子規全集 第4巻 俳論俳話 上  故・正岡子規  2020.5.

子規全集 第4巻 俳論俳話 上

4巻 
発行日     大正14212日 印刷           215日 発行
子規居士墨蹟     明治33年正月筆 【百事如意】
子規居士肖像     明治28年従軍前撮影
子規居士筆        明治2836日付け      『日清役従軍願書』

俳論俳話 上
Ø  向井去来 明治254
蕉門豪傑多し。丈艸の老勁にして禅意を含み、嵐雪の冲澹(ちゅうたん:心が潔白で無欲)にして古学に深き、許六の健矯、支考の豪放、北枝の清麗、野坡の奇創、越人の真摯、荷兮(かけい)の敏贍(びんせん?)、いずれも俳壇の上に起て覇を一方に称するに足るが、終に寶井其角、向井去来の2人の右に出ずる者無し
奇兵を険地に用い出没変幻敵軍を謀る者は奇功を奏すといえども、亦時に奇禍あるを免れず。寶井其角の俳句に於ける、即ち此類なり。其角の句は奔逸跳盪(ちょうとう)、千変万化、意の到る所筆随はざるはなく、情の発する所言い盡さざるはなし。去来も其角の
        切られたる夢はまことか蚤の跡
という句を評して、其角は実に作者にて侍る、僅かに蚤のくいつきたる事誰か斯くは言い盡さんと云へり。其れ然り、然れども其弊卑俗に陷り迂曲に過ぎて謎に類するものだに少なからず。一誦すれば盡く奇なり。誦する事再三に及んで嫌厭を生ずる者多し。而して去来の俳句を見るに、平易尋常にして曲節もなく、工夫もなく、色も臭も無きが如き者あり。世人乃ち断言を下して曰く、愚なり、下手なりと。古人云う、大巧は拙なるが如しと。此平易凡庸なる所、即ち去来の去来たる所にして、終に其角の一籌(じゅう:はかりごと)を諭する所以なり
去来の句平凡なりといえども、千誦万誦愈々其味の加わるを覚えて厭嫌の意を生ぜず
蕉門中博学多才の人を求むれば其角、嵐雪その最たるものなり。芭蕉も門人に両者あるを誇り、竟に一語の去来に及ぶ者なし。両者には及ばないが、去来の芭蕉に対する師弟の関係を見れば、其情父子よりも密なるところあり。蓋し去来は温厚篤実の君子にして、道徳上間然する所なきが故なるべし。是れ即ち芭蕉の彼を愛せし所以にして、且つ彼が蒼老洗練なる俳句を造出して平淡中に至味を寓せし所以なり。去来は名を求めず、才に誇らず、随って門弟を集めて衣鉢を伝えるの企もなければ、其名は徒らに其角、嵐雪の下に落ちたる事口惜しきの限りなり。されど剛愎不遜を以て有名なる森川許六も去来の誄(るい)を作りて、一代の秀逸は一両句持てる人さえ稀なるべし、此男は既に数句に及べりと云えり。去来も亦栄なりと謂うべし

Ø  獺祭書屋俳話       明治25626日――1020
ü  獺祭書屋俳話小序
老子曰く、言者は知らず、知者は言わずと。知らざるを知らずとせず、而して之を口にし之を筆にし以て天下に公にす。知者は之を見て其謬妄を笑い、不知者は之を聞きて其博識に服す。故に之を談ずるもの愈々多くして之を知るもの愈々少なし。余も亦俳諧を知らず、而して妄りに俳諧を談ずるものなり。(さき)に『日本』に載する所の俳話積んで30余篇に至る。今之を輯めて1巻と為さんとす、乃ち前後錯綜せる者を転置して稍々俳諧史、俳諧論、俳人俳句、俳書批評の順序を為すといえども、固と随筆的の著作、條理貫通せざること多し。況んや浅学寡聞にして未だ先輩の教を乞うに遑(いとま)あらざれば誤解謬見亦應に少なからざるべし。知者若し之を読まば郢正(えいせい?)の労を賜え。若し夫れ俳諧を知らざる者に至りては、知らずして妄りに説を為す者の言に惑う莫れ
                    明治251024          獺祭書屋主人識

ü  俳諧という名称
俳諧という語が初めて日本の書に見えるのは古今集中に俳諧歌とあるのが該当
滑稽の意味と解釈する人が多く、俳諧連歌俳諧発句という名称ができ、俗に之を俳諧というが、芭蕉已後の俳諧は幽玄高尚なる者があって必ずしも滑稽の意を含まず、上代と異なった通俗の言語、または文法を用いるものを指すように変化

ü  連歌と俳諧
俳諧は連歌から生まれ、連歌は和歌から生まれたので、文学として読者を感じせしむるの度は和歌に比して劣る。江戸の初め松永貞徳が連歌に代わる俳諧を唱え、発句の重みが加わったが、所詮地口しゃれ謎等の滑稽に過ぎざれば文学上の価値はさらに一層下落
芭蕉は趣向を頓智滑稽の外に求め、言語を古雅と卑俗との中間に取り、万葉集以後新たに一面目を開き、日本の韻文を一変して時勢の変遷に適応せしめ、正風俳諧の勢力は明治の世になっても依然として隆盛を致せるものなるべし
芭蕉は発句のみならず俳諧連歌にも一様に尽力、その門弟もその遺訓を守ったが、後世に至り単に17文字の発句を重んじ、俳諧連歌はその付属物として存するの傾向あり

ü  延宝天和貞享の俳風
足利時代の連歌から芭蕉に至るまで、貞徳派檀林流等の階梯を経過し、洗練の度を高め、貞享・元禄時代の『四季句合』では、滑稽に陥らず、奇幻を貪らず、景を自然の間に探り味を淡白裏に求め、初めて正風の旗幟を樹立。その後『曠野集』『其袋』『猿蓑』等続々と世に出て、芭蕉の功名をして千歳に不朽ならしめた
明治の大改革により、文学界も亦過劇の変遷を生じ、翻訳文、新体詩、言文一致等の諸体を唱える者が現れ混乱を起こしたが、天下の大勢より見れば文学進歩の一段落に過ぎず、後来大文学者として現出する者は必ず古文学の粋を抜き併せて今日の新文学の長所をも採取する者なるべく、而してこれらは皆元禄時代に俳諧の変遷したると同じ事と思える

ü  足利時代より元禄に至る発句
檀林の天下が続く中、其角は1新体を創ろうと、漢土の詩にヒントを求める

ü  俳書
連歌俳諧の選集は足利時代にもあったが、大量に出始めたのが延宝年間で、天和、貞享を経て元禄に至りその頂点に達する
その後は急減し、芭蕉の英魂は死後2,30年で霊威を失い盡したように見える

ü  字余りの俳句
延宝、天和に最も多くみられ、18,9音どころか25音まで現れ、今から見れば奇怪の観がするが、俳風変遷の階梯としては避けて通ることのできない過程か
17音でも五七五の調子に外れた者もある
        雪の(ふぐ)左勝水無月の鯉      芭蕉

ü  俳句の前途
数学者が、和歌俳句は字数に制限があるので、いずれ限界に達して新しいものは作れなくなるというが、和歌も俳句も無数にしていつまでも尽きることはない
ただ、弟子は師より脱化し来たり、後輩は先哲より剽窃し去りて作為せる者、比々皆是なり。其中に石を化して玉と為すの工夫ある者は之を巧みとし、糞土の中よりうじ蟲を掴み来たる者は之を拙とするのみ。終に一個の新観念を提起する者なし。平凡な宗匠・歌人ばかりしか出てこない理由の1つは、和歌・俳句其物の区域の狭隘にもよる
いずれ和歌俳句の運命は明治年間には尽きることを恐れる。和歌は字数が俳句より多ので数理上の上限は俳句より上にあるが、実際に和歌に使用する言語は雅言のみにて其数少なき故に更に狭隘であり、明治以前に盡きたのではないかと思惟する

ü  新題目
維新に伴う時勢の大変遷で新題目で吟詠すれば和歌俳句も盡きることがないという者もい亦之を好むものにあらず。大凡天下の事物は天然にても人事にても雅と俗の区別あり。文明世界に現出する無数の人事又は所謂文明の利器に至っては、多くは俗の又俗陋(ろう)の又陋なるもので、文学者は終に之を以て如何とも為し能わざるなり
蒸気機関なる語を見てもどんな心象を得られるというのか。唯々精細にして混乱せる鉄器の一大塊を想起するとともに、頭脳に一種眩暈(げんうん)的の感あるを覚ゆるのみ

ü  和歌と俳句
将棋、三絃、俳句はよく似ていて、碁、箏、歌もよく似ているが、お互い好対照
前者は下等社会に行われ、後者は上流社会に行われる
前者は起源新しく、後者は古い。新しいが故に俚耳(りじ)に入り易く、古きが故に雅客の興を助ける
将棋盤は碁盤より狭いが其手は碁より多く、三絃の糸は箏より少ないが其音箏より多く、俳句の字は歌より短いがその変化は歌より多い。変化多ければ奇警(≒奇抜)斬新のことを為すべし。唯々卑猥俗陋に陥るの弊あり。変化少なければ優美清淡の味あり、唯々陳套を襲い糟粕を嘗むるの譏(そしり)を免れず。したがって、将棋、三絃、俳句は入り難く、碁、箏、歌は入り易い。入り難けれど上達し易く入り易けれど上達し難し。この6技は蓋し奇対というべし

ü  寶井其角
蕉翁の6感なるものに6弟子(其角、嵐雪、去来、丈草、支考、野坡)の長所を評する言葉があるが、その語簡単にして未だ盡さざるのみならず、往々其要を得ざるものあれは漸次にこれが略評を試みんとす
まずは其角で、「花やかなる事其角に及ばず」という。確かに花やかな句が多い
        鶯の身をさかさまに初音かな
        名月や畳の上に松の影
しかし其角一生の本領は決して婉麗細膩(さいじ?)なるところではなく、傲兀疎宕(そどう)の処、恠奇(かいき)斬新の処、諧謔百出の処にあることは五元集を一読すればわかる
傲兀疎宕の例としては、         鏡一ッうれぬ日はなし江戸の春
其角は江戸っ子中の江戸っ子。大杯を満引し名媛を提挈して紅燈緑酒の間に流連せしことも多く、芭蕉もその大酒を戒めて、「蕣に我は飯喰う男哉」と言ったほどの強の者
恠奇斬新の例としては、         世の中の榮螺も鼻をあけの春
巧者巧みを弄し智者智を逞うする所で、其角が一吟人を瞞著するの手段なり。座上の即吟では其角の敏捷一座の喝采を博すること常に芭蕉に勝れたりとかや
諧謔百出の例としては、         こなたにも女房もたせん水祝ひ
多能なる者は必ず失す。其角の句巧みに失し奇に失し豪に失するもの少なからず。豪放迭宕(てっとう?)なる者は常に暴露に過ぐるの弊あり
豪放にしてしかも奇才あり、奇才ありてしかも学識あり。されば時として豪放の真面目を現わし、時として奇才を弄し学識を現わすなど、機に応じ変に適して盤根錯節を断ずること大根牛蒡を切るが如くなれば、芭蕉も之を賞し同門も之に服し、終に児童走卒をして其角の名を知らしむるに至りたり。其角はそれ一世の英傑なるかな

ü  嵐雪の古調
古文を好んだと見え、俳句も古書古歌に憑りたるもの多く、語調も和歌に似たるもの少なからず                 ぬれ縁やなづなこぼるゝ土ながら
行燈を月の夜にせんほとゝぎす          の句は万葉集の家持の歌をそのまま俗訳せしもので、余り珍重すべきものではないにもかかわらず、宗匠や門弟は学問浅薄な者多く、家持の歌を知らないか、知っていれば却て古歌にちなむ名句と賞讃するのは片腹痛い
蕉翁6感の中に「からびたる事嵐雪に及ばず」とあるのは適評。其句は温雅にして古樸、時に従って変化する妙は其角の豪壮にして変化するものと相反照して蕉門の奇観
からびたる句の例としては、             梅一りん一りん程のあたゝかさ
蒲団著て寝たる姿や東山         などの句は実景実情を有の儘に言い放しながら猶其の間に一種の雅味を有するもので、嵐雪の独り擅(ほしいまま)にする所
一見識はあるが稍々理想には乏しく、宇宙の事物を観察するに常に其の表面よりするの傾きあり。是を以て其表面的の観察も亦重もに些細なる事物に向かって精密なるが如し
          花に風軽く来て吹け酒の泡
人情の上に於ける観察も曾て悽楚(せいそ)惨憺の処に向かわず、はた勇壮豪放の処に向かわずして、常に婦女もしくは児童の可憐なる所に在るが如く見ゆ
          ほつほつと喰積あらす夫婦かな
其角の変幻極まりなきとは大いに異なって、味深きところあり。嵐雪の変化は其角の天地にわたって縦横奔放するの類に非ずして、僅かに一小局部内に彷徨するものなれど、其雅味存するの多きは其角もまた一歩を譲らざるべからず。宜(むべ)なる哉「門人に其角嵐雪あり」と併称せしや

ü  向井去来
「實なる事去来に及ばず」と蕉翁6感が評す通り、よく去来を表している。人と為り温厚忠実、芭蕉に事えること親の如く又君の如く、常に親愛と尊敬とを失わず、芭蕉も亦之を見ること恰も吾愛児の如くして、他の門弟子とは一様に思わざりき。芭蕉が去来を褒めたり叱ったりするのは、師の弟子に於ける関係より出でずして親の子に於けるが如き愛情より発するものであり、骨肉の如く之を愛するがためなり
去来実にかくの如き人なれば、その作る句も亦優柔敦厚にして曾て軽躁浮泛に流るゝの弊を見ず、其角の如く奇を求め新を探りて人目を眩するの才なく、又丈草の如く微を発き理を究めて禅味を悟るの識なしといえども、却て平穏眞樸の間に微妙の詩歌的観念を発揮せしが為に、其句を読む者一たび之を誦ずれば終に復忘るる能わざるに至る
其景を叙するの処、情を叙するの処、神理天工、一心一手の間に融会して外面一片の理想を著けず、裏面一点の塵気を雑えざるに至りては芭蕉も亦之を模倣すること能わず。況んや其嵐二子をや。況んや其他の作家を以て自ら任ずる許六、支考の輩をや
其の例を挙げれば、    上り帆の淡路はなれぬ汐干哉
句の妙霊なるのみならず、去来其人の性質躍然として現れたるを見るべし
生涯300句余りしか残されておらず、1題数句ある者は稀。只々櫻花、鵑(けん)、秋月、時雨、雪の5題は吟詠各10句と多く、他の些事微物に至っては1句だに無き者少なからず、これを以て見るも去来の観念は毎に那辺に向いしかを知るに足らん。又去来は武士なる者の意気凛然たる所を忘れざりしと見え、これを証するの句多し
          元日や家に譲りの太刀はかん

ü  内藤丈草
僧丈草は継母に仕えて孝心深し。家を異母弟に譲らんと禅門に入り、その後芭蕉の弟子となり俳句を学ぶが、斯る心だての大丈夫なればにや、芭蕉もいたく之を愛し、「人の上に立たんこと月を越ゆべからず」とはじめより喜べりとぞ。丈草も深く芭蕉に懐き、その死後も義仲寺のほとりに草廬を結びて一生を終える
明和の頃の蝶夢なる俳人、去来と丈草の発句集を編み、端書に蕉風の正統を得し者は去来丈草二子なりと記したが、この2人は名聞を好まず、弟子も取らなかったため、後世之を祖述するものないだけに貴重な評価
丈草の俳句を読めばすぐに、禅味に富むことに気づく。諸行無常という仏教的な観念は常に丈草の頭脳を支配していたものと思われ、其種の作句実に多く、坊主臭くて、多くは暴露に過ぎ稍々厭うべきものあり。これを芭蕉の禅味を消化して一句の裏面に包含せしむるものに比すれば及ばざること遠し
例えば、         啄木鳥(きつつき)の枯木探すや花の中
軽快流暢の筆を以て日常の瑣事を拈出(ねんしゅつ)するは丈草の長所
          春雨や抜け出たまゝの夜著の穴
丈草の好んだ題目は動物。全句中1/3は皆禽獣蟲魚に関係するが、芭蕉去来が好んで天象地理の大観を吟詠するのとは大いに異なり、丈草の一籌を輸する所以亦ここに在る可し
俳句に擬人法を用いたのは後世になってからで、元禄前後には少ないが、丈草は動物を題材に擬人的の作意を試みる 我事と泥鰌のにげる根芹かな

ü  東花坊支考
蕉翁晩年の弟子。人と為り磊落奇異、敢て法度に拘らず。芭蕉の生前は吟詠妙境に到りて他の高弟をも凌駕し、頼もしく見えたが、芭蕉没後は自ら門戸を構え学識を誇り多才を頼み、妄りに芭蕉の遺教と称して数十巻の俳書を著し、自ら解釈と批評を加えて天下に刊行したものの、其句多く軽佻浮泛に流れ、往々芭蕉正風を外れる
美濃派を起こし、今日に至るまで多少の勢力を以て全国に蔓延しているが、支考の性行此如くなれば其吐く所の俳句も亦一種の理想を含む者が1089
          月花の目をやすめばや春の雨
意匠自然に出でずして斧鑿の痕を存するものあり
擬人法はもと理想より生ずるものにして、丈草が用いたが、支考も動植物を形容する慣手段として多用                   花の咲く木はいそがしき二月かな
支考は固より一個の英俊なる俳家たるを失わず。其賦する所稍々神韻に乏しといえども、滑稽諧謔の中に一定の理想ありて全く卑俗に陥るを免れたり。しかし後世無学の俗輩一片の理想無くして此諧謔を学ぶ、俗陋平浅ならざらんと欲するも得んや。支考の多能なる俳句に於て到る処必ずしも前に論じたる境涯に止まらず、時として其角去来を学び、時として尚白涼菟に擬する者あり。是れ支考の支考たる所以なるべし
          これ迄かこれ迄かとて春の雪

ü  志多野坡
蕉翁6感に「おどけたる事野坡に及ばず」とあり、当たらずとも遠からず
意匠の清新奇抜なるものを取って作するを常とす
          初午や鍵をくはへて御戸開
常に滑稽を以て人頤(おとがい)を解かんとする者の如く、其の理想に至りては甚だ低きかと思わる。恋の歌など浅薄暴露殆ど読むに堪えず。理想は低いが、其度量快豁は仮令上乗に非ざるも蕉風の特色を存して大に愛すべきもの

ü  武士と俳句
諸侯にして俳諧に遊びし者、蝉吟、探丸、風虎、露沾、粛山、冠里、諸侯あり
武士にして俳諧に遊びし者、芭蕉をはじめ比々皆然らざるはなし。俳諧のみならず武士としても亦名高き人々は、大高子葉、富森春帆、神崎竹平、菅沼曲翠、神野忠知等
蕉門十哲の中、性行の清廉と吟詠の高雅とを以て古今に超絶する2豪傑、去来丈草も亦武士のはてにして、殊に丈草は異母弟に家を譲って禅門に入った人ななり。夫れ風流は弓馬剣槍の上に留まらず。雅情は電光石火の間に宿らず。否これらは寧ろ風雅の敵にして、芭蕉も行脚の掟には「腰に寸鉄たりとも帯すべからず、惣(そうじ)て物の命を取る事なかれ」といい、去来も亦         何事そ花見る人の長刀
と咏して人口に膾炙せり
誠実なきの風流は浮華に流れ易く、節操なきの詩歌は卑俗に陥るを免れず。文学美術は高尚優美を主とするもので、浮華卑俗を以て作られた文学美術ほど面白からぬものはないどころか、世を害するものまたとあるまじと思う。三笠附という一種の博奕となって幕府が法律で禁止したため、宗匠の跡継ぎも発句の点も皆金銭に比例する世の中、扨(さて)もうるさし。以下の句を連ねて2階からの目薬となさん
          しら炭や焼かぬ昔の雪の枝      忠知
なんのその巌も通す桑の弓      子葉

ü  女流と俳句
女流俳句を嗜む者少なからず。其の風潮亦一種のやさしみありて句作の強からぬ所に趣味を存すること多く、却て男子の拈出し能わざる細事に着眼して心情を写し出すこと其微に入り以て読者を悩殺せしむるものあり
なまなかに心ひなびて詞もむくつけき俳諧などする女はよろづに男めきてあらあらしくなるという説にも一理あるが、今と昔では言葉も変わり深閨に養われた上臈すら古学を修めぬものはたやすく和歌をよみいづべくもあらず。古今の相違は言語だけでなく、日常の事やそこからの連想も一変しており、それを詠もうとすれば今日の俗語を用いらざるを得ない。殊に女子の目撃する瑣事に至りては雅言に求めても無理
和歌には伊勢、小町、相模、紫式部、清少納言の如き雲上の女傑輩出したが、俳諧には上臈なき故に卑俗の2字を以て排し去る者多きはひが事なり。言葉俗なりとも心うちあがりたらんは如何ばかり高尚ならまし

ü  元禄の4俳女
元禄の俳諧では、捨(すて)女、智月、園(その)女、秋色が4
すて女は燕子花(かきつばた)の如し。うつくしき中にも多少の勢いありて、りんと力を入れたる処あり
智月尼は蓮花の如し。清浄潔白、泥に染まぬ其色浮世の花とも思えず
秋色は撫子の如し。ゆらゆらと風に立ちのびて優しく咲き出でたる、中々にくねりならはぬあどけなさに其人柄まで思いやられてなつかしい
園女は紫陽花の如し。姿強くして心おとなしきは俳諧の虚実にかない日々夜々の花の色は風情の変化を示して終に閑雅の趣を失わずともいわん。余は園女を第1とす。見識気概ありて男子も及ばざるところあるが、句作に際しては決して婦女子の真面目を離れず

ü  加賀の千代
俳人中最も有名な女子。俳諧の上にも男女それぞれにいうべからざることあり
前者は男にして始めていうべく、後者は女にして後作し得べきものなり
          母方の紋めづらしやきそ始             山峰
          我裾の鳥も遊ぶや著衣はじめ          千代
          出女の口紅をしむ西瓜かな             支考
          紅さいた口もわするゝ清水哉          千代
余所目に見る支考の句はおかしく、我身の上を思いかえした千代のはいとおしい
          白菊の目にたてゝ見る塵もなし       芭蕉
          白きくや紅さいた手の恐ろしき       千代
芭蕉は園女をほめて吟じ、千代は己を卑下して詠ず

ü  時鳥
連歌発句、俳諧発句の題目の生物の中で最も多いのは時鳥
この鳥は如何なる妙音ありけん、万葉集でも百余首あり、古今の発句では幾万にも上る
支那の詩では、多くはこれを悲しきものにいいなせり
西洋の詩にも子規に似た鳥を詠んだものがあるが、皆其声を嬉しき方に聞くが如し
空しく川柳都都逸の材料となって一生を送る阿呆鴉の面の皮のあつさよ
          時鳥なかぬ初音ぞめづらしき          一遍上人
          郭公大竹原をもる月夜                   芭蕉
          蜀魄なくや雲雀の十文字                去来
          この雨はのつ引ならし時鳥             一茶

ü  扨はあの月がないたか時鳥
上五を「一声は」として、芭蕉や其角の作という杜撰な俗説あり。俳家奇人談には瓢水の作といい、温故集に藻風とあれば、藻風は瓢水の別号かという
宗牧発句集を繙くと、「月や声きゝてぞ見つる郭公」という句を見つけたが、100余年も前にこの句があったのであれば、前の句が得たる名誉の過半はこれを宗牧に譲らざるべからざるなり
文学に限らず天下此如き類多し。其冤を雪ぎ其微を闡(ひら)くは学者の義務なるべし。洋書を抜萃翻訳して著作と号し、古書を翻刻出版して我編纂といい、以て初学者田舎漢を惑わさんとする当時の紳士学者は果たして何するものぞ

ü  時鳥の和歌と俳句
俳諧の達者といわれる人の句にも古の和歌から発想を取ったものが多く、拙の又拙なるものも多い。発句も俗客又は無学者の悪戯場となりしより愈々出でて愈々陳腐なるものとはなれりけり

ü  初嵐(新聞『日本』解停の時作る)
1年の内風多し。春風はこそぐられるが如く秋風はつめらるゝに似たり。初嵐野分二百十日なんどありて秋の天気は男の心にもたとえたるをや
二百十日の頃は誰もが天気を窺って空を見上げると夕暮れに1点の黒雲丑寅の方に出没、みるみる墨を流してはや頭上に見あぐるほどにもなりぬ
雨戸烈しく吹きはなす音に目覚めて発句し、翌朝晴れ渡りて嬉しや胸のすきたる心地を又詠む

ü  
我書窓の下に竹垣に沿って1本の萩生え広がって軒端近く風に打ち返るゝさま、今日咲くか明日乱れるかと朝な夕なに打ち見やるほどに、それかあらぬか置き乱す白露の間より紫のほのかに見えそむるを詠む
          白露もこぼさぬ萩のうねりかな       芭蕉
実によくも萩の風姿を形容したりけりと坐ろに歎賞せらる
萩ほどやさしく哀れなるものはまたとあらざりけり

ü  女郎花
秋の7草は皆それぞれの趣あるが中に女郎花ほど寂しく哀れなるものはあらじ。されば古来歌人もいろいろに詠みならい俳人も多く詠じ出せるが、其たけたかく伸びすぎて淋しく花のさかりを見て     ひょろひょろと猶露けしや女郎花  芭蕉

ü  芭蕉(はせを)
木に似て枝なく草に似て遥かに高し。幹は大きやかなれど霜枯れにはいち早く枯れて形ものうく、葉は広けれどいつしか雨に破れ風に吹かれて秋の扇にさも似たり
秋草は皆さゝやかに花咲くものばかりなるに誰かは此芭蕉を取りて秋の季には入れたりける。むかし桃青深川の草庵に芭蕉を植えてその雅号となせしより以来、はせをといえば何となく尊くかしこきように思わるゝも此草の幸せなりや。されば古今の俳人多く芭蕉を詠じ出だせるが中に 秋風に巻葉折らるる芭蕉かな  加生 (季重なり?)
          染かねて我と引きさく芭蕉かな
稍々奇抜に過ぎるが新意を出だしたるは妙なり

ü  俳諧麓の栞の評
撫松庵兎裘の書。日本古代の文法論を述べ俳諧に応用している。昔から俳人古学を修め文法を知る者少なく、文法語意の点で誤謬を為す者比々皆是なり。近世の俳人が勝手に宗匠を以て愚者を惑わす。本書はそれを正し、古の俳書の杜撰を罵る。卓見識ありと謂うべし
自分も文法については無学で、学問の好方便を与えられたことを謝するが、今日の俳諧に古代の文法をそのまま用いよとの主張には異論がある。どの時代の文法を言っているのか知らないが、なぜ其時代の文法に固執するのか。文法は時代とともに変遷し得べからざるものか
芭蕉、越人の如き仮令古文法を知るとも故意に之を犯したる場合あるべし。芭蕉時代には古文法一変して「や」「かな」等の用法意義共に古の「や」「かな」に非ざるを以てなり
全く古文法を廃する意にもあらず、なお思考中にてまだ判断がつかない
          更科や月はよけれど田舎にて
の「や」字を玉鉾や道抔の例とするは甚だ心得ぬことなり。俳句では其重なる語を極めるの用を為すもので、この句では更科という語が主にして題ともいうべきもの。芭蕉の古池の句の「や」もこれに同じ
          鳴く鹿もさかるといへば可笑けれ    團雪
の「けれ」も攻撃しているが、俳諧の上に用いる一種の意義を含むものなれば、あながち責めるには及ばない。況んや「こそ」の係りありて結び語なき古例さえある位なれば、其係り語なくして「けれ」の結語ありとも左程珍しきことに非るべし
著者は文法に精しき人なるべし。而して俳諧の趣味を解し得るの人ならざるが如し
引用例が近年の作ばかり、それも稚拙な句が多い。末尾に「拾遺金玉」の1節あるが、箸にも棒にもかからぬと云うべき者だに少からず

ü  発句作法指南の評
最近其角堂機一なる宗匠による著書だが、秩序錯乱して条理整然ならず。明治以前の体裁で今日の学理発達した世にあってはあまり珍重すべきの書にあらず
今日の如く腐敗し盡せる俳諧者流の中より此1人出でて同学者の汚点と浅識とを指摘したるの勇気と見識は愉快だが、読んでなお不足を感じる箇処多い
俳諧の起源を説く中に「連歌は詞を和歌に取り、中等以上の社会にのみ行われしを我正風の祖師芭蕉翁大にこゝに慨嘆する所ありて」とあるが、順序を転倒せるものにて、連歌を俳諧に変じたるは芭蕉ではなく貞徳。後段に猶芭蕉の意向を述べて「今の俳諧の如きは作意になれる者のみなれば自然の妙は絶て無き者なり」といっているのは確論
「俳諧は滑稽なり」との釈義に拘泥して、故らに戲謔に傾きたる俳諧を引用して例と為し、「蕉翁が晉子を賞せられしもこの道の第1義と立たる滑稽の他に抜でたる故ならん」というのは我田引水の誹りを免れない。其角の滑稽に妙を得たるは真実だが、唯々滑稽を以て発句の本意とするのは間違いであり、著者の滑稽の意義は曖昧で、分かっているのか疑問
発句の格調と題して「発句は鑱に17字なれば、和歌の如くひたすら優美なる姿を述る能わず。和歌より一層区域を弘めて俗言平語を交え嫌うなきなり。姿は第2義として感を第1義とす。だからといって優美を嫌う者と思うべからず」とあるが如きは至当の論だが、姿の乱れとして字余りの3句を挙げているのは行き過ぎ                     
「家人挙て風雅」との項があるが例示されているのは正秀・曲翠の叔姪のみで物足りない
すべて詩歌文章を解するには其作者と其特性と其時代の風調とを知らざれば大いなる誤謬をきたす
芭蕉の句解を作って何首か評価している         あかあかと日はつれなくも秋の風  を激賞しているが、芭蕉が如何に大俳家たりしともその俳句皆金科玉条ではない
諸家の略伝を叙し又は略評を下す処、多くは俳家奇人談の文章を取って処々助辞接続辞抔を僅かに書き換えている。古書を其の儘取り用いること既に見識なきが如くなれど、引用元を明言しないのは、古文を剽窃して己の文と偽り称するの嫌疑を免れない

Ø  水野南河君に質す  明治25918
水野南河君が『俳諧麓の栞』の著者に代わって余が疑問に答えてくれたが、更なる疑問がある
   文法について、「世間普通に流行するものの乱れざらんことを望むのみ」とあるが、普通というのはどの範囲の事か、余も故らに文法を破毀するを好まざるは勿論である
   「已むを得ざれば俗習に従うべきこと何々の如く時宜に任すべきこと勿論なり」とあるが、俗習の範囲が明瞭でなく、模糊を免れない
   「語気を強めるために花ぞ咲きけりともいう」とあるが、余は勝手に破格の語を使っているのではなく、200年来俳諧に用いてきた一種の文法を許すのみ
   「其こそを省いて猶其の意義の通ずべきや」とあるが、余は勝手にこそを省くことを好まず。俳諧に用い来たりし習慣により許されるだけは許すべきと思うだけ
「日本語法破壊主義なる問答に関係するを欲せず」などの冷淡なる語を吐き給わず、余が疑問を氷釈せしめ給わば幸甚し

