ナポレオン  佐藤賢一  2020.6.24.


2020.6.24. ナポレオン

著者 佐藤賢一 1968年鶴岡市生まれ。93年『ジャガーになった男』で第6回小説すばる新人賞。99年『王妃の離婚』で直木賞。14年『小説フランス革命』(単行本全12巻)で毎日出版文化賞特別賞

発行日           台頭篇2019.8.10./野望編9.10./転落篇10.10. 第1刷発行
発行所           集英社

初出 集英社WEB文芸RENZABURO 20151月~20167(『小説ナポレオン』改題) 単行本化にあたり改稿

【台頭篇】
ヨーロッパ全土を震撼させたカリスマの一生を描く歴史巨編、全3
1769815日、コルシカ島の小貴族の次男として生まれたナポレオン。一代でフランス皇帝に上り詰めた男は、いかにして「英雄」となったのか?
1793年のトゥーロン包囲戦、95年のヴァンデミエールの蜂起鎮圧で一躍名をあげ、イタリア方面軍司令官として数々の戦争に歴史的勝利を収めるまでの躍進期を描いた第1巻「台頭篇」
西洋歴史小説の第1人者が描くナポレオン一代記
ナポレオン生誕250周年 これぞ、英雄小説の決定版!

プロローグ
1804122日、ノートルダム大聖堂にてナポレオン戴冠式

第1章        成長
1.    石合戦
1778年、コルシカ島南西岸、パラタ岬の奥に隠れる港町アヤーチュで、郊外の農村地帯の子どもたちとの喧嘩は日常茶飯事で、ナブリオが突撃隊長
1729年、コルシカ島はジェノヴァ共和国の支配に反抗して独立運動に立ち上がり、35年独立を宣言。55年、闘争の指導者パオリが「国民の将軍」に就任、翌年憲法を制定し独立政府を樹立。68年フランス共和国とジェノヴァ共和国の間にヴェルサイユ条約締結、ジェノヴァはコルシカをフランスに200万リーヴルで譲渡。ブルボン王朝がコルシカに派兵、翌年島を平定。抵抗運動は続き、74年若きルイ16世の即位の隙をついて各地で蜂起したが全て鎮圧され、抵抗勢力は根絶やしにされたため、フランスに対する恨みは島民に残る
2.   
ナブリオの父で家長のカルロ・マリアは、パオリの側近で独立運動を闘った後、71年にはフランス王立裁判所の陪席判事として、フランス王家の司法官になる。フランスは、コルシカ島の有力者77家をフランス貴族と認定し官僚に取り立てて懐柔、国有地の払い下げ、漁業権の授与などの優遇策を進めたが、これに飛びついたのが父
父親の猟官運動が功を奏して貴族となり子弟を国王給費生として1人は神学校へ、1人は兵学校へ送れることになり、長男が神学校に、ナブリオが兵学校に通うことになり、先ずはコレージュでフランス語から勉強
3.    入学
78年末、トゥールーズ大司教下シャンパーニュのブリエンヌ陸軍幼年学校に入学
自己紹介した時から周囲に馬鹿にされ、喧嘩を売ったため大騒ぎとなったが、鞭打たれたのはブオナパルテ1人だった
4.    学園生活
偏屈な変わり者、揉め事が絶えない問題児、無愛想な一匹狼として3年。爪弾きを幸いとして1人勉強に打ち込む
5.    雪合戦
83年の冬は記録的な大雪。ナポレオーネは勉強した築城術を参考に要塞を作り上げ、本格的な戦闘を試みる。冬の間中何度となく繰り返された
6.    進学
84年秋、進学が認められたのは110人中5人のみ。全国の12の幼年学校から選抜された215人と共にパリの陸軍士官学校に入る
騎兵科や歩兵科では生まれ以上に出世できないが、砲兵科は専門知識が物を言うので、着実に階級を上げていけるため、貧乏な小貴族は砲兵科に行くのが常道
7.    図書館
パリ陸軍士官学校の図書館は、実質の創立者ポンパドール夫人の肝いりで建てられたものだけに、フランスでも屈指の蔵書量を誇る
85年、父が胃癌で逝去、享年38
8.    少尉
8511月、1年で士官学校を卒業、北フランスのヴァランスのラ・フェール砲兵連隊着任。上位58人はいきなり少尉任官が認められるが、ナポレオーネは42
9.    帰島
86年秋、休暇を取って7.5年余りぶりに故郷へ帰り半年過ごす
実家は兄が戻ってきたが、父の死後寂れて困窮、不動産の管理も杜撰で収入が途絶えた
10. オーソンヌ
88年央には元の連隊に戻り、ブルゴーニュ州オーソンヌで砲兵連隊の演習に参加
同地の砲兵専門学校に入り
17893月ブルゴーニュ州で暴動発生 ⇒ 前年夏が寒く大凶作、冬も極寒で全ての河が氷り、飢饉の不満が爆発。「黒ミサ」を唱えて反体制運動へと発展。パリで714日バスティーユ陥落

第2章        コルシカ
1.    活動開始
ナブリオが899月帰島すると、コルシカでも4月から騒擾が始まっており、パリでコルシカの統治について会議をした結果、人民の代表を入れた「国民委員会」の設立が決まるが総督が反対し、人民がちょうど帰島していたナブリオを担いで立ち上がる
2.    会議
コルシカ各地で民兵が組織され蜂起。翌年3月にはコルシカ島北会議が開催され、貴族院の廃止と全島選出の委員会の設立を決めるが、島内の南北対立で前に進まず、パオリを呼び戻すことに
3.    対面
90年夏、パオリがコルシカに帰還。直接面会して、全島会議でパオリを手伝うことになる
4.    ポンテ・ノーウ
68年の独立運動の古戦場がポンテ・ノーウ、コルシカ語で「新橋」 ⇒ ナブリオはフランス軍に惨敗した戦の敗因を分析
5.    中尉、少佐、中佐
909月のオレッツァでの全島会議でパオリを全県議会議長と軍総司令官に選任
ナブリオの兄は、地元の郡会議の議長に収まり、ナブリオは休暇明けで原隊復帰
貴族の亡命が相次ぎ、軍隊は将校不足になっていたこともあり、間近に予想された戦争に備えてすぐに中尉になり、コルシカの義勇兵大隊の少佐になるが、すぐに原隊復帰命令が来て、中佐は例外とされたため、義勇兵大隊の隊長(中佐格)選挙に立候補
6.    選挙
7人の立候補者の中で2人で組んで選挙管理委員を抱き込み、見事当選を果たし中佐に
7.    アヤーチュ事件
教会財産国有化から始まる一連の教会改革の結果90年法制化された聖職者民事基本法は、フランス革命が手掛けた数々の改革の中でも最たる激変をもたらすと言われ、全ての聖職者が憲法に宣誓することを義務付けていたため、宣誓拒否派によう数々の騒擾を招くことになり、アヤーチュでも義勇兵との間に銃撃戦が展開される
ナブリオ率いる義勇大隊が全市を制圧したが、市からの抗議を避けるためにパオリからパリ行きを命じられ陸軍省に弁明に向かう
8.    予感
1792年フランス革命を敵視する周辺国との戦いが北部のオーストリアで始まるが、フランス軍は連戦連敗する最中、パリでも住民の蜂起があり、ルイ16世の身柄が拘束され、王権が停止、立法議会も解散。その後王は処刑
2月に遡って大尉に昇進し、砲兵第4連隊に復帰を命じられるが、またしても休暇を取って帰島。フランス軍のサルデーニャ遠征に召集される予感から、軍功を上げようとする
9.    サルデーニャ遠征
予感通り、サルデーニャ遠征に参加するが、パオリは過激なフランスの革命を見捨てて独立を志向。ナブリオは居場所をなくす
10. 逮捕命令
パオリの意図が露見して逮捕命令が出る。全島がパオリ派に牛耳られ、ナブリオも祖国の裏切り者として襲われ一命をとりとめる

