ・「押し」にまつわる地名――応桑村(長野原町) ⇒ 「押し」の地名は地滑りや洪水時の堤防の決壊地などを指すが、応桑村には「大押原」「大押橋」「大押川」などがある
    天明泥流にまつわる地名――寄島と大泥 ⇒ 「寄島」は渋川市に、「大泥」は前橋市に小字名として残る。他に砂地名があるが、吾妻川・利根川沿岸には皆無
    火山灰処理の記憶にまつわる地名――灰俵 ⇒ 松井田町に残る地名。大量に降下した火山灰の処理に因んだ名前と推定される

第8節      年忌と供養
    幕命をもった施餓鬼の修行 ⇒ 天明8年幕命を以て、浅間噴火から天明飢饉、3年後の関東地方大風水害による利根川大洪水、京都大火などの供養として、施餓鬼が修められた。1657年の振袖火事の供養が両国回向院の起源だが、そこに浅間噴火に関わる2基の供養塔があり、それぞれ2年後6年後の法要で建立された記録が残る
    善光寺の追善大法要――来迎の聖等順、夜毎の泣き声を止める――天明4年、10日にわたって善光寺の大僧正・等順が執行、「来迎の聖」と称す
    追善供養のなかの「三十三回忌」 ⇒ 回忌とは現世に生きる人々と死者との関係について段階を追って繋がりを整理していく機能を持つ。鎌原村でも三十三回忌の1815年に最初の供養塔建立
    百回忌の頃 ⇒ 1883年鎌原地区の住民宅で百回忌法要。中之条町の林昌寺門前には、天明3年に係る116基の石造物のうち唯一の100年の供養碑がある
    百五十回忌 ⇒ 善導寺、鎌原村、峰の茶屋の3カ所で盛大な供養祭挙行
    百八十回忌~二百十回忌の頃 ⇒ 百八十回忌は鬼押出しにある上野寛永寺別院に寛永寺一行が来て法要を行う。二百回忌には新小岩の善養寺でも供養祭が行われ、住職が「浅間山焼け供養碑和讃」を作り、供養碑を建立。鎌原区とも交流があるという 

小結
火山災害としての歴史災害の代表格とされる天明3年浅間災害の経過は、昨今の災害との対比に値する点が見出せる ⇒ 為政者側からの「普請」としての取り組みのほかに、民からの「施し」があって、史料として文字に記録されるとともに言い伝えとなって語り継がれている
我が国には、災害の支援に対し多くの人々が率先して応ずる社会的伝統がある。地域の有力者は率先して救済活動を行い、民衆の中から既に官民一体となって被害に対処しようとする動きや救済の形が出来ていたことが確認される
幕僚たちにとっても強い思いで災害対応に当たったことは被災地に派遣された復興担当役人の報告書にも明らかのみならず、謝恩之碑すら見られる
災害直後の非常時の隣人の温情極まる施しは、隣村・地元郡内の有力者の手によるもので、それぞれの村に生き残った鎌原の村人を引き取り、その後埋没した村の上に小屋掛けをして新たな村をスタートさせた。家族の再生という世にも稀な鎌原村再建には、尽力した人物の存在があったことを改めて確認

第4章      我が国の火山系列の博物館について
マグニチュード6以上の地震発生回数が世界全体の20.5%、活火山の数は7.1%が集中
第1節      我が国の「火山」
    火山の噴火記録や火山研究の流れ ⇒ 噴火の古記録は阿蘇山の553年噴火が初現。近代科学としての火山学は、ジョン・ミルンを初代に、現在は第56世代
    国内110の活火山と50の火山 ⇒ 1974年火山噴火予知連絡会発足。「過去1万年以内に噴火し現在も活発な噴気活動のある」活火山は世界全体で1500あり、うち環太平洋では600超、日本には110.うち50の火山を前兆観測の対象とする
    火山と情報――砂防や火山防災としての情報 ⇒ 行政機関の適切な情報配信
    火山地域にある国立公園とビジターセンター ⇒ 1931年国立公園法、57年には自然公園法に改訂。活火山のある国立公園は18、火山地域にある公園は21。公園内には情報展示機能のあるビジターセンターがあり、国管理が36、都道府県管理が47
    ジオパークと火山系列の博物館 ⇒ ジオパークは2004年ユネスコの支援で各国に広まる。日本では43地域で認定、うち8つが世界ジオパークに認定。浅間山北麓にもある

第2節      火山系列の博物館の定義と分類
    館の定義 ⇒ 火山博物館と称するのは、浅間、阿蘇、伊豆大島、洞爺湖など。山岳博物館も含め、火山系列の博物館と総称する。約89が存在
    館の分類 ⇒ 「資料による分類」では、「総合博物館」「人文系博物館」「自然系博物館」があるが、火山系列博物館はそのいずれにも該当

