大獄 西郷青嵐賦  葉室麟  2020.7.11.


2020.7.11. 大獄 西郷青嵐賦

著者 葉室麟 1951年小倉生まれ。西南学院大卒後、地方紙記者などを経て、05年『乾山晩秋』で第29回歴史文学賞を受賞し作家デビュー。07年『銀漢の賦』で第14回松本清張賞、12年『蜩(ひぐらし)ノ賦』で第146回直木賞、16年『鬼神の如く 黒田叛臣伝』で第20回司馬遼太郎賞

発行日           2017.11.15. 第1刷発行
発行所           文藝春秋

初出 『文藝春秋』 20161月号~20176月号 連載

2018 NHK大河ドラマ 《西郷(せご)どん》
維新前夜の西郷隆盛、荒波へ
「ひとはこの世に何かをなそうと生まれてくる。どんな小さなことでもおのれがなさねばならんことが必ずあるとじゃ。それをなすのは、この世を照らす燈明になることじゃ。
この世の中はほっとけば、どんどん暗くなる。たとえ命を失おうとも燈明になる者がおらんといけんのじゃなかろか」(21参照)
「この国の運命を切り開くのだ」。西郷隆盛は、薩摩藩主・島津斉彬の命を受け、東奔西走する
島津斉彬は、尊王攘夷派の総本山である水戸藩主の実子・一橋慶喜を将軍に擁立して、国難に備えようとした。一方、井伊直弼らは紀州藩主・徳川慶福を推して対抗する。条約勅許問題が浮上、幕府と朝廷の対立が激化するなか、井伊は尊王攘夷派への過酷な弾圧(安政の大獄)を始める。斉彬は志半ばで死去し、西郷は生きる望みを失う・・・・・



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18466月、琉球、那覇の港にフランスの黒船来航、開港を強要
琉球は、薩摩の島津氏が1609年侵攻、以後薩摩藩の支配下にあるが、清国との朝貢貿易も続けており、両属の形をとる
薩摩は、昆布や茶、鰹節、煙草等を琉球に送り、黒砂糖や鬱金(うこん)、藍玉等を運び出す
2年前にフランスの黒船が来航して、修好と交易を要求、琉球王・中山王尚育は拒絶
琉球は薩摩藩主・斉興、世子・斉彬に救援を求め、薩摩藩は幕府と協議
時の老中は若干28歳の阿部正弘。備後国福山藩10万石の藩主、25歳で老中となり、天保の改革で失脚した水野忠邦の後を追って老中首位の座に就くが、斉彬と親しく信頼厚く、斉彬を相談相手に国難を乗り切ろうと考えた
斉彬は、幕府と相談の上琉球に、フランスに対しては交易と通信を認めるが、キリスト教布教は禁じることを命じ、海防を強化
島津家は、斉彬の曽祖父の代に商人からの借財が500万両に膨れ上がり、破綻寸前の藩財政を立て直したのが茶坊主から取りたてられた調所(ずしょ)笑左衛門で、琉球を通じた清国との貿易を維持するためにフランスとの交易開始に固執
調所は、財政立て直しのために、実質借金を踏み倒し、砂糖の専売制を敷いたため、人々からは蒼鷹(そうよう:無慈悲な役人の譬え)”として嫌われている
薩摩藩の剣術は主に2派。東郷家が伝える示現流と絶縁した薬丸野太刀自顕流で、示現流は島津家一門や上士に伝えられる門外不出の御留め流。野太刀自顕流は技が簡素で実戦的であり下級武士に広まる
20歳になった西郷吉之助は、二才頭として子弟の指導に当たる。弟3人妹3人頭、父・吉兵衛は御小姓与勘定小頭で47石余り、平士としては普通
3歳下で同じ町内に住む大久保一蔵が寄って来て、昨日斉彬が一蔵の父の居る琉球館に来て、調所の後釜に仁勇の者を使うといい、父が吉之助こそ仁勇の人だと言っていたと伝える

