女たちのシベリア抑留  小柳ちひろ  2020.7.6.


2020.7.6.  女たちのシベリア抑留

著者 小柳ちひろ ドキュメンタリー・ディレクター。1976年秋田県生まれ。同志社大卒後、映像製作会社テムジンに入社。08NHK《戦争証言プロジェクト》に参加し、《引き裂かれた歳月 証言記録 シベリア抑留》(10年放送文化基金賞受賞)、《三つの名を生きた兵士たち~台湾先住民高砂族20世紀》(12年ギャラクシー賞他)、《原爆救護 被爆した兵士の歳月》(16ATP賞グランプリ他)などの作品がある。戦争の時代に生きた女性たちに焦点を当てたドキュメンタリーとして、《女たちのシベリア抑留》(14年文化庁芸術祭賞優秀賞他)、《NHKスペシャル 女たちの太平洋戦争 従軍看護婦 激戦地の記録》(15年放送文化基金賞他)、《サハリン残留 家族の歳月》(17年ギャラクシー賞)、《戦争花嫁たちのアメリカ》(19)を製作。15年度放送ウーマン賞受賞

発行日           2019.12.15. 第1刷発行
発行所           文藝春秋

本書は、下記のテレビ・ドキュメンタリー番組の取材をもとに書き下ろしたノンフィクション
BS1スペシャル 《女たちのシベリア抑留》 放送記録
初回放送         2014.8.12.
語り              伊東敏恵
ディレクター   小柳ちひろ
制作・著作      NHK テムジン
69回文化庁芸術祭賞         テレビ・ドキュメンタリー部門 優秀賞
52回ギャラクシー賞         テレビ部門 奨励賞
41回放送文化基金賞         番組部門・テレビドキュメンタリー番組 奨励賞
31ATP賞テレビグランプリ       ドキュメンタリー部門 優秀賞
14回放送人グランプリ2015        準グランプリ



l  望月幸恵 佳木斯(ジャムス)第一陸軍病院の陸軍看護婦生徒(看護婦見習い教育中)。東京の女学校を出て17歳の時満州に渡る。開拓団の家族と別れ、陸軍病院の看護婦たちと行動を共にした。今回最初に取材を承諾
l  佐藤一子 タイピストから、佳木斯第一陸軍病院の補助看護婦として動員、「菊水隊」に参加。佳木斯撤退の直前、父が病院に訪ねてきたが、会うことは叶わず
l  赤星治 佳木斯の高等女学校を卒業後、17歳で「菊水隊」に動員。ハバロフスクの石切山収容所に抑留中、赤痢にかかり生死の淵を彷徨うが生還
l  林正カツエ 「菊水隊」の教育担当の班長になった日赤看護婦。日赤広島支部の養成所を首席で卒業、日中戦争(上海事変)でも最前線で勤務。ソ連軍侵攻後、部隊長の「看護婦部隊の解散」の命令に反し、部隊を共に行動することを進言
l  阪東秀子 佳木斯第一陸軍病院で最年少、15歳の陸軍看護婦生徒。鹿児島出身、早く父を亡くし、故郷に母を残してシベリアに抑留
l  平田ともゑ 兄の戦死をきっかけに陸軍看護婦に志願。佳木斯撤退の際、青酸カリで傷病兵を安楽死させる現場に立ち会う。シベリアから帰国する際、ナホトカに1年長く滞在するよう要請され、好きだった衛生下士官に会えるかもしれないと承諾
l  友重眞佐子 日赤看護婦として佳木斯第一陸軍病院に勤務。チョープロエ・オーゼロ収容所病院の開設に関わり、日本人捕虜たちの看護にあたる。七三一部隊の罪状を暴こうと病院関係者を厳しく追求するソ連側から、過酷な取り調べを受ける
l  山本光子 菊水隊員で、赤星治の女学校時代からの親友。帰国して山口県で婦人警官となり、50代になってから、中国残留婦人の一時帰国などを訴える運動に奔走
l  S子 佳木斯第一陸軍病院の陸軍看護婦。シベリアで共産主義の思想に惹きつけられ、「ナホトカのジャンヌ・ダルク」と呼ばれるアクチブ(シベリア民主運動活動家)となる