第3章        革命
1.    出直し
93年、家族ともどもコルシカを脱出してマルセイユに到着。原隊復帰の手続きを取ると、連隊の中のイタリア方面軍がニースに駐屯しており、大尉の位のままで中隊長に就任
共和制下でジャコバン党とジロンド党が熾烈な国内闘争を展開
トゥーロン軍港がイギリスとスペインに占拠され、フランス海軍の軍艦は大半が拿捕され、軍港奪回に動く
2.    陣容
トゥーロン攻撃に際し、既設砲台を撤去して別の有効な場所に新設
3.    指揮官外し
作戦計画を進言するが将軍が悉く反対するので、ついに爆発して司令官を絞り上げる
4.    幕僚会議
腹に据えかねて陸軍大臣宛に作戦の詳細を説く手紙を送ったがなしのつぶて。
上官にはむかったにも拘らず少佐に昇進。司令官は解任。新司令官の下で漸くナポレオーネの作戦が採用されるが、その時の幕僚会議に中央の国民公会から派遣されてきた議員の1人がオーギュスタン・ロベスピエールで、ナポレオーネの作戦を称讃し、今や内閣ともいうべき公安委員会に席を占める兄・マクシミリヤンに伝えておくという
5.    奮戦
9312月のトゥーロン包囲戦で大活躍。悪天候をついて突撃
6.    初勝利
フランス軍の全面勝利。イギリスとスペインの艦船はトゥーロン港から撤退
軍功により少将に昇進
7.    クラリィ家
将軍としての初任務は南仏2県における監察総監で、南仏沿岸の軍事施設を査察点検し、砲兵設備を適切に配置し、一帯の防衛を強化する。本拠はマルセイユのサン・ニコラ要塞
マルセイユの典型的なブルジョア実業家のクラリィ家に招かれ、令嬢に一目惚れ
8.    誘い
94年、イタリア方面軍に転出、サルデーニャ王領地の北イタリア・ピエモンテ地方の都市オネーリア遠征を提案し、自ら指揮してアルプス越えで目的を果たしニースに凱旋するが、ニースも元々はサルデーニャ領
オーギュスタン・ロベスピエールから、パリ国民衛兵隊司令官に誘われるが、軍人として人民の暴動の鎮圧に当たるのは柄ではないと断る
9.    急展開
兄に続いてナポレオーネもクラリィ家の下の令嬢に求婚
94年、パリでクー・デタ勃発、ロベスピエール兄弟が断頭台へ。国民衛兵隊司令官も殺され、やがてナポレオーネも憲兵隊に逮捕。告発したのは同郷の革命の同志だった議員
10.    暗転
革命の熱波が収まって10日後には釈放され、原隊に戻る
9410月、イギリス・コルシカ王国誕生。ナポレオーネは奪回遠征には参加せず、遠征隊はジェノヴァ湾でイギリス・ナポリ連合艦隊に大敗
95年、新たに西部方面軍勤務を拝命。王党派とカトリック擁護派が一体化して革命政府に反乱を起こしていたヴァンデ地方鎮圧のために補強され、しかも砲兵ではなく騎兵の隊長として

第4章        パリ
1.    どん底
病気療養を理由に西部方面軍への赴任を拒否、落ち込むが、西部方面軍に左遷させた公安委員会の軍事担当委員(旧陸軍大臣に相当)がジロンド党で、任期切れで委員辞任
2.    藁葺き屋根の館
新たに軍事委員となった人の配慮で、公安委員会の測量課に配属。軍の作戦計画にも参加
赴任を拒否したため、予備役に降格となり、給与も半減
革命の口火を切った男の住まいが藁葺き屋根の館で、サロン化している
3.    食卓
食卓の隣に座ったのがマルティニーク島生まれのマリー・ジョゼフ・ローズ。ジャコバン党時代には革命犯罪人として拘束されていた
4.    呼び出し
王党派が反革命に立ちあがったところで、「パリ武装兵力と国内方面軍」副司令官の口がかかるが、またしても暴動の鎮圧が目的だったが、今回はジャコバン派の復活もあり得るとして引き受ける
5.    男たち
3,4万の蜂起軍に対し、正規軍は5千しかなく、多くの将軍が籠城戦を主張するのに対し、ナポレオーネは大砲を使って脅し、包囲網突破を提案し、強引に押し通す
6.    葡萄月(ヴァンデミエール)13
蜂起軍が目前に迫る中、何時までもテュイルリ宮で議論を続ける議員たちに銃を配って覚悟を決めさせる
7.    撃て
国民公会議長の司令官は、フランス人同士の殺し合いの回避のため最後まで話し合いを試みたが、どうにもならなくなって銃撃戦へ。大砲の威力で蜂起軍は潰走
ナポレオーネは「葡萄月将軍」の名で囃されていた
8.    父の形見
国内方面軍は、パリ全戸の家宅捜査を実施、あらゆる武器を没収したが、共和国軍の将軍の遺児から、父の形見の軍刀を返すよう特別の計らいの依頼があり、聞き入れると翌日その母親と名乗る女性が現れ、何とローズ夫人だった
9.    未亡人
すっかりローズの虜になって、ジョゼフィーヌと呼び、ローズからもナポレオン・ボナパルトにしろと言われて名前を変える
国内方面軍中将に昇進し、司令官となる
国民公会は解散され、代わりに五百人議会、元老会が出来、新政府が正式に発足
10. 心配
王党派の鎮圧で国内方面軍の仕事がなくなり、またイタリア方面軍の司令官に転出
11. 結婚式
1796年、赴任前にジョゼフィーヌと結婚式を挙げる。評判は良くなく、財産も特別あるわけでもなく、人脈も無かったが、盲目的に突進
12. イタリア方面軍
赴任途中マルセイユに立ち寄り、母親に結婚の報告をするが、クラリィ家令嬢とのことがあり、嘘にも嬉しい顔をしなかった
イタリア方面軍の本営はニース。参謀長が事前に面会に来て、粗衣粗食の兵士が乞食同然で、軍が崩壊寸前だと報告するが、政府の財政自体も破綻寸前で支援は期待できず
積極進軍の方針を明確に指揮官に示し、兵士には食いたければ進軍しろと発破をかける