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薩摩は武士が多い国。全人口33百万のうち武家は180万。薩摩だけで20万。関が原で徳川に屈し、辛うじて領土を守ったが、その後も軍備を解かないのは、薩摩にとって関ケ原は終わっていないからで、日本中を揺るがす力を蓄えるために仁勇の藩士の育成に努めた
大久保一蔵の母方の祖父は藩医の皆吉鳳徳。藩主の贅沢・放埓を諫めて切腹させられた家老に連座して謹慎処分になった際、逼塞中に海外事情を調べ、海運こそ国を富ます道と考える様になり、洋式帆船を建造して藩に献上、琉球交易に使われる。鳳徳は1808年に没するが、一蔵が鳳徳にそっくり
1846年、斉彬は藩の軍制の洋式化に取り組み、高島流砲術の導入、砲台の建設などを指示
48年、調所が自害。阿部老中から密貿易を追及され、罪を一身に背負って死んだが、老中の追及が斉彬の差し金であることはすぐ知れ渡る
斉彬の行為に対し、調所派が呪詛したとの噂が広まるが、斉彬の子どもたち7人が相次いで夭折。さらには藩主・斉興の愛妾由羅の子・久光を世子に立てようとする陰謀まで発覚(お由羅騒動)し、御家騒動に発展。吉之助も切腹させられた1人の介錯を務め、人の死に憤りを感じる。一蔵の父も、斉彬派として遠島の処分を受ける
吉之助は、平凡な郡方書役として、地方の村々を回り、貧窮に苦しむ百姓を助ける
一蔵は、藩の過ちを正すため、吉之介らに呼び掛けて、朱子学の入門書『近思録』の読書会を開くとともに、誠忠組を結成し、斉彬即位を密かに待つ
51年、斉彬襲封。阿部が動いて斉興に隠居を勧めたためだが、藩主となった斉彬は次々に近代化のための改革を実行するが、処分された藩士の身分回復には動かず。一蔵の父も戻らず
翌年、吉之助は結婚するが、祖父、両親が相次いで死去
53年、ペリーが琉球沖に出現。首里城に強行入城、開国の大統領親書を手渡した後、浦賀に向かう。阿部は対策を協議するため斉彬の早期出府を求め、斉彬は吉之助らを伴って上京
吉之助の周囲の評は「麁暴(そぼう)、同役の交わりも宜しからず」だったが、斉彬は「今の世に人の誉める者必ず用立つ者に非ず」といったという

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18543月、斉彬は阿部の出府の求めに応じ参勤交代で江戸へ
斉彬は蘭癖と言われるほど西洋事情に詳しく、意見を求められれば、開国は已む無いが、時を稼いでその間に大船や大砲などの軍備の充実を図って西欧列強と対等に渡り合えるように備えるべきと主張
井伊直弼は、彦根11代藩主の14番目の子で藩主の見込みはなく、300俵のあてがい扶持だったが、46年兄の井伊家世子が急逝、他の兄たちが皆他家の養子になっていたため、直弼が急逝した兄の養子となって跡を継ぎ第13代藩主となる。以前から国学者で公家の二条家に仕えていた長野主膳義言に国学を学び、剣術、茶道にも通じていたが、藩主となって政の謀臣として主膳を52年に召し抱える
後先を考えぬ攘夷論の水戸を何故か後押しする島津の真意を測り兼ね、直弼は島津が水戸を隠れ蓑に徳川を乗っ取ろうとしていると警戒
直弼は、ペリーが最初に来た時から諸大名の中で唯一開国論をとなえ、水戸斉昭の強硬な打ち払い論に対抗、両者の溝が深まる。水戸斉昭が将軍後見に、直弼が大老になるとの噂もあって、余計両者の対立を煽る。その裏には将軍後継問題があり、前年12代将軍家慶死去後の嫡子家定は病弱で、継嗣を決めなければならなかった。数寄屋坊主組頭が上申書で紀州の慶福を推し、松平春嶽と斉彬は斉昭の7男一橋慶喜を推す
江戸に着いた吉之助は、お庭方(藩主の密命を受ける隠密の役目も果たす)となり、水戸の藩校・弘道館を興した斉昭の重臣・藤田東湖に会いに行くことを命じられ、会った最初に東湖が三度死を決して而も死せずと詠んだのに対し、薩摩の武士は死にかけて生き延びるのは恥だと言い放つ