第3節      火山系列の博物館の一覧

小結
現在気象庁が「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」としているのが50

第5章      「風土記の丘」構想の再検討から学ぶ
1966年開始の「風土記の丘」構想では、高度経済成長期に全国各地で開発事業が増大するに伴い発掘調査で見つかった埋蔵文化財の史跡指定数が急増したことに伴い、史跡を広い自然環境と一体的に整備保存し、資料館の併設を含め整備しようとした。全国で13カ所設置され、94年終了したが、総括する
第1節      評価を扱う研究
13の事業のうち、半数が設置され、地域文化財を主体とした歴史的環境の保存とそれを生かしたまちづくりが進められ、まちづくりの1つの方向が示された
広く自然環境と史跡、遺跡を一体保存し、活用することを目的とした点で画期的なものであり、「サイト・ミュージアム」の初現として評価できる

第2節      構想のあらまし
「風土記の丘」構想の概要は、古墳や城跡(すべて国指定史跡)などその地域の歴史や風土の特性をよく表す遺跡が多くある地域を広域にわたって指定し、保存と環境整備をし、更に資料館を設けてその地域の歴史、考古、民族等の資料を収蔵・展示して、遺跡や資料の一体的な保存と普及活用を図るために設けられた遺跡地域をいう
文化財保護委員会(現・文化庁)の補助事業として実施してきた史跡等保存活用事業の1
宮崎県西都原(さいとばら)の事業を皮切りに全国13カ所に設置。さきたま、紀伊、近江、立山(富山)、吉備路、八雲立つ(島根)、房総、みよし(広島)、宇佐などで、近江(安土城)と立山(立山信仰の中心地)のほかはすべて古墳群の整備が中心

第3節      史跡保存の背景
全国に46万カ所以上の遺跡が存在するが、年間1万カ所くらいが消滅していく
1966年、「開発か保存か」の全国的な文化財問題に直面した市町村長により「全国史跡整備市町村協議会」が組織され、広大な面積の土地を公有化する必要から史跡等購入費の補助金80%獲得に漕ぎ着ける

第4節      風土記の丘設置の経過と理念
「風土記の丘」の名称は、713年元明天皇の詔によって諸国で編纂された地誌「風土記」と必ずしも密接に関連はしない
平成に入って新たな整備事業が展開され、個別の事業の見直しも進み、89年には史跡等活用特別事業(ふるさと歴史の広場事業)なども始まり、94年には事業終了

第5節      国庫補助に拠らない風土記の丘
国庫補助によらず、自治体等で設置された「風土記の丘」が6カ所ある ⇒ うきむた(山形)、なす(栃木)、しもつけ(栃木)、常陸(茨城)、古代集落の里(高山)、壱岐(長崎)

第6節      20年経過した現況から学ぶこと
    展示・運営の特化
    保存整備の系譜
    今度どう活かしていくか ⇒ 第1号の西都原は花による景観から県内有数の観光地となる一方、史跡を主役に取り戻そうとして04年には考古博物館が開館し構想が発展
    観光との接点 ⇒ 歴史との対話を生む場として、風土記の丘構想が活かされている
    利用者にとっての価値 ⇒ 「パブリック・アーケオロジー」では、人を中心に文化財の活用を考える視点が求められている。まちづくりとの一体化の動きの中にも感じられる
    点・線・面の結びつき ⇒ 点在する地域の史跡を観光と結びつけて活用・展開していく

小結
「風土記の丘」構想は、我国の文化財保護事業の歴史の上でも、環境保全の広域性、市民生活への定着と積極的な活用を目指したことで遺跡保存と活用を目指した史跡整備として画期的ともいうべき事業

第6章      語り継ぎの具体から野外博物館への展開とテーマ
浅間災害語り継ぎの具体例を取り上げる
第1節      鎌原村――埋没した土砂の上に子孫の生活が続けられているムラ
    埋没した鎌原村と今の鎌原 ⇒ 火口から12㎞ほどに位置する標高900mの高冷地にあり多毛作には不向きで、出稼ぎなどで補っていた。流死した馬が意外に多く、荷駄により生計が保たれていた可能性もある。室町時代に形成された集落、近世の鎌原村は中山道の沓掛宿と草津温泉を結ぶ三原通りの街道の要所。天領で、人口597人。家屋93軒すべてを流失、馬は200頭中165頭が死んだ。荒地高は90%。高台の観音堂にいた人だけが助かり、「天めいの生死をわけた15段」の句碑が石段脇に手向けられている。45mの土砂に埋まりながら、その上に現在の鎌原区が再建され、「世界で唯一噴火で発生した土砂に埋まりながらその生活が守り続けられているムラ」となっている
    鎌原観音堂の現在 ⇒ 厄除け観音として信仰。観音堂奉仕会の活動の場。地域の活動として先祖を敬い語り継ぎが展開される場所
    復興の過程 ⇒ 先祖や家族が眠る土砂の上に、時間を置かず再び新たな村を築いた点と、生き残った村人たちは家族の契りを結んだ後家族の再生がなされた点で特別な復興の形態をとった。3カ月後の7組の再婚者同士の集団結婚式に始まり、今日の地縁や結びつきの強い鎌原区住民の礎となった。住居、田畑の再建は平等の原則で一貫。幕府の多額を投じた御救普請によって、耕地の再開発、道橋の普請などインフラの復旧整備が進められた。東日本大震災から再興した福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズの「一山一家」の意識と共通(炭鉱では安全操業のためには家族を含めた全員の一致団結が必要なところから、山で働くすべてが家族であるという考え方)
    「嬬恋村風土博物館」の構想 ⇒ 91年「嬬恋村総合計画」策定、鎌原地区の史跡公園化を中心として嬬恋村全域の文化財の保存を打ち出し、95年には博物館構想が示されたが、中核施設としては不十分として具体化は進まず
    嬬恋郷土資料館ボランティアガイド(友の会ガイド部会) ⇒ 所要時間1時間程度のガイドツアー。ガイドは09年結成、約10名が活動。郷土資料館は93年の開館
    寄贈のポンペイの人型 ⇒ 2011年、ポンペイ遺跡で発掘された噴火犠牲者の人型が引き渡され、郷土資料館で常設展が始まる。02年日本の発掘隊が現地で発見したものの複製で、ポンペイ点の展示品だったが、終了後主催者の日本テレビ放送網が嬬恋村に寄贈。1983年イタリア文化省ポンペイ遺跡総監督官らが鎌原観音堂を訪問したのを機に村は「日本のポンペイ」として広報活動を始め、両自治体の交流が深まる
    火山災害遺跡と語り継ぎの接点 ⇒ 鎌原村で現在も続けられている浅間山噴火和讃は、現在も脈々と語り継がれている。和讃の成立は明治初年頃で、鎌原の人々が心の安住をもって祖先を弔う気持ちを行為や形に変えられるようになったのはこの時期と考えられる

