現代文明、かくも脆弱 佐伯啓思 2020.3.31.
2020年3月31日 5時00分 朝日
(異論のススメ スペシャル)現代文明、かくも脆弱 佐伯啓思
佐伯 啓思(さえき けいし、1949年(昭和24年)12月31日 - )は、日本の経済学者。京都大学名誉教授。京都大学こころの未来研究センター特任教授。共生文明学、現代文明論、現代社会論といった国際文明学、文明論を研究している。第4期文部科学省中央教育審議会委員を務めた。1949年(昭和24年)、奈良県奈良市に生まれる。父は教育学者の佐伯正一。1972年(昭和47年)、東京大学経済学部を卒業。1979年(昭和54年)、東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻博士課程単位取得退学。西部邁と村上泰亮に師事した。専攻は社会経済学、社会思想史。
1979年(昭和54年)、広島修道大学商学部講師。1981年(昭和56年)、滋賀大学経済学部助教授、同教授を経て、1993年(平成5年)から京都大学総合人間学部教授。1997年(平成9年)、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。2015年(平成27年)、定年退職し、名誉教授になり、京都大学こころの未来研究センター特任教授に就任した。
自由主義や民主主義を国家の理念に据えるアメリカこそが、思想史的に進歩主義、革新主義であり、冷戦が終結した今、最も左翼的で進歩的な国家はアメリカであるとして、アメリカおよび自民党を保守・右翼とみなし、反米および反自民党を革新・左翼とみなすという誤謬に陥っている戦後の日本社会を批判している。
ニーチェの思想に基づき、近代の価値観である基本的人権や自由主義、民主主義は必然的にニヒリズムに陥るとしている。先述のアメリカ批判もこの延長上にあり、日本がアメリカ化し、ニヒリズムに陥っていることを問題視している。かつてはニヒリズムに対抗する術として、師の西部邁同様、保守主義を標榜していた。しかし、近年では、冷戦体制崩壊後の社会構造の変化によって、「保守と革新」、「右翼と左翼」という対立軸が不明瞭になったこともあり、これらの対立軸が既に時代遅れになった感があるとして、保守や革新に安易に拘泥することにも懐疑的な姿勢を向けている。
現在では、社会思想史や経済思想および時事問題から日本思想史・日本哲学に軸足を移している。東洋や日本の「無」の思想の意義を探り、小林秀雄や保田與重郎の思想、西田幾多郎の哲学、西谷啓治らによる「近代の超克」を手がかりにニヒリズムの克服を目指している。
本来「公共的な意志」で評価されるべき学問の場に、過度の成果主義、能力主義、市場競争が持ち込まれ、「何の社会的な役割も果たさないように見える、しかし長い目でみれば重要な意味をもつ研究」が切り捨てられることを懸念している。特に文系の学問には市場を基準とした評価はそぐわないと主張している。
現代に生きる人間は情報の洪水の中にいて大量の知識や情報があるがゆえに、それらを相互に関連付けたり解釈することができなくなっているのではないかと危惧している。そのため、現在の社会科学には学者自身の視座がなく、全体的な展望が失われてしまったと指摘している。なお、佐伯自身は文献をくまなく渉猟するよりも、古典を通して「現代」の本質を理解することの方が重要だとしている。
安倍は日本の伝統を守り、道徳教育を重視する点は、心情的には保守に見えるがアベノミクスを見る限り保守とはいえないとし、経済改革の進め方は急激であり地域格差や所得格差を広げ、社会の安定を崩している。第1次安倍内閣組閣時も、進歩を疑い歴史に学ぼうとするヨーロッパ流の保守と、進歩を信じ革新を目指す米国流の思想が混在しているという見方をしている。
新型コロナウイルスの流行が終息しない。米国や欧州に続き、東京でも感染拡大が続いている。私にはこのウイルスの脅威の程度を判断することはできないし、政府の様々な措置についても論評することはできない。ただここで論じてみたいのは、現代社会もしくは現代文明に対して、このウイルスがもっている意味である。今日の事態を少し突き放してみた場合、このコロナウイルス騒動は、見事に現代文明の脆弱(ぜいじゃく)さをあらわにしてしまったように見える。
現代文明は、次の三つの柱をもっている。第一にグローバル資本主義、第二にデモクラシーの政治制度、第三に情報技術の展開である。それらは、人々の幸福を増進し、人類の未来を約束するとみなされてきた。だが、今回のコロナウイルス騒動は、この楽観的な将来像に冷水を浴びせかけた。