第5章        イタリア
1.    戦闘開始
964月、進軍開始。アルプス山脈とアペニン山脈の境目カディボーナ峠から北上、連戦連勝でサルデーニャとオーストリアの両軍を次々に撃破
すぐにサルデーニャが休戦交渉に乗ってきた
2.    ロディ
ジョゼフィーヌを呼び寄せようとしたら妊娠が分かる
ミラノに攻め上がる途中、南のロディ城を陥れオーストリア軍と対峙
3.   
ロディの川を挟んで1本の橋が攻防の境目、フランス軍は共和国万歳を叫んで士気の高さで圧倒オーストリア勢は総崩れとなって退却。フランス軍はクレモナに駐留して監視
4.    ミラノ
フランス軍はミラノ入城を果たし、オーストリア軍から解放された市民の歓迎を受ける
ロンバルディアの解放者としてナポレオン将軍を称讃。ボナパルト人気が沸騰
市には民主主義的な共和国設立の準備が始まる
漸く待ちに待ったジョゼフィーヌが合流
5.    アルコレ
続くマントヴァ包囲戦では、新たな将軍を抱いたオーストリアの大軍の前に退却したが、更に東進してアルコレで対決、何とか撃破
6.    戦略
年が明けて教皇庁とは休戦協定締結を確認し、南下してきたオーストリア軍を迎え撃つ
7.    リヴォリ
マントヴァの北のリヴォリが決戦場
8.    決戦
オーストリアの大軍に隘路の封鎖を突破されて劣勢になる
9.    レオーベン
逆転勝利で敵軍の大半を死傷、或いは捕虜として捕獲。マントヴァ占領完了
教皇庁と正式な講和条約を締結し、賠償金をせしめる
975月、イタリア戦争を終結させ、次の目標はアルプスを越えてウィーンだったが、パリからの支持は和平であり、ナポレオンも潮時を悟ってレオーベンで仮講和条約を締結。オーストリアにベルギーとロンバルディアを放棄させヴェネツィアの領有を認める一方、共和国領土のうちイオニア諸島をフランスが取り、ブレシア、ベルガモをロンバルディアに併合させるが残りはオーストリアへの帰属を認める
10. モンベッロ
ナポレオンは、ミラノ北郊外のクリヴェリにあるモンベッロ城を私邸とする
ミラノは宿願が叶ってチサルピナ共和国の建国を宣言、オーストリアが放棄したロンバルディアに前年建国したチスパダナ共和国とトランスパダナ共和国、ヴェネツィアに割譲させたベルガモ、ブレシアと合わせて版図を成し、フランス憲法に倣って立憲。民主的な共和国として、当然フランスの同盟国として発足
ジェノヴァにも新しい国としてリグリア共和国を建国
コルシカは、パオリがイギリスと折り合いが悪く島を出た後、ナポレオンが送り込んだ兵団がイギリスを追い出して、再びフランス共和国の1県に復帰。ナポレオンは義弟を総督として送り込む
979月、パリではまたもや王党派が復活して議会の支配を広げつつあるのを見て、ナポレオンは配下の将軍をパリに派遣し、王党派の総裁、議員らを共和制転覆謀議のかどで逮捕、流刑とするクー・デタを敢行、王党派を一掃


【野望篇】
フランスの英雄から、ヨーロッパの覇者へ。歴史巨編、激動の第2
イタリア遠征では数々の勝利を挙げ、次に大軍を率いてエジプトへ向かったナポレオン。だが、諸外国による対フランス大同盟で、フランス本国が危機に陥る。クー・デタで権力を手に入れたナポレオンは、1804年、34歳で初代フランス皇帝の座に。若き将官が皇帝にまで上り詰め、ヨーロッパの覇権争いに乗り出す第2巻「野望篇」
第1章        冒険
1.    帰国
97年末、ナポレオンはパリに凱旋
その前にレオーベンの仮講和条約をカンポ・フォルミオ条約で発展的に確認。オーストリアはチサルピナ共和国とリグリア共和国の独立を承認。ベルギーをフランスに割譲、ライン左岸もらシュタットでのドイツ諸侯会議でフランスへの帰属を認めさせる
帰国後最初に会ったのが外務大臣のタレイラン。15歳も年長
2.    外務大臣
タレイランは、革命前から王家の財務総監カロンヌの右腕として頭角を現し、ジャコバン党時代はイギリス・アメリカに亡命していたが、オータン(ナポレオンがコレージュに通った地)司教から聖職者代表議員となり、そのまま国民議会の議員になっていた
ナポレオンは、イギリス方面軍司令官を拝命
3.    視察
982月、ダンケルク海軍工廠視察
イギリス上陸には、敵の目を盗んで海を渡らなければならないが、それだけの舟と航海の安全はない
4.    決定
イギリスのインドへの通過点として重要なエジプトに攻撃を仕掛けることを考える。先のオーストリアとの和平交渉で、イオニア諸島領有を主張した背景に、イギリスを破るためにはエジプト征服が不可欠とし、タレイランも全面的に協賛していた
5.    学士院
95年、「科学と芸術の国立学士院」に代わって新たに共和国の下に設立されたがフランス学士院。ナポレオンも97年末に、空席だった物理数学部門の会員となる
タレイランと一緒になってエジプト遠征を議会に諮るが、総裁始め誰も乗ってこない
6.    ボダン商会
97年末、ローマで蜂起勃発。イタリア方面軍は教皇と枢機卿を追放して、ローマ共和国設立。イタリア方面軍の兵站を一手に引き受けていたのがボダン商会
議会を説得してエジプト遠征に出発
7.    渡海
986月、トゥーロン港を出発。陸軍32千、海軍17千、学者など千人、大砲2千門
提督になったばかりのネルソン少将のイギリス海軍が追う
8.    アレクサンドリア
ナポレオンがアレクサンドリアに上陸する前にネルソンも沖合に現れ、偵察だけでキプロス方面に向かっていた
嵐の中を上陸作戦強行
9.    進軍
ベドウィンの来襲を受けながらもアレクサンドリアに向け進軍。大した抵抗も無く陥落させると、次いでカイロに向かう
10. 裏切り
猛暑の砂漠の行軍に苦しみながらもカイロに向かう途中、ジョゼフィーヌの浮気話を周囲から聞かされ離婚を決意