Ø  歳晩閑話              明治251222日――31
ü  巨燵
煤掃は葉竹をお幣の如く振り立てて1年の塵を払い清め、餅搗(つき)はぽんぽんと鼓の音をなして君が代を祝う。掛乞(かけごえ?)に今年の太平を祈り年の市に来年の支度にいそがしき中に、四畳半の春風を占め得たる巨燵を抱えて古俳書など繙きたる心いみじう長閑けし。若き内の巨燵は兎角に恋の種に思い付き易きものにやあらん、古の句も巨燵といえば大方はなまめきたるぞ多き
          腰ぬけの妻うつくしき火燵かな           蕪村
だが、火燵の情はまず年老いて冬籠の語り相手に手飼の猫とさしむかいたるにあり
          住みつかぬ旅の心や置こたつ             芭蕉
行脚の情を穿ちたる最めでたし
          俳諧の骨こそのこれ冷えこたつ           蓼太
100年間の風体の変遷をみるべき

ü  冬籠
小人閑居して不善を為すの誡めもあれば、火燵に友を集めて賑やかなる冬籠こそいと心もとなけれ

ü  煤掃
破れ窓より一筋さしこんだる日の光に眼をさませば、次の間はとんとんと畳打ち鳴らす音かしましきに堪えかね、やがて起き出でて障子を開けば
        すゝはきやちりにゆかしき枯れ葵         嵐亭

ü  鉢叩
冬季に属する俳諧の題目に、炭売、暦売、葉竹売、羽子板売、網代守、夜興曳、厄払等の人物あれども、掛乞より俗なるはなく鉢叩より雅なるはなし。天象には時雨、木枯、霜、霰、霙(みぞれ)、寒月等の好材料あれど終に雪の潔くうつくしきには及ばず。まして雪の夜に鉢叩のをかしく瓢打ち鳴らしたるけしきなど、思いやるさえあわれにものさびし
        鉢叩出もこぬ村や雪の鴈                     野水
        鉢たゝき雪のふる夜をうかれけり          子規

ü  年の市
年の市とて来年のものばかり売る歳のくれのさま、都の真中に松の林を見かけ、傾きたる軒の下に鳥と魚の命ならべたるも珍しきに、このいそがしさも皆新年の用意と聞けばさすがにうるさからぬ心地す
        こねかえすみちも師走のいちのさま       曽良
そもそも美術文学にては一事一物を見るに常に善き方より見てあしき方より見ぬは風流の極意なるべし。この思想は我邦の俳句に於て最其いちじるしきを見る
卑俗に流れ易き題目を取りて俳句を得んと欲せば全く其反対の事をいうか、或は其卑俗なる中より成るべく雅致ある者を探り出すにあり。年の市にの題にて之を反対の方より悲しくいいあらわしたる句は
        鴈鴨をみればかなしやとしの市             松井
のたぐい、又雅なるものを取り合せたるは
        としのいち線香買ひに出でばやな          芭蕉
斬新なれど奇怪に失せず。石を以て玉に変じ俗を翻して雅となすの1手段なり。蓋し俳諧に於ける美辞學の1秘訣とすべし

ü  餅搗
門に月並庵の3字を大書し、庵室は四畳半と六畳との相の子形にて楕円の窓を両隅に開き、庭木庭石など無理にひねりたる方宜し。尤芭蕉一もとは手水鉢のほとりに成るべく風あたりの善き処に植えてはらはらと音させるようにすべし。皆そろって古人の餅搗の句を評し合うも一興

ü  歳暮
龍の歳は雲煙出没の間に過ぎ去りて僅かに其尾尖を留めたり

ü  人様々
歳のくれの市に立ちて何者か通ると見てあれば
        あら鷹もその鷹匠も頭巾かな               朱廸

Ø  歳旦閑話              明治2612日――9
ü  神國
初日の影は92間の隅々まで照して、はきだめの塵も陽炎と燃え上り、松竹の飾り六十余州到る処に立て並べて、北風稍々東の方より吹きつくるきのうきょう、いづくはあれど日の本の3ケ日のどかに神の御末の榮え行く有様こそとうとけれ。されば新年の俳句には神徒はいうまでもなく僧侶も俗人も皆神を敬うの風をなしたるも偶然にはあらざるべし

ü  富士山
凡天下の者如何なるを指して目出度しといわんや。高く古く白く盡きないものはめでたし
我が日の本の富士は天地の別れしときゆ神さびて高く貴きが上に時じくぞ雪はふりつつ此後も絶えなん時はあらずと思えば、如何に目出度きものの限りなるらん。されば新年としいえば富士の懸物など懸くる程なれば、初春に読み出でたる富士の歌俳句はその山なすばかりなり

ü  西京東都
今は昔東の都を江戸といい、西の都に百官の家居連りたる其時より、東は武張りて強く西はなまめきて優しかりにや、京の句は穠艶妖麗を以て勝り江戸の句は租豪跌宕を以て勝れり
東西歳旦の句を取りて比較せん
        鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春            其角
        麟の肉かわかぬ都君の春                    芳充
豪奢を競うの風を麒麟の脯(ほじし:干し肉)に言い現したる、架空に過ぎて釣鐘の着想打ち上がりたるに如かず
東西の歌を読み比べると面白い

ü  大嶋蓼太
俳諧が最隆盛を極めたのは元禄。芭蕉が元禄に没し、其角、嵐雪、去来、丈草宝永に死し、その他の門弟も正徳、享保で絶える。明和、天明に再び興らんとするの兆しあり、曉臺、蓼太、蕪村、闌更の大家各々独特の妙あり、中でも縦横奔放なる者は雪中庵蓼太。博学精通才識群に絶する者も亦蓼太。著書も圧倒的に多く、其句は尽く奇創警抜にして殆ど1凡句あるなく、且つ其風調に於ける変化も亦種々にして一概に之を論ずべからずといえども、その慣用手段とする所は主として新奇なる譬喩を用いるに在り。新春の作句に求めれば、
        萬歳やこゝ八橋に酔ふて行く
善きものあれど多くは奇に過ぎて却て拙劣なるものなり
奇を弄して風韻の少なきを覚ゆ。此他軽妙なる者、荘重なる者、婉麗なる者等ありて其秀句は却て是等の諸態の中に在りといえども、神韻縹渺(ひょうびょう)なる者に至りては終に之を欠くが如し。是れ余が蓼太の為に甚だ惜しむ所なり。蓋し或は雪中派の本色なるか

ü  井上士朗
朱樹叟士朗は文化新十家の泰斗。敏才を以て17字の狭天地に駆馳しながら佶屈聱牙に陥らざりしは蓋し安永、天明の反動なるべし。句癖を見ると、畳字畳語畳句を用いることにあり
        嵐やんですよすよと梅の匂ひかな
対語対句を用いるものも甚だ多し
        月雪にやしなはれし花のはる

ü  成田蒼虬(そうきゅう)
文化、天保の時代に英名を轟かす。平遠繊細を以て勝る者なり
        柴の戸を左右へ明けて花の春
おとなしくめでたく作りなしたるさまいたく打上がりて見ゆ。元旦の句としては上乗
可愛らしき処に趣向をつけていじらしき句を作ること、蒼虬の最も長ずる所。古来幾多の女俳人ありといえども、終に此繊巧細膩たるが如きは未だ曾て之を見ず。天保以後の俳句専ら心を瑣事に留めて終に今日の流弊を来したる蓋し蒼虬の罪なり
後世の尊敬を受くること多きは其句の解し易きと隨つて模倣し易きとによるものにはあらざるか。之を模するに能く作者の精神を求むれば則ち可なり。如何せん無学無識の輩其卑俗にして解し易き者のみを取りてこれが顰に倣い、終に俳諧は平民的文学と変じて今日の甚だしきに至れり。一般人が消閑の一具として俳諧を学ぶのは良いが、宗匠までもその風潮に誘われてる陋俗平凡の悪句を作り、以て人を欺き且つ己を欺くに至っては之を何とかいわん。天保の俳風の偏する所、明治に至て其極みに至る。蒼虬豈多少の咎ならんや。然りといえども天明の粗豪奇峭を学ばず、文化の恬淡和易に落ちず、以て天保の俳諧を一変したるは実に蒼虬の力なり

Ø  雪の旅                明治26126
有明の空ほのかに闇をはなるゝ頃よりひらひらとふりしきる白雪に埋もれて隠れんばかりの小家は     雪毎にうつばりたわむ住居かな           芭蕉
とつぶやかるゝ折柄、下女襖を開きてこれ見よと示すは
                        はつ雪やかゝへて見せる鉢の松                  まん
下女さへ此風流あるに蓑笠の手前も恥かしければ
                        いざさらば雪見にころぶ処まで                 芭蕉
(中略)
忽ち頬の上に刃物あてられる心地して眼を覚ませば獺祭書屋の隙間もる風寒うして頭の上にかけたる蓑笠のそよぐに起きて窗(まど)を開けば顔に吹きつける吹雪扨も面白き夢かな

Ø  昔の若草(今の若草)          明治26211
地塘生春草という句を夢中に得て神助とはいいけん、扨も若草を詠み出でたる歌のなのめなるが多きは題のむつかしきにあらんや
発句にもこれぞという句はないし、似通いたるもの多きはそのうららかにやさしき景色の外別に変化なければなるべし。古の35句を選んで5等級に分けてみる
今の若草
古の人だに思うようには詠み得ぬ若草、さりとて今の人の腕前これ見よとかあらぬか、四方の雅客より恵み給いし金科玉条の中に、いろいろ面白いものもある。自らの句も入れて批評

Ø  雛祭り                 明治2633
桃の花は昼に咲かせて白酒と菱餅の節句は残んの雪の間より現れ来にけるを、さすがに春風うらゝかに吹きすまして裸雛の寒からぬ程こそ娘心のうれしさは思いはからるれ
扨て雛の発句といえば大方やさしううつくしき事のみにて、さして打ち変りたる趣の見えぬも人心の変わらぬ証拠にぞあなる

Ø  俳人の奇行           明治2636日――15
笠家舊室は檀林の俳諧師、明和、安永の頃の人。活々坊、活井などの別号あり。生来の奇人で滑稽の中に高尚なる処ありて何となくしたわしき人
師の曲庵と同居していた頃、俳席の帰りに酔って溝に落ちたまま寝込んでいたところを夜番に起こされ、知った顔がいて曲庵まで届け請取をくれと言ったら、「一生酔坊主 一疋」と書いてよこしたという
一僕(下僕)あり、忠実にして善く主につかう。活々坊金あれば僕に与えるが、おのれ入用の時は僕にもことわらず、其金箱を探りて取り出す。僕もその金失せしを見ては大方主人の使いしならんとて驚くこともなかりき。主僕とも大酒家なりしかば2人飲み酔いたる末には忽然相撲などを試み夜半に隣家を驚かしたることも屡々ありたり
                    家隷から金をかりるや年の暮
大伝馬町に住みし頃隣家の火事で、薬缶に酒をたたへたるを携え門外に立って頻りに酒を傾けながら我家の焼くるをさも心よげに眺めていたが、いつの間にいなくなって門弟探し求れど手がかりもなかりき。やがて45日もして上州の活々坊より手紙が来て、「薬缶を携え無事に上州迄立ち退き候間ご安心下され」とあった
                    面白や家は焼かれて雪の旅
ある人に木平の帷子を恵まれて常にそれを着たりしが、ある日酔いに乗じて朱で色々篆書など書きつけるも酔いが醒めて見苦しいと思ったのかその上を墨で塗ったため一層きたなくなり、流石の活々坊も困って其後は常に帷子の上に縮緬の羽織を着てありきしとぞ
                    誰が紋をつけて見ようぞ夏羽織

Ø  古人調                明治263月――10
夫々の句を列挙 ⇒ 宗因、去来、凡兆、来山、素堂、尚白、伊丹

Ø  句合せ(鳴雪作 古自作)    明治263月、4
似たような句を並べてどちらが優れているか判定する
                    左 倶利伽羅の雪やなだれん帰る雁      木曽の山人
                    右 帰る雁沖白う夜は風寒し               由良の舟人
判云、帰る雁に越山の雪なだれを思いついた疎句、疎ならぬ処景色大にして面白し。沖白き朧夜のさま、思い至らぬにはあらねど、まず左の勝にや侍らん

Ø  菊の園生           明治26113
飢えては楚國の浪人に食われ、隠れては陶氏の隠居に弄ばる。谷の水は一たび掬んで八百年の壽を延べ、東離の濁り酒は幾度か頭巾にて漉すの煩いあり。菊は花の隠逸なるものと定められてより本朝にても専ら花のさびをぞ賞翫すなる。されば名所の句にも
                    菊の香や奈良は幾世の男ぶり             芭蕉
年古りし奈良の都のさびを見するに菊ならではと睨みし眼力もおそろしい
16弁の菊はかしこくも朝家の御紋に選ばれて日の本の朝日に輝き、半輪の菊一条の流水は忠臣楠氏の家のしるしとして世々に其香をとゞめたり。菊合せは殿上の御遊にして左右の番を分ち色香を闘わせしことは古きものゝ本に見え、是れ花の中に偏に菊を愛するにあらず、此花開けて後更に花なければなりとは朗詠の節にものぼりけん。雨を冒して開くてふ重陽の儀式は昔にすたれて、今は天長節をさかりと咲き出でたる、折に逢いし此花の榮え、霜にめげぬ此花の操、御代は萬歳萬々歳谷水の流れ盡きせぬめでたさは彭祖が齢ひもものかはとこそ覚ゆれ。されや俳句にも
                    欄干にのぼるや菊の影法師                許六
御園生の花壇狭しと開きたるゆたけさ、治まる國の姿やしめすらんといともかしこしや

Ø  芭蕉翁の一驚        明治26116
元禄7年俳諧正風の開祖芭蕉庵桃青没せしより力なき年々の時雨も人の嘘にふりそめてはや200年。去年も来年も変わらないのに200年忌だと言って廟を建てるの碑を立てるのとうるさい。この頃東京だけでも数百の宗匠がいて、芭蕉翁も一々平凡宗匠の肖像へ魂を分けて乗り移るほど手が回らない。ある日ぶらりと立ち出で給いてどこの肖像に魂入れに行くべきやと、デモ宗匠が来たのでついていくと、ある家に入って中で大勢の人と議論しているのに聞き耳を立てていると、「我々正風なれど蕉王の句の分からんには困る。古池の講釈を聞かれると困る。俳諧の古池より川柳の居候の方が面白いが、川柳では飯が食えないので正風の看板を掛けている。古池よりも川柳よりも月花よりも可愛いのは団子と金。其金欲しさに200年忌の廟を建てようと思う」と煩いので、芭蕉が名乗りを上げたら、ちょうどいいところにご光来下さったので、廟がいいか碑がいいかと聞かれ、呆れて立ち去った。その翌日の黄泉社の冥土日報に、「芭蕉名義で廟または碑を建てるといって金を集める者あるが、自分とは関係ない」と、芭蕉の名前で広告が載った

Ø  芭蕉雑談           明治2611月――271
ü  年齢
人の名誉は多くその年齢に比例せるが如し。文学者、技術屋にあっては殊に熟練を要するので、黄口の少年、青面の書生には成し難き筋もあり、長寿の間には多数の結果(詩文または美術品)を生じ得るが為に漸次に世の賞賛を受けることも多い。若いと世の軽蔑と嫉妬によって生前には到底名を成し難き所あるらん
我が邦古来の文学者美術家を見るに、名を一世に挙げ誉れを萬載に垂れる者、多くは長寿の人。歌聖と称される柿本人麿のように年齢不詳といえど、数朝に歴仕せりといえば長寿だったことは疑いない
90歳以上      土佐光信、俊成、北斎
80歳以上      鳥羽僧正、季吟、雪州、肖柏、曽良、蓼太、馬琴
70歳以上      紹巴、野坡、文晁、千代、探幽
外邦にても格別差異あるまじ。崋山の如き三馬の如き丈草の如きは世甚だ稀(3人とも40歳代)。バイロン、実朝(20)は更に稀。人生50を超えずんば名を成すこと難し
独り松尾芭蕉に至りては今より僅々二百余年以前に生まれてその一門は60余州に広まり弟子数百人の多きに及べり。而して其齢を問えば則ち五十有一のみ
古来多くの崇拝者を得たる者は宗教の開祖に如くはなし。老子、孔子も宗教に似ている
日蓮の如き紀元後2000年に生まれて一宗を開く、其困難察すべし。況や其後300年を経て宗教以外の一閑地に立ち、以て多数の崇拝者を得たる芭蕉に於てをや。人皆芭蕉を呼んで翁となし芭蕉を画くに白髪白髭六七十の相貌を以てして毫も怪しまず、でも五十有一のみ

ü  平民的文学
多数の信仰を得る者は必ず平民的のものならざるべからず
芭蕉の俳諧に於ける勢力を見ると、宛然宗教家の宗教に於ける勢力と其趣を同じうせり。多数の信仰者は必ずしも芭蕉の性行を知って慕うのでもなければ、芭蕉の俳句を誦して感じるというのでもない。芭蕉という名を尊く思って呼び捨てにもせず、翁とか芭蕉翁、芭蕉様と呼ぶのは、宗教信者が大師様、お祖師様と呼ぶに異ならず
和歌に於ける人麿を除いて他に例がない。芭蕉塚の夥しきは夐(はる)かに人麿の上に出た。道真の天神として祀るのは其文学の力ではなく主としてその人の地位と境遇に出でたるものにて、人麿や芭蕉と同列に論ずべからず
芭蕉が大名を得た所以は、俳諧の著作其物というより、俳諧の性質が平民的なるによれり
平民的とは、第1に俗語を嫌わない、第2に句の短簡なる事。近時平民文学などといわれるのは決して偶然ではないが、元禄当時の俳諧は、決して天保以後の俳諧のように平民的ではなく、古事を引き成語を用い、文辞を婉曲ならしめ格調を古雅ならしむるなど、普通の学者でも解すべからざる所あり
天保に於ける蒼虬、梅室に至っては分かり易く注釈も不要で、児童走卒といえども好んでこれを誦し車夫馬丁といえども争って之を模し、俳諧が最も平民的に流れた。そんな時代でも芭蕉の俳諧は完全無欠にして神聖犯(ママ)すべからざるものとなり、誰も理解できなかったし、理解しても批評する者は跡を断つ。宗教の信者が経文の意義を理解せず、理不理を窮めず、単に有難い勿体ないと思っているのと同じ

ü  智識徳行
平民的の事業必ずしも貴重ならず、多数の信仰必ずしも真成の価値を表する者に非ずといえども、苟も萬人の崇拝を受け百歳の名誉を残す所以の者を尋ぬれば、凡俗に異なり尋常に超ゆるの技能無くんばあらざるなり。顔子の徳、子貢の智、子路の勇、皆他人の企て及ばざる所だが、3人を1門下に集めて能く之を薫陶し之を啓発し之を叱咤し綽々(しゃくしゃく)として余裕ある者は孔仲尼其人ならずや。蕉門に英俊の弟子多き、恰も十哲七十二子の孔門に匹敵。其角・嵐雪の豪放、杉風・去来の老樸、許六・支考の剛愎、野坡・丈草の敏才、能く此等の異臭味を包含して元禄俳諧の牛耳を取りたる者は、芭蕉が智徳兼備の一大偉人たるを証するに余りあり
門人は芭蕉の簀を易ふると同時に各々旗幟を立て門戸を張って互いに相下らざるの勢いを成せり。其角は江戸座を創め、嵐雪は雪中庵を起こし、支考は美濃派を開き、一地方に俳権を握るもの、江戸に杉風、桃鄰あり、伊勢に涼菟、乙由あり、上國に去来、丈草ありて相頡頏せり
お互い覇を競い合ったが、芭蕉を推して唯一の本尊と為すのは衆口一声に出ずるが如くで、其徳の博きこと天日の無偏無私なるが如く、其量の大なること大海の能容能涵なるが如きによらずんばあらざるなり
許六の剛愎不遜なる、同門の弟子を見ること猶三尺の児童の如し。然れども蕉風の神髄は我之を得たりと誇言して猶芭蕉に尊敬を表わす。支考の巧才衒智なる、書を著し説を述べ以て能く堅白同異の弁を為し以て能く博覧強記の能を示すに足る、然れども其説く所一言一句と雖も之を芭蕉の遺教に帰せざるはなし。甚だしきは芭蕉の教えなりと称して幾多の文章を偽作し、譏(?)を後世に取る事甚だ謭陋(せんろう)の所為たるを免れずと雖も、翻ってその裏面を見れば盡く是れ芭蕉の学才と性行とに対する名誉の表彰ならずんばあらず

ü  悪句
芭蕉が俳諧宗の開祖として一大偉人であることは前記の通りだが、文学者としての芭蕉を知るには別の吟味が必要
劈頭に一断案を下す。曰く、芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべきはその何十分の一に過ぎない。僅かに可なるものを求むるも寥々晨星の如し
芭蕉の一千余首にして僅かに可なる者二百余種に過ぎないが、1200という多きに及ぶ者古来稀にて、芭蕉亦一大文学者たるを失わず。比率が低いのは別な理由がある
芭蕉の文学は古を模倣したものでなく自ら発明せしなり。貞門、檀林の俳諧を改良したというよりは寧ろ蕉風の俳諧を創開せりというのが妥当だが、自流を開いたのは没前の10年で、詩想愈々神に入りたる者は3,4年の前に過ぎない。創業の人に向かって、僅か10年で200以上の好句を作出せよというのは無理
普通の文学者の著作が後世に伝わる者はその著作の霊妙活動せる所あればなるべし。然るに芭蕉は其著作よりも寧ろその性行を欣慕されており、著作には悪句駄句の差別なく収拾して句集の紙数を増加させている、甚だしきは芭蕉の句でないものまで収録しているものが多い
一際秀でたるが如く世に喧称せらるるものは以下。俗受けする者のみ
        古池や蛙とびこむ水の音
        道のへの木槿は馬にくはれけり
        物いへば唇寒し秋の風
        あかあかと日はつれなくも秋の風
        辛崎の松は花よりおぼろにて
        春もやゝけしきとゝのふ月と梅
        年々や猿に著せたる猿の面
        風流のはじめや奥の田植歌
        白菊の目に立てゝ見る塵もなし
        枯枝に鳥のとまりけり秋のくれ
        梅の木に猶やとり木や梅の花
いずれも巧妙なるが為に世に知られたというより多くは「曰く付き」なるを以て人口に膾炙
古池の句は蕉風の本尊とあがめられたるものにして、芭蕉悟入の句とも称せられたり。後世にかくいうのみならず、芭蕉自ら巳に明言せるなり
木槿の句も稍々古池同様に並称せられ鳥の両翼、車の両輪に象れり
唇寒しの句は座右の銘と題して端書に、「人の短をいふ事なかれ 己が長を説く事なかれ」と記せり。世の諷誨に関するを以て名高し
あかあかの句は芭蕉北国にての吟なり。始め結句を「秋の山」として北枝に談ぜしに北枝「秋の風」と改めたきよしいえり。而して恰も芭蕉の意にかなえるなりと。此「曰く」最力あり
辛崎の句は「にて留り」に就いて諸門弟の議論ありしが為なり
春もやゝの句は別段曰く無きか
年々やの句芭蕉自らしそこなえりという。却てそれが為に名高くなりしか
風流の句は奥州行脚の時白河関にて咏ぜし者なり。風流行脚の序開きのくなれば人に知られしならん
白菊の句は死去少し前に園女亭にて園女を賞めたるの句にして、「大井川浪に塵なし夏の月」という旧作と相侵す恐れあれば大井川の句をや取り消さんかと自ら言いし河と事あり
枯枝の句は古池、木槿などと共にもてはやされて蕉風の神髄、幽玄の極と称せられたり。はじめは、「枯枝に鳥のとまりたりけり秋のくれ」としたが後に改めしとかや
梅の木の句は人の子息に逢ってそをほめたるなり
以上「曰く」こそあれ余の意見は甚だ異なるのでいかに記す

ü  各句批評
        古池や蛙とびこむ水の音
深川の草庵に住んでいた時の句。蛙合の巻首に出で春の日集中にも掲載
俳諧の再興を期して佶屈聱牙なる漢語を減じてなるべくやさしい国語を用いるべき、国語は響き長くして意味少なき故に出来るだけ無用の言語と無用の事物を省略しなければならないと考えると萬籟寂として妄想が全く絶えた瞬間に、窓の外で古池に躍蛙の音がする。自然に「蛙飛び込む水の音」と耳に響き、初めて夢から醒めた気がしたというのが作句の背景と想像
蕉風(俗に正風という)を起こしたのはまさにこの時というが、妄想を絶ち名利を斥け、可否に関せず巧拙を顧みず、心を虚しくして懐を平らにし、俳句を得んと執着することなくして初めて俳句を得べし。古池の一句は此如くして得たる第1
ありの儘を詠じたもの、否ありのまゝが句となりたるならん
俳諧の歴史上必要なものに相違ないが、文学上にはそれほどの必要を見ない。芭蕉集中此如く善悪巧拙を離れた句は他にない。芭蕉の蕉風に悟入したのはこの句だが、文学なるものは常に此如き平淡なる者のみを許さずして多少の工夫と施彩を要すなり。されば後年虚々実々の説起こりたるも亦故なきに非ず
        道のへの木槿は馬にくはれけり
はかなき花の終りを歌ったものか、或いは、出る杭は打たれるという俗諺の意か。教訓の詩歌は文学者以外の俗人間に伝播して過分の賞賛を受けること間々ある習いなれば此句もその種類なるべしと思える。且つ譬喩(ひゆ)の俳句を以て教訓に応用したるは恐らく此句が嚆矢なるべければ一層伝称せられし者ならん。要するに此句は文学上最下等に位する者
        物いへば唇寒し秋の風
教訓的なものとして知られる。道徳上の名句には相違ないが、文学上にては左様の名句とも思えない。俳句に教訓の意を含めてこれほどに安らけくいいおおせたるは遉(さすが)に芭蕉の腕前なり。木槿の句と同日の談に非ず
        あかあかと日はつれなくも秋の風
「須磨は暮れ明石の方はあかあかと日はつれなくも秋風そ吹く」との古歌があるというのなら剽窃に過ぎず、一文の価値もないのは勿論だが、芭蕉の創作だとしても平々凡々の一句たるに過ぎず。「つれなくも」の一語は不要にして此句のたるみなり。むしろ「あかあかと日の入る山の秋の風」としてはどうか。とにかくこの句が芭蕉集中二三章の秀逸となすこと、返す返すも不埒な言い分なりけらし
        辛崎の松は花より朧にて
「にて留り」「哉留」などの議論があるが、先師曰く理屈ではなくただ花より松の朧にて面白かりしのみなりと。芭蕉は法度の外に出でて自在に変化するを好む所から、此句も「朧にて」と口に浮かんだまま改めざりしものにて深意あるに非ず。「にて」と浮かんだ背景に後鳥羽院の御製、「から崎松のみどりも朧にて花よりつづく春のあけぼの」の俤(おもかげ)ありといわれる。御製の翻案したものであれば、翻案の拙なるは却て剽窃より甚だしき者あり。況()して古歌なしとするも此句の拙は奈何ともし難きをや。是等の句は芭蕉の為に抹殺し去るを可とす
        春もやゝけしきとゝのふ月と梅
聞こえたる迄にて何の訳も無き事ながら、中七字はいかにも蛇足の感あり
        きさらぎや二十四日の月の梅
など如何様にも言い得べきを、「けしきとゝのふ」とは余りに拙きわざなり。当時は何でもなかったのだろうが、後世に点取りとか宗匠とかが持ち上げて、今は聞くもいまわしき程になりぬるもよしなしや
        年々や猿に著せたる猿の面
表に季とする処見えずと問うたのに対し年々の詞年の初めにはあらずやといったとされる。又、仕損じの句ではないかとされ、許六が師でも仕損じたりすのかと聞いたところ翁答て曰く、毎句有、仕損じたらんに何くるしむかあらん、下手は仕損じを得せずと
一偉人の言いたる理屈は平凡なるものさえ伝称せらるること例多し。此句其類ならんかし。文学として何等の趣味も無きものを
        風流のはじめや奥の田植歌
難ずべきもなければ面白き節も見えず。風流の初とは暴露に過ぎたらんか
        白菊の目に立てゝ見る塵もなし
「曇りなき鏡の上にいる塵の目に立て見る世と思わばや」の反転ではないか、といわれるが、出所あるは寧ろよけれど、白菊の只々白しとは言わずに消極的に「塵もなし」といったのは理屈に落ちていとつたなし。芭蕉は総て理屈的に作為する癖ありて、為に殺風景の句を見る事屡々なり
梅の木に猶やどり木や梅の花
白菊の句と同じく理屈に落ちて趣味少なし
          枯枝に鳥のとまりけり秋のくれ
此句が幽玄の極意、蕉風の神髄と為す事心得ぬ事なり。暮秋凄涼の光景写し得て眞ならずというに非ず。言い回しあながちに悪いとは言わないが、「枯木寒鴉」の4次は漢学者流の熟語にて耳に口に馴れたるを、そのまま訳して枯枝に鳥とまるとは芭蕉でなくても能く言い得べく、今更珍しくもない。但し芭蕉当時に此熟語、此光景が詩文や書画に一般的でなければ、更に此句は価値を増して数等の上級に上らん
以上の外にも、それほど高名でない句を取り上げて批評をしようと思っても、芭蕉家集はほとんど駄句の掃溜にやと思えるほどならんかし。拙だし無風流で、芭蕉にしてこんな句を作ったのかと思うだに受け取り難き程なり
          二日にもぬかりはせじな花の春

ü  佳句
芭蕉は俳諧歴史上の豪傑にして俳諧文学上には何等の価値も無き人というと決してそうではないが、千歳の名誉を荷なわしむべきは数首に過ぎない
美術文学中最高尚なる種類に属して、しかも日本文学中最之を欠く者は雄渾豪壮という一要素なり。和歌でも、万葉集以前多少の勇壮なる者なきにあらねど、古今集以後は実朝を除き之を見ない。真淵出でて後稍々万葉風を模擬せりと雖も、近世に下るに従って繊巧細膩に流れ、豪宕雄壮にいたっては夢寐だに之を思う如し。其中で芭蕉は独り豪壮の気を蔵め雄渾の筆を揮い、天地の大観を膩し山水の勝概を叙し、以て一世を驚かしたり
芭蕉以前の17字詩(連歌、貞門、檀林)は陳套に属し卑俗に墜ち諧謔に失して文学と称すべき価値なく、芭蕉以前の漢詩は文辞の間和習の厭うべきあるのみならず、其観念も亦実に幼稚で見るに堪えない。芭蕉以前の和歌は縁語を尊び譬喩を重んじて陳腐と陋俗との極に達し、而して真淵の古調は未だその萌芽をも見ない。それ故、芭蕉が一旗幟を樹てたのは独り俳諧の面目を一新したるに留まらずして実に万葉以後日本韻文学の面目を一新したるなり。況や雄健放大の処に至っては、芭蕉以前絶えてなきのみならず、芭蕉以後にも絶えて無し