もちろん、かつて16世紀に欧州から新大陸に持ち込まれた天然痘の大流行も、第1次大戦末期のスペイン風邪もいわば当時のグローバリズムの中で生じたものだし、近年のSARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)も世界へと飛び火した。だが、それにしても、今回のウイルスのグローバル化は驚くほど急速であり広範なものであった。
このパンデミックを引き起こしたものは、冷戦以降のグローバリズムである。世界的な市場競争が企業の海外進出を促し、また、EUのように、自由と民主主義の理念によって移民を受け入れ、広範な人口移動をもたらした。そこへ世界的な観光ブームである。
そして、グローバル経済のひとつの中心が中国であった。中国が世界の工場になり、各国は中国の市場をあてにして自国経済を成長させようとした。世界中が中国頼みになったのであり、この各国の戦略が、中国発のウイルスによって逆襲されたわけである。
ところでパンデミックとは、ギリシャ語の「パン(あまねく)」と「デモス(大衆、人々)」の合成語である。パンデミックとは、あまねく人々の上に関わってくる、というわけで、これは「デモス」による政治であるデモクラシーをも揺るがしている。
今回のコロナウイルスの場合、統計数字の示すところでは、致死率は、通常のインフルエンザより多少高いものの、さして深刻なレベルではない。感染力は多少高いといわれるが、極端なものではなく、また、感染者の8割は軽症で治癒するという。
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では政府は何もする必要はないかといえば、むろんそうではない。インフルエンザはもはや感染を封じ込めることはできないが、コロナの場合には、感染ルートが特定できればある程度感染速度を落とすことはできる。逆にパンデミックになれば、きわめて深刻な事態になる。したがって感染爆発状態に至る前に強力な対策を取ることは必要であり、休校措置、イベントの中止、渡航制限などはやむを得まい。それは常識的な判断であって、だからといって、今回のコロナがとんでもない毒性を持っているということではない。にもかかわらず、ほとんど日本中がパニックになった。一時、街からは人が姿を消し、店からはトイレットペーパーが姿を消し、株式市場はパニック売りとなった。
結果的にパニックを助長したのはテレビの報道番組でもあり、その大半は、私にはドタバタ劇としか思えなかった。たとえば、ある報道番組では、ある識者が安倍晋三首相の休校措置を批判し、ちゃんとした根拠を示すべきだ、唐突な決定では現場が混乱するだけだ、という。ところがそのすぐ後で、中国、韓国からの渡航制限の決定に対しては、遅すぎる、もっと事態を深刻に受け止めてリーダーシップを発揮すべきだ、という。また別の識者は、これが排外主義につながることを危惧する、というわけで、万事、まったくチグハグなのである。
また連日、恒例の「今日の感染者数」の報告がなされ、事態の深刻さを訴えるかと思えば、専門家の「感染者数よりも死者数が問題だ」という見解を報道する。ここ2週間が目途(めど)だと首相がいった。で、2週間が過ぎたが目途が立たないとなると、それはあたかも政府の責任であるかのような口ぶりである。政府の対応が場当たり的でその場しのぎだと批判するが、私には、政府を批判する報道番組も相当に場当たり的であるように見えた。政府批判をしつつ政府に依存し、問題の解決を政府に委ね、できなければ政府の責任を問うというこの構造は、今日の情報化社会のデモクラシーの姿そのものである。こうなると、政府の説明不足も含め、情報化とデモクラシーがパニックを増幅しているということも可能だろう。
問題は、新型コロナがまったくもって未知のウイルスだという点にある。何が事実かが、本当のところわからないのだ。どれだけの脅威かもわからないのである。これは、ある程度、経験的に確率的な予測ができる「リスク」ではなく、経験値がほとんどなく確率的予測も不可能な「不確実性(アンサーテンティー)」の状態である。リスクならまだしも政府による「リスク管理」の可能性もあるが、不確実性にあっては、誰も予測も管理もできない。
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今回のような新型の病原体の出現は、リスクではなく不確実性である。その時かろうじて頼りになるのは、政府や報道ではなく、われわれのもつ一種の「常識」や「良識」であろう。政府に依存し、報道に振り回されるよりも前に、自らこの事態をどう捉え、どう行動するかを判断するための「常識」であり「良識」である。