第2章        エジプト
1.    感嘆
カイロの手前まで来て、トルコの支援を受けたマムルーク軍の部隊が色とりどりの幕舎を張り巡らして待機。キリスト教世界にはまだ幕舎はなく、ヨーロッパの騎士たちを迎えたイスラム教徒の幕舎をヨーロッパ人は感嘆と羨望の眼差しで見たという
2.    ピラミッドの戦い
中世の騎士のような戦いをするマムルーク軍の騎兵に対して銃器を使ったフランス軍はピラミッドの戦いに圧勝
3.    カイロ
クフ王のピラミッドの146.6mの頂上に立って睥睨
カイロ市内に入り、先ずエジプト学士院を設立
その間、アレクサンドリアではネルソンが現れ、アブキールの海戦で仏軍は大敗、フランスへの退路を断たれる
4.    反乱
ナポレオンはイスラムの習慣を尊重していたが、アブキールでの敗戦に触発されるかのように、カイロで反乱の火が上がるが平定
5.    思わぬ展開
イギリスがトルコと組んでナポレオンを攻めると読んで、先手を打ってシリアに向かう
6.    シリア
エジプトに向かおうとしていたトルコ軍を地中海沿岸で殲滅したが、ペスト感染が広がる
7.    アッコン
中世十字軍の激戦地サン・ジャン・ダックル(聖ヨハネのアッコン)は、シリアの5つの総督区の1つで要
トルコとロシアがイギリスと同盟してフランスに宣戦布告する見通しだったことが分かり、先手を打った格好となったが、ペストには勝てず、エジプトに撤収
8.    アブキール
アブキールからイギリス海軍とトルコ軍が上陸、フランスの守備隊を全滅させる
ナポレオンは、敵軍がすべて上陸するのを待って、反撃に出る
9.    報復
騎兵を中心とした突撃でトルコ兵を撃破、完勝して海戦の報復を遂げる
10. (しら)
対フランス大同盟結成、フランス軍は、ドイツからもスイスからもイタリアからも追い出される。それを聞いて、イギリス海軍が一時的に海上封鎖を解いた隙を狙って帰国を図る
11. 帰還
6年ぶりの故郷を経由してパリに向かうと、国内の荒廃、治安悪化に唖然とする
12. (すが)りつけ
離婚を決意したものの、許しを乞い縋り付くジョゼフィーヌを許さざるを得なかった

第3章        権力
1.    リュクサンブール宮殿
179910月、バラス総裁等有力者4人と会い今後を相談するが、何れもパッとしない
2.    下拵え
ナポレオンは自分でやるしかないと思ったが、憲法上は40にならないと総裁になれないとあって、最後に選んだのがシェイエス総裁。今年就任したばかり。革命の時ミラボーやラ・ファイエットと並ぶ3傑、国民公会の議員でルイ16世の処刑にも賛成したが、ジャコバン党と対立、ロベスピエール時代は地下に潜伏。復帰後は政界の中道派を率いる領袖として、密かに改憲のクー・デタを目論んでおり、ナポレオンの弟を右腕として取り立て五百人議会の議長にしていた。その弟からの誘いでもあったが、黒幕はタレイラン
3.    警察大臣
国民公会の議員から警察大臣になったジョゼフ・フーシェや、フーシェの勧めでパリ駐屯師団の司令官ルフェーブル将軍を抱き込む一方、議会の多数派である左派ジャコバン派の将軍との接触も始める
4.    霧月(ブリュメール)18
クー・デタの当日。ジャコバン派も同じような計画で動いていたので機先を制する必要
議会のサン・クルー移転を決議させ、ナポレオンにその警護を命じる
5人の総裁のうち、2人を軟禁、バスラには金を握らせて辞職、隠居させ、シェイエスともう1人も辞任して総裁政府を機能不全とし、議会に新たな臨時政府の樹立をさせる
5.    サン・クルー
パリの西15㎞の宮殿で、ルイ14世の弟オルレアン公が建造、同家から購入したマリー・アントワネットが避暑に使っていたが、当時は国有財産
臨時議会を開催するに際し、ジャコバン派は招集対象から外そうという声に対し、ナポレオンは卑劣な措置に反対、全員を招集するべきと唱えたが、案の定ジャコバン派によって議会は大揺れ。ナポレオン自ら出向いて元老会は説得したが、ジャコバン派が大勢いる五百人議会では暴力で追い払われ、やむなく軍事クー・デタに切り替え議会を四散させ、元老会が3執政からなる臨時執行委員会の設置を決議。シェイエスとデュコ元総裁、ナポレオンの3人が執政に任命。新憲法制定のための委員会が発足
6.    主導権
執政3人の間で早速議長を巡って腹の探り合いとなり、シェイエスは自分の腹心と思っていたデュコの支援で自ら主導権を握れると思っていたが、軍事クー・デタとなったことでデュコはナポレオンを支持。元々デュコはジロンド派の生き残り。ナポレオンは3人の交代制を提案し、初日の議長となる
早速憲法改正で激突。ナポレオンは行政府の強化を主張して譲らず
7.    憲法制定
逐条ごとに条文を固める作業により新憲法草案を詰めていく
共和国筆頭を占める3行政官をシェイエスが指名、筆頭にナポレオンが指名され、シェイエスは敗北宣言
8.    電撃作戦
1執政にナポレオン、第2執政はブルジョア出身のカンバセレスで左派代表、第3執政のルブランは元王党派で右派を代表
対フランス大同盟からロシアが抜ける
執政就任後初の対外遠征は、劣勢のイタリアに向かう
9.    ハンニバルの道
ジュネーヴから大サン・ベルナール峠を越えてピエモンテへ。どの道か定説は無いがカルタゴのハンニバルがローマを攻撃するときに通った道。オーストリア軍も全く無防備
10. 山道
山城に行く手を塞がれ、迂回してミラノに向かう
11. マレンゴ
ミラノに入ってチサルピナ共和国を再興。その間にジェノヴァがオーストリア軍に降伏
ロンバルディアとピエモンテの間のマレンゴで両軍対峙するも、オーストリア軍の予想外の規模に圧倒されたが、思わぬ援軍の到来で九死に一生を得て形勢逆転