ü  雄壮なる句
          夏草やつはものどもの夢のあと
奥州高舘にて懐古の作。無造作に詠み出だせる117字の中に千古の興亡を説き人世の栄枯を示し俯仰感慨に堪えざる者あり。平淡と言う人もいるが、その平淡と見ゆる所即ち此句の大なる所で人工をはなれ自然に近きが為のみ
        五月雨を集めて早し最上川
兼好法師の「最上川はやくぞまさる雨雲ののほれば下る五月雨の頃」の意を取ったといわれるが、この歌より換骨奪胎して「集めて早し」と言いこなしたのは、巧みを弄して却て繊柔に落ちず、只々雨余の大河滔々として岩をも砕き山をも劈かんずる勢いを成すを見るのみ。兼好の作亦此1句に及ばず。況や凡俗の俳家者流、豈指をここに染むるを容さんや
        あら海や佐渡に横たふ天の川
出雲崎より佐渡を見渡したる景色。一誦すれば波濤澎湃天水際涯なく、唯々一孤島の其間を天綴せる光景眼前に彷彿たるを見る。這般の大観銀河を以てこれに配するに非ざるよりは焉(いずく)んぞ能く実際を写し得んや。天文中断楚江開の詩は此句の経にして、飛流直下三千尺の詩は此句の緯なり。思ってここに到れば誰か芭蕉の大手腕に驚かざるものぞ
「横たふ」の語格叶わずとの批判に対し、好ましくはないが韻文は散文に比して稍々寛假すべし。その理由は、①語格相違の為に意義の不明瞭を来たさなければ寛假、②芭蕉の外の句にも使われているので当時は許されていたかも、③此1語を以て全句を棄てるには忍びない。2卵を以て干城の将を棄つと何ぞ択ばん
        五月雨の雲吹き落せ大井川
連日の雨にさすがの大井川水嵩増して両岸を浸したるさま、とうとうと物凄き瀬の音耳にひびくようなり
        郭公大竹原を漏る月夜
千竿の脩竹微風遠くに度りて一痕の新月静かに青光を砕く。独り満地の涼影を踏んで吟歩する時、杜宇一声二声何処の山上よりか啼き過ぎて雲外蹤(あと)を留めず。初夏清涼の意肌を襲い骨に徹するを覚ゆ。山を着けず、水を着けず、一個の竹篁を仮来って却て天地の寥廓なるを見る、妙手妙手
        かけ橋や命をからむ葛かつら
岐岨峰中の桟橋絶壁に沿い深谿に臨んで委蛇屈曲す。足を欹(そばた)てて幾橋を度り、立て後を顧れば危巌突兀として橋柱落ちんと欲す。但見る幾条の薛蘿(つた)彼と此とを弥縫して紅葉血を灑(そそ)ぐが如し。雄壮の裏に悽楚(せいそ)を含み、悽楚の裏に幽婉を含む、亦是一種の霊筆。俗人時に中七字の句法を称して全体の姿致を見ず、即ち金箔を拝して佛体を見ざるの類なり。而して其実、中七字の巧を弄したるは此句の欠点なり
        塚も動け我泣声は秋の風
如動古人墓という古句より奪胎したるにや。「我泣声は秋の風」と一気呵成に言い下したる処、夷の思う所に匪ず。人麿の歌に「妹が門見む靡(なび)け此山」と詠みしと同一筆法なり
        秋風や藪も畑も不破の関
新古今集摂政太政大臣の歌、「人すまぬ不破の関屋の板庇あれにしのちはただ秋の風」から思いよりたりと見ゆるものから、藪も畠も不破の関と名所の古を忍び今を叙べたる筆力、17字の小天地綽々として余裕あるを見る。高舘の句(夏草や…)は豪壮を以て勝り、この句は悲惨を以て勝る。好一対
        猪も共に吹かるる野分かな
暴風山を揺かして野猪吹きまくらるるさま、悲壮荒寒筆紙に絶えたり
        吹き飛ばす石は浅間の野分かな
浅間山の野分吹き荒れて焼石空に翻るすさまじさ、意匠最妙なりと雖も、「石は浅間の」と続く処多少の窮策を取る、白壁の微疵なり
滑稽と諧謔とを以て生命としたる俳諧の世界に生まれて、周囲の群動に制御瞞著せられず、能く文学上の活眼を開き一家の新機軸を出だし、此等老健雄の俳句をものして嶄然頭角を現せし芭蕉は実に文学上の破天荒と謂つべし。後世に在りて猶之を模倣する者出でざるに至りては実に不思議なる事実にして、芭蕉をして200年間只々1人の名を負わしむる所以ならずや。蕉門の弟子でその力量芭蕉に劣らざるのみならず、往々其師を圧倒する者は多い。学識に於て才藝に於て唯一と称せられたる晉子其角も、誠実第一なる去来は神韻に於て声調に於て遥かに芭蕉に勝るし、それ以外の10哲も12句の豪壮なるものあらん、終に数句を有せざるべき、況や其他小弟子をや。誰も芭蕉には敵わない
元禄以後俳家の輩出して俳運の隆盛を極めたのは明和、天明の時代。白雄は寂栞を著して盛んに蕉風を唱道せりと雖も、其神髄を以て幽玄の2字に帰し、終に豪壮雄健なるものを説かず。作句も繊巧を弄し婉曲を主とするのみ。蓼太も敏才と猾智とを以て一時天下の耳目を聳動せりと雖も、固より其眼孔は針尖の如く小なりき。蕪村、曉台、闌更の3豪傑は古来の蕉風外に出入りして各一派を成せり。独特なる処は芭蕉も門弟も夢想にも知り得ざりし所で、俳諧史上特筆大書すべき価値を有すが、芭蕉には及ばない
文政以後蒼虬、梅室、鳳朗の如き群蛙は自ら好んで3尺の井中に棲息したる者、固より與に大海を談ずべからず。是に於てか芭蕉は揚々として俳諧壇上を闊歩せり。吁嘻(あゝ)芭蕉以前已(すで)に芭蕉無く芭蕉以後復芭蕉無きなり

ü  各種の佳句
以上の数句でも十分俳諧文学上第一流の作家と言えるが、その技量は決してこれに留まらず、種々の変態を為し変調を学び、ありとあらゆる変化は盡く之を自家々集中に収めんとせり
極めて自然なるものは古池の句の外に、          明月や池をめぐりて夜もすがら
幽玄なる者には、         ほろほろと山吹ちるか瀧の音
繊巧なる者には、         落ちさまに水こぼしけり花椿
華麗なる者には、         紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ
奇抜なる者には、         鶯や餅に糞する縁の先
滑稽なる者には、         猫の妻へついの崩れより通ひけり
蘊雅なる者には、         山里は萬歳遅し梅の花
一生の半を旅中に送りたれば、其俳句亦羇旅の実況を写して一誦三嘆せしむる者あり
                              一つ脱てうしろに負ひぬ衣がへ
稍々狂せる者には、      不性さやかき起こされし春の雨
字余りの句には、         曙や白魚白き事一寸
格調の新奇なる者には、          苣摘んで貧なる女機による
芭蕉の格調の変化に対し、後世蕪村、曉台、一茶等も新調詠み出でし他は少しも芭蕉の範囲外に出ずる者あらざりき
豪壮に非ず、華麗に非ず、奇抜なるにも非ず、滑稽にも非ず。はた格調の新奇なるにも非ず、只々一瑣事一微物を取り其実景実情をありの儘に言い放して猶幾多の趣味を含む者には、
                              五月雨や色紙へぎたる壁の跡
此等の外にも、           傘に押し分け見たる柳かな
豪放勁抜なる者は芭蕉独特にして他人の鼾睡を容れず。綺麗、軽快、幽玄、古雅、新奇、変調それぞれ芭蕉を凌駕する者はいるが、皆其長ずる所の一方に偏するのみ。其角に奇警なる句有て穏雅なる者なく、去来に穏雅なる句有て奇警なる者なきが如し。百種の変化盡く之を1人に該ぬる者は実に芭蕉其人あるのみ

ü  或問
芭蕉集中好句其1/5を占めなば以て多しとするに足らずやという問いに対しては、本論中好句というのは悪句に対する名称であり、僅かに可なるより以上を言う。あながち金科玉条の謂に非ず。ゆえにこの標準を以て論ずれば元禄の俳家は各1/2乃至1/3の好句を有すべし、1/5というが如きは決して他に例あらざるなり(?意味不明?)
芭蕉雑談を書いて蕉翁の俳句を評し、名篇を抹殺し去りその名誉を棄損するのは俳諧の罪人にして蕉翁に不忠なる者ならずやという問いに対しては、芭蕉を文学者とし俳句を文学として文学的眼孔を以てせばこうだと言っているだけで、芭蕉宗信徒からは冒涜といわれるが、信者の方が好句と悪句を混同して平等に扱うのは却って不忠であり、佳句を埋没して悪句を称揚するなどもってのほかであり、芭蕉は豈彼等の尊敬を得て喜ぶものならんや
俳諧の正味は俳諧連歌にあり、発句はその一小部分のみなので、芭蕉を論ずるには連俳に於てするべきとの問いに対しては、発句は文学だが連俳は文学ではないので論じないだけ。連俳も文学以外の分子も併有しており、その文学の分子のみを論じるには発句を以て足る
文学以外の分子とは、連俳に貴ぶ所は変化で、変化こそ文学以外の分子だが、その変化には秩序と統一性が全くない。上半又は下半を共有するは連俳の特質にして感情よりも知識に属する者多し。芭蕉連俳に長じたること偶々知識多き事を証するのみ。門人中発句は芭蕉に勝れて連俳は遠く及ばざる者多きも、文学的感情に於て芭蕉より発達したるも、知識的変化に於て芭蕉に劣りたるが為なり

ü  鶏声馬蹄
羇旅を以て家とし鶏声馬蹄の間に一生を消盡せし文学者3人あり。和歌の西行、連歌の宗祇と俳諧の芭蕉。西行は704年前旅中に没す。享年73。宗祇は392年前旅中駿相の境に到りて没す。享年82。芭蕉は200年前旅中大阪花屋にて没す。享年51
西行は歌人として天下に漂泊したる故に其歌に名所旧跡を詠ずる者多く、芭蕉は俳人として東西に流浪したる故にその句に勝景旅情を叙する者多し。独り宗祇は連歌を以て主としたる故に旅中の発句少し。連歌は前後相連続することをのみ力め、目前の風光を取て材料と為し難き為で、我宗祇の為に惜しむ
西行はもと北面の武士、芭蕉も藤堂の藩士にして一転して剃髪し漂泊的俳人となり、両者甚だ相似たり。芭蕉は西行を崇拝。筆跡も亦西行を学びたりと云う
        芋洗ふ女西行ならば歌よまん
遺言中にも、「心は杜子美が老を思い寂は西上人の道心を慕い」云々と言っているのを見れば、以て西行に対する芭蕉の尊信を知るに足るべし
宗祇をも慕えり。信州旅中の述懐に、「世にふるはさらに時雨の宿りかな」とあり、芭蕉亦手づから雨の侘び笠を張りて     世にふるは更に宗祇のしぐれかな
と吟じたのは、自ら顧みて宗祇の身の上に似たるを思えば、万感攢(あつ)まり来りての者
芭蕉死後曾て漂泊の境涯に安んじたる俳人を見ず。其意思に於て蕪村稍々之に近いが、芭蕉の如く山河を跋渉し天然を楽しみたる者に非ず
        芭蕉去て其後未だ年暮れず       蕪村

ü  著書
芭蕉は一切書を著さなかったが、門人が芭蕉を奉じて著述したものは枚挙に遑あらず。恰も釈迦、孔子、耶蘇等が自らは著さず弟子の経典を編輯したのと同じで、時の古今地の東西を問わず、大名を成すの人自ら其揆を一にす
『俳諧七部集』は、「冬の日/春の日/ひさご/あら野/猿蓑/炭俵/続猿蓑」を合巻したもの。その後多くの何々七部集が出たのに対し、芭蕉七部集ともいうべきか
専ら芭蕉に関することのみを記した書籍甚だ多し。泊船集(元禄11)、芭蕉句選(元文3年)は俳句を、芭蕉翁文集、芭蕉翁俳諧集(安永5年)は文章と連俳を輯め、翁反古(天明3年)は芭蕉自筆の短冊により世に伝わらざる俳句を記載、芭蕉袖草紙(文化8年)は主として芭蕉の連俳を蒐めたり。俳諧一葉集9冊(文政10年)は芭蕉の全集で記録を網羅したとするが、考証の疎漏がひどく、芭蕉の作でないものまで交えたのは遺憾。芭蕉翁句解大成(文政9年)、奥細道菅菰抄(安永7年)は俳句の注釈だが、往々牽強付会に失して精確ならず
伝記は稀で、あっても疎雑なものが多い
『芭蕉翁反古文/芭蕉談花屋実記/花屋日記』という奇書あり、芭蕉終焉の日記。元禄7921日から芭蕉没後の葬式遺物の顛末にまで及ぶ。惟然、治郎兵衛、支考、去来等病牀に侍し代る代るに記したる者にして、芭蕉の容態言行より門人の吟詠知人の訪問等迄一々に書きつけて漏らすことなし。一読すれば即ち偉人が最期の行状目に観るが如し。実に世界の一大奇書。此書始めて梓に上がりたるは文化7年。芭蕉死後百数十年間人の筐底にありて能く保存せられたるは我等の幸福にして芭蕉の名誉なり

ü  元禄時代
近年元禄文学なる新熟語が出来たが、或る人が言うように単に西鶴の小説を指すのみならず元禄一般の文学を含むものと為さば最便利な言葉だ
四海泰平となって徳川文学の将に蕾を発かんとする時期で、3偉人を輩出。井原西鶴、近松巣林と松尾芭蕉で、西鶴と巣林は寛永19年生まれ、芭蕉は2年後の正保元年生まれ
西鶴は一種の小説を創開、御伽草子の節樸と小理想とに傚わず、赤本金平本の荒唐と乳臭とを学ばず。見聞きしたままを奇警なる文辞と簡便なる語法で写しだし、記する所卑猥なるは甚だ惜しむべしと雖も、しかも源氏物語以来始めて人情を模写せんと力めたるは西鶴ならずや、八文字舎のために法門を開きたるもまた西鶴ならずや。小説界の西鶴に受くる所亦多しと謂うべし
巣林も亦一種の演劇を創開せり。能楽の古雅以て普通一般の好尚に適する能わず、金平本の脚色穉(ち)気多くして長く世人の耳目を楽しましむるに足らず。乃ち彼と此とを折衷し敏瞻流暢の文字を以て世間の状態人生の熱情を写し之を傀儡に託したり。錯雑なる宇宙の粉本を作りて舞台の上に活動せしめたる者、実に之近松の功なり
芭蕉も亦一種の韵文と散文とを創開して後世を導けり。その散文は韻文の如く盛ならざりきと雖も、風俗文選、鶉衣の如きは俳文と称して雅分、軍書文、浄瑠璃文の外に一派を成したり。平賀源内及び天明以後の狂文も亦間接に俳文の影響を受けたるに非るを得んや
3偉人はほぼ同時に出でて三方に駆馳せり。それぞれの分野の創業者であり、注意しなければいけないのは3人とも従来の荒唐無稽なる空想と質素冗長なる古文との範囲外に出でて実際の人情を写し平民的の俗語を用いたこと。3人各々声を異にして色を同じうす、末は則ち分れて本は即ち一なり。是に於てか元禄文学在り

ü  俳文
近松は世に出るときやや遅れ、西鶴と芭蕉は殆ど同時に名を揚げ同時に没したので、文章も相似たり。共に古文法を破って簡短を尚ぶ、或るべく無用の語を省きたるに在り。異なる所は西鶴は多くに俗語を用い芭蕉は多く漢語を用いたるに在るなり
芭蕉の文は長明の文、謡曲の文より出でて更に一機軸を出だしたる者なり。昔より漢文は漢文、邦文は邦文として全く特別の物に属し、同一の人にして全く二様の文を作る事あり。長明稍々此両者を調和し、太平記更に之を調和し、謡曲亦更に歩を進めたりと雖も、要するに漢語を用いる事の多きのみにして、其句法の上には古代の邦文と非常に差あるに非ず。芭蕉の文は単に漢語を使用したるのみならず、一句一章の結構に於て亦多くの漢文の臭味を雜(まじ)えたり。(元禄の臭味を帯びたり) 一読して古代の邦文と全くその句法を異にするを見るべし
所謂俳文なる者は此の如く荘重老健のものならずして常に滑稽諧謔を以て勝れるを以て、直ちにこの文を以て俳文の開祖と為すべからずと雖も、和歌の外に俳句を起こしたるが如く、和文の外に一種の文を起こしたるは則ち疑うべからず。門人諸子のものせし俳文はこれ等より脱化せしものに非るを得んや。然り而して彼らが諧謔をのみ主として芭蕉の如く真面目の文章を為し得ざりし者は、恰も芭蕉に壮大雄渾の俳句ありて彼らに之無きと一般、自ら其才識の高卑を知るに足る

ü  補遺
1.松尾桃青名は宗房、正保元年伊賀上野に生まれる。與左衛門の二男。17歳で藤堂蝉吟公に仕う。20歳の時蝉吟公早世、家を出て京師に出で北村季吟に学ぶ。29歳で江戸に来たり杉風に寄居。41歳東海道経由伊賀に帰り、翌年木曽路甲州経由江戸に来たる。此歳月を鹿嶋にみる。44歳東海道を伊賀に帰る。翌年伊勢参宮。尋で芳野南都を見て須磨明石に出ず。木曽を経、姥捨の月を賞し三たび東都に来たる。46歳東都を発し日光、白河、仙臺より松嶋に遊び象潟を通り、道を北越に取りて越前、美濃、伊勢、大和を過ぎ伊賀に帰り、直ちに近江に来たる。翌年石山の西幻住庵に入る。48歳で伊賀に帰り京師に寓し冬の初め4たび東都に来たる。51歳夏深川の草庵を捨てて上洛し京師近江の間を徘徊す。7月伊賀に帰り9月大阪に至る。同月病に罹り1012日没す。遺骸を江州義仲寺の墓側に葬る
芭蕉が
1.芭蕉が吟杖を曳きしは東国多く西国少なし。経過せる国々は山城、大和、摂津、伊賀、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、下総、常陸、近江、美濃、信濃、上野、下野、奥州、出羽、越前、加賀、越中、越後、播磨、紀伊、全28か国
1.所謂正風を起こしたが、貞室の俳句時として正風に近き者あり。宗因、其角、才麿、常矩等の俳句も正風の萌芽を含む。門弟はもとより、門弟に限らずとも皆正風を作っていたが、芭蕉の句往々虚栗集的の格調を存す。正風の勃興は時運の変遷自ら然らしめし者にして、芭蕉の機敏唯々能く之を発揮せしに過ぎざるを知らん
1.芭蕉の俳句は単に自己の境涯を吟詠せしもので、主観的に自己が感動せし情緒に非ずんば客観的に自己が見聞せし風光人事に限りたるなり。全く己が理想より得来る目撃以外の風光、経歴以外の人事を抛擲して詩料と為さざりしは、稍々局量の小なるを見るが、芭蕉は好んで山河を跋渉して実験上亦夥多の好題目を得た。後世の俳家は安座して実験以外のことを吟ぜず、而して自ら芭蕉の遺言を奉ずと称す。好詩料空想に得来りて或は斬新、或は流麗、或は勇健の俳句を作し世人を罵倒したる者、200年独り蕪村あるのみ
1.鳴雪翁は芭蕉が大食だったので胃病で没したという。大量の料理を用意したとの書簡がその証拠だという。それだけでは根拠薄弱とは思うが、鳴雪翁の説は当を得ていると思うのは、多情の人にして肉体の欲を他に伸ばす能わざる者、往々にして非常の食欲を有すという。芭蕉もその一人ではないか
1.妻を娶らず。他にも婦女子に関する事は一切世に伝わっていない。戒行を怠らざりしか。史伝之を逸したるか、姑く記して疑を存す
1.後世の俳家芭蕉の手蹟を学ぶ者多し。亦以て其尊崇の至れるを見る
1.芭蕉の論述する所、支考等諸門人の偽作、又は誤伝に出る者多し。偶々芭蕉の所説として信憑すべきものも亦幼稚にして論理に外れたる者少なからねど、今日より責むべきに非ず
1.芭蕉の弟子を教える孔子の弟子を教えるが如し。絶対的の論理を述べるのではなく、所謂人を見て法を説く者なり
1.芭蕉嘗て戯れに許六が鼾の図を畫く。彼亦頓智を有す。稍々万能の人に近し
1.天保年間諸国の芭蕉塚を記した書あり。足跡のない所にもあり、多くは天保以後の設立。今日六十余州に存在する芭蕉塚の数に至っては殆ど枚挙に勝えざるべし
1.寛文中には宗房と言い、延宝、天保には桃青、芭蕉という。いつの頃か自ら「発句あり芭蕉桃青宿の春」と詠む。深川の草庵に芭蕉があり門人などが芭蕉の翁と称えたので雅号となったという。普通に「はせを」と仮名に書く。書き続きの安らかなるを自慢したという。桃青がどこから来たのか不詳。推察するに初め李白の磊落なところを欣慕し、李白の字の対句を取って桃青としたのではないか。後年は李白より杜甫を学んだようだが、其年猶壮にして檀林に馳駆せし際には勢い杜甫よりは李白を尊びしなるべしと思える
1.平安朝以後日本の文学(殊に韻文)は縁語、滑稽、理屈の範囲内に陥ったまま七八百年の間、少しもこの範囲外に超脱し真成の文学的観念を発揮した者はいない。足利末から徳川初期には文学の衰退が其極に達し、和歌も連歌も俳諧も和文も漢詩漢文も拙なるものとなった
元禄以後に至って漸く光輝を発し、俳諧に芭蕉、漢詩漢文に物部徂徠、和歌に鴨真淵、和文に平宣長が出て各派の文学を中興、始めて我国に真成の文学的観念あるを見るに至る。(連歌は絶えた) 中でも最初に出て改善に着手し功業成したるは芭蕉であり、日本文学の上に高尚超脱の文学的観念を始めて注入したのが芭蕉。豈一個の俳家を以て目すべきものならんや
西鶴、巣林の作固より中興と称するに足る。然れども今日より見れば幼稚にして不完全なるを免れず。芭蕉、徂徠、真淵等の著作は今から見て猶尊敬を表するに足る者とは同日に論ずべからず

Ø  雛の俳句           明治2739
発句に雛と詠むのは古くは見当たらず。33日を祝うのは漢土より来て、我国にも昔からあったが、修禊(けい?)の故事、曲水の宴などをまねびたるなめり。足利時代にも桃の酒、蓬餅、雞合など上巳のものとしたが雛の事はいわず。徳川の初めには雛が流行になったが、俳諧には入ってきていない
虚栗集は其角派 雑巾は檀林派(天和元年刊)、鷹筑波(寛永刊)、毛吹草(寛永刊)、増山の井(寛文刊) 鋸屑(明暦刊)
蕉風独立後にかかり風調全く整いたるを見る
        草の戸を住み替る代ぞ雛の家     芭蕉
雛といえば兎角に俗調に傾き易きならいなるを、斯く迄にはなれたる芭蕉の詩想の高き以て見るべし
後世になって俳風繊巧になるに従い雛を見る事も細かくなり、まず雛の容姿について趣向を立てた句の上乗のもの
        たらちねのつままずありや雛の鼻          蕪村

Ø  俳諧一口話爰擱             明治274月――7
ü  晩春         426
発句で晩春を詠んだ者は元禄以後多少の名吟あれど、安永、天明の頃最も其趣を得たり
晩春に花の散り盡せし意を詠み入るるは和歌、連歌に言い古して面白味も無い
何度も繰り返し吟ずるほど、おのづから三春の暮れ行く趣を含めりと覚ゆる、いとめでたし
        行く春や重たき琵琶の抱き心               蕪村
など、霊妙神に入る。蕪村何処よりか此好詩境をか探り得たる

ü  四季         427
発句には季を詠み込むのを規則とする宗匠も多いが、固よりさる事のあらん筈も無ければ、雑(季の無い者)の句を詠むとも苦しからねど、普通には季を挟むを善しとす。なぜなら季は聯感を強くするからで、例えば蝶というだけで、ただ飛んでいるだけでなく色々な景など自ずから目に浮かぶべし。17字の句にて感情を強くするためには聯感(余意)を広くせざるべからず、聯感を広くするには季を詠み込むを第一とする

ü  雑の句      428
古人にも雑の句は少ない。それは面白からぬ故なり。四季の景を言う者は季によって聯感を広くするので、雑の句は四季以外に必要なる文学上の趣味を含まざるべからず。17字以内にて言い得べき四季以外の要素は「壮大」が第一で、我国で壮大と云える富士を詠んだ雑の句は少なくない。寧ろ雑の句は富士に限れりというが適当

ü  富士の雑の句        429
        亀殿のいくつの年ぞふじの山               一茶

ü  植物         51
俳諧に季を定めたのは連歌連句から出た者。発句が春季なら脇句(2)も春季であり、春季と秋季とは3句以上5句以下同じ季にて続くべき掟あり
だが、花の咲く頃を以て季とする植物は、別に季を定むるに及ばず。藤や躑躅(つつじ)は春の季に挿むが、必ずしも春と定めるには及ばず。春夏の交(あわ)い藤と躑躅の咲く間が季で、強いて季を定めるのは愚の又愚

ü  躑躅        52
佳句少なからず
        山鳥やつゝじよけ行く尾のひねり           探丸(藤堂蝉吟の忘れ形見)

ü  藤の花      53
房長く垂れて三四尺の紫を染めたる、花の中にても殊にうるわしきものから、外の物との取り合わせ悪しければにや、善き発句は稀
        松に藤蛸木にのぼるけしきあり             宗因

ü  (のぼり)           54
端午に鯉を立つること何時の頃よりか始まりけん。幟は古くよりあり
        花あやめ幟もかをる嵐かな                  其角

ü  菖蒲葺く              55
5月の節句に菖蒲を軒端に葺く事、年々の例なりしに、旧き儀式もすたれ唯々鯉幟のみとなり。田舎路を歩いて枯れた菖蒲の茅が軒端に垂れるのを見ると、陰暦の5月に此式を行うところも多かるべし。古人の句も様々
        川風の菖蒲吹きけり淀の町                  曲翠

ü  (ちまき)           56
        文もなく口上も無し粽五把                  嵐雪
訳も無く面白し
        草の戸やいつまで草のかび粽               其角
其角の変化能く是等のやさしき句を為す、敏腕驚くに堪えたり

ü  菖蒲湯                58
東京にもまだ菖蒲湯はすたれず。銭湯に菖蒲を散り浮かしているのは昔の匂がする
        朝湯から傾城匂ふ菖蒲かな                  言水

ü  俳諧伝統              5月9日
今日の俳諧の歴史を作る者、多くは綾錦と俳家奇人談とに憑るを常とす。綾錦に本づく者は伝統の前後をのみ重んじ俳諧の価値を軽視、奇人談に憑る者は逸事雅話ばかりで俳諧の価値を論ぜず。俳諧に限らず、単に過去的詮索を為す者は見識が無い

ü  俳人百家選           510
『俳人百家選』は安政2年緑亭川柳の纂。川柳は編輯家にして何々一首と云える書を多く編纂しており、この本もその1つで専門家の手に成るものではない。大衆受けして俗人の間に伝播しているが、大方は俳人奇人談に拠っている。その痕跡で可笑しいのは、智月尼の条に、奇人談では其子乙州の句と並記してあるのに、両句とも智月尼の句として掲載。有名な句を誤るとは、無学なるが為なり
        昼の昼夜の夜知る冬至かな
        海山の鳥啼きたつる吹雪かな

ü  百家選の百俳家               511
選ばれた中には、歴史上よりいうも俳諧の価値からして選ぶ価値の無い者多し。内20余人を列記、                音誉上人、里村昌琢、英一蝶、、、、、、、、
遊女などを挿みたるは色どりの為なれば強いて責むるに及ばず。20余人に比して遥かに上位に在るものは、     史邦、正秀、尚白、曉台、闌更、几董、白雄、、、、

ü  百家選の誤謬                  513
始めに先哲6俳の図を掲載。守武、宗鑑、貞徳、貞室、宗因、芭蕉にして雛屋立圃筆とある
立圃(りゅうほ)は貞門の高弟であり、同門の弟子貞室、宗因を並べるのはおかしいし、況や芭蕉に於てをや。立圃没は寛文9年にて芭蕉僅かに26歳、名も無き1浮浪人に過ぎない。如何に杜撰かが分かるし、引用した句の字句も違っている
        目には青葉山時鳥初松魚          素堂
素堂は芭蕉と同窓の友にして親しく交際。風体一家を為して芭蕉の風に倣わず。故に俗気無し。この句は句法の奇なるを以て有名。「目で青葉を見、耳で時鳥を聞き、口で松魚を喰う」ということで、初夏の景色を僅か17字に籠める。「目には」の一語で耳と口を利かせたる働き、古今独歩にして終に模擬すべからず

ü  蕉門の十哲           515
『続俳家奇人談』の冒頭に蕪村が画いた蕉門十哲を記載しているので、『俳人百家選』にも蕪村の筆意として十哲を記載しているようだが、蕪村は蕉門の弟子を多く画いているので、果たして十哲を択びしや否や甚だ曖昧。『続俳家奇人談』記載は、
        其角、嵐雪、去来、丈草、許六、北枝、支考、越人、野坡、杉風
『俳人百家選』では杉風の代わりに曽良を記載。『続俳家奇人談』の杉風の処には乙州の句(510日の項参照)が記されておりいぶかし

ü  素堂の譬喩           516
山口素堂には蓮の句が16首あるが、譬喩体のもの最も多し
(開かんとする時筆に似たり)    己れつぼみ己れ画いて蓮かな   蓮の蕾を筆に見立てている
        我蓮梅に鴉のやどりかな
素堂が自身を卑下した句で、己のような卑しき者の庭に蓮のような高尚なるものを植えて愛するは、梅の花に悪らしき鴉の我は顔に宿したると同じとなるべし

ü  素堂亭の蓮池        517
素堂は深川の別荘に蓮池を掘り晉の惠遠が蓮社に比せしとぞ。されば其蓮の句譬喩体の外に猶多し
        浮葉巻葉此蓮に風情過ぎたらん

ü  俳諧5子稿          519
安政4年大阪にて出版された書で5俳家の家集。紫藤軒言水、落柿舎去来、山口素堂、合歓堂沾徳、十萬堂来山の5人。皆元禄前後の大家だが、それぞれ伝統、格調とも全く異なり、諸流の達人を出だしたるは元禄の元禄たる所以で、この5家を集めたのは編者の功なり
(5家集としては不完全なる処多し)
        元日や聟(むこ?)の肴の網代守              言水
        卯の花の絶間叩かん闇の門                 去来
        あれて中々虎が垣根の壺菫(すみれ?)     素堂
        幸の塀にもたるゝ竹の雪                     沾徳
        両方に髭があるなり猫の恋                  来山

ü  天明の5          521
俳諧は元禄以後全く地に墜ちて卑しき俗なるものとなったが、安永、天明に至って中興。出でたる5傑とは、夜半亭蕪村、暮雨庵曉台、半化坊闌更、春秋庵白雄、雪中庵蓼太
漢語を用いることは蕪村第一、次いで曉台、更に闌更、次が白雄。和語を多く用いるのは白雄で、闌更、曉台、蕪村と次ぐ。句体の硬き方に傾けるは蕪村第一にして、軟き方に傾けるは白雄第一。独り蓼太は諸種の体を兼ね、4人に似た者は少なく、全体より言えば最俗気紛々たる句多し。俳諧の価値より評せんに、佳句の最も多きは蕪村少なきは蓼太
        時鳥平安城をすぢかひに                    蕪村
        時鳥嵐にかゝる夜の声                        曉台
        時鳥聞くや濡れ行く古烏帽子               闌更
        馬に鞍こは誰が夜明時鳥                     白雄
        耳かきの卯の木もをかし時鳥               蓼太
5人巧拙あり。されど終に5傑に恥じざるなり