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東湖と会ってその人となりに感服し、東湖からも丈夫と呼ばれて感動
東湖に言われるままに、吉之助は斉彬に西洋技術を取り入れるあまり蘭癖になっているとの批判をどう思っているのか問うが、見ればわかると一笑に付される
お由羅を成敗して調所派を一掃しようという若手の剣幕に乗った吉之助を、病に倒れた斉彬が諭し、自らの跡目に久光の子・又次郎を立てようという
反対する吉之助に斉彬が聞かせた構想とは、娘を将軍家の正室となして外戚となり、水戸斉昭の子一橋慶喜を将軍に据え、幕府・諸大名の力を合わせて国を守る
吉之助も、藩主の覚悟を知って心を引き締める
斉彬が見ればわかるといったものは、55年江戸湾に現れた西洋式帆船で大砲10門を備えた軍艦・昇平丸。琉球を守る船として幕府の許可を得ていたもの。アヘン戦争でイギリスに蹂躙された清国の事を知って、53年に手配していたもの。百の攘夷論より一艘の西洋式軍艦の方が役に立つという斉彬に対し、見学に来た東湖が、「外様の島津が軍艦で江戸に乗り込んできたとなると意図を疑う小人も出て来る」と牽制、斉彬は、「すべて幕府に献上する」と言い放つ

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斉昭は、斉彬が娘を将軍家定の正室にして外戚になろうとしていることに異を唱える
将軍家が島津から正室を迎えるという話は1850年に起こった話。家定の正室が相次いで死去、生母の本寿院がかつて家斉の正室に迎えた島津出身の広大院が子に恵まれたことから、島津家からの輿入れを望んだもの。琉球へのフランス艦来航以来、外国への対応を迫られていた斉彬は、幕府との結びつき強化を狙って縁組を利用。53年島津一門の今和泉領主忠剛の娘を実子として届け出たが、ペリー来航と直後の将軍家慶急逝で沙汰止みになっていた
斉昭は、関ヶ原で島津が家康に相対したことなどを理由に異を唱え、外様が将軍家の外戚になることを「廉恥もなき世態」と嘆く
斉彬は、国を憂える者同士信を抱くことができるというのに対し、斉昭は、軍備を充実させたうえで開国すれば幕府を圧倒できるというのが島津の真意ではないかと疑う
斉昭は水戸7代藩主の3男として生まれ、兄に子がなかったために嗣子に立てられるが、藩内には財政立て直しのために将軍家との結びつきを深めようと、11代将軍家斉の子恒之丞を藩主に迎えようとする動きがあり、藩内のまとまりがない。斉昭の海防への強い関心から幕府に睨まれ、一時は家督を長男に譲って幽閉されるまでになったが、その後藩政に復帰、幕府も海防について意見を聞くようになったものの、藩内の確執は続く
そんな水戸藩との連携と相互不信の寛解を斉彬は吉之助に期待
5410月、安政の大地震。篤姫を救い出す。東湖は藩邸で圧死
水戸藩邸で、越前福井藩の春嶽の懐刀といわれた橋本左内に会う

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左内は藩医の息子で、16歳から大坂で緒方洪庵に学び、3年後藩医を継ぐが、このほど士分取り立て、書院番となって江戸へ
吉之助は斉彬の蘭癖について如何に思うかと問うと、左内は斉彬が西洋に学ぼうとしているのだと見抜き、世間の尊攘派が西洋の事を知らぬと言ってのける
左内は、その時の印象を、「世を憂える漢(おとこ)にあった」と感興を起こす
左内は、鎖国攘夷論を迂論として退け、積極的な開国通商を行うべきとの見識を持ち、アヘン戦争で牙をむいたイギリスよりロシアの方が信頼できるとして日露同盟を唱える
将軍継嗣問題が浮上。春嶽、斉彬は水戸斉昭の7男で一橋家に入った慶喜を推し、数寄屋坊主組頭は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ、後の家茂)を推す。斉彬は、大奥を動かさなければならないとして、篤姫を送り込む
57年、斉彬帰国。吉之助の妻が、口減らしのため実家に戻り離縁
大久保家は、一蔵の父が遠島から戻り、一蔵も徒士(かち)目付に就く
阿部老中が病没