第4章        戴冠
1.    仕事再開
18007月、パリに戻り執政の仕事に就く
スペインとの間にサン・イルデフォンソ条約を締結。スペイン王の娘婿にトスカナを与え王国とすることを承認する代わりに、ルイジアナ植民地をフランスに返還させ、和平を結ぶ。旧オランダはバタヴィア共和国として、旧スイスはヘルヴェティア共和国として再建され、親フランスに。ロシアも和平に向けて動き、スウェーデン、デンマーク、プロイセンも中立の立場を取ったので、残りはイギリスとオーストリア
2.    懸案
マレンゴの苦戦がパリには敗戦と伝えられた時から、早くも周囲では後継者問題が浮上
3.    小冊子
シャトーブリアンやモンモランシーに連なる最後のヴォルテール派の作家が書いた『カエサル、クロムウェル、モンク、そしてボナパルトの比較論』という小冊子は、ボナパルトを議会派のクロムウェルでもなく、王政復古を唱えるモンクでもない、ローマを共和制から帝政に導いたカエサルに最も近いと結論付け、暗に第1執政の終身制から、果ては新たな君主制の樹立を仄めかすものだったが、作家と親しかった実弟の内務大臣がパリ各所から各県知事にまで配布、しかもナポレオンまでが内容に手を入れていることが警察大臣に露見。内務大臣をスペイン大使に転出させて事態の収拾を図る
4.    ノエル前夜祭
オーストリアとの和平交渉が進まないまま、休戦が切れ戦闘再開、すぐにフランスが圧勝するが、それでも和平にならない
教会にも改革の手が入れられたが、憲法に宣誓する聖職者と、宣誓を拒否するカトリックに忠実な聖職者が分裂、教会は大混乱に見舞われ、信仰そのものが廃れ民心が荒れたため、ナポレオンがとった政策がカトリックの復活。国内での聖職者の対立を解決し、ローマ教皇庁と和解、政教協約コンコルダを試みる(1801年成立、教会財産は国有化)。キリスト教に由来する諸々の習慣も廃され、グレゴリオ暦も共和暦に改められていたが、カトリックの祝日を祝ってもよいと触れる
クリスマス・イヴの賑わいのなか、ナポレオンもオペラ座に観劇に向かう途中襲撃され一命をとりとめる。血に飢えたジャコバン派による暗殺未遂事件として、フーシェにテロリスト作成を命じる
5.    真相
犯人捜査の結果は、王党派によるものとされ、イギリスまでが背後で動いているとの報告で、改めて暗殺を黙認するもジャコバン派のフーシェの腹一つで決められていることを思い知らされる。更には、オーストリアが和平を引き延ばしているのも、ナポレオンが暗殺される計画を知っての事だと納得
暗殺未遂により、オーストリアとの間に漸くリュネヴィル条約が締結され、オーストリアはバタヴィア、ヘルヴェティア、チサルピナ、リグリア各共和国を承認、ライン左岸をバーゼルから北海に至るまでフランスに割譲。フランスの版図はルイ14世時代を凌駕
6.    終身執政
18028月、国民投票の結果ナポレオンを終身執政とする
ナポレオンの弟ルイとジョゼフィーヌの連れ子が結婚
イギリスとの間にはアミアン条約が締結。イギリスも10年に及ぶ戦闘の継続で財政的に破綻寸前
公教育法成立。すべての県に国立高等中学校(現・リセ)を設置。軍人志望にはサン・シール陸軍士官学校設立
レジオン・ドヌール勲章創設 ⇒ 王家が与えてきた騎士団勲章に代わるもの。軍団兵、将校、指揮官、大将校の4位で「名誉(オヌール)の軍団(レジオン)」を成す意味
7.    辞職
フーシェ封じのため、省庁再編で平和の実現に伴い警察省を法務省の一部門に格下げし、代わりに元老院議員に任命するが、裏ではナポレオンの士官学校時代からの同僚で今は秘書官の金にまみれたスキャンダルを握っていて、解任と同時に密かにマスコミに暴露。秘書官は辞職せざるを得ず、ハンブルク大使に退避
8.    マルタ問題
16世紀から聖ヨハネ騎士団が領有してきたマルタ島もフランス軍が占領していたが、1800年にイギリス艦隊が占領。アミアン条約では騎士団への返還が決められていたが、艦隊の撤退が進まず、イギリスの反抗はフランスの覇権姿勢・領土野望にあり
1802年初、チサルピナ共和国がイタリア共和国と名を変え、ナポレオンを大統領に選出。更にはエルバ島のエルトリア王国と、ピエモンテもフランス領に併合
フランスはアメリカにルイジアナ植民地を売却、対英の戦費に充当
9.    短剣
035月、イギリスが先制して宣戦布告
フランス国内では新たなナポレオン暗殺の計画が進む
10. 玉座
18043月、フランス民法典(「ナポレオン法典」とも)発布
君主制の樹立、第1執政の皇帝擁立への動きが始まる。憲法改正
フーシェも、警察省再建により警察大臣に復帰

第5章        覇業
1.    イタリア処分
180412月、ノートルダム大聖堂にてフランス皇帝として戴冠
同時に翌年にはイタリア大統領として即位
2.    ブーローニュ
イギリスまで40㎞のブーローニュに、18035月から、イギリス本土上陸を目指すフランス軍が終結するが、ドーバーの渡海は果たせず
3.    大陸軍
180510月、イギリス向けの陸軍をストラスブールに移動、オーストリアをウルムに撃破し、さらに南下
4.    勝敗
180511月、ウィーン開城。更にオーストリアを支援したロシア軍を追う
トラファルガー海戦でフランス艦隊がネルソンに完敗したが、ネルソンは戦死
5.   
露墺二帝同盟軍を追ってモラヴィアに進出
ナポレオンの方からロシアに和平を申し入れるが、9歳も年下のアレクサンドル1世の取り巻きである若い貴族が来ていきなりベルギーの放棄が交渉開始の前提条件だと切り出されて決裂
6.    前夜
ナポレオンの夕食はシャンベルタンの水割りで胃袋に流し込むだけ
墺露同盟軍の進撃が始まり、フランス軍は後退すると見せかけて、アウステルリッツ村に同盟軍部隊をおびき寄せ、敵が罠にはまったことを確認
7.    アウステルリッツの3帝会戦
完璧に罠にはまった同盟軍を完膚なきまでに殲滅
8.    地図
会戦の大勝に加えてナポレオンが手にしたのが途方もないくらいの覇権
アレクサンドル1世は自陣にフランスの将軍を迎え、請うて休戦協定を結んだうえで撤退
残された神聖ローマ皇帝フランツ2世も、フランス軍に占領されている故国を措いて他に逃げる先も無く、休戦協定を結び、正式な和平としてプレスブルク条約を締結、賠償金の外にイタリアのヴェネト地方(旧ヴェネツィア共和国)をイタリア王国への包摂承認、アドリア海のダルマチアをフランスに割譲したほか、ドイツにも一部領土を割譲させられる
1806年新年を以て共和暦を廃止。ドイツの各地に王制を復活させる
イタリア副王だった義息とバイエルン王女が結婚。兄のジョセフをナポリ王にしたが、英露同盟軍がナポリに宣戦布告するもナポレオンの敵ではなかった
アウステルリッツの結果を伝えられた対仏強硬派のイギリス宰相ピットは、「すべての地図を片付けろ、後10年は不要」と言い、絶望がピットの命を縮め46歳で死去
次いで、弟のルイをオランダ王とし、バタヴィア共和国はオランダ王国となる
勢いをかってドイツの神聖ローマ帝国にも手を入れ、ライン連邦を建国、フランクフルトを都として、バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国など南ドイツの16国を糾合、ナポレオンがその「守護」に就く。皇帝フランツ2世も容認し、「神聖ローマ皇帝」の称号を放棄
英普墺露との間に独立国を作って緩衝地帯とし、それぞれに身内や信頼できる部下を君主として配置 ⇒ 東のオランダ王国(4男ルイ)、ライン連邦、ベルク大公国、クレーヴ大公国(ベルクと共にバイエルン領から分割し、義弟のミュラに与える)、ヌーシャテル大公国(スイス、イタリア方面軍司令官時代の参謀長ベルティエが大公)、南にイタリア王国、ポンテコルヴォ大公国(ジョゼフの義弟が大公)、べネヴェント大公国(タレイラン外相が大公)、ナポリ王国(長男ジョゼフ)
1805年末、ポツダムでフランスと攻守同盟を締結していたプロセンが早くも反旗を翻らせる