第2節      川嶋村――絵図に描き残され地中に眠るムラ
    川嶋村 ⇒ 渋川市北西部にあって、渋川地域では最も被害が甚大で、123人の犠牲者を出す。石高686石中580石に泥入。河床勾配が緩くなる地点にあって川敷きが高くなり、高台に移転するための用水普請を願い出ているが、村再建に先立ち用水普請を願い出たのはここだけ
    流され助かった人々 ⇒ 千葉の行徳まで150㎞も流されて助かった人もいる
    見つかった甲波宿祢神社跡と守り継がれる甲波宿祢神社の元社(もとやしろ) ⇒ 1997年の発掘で神社の石敷きの基壇発見。神社跡に元社を示す碑を建立。上野国の古社12社のうち四ノ宮にあてられ、771年創立で『延喜式』にも記載。天明5年現在地の高台に再建
    金島の浅間石と周辺の浅間石の存在 ⇒ 渋川市川島にある「金島の浅間石」は、天明泥流で運ばれてきた総称浅間石とされる巨大な岩塊の1つ。古文書でも「火石」と呼ばれ高温を保っていたことが見分された。52年指定の群馬県指定天然記念物。高さ44m、東西15.75m、南北10m、周囲43.2m。他にも点在するが、飛び抜けて大きい
    柴原観音や福性寺廃寺跡 ⇒ 観音堂は1805年の再建(23回忌供養?)。明治に廃寺となった福性寺跡も現在の高台に残されている
    描き残された被災前の絵図 ⇒ 1764年描かれた《川嶋村絵図》には諸寺社が描かれ、「絵図に描き残された地中に眠る村」を浮かび上がらせる。実際の発掘調査も行われ、その一部が当時の景観として掘り起こされ検証されている

第3節      震災遺構の存在
    震災遺構の課題 ⇒ 震災遺構は、人災であれ自然災害であれ、人智を超えた出来事に対して畏敬の念を忘れずに次世代や後世に伝えるとともに、将来への備えを人々に植え付ける機能を有するが、地域や住民の合意形成の上に進められるべき問題であり、絡み合う多くの課題が介在
    国内各地の「日本のポンペイ」 ⇒ 渋川市子持の黒井峯遺跡は6世紀に大きな噴火を繰り返した榛名山の火砕流で埋没した1500年前の村の1つで「日本のポンペイ」と呼ばれ、91年国の史跡に指定。同じ渋川市内の中筋遺跡や、上信高速道工事で発掘された金井東裏遺跡、1100年前の開聞岳の噴火の火山灰で密閉された指宿市の橋牟礼川(はしむれがわ)遺跡、1586年の天正大地震で埋没された「帰雲城」の城下町が一瞬にして消え失せ、未だに場所すら特定されていない、福山市の草戸千軒町遺跡、福井市の一乗谷朝倉氏遺跡なども「日本のポンペイ」
    「ポンペイ」たる所以 ⇒ ポンペイが他の古代遺跡と決定的に異なるのは、繁栄の真っ只中に火山被害という形で軽石と火砕流に封印され、西暦79年当時の街の姿を我々が目の当たりにできるということ。被災の経過復原とともにさらに詳細な発掘調査の進展が可能
    中越地震「中越メモリアル回廊」を訪ねる ⇒ 04年の地震のメモリアル拠点群
    ダークツーリズムとの接点 ⇒ 歴史的な災害や悲劇の発生した場所を訪ねて、亡くなった人たちを悼み、そこから学びを得る旅のこと
    「震災遺構の保存工事完了」――東日本大震災から4年 ⇒ 震災遺構の保存の具現化第1号となったのは宮古市田老地区の旧たろう観光ホテルの保存工事が完了