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斉彬の命に従い、吉之助は出府。左内と共に動く
出府の途上、一蔵とともに熊本藩の家老・長岡監物に会い、尾州の田宮如雲への紹介状をもらうとともに、越前福井藩に斉彬の書状を届けることを聞いて、熊本藩きっての実学者・横井小楠が春嶽に仕えることになるかもしれないと聞かされる

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出府した吉之助は春嶽に会い、左内と共に動けと指示を受ける
紀州藩主・徳川慶福を将軍継嗣に推すのは、紀州の付家老・水野忠央(ただなか)と井伊直弼
水野は新宮城主で35千石と大名並み。吉田松陰も「奸にして才あり、世頗るこれを畏るが、一世の豪なり」と認める。長野主膳を呼び、直弼を大老にして慶福を将軍に就け、自らも老中として天下の政に関わろうという野心を吐露

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老中筆頭の堀田正睦がアメリカとの通商条約締結の勅許を得るために上洛すると、春嶽は左内に助力を命じ、左内はその機に乗じて京の有力者に開国と慶喜の将軍継嗣を説くが、同時に主膳も慶福こそ相応しいと説得して歩く

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吉之助は、篤姫を通じて、将軍家定に慶喜を継嗣とするよう働きかける工作に没頭
家定は何事も生母・本寿院に相談、本寿院は篤姫がお世継ぎを生むやもしれないのに、慶喜を継嗣とする建白書を出した斉彬に憤慨して、篤姫に家定と会うことを認めない
京では、条約対応を幕府に一任しようとする関白に対し、尊王攘夷に燃える公卿衆が大挙して参内し関白をつるし上げる

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主膳は、左内と吉之助に狙いを付けて対策を練る

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左内は、朝廷内に隠然たる勢力を持つ鷹司の説得に成功
通商条約締結への勅許は下りず、将軍継嗣についても曖昧なままの決着
井伊直弼は大老に就く

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大老就任直後に直弼は春嶽を呼んで、将軍継嗣の上意は慶福だと一方的に告げる
直弼による一橋派排除が進み、条約の締結も引き延ばそうとするのに対し、左内は勅許が得られないままで条約を締結し、違勅の責任を直弼に取らせようと画策、吉之助は力によってねじ伏せざるを得ないことを覚悟して斉彬の下に伺いを立てる

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アメリカとの条約交渉にあたっていたのは外国貿易取調掛の岩瀬忠震(ただなり)6月米艦船が下田に来航、岩瀬は直弼から条約締結の延期を指示されたが、已む無い場合は調印することを渋々了承。岩瀬は延期の交渉などしないまま調印。直弼は違勅の責任を堀田らに押し付け老中を罷免。一橋派は一斉に直弼の違勅の責任を追及、水戸・尾張藩主も噛みついたが、のらりくらりとかわし、すぐに諸大名に登城を命じ、慶福の継嗣を正式に発表。翌月家定死去。脚気が悪化したもので享年35。慶福は僅か13歳で将軍・家茂に

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直弼は、水戸・尾張に慶喜も含め一橋派の大名を、生前の家定の名で過酷に処断
独り斉彬だけが沈黙していたが、兵を率いて上洛する意図を知って隠居の父・斉興が毒殺を図り、死の床で斉彬は久光を呼んで後事を託す
斉彬の引兵上洛の地ならしをしていた吉之助は生きる望みを失って、国許に戻って墓前で腹を切ろうと決意

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勅諚を以て直弼を辞めさせようとする動き(戊午:つちのえうまの年に因んで戊午(ぼご)の密勅と呼ばれる)に賛同して、吉之助は朝廷の意向を水戸に伝えに行くことを買って出るが、東湖亡き後の水戸藩は内部がまとまりを欠き朝廷の意向を受け止めるのを渋る
直弼は、京での不穏な動きを察知して、一橋派に対し更なる弾圧を加えようとする