【転落篇】
ヨーロッパの大半を支配した稀代の英雄の栄光と凋落。歴史巨編、ここに完結
破竹の勢いで諸国との戦争に勝利し、ヨーロッパをほぼ手中に収めたナポレオン。しかしロシア遠征に失敗し、対フランス同盟軍に追い詰められてゆく。1814年、ついに退位に追い込まれ、エルバ島へ流されるが、翌年、島を脱出し、再起をかけた戦いに挑む。一代でヨーロッパの頂点へ駆け上がった男の怒涛の人生を描く大長編、最終巻「転落篇」
第1章        君臨
1.    破竹
18069月、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が北部連合の設立と仏軍のライン西岸への撤退を要求して最後通牒を発出、プロイセン戦争開始。僅か1か月で大勝し、ベルリン入城を果たす
11月には大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出してイギリスを大陸から締め出し
次いでロシアへ出兵。アウステルリッツと同じ冬期だったが、季節外れの暖気に雪が解け泥濘の中の行軍を断念、18071月一旦ワルシャワに引き返す
2.    伯爵夫人
18世紀だけでも3度も国を分割されたポーランドでは、ナポレオンを救世主の如く熱狂して迎え、ナポレオンも暫定政府を樹立して答える
熱心にポーランドの独立を懇願する伯爵夫人に一目惚れ
3.    記念日
次の主戦場はバルト海沿岸の良港ダンツィヒ。真冬の戦闘で凄惨な殺戮戦となり、フランスは勝っても多大な損傷を蒙るが、6月に入って再度立て直して猛攻、今度はマレンゴ戦勝記念日に完勝
4.    ティルジット
ロシアから休戦の申し入れを受け、ティルジットでロシア皇帝と和平交渉へ
ナポレオンの狙いはあくまでプロイセンであり、ロシアと戦うのは無益だと考えていた
ロシアからはイオニア諸島とアドリア海の港を割譲、プロイセンは残すが、ヴェストファーレン王国を独立させ、末弟ジェロームを王に据える。ポーランドにはワルシャワ公国を樹立。密かに協調してイギリスに対抗することや、ロシアのトルコ征服の支援も合意
5.    ソモシエラ峠
大陸封鎖令に反抗してイギリスとの密貿易を行っていたのがローマ教皇庁とポルトガル
ローマには軍を派遣、ローマ全体をフランスに併合
ポルトガルについても軍を派遣して沿岸の港の封鎖を企図。スペインはお家騒動のアランフェス暴動でイギリス派のフェルナンド7世が即位していたため、ナポレオンは進軍の途上王族を呼んですべての権利を譲渡させ、兄ジョゼフを王に即位させるが、それに反発したスペイン民衆が蜂起、正規軍迄加わっての反乱に仏軍は手を焼く、激戦の地がこの峠
6.    絹の靴下の中
峠を制覇してマドリッド入城を果たし、上陸してきたイギリス軍も追い散らすが、そこにパリで後継者擁立の陰謀ありとの報が届き急遽帰国。首謀者はフーシェとタレイラン
タレイランの陰謀を知って、ナポレオンは彼を「絹の靴下の中の糞」とまで罵倒
7.    ワグラム
18097月、スペインでの仏軍の苦戦に勢いづいたオーストリア軍が動き出し、ナポレオンも出陣してドナウ北岸のワグラムに対峙。圧倒的な砲火で制圧
8.    離婚
ポーランド征服の際独立支援を懇願してきた伯爵夫人マリア・ウァレフスカがナポレオンの子を身籠る
子供が作れるとわかったナポレオンはジョゼフィーヌを離婚し、ヨーロッパの「王家の腹」を探し、ロシア皇帝からは拒絶されたが、オーストリアのフランツ1世の息女マリア・ルドヴィカとの結婚に成功。ジョゼフィーヌは皇后の称号を残したまま離婚に同意

第2章        絶頂
1.    奇襲攻撃
18103月、マリア・マドヴィカの輿入れ。フランス皇后マリー・ルイーズに。祖父の妹がルイ16世に嫁いだマリー・アントワネット
2.    オランダ旅行
ルーヴル宮の四角宮の広間が礼拝堂に改装されて結婚式を挙げる
18歳の皇妃に溺れる
3.    和平交渉
皇妃を帯同してオランダ視察に出る。オランダは大陸封鎖令で寂れる
イギリスとの和平交渉に乗り出して見るが、実現の可能性は薄く中断
4.    処断
イギリスとの和平交渉を裏で密かに進めているのがフーシェだと判明、閣内から追放
オランダ王のルイが抵抗する姿勢を見せたので攻撃、ルイはオーストリアに亡命、オランダ王国をフランスに併合、進んでエルベ河以西も占領
スウェーデン議会は、ジョゼフの義弟ベルナドット元帥を国王の後継者に指名
5.    夢にまで見た
18113月、皇妃が臨月。破水で逆子
6.    花火
無事男児誕生。母体も無事。ローマ王に即位
7.    ドレスデン
125月、ナポレオン夫妻はザクセン王国の都ドレスデンにフランツ皇帝夫妻を迎える
ドレスデンで同盟各国の首脳会談を開催
その後ダンツィヒに60万という当時では最大規模の軍勢を集めてロシア遠征に向かう
ロシアがティルジット条約を破棄、大陸封鎖令を無視してイギリスと交易を開始したことに対する制裁が目的であり、大陸軍を擁して短期決戦を期す
8.    ボロディノ
6月だというのに氷雨で、前回同様泥濘に足元を掬われながら、漸くモスクワの西100余㎞のボロディノで会戦、撃破するが味方も相当な損害を被る
9.    モスクワ
ナポレオンは講和の使者を待ったが来ないまま、ロシア軍はモスクワの市外退去を開始
無血入城を果たすが、市内はもぬけの殻で、クレムリンに入るとすぐに放火が始まる
ロシアの諺:一夜の寝床を貸すのが嫌で、自分の家に火をつける
ファビウス戦術と呼ばれる焦土作戦 ⇒ 古代ローマの執政官ファビウスがハンニバルに襲われた際にとった戦術
10. ベレジナ河
市内の3/4が焼け落ちる。ロシアには講和の意志はない
まもなく初雪が降って、南下して食糧調達に走る。1か月の退避行で5万人が死去
リトアニアに戻るベレジナ河渡河では6,500に満たない軍勢となり、ロシア軍の追撃を受けながらなんとかポーランド近くまで来たときに、パリでクー・デタ未遂事件勃発と聞かされる