第4節      野外博物館の構想
残され、語り継がれてきた事物を、同様に人々に受け入れられる事物へと変換する視点を持つことが必要であり、語り継ぎの展開、全体の保存と活用について考える
    「天明3年浅間災害」を語り継ぐテーマの設定 ⇒ 発掘調査された遺跡数は244。語り継ぐ狙いは、「知の共有」であり「人類の知」として蓄積していくことにある。地域の声を添えておく展示、自分事のように捉えてもらえる展示を野外博物館構想の中に見据えておく必要がある。想いをモノに託すことへの行為、それらに新たな息吹を与える活動が「語り継ぐ」ことの1歩である
    遺構の保存と公開のヒント――天明3年の遺構 ⇒ 長野原町の久々戸(くくど)遺跡では、古道「草津みち」が見つかっているが、案内の看板設置が必要だろう
    周遊ルートとしてのテーマ――観光とのインタラクション
    市民参加の「発掘調査」をテーマにする
    災害情報のデジタルミュージアムへの展開――「ひなぎく」と「語り継ぐもの」 ⇒ 研究者は研究室がホームページをデジタルミュージアムとして運営しているケースがある。国会図書館東日本大震災アーカイブ(愛称:ひなぎく)は図書館と総務省が震災の記録や教訓を次の世代に伝えていくために設立したポータルサイト
    「桜島まるごと博物館」の展開例――NPO法人桜島ミュージアム
    描かれる浅間山と天明3年噴火 ⇒ アートの分野においても、災害語り継ぎの新たな視点として着目
    伝統芸能の継承――天明3年浅間災害に纏わる祭りと年中行事暦
    周年行事――供養祭記念誌の発行・節目の記念事業

小結
語り継ぎは埋もれてしまいがちだが、記憶を語ることは出来事を知るのみではなく、自分たちの住む土地の将来を語り、創造することにつながる
将来を創造していくことを可能にしてくれる考古学的な可能性として、天明3年浅間災害にも同じ要素が存在していると見て展開を試みることを目指したい

終章
    天明3年浅間災害の復興像と語り継ぎ ⇒ 災害発生直後の隣人の温情ある施しや機転がなければ、村の復興はあり得なかった。その1例として鎌原村の復興の過程を読み解くことが出来る。復興できたが故に、口承、碑銘、文書史料などの記録類の保存と相俟って堅実・着実な語り継ぎがなされてきた。困難な状況に陥っても再び立ち上がっていく知恵や手段を歴史の文脈の中から学ぶことは、語り継ぎの中から浮かび上がってくるものといえる
    災害の地点情報 ⇒ 天明の噴火に関わって発掘調査され保存公開されている遺跡は存在しないが、災害にまつわる150以上の地点情報が存在する
    野外博物館としての全体の保存と活用 ⇒ 鎌原村の他にも多くの語り継ぎの歴史を抱えており、広域にわたり残された語り継ぎを集約し体系化に努めた
    天明3年浅間災害語り継ぎの展開の具体 ⇒ 集約体系化の作業から、災害を記憶にとどめ継承していくための情報を発信し、活用展示工夫の展開を図っていきたい


おわりに
歴史災害としての語り継ぎの取りまとめをしておくことは、これから先も歴史的な出来事として時間が重なっていく中で必要なこと
次の展開を考える中で行き着いたのが、「展示品、蒐集品を充実させ、意味あるものにどう発展させていくかということについての研究と手立て」を追求する博物館学
天明3年の干支は癸卯(みずのとう)。発生後240年の4回目の癸卯を契機とし、記念事業に似通う活動を展開していきたい