第1章        シベリアに女性がいた
終戦直後のソ連軍侵攻で、満州や樺太にいた日本の軍人や民間人、約60万人がシベリアに抑留された。その中に数百人の女性がいたという目撃情報が伝えられていた。しかし、詳細は歴史の闇の中に埋もれたままだ。一体、どんな女性たちがシベリアに送られたのか。1人の元抑留者の女性と連絡が取れた
野も山も実りの919日 北斗七星ソ領で眺む  阪東秀子(シベリア抑留の日に詠む)
シベリア抑留者の中には、女性がいたことを僅かに見聞していた人もいた
ソ連当局が日本人捕虜の思想教育のために発行した『日本新聞』にも、若い女性S子の似顔絵と、『在ソ中の皆様に』と題した抑留者に決起を促す激しい言葉が並んでいた
厚労省の調べでは、ソ連・モンゴルの収容所に抑留された日本人は575千人。うち女性が数百人という事実は、抑留について総括的に書かれた書物では必ず触れられているが、抑留の経緯や、経験については記述がない
女性抑留者の1人望月に取材 ⇒ 佳木斯第一陸軍病院の看護婦や女子軍属約150人が部隊と共にシベリアに抑留。1927年生まれ。44年に満州に渡り、陸軍看護婦となる
仲間が大勢いたので、辛いと思ったことはなかったという
4612月、ナホトカからの最初の引揚船で40人の仲間の看護婦とともに帰国
故郷の秩父に帰ると、先に引き揚げていた母と妹たちが引揚者住宅で暮らしていて、こんなに貧乏暮らしをしているのかと驚いた。一家は満州開拓団で渡満、父親は終戦の混乱の中で現地住民に襲撃されて犠牲に、弟2人も逃避行中残留孤児となって、帰国したのは何年も後
抑留された女性の身元が徐々に判明していくが、殆どんの女性が「思い出したくない」と口を閉ざす
29人とインタビューした結果は、女性たちが「忘れたい」と語る理由は、シベリアに抑留されたことだけではなく、多くの人が満州で家族や生活の全てを失い、引揚者として長く苦しい戦後を生きていて、戦後の日本社会で「満州進出は侵略だった」という言説が一般的となり、自分たちが加害者だったのかという重い事実に悩み、人知れず苦しんできた人も多かった

第2章        従軍看護婦たちの満州
ソ連国境に近い「満州屈指の軍都」と呼ばれた佳木斯の第一陸軍病院。ここには日赤と陸軍の看護婦たちが勤務していたが、昭和207月、新たに150人の少女が看護補助のために動員された。「菊水隊」と名付けられた少女たちの約半数は、敗戦後、後退する陸軍の部隊と行動を共にする
髪断って女を隠す敗戦日 阪東秀子
佳木斯は国境の古い田舎町だったが、満州国建国後、北満の物資を日本に運ぶ要衝として武装した開拓団が送り込まれ、日本の大陸進出の足掛かりとなった町。「匪賊」と呼ばれる抗日組織が開拓団を襲撃し、その治安のために関東軍の拠点が置かれ、「満州屈指の軍都」と呼ばれるようになる
佳木斯第一陸軍病院は、正式には関東軍第三八陸軍病院、通称満第七九一部隊。満州事変の翌々年に開設された関東軍衛生隊の診療所で、40年陸軍病院に改編
望月は、444月陸軍看護婦教育隊第2期生として入隊、同期15名。秩父生まれで、東京王子の私立病院で看護婦見習いをしながら女学校の夜間部に通っていた。実家は米屋だが経済統制で苦しくなり、彼女を除く一家7人が先に佳木斯近郊に開拓団として入植。本土空襲激化を心配して彼女も満州に呼び寄せられる
陸軍病院の看護婦には2系統あり、陸軍看護婦と日赤から派遣される日赤看護婦
陸軍看護婦は、様々な経歴で、制度上は志願制だが、軍令部からの応召により派遣
日赤看護婦は、養成所で3年の専門教育を受け、軍の要請に基づき、20名ほどで編成した「戦時救護班」を派遣。12年間の応召義務があり、合格率は時に100倍を超えた
陸軍看護婦は必ずしも教育程度が高いわけではなく、高等女学校腕が多く固く結束していた日赤看護婦を「お高く止まっている」として、両者の間に緊張感を保っていた
病院には、看護婦以外にも電話交換手やタイピストなど、15名の女子軍属がいた
457月、新たに150人の補助看護婦の「挺身隊」が佳木斯近郊から動員。佐藤一子もその中の1人。省公署のタイピスト。軍の名指しでの募集に即刻応募。「菊水隊」と名付けられ、その教育助手の班長が林正カツエ(30)。日赤本社で婦長教育を受け、37年上海事変の最前線で従軍
8月、病院の敷地内に防空壕を掘っていると竜巻と土砂降りの大雨になり、夜ソ連の空襲を受け、即刻退去命令。600人の患者を退避させ、重症で動けないものは青酸カリで「処置」が命じられる。それを知った平田ともゑは、自分の兄の戦死を思い出す
敗戦後1年余りの間に、佳木斯だけでも2000人を超える女性が「残留婦人」になったという。生き延びるために現地の中国人の家庭に入らざるを得なかっただろう
部隊はハルピン迄後退し野戦病院を開設することになり、看護婦にも冬の軍装品一式が支給される。812日看護婦たちの撤退開始。船で方正の司令部へ、避難民の救護に当たる
16日、空からまかれたビラで敗戦を知る
翌日、ソ連軍の機械化部隊が来て武装解除
ソ連軍から酒と女を強要され、部隊は必死になって女子軍属を守ったが、他の陸軍病院の体験談は様々。若い女性を出せと言われて抵抗した婦長が下士官から、「命より大事な軍刀まで差し出しているのに、女の貞操くらいなんだ」と往復ビンタされたり、「貞操を提供しろ」と言われて、「あなたの奥さんから先に出すべき」と反発した婦長もいたという
護身薬と称して自決用の薬剤が配布される
方正からまた佳木斯に戻され、正規の看護婦は市内の日本人収容所で看護の仕事に従事