第3章        失脚
1.    摂政
1812年末、ナポレオンはパリに戻ると3カ月後には皇妃を摂政として、自らは戦争再開を決断。その前に息子のローマ王と、皇妃のイタリア王妃の戴冠を挙行
直後にドイツ遠征出立
2.    再起
最初に目指したのがザクセン王国の古都ライプツィヒ。プロイセン・ロシア同盟軍を圧倒、ドレスデンも陥れ、エルベ川まで前線を押し戻す
3.    メッテルニヒ
136月、中立を宣言したオーストリアの外相メッテルニヒがナポレオンのいるドレスデンに来て提案したのはナポレオン帝国の解体にも近い領土からの撤退
4.    勝利宣言
プラハでの和平会議開催を決めただけ
5.    ライプツィヒ
プラハ会談は決裂、オーストリアはロシア側に立ってフランスに宣戦を布告
ライプツィヒが決戦場に
6.    ドイツ人
敵地で劣勢、ザクセンやバイエルンが寝返って、一旦パリに引き揚げる
7.    パリにいる
タレイランの進言を受け入れてスペインのブルボン王政を復活させて撤兵、東に備える
メッテルニヒからの和平提案があり、受け入れようとしたが、その直前に同盟国が交渉決裂を発表、同盟軍がラインを西に越え、オランダ、スイス、アルザスから続々と侵入、フランス戦役開始
8.    抗戦
18143月、プロセンとロシアに占領されたランスを奪還したが、元はといえば亡命フランス貴族で王党派の手引きによって敵の手に渡っていたもの
ボルドーにはイギリス軍が上陸したが、これも手引きしたのはルイ16世の末弟の息子
東から侵入する同盟軍35万に対し、ナポレオンは10
同盟軍はナポレオンとの直接対決を避けながらパリ近郊60㎞まで来て包囲に入る
9.    降伏
ナポレオンがパリに戻る前に降伏調印したのは、皇帝代理としてパリにいた兄ジョゼフで、舞台回しをしたタレイランはすぐに元老院を招集し臨時政府を樹立
ナポレオンはフォンテーヌブローに陣取って同盟軍と対峙
10. 勧告
臨時政府はナポレオンの廃位を宣言。同盟軍も退位を勧告
部下の将軍たちもパリ包囲には反対、ナポレオンも已む無くローマ王のナポレオン2世と皇妃の摂政就任を条件に退位を受け入れ
11. 最後の望み
同盟軍の要求は無条件退位で、身の安全は保障されるが、パリの元老院はルイ16世の弟を「フランス人民の王」と呼び、ルイ18世として即位させようとしていた
皇妃にはイタリア中部の3公領パルマ、ピアチェンツァ、グアスタッラが与えられ、ゆくゆくは息子のローマ王が継承できるとされた
ナポレオンはエルバ島に流され年金を与えられる
12. 絶望
妻子と一緒に居たいという一縷の望みすら拒まれて絶望の淵に

第4章        復活
1.    別れ
18144月、阿片による服毒自殺を試みるが未遂
2.   
南仏ではナポレオンを悪魔として非難する群衆から投石を受けながら進む
護衛を断って、英普墺露各代表の監督下だったが、宿地では馬車から引きずり降ろされ暴行迄受ける。南仏では王党派がまだ強く残っている
3.    エルバ島
コルシカ島までは50㎞しか離れておらず、環境はほとんど変わらないので、故郷に戻ったようなもので、将軍3人以下親衛隊古参兵が付き添いとして来た部下たちを督励して島を君主のように統治
ポーランドの伯爵夫人だったマリア・ウァレフスカとその子を島に呼び寄せる
4.    来てくれた者たち
監視の目を潜って昔の忠実な「友」が訪ねて来て、ヨーロッパの様子などを知らせてくれる
5.    ボナパルト派
「友」の1人が、王政復古が不人気であることを知らせてくれる
ルイ16世の弟たちが相次いで王位に就いたが、何れも無能で、タレイランが中心になって閣僚が決まるが、財政は破綻。不満が昂じてナポレオンに仕えた将軍たちの周りに不満分子が集まりボナパルト派と呼ばれている
149月から同盟国は、ナポレオン後の体制を討議するためにウィーン会議を開くが、同床異夢で紛糾するばかり。今こそ立ちあがるべき時だと「友」に促される
監視役がイタリア本土の愛人に会いに行っている隙に脱出を試みる
6.    上陸
152月、一緒にエルバ島に行った古参兵を含め1000人余りで、革命の三色旗を掲げて南仏のカンヌとアンティーブの間の砂浜に上陸
「国民への布告」と「軍への布告」の2種の紙を配布しながらノートルダム大聖堂へと向かう
普通ならアヴィニョンへ向かい気候温暖なローヌ渓谷沿いにプロヴァンス地方を北上するルートを選ぶが、ナポレオンが選んだのはグラースからドーフィネ地方を抜けてアルプスの険しい山道を北上する道を選ぶ。ドーフィネは革命の揺籃の地でもあり、熱狂的な歓迎を受ける
グルノーブルの手前で軍隊が出動して検問。隊長は実力で止めると言い張ったが、ナポレオンが1人で通り抜けると、兵士は一斉に銃を放り出して皇帝萬歳を叫ぶ
7.    鷲の飛翔
続いて進軍阻止に派遣された大佐は、ボロディノの生き残りで、部隊全体でナポレオンの進軍に合流。兵士は8千に達する
次の目標のリヨンには、ボナパルト迎撃の拠点として軍隊が派遣されていたが、それに反発した市民は三色旗を掲げて抵抗。ナポレオンを迎えて革命の気配が一気に広がる
更にかつての部下の将軍たちが陸続とナポレオンの幕下に帰順
ルイ18世はブリュッセルに亡命
8.    本音
ナポレオンは、ウィーン会議にコンタクトを試みるとともに、タレイランを代表に送ろうとするが、タレイランは固辞
英普墺露は軍事同盟を確認し、70万を数える同盟軍のフランス派遣を宣言
英雄の業といった「鷲の飛翔」をやって見せたかと思えば、細心に民意を図って自由帝政に甘んじて見たり、気まぐれが多い
ナポレオンの本音は、息子にフランスを渡すことだけで、自分の復帰もそのための橋渡し
9.    再びの戦場
6月にはベルギーのシャルルロワに進出、未だ組成のできていないイギリスとプロイセンの同盟軍に攻撃をしかける
10. ネイがおかしい
辛うじてプロイセン軍を駆逐したが、ネイの動きがおかしい
11.
次いでウェリントンの率いるイギリス軍に向かい、激しい雨の中をブリュッセルの南のワーテルローに追い詰める
12.
正面衝突を前に野営