Wikipedia
浅間山は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568m成層火山。山体は円錐形でカルデラも形成されており、活発な活火山として知られる。
l  概要[編集]
数十万年前から周辺では火山活動が活発であり、浅間山は烏帽子岳などの3つの火山体と併せ、浅間連峰もしくは浅間烏帽子火山群と総称される。これまでに噴火山体崩壊を繰り返し、現在の姿となった。大規模な山体崩壊と崩壊土砂が流出した痕跡は、遠く離れた群馬県前橋市台地上などに厚い堆積物として残っている。現在噴火活動をしているのは、前掛火山である。山頂火口からは噴煙が上がり、その周りには複合のカルデラがあり、内側の外輪山の西側に前掛山がある。北側のカルデラは山頂部から「鬼押出岩」へと流れ出た溶岩流により崩壊している。外側の外輪山には、黒斑山、牙山、剣ヶ峰などがある。気象庁は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、ランクAの活火山に指定[2]
1949年(昭和24年)97日に山域は、上信越高原国立公園に指定された[3]2007年、日本の地質百選に選定された。日本百名山[4]及び花の百名山[注釈 2]に選定されている。
l  火山活動[編集]
浅間山の活動史[編集]
噴火口の位置と溶岩の性質から、3つに分類されている[6]
1.    黒斑期(約13-2.6万年前)
玄武岩質安山岩及びから安山岩質の溶岩。現在の黒斑山は東に開いた馬蹄形カルデラである。この馬蹄形カルデラは約2.8万年前の塚原・塩沢・応桑岩屑なだれの発生によって形成されたと見られている。山体崩壊した体積は4 km3と推定されており[7]、カルデラ形成以前は現在の湯の平付近に中心火道を持つおよそ2,800m富士山型の成層火山であったと考えられている。この時に発生した泥流の痕跡が前橋台地や浅間山周辺の流れ山として確認できる。また、南軽井ではこの泥流に湯川が堰き止められ、大きな湖が形成された(南軽井沢湖成層)。溶岩流として牙溶岩グループや剣ヶ峰溶岩グループ、三ツ尾根溶岩グループなどを、火山灰として北関東ローム層の板鼻褐色軽石層群 (BPF) を形成[8]。約8万年前から約7万年前の間と、約4万年前から約3万年前の間は活動が見られず、休止期となっている。
2.    仏岩期(約2.6-1.3万年前)
浅間山を南から見ると山体右側に膨らみを確認する事ができる。これが仏岩火山である。黒斑山の山体崩壊後に活動を開始し、最盛期の山体の高度は海抜2,000mを越えた。粘性に富む紫蘇輝石角閃石デイサイト質及び、流紋岩質[9]の厚い溶岩流が繰り返し流出し、緩傾斜の火山体を形成した。軽井沢に隣接する離山は、仏岩期の最初期にあたる約2.6万年前の噴火によって形成された溶岩ドームである。また、白糸の滝は湖成層上に堆積した仏岩期の軽石層から湧水している。群馬県前橋市の岩神稲荷神社にある「岩神の飛石」は、約24千年前の崩落で発生した泥流で到達したものと推定されている[10]
1.6万年前に北関東ローム層の板鼻黄色軽石層 (YP)や、小諸第一火砕流、カラフル火山灰、浅間草津テフラなどを噴出する浅間火山の中では最大級の噴火(合計噴出量4.38 DRE km3)が発生した[8]万座鹿沢口周辺に見られるベージュ色の崖はこの時の噴出物である。この噴火によってカルデラが形成されたと考えられている。また、この時の噴火の噴出物の総量は10.95km3VEI6、これは、ピナツボ山の1991年の噴火の噴出物の総量(10km3)をも上回る、大規模なものだった。
3.    前掛期(約1.3万年前-現在)
安山岩質の複成火山で、仏岩火山の活動終了後、黒斑山と仏岩火山の中間地点である浅間前掛火山(狭義の浅間火山)で噴火が始まった。13層の降下軽石層が確認され、大規模噴火の噴火間隔は700 - 800年と考えられている[11]。大きな噴火としては4世紀、1108年、1783年のものが知られ、溶岩流、火砕流の噴出を伴っている。1108年の噴火(噴出物の総量1.55DRE=3.875km3)は1783年(噴出物の総量0.73km3)の噴火の5倍程度の規模で山頂に小規模なカルデラ状地形を形成した。現在は比較的平穏な活動をしているが活動が衰えてきたという兆候は認められない[12]
史書などでは以下の年に噴火している(太字は被害記録があるもの)。
68511081281?年、1427?1527-1528年、153215961598年、1604年、1605年、1609年、1644-1645年、1647-16491651-1652年、1653または1655-1659年、1669年、1704年、1706年、1708-1711年、1717-1718年、1720-17231728-1729年、1732-1733年、17541776-1777年、1783年(天明の大噴火・鬼押出し)18031815年、1869年、1875年、1879年、1889[13]1894年、1899年、1900年、1901年、1902年、1904年、1907年、1908?19091910年、1911-19141916年、1917年、1919年、19201921年、1922年、1927年、19281929年、193019311932年、1934年、193519361937年、1938年、1939年、1940年、1941年、1942年、1944年、1945年、1946年、19471951年、1952年、1953年、1954年、1955年、19581959年、19611965年、1972年、1973年、1982年、1983年、1990年、2004年、2008年、2009年、2015年、2019記録に残る主な噴火[編集]
l  浅間山の噴煙、200812
685天武天皇143月:飛鳥時代)『日本書紀』に白鳳地震5ヶ月後、信濃国(現・長野県)で灰が降り草木が枯れたとする記述がある。浅間山の噴火とされたが[14]、具体的に浅間山と記述されているわけではなく、風向きから寧ろ西方の例えば新潟焼山焼岳などの噴火の可能性もあるとされる[15]