第3章        シベリアへ
ソ連兵から「菊水隊」の少女たちを守ろうと心を砕く、日赤看護婦の林正カツエ。家族と離れ、集団で行動する佳木斯の看護婦たちは「帰国だ」と言われて客船に乗せられるが、下船したのはハバロフスクであった。悪名高いシベリアの「石切山収容所」における厳しい労働の日々が待ち受けていた
シベリアの秋の夜空にある星よ 命ある身を恨んでもみき 林正カツエ(日赤看護婦、菊水隊班長。抑留の時に詠む)
日本に帰れるつもりで乗せられた船は川を遡りハバロフスクに連行され、女性だけ150人の行進で捕虜収容所へと向かい、佳木斯第一陸軍病院の病院長と再会
翌日からはコルホーズの農作業に使役。10日後にはスターリン街道を石切山収容所へと護送。すでに抑留されていた450人余りと合流。厳しい寒さの中でラーゲリ生活が始まる
突然の移動命令で、数名から数十名の女性たちが次々と姿を消していき、不安と恐怖に包まれる

第4章        なぜシベリアに送られたのか
60万人もの日本兵や民間人が抑留された理由は何だったのか。1992年、シベリア抑留の根拠となったスターリンの極秘命令が発見された。しかし、女性たちの労働力は本当に必要だったのか。日本人抑留問題研究の第1人者であるキリチェンコに取材する。軍事史研究家ガリツキーの論文にも言及が
太陽に光あるさえ悲しかり 祖国は敵に降りしと云うに 林正カツエ
91年のソ連崩壊で冷戦時代の資料が明るみになったが、その中に45823日の「国家防衛委員会決定第9898号」という極秘指令があり、スターリンが日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について決定・指示したことが判明。第2次大戦で疲弊した国土の復興のため、日本軍捕虜を労働力として使用したことが明らかにされた
女性についての言及はなく、捕虜の送り先も重労働を要する現場ばかり。実際に女性が従事したのは収容所の雑役が多く、重労働に服した事実はない
佳木斯以外にも多くの陸軍病院があり、相当数の女子軍属がいたはずだが、満州を中心に日本軍の全体状況を記録した『陸軍北方部隊略歴』という文書を見ても、女子軍属がシベリアに移送されたことが明記されているのは、唯一佳木斯第一陸軍病院だけ。同文書では1388部隊のうち、陸軍病院は81あり、うち23の病院の項には、終戦後の女子軍属の動静についての記述があり、多くの陸軍病院がソ連軍により接収され、看護婦たちがソ連軍の指揮下で医療活動に当たったという事実が判明しているが、それですべてを網羅しているわけではない
日赤には『戦時救護班業務報告書』という、軍の要請に従って各地に派遣された「戦時救護班」に義務付けられていた月次報告の資料が残されている。救護班解散の時には「総報告書」も作成された。戦後ソ連管理地域に派遣されていた救護班は58、うち総報告書を残していたのは34。班制を保ったままシベリアに抑留されたのは佳木斯第一陸軍病院に派遣された「第467班」だけであることが判明。岡山支部で編成され、岡山支部と広島支部から派遣された21名から成り、満州到着後山形の2名を加えて23名。林正はその副班長格