第5章        ワーテルロー
1.   
雨のぬかるみで総攻撃は一旦延期
2.    もやもやと
当初より遅れて戦端が開かれた
3.    伝令
合流は間に合わないと予想していたプロイセン軍がイギリス軍に合流
4.    愚行
中央突破を期してフランス軍が突撃
5.    決着
一旦下がったイギリス軍が反撃に出る。守勢に回ったイギリス軍は悪魔の如き強さを見せる。そこにプロイセンが加わって数の上でも圧倒。片やフランス軍は他に廻っていた援軍の到着が大幅に遅れる
6.    迎え
ナポレオンはパリに撤退
議会を通じて体勢を立て直そうとするが、もはや議会はナポレオンの意を汲むどころか敵対。ナポレオンさえいなければ周辺諸国とうまくやっていけると考えている
7.    独裁の希望
ナポレオンの周辺が議会に乗り込んで皇帝独裁で押し切るべきと考えていた先手を打って、議会は革命で一世を風靡した英雄ラ・ファイエット将軍を押し立てて皇帝の退位を迫ってきた
民衆の後押しする声に、力で議会をねじ伏せようとする周囲の声に対し、ナポレオンはパリを地の海にしたくないと言って力によるクー・デタを否定する
8.    今回は
議会からは、退位を迫られ、退位しなければ廃位だと言われて、ナポレオンは2世に譲るために退位を決断。暫定政府の首班になったのはフーシェで、全てが彼の陰謀だったことにようやく気付き、エリゼ宮から退去を命じられる
9.    海上
議会はナポレオン2世の即位を承認。ナポレオンはアメリカへの脱出を試みるが、既に海上はイギリス軍により封鎖。臨時政府は同盟軍に降伏したが、イギリス艦隊は動かず
ルイ18世がパリに戻り、ナポレオン2世の即位はなくなり、タレイランが首相、フーシェが警察大臣として閣内に留まる
あくまで息子の即位に拘るナポレオンは、自らイギリス軍に投降する道を選ぶ
10. 人身保護法
ナポレオンは政治亡命を企図していたが、イギリスはセント・ヘレナ島への渡航許可を与えることで応対
イギリスではトーリー党の政府に対してホイッグ党が反発、ナポレオンの扱いに付き人身保護法に基づき1市民として暮らせるよう裁判所に召喚状の発給を請求し、発給までは漕ぎ着けたが、身分を保護していた艦船の出向に間に合わず
11. ロングウッド
18158月、イギリスを離れ67日の航海の果てにセント・ヘレナ着
島はイギリス東インド会社所有の火山島で、ナポレオンが虜囚生活を送る地がロングウッドという高原
12.
ナポレオンは自らの経験を口述筆記させる
息子の復位を夢に見たが、それを働きかける手紙を書いた部下が罪に問われ夢も潰える

エピローグ
182155日、ナポレオン死去、享年51.死因は胃癌。そのままセント・ヘレナに1市民として埋葬
手紙を書いた部下はナポレオンの死後漸く帰国を許され、ナポレオンの遺骸を祖国に連れて帰ろうと画策、1840年漸くイギリス政府にも認められ、祖国に戻って改葬
存命中は完成しなかったアウステルリッツ戦勝記念の凱旋門で止まり礼砲、シャンゼリゼが三色旗の軍旗の列に飾られ凱旋さながらに柩が進み、遺言によって希望していたセーヌ河畔の廃兵院(アンヴァリッド)に祀られる



ナポレオン
2020.1.11. 朝日
(書評)『ナポレオン』(1台頭篇、2野望篇、3転落篇) 佐藤賢一〈著〉
 自負と不安、現代日本映す人間像
 ナポレオンは、日本人の心をくすぐる存在らしい。今に始まった話ではない。吉田松陰や西郷隆盛の話が有名だろう。松陰は野山獄中で、隆盛は倒幕への思いを募らせるなかでナポレオンの伝記を読み、胸を熱くしている。彼らにとってナポレオンは、コルシカ島の独立運動に参加し、その挫折後も自由の闘士としてヨーロッパ諸国の解放に尽くした英雄であった。
 近年、再び話題を呼んだ吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』にも、ナポレオンが出てくる。上級生たちにいじめられた主人公のコペル君たちにとって、運命の苦難と立ち向かい、それを乗り越えていったナポレオンは勇気を与えてくれる人物であった。コペル君の助言者(メンター)であるおじさんも、皇帝になったナポレオンには批判的だが、人類の進歩に尽くしたその活動力をたたえている。
 それでは現代日本にふさわしいナポレオン像はあるのか。これまでも史料を駆使しつつ、読みでのある歴史小説を書いてきた佐藤賢一が満を持して発表したのが本書である。台頭篇(へん)・野望篇・転落篇と3巻にわたり、コルシカに生まれたナポレオンがフランスで軍人教育を受け、革命後のフランスで将軍として活躍、輝かしい栄光とともに皇帝となり、そして没落してセント・ヘレナ島に送られるまでを描く。
 軍事的天才としてのナポレオンの姿は、やはり読者をワクワクさせるものがある。その秘訣は機動力にあった。考えられない経路によって軍団を移動させ、拠点に集結させて相手より数的優位に立つ。それを可能にしたナポレオンの戦略眼とロジスティクス(兵站)を含むスピード感は、停滞する現代日本にとって痛快だろう。
 が、本書全体で印象的なのはむしろ、孤独で、自負心と不安感が目まぐるしく転換するナポレオン像ではないか。彼は故郷コルシカから追放されてフランスに行く。そこにあったのは挫折感と、自分はどこにも属していないという浮遊感であった。軍事的活躍によって台頭した後のナポレオンにも孤独がつきまとう。家族を起用するが全幅の信頼をおけず、配下の将軍たちに支えられつつ、どこかで裏切りを予感している。
 登場人物で精彩があるのは、妻となるジョゼフィーヌを始めとする女性たちだろう。しかし彼女たちに向き合うナポレオンもまた、その愛情を求めつつ、自信を持ちきれない。自分が愛されているかに不安を持ち、結果的に彼女たちを傷つける。マッチョというより、どこか冴えない中年男性として描かれるナポレオンが印象的だ。
 バランスを欠いた才能と、自分に対する不安。現代日本らしいナポレオン像かもしれない。
 評・宇野重規(東京大学教授・政治思想史)
    *
 『ナポレオン』(1台頭篇、2野望篇、3転落篇) 佐藤賢一〈著〉 集英社 各2420円
    *
 さとう・けんいち 68年生まれ。93年、『ジャガーになった男』で小説すばる新人賞。99年、『王妃の離婚』で直木賞。14年、『小説フランス革命』(単行本全12巻)で毎日出版文化賞特別賞。

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