ü  与謝蕪村              523
蕪村の特色は芭蕉以後1人として称揚すべきものなれど、其最も世に著われたるは漢語を用い漢文調を為すに在る
        二もとの梅に遅速を愛すかな

ü  春秋庵白雄           524
雅語を用い又雅語的の新語を用いること其特色。檀林にはとことして新奇の熟語なきにあらねど、其は多く縁語の類か、あるは特に奇を好む者に外ならず。白雄のはそれらと違って極めて美文的の語を選ぶ
        野の朧茅花月夜といはまほし

ü  半化坊闌更           526
稍々勁健なる者と稍々繊麗なる者との二種あり。勁健といっても曉台の如く粗豪ならず、繊麗といっても白雄の如く柔弱ならず。恰も其中を得たり。殊に幽婉清麗なる者に至っては闌更の特色にして、蕪村の時に妖婉綺麗を弄するとは自ら別なり
        君が手の松脂くさき子の日かな 
盡く多情多恨、人を悩殺する者ならざるはなし

ü  久村曉台              528
蕪村よりも優しく闌更よりも強し。蕪村に似たる句に
        春寒し貧女がこぼす袋米

ü  曉台の闌更に似たる者                 529
蕪村に似たる処もあり、闌更に似たる処もあるが(其實闌更が曉台を学びしものか)、其闌更に似た句を挙げると(十中七八まで同じことなり)
        日暮れたり三井寺下る春の人

ü  松魚                   530
いとし妻を質に置きて初松魚を買いけん昔の沙汰は絶えて、今は発句の上のすさみには残りけり。松魚の句俗に落ちて善き程のものは少なきも以下は秀句
        目には青葉山郭公初松魚          素堂

ü  故人五百題の悪句            61
普通の俳書で善き句をも集めたり。善きと云うは多くは繊巧なる方に傾きたれば、其中には卑俗なる者少なからず
        衣がへ十日早くば花盛             野坡
俗調にて済度しがたし
        人さきに医師の袷や衣がへ        許六
許六自慢の句で、元禄あたりでは珍らかなりしかも知らねど、今日より言えばこれも月並流点取調に外ならず

ü  文化頃の悪句        65
        時鳥程なく見ゆる野松かな        祥禾
意匠は卑俗なる処なけれど句法拙し。自分ならこうする
        時鳥野末の松のほの見えて

ü  天文地理              614
俳句に壮大なることを詠もうとするなら四季の天文地理を季に結ぶべし
      春風、陽炎、霞、春の海
      青嵐、五月雨、夕立、雲の峰、夏山
      天の川、稲妻、露、霧、初嵐、野分、秋風、秋の海、月
      時雨、凩、霰、雪、枯野
後世の文学者、美術家常に繊巧に流れて壮大の趣を知らず。彼らに言わせると、壮大は野蛮とか幼稚とか言って顧みない。共に壮大を語るべき者幾人かある

ü  しほり句              617
伊豆下田で数十年来栞句が大流行し、故人杏花村成行の句に以下のものがある
        雪かきやまがきのもとのひとまろめ
僅か17字の中に柿本人麻呂の10字をしほれるは輙(ちょう:すなわち)く得べきにあらずと云ってほめそやしているが、栞句、冠句や廻文などは一種の戯れであり、決して文学の真面目にあらず、好んで為すべきに非ざるなり。理屈に落ち無理を為すがために、けっして好句を得る能わず。此句は栞句にしては存外穏やかに出来て多少の手柄なきに非ざるも、俳句としては平々凡々、一文の価値もない。俳句を学ぶ人は真似をするなかれ

ü  連歌と俳諧           617
幼稚なる俳諧時代における連歌と俳諧とのけじめは能と狂言との如くといい、俳諧は連歌を超えるものではなかったが、貞徳が稍々之を改良したと云う人がいるが、甚だしい誤り。
能と狂言の譬喩はさておき、俳諧が連歌の法式を脱せずとは全く事実と反対。足利時代の俳句は徹頭徹尾連歌の精神を捨てし故に野卑を極めたる者にて、貞徳の俳諧と雖も殆どこれより進むこと1歩の内に在り

ü  連歌と蕉風           618
連歌の弊は第一和歌の旧統を襲ぎて陳腐なるにあり。第二足利時代の和歌と同じく理屈に落ちるに在り。若し夫れ連歌発句の上乗なるものに至りては、殆ど是元禄時代の蕉風にして、遥かに貞徳、檀林の上に在り
連歌にも好句は少ないといっても、雅致を存し幽情を含んで些かの俗気を帯びざるに至りては、終に貞門の卑俗に勝ること多し。誰か云う、貞徳は連歌に比して1歩を進めたりと

ü  黄鳥集第33                79
俳諧雑誌多くして見るべき俳句無し。此句集を見ると数句閒雅なる者を見る
                    山鳩や卯の花くだし寒う啼く               貞松
最も余韻あり
東都大地震      はつと立ちし鴉ややがて声暑し            鶯洲
面白けれど「やがて」の字は疵なり

ü  盂蘭盆會              715
715日は、家毎々々に魂棚つくりて亡き人の魂を祭るとなん聞けば、おのづから悲しく心細げに覚ゆ。さればにや魂祭の句と言えばいずれも一ふしはあわれに面白きが多し
                              亡き魂や狭き真菰の旅枕         馬光
無情なるは                魂祭けふも焼場の煙かな         芭蕉
わけて無情なるは        盆に死ぬ佛の中の佛かな         智月

Ø  募集発句抜萃        明治27
        茂る木を離れて高き社かな        小石川花谷
評に云く、清奇画の如し
        大佛に足場かけたり雲の峰        下谷竹也
評 雲の峰の句は気高きが多けれど、この句ほど気高きものはあらず。大佛の句は壮大なものが多けれど、この句ほど壮大なるものあらず。壮大に加え荘厳を以てす。品位の高き所以なり。天明以後我唯々此1句を得たり

Ø  亡友山寺梅龕        明治2779
盤根錯節は利器を分ち清貧苦学は志気を知るとかや、会津城下に山寺清三郎という才賢く指さきのわざたくみで学びの道には志深いが、体が弱く読書も禁止されていたが、独学で文学上の趣味を解し詩歌小説を作る。其詩、流麗清婉宮女恨を含んで珠簾深く垂れ籠め、梨花独り痩せて三更の月に立つが如し。俳句も亦稍々之に類せり。時に雄勁、高雅なるものあるを見る。俳句を志したのは没前1年以内だが、今日在らしめば技の進む所測るべからざるなり。和歌小説は未だ特色を発揮するに至らざりき
昨春雑誌『俳諧』を発行し俳句を募集したところ、一種光彩を発し能く雅致を解する者2人あり、狙酔と梅龕。余が宅にて小会を催した際梅龕を招き、病を押して来たが、其の後自分も病に臥し、梅龕亦褥に就く。奥州漫遊の途に上ったのでしばらく会えなかったが、ようやく連絡の取れた狙酔からの手紙で梅龕没を知る
        もう寝よう寝ようとて夏の月
など3首したためられたのが最後の手紙で再び取り出してみれば、宇々悲しく句もあわれに3首の俳句さえ此世の調べにはあらず。腸もちぎるる如し。天は完全を妬むか、始めて狙酔を得たる時は即ち是れ梅龕を喪いし時なりとはさてもなさけなしや。狙酔は山河百里を隔てて未だ曾て相逢わず、梅龕は一たび膝を交えて談笑せしのみ。再びせんとすれば今や則ち亡し、悲しいかな
梅龕遺稿の内発句を得たればこれを掲げて同好に示さんとす
遅芳、左文楼(右手を喪った際の号で、元の「三郎」をもじったもの)とも号す。慶應3年生まれ、明治26年没、享年27。幼にして父を亡い兄に従って稼業を助く。夜間閑を偸(おし)んで書を読む

Ø  地圖的観念と繪畫(かいが)的観念             明治2786日、8
鳴雪翁を炭團坂上に訪い、論難批評数時間に亙りて猶倦まず、終に話題は
        春の水山なき國を流れけり                  蕪村
の句に及べり。鳴雪翁は此句を謂いて蕪村集中の秀逸、俳諧発句中の上乗と断定するが、余は此句の品位を定むること、翁より一二等下に在るなり。其理由は、此句の意単に目前の有形物を詠ずるに非ずして、却て無形の理屈を包含するが如く、随って人の感情を起こさしむる事少しと云うに在るなり。「山なき國」とは文学的客観の景象に非ずして、地理学的主観の抽象に似たるなり。「國」という観念は各自の心中に在るが、「山なき」として「國」の性質を表そうとすると、見渡して山が無ければ初めてその事実と「國」の観念とを合わせて「山なき國」という抽象的観念を作るか、地理書を思い浮かべて山嶺なき国名を考え出してその国の光景を心中に再現するかの2途に出でざるべからず。どちらにしても連想上幾多の時間を費やすを以て、直接に読者の感情に訴え、その光景をして眼前に躍出せしむるに非ざるなり
山嶺なき国を文学的に叙すなら、國在って山嶺なくんば「國」と詠み、「山無し」と詠むべし。之を形容詞的に「山なき國」と続けることは、幾多の観念を総合したる後に始めて生じ得べき抽象的の無形語なるを以て、文学的の感情を刺激すること薄しというのみ
抽象に過ぎれば理屈に落ちて殺風景となり文学的趣味を没し去るの憂いありということは鳴雪翁も異論ないが、この句についてのみ2人が衝突するのは何故か。その原因は、鳴雪翁は地図的観念を以て此句を見、余は絵画的観念を以て見るから。両観念は単に文学上異様の感情を起こすに止まらずして、亦是れ心理学上大いに研究を要すべき者なり
両者は万物の見ようの相違で、地図的観念は万物を下に見、絵画的観念は万物を横に見る
普通に見えるのは絵画的で、遠近や濃淡、大小があるが、地図的観念では下界を一目で見下ろす如きもの
是に於て蕪村の句に於ける相互意見の衝突は氷解。翁は此句を以て、山なき國というも1国の称に非ずして、日本全国の中の山なき國を総ていい、春の水というも1条の川に非ずして、国々を流れるすべての川をいうとして、余が前に一目の下に見得べからざるの光景とせし者も能く之を一目に見し者にしたところから衝突を来した
詩歌文章がその文字の上に現わし得べき光景は、実物に比して僅か千百分の一に過ぎずと雖も、読者の連想は更に幾多の絵画的心象をもたらし、模糊なる者を明瞭ならしめ、粗雑なるものを精細ならしむるなり
余輩亦多少の地図的観念あるが、蕪村の句を取って翁の如く見ゆる者は必ず多からざるべきを信ず。鳴雪翁は幼児からの教育習慣で、実地に疎く想像に富ましめたのだろう。7,8歳の時能く草双子を読み、13,4までには稗史小説を読み盡したというのも、想像にのみ傾かしめた1因ではないか(其小説は明治の実写的小説ではなく徳川氏の架空的想像的の者なることを注意せよ)

Ø  字余りの和歌俳句            明治27820
和歌では36文字まで、俳諧でも22,3文字にも作ることがある。例外であって常に用いるべきではないと掟のように言われるが、此掟程謂れなき者はない
字余りというから謬見があるので、もともと31字といい17字といっても人間が勝手に定めたに過ぎず、新調の韻文と見れば何の例外と云う事あらんや
句調悪しく口にたまる心地すとの批判も31字や17字を標準として言うだけの事で、最初から虚心平気にて敢えて字数を予定せずして吟じなば句調の悪しき処も非ざるべし
たまたま「五」「七」は調子がいいので漢詩にも「五言」「七言」多く、日本でも「七五調」多いが、これを以て唯一の好調となすは固より偏見のみ
或人は、字余りの句を為すは徒に新を弄し奇を衒する者だというが、語勢を強くする為に字余りを用いる事已むを得ざる者あり
況や31字の和歌17字の俳句は古来より言い古して大方は陳腐に属し塾套に落ちし今日、少なくとも32,3字又は18,9字の新調を作る必要を見る。余は陳套を脱せんと志す。都々逸ですら新調を試しているのに、歌人俳諧師たる者何ぞ猛省せざるや
和歌には古来遵奉した法則があって、「ア、イ、ウ、オ」の4母音ある句に限って字余りを許したが、一種の新調と見れば母音子音の区別は無意味

Ø  俳諧と武事           明治281
芭蕉の俳諧を興すや力めて実景実情を叙し、敢えて架空の理想に趨(はし)るを許さず。元禄俳諧の高潔古樸後世の企及すべからざるもの実に此に在り。だが、1人の実体験には限界在り、史書の伝える所に由って遠く千歳の古に遊ぶ如き、到底実験以外の事なるをや。芭蕉以後の机上実験を談ずる者に至りては、真に井蛙管見の譏りを免れず。蕪村は芭蕉後百年に出で、始めて濶眼を理想界に開けり。是に於て古今の人事、雑然たる天然の風光、千様萬態一として蕪村の句に上がらざるはなし
戦闘の如きは泰平の詩人が実験できないのみか、夢床にも想わざる者、之を論議する者林子平、之を風詠する者謝蕪村あり、共に一世の豪傑。蕪村集中無事武器武人に関する句は
        春雨や綱が袂に小提灯
高野   隠れ栖んで花に真田が謡ひかな
        遠浅に兵船や夏の月
        絶頂の城たのもしき若葉かな
        日は斜関屋の槍に蜻蛉かな
幾百年前の事を眼前に目撃するが如く叙するは、詩境を活動せしむる良法にして蕪村の創意に属す。武器武人をして武器武人たるの本色を存し、鋩斗牛を衝き気虹霓(にじ)を吐くの趣を叙したるに至っては蕪村の創意に属す。文学界における蕪村の功偉と謂うべき。句法勁抜遒錬善く其詩趣に沿いたるが如き、亦空前絶後の1人なるをや
冒頭の5首は、字句意匠両ながら佳絶なる者、古今有数の句なり                  (11)
架空の観念が蕪村に発達したのは上記の通りだが、架空の発句だけがなかったので、俳諧連歌における架空の観念は芭蕉時代にも発達、武人武器武事を詠み込んだ者も多く、蕪村の発句も元禄時代の連句の形体を変じたる者か                                      (112)

Ø  俳諧大要
花山という盲目の俳人あり、望一の流れを汲むといい、半年しか経っていないのに其声鏗鏘として聞く者耳を欹(そばだ)つ。君が為に発句の心得を綱目ばかりを挙げて松風會諸子にいたす。諸子幸に之を花山子に伝えてよ
第1    俳句の標準
1. 俳句は文学の一部。美術の一部。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。絵画も彫刻も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし
1. 美は比較的なり、絶対的に非ず。故に1首の詩、1幅の画を取って美不美をいうべからず
1. 美の標準は各個の感情に存す。各個の感情は各個別にて、美の標準も亦各個別なり。同一の人亦時に従って美の標準を異にす
1. 先天的に存在する美の標準もない
1. 各個の美の標準を比較すれば大同小異
1. 一般に後時の標準は概括的標準に近似。同時代の人でも各個美の標準を異にすれば、一般に学問知識ある者の標準は概括的標準に近似

第2    俳句と他の文学
1. 俳句と他の文学との区別は其音調の異なる処に在り。俳句には一定の音調在り。普通に五七五の3句を以て一首と為すが、字数には亦無数の小異在るので、俳句と他の文学とは厳密に区別す可からず
1. 音調の優劣はない。唯々風詠する事物に因りて音調の適否在るのみ。複雑せる事物は小説又は長篇の韵文に適し、単純なる事物は俳句和歌又は短篇の韵文に適す。簡樸なるは漢土の詩の長所、精緻なるは欧米の詩の長所。優柔なるは和歌の長所、軽妙なるは俳句の長所だが、俳句でも簡樸、精緻、優柔もあるし、他の文学亦然り
1. 美の標準は美の感情に在り。故に美の感情以外の事物は美の標準に影響せず。多数の人が賞美するもの必ずしも美ならず、上等社会に行わるる者必ずしも美ならず、上世に作為せしもの必ずしも美ならず。故に俳句は一般に弄ばるるが故に美ならず、下等社会に行わるるが故に不美ならず、今人の作なるが故に不美ならず
1. 一般に俳句と他の文学とを比して優劣あるなし。夫々のジャンルを為す者最上の文学と為す。俳句も同じ。是れ概括的標準に照して自ら然るを覚ゆ

第3    俳句の種類
1. 俳句の種類は文学の種類と略々相同じ
1. 俳句の種類は種々なる点より類別し得べし
1. 俳句を分かちて意匠及び言語(古人の所謂心及び姿)とす。意匠に巧拙あり、言語に巧拙あり。どちらか一方、あるいは両方とも巧或は拙なる者あり
1. 意匠と言語を比較して、優劣先後あるなし。どちらかが勝る者はある
1. 意匠に勁健、優柔、壮大、細繊、雅樸、婉麗、幽遠、平易、荘重、軽快、奇警(奇抜)、淡泊、複雑、単純、真面目、滑稽突梯など、千種萬様あるべし
1. 言語の区別も意匠同様、それぞれに対応した言語を使わなければならない
1. 意匠に主観的、客観的在り、主観的とは心中の状況を詠じ、客観的とは心象に写り来りし客観的事物を其儘に詠ずるなり
1. 意匠に天然的、人事的なるあり。人事的とは人間万般の事物を詠じ、天然的とは天文、地理、生物、鉱物等、総て人事以外の事物を詠ずるなり
1. 以上各種の区別皆優劣あるなし。比較的の区別のみで、厳格にその区域を限るべからず
1. 1人にして各種の変化を為す者あり、1人にして1種に長ずる者あり

第4    俳句と四季
1. 俳句には多く四季の題目を詠ず。四季の題目なきを雑という
1. 俳句における四季の題目は和歌より出でて更にその区域を広くしたり。和歌では題目が僅か100に上らず。俳句では数百の多きに及べり
1. 俳句における四季の題目は和歌より出でて更にその意味を深くしたり。「涼し」と言えば、和歌では夏にも秋涼にも用いたが、俳句では夏に限り、秋涼の意には初涼、新涼といっていたが、今では其語も廃れ涼の字は夏季専用となり、題の区域は縮小したが意味は深長となった
1. 単に月といえば和歌にては雑となり、俳句にては秋季。時雨は和歌では晩秋初冬共に用い、殊に時雨を以て木葉を染むるの意に用いるが、俳句では初冬に限定。霜は和歌では晩秋より用い、亦紅葉を促すの一因となさず。俳句季寄の書には秋霜の題を設くが作例はない
1. 悟桐一葉落の意を詠じなば和歌にても秋季と為るべし。俳句にては桐一葉を秋季に用いるのみならず、桐一語でも秋季に用いる。鷹狩は和歌では冬季、俳句では鷹一語でも冬季
1. 四季の題目にて花木、花草、木実、草実等はその花実の最多き時を以て季と為すべし。藤花、牡丹は春晩夏初に開くので、そのころを季とすべし。藤を春、牡丹を夏と限る必要なし。梨、西瓜等必ずしも秋季に属せずして可
1. 古来季寄に無き者も略々気候の一定せる者は季に用い得べし。紀元節等時日一定の者は論を竢たず、氷店を夏、焼芋を冬とするも可。虹の如き雷の如き定めて夏季と為す、或は可ならんか
1. 四季の題目中虚(抽象的)なる者は人為的にその区域を制限するを要す。春は立春立夏の間、夏は立夏立秋の間、秋は立秋立冬の間、冬は立冬と立春の間に限定し、厳格に守る
1. 長閑、暖、麗、日永、朧は春、短夜、涼、熱は夏、冷、凄、朝寒、夜寒、坐寒、漸寒、肌寒、身に入、夜長は秋季、寒、つめたしは冬季と定む。日永、夜長な夏至冬至とはずれるが、理屈ではなく感情に基づき致す所にて、斯く一定した上はそれに従い、他季に混ずるべからず
1. 其外霞、陽炎、東風は春、薫風、雲峰は夏、露、霧、天河、月、野分、星月夜は秋、雪、霰、氷は冬と一定している所なれば一定し置くを可とす。夏の霞、秋の雲峰を詠ずるはあり
1. 四季の題目を見れば時候を連想する。蝶といえば虫が飛び交う小景を現わすのみならず、春暖漸く催し草木僅かに萌芽を放ち菜黄麦緑の間に三々五々士女の嬉遊するが如き光景をも連想する。この連想ありて始めて17字の天地に無限の趣味を生ず。故に四季の連想を解せざる者は終に俳句を解せざる者なり。俳句に用いる四季の題目は俳句に限った一種の意味を有すというも可なり
1. 雑の句は四季の連想がないので、其意味浅薄にして吟誦に堪えざる者多し。雄壮高大なる者は四季の変化を待たず。古来雑の句極めて少なく、過半は富士を詠じたる者なり
1. 時間を人為的に区切って命名し題目と為すが、空間を限って命名しないのは、時間は同一の変化と同一の順序に従って反復するので区切って命名が可能だが、空間の変化は順序もなく不規則なので、命名しようと思えば人間の見聞し得る処を一々命名しなければならず。地名が1つの例で、時間よりも明瞭な区別で、俳句に用いることは、最も簡単な語で最も錯雑なる形象を現わすいい方法だが、区別が明瞭なだけに区域甚だ狭隘に失し、且つ其地を知らざる者には何等の感情をも起こさしむる事難し。四季の変化は何人も能く之を知るのとは異なる