1108年(嘉承3年、天仁元年:平安時代 天仁大規模噴火。噴火場所は前掛山で30億トンと推定される噴出物を伴う大噴火。火山爆発指数:VEI5上野国(現・群馬県)一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらした。『中右記』に記録されている。天仁元年95日の条に、この年の40年も前の治暦年間(1065 - 1069年)に噴煙が上がっており、その後も少しではあるが噴煙が上がり、同年721日になって突然、大噴火を起こした。噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野の国一帯に及び、田畑がことごとく埋まってしまった、と記されている[16]。復興のために開発した田畑を豪族が私領化し、さらに荘園へと発展した。この噴火は上野国の荘園化を促すきっかけとなった。また、長野県側にも火砕流(追分火砕流)が約15km程駆け下り、湯川、小諸市石峠付近まで達した。天明の大噴火よりも大規模な噴火だったとされている。最近、12世紀初めの欧州における数年間の異常気象、大雨や冷夏による作物の不作と飢饉の原因が浅間山の噴火であった可能姓が示唆された[17]
1128 大治3 大規模なマグマ噴火、噴火場所は前掛山。火山爆発指数:VEI4
1532 享禄4 噴火場所は山頂付近。噴石は火口の周囲 8kmにわたり落下、直径25m 以上の「七尋石(ななひろいし)」が残っている。火山爆発指数:VEI2
1582 天正10 多聞院日記』『晴豊公記』『日本史』などが、211日に浅間山が噴火して、京都からでも観測できたと伝えている[18]
1721 享保6 火砕物降下。噴石のため登山者 15名死亡、重傷 1名。火山爆発指数:VEI1
178385天明378 大噴火。天明噴火 噴出物総量4.5×108m3、火山爆発指数:VEI4
49日(旧暦。以下この項目では同じ)に活動を再開した浅間山は、526日、627日と、1か月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた。
627日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増した。
76日から3日間にわたる噴火で大災害を引き起こした。最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて、約3か月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。鎌原村(現・嬬恋村大字鎌原地域)と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込んで天然ダムを形成して河道閉塞を生じた。天然ダムは直ぐに決壊して泥流となり大洪水を引き起こして、吾妻川沿いの村々を飲み込みながら本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市から玉村町あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運び、当時の利根川の本流であった江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられた。この時の犠牲者は1624人(うち上野国一帯だけで1,400人以上)、流失家屋 1151戸、焼失家屋 51戸、倒壊家屋130戸余りであった[19]。最後に「鬼押出し溶岩」が北側に流下して、天明3年の浅間山大噴火は収束に向かったとされている。
長らく溶岩流や火砕流が土砂移動の原因と考えられてきたが、低温の乾燥粉体流が災害の主要因であった[20]。最も被害が大きかった鎌原村の地質調査をしたところ、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、1979年(昭和54年)から嬬恋村によって行われた発掘調査では、3軒の民家を確認できたが、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている。2000年代の発掘では、火山灰は遠く栃木県鬼怒川から茨城県霞ヶ浦埼玉県北部にまで降下していることが確認された[21]。また、大量に堆積した火山灰は利根川本川に大量の土砂を流出させ、天明3年の水害、天明6年の水害などの二次災害被害を引き起こした[22][22]
この時の噴火が天明の大飢饉の原因となり、東北地方で約10万人の死者を出したと長らく認識されていたが、東北地方の気候不順による不作は既に1770年代から起きていることから直接的な原因とは言い切れない。一方で同じ年には、東北地方北部にある岩木山が噴火(413日・天明3312日)するばかりか、アイスランドラキ火山Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火、68日)とグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の長期噴火が起き、桁違いに大きい膨大な量の火山ガス成層圏まで上昇。噴火に因る塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させたことから北半球低温化冷害をもたらした。このため既に深刻になっていた飢饉に拍車をかけ事態を悪化させた面がある。「火山の冬#有史時代の事例」も参照。
1938年(昭和13年)67 降灰多量。噴出物総量2×105m39261343分噴煙高さ 8,200m。火山爆発指数:VEI1.3
1947年(昭和22年)814 噴煙高さ 12,000m、噴石により11名の犠牲者。火山爆発指数:VEI1
1950年(昭和25年)923日午前437分に大爆発。登山中の高校生1人が噴石を頭に受けて死亡。降灰は茨城県、埼玉県、東京都にも見られた。爆発音は名古屋市まで届いた[23]
1958年(昭和33年)1110 午後1050分、突然大爆発し噴煙高さ 7,000 - 8,000m。噴出物総量3.6×105m3、火山爆発指数:VEI1