34の総報告書によれば、第467班以外にも21の班が「ソ連の捕虜となった」「ソ連軍の下で医療活動に従事した」事実が記載され、少なくとも450人以上の看護婦たちが満州でソ連の捕虜とされていたことが判明
日本人抑留問題研究の第1人者であるキリチェンコは、1980年代初頭からKGB防諜局日本課に勤務、日本人の対ソ観に大きな影響を与えているシベリア抑留問題を調査していたが、彼によればソ連側に女性抑留の意図はなかったという。数合わせのため現場の指揮官の裁量で繰り入れられた可能性が高く、労働力として見做されない女性が抑留の対象になる事は考えられない
ソルジェニーツィンがノーベル文学賞を受賞した『収容所群島』で描き出した、ソ連全土に広がる収容所システムは、起源を17世紀のシベリア流刑に遡る。安価な労働力である囚人労働および軍事捕虜の抑留と労働は、ロシアの国土開発の欠くことのできないシステムの一部。1929年の第15か年計画始動の翌年、スターリンは自国の工業化のために強制労働を利用することを決定。運営に当たったのはソ連内務人民委員部NKVD(1917年レーニンが創設した秘密警察「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(略称チェーカー)」を起源とし、22年国家政治保安部GPU、後に国家保安委員会KGBと改名)で、その管理下で「収容所管理総局GULAGグラーグ」が経済部門の基幹を担った
強制労働に組み入れるシステムは、ソ連国民のみならず外国人にも及び、GULAGと並立する「軍事捕虜抑留者管理総局GUPVIグプヴィ」は戦争捕虜を管理し、計画経済システムに組み入れていった。29年のジュネーヴ条約改正は批准せず(日本も批准を拒否)
459月時点でGUPVIの管理下にあった外国人捕虜は416万人。最大はドイツで239万。ドイツ人女性捕虜も3万近くいて、7千位が収容所で死去
GUPVIはすべての捕虜について「登録簿」を作成。裁判を受けた受刑者のファイルは非公開だが、その他は取材許可あり。事前に依頼した30人のうち5人のカードを閲覧
日本人女性抑留者について論文を著したロシア人研究者ガリツキーによれば、戦時捕虜として捕らえられた女性は367人、うち地元勢力に引き渡された者(八路軍などが対象と推測)110人、収容所に送られた者(佳木斯の可能性が高い)155人、解放された者(残留婦人など)102
旧満州で中国残留婦人となった日本人女性は、少なくとも3700人を超える
201911月現在、取材で明らかになったシベリア抑留日本人女性の全体像は以下の通り
1. 佳木斯第一陸軍病院の看護婦 約150人 ⇒ 149人の氏名特定
2. その他の短期抑留者 80人 ⇒ 公文書や新聞記事、回想録などから氏名を特定
3. 受刑者 114人 ⇒ ソ連の裁判にかけられたものを各資料から特定。45人は樺太住民で、特務機関勤務の女子軍属だったため取り調べの対象となり起訴された
4. 子ども 24人 ⇒ 子連れの抑留などで氏名を特定
他にも、奉天近くで集団で抑留された事例が現地の新聞にも掲載されたと伝えられている