第5    修学第1
1. 作句に当たっては思うままをものすべし。巧を求むる莫れ、拙を蔽う莫れ、他人に恥かしがる莫れ
1. 思い立ったらその瞬間に半句にても1句にても、ものし置くべし。17字に限定することはなく、特別の言葉を使う必要もなく、雅語、俗後、漢語、佛語何でも構わず無理に1首の韻文となし置く可し
1. 言語、文法、切字、仮名遣など一切無き者と心得て可。知りたき人は漸次に知り置く可し
1. 作句出来たらその道の先輩に示して教えを乞うも善し。初心者が恥ずかしがるは却てわろし。初心の句は俗気をはなれてよろしく、少し巧になると俗に陥る事多し
1. 恥ずかしがってものしないのは悪いが、恥ずかしがる心底は善き句を得たしとの望みなればいと殊勝で、此心は後々までも持ち続けたし
1. 教えを乞う人がいなければ見せる必要はなく、数多く作るうちに自然と発明する事あり。時間をかけて苦心して得たる者は脳中に染み込むこと深ければ再び忘るゝ事なく、応用し易く、且つ他日又発明するの端緒となる可し
1. ものしたる句は紙片に書き記し置く可し。繰り返し吟じ見るも善し、其間前に言い得ざりしことを言い得るもあらん、己の進歩を知るたよりともなる
1. 四季の題目は1句中に1ある者と心得て詠みこむことを可とす
1. なるべく時候の景物を詠ずる事、連想が早く感情が深くしてものし易し
1. 自ら作句する側(かたわら)、古今の俳句を読むことは最必要なり。他人の名句を読みて後自らの句をものする時は、趣向流出し句調自在になりて名人の己に乗り遷りたらんが如き感ある可し
1. 自分で進歩したと感じるとき、或は無闇に趣向の溢れ出るが如く感じた時は、其機を透かさず如何にてもできるだけものし見るべし。そういう機会は何度となくあり、志を大にすべき
1. 個人の俳句を読む際は、元禄、明和、安永、天明の俳書を可とす。『俳諧七部集』『続七部集』『蕪村七部集』『三傑集』など善し。家集にては『芭蕉句集』『去来発句集』『丈草句集』『蕪村句集』など読む可し。玉石混交はやむを得ないが、最も悪句少なきは『俳諧七部州』の内の『猿蓑』『蕪村七部集』『蕪村句集』くらい。『故人五百題』は普通に坊間に行われて初学には便利
1. 古俳書を読んだり、写したり、抜萃したり、1つの題目の下に類別するも善し
1. 古句を半分竊(ぬす)み用いるも半分は新しいので苦しからず。古句中の好材料を借用してもいい。古句の調べに擬して調子の変化をも悟る可し
1. 月並風に学ぶ人多く初めより巧者を求め婉曲を主とするが、初心の句は独活(うど)の大木の如きを貴ぶ
1. 初心の人古句に己の言わんと欲する者あるを見て、古人既に俳句を言い盡せりやと疑うが、是れ平等を見て差別を見ざるのみ。古人は何故に此好題目を遺して乃公(だいこう:わがはい)に付与したるかと怪しむに至る可し
1. 初心の人天の川の題を得て作句しようとするとまず頭に浮かぶのは「あら海や」他有名な3句で、それで言い盡されていると思ってしまうが、仮令そこまでいかなくてもいくらでもそれぞれに趣があって陳腐ならず
1. なまじいに他人の句を2,3句見聞きたる時外に趣向なき心地するが、1020100句と多く見聞く時は却て無数の趣向を得べし。古人が既に己の意匠を言い居らん事を恐れて古句を見るを嫌うが如きは、耳を掩って鈴を盗むよりも猶可笑しきわざなり
1. 11句づつ多くの題について詠むも善し、110句、100句など変化を試むるも善し
1. 1100句を作ろうとするとき、最初4,5句を得るに非常の苦吟を感ず可し。其後は容易で2,30句もいくと後は立ちどころに弁ずべく、猶100句位はできる心地すべし
1. 運座点取など人と競争するも善し。俳句の下巻又は巻を取るは苦しからず(?)
1. 三笠附、懸賞発句募集、其外博奕に類し私利に関する事にはたづさわるべからず
1. 1時間に幾十百句をものするも善し、数日を費やして1句を推敲するも善し。早くものすれば放膽の方に養う所あり、苦しんでものすれば小心の方に得る所あり
1. 俳句の中に言語や材料の解する能わざるものあらば、索引書又は学者に問い糺す可し。言語、材料が分かっても1句の意味解する能わざる所あらば自ら熟思す可し
1. 初学の人俳句を解するに作者の理想を探らんとする者多いが、俳句は理想的の者極めて稀に、事物をありの儘に詠みたる者多し
        稲妻やみのふは東けふは西        其角
というは、諸行無常的の理想を含めたもので、俗人は之を佳句の如く思って持て囃すが、文学としては1文の価値無き者なり
1. 初学にして譬喩、難題、冠附、冠履、回文、盲附俳句、時事雑詠等の俳句を作ろうとする者あるが、此等の条件は皆文学以外の分子にして、言わば文学以外の事に文学の皮を被せたる者なり。多少の文学的風韻あらしめんとするは老熟の上の戯れなり。初学の及ぶ所にあらず
1. 学識無き者は雅俗の趣味を区別すること難く、学識ある者は理想に偏して文学の範囲外にさまようこと多し。然れども終局に於て学識ある者は無き者にまさること万々なり
1. 文章、詩、小説を作る者、俄かに俳句を作ろうとして其語句の簡単に過ぎるを覚え、何等の思想をも現わす能わずというが、それは連想の習慣の異なるよりして来るもので、俳句に適した簡単な思想を取り来らば何の苦も無く17字に収め得べし。複雑な者でも其中から最文学的俳句的なる1要素を抜き去りてこれを17字中に収めなば俳句となる可し。初学の人は議論するより作る方こそ肝腎なめれ
1. 俳句の古調を擬する者あれば「古い」「焼直し」と宗匠輩は擯斥するが、自分が新奇として喜んでいる者盡く天保以後の焼直しに過ぎない。同じ焼直しでも金と鉛では自ら価値に大差あり。初学者惑う莫れ
1. 古俳書でも理屈を説く者は初学者の見るべき者に非ず。蕉門の著書と雖も十中八九は誤謬なり。其精神は必ずしも誤謬ではないが、字句は其精神を写す能わず。仮名遣い、手爾波抔(てにおはなど)を学ばんと思えば俳書より普通の和書に就け。古言梯、詞の八千衢、詞の玉の緒等幾何もあるべし
1. 俳諧は滑稽なりとて滑稽ならざるは俳句にあらずという人がいるが、局量の小なる一笑するに堪えたり。濁酒を好む馬士の清酒を飲んで酒に非ずという如し
1. 初学の人が自己の標準立たずとて苦にする者あり、尤もだが、多く作り多く読むうちにおのづと標準は確立する
1. 只々己に面白からんように作るべし。人に面白かれと思うのは宗匠門下の景物連の心がけにて、縮緬1匹、金時計1個を目当てにして作りたる者は、縮緬と時計を外した後にて見る可し。我ながら拙し卑と驚く程の句なるべし
1. 閒ある時にもがくのも、忙しい時に無理に俳句をものせんと悩むも宜しからず。出る時は出るに任せ、出ない時は出ぬに任すべし
1. 俳句の単に邪念を忘れたるは善いが、ゆめ本職を忘るべからず。熱心ならざれば進まず、熱心なれば本職を忘れるに至る。其程度を知るは其人に在り
1. 俳句の題は普通に四季の景物を用いる。雑題を取り季を結んでものす可し。両者並び試みざれば終に狭隘を免れざらん
1. 俳句の題には拘る必要はない。其題を詠み込めばそれにて十分。和歌のように題に叶う叶わぬをやかましく穿鑿するに及ばず
1. 俳句の題を全く空想中の者として実在せしめざるも亦可なり。蔦(つた)という秋季の題で、
        野の宮の鳥居に蔦も無かりけり             涼菟
の如く蔦という実物を句中に現在せしめざるも差支えない。それでも矢張秋季と為る
1. 月並者流の題に文字結と言う事あり。例えば「雪」の題にて結字「後」と定め、雪の句の中に「後」の字を詠みこませる。単に雪の題だと古人の句を剽窃したり、自己の古き持句を幾度も出さんとする者多き故に予防する策なので、苟も徳義を解し廉恥を知る人に対して為すべきに非ず。況や文字結なる者は到底佳句を得る能わざるをや
1. 他人が悪しと言う句も己が善しと思えば其種類をものすべし。もし悪しければ、長く多くものする間には自然と厭嫌を生ず可し
1. 初学の人古人の俳句を見ても解らないのが多いのは古句を見る事が少ないから。古句解すべからずとて俳句は学び難しと為すに及ばず、能く解し得る者よりして道に進む可し
1. 解し難きの句をものするを以て高尚なりと思惟するが如きは俗人の僻見のみ。佶屈なるく貴からず、平凡なる句はなかなかに貴し
1. 俳句の妙味は終に解釈すべからざるを以て各人の自悟を待つより外なしと雖も、字句の解釈は容易であり、初学者の為に古句の解説を与え、併せて多少の批評を為すべし
        朝顔に釣瓶取られてもらひ水               千代
釣瓶に朝顔の蔓が巻き付いて切りちぎらないと釣瓶を取ることができず、それをあさ顔に釣瓶を「取られた」と言い、取られたので余所へ行って水をもらったという意なり。もらい水という趣向俗極まりて蛇足なり。釣瓶取られたとだけで善し。それも「取られて」とは最俗なり。唯々朝顔が釣瓶にまとい付きたる様をおとなしくものするを可とす。此句は人口に膾炙する句なれども俗気多くして俳句とは言うべからず
        井戸端の櫻あぶなし酒の酔                  秋色
秋色という女が13歳の時ものして上野の櫻に結び付けたりとて、其櫻を秋色櫻と名付け今も清水堂の裏手に囲いたる老樹あり。この意は酔いどれし人が櫻を見んと木の下に近寄るのを見て、過って井戸に落ちないかと気遣いたるなり。「あぶなし」の主格は酔人にも拘らず、酔人の語はなく「酒の酔」と虚に言いたるのみなれば、普通の文章のように解することは難しい。此句も千代の句と同じく俗にして見るに堪えず。千代のに比すれば俗気少なからんか
        蚊にこまる蚊もまた困る団扇かな          失名
誰の句か不明だが俗間に伝称する句。意義は解釈するまでもない。此句は俗の又俗なるもので、前2句より数等下。俗間此の如きものを発句と称え居る者多き故に其妄を弁ずるのみ
        何事ぞ花見る人の長刀                       去来
意は長刀をさして花見に出掛けたるを咎めたり。無風流を嘲(あざけ)った。多少の理想を含んでいるので俗間に伝わったが、名句というはこの種の句に限らない。この種の句は最も卑俗なり易きものと知るべし。理想を含む句の上にては上乗とすべき名句だが、初学者の此種の句を学ぶは最も危うし
        蒲団着て寐たる姿や東山                     嵐雪
実景を知らないと其味解し難し。東山を見れば譬喩的吟ありたるを解す。品の善い句ではないが滑稽と軽妙とを以て勝りたる者で容易に模倣し得べきに非ず。普通の文学者でも解らないのは冬の季と言う事。蒲団は冬の季で此句は蒲団を譬喩に用いたが、他に季がないのでやはり冬季となる。単に東山の譬喩とするならば、何の趣もないが、冬季になる故に趣を生ずる。さすがの都も冬枯れて淋しい中に東山が如何にも蒲団をかぶって寐ていると見れば淋しさの中に多少のおかしみもありて何となく面白う感ぜらるるなり。もし疑うのであれば、夏の東山を見て此句を味わい、更に冬の東山を見て此句を味わい、其趣の多少を比較すれば、必ず発明する所あらん
        我雪とおもへば軽し笠の上                  其角
普通には「我ものと思へば軽し笠の雪」と伝わるが、「我もの」では甚だ俗で「我雪」に従う。端唄などに入っているので多少艶体に近き感じを生じ、俗人には有難がられるところが此句の俗なる所以。其角の句としては斬新を以て賞すべし。模倣すると直ちに邪炉に陥ること必定
        しばらくは花の上なる月夜かな             芭蕉
吉野にての吟。吉野の花の多き事を言ったもので、そこら一面の花なれば月もしばらくは花の上を立ち去らずとの意。「しばらく」とは稍々久しきことを言えり。素人好のする句だが深き味の無き句で、実景を写さずして理想に趨りたるが為ならん
        わが事と泥鰌の逃げし根芹かな            丈草
芹は春のはじめ。芹摘みに手を出したのに泥鰌が怖れて逃げ隠れしたという意にして、泥鰌を擬人法にして軽くおどけた処は丈草の独壇場。上品に非ざるも猶名句たるを失わず
        門前の小家もあそぶ冬至かな               凡兆
冬至とは一陽来復の日だがここでは其意ではなく、禅宗に於ては供養の定日にて、寺の門前の家も寺の縁によりこの日は遊び暮らすとなり。門前というだけで寺の門前は明らか。何の為の家かはわからないが、いずれ此寺の為に生活している家と知れるなり。元禄の句だが、当時門前という漢語を用いるのは少きに、山門前の意味なので漢音にて門前と読ませた。佛語には漢音の用語多し。固より余韻ある句ではないが1句のしまってたるみ無き処名人の作に相違なく、将た冬至の句としては上乗の部に入る。淡泊に何気なく言い出したる処、却て冬至の趣あって味わいあり
        里人の渡り候か橋の霜                       宗因
橋上の霜に足跡あるを見て、大方里人のはや渡りたらんかと想像したまでだが、趣より言葉の上の口あいにあるのが檀林の特色で、「候」の字を使ったり、謡曲にある「里人の渡り候か」が「おじゃるか」の意で使われたのに対し本句では「橋を渡る」の意に用いて、口あいとしている。檀林風の句は多く此種なり。此種の句は俳諧史の上では功績あるが、今日より評せんには一文の価値も無し。所謂趣味余韻の如きは少しも之を有せざるがためのみ
        世の中は三日見ぬ間に櫻かな               蓼太
名高き句。世の中の有為転変は櫻花の少しの間に咲き満ちたると同じとなり。理想を含んでいるが、だからと言って必ずしも善からず。此句の如き格調の下品なる者は俳句とも言い難き位なり。ゆめ模倣すべからず。「見ぬ間の」と伝えられるが矢張「見ぬ間に」の方がいい。「の」とすれば全く譬喩となり味少なく、「に」にすれば櫻が主となり実景となる故に多少の趣を生ずべし
        朝顔や紺に染めても強からず               也有
糸抔を紺に染めると糸が強く丈夫になると俗に言う。朝顔の花が紺色でも其朝限りの命にて強くもあらずとおどけ興じたるなり。也有の句概ね此類。一寸おかしみあれど初学の模倣すべきものにあらず
        御手討の夫婦なりしを衣がへ               蕪村
善く昔の小説にあるような筋を詠んだ。不義は御家の御法度なりと手討になる処を側の者がなだめてめでたく夫婦となって暮らすさまを斯くつづりたり。「衣がへ」は「更衣」とも書き夏の初め。平穏に暮らしていることを現わさんがために用いたもので、此等の言廻し取り合わせなど総て老練の極也。人生の複雑なる事実を取り来りて斯くまでに詠みこなすこと、蕪村が一大俳家として芭蕉以外に一旗幟を立てたる所以なり。小説の上にはありふれたものだが、蕪村時代にはまだ箇様な小説はなかりしもの。蕪村は慥(たし)かに小説的思想を有したり
        おちぶれて関寺うたふ頭巾かな            几菫
頭巾は冬季。関寺は謡曲《関寺小町》からで、小町が落ちぶれた後の事を綴ったもの。頭巾着た人が謡うとなるのは俳句では通例の句法。頭巾という季語で結んだのは、冬なれば人の零落したる趣に能く副い、頭巾を冠りて侘びたる様子も見ゆる故なり
        うちそむき木を割る桃の主かな            白雄
桃とは桃花のことで春季。桃の主とは前後の模様から考えると樵夫か百姓などの類。木を割るとは薪割り、うちそむきとは桃の花を背にして木を割るの意。即景其ままにして多少の野趣あり
        時鳥鳴くや(はくさい?)の薄加減      曉台
は俗にじゅんさいの事、此処でははぬなはと読む。薄加減は塩の利かぬ様にする事。時鳥との関係は特に無く只々時候の取り合わせ。二物共に夏にして時鳥の音の清らなる蒪菜の味の淡泊なる処、能く夏の始の清涼なる候を想像せしむるに足る。此等の句は取り合せの巧拙により略其句の品格を定む
        初雪やくばり足らいで此枝許り             蝶夢
初雪は降ったものの少量故何処も彼も降るというわけにいかず、比叡山の上だけ降ったと言う事。初雪を擬人法にしてそういうなり。巧者な句
        砂川や枕のほしき夕涼み                     闌更
余り砂川の清らかさに枕を借りて此河原表の砂の上に寝転びたしとの意で、軽妙なる句
        追々に塔の雫や春の雪                       二柳
春の雪は早く解けるが、五重塔の屋根には日向と日陰がある故、次第に此処彼処と解けて、果てはどこからも雫が落ちるようになったという意。巧者な句
        菊の香や奈良には古き佛たち               芭蕉
菊と佛とは場所の関係なし。佛に供えた菊でもなければ佛堂の側に咲く菊でもない。作者が奈良に遊んだ時恰も菊の咲く頃。菊花と古佛との取り合わせは共にさび盡した処、少しも動かぬように観ゆ。ここ作者の濶眼と知る可し
        秋風や白木の弓に弦張らん                  去来
夏時白木に弓の弦を張れば膠が剥げるとて秋冷の候を待ってするので、秋風やと置いたが、それだけでは理屈の句で趣味無し。弓は神聖な武器として蟇目として妖魔を攘(はら)うの儀式もある位なれば、金気の肅殺たるに取り合せて自ら無限の趣味を生ずるを見る。況や白木なるをや。白色は神聖の感あり、肅殺の感あり、故に秋の色は白とす。無造作に詠み出でて男らしき処を失わず。有り難き佳句なり
        時鳥啼くや雲雀の十文字                     去来
時鳥は夏にして雲雀は春だが、時鳥は春鳴かずして雲雀は夏も居る故此句は夏季。時鳥は横一文字に飛び雲雀は下より上に真直に上るので、丁度雲雀の上る処を時鳥が横切って恰も十文字の如くなりたるを云う。最も巧妙なる句
        卯の花の絶間敲(たた?)かん闇の門        去来
闇夜に人の門を叩かんとするに、一寸先は闇にしてどこが門かもわからない時、卯の花は闇にも白く見えるので、其中に少し許り卯の花の絶えたる処こそ門だろうと推量したもの。夜景綺麗なれば素人の劇賞する句だが、それほどに善き句ではない(但し千代の朝顔の句や秋色の櫻の句に比べれば此句の高きこと数等なり)。若し「絶間」の語を改めなば今一段の佳句なるべし
        生娘の袖誰が引いて雉の声                 也有
雉はやさしき姿ながらおそろしい声を出すもので、恰も男に袖引かれた生娘が覚えず高声を発したるにも似たりとなり。生娘の声を雉に譬えたとしても、その逆でも妨げ無し
        むつとして戻れば庭に柳かな               蓼太
「むつとして帰れば門に青柳の」と端唄にも謡われたので世の人善く知りたらん。庭の柳のおとなしく垂れるのを見て、只々柔和にしてこそ世の中も渡れると悟る。箇様な理想を含む故に端唄にも謡われているが、俗気十分にして月並調の本色を現せり。千代の朝顔の句よりもなお厭な心地す
        妻にもと幾人思ふ花見かな                  破笠
花見の中に美人が着飾って出でにける故に目移りがする。綺羅雑沓して都会の花見の盛んなるさまは裏面に現われたり
        見ぐるしき馬に乗りけり雲の峰             斗人
雲の峰は夏季にして夏雲多奇峰の意なり。此雲が出ると熱くなるので、雲の峰には夏空の晴れて熱き心を云えるが例なり。毛も汗に汚れてよほど見苦しき様を言える。1句吟じ畢(おわ?)れば炎天に人馬の疲労せしさまを見るが如し
1. 漢語を用い漢詩を応用する者も多し。水村山郭酒旗風という杜牧の成句を取ってこれに秋季の景物を添え 沙魚釣や水村山郭酒    嵐雪    としても俳句には違いない。目前の景物を取りて一列に並べたばかりにても俳句にならぬ事はあらじ
        藪寺や筍月夜時鳥
1. 和歌を学んだ人が俳句に入るのは詩人から俳句に入るより難し。それは和歌の性質に然らずして今日普通の和歌と称する者が文学的でないから。万葉集の歌は文学的に作為せしものにあらざれども、穉気ありて俗気なき処却て文学的なる者多し。新古今集には間々佳篇あり。金槐和歌集には千古の絶唱10首許りあり。徳川氏の末には繊巧なる方のみ稍々文学的とはなれり。これ等の歌より進む者は俳句にも入り得べくも、古今集の如き言語ありて意匠なき歌より進み来たらば俳道に入る事甚だ困難。それは俳句には優長なる調子を容れず、寧ろ切迫なる方に傾くが故なり。俳句的な和歌を挙げれば
        ものゝふの矢なみつくろふこての上に霰たばしる那須の篠原       源実朝
1. 前には初学者の為に古句の解釈を記したが、それは標準ではないので、此処に標準となる句を挙げる。俳句に入る人繊巧より佶屈より疎大より滑稽より各々道を選んで進むこと勿論なれど、平易より進むのが最も普通にし正路と思うので平易な句を抜萃する。分け登る道はいずれでも、其極に至れば同じ雲井に一輪の大月を見るの外はあらじ
        五六本よりてしだるゝ柳かな                          去来
        永き日や大佛殿の普請声                              李由
        (こがらし)や刈田のあとの鐵気(かなけ)      惟然
        清水の上から出たり春の月                            許六
        声かけて鵜縄をさばく早瀬かな                      涼菟
        鎌倉の街道をのす燕かな                              尚白
        春の日の念佛ゆるき野寺かな                         
        静かさは栗の葉沈む清水かな                        
        よろよろと撫子残る枯野かな                         
        藁積んで広く淋しき枯野かな                         
        道ばたに多賀の鳥居の寒さかな                      
        夕立や川追ひあぐる裸馬                               正秀
        山松のあはいあはいや花の雲                         その
        市中はものゝ匂ひや夏の月                            凡兆
        百舌鳥鳴くや入日さしこむ女松原 (めまつばら)    
        ながながと川一筋や雪の原                            
        旅人の見て行く門の柳かな                            樗良
        春雨や松に鶴鳴く和歌の浦                            
        我庵は榎許りの落葉かな                              
いずれも句調を求めず、ありのままの事物をありのままにつらねたる迄なれば、平易にして誰にも分かるべし。その価値も多くは是れ第一流の句にして俳句界中有数の佳作なり

第6    修学第2
1. 利根(とね:賢い生まれつき)ある学生が5千首に及ばば直ちに第2期に入るべし。普通の人でも1萬首に至らば必ず第2期に入り来らん
1. そこまでいかなくても才能ある人は数年の星霜を経る間には自然と発達して、何時の間にか第2期に入る居る事多し。自ら作句しなくても多年の間には他人の句を見、説を聞くことが多きが為なり
1. 第1期と第2期の区別は判然としないが、初めは五里霧中で、只々句数と歳月を積むと略々1句のこなしつき、古人の句を見ても自分の句を見てもあらましの評論も出来、何となく自己心中に頼む所あるが如く感じるに至る。此辺より上をまず第2期と定めん
1. 第2期に入っても、人それぞれ稟性に於て進歩の方法順序に於て相異あり
1. どういう方面に長じるか一定の方針はない。自己の長じる所を益々長ぜしめよ。他は自己の及ばざる所に向かって研竅(きゅう?)せよ。両者若し並び行い得べくんば並び行え
1. 自己の長ずる1方に向かって専攻する場合でも猶多少の変化を知るを要す。変化を知るは勉めて自己の句の変化を試むるに在り。古人又は一時代の格調を模倣するも可なり
1. 古俳人の格調が厭という人がいるが、一度自ら其句を模してみれば忽ちその格調を新奇に愛するに至ることあり。広く学びを作るを要す
1. いろいろ試す中で最も壮大雄渾の句あるを善しとす。空間の広き者は壮大なり。湖海の渺茫たる、山嶽の巍峩たる、大空の無限なる、千軍万馬の荒野に羅列せる、河漢星辰の地平に垂接せるが如き、皆壮大ならざるは無し。勢力の多きものは雄渾なり。大風の颯々たる、怒涛の澎湃たる、飛瀑のごうごうたる、洪水天に滔して邑里を蕩流し、両軍相接して弾丸雨注し、艨艟相交わりて水雷海を湧かすが如き、皆雄渾ならざるは無し
1. 小さなものでも壮大雄渾はある。1輪の牡丹と数輪では、1輪の方が比較する者がないため大きく感じるし、近く見れば大に遠く見れば小なるの理もあり
1. 壮大雄渾、繊細精緻といっても普通の美術上の価値に於て差違はないが、特にここで壮大雄渾を挙げるのは、此種の句最も少きを以て一層渇望に堪えざるが為なり。少ないのは、世間がこの趣味を解せず、天然的人事的大観少なきこと、字数が少なく表現しきれないから
1. 美術の標準は人の主観中で動かないが、同一の美術品でも時と場合によって価値に差異生ずる事あり。標準では斬新を美とし、陳腐を不美とする傾向があるため、昔は面白い絵画と評されても、今日模倣せば陳腐として斥けられたりする
1. 壮大雄渾は歓迎賞美されるが、事物は少なく目撃する事も稀なるが故に兎角陳腐に陥り易い。17,8文字で表現するのも難しいので、或る大観を詠ずるも、何等の景色なるか何等の人事なるか茫漠として読者に知れ難き者多し。鑑みる所あるべし
1. 壮大雄渾の句の代表作として記憶し来る者は
        あら海や佐渡に横ふ天の川                            芭蕉
        猪も共に咲かるゝ野分か                               
        湖の水まさりけり五月雨                               去来
        五月雨や大河を前に家二軒                            蕪村
        蟻の道雲の峰より続きけり                            一茶
1. 繊細精緻なる句も学ぶべき。生来美術心に乏しき人、漢学風の疎大に失する人は往々にして此種の趣味を解せず。美術家、文学家と言われる人でも八九分は一方に偏していて、其極に達する人は八九分の内さらに一分に過ぎない。人間心中間一髪の動機を観る者は絶無。俳句では人事を講究すること小説家のように精細なることは必要ないが、天然を講究する事成るべく精細なるを要す
1. 繊細精緻なる句で見当たりたる者
        蒲公英(たんぽぽ)や葉を下草に咲て居る           秋瓜
        草刈りて菫選り出す童かな                            鷗歩
        白魚をふるひよせたる四つ手かな                   其角
1. 壮大なる事物は少く繊細なる事物は多し。数個の繊細なる事物を合すれば1個の壮大なる事物となり、1個の壮大な事物を分かてば数個の繊細なる事物となるべし
1. 壮大を見る者繊細を見得ざるが如く、繊細を見る者亦壮大を見得ざるが多し。要注意
1. 壮大にも雅俗あり、繊細にも雅俗あり。今の宗匠たちは繊細に偏してしかも雅致を解せず、俗趣を主とするため、其句は俗陋。書生たちは壮大に偏して熟練を欠くので陳腐に陥るか疎豪にして趣味を解すべからざる句を為す。繊細なるものは膽(たん:きも)を大にすべし、壮大なる者は心を小にすべし
1. 題目にも壮大、繊細両方がある
壮大な題: 夏山、夏野、夏木立、雲の峰、野分、稲妻、星月夜、冬枯、時雨
繊細な題: 東風、菫、蝶、虹、蚤、撫子、灯籠、草花、埋火
壮大な題を繊細に詠み、繊細な題を壮大に詠む技量も無かるべからず
壮大な題を繊細に詠む            五月雨に蛙のおよぐ戸口かな   杉風
繊細な題を壮大に詠む            ある程の蝶の見るつむじかな   一排
1. 雅樸を好む者婉麗を嫌い、婉麗を好む者雅樸を嫌うの癖あり。老人は雅樸に偏し、美術文学者は往々婉麗に偏し、雅樸を卑野、不美術的として斥く。共に偏頗の論なり
1. 雅樸にも婉麗の中にも雅俗あり。雅樸に偏する者は百姓や鍬と言えば是とし、婉麗に偏する者は少女、金屏と言えば是として他を顧みず。他の俗猥と目する所以なり
1. 雅樸と婉麗共に美術的にするなら、物の雅樸と物の婉麗とを選択する必要あるだけでなく、之を美術的に配合する必要あり
1. 幽邃(おくぶかい)深静を好んで繁華熱閙(どう?:騒がしい)を嫌うのは普通詩人たるものの感情なり。前者が雅、後者が俗は当然だが、繁華熱閙必ずしも文学的の分子を含まざるに非ず。況や如何なる俗事物も冷眼に視る時は多少の雅趣を生じる
1. 理屈は理屈にして文学に非ず。理屈の上に文学の皮を被せて17字の理屈をものするも亦文学の応用にて試むるも善し
1. 理屈には非ざるも送別、留別、題画、慶弔、翻訳なども稍々此に類せり
        生きて世に人の年忌や初茄子(なすび)              几菫
初五で屈折したる詞の働きより中七とよそよそしくものしたる最後に「初茄子」と何心無く置きたるが如くにて、其實心中無限の感情を隠し、言語の上に意匠惨憺たる処は慥(たし)かに見ゆるなり。此種の句は作るにも、見るにも熟練を要す
1. 少し俳句が分かってくると理屈的の句、又は前書付の句は難しきを悟る可し。熟練を経て此種の句をものするに至れば独り心に嬉しく、却てその句の雅俗優劣を判する能わざることあり、常に自ら省るを要す
1. 天保以後の句は概ね卑俗陳腐で見るに堪えず。称して月並調というが、往々にして評価されたりするので、恥を掻きたくなければ月並調も少しは見る可し
1. 学生時に或は月並調を模して自ら新奇と称す。彼自身には新奇でも其文学社会に陳腐なること久し。無学笑うに堪えたり
1. 俳句に貞徳風あり、檀林風あり、芭蕉風あり、其角風あり、美濃風あり、伊丹風あり、蕪村風あり、曉台風あり、一茶風あり、乙二風あり、蒼虬風あり、然れども是歴史上の結果なり。どの風、どの派に拘らず、美なる者は之を取れ、美ならざる者は之を捨てよ
1. 世上蕉風を信ずる者多し。故らに奇を好んで檀林を奉ぜんというのは負惜みの痩我慢。痩我慢から出る者は少も文学に非るなり。系統より割り出したる俳句は文学に非るなり
1. 梅に鶯、柳に風、時鳥に月、名月に雲、名所には富士、嵐山、吉野等の趣向は陳腐というのは誰でも知っているが、春雨に傘、暮春に女、卯花に尼、五月雨に馬、紅葉に瀧、暮秋に牛、雪に燈火、凩に鴉、名所には京、嵯峨、御室、大原、比叡、三井寺、瀬田、須磨、奈良、宇津等の趣向の陳腐なるは深く俳句に入る者に非れば知る能わず
1. 趣向は成るべく斬新なるを要すが、時には此等の陳套を翻案して腐を新となし死を活となすの技量はあるを要す
1. 全く斬新なる趣向は見る者其巧拙を定むる能わず。美の極だ、拙の曲だとしても、後になって褒め過ぎや浅薄な考えを恥じることになるので、よほど熟吟熟考して後に褒貶す可し。是大家の上にも免れざる一弊なりとす
1. 趣向の上に動く動かぬと言う事あり。即ち配合する事物の調和適応すると否とを言う。上12文字又は下12文字を得て未だ5文字を得ざる時、いろいろに置きかえ見る可し。其置きかえるは即ち動くが為なり
        〇〇〇〇〇雪積む上の夜の雨              凡兆
という下12文字を得て後、上の句を様々に置きかえて見る。「町中や」「凍てつくや」「淋しさや」などあるが、芭蕉は「下京や」の5文字動かすべからずと言った。11句の推敲もゆるがせにすべからざることなり
1. 何という語句を置くべきかという場合に推敲するは普通のことだが、17字を成したる後、其句について一々動く動かぬを検することをしない。得意気に示して批判されると成程と思うことが多い。生前之を発見すれば一時の恥で済むが、死んで後は人の非難を如何ともする能わざる可し
1. 四季の題目で動き易き者を挙げれば
春風と秋風、暮春と晩秋、五月雨と時雨、桜と紅葉、夕立と時雨、夏野と枯野、夏木立と冬木立
等、余り懸隔し居る故、置き違えなどありえないと思うが、上手下手を問わず絶えずある事なり。只々熟練は常に之を省み、初学血気の士は全く不注意に経過するの差のみ
1. 俳句を学んで堂に入る者は意匠と言語と並び達せん事こそ最も願わしいが、雅樸の句では句調の和合に長じながら、婉麗の句では句調全く和合せざる事あり。能々注意研究を要す
1. 言語の上にたるむたるまぬという事あり。たるまぬとは語々緊密にして1字も動かすべからざるを云う。たるむとは1句の聞こえ自ら緩みてしまらぬ心地するを云う。琴の糸に同じで素人が聞いてもわかる。1句たるみあるやに感じるときは一々これを吟味すべし。どの語が不用なりとか、此語は短くしても事足りるとか、配置を変えればてにはの接続に無理を生ぜぬとかがある。趣向は老練の上にも拙なるあり、素人の上にも上手なるあり、只々句調のたるまぬ処は必ず老練の上の沙汰なり。古人の名句等に気を留めて見る可し
1. 句調がたるむ例としては虚字の多きものたるみ易く、名詞の多き者しまり易し。虚字とは第1に「てには」、第2に副詞、第3に動詞。たるみを少なくしようと思えばまずは「てには」を減ずるを要す
        ものたらぬ月や枯野を照るばかり                    蒼虬
必要なるものは月と枯野の2語あるのみ。下12字を云えば「ものたらぬ」の意を含み、上12字と云えば「照るばかり」の意も含まれるどころか、両方とも無用の語で、「月の枯野」とか「枯野の月」と言えば十分。同じ事を幾様にも繰り返さないと意が通じないと思うのは初学者や局外者の浅薄な考え
蒼虬が天保流の元祖にして当時の名家なるを思うと、誰か其面に唾するを欲せざらんや。蒼虬の句は偶々此悪句あるに非ず、彼の全集は盡く此種の塵芥を以て埋めらるゝ者なり。而して此派を称して芭蕉の正風なりというに至っては真に芭蕉の罪人なり
1. たるみにも程度あって、ある程度は許される。全体にたるむのは最も美か最も不美。一部だけたるむのは必ず悪し
1. 句調の最もしまったのは安永、天明。元禄は稍々たるむが、全体にたるんでいて、元禄の佳句は天明の及ぶ所にあらず。元禄の佳句には蘊蓄が多く、天明には少し。天保時代は総たるみにて1句の採るべきなし。和歌は万葉はたるみてもたるみかた善し。古今集はたるみて悪し、新古今はややしまれり。足利時代は総たるみで俳句の天保時代と似たり。漢詩にては漢魏六朝は万葉時代と同じくたるみても善し。唐時代はたるみも少く又たるみても悪しからず。俳句の元禄時代に似たり。宋時代は総たるみ。明清に至り大いにしまりたる傾きあり
1. 句のたるみし有様を比較するために、元禄、天明、天保の3句を列挙
        立ち並ぶ木も古びたり梅の花               舎羅
        二もとの梅に遅速を愛すかな               蕪村
        すくなきは庵の常なり梅の花               蒼虬
句の巧拙は別として、元禄(舎羅)の句はありのままのけしきを飾らずにたくまず裸にて押し出したる気味あり、天明(蕪村)の句は兎角にゆるみ勝なるものを一部も動かさじと締めつけたらんが如し。天保(蒼虬)の句はゆるみ勝なるものを猶ゆるめたらん心持あり。要するに元禄は自然なる処に於て取るべく、天明は工夫を費やす処に於て取るべし。天保に至りては元禄を摹(うつ)した積りだろうが何も取所無き事なり。此3体に於ける句法の変化を精細に知らざれば俳句の堂に上りたりと言えない。天保流の句を評して蕪村調等とは笑うに堪えたり
1. 元禄、天明各長所あり。何れに従うも善し。天工人工其極処は相一致する
1. 聖人は合羽の如し、胸に1つしまりだにあれば全体はふわふわしながら終に体を離れずというが、元禄調のしまり具合はまずこんなもの。天明調はどこ迄も引きしめて5分もすかぬ様に折目正しく着物来たらんが如し。天保調はのろまが袴を横に穿き祭礼の銭集めに廻るが如し。談話にたとえれば元禄の人は面白くもつまらなくも真実をありのままに話し、天明の人は上手に面白く嘘をつき、天保の人はありうちのつまらぬ話を真実らしく話して其実はそれも嘘なりけんが如し
1. 四季の感情は天然を見る人同様に感じ居る所だが、俳句詩歌等に深き人は四季の風情にも自然に精密に発達し居るは論を待たず。山川草木の美を感じて始めてそれを詠ずべし。美を感じること深ければ句も亦美なるべし。山川草木を識ること深ければ時間に於ける変化、即ち四時の感を起こすこと深かるべし。天然を研究して深き者が深思熟慮したる句を示しても初学の人は美を感じないのは、天然に美の分子あるを知らざればなり
1. 作句には京は春、奈良は秋を可とすというが、四季折々の良さがあるし、同じ奈良でも場所によって最適な季節がある。春は美しく面白く、夏は大きく清らかに、秋は古びてもの淋しく、冬はさびてからびたる感あり
1. 俳句四季の題目の中に人事に属し、しかも普(あまね)く世人に知られていないものは季の感が薄く、詠みにくい。時候の決まった祭を詠み込んでも、読む人は祭を知らなければ何の感も起こさない。見聞少なき人事を詠ずるは、雑の句を感ずると同様の感ありて無味を免れざるなり
1. 蛙という題目は和歌以来春季に属すというが、夏季の感を起こす傾向あり。春季と定めたのは普通の感情に逆らっている。殊に芭蕉の名句は夏季の感も起こさず、雑の句と同一の感あるのみ
1. 第1期は誰でも修し得べく、第2期は稍々専門に属す。幾多の修行学問を要し、天才ある者も無き者も遅々として順序を追って階段を踏まなければならない。天才ある者却て無き者に劣る事あり。蓋し天才は常に誇揚自負の為に漸次抹殺せらるる者(?)なればなり
1. 古俳書を読むには歴史的、個人的の研究を要す。各流派の相違と興亡の変遷の原因とは歴史的研究の主たる者。各俳人の特色と其創開せし流派と模古せし程度と師弟の関係とは個人的研究の主たる者。両方相俟って全体が分かるものであり、俳諧を研究する者は和歌、漢詩、西詩をも知らないとお互いの関係が分からない。文学者は学問無かるべからざるなり
1. 作句には空想に倚ると写実に倚るとの2種あり。初学者は概ね空想に倚るが、空想が盡きれば写実に倚らざるを得ない。写実には人事と天然あり、偶然と故意あり、人事の写実は難く天然の写実は易し。写実の目的を以て天然の風光を探るのは数十日の行脚するだけで十分だし、半日郊外に散歩するだけでもいい。晩餐後の運動に上野、墨堤を逍遥するも豈2,3の佳句を得るに難からんや。花晨(あした)、月夕、午烟(けむり)、夜雨いずれの時でも俳句になるし、山寺、漁村、広野、谿流どこでも俳句になる
1. 写実目的の旅なら汽車では役にたたない。草鞋で歩くが宜し。洋服蝙蝠傘より菅笠脚絆の一人旅殊に善し。行手を急ぎ路程を貪り体力の限り歩くのでは却て俳句得難し。知らぬ地に踏み迷い足を引きずりてようように夜山を越え山下に宿を乞いたるなどはこの限りに非ず
1. 普通に旅行するときは名所旧跡を探るを常とす。俳句にもいいが、普通の景色にも無数の美を含むことも忘るべからず。天然の美を探れば、鳥声草花我を迎うるが如く、雲花月色我を慰むるが如く感ずべし
1. 芭蕉は富士、吉野の句なしと告白。松嶋でも1句を得ざりし。多くの人が此れ等の地で俳句を作っているが、美術文学を解せざるの致すところか。富士山の形は美術的ならず、只々日本第1の高山で、神聖なものとされたがその点は種々言い盡され陳腐化している。吉野、松嶋でも天然の美はあるが美術的ならざるなり。世人は奇を以て美と為すが誤り。古来松嶋の名詩歌なく其名画無き固より其処なり。吉野は我之を知らないので茲に論じない
1. 試みに山林郊野を散歩して其材料を得んか。風流はいづくにもある可し
1. 空想より得た句は最美ならざれば最拙なり。最美は稀で、作句時は最美と思っても時がたつと嘔吐を催すほど嫌味な句が多い。写実なら最美は得難けれど第2流位の句は最も得易し。且つ写実的のものは何年経て後も多少の味を存する者多し
1. はじめは空想ならでは作り得ぬを常とす。分かってくると写実ほど面白く作り易きはない。空想の陳腐を悟り写実の斬新を悟るも亦此時にあり。油絵師が、画に於ても空想を以て競争すると老練の者必ず勝つが、写生では少年の画く処の者、亦老熟者を驚かすに足るというが真なるかな
1. 空想によって俳句を作る時、瞑目して天上の理想界を画き出してもいいし、机頭手燭を擁して過去の実験を思い起こすも可。古俳書の他人の句中から新思想を得るも可。数人相会して、運座、競吟、探題などするも可
1. 課題を得て空想上より作句する時、難題だと老練の作者と雖も苦吟の余り見るに堪えない拙句を為す事あり。俳諧問答に許六が題詠の心得を記している
師の云発句案ずる事諸門弟題号の中より案じいだす是なきものなり、余所より尋来ればさてさて沢山成事なりと云えり、予が云我あら野猿蓑にて此事を見出したり、予が案じ様たとえば題を箱に入れて其箱の上にあがって箱を踏まえ立ちあがって乾坤を尋ると云えり
蓋し是題詠の秘訣なり
1. 空想に偏すれば陳腐に墜ち易く自然を得難し。写実に偏すれば平凡に陥り易く奇闢なり難し。空想に偏する者は目前の山河郊野に無数の好題目あるを忘れ徒に暗中模索する傾向あり。写実に偏する者は古代の事物、隔地の景色に無二の新意匠あるを忘れて目前の小天地に跼蹐するの弊害あり
1.空想でも写実でもなく、半ば空想で半ば写実に属する一種の作法あり。小説、演劇、謡曲等より俳句の題目を探り来り、絵画に意匠を取り、他国の文学を翻訳する等是なり。此の手段甚だ狡獪にして労力を使わず俳句を得る事ありと雖も、老練せざる者は拙劣の句を作って失敗すること多し。夫々に長所と短所は必ずしも一致しない
1. 壮大を好む者総てに大の字を付して無理に壮大にしようとするのは往々徒為に属す。小さい者に大を着ければ大きいものとなるが、もともと大きい物に付けると、却て其物に区域があるが如き感を起こさせ、却て小ならしむる所あり。大空、大海、大川、広野の如し
1. 滑稽も亦文学に属す。俳句の滑稽と川柳の滑稽は其程度を異にす。俳句の滑稽は其間に雅味あるを要す。俳句にして川柳に近きは俳句の拙なる者で、川柳とし見ればさらに拙なり。川柳にして俳句に近きは川柳の拙なる者、若し之を俳句として見ればさらに拙なり
1. 狂体を好む者あり、狂体亦文学に属すが、意匠の狂と言語の狂が相伴うを要す
1. 熟練でも、中七の終りにある「や」の字を嫌う人多し
        雞の片足づゝや冬籠                 丈草
初学がやると全体にたるみを生じることが多いためだが、此句などたるみはなく、嫌う理由はあまりない。鳴雪翁曰く、中七の「や」は兎角たるむが、下5に動詞や形容詞を交えれば多少の調和得べし
1. 熟達した人でも猶解し難き古句あり。其語句普通で全首の意通じ難きは熟々思案すべし。その1句が理解できないだけでなく、俳句のある部分に於て至らざる所ある証拠。ありもしない意味をこしらえて句に勿体をつけるのは古の注釈家の弊なり。含有する意味も探らずに難解の句を放擲するのは今の学生の弊なり
1. 第2期に入った人は普通の句は苦も無く解するが、用意周到なる、針線の緻密なる者になると理解できない。大家苦心の句を把ねて平凡としてしまう事あり。以下古句の用意周到なる所を指摘し、多少の評論をする
        禅寺の松の落ち葉や神無月                  凡兆
人は此句を評して、只々神無月の寂寞たる有様を現わしただけといい、禅寺の松葉と見つけたる処神韻ありという。禅寺の松葉を見て10月ごろの淋しさを現わすなら、神無月ではなく霜月の方がしっくりくる。偶々句調の都合で神無月となっただけというが、それは凡兆を知らないから。元禄の大家が霜月に動くと知りながら字数の都合だけで神無月と置くことなどありえない。用意周到を以て勝りたる凡兆の俳句緊密にして一字も動かす可らざる猿蓑を見て知るべく、此点に於て飽く迄強情なることは去来抄にも見えたり。10月は多くの木の葉の落ちる時なので、俳諧に於て落ち葉を10月の季とし、松の落葉の如き常盤木の落葉は総じて夏季に属すが、松の落葉は四時絶えないので、此句意は神無月の頃はいろいろな落葉で歩くと音がするが、独り禅寺は松の古葉少しばかりこぼれたるばかりにて清らかに淋しく禅寺の本意なるべきと口ずさんだもの。更に言い換えなば、どこも落葉だらけでむさくろしきに、此禅寺は松ばかり植えているのでこの頃さえ普通の落葉はなく松葉だけがこぼれて禅寺めきたるとなるべし(南禅寺より思いついたのだろう)。是に於てか神無月の語は1歩も動かざるを見る可し。霜月では落葉の時候も過ぎ、吹き散らし掃き除けたるかも測るべからず。松の木ばかりの禅寺という意を現わすには足らざるなり
        鐘楼へは懲りてはひらぬ燕かな            也有
也有は狂文を以て名高し。数千句中八九割は狂体若しくはしゃれ滑稽に属するが、此句ほど諧謔の甚だしきものは類を見ない。此句の精神は「懲」一字にあり。人の解する能わざる所また此の語にあり。燕は真一文字に飛ぶので、鐘撞堂の中を目掛けて飛び込んだところ、思わず釣鐘に頭を打って痛い目に遭ったので、鐘楼に入ろうとするとまた痛い目に遭うのではないかと懲りて入らないさまを歌う。実際にはあり得べしとは思わねど、燕の向う見ずに飛ぶ所より連想して此の諧謔をものしたのではないか。この解釈は牽強との批判もあるが、「懲」の意、燕の特性を考えれば、決して牽強ではないことを知るべし。但し此句は諧謔に過ぎて品位最低し。佳句とは言ってはいけない。川柳調に近きを疑い、俳人にして信じられないというが、也有の全集を見る者、誰か也有の諧謔に過ぎたるを知らざらん。巧拙は異なれど其意匠の総て諧謔に傾き頓智による処盡く相似たり。以て全豹を押すべし(全豹一斑)
        飛び入りの力者怪しき角力かな            蕪村
俳諧に深く幾多の秀句を為す人でも、猶且つ此句を捨てて平凡取るに足らずと為し、少しも顧みず。解釈を聞いてみると浅薄にして月並な理解しかない。此句蕪村集中の傑作どころか下位にあるが、大家の技量は往々悪句により評定される事あり。此句の精神は「怪」の一字にあり。「怪」は総て人間わざならぬことに用いる。辻角力に飛び入りした見知らぬ者が圧倒的な力で皆をなぎ倒すのを見て観衆があれは誰だと囁き合っていると、行司が力自慢を懲らしめるために来た天狗様だというので、皆顔見合せて襟元寒しと身震いしている様を蕪村が17字に包含させた。角力は難題なり、人事なり。此錯雑せる俗人事を表面より直言せば俗に墜ち、裏面より如何なる文学的人事を探り得たりとも、千両幟は終に俳句の材料とはならざるなり。然れども蕪村がこの俗境の中より多少の趣味を具する此詩境を探り出して、しかもそれを怪の一字に籠めたる彼の筆力に至っては、俳句300年間誰一人其塁を摩する(?)者かあるべき。一字一句金鉄の如く緻密に泰山の如く動かざる蕪村の筆力を知るべし
1. 言い難きを言うは老練の上の事なれど、そは多く俗事物を詠じて成るべく雅ならしむる者のみ。其事物如何に雅致ある者なりとも、17字に余りぬべき程の多量の意匠を17字の中につづめん事は殆ど為し得べからざる者なれば、古来の俳人も皆是を試みざりしに似たり。然れども一二此の種の句なくして可ならんや。池西言水は実にその作者なり
1. 1つの意匠あり。極めて古き代の事を、恰も当時自身が為したかのように詠ずるなり。昔老人を山谷に捨し地方あり。信州の姥捨山はその遺跡。冬の夜の寒く晴れ渡る満天糠星のこぼれんばかりに輝ける中を、姥捨てに行かんなんとて湯婆(たんぽ)を温めよと命ずる。是だけの趣向を17字につづまるべきと誰しも思わんを、さて詠みたりや
        姥捨てん湯婆に燗(原本は火偏ではなくひよみのとり)せ星月夜   言水
情景写し出して少しも窮する所を見ず。真に是破天荒と謂いつべし。(湯婆に燗せとは何のためにするのか解っていない)
        見の内の道を覚ゆる清水かな               麥翅
品高き句にはあらぬを、能くもかかる事まで俳句にはしたるよと思わしむる処、作者の働きなり。句意は三伏の暑き天気に乾いた喉元を濡らそうと冷たい水を飲むと、その水が食道を通過する際も胸中冷ややかに感ずる所を詠みたるなり
        人の性善       折つて後もらふ声あり垣の梅                 沾徳
意匠卑俗にして取るに足らずと雖も、中七の働きは俳句修学者の注意せざるべからざる所あり。余所の垣根の梅を折って帰りしなに貰いますよと一言の捨言葉を残したのを「もらう声あり」と手短に言う、さすが老熟と見えたり。但し此句の価値はない
        絶頂の城たのもしき若葉かな               蕪村
絶頂という漢語あるを見て窮策に出でたりとか、ことさらに奇を好みたりという者あらん。蕪村は奇を好まず、窮策も取らざるなり。特にいただきとは言わずに絶頂といった所以は、強い語調が山愈々嶮なるを覚え、たのもしきという意益々力を得て全句活動すべし。若葉の候としたのも初夏草木の青々と茂りて半ば城楼を埋めたる処は最も城の堅固なるを感ずべし。冬季では空城古城の感が増すので「たのもしき」は不適当
1. 学生俳句に多くの漢語を用いて自ら得たりと為すも、佶屈に過ぎて趣味を損する者多し。漢語は以下の場合に限るべし
        漢語ならでは言い得ざる場合
        漢土の成語を用いる場合
        漢語を用いれば調子よくなる場合
1. 現時の新事物は俳句に用いて可なるも、俗野なる者多ければ、選択に注意が必要