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具体的な弾圧の手が伸び、公卿に大きな影響を及ぼしていた梅田雲浜がまず挙げられる
密勅を諸大名に配布しようとしていた月照や吉之助にも追手が迫り、吉之助は斉興に直訴して挙兵を促そうとするが、薩摩は久光の時代になってすっかり旧態依然に戻る

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吉之助は月照を薩摩で匿おうとしたが、薩摩藩は幕府の意に反することは出来ず

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薩摩藩は、月照を軟禁の上、吉之助に処分を命じたため、吉之助は月照とともに入水自殺を図る。吉之助の死が直弼に伝えられ、左内もすでに捕縛されたとあって、朝廷も幕府の弾圧に震え上がり、孝明天皇が幕府に対して疑念氷解の勅諚を発出、朝廷の全面降伏に終わる

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平野國臣らによって吉之助は息を吹き返すが、月照は蘇生せず。人を死なせ自らだけが生き延びることに勝る恥はなかったが、死ぬのを恐れぬなどという思い上がったことを考えていた自分に腹が立ち、なすべきことをなすまで逃げたり死んではならんと決意を新たにする
藩は、吉之助に幕府の目から逃れるために名を変えて奄美大島に潜居することを命じる

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安政6(59)に入って、直弼は弾圧の手を幕内の謀叛分子に向ける

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大島で知り合った娘と再婚
左内は斬首。享年26

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左内の処刑を悲しんだのが同じ獄舎にいた吉田松陰。梅田雲浜との密議の嫌疑をかけられ、一旦嫌疑は晴れたが、老中・間部詮勝暗殺計画を自白したため直後に処刑、享年30
辞世の句は、身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂
安政の大獄が100余人の処罰で一段落。直弼は臨機の権道であると嘯(うそぶ)

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大島に流されてきた藩きっての秀才から、陽明学のことを聞かされた吉之助は、知行合一を説く王陽明が自分と同じ境遇の中から覚悟を切り開いたことに感銘を深くする
朱子学では理を究めようとするが、人の心には良知(りょうち)という正邪善悪を判断する心の本体が本来あると陽明は考える。心は善悪を見定めることができる。即ち心即理であると喝破。それ故、良知である心を磨いて実践していけば、善の社会が実現できるというもので、そのためにはまず知ったことは行わなければならない。それが知行合一
それを聞いて吉之助は自らのやるべきことを悟る

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1860年、桜田門外の変。2年後、島津久光が勅使に随従して江戸に赴き幕政改革を行った文久の改革で井伊家は糾問され、主膳は斬首、打ち捨ての刑。享年48

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一蔵は、薩摩藩の独裁者となっていた久光に近づき、久光もかつて斉彬の下にいた藩内の若手を抑えようと一蔵を利用する
藩主・忠義の名で、誠忠士之面々に宛てた直筆の諭書(さとししょ)が発出され、順聖院(斉彬)の遺志を貫いて国家に忠勤を励む心得を宣言、突出にはやる同志たちを思いとどまらせる ⇒ 以後一蔵たちが誠忠組の名で呼ばれるようになる
この4か月後に桜田門外の変が勃発、久光は誠忠組を抑えたことに安堵し、一蔵を重用すべきと思い、小納戸役に昇進させ、政務に参与させる
長州に朝廷と幕府の周旋に乗り出す動きがあると知って、一蔵は久光に長州に先んじて挙兵上洛しないと薩摩の出番はなくなると建策、併せて西郷の復帰を嘆願

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久光の出府を正当化するために一蔵が考えた奇策が江戸の藩邸の放火。幕府に藩邸の造営費拝借と参府延期願を出し、幕府から貸与が出ると、その謝礼言上のため藩主に代わって久光が出府するというもの
62年、坂下門外の変で、和宮降嫁に憤る水戸浪士が老中・安藤信正を襲撃、未遂に終わるが幕府の権威は完全に失墜
一蔵はこの時を捉えて、上洛した久光に朝廷守衛の勅諚を出させようと画策

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吉之助に召喚の知らせが届いたのは子どもが出来た直後のこと
吉之助は、久光と一蔵の何でも力で押し通すやり方に、心がなければ人は動かないと不安を覚える




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