第5章        長引く抑留
シベリアに送られた佳木斯第一陸軍病院の看護婦たちはいくつかの収容所に分かれ、そこで傷病兵の看護に従事した。捕虜という先の見えない日々の中にも明るさを見出す若い女性たち。抑留2年目に入ると現地のロシア人たちとの間に交流が生まれる。一方で共産主義の思想教育に感化される女性もいた
姉となり妹となりてシベリアに 勇士のみとり我はひたむく 竹折由美子(陸軍看護婦、抑留当時を詠んだ歌)
4511月、看護婦たちは3カ所に分かれて抑留 ⇒ ハバロフスク石切山収容所 約140人、イズヴェストコーヴァヤ分所 6人、ビロビジャン分所 5
林正は、ハバロフスクの病院で看護を受け回復した後、ソ連側の要請で病院を手伝う。陸軍省発行の「認識証明書」と、国際赤十字の看護婦であることが認められた結果
46年には、石切山収容所から6カ所ほどに327人が移動。最大のものは45年末に新設のチョブロ・オーゼロ収容所病院。日本人軍医も徴集、その中には佳木斯第一陸軍病院の院長もいた。看護婦は最初の友重ら5人に続いて22人の菊水隊も合流、再会を喜ぶ
ある時、護身薬の所持が発覚。ソ連兵を殺害するために秘匿していたものと見做され、いくら説明してもソ連兵には通じず、全員の薬を供出することで処罰を免れた
抑留中に亡くなった女性は1人、チョブロ・オーゼロにいたが病に倒れて転院し死去
抑留1年後くらいから、各地の収容所では様々な文化的な活動が始まる。演芸会や句会が中心だったが、ソ連側の検閲で自由を失った文化活動は、共産主義の宣伝の色が濃くなる
政治的な学習会に看護婦も参加を求められ、中には共鳴する者も現れる
別途教育訓練と称して思想教育をされるものもいたし、活動分子(アクチブ)として収容所の民主化を進める役目を担わせる方針がとられてもいた
47年夏、後に「ハバロフスク裁判」として知られることになる、旧日本軍の戦争犯罪に関する裁きのためのソ連の政治将校による情報集めが密かに始まる。友重は日本軍による生体解剖実験の証拠を見せられ、証言を強要されたが、死を覚悟して拒否を貫く
49年末に「ハバロフスク裁判」が開かれ、関東軍防疫給水部(七三一部隊)の戦争犯罪が裁かれ、元七三一部隊の教育部長だった中佐が、チョブロ・オーゼロから姿を消し、強制労働18年の刑を言い渡された

第6章        女囚
シベリアに抑留された日本人女性の中には受刑者もいた。特務機関の軍属や、電話交換手、ロシア語通訳だったために、諜報活動に関係したと疑われた者、反ソ的な地下活動に関わり軍事裁判にかけられた女性もいる。苛酷な女囚用監獄などに送られ、終戦後10年以上経って帰国した女性たちの足跡を追う
私たちの何に罪があるというのだ 帰してください、帰してください、帰せ (元兵士が抑留中に出会ったある女性受刑者の言葉)
ロシア公文書館で見つかった日本人女性の個人登録簿のうち3人は、裁判で有罪判決を受け監獄に送られた女性で、ソ連が独自の国内法を適用。何れも地下活動に参加していると見做された ⇒ 1人目は樺太に残された32万人のうちの1人。多くがいわれのない罪で逮捕・投獄されたのち、裁判を受け収容所送りとなる。この女性も反ソ的な組織に入っていたという嫌疑で、15年の刑を受けたが、2年で釈放されたものの帰国は56
2人目は奉天で日本人が組織した地下組織に参加し、ソ連軍司令部などを襲撃したとして首謀者は銃殺、この女性も強制労働10年の判決
3人目は北朝鮮で逮捕、囚人の墓場と恐れられたマガダンに送られた(8章参照)
ソ連で刑を受けた日本人は男女合わせて2689(長期抑留者たちが帰国後に作った団体「ソ連長期抑留者同盟」調べ)、樺太で刑を受けシベリアに送られたのは2972
うち女性は第4章のとおり114名。うち何人かは帰国後に回想録を刊行
樺太は461月にソ連が勝手にハバロフスク州に編入したため、戦争とは無関係に一般住民が理不尽な理由で罪に問われるケースが多かった。北海道との往来が禁じられたための密出入国が頻発、国境侵犯に問われた例も多い
戦後サハリンから帰還できなかった日本人は、最大で1400人に上ると見られ、現在でも50人が現地で暮らす
奉天は終戦後混乱を極め、各地から避難民が流入、心中してきたソ連軍に蹂躙され、小規模の集団でソ連軍や軍需物資を狙った強盗事件が多発。4511月の「奉天事件」は日中の不満分子による大規模なテロ事件で、襲撃されたソ連軍によって36名が逮捕、うち日本人女性が3名。10年の強制労働の判決で、北極圏にあるノリリスク第2特別収容所へ送られる。北緯69度に位置するソ連でも最も過酷な収容所の1つで、回想記に「極北撫子」と呼ばれたとして出て来る。中の1人中田絹子は抑留4年目に出産、子どもは引き離されて施設で育てられ、56年帰国命令が出て、帰国の日奇跡的に娘を探し当て5歳の娘とともに帰国、翌年奉天事件の受刑者と結婚したが、帰国後も過酷な環境で必死に生きた