第7    修学第3
1. 修学は第3期を以て終る
1. 第2期で既に俳家の列に入るべし。第3期は俳諧の大家になろうとする者のみ。一世の名誉に区々たる者の如きは入るを許さざるなり
1. 第3期は卒業の期無し。入る事浅ければ百年の大家たるべく、深ければ万世の大家たり
1. 第2期は天凛の文才ある者能く業余を以てこれを為すべし。第3期は文学専門の人に非ざれば入ること能わず
1. 第2期は浅学なる者、懶惰なる者、猶能く之を修むべし。第3期は励精なる者、篤学なる者に非ざれば入ること能わず
1. 第2期は知らず知らずの間に入り居る事あり。第3期は自ら入らんと決心する者に非ざれば入るべからず
1. 文学専門の人と雖も自ら誇り他を侮り研究琢磨の意無き者は第2期を出ずる能わず
1. 一読を値する俳書は得るに随って一読すべし。読み去るに際して其書の長所と短所とを見るを要す
1. 俳句について陳腐と新奇とを知るは最も必要なり。両者を判するのは修学の程度によってその範囲を異にす。俳句を多く見れば陳腐を感ずることも多い。第2期にあって初学者の俳句を見れば只々その陳腐なるを見る。第3期にあって第2期を見ても同じこと。能く新陳両者の区別を知るには多く俳書を読むに如かず
1. 業余を以て俳句を修する者、自己の句と古句と暗合するあるも妨げず。只々第3期に在る者は暗号を以てその陳腐を抹殺し得べきに非ず。偶々以て自己の浅学を証するのみ
1. 空想よりする者、写実よりする者、共に熟練せざるべからず。非文学的な者をして成るべく文学的ならしむるの技量も具備せざるべからず
1. 空想を写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず。空想に偏僻し写実に拘泥する者は固より其至る者に非るなり
1. 俳句の諸体に通ぜざるべからず。自己の特色無かるべからず
1. 俳書を読むを以てかんぞくせば古人の糟粕を嘗むるに過ぎざるべし。古句以外に新材料を探討せざるべからず。新材料を得べき歴史地理書等之を読むべし。若し能うべくんば満天下を周遊して新材料を造化より直接に取り来れ
1. 俳句以外の文学にも大体通暁せざるべからず。第一和歌、第二和文、第三小説、謡曲、演劇類、第四支那文学、第五欧米文学等なるべし
1. 文学を作為するは専門家に非れば能わず。和歌を能くして俳句を能くせず、国文を能くして漢文を能くせざるが如き、強ち咎むべきに非ず。然れども文学の標準は各体に於て各地に於て相異あるべからず。故に和歌の標準を知りて俳句の標準を知らずという者は和歌の標準をも知らざる者なり。標準は文学全般に通じて同一なるを要するは論を俟たず
1. 文学に通暁せざるべからざるのみならず、美術一般に通暁せざるべからず。文学の標準は絵画、彫刻、建築、音楽にも適用すべし
1. 俳句の標準を得る者、和歌を解釈し得ざれば其美不美を断ずべからず。その他の文学に於ても同じ。故に俳人は深く入るとともに博く通ぜざるべからず
1. 文学に通暁し美術に通暁す、未だ以て足れりとすべからず。天下万般の學に通じ事に暁らざるべからず。然れども一生の間に自ら実験し得べき事物は極めて少数なり。故に多く学び博く識らんと欲せば書籍によるを最良しとす。歴史も地理も、其他雑書皆多少の好材料を与えざるは無し
1. 極美の文学を作って未だ足れりとすべからず、極美の文学を作る益々多からんことを欲す
1. 一俳句のみ力を用いること此の如くならば則ち俳句在り、俳句在り、則ち日本文学在り

第8    俳諧連歌            明治281022日――1231
1. 易、源氏、七十二条など其外種々の名称あれど多くは空名に過ぎず。実際に行わるる者は歌仙を最も多しとし、百韻これに次ぐ
1. 歌仙は36句を以て成り、百韻は100句を以て成る。長句、短句に拘らず之を1句という。発句と最後の1句を除き各句両用なるを以て、歌仙には長短合わせて35首の歌、百韻には99首の歌がある
1. 歌仙は長過ぎず短過ぎず、変化度に適せり。故に芭蕉以後歌仙最も多く行われたり。初学の人連歌を学ぶ、亦歌仙よりすべし
1. 連歌は変化を貴ぶ故に、其打越(1句置いて前の句)に似るを嫌う。第3句は第2句に付くが、第1句とはなるべく懸隔せるを要す。13句とも2句に付くので同一の趣向になり易く、或は黒と白、男と女のように正反対の趣向も亦変化せざるものなり
1. 2句「去り」、3句「去り」とは、2句、3句の間其物を詠み込むことを禁ずという法則。「竹は木に2句去り」とは、木を詠み込んだ後の2句には竹を詠んではいけないという者で、愚人に連歌、連句を教えるためのもので、苟も変化の本意を知る者はかかる人為の法則に拘泥せず、思うままに馳駆して可なり。芭蕉一派の連句は、其古格を破って縦横に思想を吐き散らせし処常に其妙を見わす
1. 古来定め来たりし去り嫌いは稍々寛に過ぎるを憂う。2句や3句去りというもの多くは5句も6句も去らざれば変化少なかるべし
1. 歌仙は、表6句、裏12句、名残りの表12句、名残りの裏6句に分ける
1. 月花の定座なる者あり。月と花とを詠み込まなければならない句をいい、月の定座は表の第5句、裏の第7句、名残りの表第11句とし、花の定座は裏の第11句、名残りの裏の第5句とするが、時に応じて種々動く可し
1. 表6(百韻は8)には神祇、釈教、恋、無情、述懐、人名、地名、疾病等を禁ず。窮屈なようだが、一理あって従うべし。歌仙全体を1つの物と見る時は、表は詩の起句の如し、故に此処は成るべくすらりとして苦の無き様に致し、以て後段に変化の地を残し置くなり。2の表は更に変化を要する所なりとぞ
1. 脇(2)には字止という定めあり。字止は名詞止なり。第3には「て止」という定めあり。あながち固守すべきにもあらねど、亦一理なきにもあらず。初学は古法に従うべし
1. 春秋2季は3句乃至5句続き、夏冬2季は1句乃至3句続くを定めとす。時の宜しきに従うべし
1. 月は必ずしも秋月なるを要せず。殊に裏の月は秋月でない方が却て宜しからん
1. 花は櫻花に限らず、梅、桃、李、杏固より可なり。他季の花を用いるも亦可なり
1. 恋を1句にて捨てずという定めあり、従うに及ばず
1. 百韻は初折表8区裏14句、23の折表14区裏14句、4の折表14区裏8句なり
1. 百韻の月の定座は表の終より2句目、裏の9句目。花は裏の終より2句目。百韻では殊に月花の定座に拘泥すべからず
1. 百韻は長いので同一の趣向に陥り易いので、全体の変化に注意する事最も肝腎。11句の付工合も歌仙に比すれば親句(ぴったりと付いた句)多かるべし。然らざれば窮屈な百韻となり了らん
1. 規則付様など一々に説明し難し。古書に就いて見るべし
1. 俳諧連歌における各句の接続は多く不即不離の間にあり。密着せる句多くは佳ならず。無関係なるが如き句必ずしも悪しからず。切なる関係なしと見えたり前句と連続しない処に多く妙味を存するなり。召波13回の追悼会での18句からなる俳諧連歌の一例を挙げて説明

Ø  独吟百韻              明治281229
この秋須磨に行った際腰骨痛みて動けなかったこともあって慰みに百韻に及ぶ

Ø  俳句24           明治291月――4
1.   真率体
雄壮体とも。体は虚字なり。故に巧拙善悪の意を含まず。況して此区別曖昧を免れず。君子幸いに粗鹵を咎むる莫れ
        ひらひらと蝶々黄なり水の上
2.   即興体
真率体に似て人事に関する者。天然にてもきわどく変動するものは即興体。真率体に比べて多少の複雑と工夫を許す
        一銭の釣鐘撞くや昼霞
3.   即景体
真率体に似て天然を主とする者。人事にても天然的客観的に見る時は猶即景体なるべし。真率体に比べて多少の工夫を増し、しかも静止の方に傾けり
        きらきらと鳥の飛び行く春日かな
4.   音調体
俳句は皆音調在るが、此処で音調体というのは趣向はさしたる事なくて只々音調のみめずらかなる句をいう
        うれしさの過ぎぬ正月四日なり
5.   擬人体
人間以外の万有を人間に擬えて詠む。動物の挙動は之を人間の如く形容し、植物、天象、山川、器物等は之を意識あるものの如く形容する
        鶯や顔見られたる道のはた
6.   廣大体
空間の広き句。千里万里というも広大なれども、それだけで広大の感がなければ下手の句。12町の処も言い様によって広大に感じないことなない
        其中に富士ほつかりと霞かな
7.   雄壮体
勢力の強き者をいい、空間も広く、従って広大体に似た所あり。広大体は静かだが、雄壮体の空間は動く
        大凧に近よる鳶もなかりけり
8.   勁抜体
雄壮体の小なる者。静止せる空間にても高く聳えたるものは雄壮勁抜の感を起こすことあり。物理学に所謂潜伏力のあるが為なり
        大砲や城跡荒れて梅の花
9.   雅樸体
陰に属する句、消極的なる句をいう。淋しきもの、古きもの、寂びたるもの、衰うるもの、貧しきもの、皆雅樸なり。普通に古雅ともいう
        侘びぬれば田螺(たにし)鳴くよりよもすがら
10. 婉麗体
見た所の美しいものを詠めるなり。四季にては春最も艶に、人間にては上流階級及び花柳社会最も艶なり
        春風に尾をひろげたる孔雀かな
11. 繊細体
空間の小さき者、勢力の弱き者をいう。広大や雄壮の消極も繊細なり
        鶯の足跡細し鍋の尻
12. 滑稽体
一読して笑を催さしむる句。川柳のひたすら噴飯せしむるものとは異なり、俳句は滑稽の内に品格あり趣味あるを要す
        大佛の霞まぬやうに御堂かな
13. 奇警体
めずらかに人の目をさますような意、あらぬ事をあるが如く詠み、さまでなき事を仰山に形容する類をいう
        台湾や陽炎毒を吹くさうな
14. 妖怪体
妖怪の現在する処、将に現れんとする凄涼の光景を詠む。妖怪でない者を妖怪の如く思いなすも猶妖怪体なるべし
        春の夜や屏風の陰に物の息
15. 祝賀体
人を祝う句。千代万代の長寿を祈り常磐堅磐に栄えん事を期す、固より祝賀の本意なり。されども時宜によりて頌中規を加えたる、あるは何事もなく第三者の地に立つも亦祝賀なるべし
        賀新婚          比翼連理棚の雛と契るべし
16. 悲傷体
悲しみ痛むさまを述べる。人のみまかりたるを悼める、不幸を慰めたる、古今の変遷を悲しみたる、身の上を嘆きたる、皆悲傷体
                        いたはしや梅見て人の泣き給ふ
17. 流暢体
句調の安らかに語呂の滑らかなる句。大方其意味にかかわらねば区域極めて広し
        春風や一ぜんめしの大行燈
18. 佶屈体
流暢体の反対、句調のぎくぎくと語呂の難しきさまなり。調子にさせる窮屈の処なくとも意匠の錯雑したる者
        不忍に蓮の芽見えず春の水
        元禄十五年極月十四日夜の事なり
19. 天然体
天然物を詠ずるの意。以て人事と分かつなり
        そぼふるや雉子の走る焼野原
20. 人事体
天然体の対。多少天然を交えたりとも人事の主たる者は猶人事体
        (いろり)塞ぎて草鞋はき居る首途(かどで)かな
21. 主観体
天然と人事とに関わらず、作者の意思、感情を現わしたるを言う。作者の知識にてある物の関係を定め是非を判じたるが如きも主観体
        福寿草貧乏草もあらまほし
22. 客観体
天然と人事とに関わらず、客観に見たるをいう。作者の意見、判断等を交えざるもの
        水底に魚の影さす春日かな
23. 絵画体
明瞭なる印象を生ぜしむる句。多くの物を並列したる、位置の判然したる、形容の精細たる、色彩の分明なる等是なり
        茶店あり白馬繋ぐ桃の花
24. 神韻体
即かず離れず、実ならず虚ならず、主観ならず客観ならず、之を神韻体という。主客両観を区別し難き者、二事二物の関係明らかならぬ者多し。主とする所只々精神韻致のみ
        浅芽生(あさぢふ:丈の短い茅)や春風吹けば猫二匹

Ø  俳句問答              明治2952日――913
度外に置かれた俳句は士君子の注目する所となって、賛成反対の声や様々な疑問、嘲弄を受けるのも隆盛に赴かんとするしるしなるべし。吾世の毀誉に関せず、自ら行かんと欲する道を行くが、疑問に対しては答え、誤り思えるに向かっては誤りを正すことも吾等の義務
〇問   高尚なる和歌漢詩を捨てて野卑なる俳句を志すこと何故ぞ
     韻文に高尚、野卑はない。作る人の心1つで、月並連の俳句が野卑だと言って俳句一般を野卑というのは、五右衛門ある為に人間を皆盗賊というようなもので いわれなきこと
〇問   韻文の形の上に高尚と野卑の区別なきか
     全く無しとにもあらず。長歌類にて言えば五七調は重々しく七五調は軽々し。重き者は高尚に傾き易く軽き者は野卑に流れ易し。短歌と都々逸では七音で終わる短歌は重く、五音の句で終わる都々逸は軽し。片歌と俳句では片歌重く俳句軽し。高尚と感じ野卑と感じるのは、其思想に因る。重き者固より善いが、重ければ総て善いわけではない。軽くても俗気無ければ面白きもの多し。五七調を取って七五調を捨てるのは偏見であり、七五調ばかりを佳句と思えるは軽快を知りて荘重を知らざるなり。短歌を取って俳句を捨てるも偏見だし、俳句を取って和歌を捨てるも偏見
〇問   「雪隠の壁崩れにけり春の月」「街道は馬糞多し桃の花」は題と申し調と申し感服するが、其臭気の程も思いやられる。此れ等を妙句と言えるか
     巧拙は比較的のもの、上乗とは言わないが、月並連に比してさまで劣ると覚えず。馬糞の句など古来枚挙に堪えず。此等の題目好んで用うべきものに非れども、吾等の最も嫌うのは銅臭(銅銭の匂い、金銭を貪り、金銭によって官位を得るなど、金力に任せた処世を卑しむ語)。吾等より見れば世上の俳句(和歌、小説等も同じ)銅臭無き者は極めて稀なり
〇問   近頃の句字余り多いが差支えなきや
     俳句の定義を付したる上ならでは論じ難し。吾ははじめより俳句を作ろうとして骨折るのではなく、只々感情を見わさんとて骨折るのみ。其結果が17字か字余りか予期できない
〇問   俳句の名義はともかく、字余りでは音調が滑らかに行かないようだが如何のものにや
     音調の善し悪しは17字の中にも区別あり、況や字余りには猶更あるが、一概に言うのは誤りで、琴柱に膠する者(状況変化に対応できない譬え)、美の標準の誤れる者ではいけない。従来我邦の美術文学には優美を主とせり。其優美というはなめらかと同じ意に用いられたるが如く、歌などはやさしきことをのみ貴びて今に及べり。吾は美術文学何にてもやさしきと強きと相対して始めて面白きものなりと思う。強き句をものせんとすれば自然と漢語を用い長句法を用いることが多く、強き句にはことさらに字を余して句調を取る事少なくない
〇問   雪隠の句に関し、斯くの如ききたなき題目は決して吟詠の好題目にあらず、詩の神機妙霊は自ら別に存するものと信ず
     「きたなき」の一語で排斥するが、若しこの論拠を以て進まば金殿玉楼は野店茅屋よりも美(美術の美なり)に、月卿雲客は傖父老媼よりも美に、麟脯熊掌は豆腐菎蒻よりも美なりと言わざるべからず。是固より今日の幼稚な歌人の幼稚なる感情にして、少し心ある美術家、文学者は斯かる盲見を抱かざるべし。芭蕉一派の俳人は美の全体を以て野店茅屋の中に存在せりと認めし傾向さえある。牛溲馬勃亦必ずしも「きたなき」の一語を以て排し去るを得んや。美は比較なり
〇問   俳句の内容如何
     美術文学の定義さえうまく言えない状況で、その内容を明言する能わず。俳句は17,8字に限った文学だが、幾字迄を俳句とし、音調には幾何の変化を許すやというに至っては、古来一定した説もなく、亦今日之を定べき方法も知らず。22,3字の句を俳句というか片歌というか新体詩というか各人の自由でいい。名目は文学を作る上に不用。必要だとしても到底画然たる区別を付すべからざるなり
〇問   俳諧の上に於て四季は何を以て境とするや
     立春、立夏、立秋、立冬を以てす。故に太陽暦の新年は冬の中なり。然れども冬なるが為に新年の句を詠まずなどということはあらず、但し気候に関しては多少感情の上に相違あるべし
〇問   新年の句に用いるべき題は、太陽暦、太陰暦共に同様と心得て然るべくや
     大体は同じだが、「今朝の春」「花の春」「國の春」などの題は少し遠慮すべきか。立春より1か月も前に春というのは如何か。太陰暦の時でも必ずしも立春後に用いたるにはあらで、只々年始の意に用いたるが多ければ、今日とても年始に用いられずとも言い難し。陽暦の年始に春は不穏と思ったら使わないか、または春の代わりに年と言えばいい
〇問   新俳句と月並俳句の違いは、それぞれの句作の主眼は何か
     新俳句が何をいうか知らないが、我俳句について言えば
1、直接に感情に訴えんと欲し、知識に訴えようとはしない
2、意匠の陳腐なるを嫌い、新奇を好む
3、言語の懈弛(たるみ)を嫌う
4、音調の調和する限りに於て雅語、俗後、漢語、洋語を嫌わず
5、俳諧の系統無く又流派無し。俳人を尊敬するのは其著作が為なり。反対流派に於て佳句も悪句も認む
〇問   俳句に理屈を云う事の悪きは分かったが、何を以て理屈というか
     理屈とは感情にて感じ得べからず、知識に訴えて後始めて知るべき者を謂う。全く知識の活動を許さずというに非ず。記憶は知識に属すれども短時間の記憶はほとんど感情と区別できず、之を用いるを妨げざるがごとし。されば理屈多き句は何の面白き感をも起こさざるべく、無趣味とも趣味少なしとも評する
        つゝしめや火燵にて手のさはること                  春澄
全く理屈ばかり並べたる無趣味の極度。教訓というは理屈の内なれば文学にては取らず
        駒牽の木曽や出づらん三日の月                      去来
勘定の句だと言って芭蕉が笑った。勘定とは理屈の内なり。多少の趣味を具え春澄の句とは比較にならない。駒牽は木曽などから京で815日に行われる駒迎の式に出るため3日頃に出立すると想像する処、感情即ち理屈となるが、全くの空想ではなく、83日の月を見て駒牽に連想し、終に「木曽や出づらん」と想像、且つこの想像は単に理屈の上ではなく三日月と最も善く配合すべき材料を取り得たるというべく、若し之を理屈無しとして吟ずれば微妙なる感も起こし得べきなり。若し中七を「木曽を出でにけり」とすれば、句は拙になるかもしれないが、理屈は全く消える
        名月や裏門からも人の来る
「も」の字が理屈を含み、この一字の為に全句を殺した。「も」とは2個以上の事物を対照するもの。表からも裏からも人が来たということになると、一目には見得べからざる場所と稍々長き時間とを要する以て、人は知識の上に事実を納得するに止まり、感情の上に趣味を感ずること無し。「名月の夜人裏門より来る」という其一場の光景を言えば一の佳句となるべし
〇問     「冬牡丹千鳥か雪の時鳥 芭蕉」の句意は
     冬牡丹と夏の牡丹と対し千鳥と時鳥と対したり。冬牡丹の時、千鳥の鳴くこと恰も夏の牡丹の時、時鳥の鳴くに等しければ、千鳥を時鳥に譬えて雪中の千鳥を雪の時鳥というべしと戯れたり。此句理屈にして面白からず。但し句法には多少の熟練を現せり
〇問   「田三枚祖父が世からの田植かな」は、田家の情景自ら備れりと思うが如何
     何の景も現れず、只々事実の筋書きの感あり。「祖父が世からの」という来歴を上に冠せては田植まで虚に聞ゆるを奈何せん
〇問   老鼠堂永機翁作「夕立の戻りの雲や夜の雨」「名月やさすがに雲も捨てられず」
     老鼠や永機という人は何人もいるので誰の句だかわからない。句法のしまりたるは多少の熟練を証せりといえど、意匠軽く重み無し。前者は面白し。名月は俗気多く最も厭うべし
〇問   字余りは如何なる場合に於て許されるか
     字余りにして面白き処を字余りにするのみ
〇問   (じゅん:ぬなわ)菜は千年近き沼でないと生えないという。「蓴菜や千年の沼大蛇住む」の句如何
     恐ろしき感起こし難きように覚ゆ。又蓴菜と大蛇とは形状又は其他の点に於て配合可ならざるを覚ゆ。故に此句を読んで何等の感をも起こさず
〇問   他人の句の翻案でも猶文学上の佳句と称すべきにや
     翻案は剽窃に非ず。翻案固より可なり。原句に勝れば翻案故に価値を落とすこと無し
〇問 雑の句は如何なる場合に詠むべきか。又その価値如何
     雑の句は古来作例少く、面白しと思う者無し。面白しと思う者は表面に季がなくても自ら季を含むことが感ぜらるる句なり
〇問   槿(むくげ)花と木槿の区別如何
     槿花は朝顔なり。木槿はむくげで、垣などにもして白と紫の花あり。東京の俗語「はちす」という
〇問   名詞だけ並べててにはない句は如何
     てにはなくとも俳句にはなるが、一処の景色でないと俳句にはならない
〇問   俳句を学ぶとき古人著書中初心に適するもの何なりや
     初学者を指導すべき為に作った書((からむし)環、真木柱の如き)も無いことはないが、それよりも初学者には類題の集こそ善し。俳諧七部集、蕪村七部集、類題発句集、俳諧新選、題林発句集、三傑集、故人五百題等先ず読むべき
〇問   「百姓の雨乞するや村社」は平々凡々と思うが如何
     平凡の中にも取るべき者あるが、此句は取るに足らざるなり。雨乞と云えば普通に百姓の雨乞だし、雨乞は村社でするので、此句雨乞を解釈したに等しく、何等面白味感ぜず。恰も「裸で泳ぐ」というが如く、到底俳句とは言えない
〇問   題の主となり居ざるものあり
     題を主とするか否かは各自の好みに従いて可なり。漢詩とは違い、和歌の題に比しても多少寛なる処あるべし。只々題を詠み込みてだにあらば可とす。其主客を問わず。梅の題に梅と鶯を合わせ詠むも、そを題にかなわずとは言わず。但し之が言えるのは、花、月、雪など簡単な者だけで、送別、祝賀、題東坡赤壁図など複雑な題を詠む時は其字を詠み込むのではなく、その題意を取って詠むなり
〇問   蕪村や曉台も遠き名所は妄りに発句に詠むべからずと言うが如何
     席上にて名所の句を嫌うも理無し。只々未見の名所は詠まぬ方が善し。季節が違うだけならまだ許される。古来文学上又は歴史上に名を著したる地を、其歴史等に依りて主観的の句にしたるは、未見の地といえども許さるることあるべし
〇問   きりぎりす、こほろぎ、いとゞ、はたおりは皆同じ虫か
     こほろぎといとゞは同物。きりぎりすは東京等にてしか呼ばないが別物。こほろぎはきりぎりすよりも小さく色黒く縁の下にも鳴き、戸棚の中などにも潜み、東京で呼ぶ。はたおりは其声機織りに似たるより命名、きりぎりすと東京にてすいつちよという者のいずれか。古学者の説によれば、古のきりぎりすはこほろぎの事、今のきりぎりすは古のはたおりと言う。俳句で用いる漢字は、きりぎりすに蟋蟀又は蛬(こおろぎ)、こほろぎに蛼又は蟋蟀又は竈馬、いとゞには必ず竈馬を用う