先日、ある知人がこういっていた。電車に乗っていると、河川敷で小学生たちが遊んでいるのが見えた。公園でも遊んでいた。それを見て、何かほっとした、という。昔はこういう光景が日常であった。今日、子供は帰宅するやいなや塾に行ってしまい誰も遊んでなどいないのだ。
ところがこれに対して、学校を閉じておいて公園で遊ぶのはおかしい、外出を禁止すべきだ、というクレームが政府に寄せられる。そこで文部科学省が、散歩その他の、多数が群れない程度の外出は問題ない、という旨の発表をした、という。何をかいわんやであろう。それほど、われわれは「常識」から遠くなってしまった。
ある高校教師がいっていた。休校になって初めて、職員室で先生同士が話すようになった。これまで、多忙のため話もできなかった他の先生のことがようやくわかった。おかげで職員室の雰囲気がずいぶんとよくなった、と。また、あるサラリーマンが言っていたが、在宅勤務がふえ、初めてゆっくりと子供や家族と過ごす時間がもてた。また、私の住んでいる京都では、ようやく本来の静かな街が戻ってきたという声はよく聞かれる。ここでもあらためて、われわれがいかに「常識」からへだたってしまっていたかを知るのである。
いいかえれば、この10年、20年のわれわれの生活がいかに「異常」だったかということになる。皮肉なことに、今回の「異常事態」が逆に、この間のグローバル競争の異常性をあぶりだした。確かに、今後、企業の業績悪化などによる経済の悪化はかなり深刻であろう。経営に苦慮する商店も多数でている。
しかし、上の実感が正直なものだとすれば、今日のグローバル資本主義のなかで、われわれはすっかり余裕もゆとりも失っていたということになる。市場主義や効率主義や過剰な情報文化は、われわれから思考能力も「常識」も奪い取っていった。人々と顔を突き合わせて話をし、家族や知人とゆっくりと時間をすごす日常的余裕がなければ「常識」など消えてしまう。それだけではなく、この間の市場主義は、医療や病院という公共機関を効率性にさらすことで、医療体制にも大きなダメージを与えてきたのである。
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もしも今回のコロナのパンデミックが、多大な経済的打撃を与えるとすれば、それほど、われわれは脆(もろ)い、ギリギリの経済競争のなかで生きていた、ということである。生産拠点を中国に移し、中国からのインバウンドで経済成長を達成するというやり方の危うさが明らかになった。われわれは、自らの生存の根底を、海外の状況、とりわけ中国に委ねているということの危うさである。そこまでしてわれわれはもっと豊かになり富を手にしたい、という。だが、この数年のインバウンド政策にもかかわらず、経済成長率はせいぜい1%程度なのだ。一体、われわれは何をしているのだろうか。
人類は長い間、生存のために四つの課題と闘ってきた。飢餓、戦争、自然災害、病原体である。飢餓との闘いが経済成長を生み、戦争との闘いが自由民主主義の政治を生み、自然との闘いが科学技術を生み、病原体との闘いが医学や病理学を生んだ。すべて、人間の生を盤石なものとするためである。そしてそれが文明を生み出した。
だが、この極北にある現代文明は、決してそれらを克服できない。とりわけ、巨大地震や地球環境の異変は自然の脅威を改めて知らしめ、今回のパンデミックは病原体の脅威を明るみにだした。文明の皮膜がいかに薄弱なものかをあらためて示したのである。一見、自由や豊かさを見事なまでに実現したかに見える現代文明のなかで、われわれの生がいかに死と隣り合わせであり、いかに脆いものかをわれわれはあらためて知った。カミュの「ペスト」がよく読まれているというが、そこでカミュが描いたのは、とても人間が管理しえない不条理と隣り合わせになった人間の生の現実である。文明のすぐ裏には、確かに常に「死」が待ち構えているのである。
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文藝春秋 2020年5月号 総力特集『日本の英知で「疫病」に打ち克つ』
『グロ-バリズムの「復讐」が始まった』
~現代日本人から「常識」が失われ、パニックに陥っている
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