第7章        帰国
194612月、最初の引揚船が舞鶴に到着。ハバロフスクの収容所にいた看護婦たちがシベリアからの最初の引揚者として帰国する。翌年までに分散していた佳木斯の看護婦たちのほとんどが、日本の地を踏んだ。しかし、シベリア帰りの女性たちに対し、祖国の人々の視線は温かいものではなかった
のがれ来し人の便りにきく父母の いたましき最後いかに綴らん 竹折由美子
4611月、佳木斯第一陸軍病院の看護婦の一部40人に突如帰国命令。ハバロフスクから鉄道でナホトカへ。帰国の第1陣で、国際社会から軍事捕虜を抑留し強制労働させていることがポツダム宣言違反と非難されていたソ連当局が、人道的姿勢をアピールするために、女性たちを最初の帰還者リストに加えたもの
日本から引揚船2隻が手配され、舞鶴に戻る。復員手続きと同時に、関東軍将兵が連行された模様やソ連の収容所網に関する情報の聞き取りが行われる
新聞社からも座談会などの企画が持ち込まれたが、実情がソ連側に伝わると残留兵への報復が待ち受けていることを想像し、残留者を守るために真実を語らぬ事を申し合わせ、それぞれに語らない方がいいこともあることを心に刻む
474月、看護婦たちの第2陣約30人が帰国、うち佳木斯第一陸軍病院関係は十数名
阪東は帰国の5カ月前に母が死んだことを教えられる。佐藤の父親も戻っていなかった
6月には林正ほかに加えチョブロ・オーゼロの看護婦全員が帰国。残留兵は彼女たちが化粧道具を隠し持っていたことに驚愕
林正は、舞鶴の引揚援護局に岡山支部の文字しかないのに忘れられた者の悲哀を感じつつ広島支部に戻っても殆ど相手にされなかった。今回の取材で佳木斯第一陸軍病院にいた元日赤看護婦のうち8人が健在だったが、唯一取材に応じてくれたのが林正
日赤の対応は、他の戦地に派遣されていた看護婦に対しても同様と思われ、汚いものを見るようにあしらわれたこともあったという
日赤看護婦に対する戦後補償。軍属は恩給の対象外だったが、戦後20年以上経った頃、高齢となった元看護婦の生活困窮を見て元従軍看護婦の有志が立ちあがり、恩給支給を求めて運動を始め、78年漸く法改正により慰労給付金が支給されるようになるが、条件が厳しく、支給率は5%にも満たないという。第467班も派遣期間が12年という条件を満たさず補償の対象外という事もあるのか、元日赤看護婦の会の幹部もシベリア抑留の事実を知らない
林正も、「生かされただけのことはしなければ、この思いがその後の生活の信条になりました」と手記を結ぶ
「ナホトカのジャンヌ・ダルク」と呼ばれたS子は、佳木斯第一陸軍病院にいた元陸軍看護婦で、47年ナホトカの収容所で集まった抑留者を前にアジ演説を振るっていた。4月に帰国後すぐに『日本新聞』に檄文を載せる。民主運動の活動家たちが、「反ソ反共デマと徹底的に闘う」ことをテーゼに掲げて「ソ連帰還者生活擁護同盟」を結成、その機関誌に一文を寄せているが、その後は名を見ないし、仲間たちとの交流にも顔を出さない
同じ佳木斯第一陸軍病院の陸軍看護婦だった平田そのゑは、ナホトカ収容所でもS子と一緒になったが、看護婦長になっていたこともあって日本人幹部から看護婦が必要なので残って欲しいと言われ承諾。翌年帰国するころの日本では、帰国した抑留者の共産党入党が取り沙汰され、一緒だったほかの3人の女性がアクチブだったこともあって、平田もその疑いの目で見られ嫌がられ、看護婦の資格があっても就職に苦労
帰国した女性たちに対して、祖国の置かれた状況は厳しいもので、対敵防諜部隊CICや日本の公安の監視の目が絶えず注がれ、周囲からの偏見も助長
戦後の戦友会が、辛い思い出を楽しいものに変えてくれた、という看護婦は多い
佳木斯第一陸軍病院の戦友会、通称「佳院会」に、一人だけソ連兵に攫われたまま消息不明になっていた菊水隊員の姉が参加している。妹の消息を探すためだったが、戦後50年たって漸く無残な姿で亡くなっていたという証言を聞く
菊水隊の山本光子は第1陣で帰国するが、残留婦人のことを初めて知ったのは87年のテレビドキュメンタリーを見た時のこと。早速地元山口放送の取材旅行に同行して北満を再訪、85人の残留婦人と出会い、帰国後「中国残留婦人交流の会」を立ち上げたが、日本政府は終戦時13歳以上の女性は「自らの意思で残留した」と見做し残留孤児と異なって国からの支援を行わず、また多くは、一時帰国に必要な家族からの受け入れ同意を得られず、残留婦人は祖国から二重、三重に捨てられていた。山本の努力が実って、95年に漸く来年度予算として21百万円の計上が決まる。陳情の直後亡くなるが、交流の会は活動を続ける