1973年(昭和48年)21 爆発、小規模な火砕流発生。約1ヶ月前から活発な火山性地震を観測(113日、14日合計150回超)し、524日まで微噴火まで合わせ87回の噴火と活発な活動が続いた[24]。火山爆発指数:VEI2
1983年(昭和58年)48 爆発、福島県太平洋岸でも降灰を観測。火山爆発指数:VEI0.9
2004年(平成16年)91 2020分頃噴火確認。小康状態の後、914 - 18日にかけて、及び923日には中規模の噴火[25]1114日以降噴火は観測されず[26]。火山爆発指数:VEI1
2008年(平成20年)810 小規模噴火を確認[27]
2009年(平成21年)22 噴火確認。関東平野の広い範囲に10g/m2 - 50g/m2の降灰。ウィキニュースに関連記事あり。[28]火山爆発指数:VEI1
2015年(平成27年)
616 午前930分頃、空振を観測しない程度の小規模噴火。北から北東にかけて微量の降灰を確認[29]
619 17時頃ごく小規模な噴火が発生[30]
2019年(令和元年)
872208分頃、小規模噴火。同日、浅間山に火口周辺警報(噴火警戒レベル3(入山規制))を発表[31]
8251928分頃、噴火
l  防災[編集]
過去の噴火事例から避難経路などを取りまとめたハザードマップの作成が行われている[32]。また、長野県小諸市の千曲川河畔まで溶岩流が流れた痕跡や群馬県側の吾妻川では、山体崩壊に伴い大規模な土石流が流下し、前橋市付近までの広い地域に土砂が堆積した形跡があり、山体付近だけの問題ではない。
火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている[33]。また、東京大学地震研究所等により36524時間の観測が行われている。
l  地理[編集]
浅間火山の地形[編集]
前掛山 - 中央火口丘、釜山火口(現在の火口)がある
黒斑山 - 古期成層火山のカルデラ縁
小浅間山溶岩ドーム。釜山火口から東3.8km
離山 - 溶岩ドーム、比高は約200m、釜山火口から南東10km
石尊山 - 前掛山の南側中腹に位置する溶岩ドーム、比高約250m、釜山火口から南西3.3km
l  その他[編集]
浅間山の南麓、長野県側には軽井沢町が、北麓の群馬県側には吾妻郡嬬恋村と長野原町北軽井沢があり、風光明媚な避暑地として古くから開発が進んでいる。
鬼押出し、過去に流出した鬼押出溶岩流の跡が鬼押出し園及び鬼押出し・浅間園として整備されている。浅間園内に浅間火山博物館がある。
白糸の滝火山噴出物が堆積した水平面から湧水が吹き出すが名所となっている。
浅間山熔岩樹型、天明3年の浅間山大噴火の際、火砕流が発生して群馬県側に流れ、原生林に到達。高熱の火砕流は木を包み込むように流れ、生えていた樹木が燃え落ちた。やがて木の燃えかすが朽ちて井戸のような穴だけが残ったものである(「溶岩樹型」という名称ではあるが、実際には火砕流によって形成されたものであることがわかっている)。嬬恋村には樹型が数百個見つかっており、そのうちの約百個は嬬恋村教育委員会の手によって樹型内に溜まった土や枯れ葉を定期的に除去する保護活動と周囲の整備が続けられている。樹型の大きさは直径数十センチメートル、深さ1メートルほどの小さなものから、大きなものでは直径2メートルを超え、深さが5メートル以上に及ぶ巨大なものまである。樹型内にはヒカリゴケが群生しているものもあり、整備された区域では樹型と併せて容易に観察することができる。昭和15年(1940年)830日、国から特別天然記念物に指定された。
l  源流の河川[編集]
以下の源流となる河川は、それぞれ日本海と太平洋へ流れる[34]
蛇掘川濁川、湯川など 千曲川の支流)
吾妻川の支流 利根川水系
l  動植物[編集]
浅間山はシラビソオオシラビソを中心とした亜高山帯の自然植生を残し、その周辺にカラマツ天然林が広がり、野生の動物が多数生息している。その中でも、イヌワシツキノワグマなどの生息地として重要であることから国指定浅間鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積32,218ha、うち特別保護地区947ha)。
l  信仰と伝承[編集]
「あさま」は火山を示す古語とされる。富士山の神を祀る神社浅間神社(せんげんじんじゃ)と呼ばれるのも同様の理由であり、阿蘇山の「あそ」も同系のことばであると言われる。浅間山も多くの山々と同じく、古くから山岳信仰の対象となっており、浅間神社(通常の浅間神社とは祭神が異なる)が鎮座している。
l  雪形
浅間山の南斜面、北斜面にはになると雪形が出現する。南斜面にはの模様が、北斜面には逆さ馬(馬が頭を下にしている様子)出る頃に苗代の準備を行う風習がある[35]
l  登山[編集]
浅間山の火口付近は、火山噴火に伴い、1972年(昭和47年)より立ち入りが禁止されてきた。その後の沈静期には規制が解除されたこともあるが、その火山活動に応じて地元自治体より火口からの一定の直線距離以内が立入禁止区域として登山規制になることがある。
l  著名人の登山の記録
深田久弥が高等学校一年生の1922年(11年)7月に登頂[4]
浩宮(当時、今上天皇)が1966年(昭和41年)84日に峰の茶屋から登頂[36]
噴火予報は2018830日以降、「噴火警戒レベル1」(活火山であることに留意)となっている[37]
軽井沢口:国道146号線「峰の茶屋」コース。
浅間山火口周辺立入禁止(火口から0.5キロメートル以内規制)。
小浅間山・石尊山へ通ずる登山道は登山可能。
小諸口:「黒斑コース・火山館コース」
浅間山火口周辺立入禁止(火口から0.5キロメートル以内規制)。
前掛山まで入山可能。
以前は嬬恋村から黒斑山を経由する登山道もあったが、雨で登山道が崩壊してしまい、現在は不通となっている。
l  舞台となった作品[編集]
映画
風来坊探偵 赤い谷の惨劇 - 主演千葉真一監督深作欣二による1961年(昭和36年)の日本映画。山麓の牧場高原が舞台となっている。
短歌