Ø  我が俳句              明治297月――8
〇 美の客観的観察
文学的著作は著作者の嗜好を現したる者。嗜好とは各自の美と感ずる所の活動を謂う。嗜好に適するものを美と謂い、適さざる者を不美と謂うが、程度の問題。各自の遺伝、教育、経歴、周囲の状況等にもよって異なりというが、各自の嗜好の異同の上に正不正を知るべからざるか、未だ明答を得ざる所なり
真正の美の標準ありや。無ければ嗜好は個々別々で、癡(おろか)人夢を説くが如きもの
皆勝手に進む中でも、錯雑の中に些少の統一を認め、紛乱の中に一縷の秩序を見出したい
嗜好の変化に注目。美は事物を2分して其一方に多く他方に少し。変化は概ね進歩
更に注意を要するものは少数なる文学の識者(作家又は評家)の嗜好及びその進歩。識者とは文学的著作の如何なる部分に向かっても精密に之を比較判定するを得る者なり。斯かる識者についてその嗜好及び嗜好の変遷を見て一層明瞭なる美の区域を認め得るなり
〇 美の主観的観察
我が美の標準と文学的識者の標準とは大体において一致したりと信ず。自らの嗜好の変遷を振り返ってみると、わが相知れる幾多の人より多くの変遷を為し、邪路に迷いしこと深く且つ長かりしなり。我が嗜好の変遷を概括していえば、その美と感ずるもの漸次種類に於て増加し、程度に於て減少したるなり。宇宙到る処に美を発見せざること無く、又不美を発見せざること無し。美と不美とは各々或る一部分に遍在するものに非ずして、各々遍満する者なるを信ず。故に我は何れの部分よりなりとも、美を捉え来りて之を写さんと欲す。若し為し得べくんば総ての変化せる部分より美を捉え来りて之を写さんと欲す

Ø  質問に答ふ           明治298?
        水車二十日の月の落ちかゝる    「十日の月」と改むべし
此句「かゝる」の語にて切るるなり。切字とは俳句だけにあるものではなく、歌にも文章にもあって、切字無ければ文章にならない。切字無ければその言語文章は意味をなさない。俳句に限って用
いられる「や」「かな」があり、用いることが多きが為に、古来切字の説起こり、今日に至るまで俗宗匠が無学者を眩するの一材料と為り来れるなり。切字は無かるべからずと雖も、意味ある句には必ず切字あるを知らば、則ち意味あらば切字の穿鑿に及ばざるを知るべし
発句が立題を重視するのが定則と言うが余は従わない。題は句中に入り居れば十分で、必ずしもそれが主である必要はない。詠題の区域を狭めるだけで陳腐に傾く
季のある者が季の無き物を圧すとは多くの場合において可なれども、反対の場合も少なくない。芭蕉の句が祈祷になり教訓になるとてそれは文学以外の事なり。「ものいへば唇寒し秋の風」など芭蕉の悪句の一なり
        刈りこんだ麦積み上げぬ百日紅
麦は4月、百日紅は6月。粗漏から出たが、季寄などの掟ではなく、日本国中何処でも麦刈る頃は百日紅未だ咲き初めずとならば謝るのみ
        海見ゆる処を夏の座敷かな
夏の海の題に対し、夏座敷が主となっていると指摘するが、夏と海の字が入っていれば主客はどちらでもいい

Ø  獺祭書屋俳話正誤            明治291026日――1228
〇 嵐雪の項甚だ誤れり。大体に於てやさしきものとみて、総て其角の反対なりというのは嵐雪を取り違えている。蕉門中最も其角に似たる者は嵐雪。その句の佶屈さ、斬新さ、勁抜さ、滑稽さ、古事を使う処、複雑な事物を言いこなす処、其角に似て只々一歩を譲るのみ。其角、嵐雪が特に名を得たるは其俳句に必ずしも名句多しとのわけならず、寧ろ何でも言いこなす処、即ち両人が多少の知識学問を具えたる処にあるなり
        殿は狩りつ妾餅売る櫻茶屋
嵐雪句集の過半は前書ある句で、只々言いこなしの処に於て人を驚かす。言いこなしの力あるを頼みて、我から文学的の趣向を探ることに力めず、偶然に遭遇する雅事俗事一切これを俳句の材料として消化せんとしたるならん。理想の句少なしというが、多少の理屈を説きたる者は乏しからず。例えば
        三つの朝三夕暮れを見はやさん
擬人的、譬喩的の句甚だ多し。以下の如し
        四海波魚のきゝ耳あけの春
〇 大嶋蓼太を論ずる内、「与って力ある者也有、曉臺、蓼太、蕪村、闌更」云々から也有を削り、白雄を加える。「縦横奔放咳唾珠を成す者、雪中庵蓼太を第1とす」も誤り。前の5大家は間違いないが、蓼太は縦横奔放では他に勝るが、咳唾珠を成すに至りては蕪村の下にあり。「博学精通才識群に絶する者亦蓼太を第1とす」も誤りで蕪村の下。秀句の多き俳人中其比を見ざると記すも誤りで、古往今来俳人の佳句多き者は蕪村を第1とす。5傑中最も佳句の少なき者蓼太に非ざるか。蓼太の句集は玉石混交の嫌いあり、5傑中最も俗句多きもの蓼太。是蓼太が当時最も人望ありし所以にて、5傑中人品において1等下る所以なり
〇 「蒼穹の功なり。功も亦大なり」の「功」は共に「力」と改む。蒼虬の俳諧における害ありて些の功無し

Ø  明治29年の俳句界                    明治301月――3
(1) 俳句に対する批判、排斥の声が強まったのは、俳句が勢力を得て漸く興らんとするの傾向ありしを証するに足るべし。丁度日本が日本帝国をして世界に認められるために日清戦争を必要としたのに似ている。事の大小こそあれ、俳句が文学界に出でんとするには勢い此攻撃と軋轢とは免れ得ざる所なるべく、此攻撃軋轢は終に俳句なる者を世間に承認せしめたること、日清戦争の日本に於けると異なること無し。昨年諸新聞雑誌が頻りに俳句を載せ始めたのも、俳句が文学として認められたからで、曩時の絶対的攻撃の如きは俳句が文学の戸籍に上るために必要なる登記税と見て可なるべし(12)
(2) 外部からの批評が刺激にもなって、大作家、好著述が輩出。外部とは無関係に、俳句内容の変化発達こそ重要で研究に値する。昨年の俳句界では今まで曾てない変化があった(13)
(3) 昨年の変化の特色は、過去の俳諧と殆どまったく種類を異にするもの。此新調は早く幾多の俳人の間に行われつつありといえども、就中虚子、碧梧桐の句に於て其特色の殊に著きを見る。2人こそ此新調の原動者
碧梧桐の特色は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り。印象明瞭とは、其句を誦する者をして眼前に実物実景を見るが如く感ぜしむるを謂う。恰も写生的絵画を見るが如くで、詠ずる事物は純客観にしてかつ客観中小景を択ばざるべからず
   赤い椿白い椿と落ちにけり                                                   (14)
(4) 1句の美を判定するは印象の明不明のみを以てすべからざること勿論なり。印象明瞭なることは絵画の長所で、俳句で印象明瞭とするには成るべく絵画的ならしむることなり。俳句は内容に限りあるので簡単明快なる絵画を学ばなければいけない。写生写実に偏り殆ど意匠はない。意匠なき俳句が美術文学上の幾何の価値を有するかについては一疑問に属す
理想に偏する人は此無意匠の著作を嫌って浅薄無味蝋を噛むが如しと為し、普通一般の人も亦之を見て何等の興味をも感ぜず。此の種の絵画を見て多少の感を起こす者は、絵画の技術に経験ある者と些かの知識もない田舎の爺婆を多しとす。爺婆が「美しい」「本当の物のようだ」と感じる1点に至りては両者少しも異なることなく、専門家の第1要点として見る者亦実に此処に在り。複雑な者と簡単な者とを較べてどちらに美があるというのはおかしい。複雑な者は変化も多いし多くの意匠を得られるのは間違いないが、だからと言って美の程度高低があるわけではなく、単に美の広狭があるのみ  (16)
(5) 純粋の写生を非難する者あり。人間が感じ得べき美の種類は、或る理想家が感ずる如き特殊の者に限らない。天然の実物を見る以上に美なる感を起こすことさえ少なくない。天然は多く簡単にして人情は多く複雑なり。俳句やその他の文学美術でも同じことが言える
                                                                                        (18)
(6) 印象明瞭のため些事微物を取ってもいいし、写生的に天然を写すもいいが、余韻がないので面白くないという人いるが、余韻も印象明瞭も共に美の要素にしてその優劣は判じ難きもの。印象明瞭を尚ぶ者は形体を尚び、余韻を尚ぶ者は精神を尚ぶ。精神の美は知識によって抽象せられた無形の美なり。五感の美は爺婆に至るまで之を感ずれども無形の美は知識ある者、連想多き者に限りて之を感ずべし。俳句の空間的なる所以は即ち形体の美に於て特に研究せざるべからざる所以にして、碧梧桐が印象明瞭の句を為すは俳句の上の1進歩として見るべきなり                                           (111)
(7) 余韻とは余情と同じ意で、1句の表面に現れたる意味の外に猶幾多の連想を生ぜしむるを言う。余韻の多き句には2種類あり。一は主観的の句にして他は広き空間、又は長き時間、又は強き勢力を含んだ句。主観的な句とは
   夏草やつはものどもの夢の跡               芭蕉
城跡の荒れた景色、甲冑着たる武者の撃ち合う処も、義経の末路、弁慶の忠義、人生の栄枯等、人によって思い思いの事あるべし。一方で印象の点から見ると、極めて不明瞭なこと言うまでもない。客観に見得べきものは唯々夏草ぼうぼうの光景のみ。而して主観は無形の者、即ち印象無き者なれば、その印象不明瞭は論を竢たず
   女具して内裏拜まん春の月                  蕪村
「女具して内裏拜まん」とは主観なれど、読者は早く已にその光景を心中に描いているので客観に近い。「拜むや」と言わずして「拜まん」と言ったのは余韻を深くした代わりに、不明瞭となる。此句は「拜まん」と言って少しく印象を不明瞭にしたところに味があるので、「拜むや」では全く殺風景の句
   湖の水まさりけり五月雨                     去来
広く空間を含んで余韻ある句。渺茫たる湖上に雨の濛々たる有様をも想像せしむべく、湖水の平地近くまで増して将に溢れんとする有様をも想像せしむべく、此後如何に成り行くらんと人々の気遣う有様をも想像せしめるが、印象に至っては極めて不明瞭で、只々茫々たる湖水を認め得るのみ                                                  (112)
(8) 長く時間を含んで余韻ある句は
   名月や池をめぐりて夜もすがら             芭蕉
いろいろ想像できるが、此句が与える印象は極めて不明瞭。池がどこにあるかも、大きさも形も、周囲の有様も分からない
   猪もともに吹かるゝ野分かな                芭蕉
強き勢力を含んで余韻ある句。勢力強きとは空間の変動を現すので、自ら空間と時間を含む。暴風が広き空間を吹き荒れて物皆吹き飛ばされるが如き感じを起こさせるが、明瞭なる印象は起こさざるなり
余韻ある句は読者の連想に待ちて句の面に現し盡さず。17字に現わそうとすればどうしても大観は不明瞭に、小景は明瞭になるのは仕方なく、余韻と明瞭の両立は難しい
どちらにしても、できるだけ多く含んで、現したものを佳とし、両者合わせて10点満点となれば亦佳なり                                                                              (118)
(9) 明治29年の特色として見るべきものの中に虚子の時間的俳句なる者あり
   しぐれんとして日晴れ庭に鵙(もず)来鳴く                    虚子
   盗んだる案山子の笠に雨急なり                                
前句の如く現在の時間の接続する者を客観的時間という。後者の時間は過去にて、現在と連接せしむるものを主観的時間という。「盗んだる」と言うは主観的時間なり。静止せる者は時間長く、活動せる者は時間短し。前句は古句に比して遥かに複雑な変動を現したり。是虚子の句が古人以外に在りて時間における一種の特色を為したる所なり。後句も誰も思わないような特別の時間を取り来りしなり。是虚子の句が古人以外に新機軸を出したる所なり。時間的の俳句を作るは難きに虚子が此等の句を作りしは難中の難を為したるなり。故に此点における虚子の名誉は難中の難を為したる所に在り       (123)
(10)    虚子が主観的時間の俳句において古人以外に新機軸を出だしたりと言いしは蕪村の句を忘れんとしたるなり
   御手討の夫婦なりしを更衣                  蕪村
   打ちはたす梵論つれ立ちて夏野かな      
前者は過去、後者は未来。虚子がこの2句に基づいていること明らかなり (124)
(11)    虚子が成したる特色の一として見るべきは此外に人事を詠じたる事なり。俳句はもともと簡単なる思想を現すべく、従って天然を詠ずるに適せるを以て、元禄において既にその傾向があったが、明和、安永に至り蕪村は別に一機軸を出だし、俳句の趣向として天然を取るとともに人事をも取り、しかもその点に成功を得たり。虚子の為したるは特に蕪村よりも一歩を進めたるなり。一歩を進むとは趣向の複雑なるをいう。複雑なる人事を俳句中に収めんとしたる結果は、具象的なる叙述を用いる能わずして抽象的の叙述を用いるに至れり
   屠蘇臭くして酒に若かざる憤り             老後の子賢にして筆始めかな
「酒に若かざる憤り」「老後の子賢にして」等抽象的の語にして古来全く用いざりし趣向。客観の事物は成るべく具象的、印象明瞭に現してこそ美を感じ得べきに、虚子が抽象的に言ったのは前の時間的の句と同じく俳句の短所を成るべく巧にものし得たるに過ぎず。故に俳句の世界から見ればその区域を広めたる者にして俳句の一進歩と見るべく、虚子の功も亦大と雖も、由来無味に傾き易き趣向にて長続きするとも思えない
虚子の人事を詠ずる、必ずしも抽象的ならざるも、亦複雑なる人事又は新奇なる主観を現さんとせり。人事ならずして天然を詠ずるにもまた新奇を好み、殊に複雑の点に於て新奇ならんとせり
虚子、碧梧桐が多少の新機軸を出だしたるは古来ありふれたる俳句に飽きて、陳腐ならぬ新趣向を得んと渇望せし結果なるべし。無味だと非難する者がいるが、それは美の標準を異にするので論外。徒に新奇を好むとの非難は、寧ろ無学や経歴少なきが故の者で、俳句が将に盡きんとしつつあるを知らず。2人が新機軸を出したのは消えなんとする燈火に一滴の油を落としたるものなるを知るべし                        (125)
(12)    虚子、碧梧桐の俳句を見て世人が異様に感ずるはその句法と用語が従来と異なる事
第1    五七五の調を破りたること
第2    17字以上の句を作ること
第3    漢語、漢文直訳の句法を用いること(洋語も含む)
第4    助辞少なくして名詞形容詞多きこと
旧に飽きて新を望むは人情の常。多く見、多く作りて単調に飽き、古人未開の地を得て自己の詩想を花咲かせんとする2人が、此新調を成すは固より怪しむに足らず
複雑なる趣向を詠ぜんとすれば文字自ら多くなり、五七五調は自ら破られるし、短き言語、短き句法を用いる必要から漢語及び漢文法を必要に応じ用い、助辞も少なくして名詞多きもこれが為なり
印象を明瞭ならしめるためには客観の光景中に在る者は成るべく多く現わそうとし、事物の位置、形状、動きなども細かに言わざるを得ず、文字多くなり、助辞少なくして名詞多くなるものなれ
明治時代の新事物の名称には漢語(または洋語)を用いる事多し。
   植込のつゝじ山吹姫小松                     碧梧桐
名詞の多き、印象を明らかにしたる者なり                                     (129)
(13)    虚子の文字多き等の例句を挙げれば
   狼をばかして狐くるゝ春
5の上に3字の動詞(又は形容詞)を置き下に2字の名詞を置くは虚子の好んで用いる句法                                                                    (26)
(14)    鳴雪曰く、虚子の句虚栗に似たりと。句法を言えば似たる所あり。趣向は全く異なり
                                                                                        (28)
(15)    俳句の定義とは、文学の一種で五七五的の調子に在り。五七五的の調子は俳句の最大要素なるも、此調にのみ限られたるには非ず。18字が多く、続いて19字。此外極少
極めて長き句作り出でたるは宗因にして檀林一派之を学ぶ(寛文、延宝)
後其角田舎句合を作り、杉風常盤屋句合を作り、稍々檀林を変ずとし檀林よりも猶長し。是俳句最長の時代(延宝末年)
2,3年して其角虚栗を編む。田舎と同じく長いが、漢語を多用。正風なる者の種子にて、俳句の最も佶屈を極めた時代(天和)
芭蕉古池の句を詠みし頃より長句廃れ五七五調盛ん(貞享以後)
是より後は正風外の人偶々長句を詠む外は殆ど五七五。樗良、麦水出て虚栗を学びしも真に一時の変象にて広く影響の及びたるを聞かず(宝暦、明和)
其後虚栗調でもなく普通の五七五調でもない一種の化合物を生じ、之を蕪村、曉台、闌更等の調となす。18,19字句多く且つ其調が佳句を成した時代(明和、安永、天明、寛政)
文化以後五七五調に復り、天保以降は六七五の句さえ変調として嫌悪し、明治に至る
変調というも、何を以て言うかは人それぞれで決まり無し。名称は少しも俳句の価値に関する者に非れば重きを置かざるなり
俳句を逸脱して短篇の新体詩になることを懸念する向きもあるが、他の文学を俳句の犠牲に供える程には俳句に忠ならず。俳句盡きたるとするも之を悲しまず   (211)
(16)    碧虚2人の長句が調子の上に於て幾何の価値を有するか、亦之を従来の五七五調に比して優劣如何というも、若し優劣があったとしても、その調子と伴い来る意味の如何によって多少の変動を免れず。普通に見れば五七五調は幽玄、高古、冲澹、穏雅、自然など言うべき趣向を詠ずるに適し、六七五、七七五、五八五、六八五等の調は雄壮、遒勁、奇警、荘重、活動などの趣向を詠ずるに適すが、調子と趣向と愛適合したる時の調子はいずれでも佳なりと思う
碧虚2人が五七五調を破ったのは事実だが、まだ五七五調より長いというのみにて世人が認めるような新調創造の功を奏せざるなり。調子というより字数上の事に過ぎない。進化か、退化か、消滅か、兎に角に今の所謂新調は永久なる能わじ      (215)
(17)    碧梧桐、虚子が新調を成して後の弊害は新調に僻するに在り。嗜好が一転すれば僻するのは当然。人によって、亦時の経過によって評価は変わる
2人の反対の位置に立つ者が鳴雪で、虚栗に似て、その時代に後返りたりといい、漢語の多様もただ珍しきが為のみと笑う。鳴雪曰く、五七五調は正調にして他は変調なり、六七五は極めて正調と接近するが、それ以外は離隔。鳴雪の句趣味を尚ぶ。其句清麗、明浄、新を厭い、古を好み、活動を嫌い、静止を愛す。長所短所皆個中に存す
碧虚の外に昨年の俳壇に異彩を放った者が露月。漢語多用も用語自ら碧虚に異なり
   夕風の墓門の櫻花もなし           (ひん)たり粉たり土饅頭を吹く落花
漢詩、漢史より来たりし語多く、碧虚の知らざりし所なり。題目は大なる者、壮なる者、句調は多く古調に拠る。登第、進士、匈奴等の字、俳句に入るは之を嚆矢とす (221)
(18)    露月の作で一種の理想を含みたる句
   僧死んで月片破れぬ山の上
奇怪斬新、常人の思い得る所にあらず。古往今来未だ此の如き俳句を見ず。鬼才あり
露月と塁を対する者を(佐藤?)紅緑とす。沈黙と多弁、遅鈍牛の如くに対し敏捷馬の如し。性質に於て相反し、俳句に於て相反す。然れども其句奇警人を驚かすに至りては両者或は似たる所あり。蓋し一時経歴を同じうせし為か。紅緑に一種の理想あり。露月は大に、紅緑は小に巧みなり
   (あさり)(しじみ)小桶に何を語るらん          紅緑                  (222)
(19)    紅緑の句には小景を詠じ瑣事を賦する極めて多し
   引越や車に縛る鉢の梅                                 紅緑
普通の人ならば尋常の事として見逃すべき者をも紅緑は取って以て趣味ある詩料とせり
俳句中の一部分と為すべき小趣向をも紅緑は全句の趣向として少も懈弛を感ぜしめず。これ紅緑の技量此点に於て優れたるなり。又多少の滑稽思想を有す。松窓乙二の調を愛す                                                                                 (226)
(20)    地方俳人の中稍々古き者を霽月とす。霽月終始僻地に在りて独り蕪村を学ぶ。蕪村流の用語と句法を極端に模したる者は霽月を以て嚆矢とす。其造語の深きは潛心専意古句跛を読みて自ら発明する所に係る。畏(おそ)るべきかな。勁抜緊密なる俳句が特色
   残雪や胡(えびす:北方の異民族)騎長驅して關に入る
永機が曾て霽月をして第4世夜半亭にしようとした(1世が巴人、2世蕪村、3世几菫にして絶えた)                                                                             (31)
(21)    霽月とは何ら関係なくしてしかも隠然霽月と対峙する者を漱石と為す。明治28年初めて俳句を作る。最初から意匠に於て句法に於て特色を見せた。意匠極めて斬新、奇想天外より来りしもの多し
   永き日や韋陀(いだ)を講ずる博士あり
漱石の句法の特色は、漢語、俗後、奇なる言い回し等にあるも、一方に偏する者に非ず。滑稽だけとか、奇警を以て人を驚かすだけでなく、雄健な者はどこまでも雄健に、真面目な者はどこまでも真面目なり                                                   (37)
(22)    霽月、漱石と共に立つべき者、地方に極堂あり。巧緻清新を以て勝る
   痩馬に提灯つけて時鳥
好んで「を」の字を使う。「を」の言いまわし方極めて珍しく自家の生面を開く
   筍の竹になる日を風多し
牛伴は学ばずして俳句を善くす。巧緻。句法はなるべくたるみ無きように作る。「す」の切字を流行させた
昨年進歩したのが把栗。昨春初めて俳句を試み、秋冬には既に一家を成す。趣向の多くは漢詩から来て、清幽瀟洒誦すべき者多し。好んで「午なり」の語を用う
把栗と対峙する者墨水。淡泊中に趣味深き処あり。句法も平凡にして奇を衒わざる処に雅致を寓す。昨春大いに進歩                                                         (38)
(23)    蒼苔も昨年中著く進歩。其句奇抜なる者、又は実景を写して新鮮なる者多し
   水の上や蜻蛉飛べば蜻蛉飛ぶ
肋骨も佳境に一歩進み、冬に至りて稍々新調を学ぶ
其村、東雲、左衛門は鼎立。この順で進歩したが、其村以後進まず、左衛門将に或は進まんとす。立ちどころに数百句を成し、句法趣向共に無造作だが、なかなかに俗気少なし。其村は趣味の深き処を解せず、眼前の瑣事却て人の道破せざる処を詠ず
昨年の俳壇の諸子は著く進歩せり。古個人の進歩はいつでもあるが、昨年に限った俳句の進歩は調子の上に新調が生まれたこと、趣向の上に印象明瞭なる者、時間を含みたる者、人事を詠じたる者多くなりしなど。人事句は旧来の五七五調の形を取らずして他の新しき形を持って現れたことを忘れてはならない。今年の俳壇を刮目して見る(315)
(24)    付記 戯れに俳壇諸子に2字評を下す。特色のみにて優劣ではない
鳴雪――高華     牛伴――精微     把栗――樸茂     漱石――活動     極堂――工緻
霽月――雄健     碧梧桐―洗練     虚子――縦横     紅緑――繊穠     露月――警抜
肋骨――奇崛     其村――軽新     東雲――孤峭     左衛門―冲澹     墨水――流暢

Ø  俳諧反故籠        明治30                             
    俳句は何の用を為すかと問う者あり。何の用も為さず。無用の者を作るのは作らざるに如かずという者あらば、其人に之を作らんことを勧めざるべし。無用なるがためにこれを捨てず。無用なるは有害に勝る。無用の用という事あり
    有用無用に適当な定義をすれば、俳句を含む美術文学は有用に属す。支那古聖人の教えに詩と楽とを重んじ、方今欧米諸国にて美術文学を奨励するが如き、皆有用なるを認めたればなり
    有用の者でも使いようによっては有害。俳句も博奕の道具に使われ景物の賭け処に使われてはその害も亦太甚だし
    俳句は高点を得んとて作るべからず、秀句を得んと心がけるべし。秀句と言わないまでも、無下に卑しき句を作らぬよう心がけるべし。高点を狙う句に卑しき者多し
    俳句はおのが眞の感情あらわるる者なり。故に鄙吝の心ある者は鄙吝の句を作る。高尚なる句を得んと思えばまず其心を高尚に持つべし
    古句より趣向を得来たらんとする者多し。古句を見るのは善き事なれど、之にのみ執着すると陳腐になり易い。古句は参考に読むだけにして趣向は実景実物を見て考えれば、必ず新しき趣向を得ん                                               (1)

    初学の人、実景の何処をつかまえて句にしようかと惑うが、美醜錯綜し玉石混交したる森羅万象の中から美を選り出し玉を拾い分けるのは文学者(俳人)の役目。醜なるを捨て美なる処のみ取り出すが、天然とて多少の欠点を免れず、位置を変えたり主観的に外物を取り入れて修飾したりして得た俳句は俳句中の上乗なる者なり
    文学者は原料を造化より取ると共に、其原料を精製して自己理想中の物となす、此点に於て文学者は第2の造化ともいうべきだが、原料を破壊して固有の美を失っては何にもならない。修飾して成功すれば完全にして第1流となるが、成功しなければ俗気多く最下等に落ちる。実景を直写し天然を模倣して少しも修飾しなければ、多少の欠点はあっても最下等に落ちることはない。初学者は天然を直写すれば、少なくとも俗気を脱することができる
    俳句は短いので、天然を写しても詳細にはできず、修飾を施す余地も少ない。簡にして盡くす必要から美の最も大きな部分のみを取り他は捨てれば、修飾せずとも自然と修飾を成したるなり。実景を写すために形勝を探り山水に遊ぶは佳句を得る第1良法なり。芭蕉の「あら海や」と詠じたるは実景を其の儘に写してしかも成功したる者なり
    ある物に対して自己の胸中に起こった感情を述べるのは強ち悪くはないが、言わずとも分かる普通一般の感情を述べるのは悪し。花を見て美しいというのは不用。
    実景を直写した句は趣向立ての上では少しも作者の手柄はなく、世人も之を貴ばぬ者多いが年月が経って読み返してみると趣味深きを知らん。逆に空想を凝らして得た句はその時は無上の名句とするも年が経つと嘔吐を催す者少なからず
    実景より句を得んと欲しなば、何時にても何処へでも歩行くべし。季節も関係なく、名所旧跡にも関係ない。詩趣を探るは土筆(つくし)を摘むが如し。慌てて走りながら探しても見つからないが、目を定め心を静めて見れはそこらあたりに幾百となくある
    毎日見慣れた小さな庭でも探せば詩趣はある。四時朝夕日夜、時の変る毎に詩趣常に新なり。高山大海にも遊べ。詩料いよいよ多く詩想ますます高からん           (2)