第8章        帰らざるアーニャ
シベリアから最後の引揚船の乗船予定者名簿にありながら帰国することなく、ロシアで亡くなった京都府出身の村上秋子。「囚人の墓場」と呼ばれたマガダンに受刑者として収容されていた彼女は、なぜ祖国に戻ることを拒んだのか。極北の村で「アーニャ」と呼ばれた村上秋子の生涯をたどる
「私は日本にかへることができません おねがいですから()ロシアの(せき)をもらうようにして下さい」 (村上秋子が収容所長に宛てた手紙より)
56年、日ソ共同宣言締結、日ソ国交回復。同年末最後の引揚船がナホトカ港を出発
ソ連側が発表した乗船予定者は1026人、うち女性1人。その女性は帰国を拒否
村上が収容されたマガダン州/コリマ地方は、『収容所群島』の顔を象徴する地名で、陸の孤島””囚人の墓場として恐れられた。日本人は、主として樺太の占守(しゅむしゅ)島守備隊の約4千と受刑者約10020世紀初頭、金鉱山が発見された重要性が増した
村上は、1923年生まれ、現在の北朝鮮で朝鮮国家社会主義労働者党のメンバーとして、ナチスを真似て反ソ活動をしていた罪に問われ46年から55年まで投獄
収容所長に宛てた嘆願書が何度か出されていて、ソ連国籍取得の希望が、日本で十分な教育を受けられなかった人を思わせるような字と仮名遣いで書かれている
59年頃厚生省作成と見られる「ソ連本土に1950年以降資料のある未帰還者」という198名分の名簿には、「552月マガダン市内、夫ソ連人」として記載されているが、84年に更新された未帰還者名簿には載っていない
90年、彼女の存在が判明。マガダンが解放され、日本から新聞記者が取材に訪問した際、地元に「アーニャおばあさん」と呼ばれる日本人女性がいることを聞かされ、会いに行くが日本の事は忘れたと言って帰国の話には取り合わなかった
92年、永久凍土の中から日本人の遺体が見つかり、元抑留者数名が訪問した際も村上を訪問、その後秋子の妹からの手紙が届く。直後に秋子は脳溢血で倒れ、元抑留兵士が見舞うと、最後に「早く帰りたかった」と言い涙をこぼした。その2週間後死去
14年著者が秋子の住んでいた町を訪問。地元の人に聞くと、誰もが秋子のことをよく知っていて、男性の寮の守衛をしていた気の強い毒舌家だったと聞かされる
未帰還者名簿には「芸者」と記載され、逮捕時の診察記録には淋毒性の性病に罹患とあり、芸娼妓の2枚鑑札の芸者だったことはほぼ間違いない。亡くなった翌年、妹の声が匿名で新聞に報じられた。「母が生前秋子のことを気にして、ご主人が亡くなって一家の生計を支えるために旧満州に送り出した。あの娘()が家族の犠牲になったと繰り返した」
佳木斯第一陸軍病院の看護婦たちと一緒の抑留生活を送っていた元学徒兵からの情報では、シベリア鉄道のどこかの駅ですれ違った貨車から日本人女性が声をかけてきて、「京都出身で、芸者として朝鮮に渡り、終戦後ソ連軍の慰安婦みたいなことをやらされて、何や分からんうちにシベリアに送られ、これからどこに送られるのかわからん」と言っていたとの話で、年恰好も合いほぼ秋子に間違いない
1942年の朝鮮総督府の統計では、当時朝鮮にいた日本人の芸者は1796人、娼妓・酌婦も含めれば3810人。朝鮮半島出身の芸者・娼妓・酌婦の総数は7942人。終戦後の彼女たちの行く末を記録したものは無い
『シベリアの女囚たち』という本にも、秋子がモデルと思われる「日本女性(ヤポンカ)」が出て来る