信濃なる浅間の嶽にたつ煙 をちこち人の見やはとがめぬ在原業平朝臣(『伊勢物語』)
暮れ行けば浅間も見えず歌哀し佐久の草笛歌哀し島崎藤村(千曲川旅情のうた)
俳句
吹き飛ばす石も浅間の野分かな松尾芭蕉
冬の浅間は胸を張れよと父のごと加藤楸邨
書籍
つまごい-天明三年浅間山代噴火秘話 / 福本順也
浅間山、歴史を飲み込む-天明の大噴火 / 著:小西聖一・絵:小泉澄夫
浅間山大噴火 / 渡辺尚志
神話風土記 富士浅間造山騒動記 / 吉井正徳
軽井沢を守った人々-浅間山米軍演習地反対運動の思い出 / 田部井健次
浅間山の見える村で / 南史子・池田勝子
浅間立松和平
その他
桃神祭2016 〜鬼ヶ島〜 - ももいろクローバーZ2016813日、814日に横浜国際総合競技場で開催したコンサート。オープニング・エンディング映像が山麓の鬼押出し園で収録された。演出は佐々木敦規
注釈[編集]
1.    a b 最高点は山頂火口の東端の標高点で、山頂部南端に三等三角点(点名「浅間山」2,4939.36m)がある[1]
2.    ^ この著書で、浅間山を代表する高山植物ムラサキなどを紹介した[5]
3.    出典[編集]
4.    ^ “日本の主な山岳標高”. 国土地理院. 201134日閲覧。
6.    ^ “上信越高原国立公園の紹介”. 環境庁. 201134日閲覧。
7.    a b 深田久弥『日本百名山』朝日新聞出版、19827月、168-171頁。ISBN 4-02-260871-4
8.    ^ 田中澄江『花の百名山(愛蔵版)』文藝春秋19976月、259-261頁。ISBN 4-16-352790-7
9.    ^ “前掛火山噴出物と仏岩火山および黒斑火山噴出物の全岩化学組成の比較.MgO vs. SiO2”. 日本大学文理学部地球システム科学教室. 2012630日時点のオリジナルよりアーカイブ。200939日閲覧。
10. ^ Hidetsugu Yoshida and Toshihiro Sugai (2006). “Magnitude of the sediment transport event due to the Late Pleistocene sector collapse of Asama volcano, central Japan”. Geomorphology 86(1-2): 61-72 20161125日閲覧。.
11. a b “6)浅間火山 (PDF)”. 産業技術総合研究所. 2016621日閲覧。
12. ^ 矢島徹, 高橋正樹, 安井真也, 金丸龍夫、「A2-25 浅間仏岩火山流紋岩質仏岩下部溶岩にみられる変形構造とその成因(火山地質,口頭発表) 『日本火山学会講演予稿集』 2014 2014 セッションID:A2-25, p.37-, doi:10.18940/vsj.2014.0_37, 日本火山学会
14. ^ “浅間前掛火山の噴火様式と噴火史”. 日本大学文理学部地球システム科学教室. 2012712日時点のオリジナルよりアーカイブ。200939日閲覧。
15. ^ 浅間火山の地質と形成史の概要 東京大学地震研究所
16. ^ 「浅間山噴火続報」『官報18891228日(国立国会図書館デジタル化資料)
17. ^ 小鹿島果『日本災異志』五月書房、1893
18. ^ 早川由紀夫; 中島秀子 「史料に書かれた浅間山の噴火と災害」 『火山』 434号、213-221頁、1993年。doi:10.18940/kazan.43.4_213
19. ^ 能登健「古代の災害 4 天仁元年・浅間山噴火」/ 北原糸子編著『日本災害史』吉川弘文館 2006 62ページ
21. ^ 平山優『増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』戎光祥出版、2015年、P16-17
22. ^ 1783 天明浅間山噴火 『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』 平成183月、中央防災会議
23. ^ 井上公夫; 石川芳治; 山田孝; 矢島重美; 山川克己 「浅間山天明噴火時の鎌原火砕流から泥流に変化した土砂移動の実態」 『応用地質』 351号、12-30頁、19944月。doi:10.5110/jjseg.35.12
24. ^ 石弘之著『歴史を変えた火山噴火 -自然災害の環境史-』刀水書房 2012 105ページ
25. a b 天明3年(1783年)浅間山噴火 国土交通省 利根川水系砂防事務所
26. ^ 「浅間山、作暁大爆発 死傷3 茨城、埼玉まで降灰」『朝日新聞』昭和259243
28. ^ “浅間山噴火における震動波形”. 防災科学技術研究所 (200492). 2009310日閲覧。
29. ^ 浅間火山2004年噴火 産業技術総合研究所 地質情報研究部門
30. ^ “浅間山の火山活動解説資料(平成208月) (PDF)”. 気象庁地震火山部 火山監視・情報センター. 2014114日閲覧。
32. ^ “浅間山の火山活動解説資料(平成276161740分)(PDF)”. 気象庁地震火山部 火山監視・情報センター. 2015617日閲覧。
33. ^ “火山の状況に関する解説情報 16 平成276201600”. 気象庁地震火山部. 2015620日閲覧。
34. ^ “火山活動の状況(浅間山)”. 気象庁. 201987日閲覧。
35. ^ “浅間山火山防災マップ”. 国土交通省利根川水系砂防事務所. 2016115日閲覧。
37. ^ 『浅間山 軽井沢 2010年版 (山と高原地図 19)』昭文社、20103月、付属地図。ISBN 978-4398756992
38. ^ “[雪形] 長野県北東部 逆さ馬(群馬県嬬恋村作成、嬬恋かるたによる)”. 安曇野市・嬬恋村. 2016115日閲覧。
39. ^ 『なるほど地図帳 日本の山』昭文社20061月、31頁。ISBN 4398200258


コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.