    実景実情ではなく筆の先にて句を得んとする時は、人の糟粕を嘗めざるを得ず。真似は必ずしも悪いことではないが、ただ高点を取るためだけに口真似するのは見苦し。吾曾て人の句を選んだ際高点を得た句の中に穢多村の語在るを見て、次から穢多村の句が多くなった事ありのは、単なる皮相の真似のみ
    なるべく多く真似し成るべく遍(あまね)く真似すれば真似は決して悪いことではない
    西施心を捧げて愈々美なり、英雄酒を好む、と言って真似しようとしても、其本を舍いて其末を模すので、西施、英雄になれないどころか自己固有の本領さえ失うに至る。皮相を模倣せずして精神を模倣すべし。人を模倣せず、当込をなさず、点を取らんと思わず、虚名を得んと思わず、興に乗じて自己の胸臆を攄いて発したる句は、拙なりとも自ら俗を脱し気高き処あり。模倣した句はできたとしても猶気品卑しく俗臭あるを免れず
    『俳諧新選』という書2冊あり、安永年間の書で、太祗、嘯山の選。佳句多く、此書を蔵すると見得し者常に新選中の句を偸(ぬす)見て新聞に投ず。注意しても平気で他の新聞にも投稿。破廉恥、鉄面皮だが、50100歩で他にも枚挙に暇なし。矯正防御に努めるしかない
    高点を取って誇るのはいいが、他の句の高点を得ざるを恥じよ
    俳句の高尚と野卑を材料のせいのみに帰すのは誤り。一般に材料に高尚、野卑の差はあるのは事実だが其場合と其配合の如何によって異なる
    近時文学上に「美」「不美/醜」をいうのは、道徳上に善悪というが如し(?)。俗言に言えば美術文学にも善悪の語を用い或は巧拙ともいう。美が俗言の「きれい」と同一視されるのは誤りで、美には「きれい」以外の分子もあり、きれいでなき者にも美なる者多し。きたなくして却て美を成すものを雅といい、きれいにして却て不美を成すものを俗という。同じ物を活かして使うと殺して使うとは俳人の技量次第
    きれいな者を美と誤るは俗人の誤りで、きたなき者を美と誤るは所謂雅人の誤り。所謂雅人の好む所は垢つきたる者、ひねったる者、朽ちたる者等にして好まざる所は金殿玉楼、錦襴緞子の類。美は物の上に在りて流派の上に在らず。美は理論に現わし難し。只々実物に就いて一々評論せんのみ
    雅にして(きたなく)しかも美と称すべき句の例
        蚤蝨馬の尿する枕もと                             芭蕉
        いばりせし蒲団干したり須磨の里                蕪村                   
きれいにして(俗に)しかも美と称すべき句の例
        阿古久曽のさしぬき振ふ落花かな               蕪村                            (3)

Ø  俳句と漢詩        明治30211日――45                   
俳句と和歌と漢詩と形を異にして趣を同うす。中にも俳句と漢詩と殊に似たる処多きは、俳句が力を漢詩に藉りしにも因るべきか。芭蕉は杜甫の詩を読んで其趣味を俳句に移し、蕪村は詩の趣味と共に詩の言葉をも俳句に用いたり。漢詩も俳句も標準に違いはない
漢詩には俳句と暗合したる句もあり、漢詩の句にして直ちに俳句と為し得べき者あり
漢詩を俳句に訳してみる。お互いの長所は共通しているわけではないので必ずしも詩の佳句を取るとは限らず、訳し易きに従うのみ
        残夜水明楼(杜甫) を訳して 江楼や水の光の明け易き
        三春時有雁 万里少行人(王維) を訳して 帰る雁行く人更になかりけり       

Ø  吉野拾遺の発句                明治3044
『吉野拾遺』という本が歴史上に幾何の価値ありやは知らず、南朝の事を記す、歴々として徴すべし云々とあれば事実を記したる者と思いし人少なからず。ただ、内容も真実ばかりではなさそうだが、書中の発句を見ると甚だしき詐欺の手段に出でしを知りたればここに掲げる
御製2句に続いて周囲が詠んだ4句はいずれも宗祇の句。後村上天皇崩御後50年にして宗祇生まれ120余年にして宗祇死す。時代の遅れたる人の句を以て前代の人の作と為す事いと可笑しきに、それを御製とするなど不敬不遜甚だし。是より推すに此書中にある歌集柬の類も殆ど信用を置き難し。南北朝時代にはこの6句のような巧者なる者は決して出来ぬ筈

Ø  俳人蕪村           明治30413日――1129
    緒言
芭蕉新たに俳句界を開きしよりここに200年、其間俳人輩出少なくないが、衆口一斉に芭蕉を尊崇。是に於てか芭蕉は無比無類の俳人と言われ、復1人の之に匹敵する者あるを見ざるの有様だが、決して敵手無きに非ず
芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべき者論を竣たず。誰も凌駕できない。変化多き処、雄渾、高雅等いずれも第一流。此俳句は創業の功より名誉を加えて無上の賞讃を博したが、俳句の価値に対して過分の賞讃たるを認めざるを得ず。百年間空しく瓦礫と共に埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村とす
芭蕉に匹敵、或は凌駕する処ありて、却て名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしに因れり。著作の価値に対する相当の報酬なきは蕪村の為に悲しむべきに似たりと雖も、無学無識の徒に知られざりしは寧ろ蕪村の喜びし所なるべきか。其放縦不羈世俗の外に卓立せし所を見るに、蕪村亦性行に於て尊尚すべきものあり。而して世は之を容れざるなり
蕪村は書家とし知られ、没後も書名が俳名を圧していたが、余等の俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見て稍々其非凡なることを認め尊敬すること深し。ある時鳴雪氏が蕪村集を持ってきたら賞を与えると言ったのは、本当に欲しかったからで、余等亦之を借りて大いに発明する所あり。死馬の骨を五百金に買いたる譬えも思い出される。数年前(明治26年か)の事なり。この話が広まって俳人としての蕪村が多少の名誉をもって迎えられた。余等亦蕪村派と目せらるるに至れり。今は俳名再び書名を圧せんとす
斯くして百年以後に始めて名を得たる蕪村はその俳句に於て全く誤認せられたり。多くは蕪村が漢語を用いるを以てその唯一の特色と為し、しかもその唯一の特色が何故に尊ぶべきかを知らず、況や漢語以外に幾多の特色あることを知る者は殆ど無きに至りては、彼等が蕪村を尊ぶ所以を解するに苦しむ。蕪村が芭蕉に匹敵する根拠を示す

    積極的美
積極的美とは、意匠の壮大、雄渾、勁健、艶麗、活発、奇警なるものを言い、消極的美とは、古雅、幽玄、悲惨、沈静、平易なるものをいう。唐時代の文学より悟入した芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用いること多く、寂、雅、幽玄、細み等を以て美の極と為す者盡く消極的美にて、積極的美を邪道となし野卑としたが、行き過ぎて厭味を生じる
日本の文学は源平以後地に墜ちて亦振るわず、殆ど消滅し盡せる際に当たって芭蕉が俳句に於て美を発揮し、消極的の半面を開いたのは彼が非凡の才識あるを証するに足る。残りの半面を埋める者として没後100年を経て蕪村現れる。天命を負って俳諧壇上に立ったが、世は彼が第2の芭蕉たることを知らず、彼亦名利に走らず、聞達を求めず、積極的美に於て自得したりと雖も唯々其徒と之を楽しむに止まれり
四季のうち春夏は積極にして秋冬は消極なり。蕪村最も夏を好み、夏の句最も多し。佳句も春夏に多し。芭蕉と比較すると、牡丹は花の最も艶麗なる者で、芭蕉は12句に過ぎないが蕪村は20首の多きに及ぶ
        牡丹蘂(しべ?)深くわけ出る峰の名残かな    芭蕉 季の景物として応用したるのみ
        牡丹散って打重なりぬ二三片                   蕪村
若葉も亦積極的の題目で、芭蕉は1,2句に過ぎないが蕪村は直に詠じたる者10余句あり
        若葉して御目の雫ぬぐはゞや                    芭蕉 季の景物として応用したるのみ
        山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな              蕪村

    客観的美
積極消極と同様、客観的美と主観的美も亦相対して美の要素を為す。文学史上でいえば、上世には主観的美を発揮した文学多く、後世に下るに従って客観的美が深まっていく
主観的美は、客観を描き盡さずして観る者の想像に任すにあり
客観的美は、結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物のみを描写し、観る者をして之によりて感情を動かさしむること、恰も実際の客観が人を動かすが如くならしむ。是後世の文学が面目を新たにしたる所以なり
孰れが美なるか判じ得べきに非ず
芭蕉の俳句は古来の和歌に比して客観的美を現すこと多いが、蕪村には及ばず。極度の客観的美は絵画と同じ。蕪村の句は直ちに以て絵画と為し得べきもの少なからず。芭蕉集中全く客観的なる者は4,50句に過ぎない
        鶯や柳のうしろ藪の前                            芭蕉
        木瓜の陰に顔たくひすむ雉かな                蕪村
一事一物を書き添えざるも絵となるべき点に於て、蕪村の句は蕪村以前の句よりも更に客観的

    人事的美
人事は複雑で活動す。複雑なる者、活動せる者に就きて美を求むるは難し。僅か17字の小天地に変化極まりなく活動止まらざる人世の1部分なりとも縮写せんとするは難中の難に属す
芭蕉、去来は寧ろ天然に重きを置き、其角、嵐雪は人事を写さんとして端無く佶屈聱牙に陥り、或は人をして之を解するに苦しましむるに至る。独り蕪村は何の苦もなく進み思うままに闊歩横行せり。芭蕉の句は人事を詠んでも皆自己の境涯を写したるに止まり、自己以外に在りて人事美を加えたるすら極めて少なし
        鞍壺に小坊主のるや大根引                      芭蕉
        行く春や選者を恨む歌の主                      蕪村
天稟とはいいながら老熟の致す所ならん

    理想的美
俳句の美は実験的美と理想的美に分けられる。俳句の性質による場合は、此種の理想は人間の到底経験すべからざること、或は実際有り得べからざることを詠んだものをいう。作者の境遇による場合は、此種の理想は今人にして古代の事物を詠み、未だ行かざる地の景色風俗を写し、曾て見ざる或る社会の情状を描き出す者をいう
文学も絵画と同様実験に依るべきだが、それのみに依るべからず。文学者の頭脳は四畳半の古机にもたれながら其理想は天地八荒の中に逍遥して無碍自在に美趣を求む。こうして得られたものは必ず斬新奇警人を驚かすに足る者あり。俳句界に於て斯人を求むるに蕪村1人あり。芭蕉は其俳句平易高雅、奇を衒せず、新を求めず、盡く自己が境遇の実歴ならざるは無し。2人は実に両極端を行きて少しも相似たる者あらず、これまた蕪村の特色として見るべし
芭蕉は特に古池の句に自家の立脚地を定めし後は、徹頭徹尾記実の一法に依りて俳句を作れり。しかも見聞した総ての事物から、自己を本として之に関連する事実の実際を詠ずるに止まる。今日より見ればその見識の卑き事実に笑うに堪えたり。蓋し芭蕉は感情的に全く理想美を解せざりしには非ずして、理屈に考えて理想は美に非ずと断定せしや必せり。一世に知られずして始終逆境に立ちながら、堅固なる意思に制せられて謹厳に身を修めたる彼が境遇は、苟にも嘘をつかじとて文学にも理想を排したるなるべく、将た彼が愛読した杜詩に記実的の作多きを見ては、俳句も斯くすべきものなりと自ら感化せられたるにもあらん。芭蕉の門人多しといえど芭蕉の如く記実的なるは1人も無く、芭蕉も記実的ならずとてそを悪く言いたる例も聞かず。連句に於て宇宙を網羅し古今を翻弄しながら、俳句では極めて卑怯なりしなり
蕪村はかつて如何に理想美を探り出すかを召波に教えている。奇文なるかな
        湖へ富士を戻すや五月雨
        隠れ住んで花に眞田が謡かな
歴史に借りて古人を17字中に現し得たる者、以て彼が技量を見るに足らん

    複雑的美
思想簡単なる時代には美術文学に対する嗜好も簡単を尚ぶは自然の趨勢なり。我邦千余年間の和歌の如何に簡単なるかを見ば、人の思想の長く発達せざりし有様も見え透く心地す
俳句の方が和歌よりも複雑なる意匠を現さんとして漢語などを用いたりしたが、古池の句は終に俳句の本尊として崇拝せらるるに至り、芭蕉も之を以て自ら得たりとし、終身複雑な句を作らず。門人は必ずしも芭蕉の簡単を学ばざりしも、複雑の極点に達するには猶遠かりき
芭蕉は、「発句は頭よりすらすらと云下し来たるを上品とす」
芭蕉は、俳句は簡単ならざるべからずと断定して自ら美の区域を狭く劃りたる者なり
和歌のやさしみ言い古し聞き古して紛々たる臭気はその腐敗の極に達せり。和歌に代わりて起こりたる俳句幾分の和歌臭味を加えて元禄時代に勃興したるも、支麦以後漸く腐敗して亦拯う道なからんとす。是に於て蕪村は複雑的美を捉えて俳句に新生命を与えた。和歌の簡単を斥け唐詩の複雑を借りる。国語の柔軟なる、冗長なるに飽きはてて簡勁、豪壮なる漢語で不足を補った。先に其角一派が苦辛して失敗に終わった事業が蕪村によって容易に成就された。芭蕉の句は盡く簡単だが、強いて複雑なる者は以下。蕪村は全体を通じて複雑
        鶯や柳のうしろ藪の前                            芭蕉
        草霞み水に声なき日暮れかな                   蕪村

    精細的美
外に広き者を複雑と謂い、内に詳なる者を精細という。精細の妙は印象を明瞭ならしむるに在り。芭蕉の叙事形容に粗にして風韻に勝ちたるは、芭蕉の好んで為したる所なるも、それは精細的美を知らざりしに因る。芭蕉集中精細なる者は、
        粽結片手にはさむ額髪
精細なる句の俗了し易きは蕪村の夙に感ぜし所。妙人の妙は其平凡なる処、拙き処に於て見るべし。蕪村の佳句ばかりを見る者は蕪村を見る者に非ず

    用語
意匠の美は文学の根本にして人を感動せしむるの力亦多くここに在るが、用語、句法の美之に伴わないのは、可惜意匠の美を活動せしめざるのみならず、却て其意匠に一種厭うべき俗気を帯びたるが如く感ぜしむる事あり。蕪村の用語と句法は絶妙で、しかも自己の創体に属する者多し
  漢語は蕪村が喜んで用いたる者。其角一派が乱用して終に調和を得ず断念したもので蕪村に至って初めて成功。簡短なこと、漢語の方がよく意匠を現すべき場合、支那の成語がそのまま意味を持つ場合などに活用
   “指南車(からくり歯車)”胡地(未開の地)”引き去るかすみかな
  古語は元禄時代に芭蕉一派が常語との調和を試み十分成功したもので、蕪村によって更に前に進んだ。今まで俳句界に入らざりし古語を拈出したのは蕪村の力
   およぐ時よるべなきさまの蛙かな
  俗語の最も俗なる者を用いたのも蕪村が初。元禄時代は雅俗相半ばしたが、享保以後無学無識の徒に玩弄せらるるに至って雅語が消滅、俗語ばかりで意匠の野卑と相俟って純然たる俗俳句となってしまった。蕉門も檀林も其嵐派も支麦派も用いるに難じたる極端の俗語を平気で使った蕪村の技量は測るべからざる者あり。それでいて俗ならず却て活動する、腐草蛍と化し淤泥蓮を生ずるの趣あるを見ては誰か其奇術に驚かざらん
   出る杭を打たうとしたりや柳かな
   酒を煮る家の女房ちよとほれた
   藥喰鄰の亭主箸持参
蕪村集中の最も俗なる者、一読に堪えずと雖も、後世一茶の俗語を用いたのは殊に此辺より悟入したるかの感無きに非ず
佶屈なり易き漢語も佶屈ならず、冗漫なり易き古語も冗漫ならず、野卑なり易き俗語も野卑ならしめざりき。俗語を用いた一茶の外は漢語にも古語にも匹敵者なく、用語の一点に於ても蕪村は俳句界独歩の人なり

    句法
言語の接続を言う。元禄に定まり、享保、宝暦を経て少しも動かず、寧ろ元禄に変化したものさえ失い、「何や」「何かな」一点張りの極めて単調な者となっていたのを、蕪村は種々工夫を試み、漢詩的に、古文的に、古人の未だ曾て作らざりし者を数多造り出した
        春雨やいざよふ月の海半
        我も死して碑にほとりせん枯尾花 (蕉翁碑)
の如きは、漢文より来たりし句法なり。蕪村最も多く此種の句法を為す
        しのゝめや鵜をのがれたる魚浅し
「魚浅し」という警語を用いたるは漢詩より得たる者ならん。従来の国文未だ此種の工夫無し
        白蓮を剪らんとぞ思ふ僧のさま
「とぞ思ふ」というは和歌より取り来りし者
元禄以来形容語は極めて必要な者の外俳句には用いない。徒に場所を塞具のみにて、有っても無くても意義に大差なしとの意だが、形容語は句を活動せしめ印象を明瞭ならしむる処から、蕪村は巧みに用い、特に中七にかんたんなる形容詞を用いることに長じた
        水の粉やあるじかしこき後家の君
後の形容詞を用いる者、多くは句勢にたるみを生じて却て一句の病と為る。蕪村の簡勁と適切とに及ばざるは遠し。蕪村の句は堅くしまって揺るがぬが其特色で、無形の語少なく有形の語多し。簡勁の語多く冗漫の語少なし。然るに彼に1つの癖あり。或る形容詞に限り長きを厭わず、屡々これを句尾に置く
        つゝじ咲きて石うつしたる嬉しさよ
驚くべきは一句の結尾に「に」という手爾葉を用いたこと。常人をして此句法使えば必ずや失敗する。手爾葉の結尾を以て句を操る者、蕪村の蕪村たる所以
        帰る雁田毎の月の曇る夜に
5に何ぶり、何がち、何顔、何心の如き語を据えることを好めり
        三椀の雑煮かふるや長者ぶり

    句調
蕪村以前の俳句は五七五の句切にて意味も切れ、多く「や」「かな」等の切字を含み、そうでない場合も7音の句必ず四三又は三四と切れたるを見るが、蕪村の句には二五と切れたるあり
時に長句を為し、時に異調を為す。六七五調は五七五調に次いで多し
56言にして三三調に用いたるは蕪村の創意にやあらん

    文法
動詞、助動詞、形容詞にも蕪村ならでは用いざる語あり
        鮓を圧す石上に詩を題すべ
ことさらに終止言とならぬ語を用いて余意を長くしたるなるべし
文法に違えりとて排斥する説には反対

    材料
蕪村は狐狸怪を為すことを信じたるか、或は此種の話を聞くことを好むか、自筆の草稿新花摘は怪談を載せることが多く、且つ彼の句にも狐狸を詠じたる者少なからず

    縁語及び譬喩
蕪村が縁語その他文学上の遊戯を主としたる俳句を作りしは怪しむべきようなれど、其句の巧妙にして斧鑿の跡を留めず、且つ和歌若しくは檀林、支麦の如き没趣味の作を為さざる処、亦以てその技量を窺うに足る
        春雨や身にふる頭巾着たりけり
俳句に譬喩を用いる者、俗人の好む所にして其句多く理屈に墜ち趣味を没す。蕪村の句時に譬喩を用いる者ありと雖も、譬喩奇抜にして多少の雅致を伴う
        独鈷鎌首水かけ論の蛙かな

    時代
蕪村は享保元年生まれ、天明3年没。68歳の長寿で、文学美術の衰える時代に生まれて其盛んならんとする時代に没せり。俳句は享保に至りて芭蕉門の英俊多く死し、支考、乙由等が残喘を保ちて益々俗に墜つるあるのみ。明和以後枯楊(やなぎ)(ひこばえ?)を生じて漸く春風に吹かれたる俳句は天明に至って其盛を極む。俳句界200年、元禄、天明を最盛の時期とし、前者は芭蕉、後者は芭蕉ほどではないが蕪村に依る所大。天明の余勢は寛政、文化になって漸次に衰え、文政以後復痕迹を留めず
和歌は万葉以来、新古今以来、一時代を経るごとに一段の堕落を為し、真淵出でて僅かに挽回。真淵が没したのは蕪村54の時で、和歌を真淵に取るに躊躇しなかったもののその影響を受けていると見えないのは、音調に泥みて清新なる趣味を欠ける和歌の到底俳句を利するに足らざりしや必せり
当時の和文なる者は多く擬古文の類で見るべきなかりしも、擬古なること或は蕪村をして古語を用い古代の有様を詠ぜしめたる原因かもしれず、この材料を古物語等より取りしと覚ゆ
蕪村が最も多く時代の影響を受けたのは漢学殊に漢詩。漢学は蕪村が少年の頃隆盛を極め、徂徠一派が勃興。蕪村は徂徠等修辞派の主張する、文は漢以上、詩は唐以上との説には同意せざるも、唐以上の詩を以て粋の粋となしたること疑いなし
蕪村の書いた春泥集を読めば、漢詩の趣味を俳句に移したこと、李杜を貴び元白を卑しんだことも明瞭で、芭蕉がおぼろに杜甫の詩想を認めたのとは異なる
絵画の上でも蕪村は衰運の極みに生まれ盛んならんとして没せり。蕪村は南宋の書家として大雅と並称せられ、天明以後美術史に一紀元を与えたことについて、蕪村も多少の原因を為しているが、俳句界における影響度とは同列には論じられない
天明は狂歌が盛んで、黄表紙漸く勢を得たが、俳句とは直接関係なし。文学美術全般が勃興
蕪村が交りし俳人は太祇、蓼太、曉台等。曉台は蕪村に擬したりとおぼしく、蓼太は時々ひそかに蕪村調を学びし事もあるべしと雖も、太祇についてはどちらが影響したのか不詳なるも、蕪村が幾分か太祇に導かれし部分もあり得べきを信ずる(?)。然れども彼が師巴人に受くる所多からざりしは、成功の晩年にありしを見て知るべし(?)

    履歴性行等
摂津浪花に近き毛馬塘(つつみ)の片ほとりに幼児を送り、稍々長じて東都に遊び、巴人の門に入って俳句を学ぶ。夜半亭は師の名を継いだもの。京に帰って俳諧漸く神に入る。蕪村名利を厭い聞達を求めざるを、彼が名誉は次第に四方雅客の間に伝称
総常両毛奥羽など遊歴せしも紀行を作らず。其地に関する俳句も多くない。西帰の後丹後に3年、因て谷口氏を改めて興謝とす(?)。讃州(香川)に遊び、厳島に魅せられる。読書を好み和漢の書なにくれとなくあさる。蕪村集ほど俳句に古語古事を用いる事の多きは他に例を見ず
字句に拘らないのは古文法を守らず、仮名遣いも無頓着で注意を払わないところからもわかる。磊落にして法度に拘泥せず。俳人が家集を出版する事さえ厭えり。心性高潔にして些の俗気無き事を知るべし。些の野心あれば17字中に屈すべき文学者にはあらざりしなり。余勢を以て絵画に挑戦したが大成に至らず。絵画に集中していれば絵画の上に一生面を開き得たるべく、応挙輩をして名を壇にせしめざりしものを。日本の美術文学の為に惜しむ
『春風馬堤曲』とは俳句や漢詩など交ぜこぜにした蕪村の長編。俳句以外の文学や熱情を現したる者ものだけ(馬堤は蕪村の故郷の毛馬塘)
蕪村は其角、嵐雪、素堂、去来、鬼貫を5子と称し、去来を除き4老と呼ぶが、其角を俳中の李青連とし、「読むたびにあかず覚ゆ、是角がまされる所なり」と言って其角を唯一の俳人と崇めていながら、「百千の句中めでたしと聞こえるは20句に足らず」と評したのは、如何に蕪村が眼中に古人なきを見るべし。蕪村の眼高きこと此の如く、手腕亦之に副う。而して後に俳壇の革命は成れり
大高源吾から伝わる高麗の茶碗をもらったが、咸陽宮の釘隠しの類だといって人にやってしまったり、松嶋では重さ10斤の埋木の板をもらったが、長旅に堪えずとして置いて帰ったという
蕪村とは天王寺蕪(かぶら?)の村ということで、和臭を帯びた号だが、字面はさすがに雅致あり、漢語としても見られぬには非ず。俳諧には蕪村又は夜半亭の雅号を使い、画には寅、春星、長庚、三菓、宰鳥、碧雲洞、紫狐庵等異名あり。彼の謝蕪村、謝寅など言える、門弟にも高几菫などある、此一事にても彼等が徂徠派の影響を受けているのは明らか。2字の苗字を1字に縮めたるは言う迄も無く、其字面より見るも修辞蕪派の臭味を帯びたり
蕪村の絵画は南宋より入りて南宋を脱せんと工夫。南宋を学んだのは其雅致多きを愛したためで、南宋を脱せんとしたのは南宋の粗鬆なる筆法、狭隘なる規模が自己の美想を現すを得ざりしが為で、俳句に得たると同じ趣味を絵画に現わそうとした。絵画における彼の眼光は極めて高く、到底応挙、呉春等の及ぶ所にあらずも、成功する能わずして没し、却て豎子(?)をして名を成さしめたり
俳画は蕪村の書き始めしものにて一種もすべからざるの雅致を存すが、画より字の如きもので、蕪村の字支那の書風より出でて稍々和習あり。縦横自在にして法度に拘らず、しかも俗気無き事俳画に同じ
蕪村の文章流暢にして姿致あり。水の低きに就くが如く停滞する処なし。恨むらくは一片の文章だも純粋の美文として見るべき者を作らざりき
蕪村の俳句で今も残るのは1400余首。比較的多作。一生に千句は決して多いとは言えないが、驚くべきは蕪村の作が盡く佳句なること。誤字違法を顧みないが、俳句を練る上に於ては小心翼々として一字苟もせざりしが如し。多ければ玉石混交で、杜工部集の如き是なり。蕪村の規模は杜甫程でなないが、盡く佳句というのは他に例がない。俳句に於ける蕪村の技量は俳句界を横絶せり、終に芭蕉、其角の及ぶ所に非ず
蕪村の俳諧を学びし者月居、月渓、召波、几圭、維駒等皆師の調べを学んだが、独り其道に上りし者を几菫とす。几菫は師号を継ぎ三世夜半亭を称う。惜しむべし、彼蕪村没後数年足らずして没し、蕪村派の俳諧茲に全く絶ゆ
明治29年草稿  明治32年訂正

Ø  一茶の俳句を評す            明治307?
天明以後俳諧壇上に立って特色を現したる者を、奥の乙二、信の一茶とす。一茶最も奇警を以て著る。俳句の実質における一茶の特色は、主として滑稽、風刺、慈愛の3点。中でも滑稽は一茶の独壇場、しかも軽妙なること、俳句界数百年間、僅かに似たる者をだに見ず
        春雨や喰はれ残りの鴨かなく
滑稽の方便として多く擬人法を用いる。集中にも多き真に驚くべし
一茶は不平多かりし人なり。苛政を悪み、酷吏を悪み、無慈悲なる人を悪み、俗気多き人を悪む。俗世間の事見るもの聞くもの、盡く不平の種にならぬは無く、従って其句人を刺り世を嘲り、此等の句、其人を知るに足る者あれど、俳句としては見るに足らず
一茶は熱血の人。一方で人を罵るとともに、他方で極めて人を愛す。その妻の不幸にして心卑しき者なりしかば、後世より一大俳家として尊敬せらるべき夫を厭いて自ら出で去りぬ。一茶の愛情は其孤児に集まる。彼は初めより現世を罪悪の競争場と見、眼前此悪魔に逢って忍ぶ能わず、其悪魔の手に捕らえられたる無垢清浄、蓮の露の如き愛児に思い及んで、殆ど狂せんとす。彼の句に小児の可憐なる有様を述べたる者極めて多し。只々俳句として見るべきもの少なきは、情勝って筆之に随わざりしか。慈愛心は動物にも及ぶこと俳句はこれを証す
        雀子や川の中にて親を呼ふ
俳句の形式における一茶の特色は、俗語を用いたると多少の新調を為したるとにあり。滑稽と俗語とが相まって用を為したるなり
        傘にべたりとつきし櫻かな
新調とは、七五五調、16字調および他の17字の変調など
        櫻々と唄はれし老木かな
真面目なる句には佳作多し
        霞む日やしんかんとして大座敷
世俗一茶の名句として伝わる者、多くは浅薄なる者のみ
        三日月の頃より待ちし今宵かな
などいえる無趣味の句を以て、一茶一代の秀逸となすに至っては、一茶を誣(誣告)ふるの甚だしき者と謂うべし


編輯後記
俳論及び俳話の前半を著作年代順に収載。生前既に書物として発刊された者数種あり。『獺祭書屋俳話』『俳諧大要』『俳人蕪村』『俳句問答』『俳句界4年間』などだが、各篇を年代順にしているので、居士の著書の形式を踏襲していない
最初の者は『獺祭書屋俳話』だが、「向井去来」1篇はその前、『城南評論』に子規子の名で掲載
『獺祭書屋俳話』は居士がまだ『日本』入社以前其紙に連載、多少の補正を加え、265月『日本叢書』の1篇として『日本』新聞社から発行。初版は菊版69頁の小本だったが、28年に「歳晩閑話」「歳旦閑話」「雛祭り」「菊の園生」「古人調」「芭蕉雑談」等10余篇を増補して第2版を刊行。「芭蕉翁の一驚」は純然たる俳話ではないが「芭蕉雑談」と併せて興味があるので此に採録
「獺祭書屋俳話正誤」は29年末に居士の発表したもの。頁数は全集の頁数とは無関係
子規庵には居士の加朱した『獺祭書屋俳話』が残っている。此巻はそれによって訂正したので、在来刊行の書と辞句を異にする
「雛の俳句」等は『小日本』時代のもの
「俳諧大要」はもと『養痾雑記』の一部として『日本』に掲載。書名は子規子
『小日本』以後『ホトトギス』が出るまでのものは、殆ど『日本』に出たもの。「質問に答賦」は『大阪毎日』紙上の居士の選句に関するもので、子規庵所蔵の切り抜きによると獺祭書屋子規の署名がある
「俳人蕪村」には26年草稿、32年訂正とあるが、『日本』掲載は30年で、居士の思い違いだろう。最初『日本』に掲載され、次いで松山発行時代の『ホトトギス』に転載。その付記に「余の俳人蕪村を草するや、中間屡々二豎のために阻礙(さまたげ)せらる。従って議論盡さず、筆力足らず。他日訂正の日を俟て」とあり、その訂正を経て刊行されたのが今世に行われれている『俳人蕪村』で、全集に収めるに当たり、表紙に「手ひかへ」という自署のある「俳人蕪村」が発見されたので、それによって引用の数句を補った箇所がある
「一茶の俳句を評す」は、307月三松堂発行の『俳人一茶』の為に草されたもの。此書は表紙に「正岡子規宗匠校閲批評」と刷ってあるが、それについて居士は「墨のあまり」(30年中)なる文中に「俳人一茶という書に吾等が名を著したる、いと心よからず思うなり」云々の書き出しでその出版の事情を述べている
「俳諧反故籠」は松山時代の『ホトトギス』に連載(創刊~3)
居士の俳論俳話の類の分量の多いことは覚悟していたが、『ホトトギス』が東京に移るまで(319月以前)の予定ができず、残りは総て追補として刊行の余儀なきに至る
俳論俳話に於ける居士の署名は、獺祭書屋主人、子規又は子規子。両者では内容に多少の相違があったように思う。稀に「升」とも著す。「俳句と漢詩」1篇がそれ
巻頭の「従軍願」は日清戦争当時のもの。「陸実」と「大本営副官御中」以外が居士の筆跡。当時を偲ぶべき珍しい資料で、原物そのままを伝える
肖像も同じく28年のもの、裏面に「正岡常規28歳の像なり常規将に近衛軍に従い渡清せんとす故に撮影す」とあり、広島滞在中の肖像として英気颯爽たる居士の面目を窺うことができる
「百事如意」は明治33年正月の筆。この紅唐紙に就いては『新年雑記』(全集第10)に詳しい



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