(書評)『女たちのシベリア抑留』 小柳ちひろ〈著〉
2020229 500分 朝日
 忘れられた存在、帰国後も「壁」
 シベリアには女性も千人近く抑留されていた。看護婦として従軍した人が多く、収容所病院で活躍した人もいた。元看護婦の一人は「女の人の方が元気ですね」と語り、薪取りの時に氷を持ち帰り、溶かして洗濯に使ったと証言する。兵士たちの過酷な体験と少し違う、ソ連人との交流を含めた生活の細部と、そこに至るまでの困難とが彼女たちの口から語られていく。ソ連に連行される前は、足手まといになった兵隊がそうだったように、看護婦の中には病気を発症したため青酸カリで殺害された人や、ソ連兵に連れ去られた人もいた。衛生兵と同様に働き、厳しい経験を経て帰国した彼女たちに、しかし恩給はなかった。あったのは公安の偵察と「アカ」と見なされた就職差別。もちろん彼女たちの多くは思想教育で変化しなかった。「スターリン万歳!」と装い、帰国の船に乗り込んだ途端「スターリンのバカー!」と皆で叫んだという。
 芸者、軍属、電話交換手、日本語教師、憲兵の妻などにはスパイ容疑で受刑した人もいた。日本に助けの手紙を書いたが返事もなく、ソ連国籍を取得し結婚、村人に親しまれ暮らしたが、病床で「早く帰りたかった」と本心を漏らして現地で亡くなった芸者もいた。芸者には売春を兼ねた者も多く、戦後の混乱の中、ソ連兵から日本側に女性の要求があると、集団を守るために身を挺したのが彼女たちだったという証言はいくつもある。稼ぎ手として抑留男性の早期帰国を求める運動は起きても、戻らぬ女性たちの存在は忘れられた。旧満州中国東北部)帰りの女性は「キズもの」と見なされた時代だ。「シベリアに女性の抑留者はいなかった」と信じる証言者や関係者の声を鵜呑みにせず、資料と証言者を探した熱意に頭が下がる。BSの同名番組の取材を元にディレクターが書き上げた一冊だが、近年、わがこととしてフェミニズムに親しみ始めた若い女性にも手に取ってほしい。
 評・寺尾紗穂(音楽家・エッセイスト)
    *
 『女たちのシベリア抑留』 小柳ちひろ〈著〉 文芸春秋 1870円


文藝春秋 20204月号  評者 梯久美子(ノンフィクション作家)
彼女たちの存在を知ったのは、2014年にNHKで放送されたドキュメンタリーによって。本書の著者はその番組のディレクターで、当時の女性たち29人に直接取材して証言を引き出すとともに、日本とロシアで未発表の資料を発掘した。本書ではさらに取材を深め、ほとんど知られていなかった実態を詳細に明らかにしている
ソ連と国境を接する満州の軍都、佳木斯(ジャムス)の第一陸軍病院に、150人の少女が看護の補助を行う挺身隊「菊水隊」として動員されたのは昭和207
動員からわずか1か月後、ソ連軍が満州に侵攻。少女たちは一旦家に帰って家族と面会することが許されるが、その際、部隊長から傷病兵の看護のためにできれば戻ってきて欲しいと告げられる。半数が「お国のために」と病院に戻ることを選ぶ
舞台と行動を共にした彼女たちは、ソ連兵に「ダモイ(帰国)」と言われて船に乗せられ、そのままシベリアに連行され、収容所で厳しい労働の日々を送ることに
本書の前半では、菊水隊の女性たちが帰国するまでの日々をどのように耐えたかが描かれる。アクチブ(活動分子)となって収容所内で共産主義の宣伝教育の旗振り役を務め、「ナホトカのジャンヌ・ダルク」と呼ばれる女性もいた
抑留されたのは看護婦だけではない。著者は、公文書や新聞記事、関係者の証言、回想録などをもとに、シベリアへ送られた女性は、看護婦以外の軍属、通訳、電話交換手など多岐にわたり、総数は1000人近くに上っていたことを明らかにする
その中には、終戦後にソ連の裁判にかけられて有罪となった女性たちもいて、普通の抑留者とは違い、囚人として抑留された
囚人の墓場と呼ばれたマガダンの収容所に、23歳で送られた1人は、92か月の刑期を終えた時、収容所の所長に、ソ連の国籍が欲しいという手紙を書いている。衝撃的な手紙がテレビで紹介されたが、69歳で亡くなるまでソ連の小さな村で暮らした
彼女はなぜ頑なに帰国を拒んだのか。北朝鮮で芸者をしており、終戦翌年に政治犯として捕らえられたが、運命に翻弄されながらも、自分の生き方を自分で選び取ろうとした女性の顔が見えてくる
知られざる史実を掘り起こしただけではなく、その時代故にそう生きざるを得なかった女性たちの声を現代に蘇らせた労作である


コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.