子規全集第13巻 俳論俳話 下  故・正岡子規  2020.5.


2020. 子規全集第13巻 俳論俳話 下 (非売品)

著作者     故・正岡子規
発行日     大正15515日 印刷          520日 発行
発行所     ()アルス   発行者 合資会社代表者 北原鐵雄


【俳論俳話 下】
Ø  試問                明治307月――314
病んで雨ふる、筆を取らんとすれば詩想既に消えて復尋ぬべからず、生きて諸君に負くこと多し。問題を投げて一考を煩わす、余が消閑の悪戯のみ
第1問     左の句の空処に字を填めよ
          瓜喰ふに松陰〇〇〇日向かな
          膝もとに〇〇〇蚊遣や夕念佛
第2問     左の句の意義を解け
          御屋敷を舟へはかつてすゞみかな
第3問     葵の花の咲きたる側に鶏とひよことが居る処を俳句にせよ
第4問     左の句を批評せよ
          子は寐入り蛍は草に放しけり
第5問     左の2句の差異を説明せよ。且つ優劣如何
          夏川や水茶に適すさゝ濁り
          夏川の水茶に適すさゝ濁り
答は東京都下谷区上根岸町82番地正岡常規宛に送るべし。答の善きは次号に掲げん(7)

第1問     松陰とあるは日向ならぬことは当然
          瓜喰ふに松陰狭き日向かな                李下 (其角七部集)
此景を画にして考えよ。膝元の蚊遣は一筋の烟細々と横に靡きたるにて画にもなるべし。烟盛んに湧き出たらんには夕念佛の哀れはさめはてて殺風景となるべきか
          膝もとに細き蚊遣や夕念佛                吟江
第2問     「はかつて」は「量つて」なり。御屋敷というからには大家族、一方涼舟とは概して小なるべく、大勢乗るためには2舟、3舟に分けて積み出す必要あり。升で量る如く、2舟、3舟と数えた景色
第3問     原句は左の如し。句法平易にして却て趣味あるを覚ゆ
          親鶏のひよこ遊ばす葵かな                成美
第4問     文法上自他の相異在りとの非難が多かったが、此句趣向は古きものにて享保頃の句に以下あり。文法違いこそ無いが句は拙なり
          子を寐せて隙やる蚊屋の蛍かな          喜舌
俳句の文法は難しく、文法学者が言う如く一定せる者には非ず。文法は万古不易の如き者に非ず、時代によって多少の変動は免れず。韻文に於て文法違いの所は多く韻文の妙所なり。文法を離れて直接感情に訴えなば、此文法違が却て印象を明瞭にする者なることを悟るべし
此句の第1の欠点は句尾の「けり」で、情を主とした句で蛍を放つところに情がありながら、過去形にしたために、子も寝て蛍も放ち恰も自分が楽になったようで面白味無し。主語を2つ「は」で重ねたのも理屈的の説明に墜ちて却て感情を害する傾向あり。2つの対立する主題は成るたけ対と聞こえぬようにするのが文学の上手というもので、文法上より言うことではない。「子は寐入り」と言い放すのも子と蛍が対のように聞こえ、別々に離れてしまうので悪し。子と蛍は前後の関係を有する者にして別々に離してはならぬ者故、「寐入りて」等とすれば判然と関係が見える。趣向は悪くないが、古人既に一たび言いたる以上は何の手柄にもなるまじ
第5問     最初が余の拙作。「や」は客観である1つの夏川を指すが、「の」は主観で総ての夏川を指すと聞こえる。主観とも聞こえ、理屈とも見えそうな時は極力避けるを可とする

第1問     左の2句の差異優劣如何
          短夜や憎さもにくき鼠狩
          短夜や憎さもにくし鼠狩
第2問     左の句の意義如何
          梶の葉を朗詠集の栞かな                  蕪村
第1問     「憎さもにくし」とは口にて又は腹の中にて言う詞なので、「鼠狩」とは接続しない方がいい。「き」では「鼠狩」を憎きもののように言うと解釈するのが普通。ただ俳句は普通の文法によらずとも直ちに感情に訴えて勝手に解釈し得べきを以て、「憎き鼠」と鼠を憎む感じなら何の差支えもない。どちらでも大差ない。「し」は氷花の句
第2問     「梶の葉」は歌を書き竹につけて七夕に手向ける者。朗詠集に挟んで栞としたことを詠んだが、挟んだ場所は朗詠集の七夕の句を集めた個所で、昔はよくそこに記載された和歌を梶の葉に書いたもの
第3問     意見の撞着しそうな子規の句12の優劣を同人37人に評価してもらい、112の順位をつけてもらい、合計得点から付けた各句の順位とそれぞれが評価した順位との誤差数を見ると(最少は0、最大は72)、誤差の最少は草人の18、最大は碧梧桐の60、鳴雪20、虚子48、露月40、繞石50、蒼苔54
最少と最大の理論値との差が最大の方が12と少ない。碧梧桐の意見が多数の意見と隔離する理由な大いに研究する必要あり
この結果を見て余が論じたいのは、東京の俳人が40以上に多いことで、地方の俳人は略々一定せる方針を以て選定したり。東京の俳人は時々一堂に会して俳句を作り議論を上下すること多いのに対し、地方の俳人は各地参商相隔たり、一面の識を有せず、一片の音信をすら通ぜざる者多し。にも拘らず、前者は意見区々に、後者は標準略々相似たり
東京の俳人は研鑽すること深く工夫すること多し。故に他の佳句を見ても之に雷同するを好まず、寧ろ己れ異を立てて別種の佳句をものせんとするに至る。千種萬別、日新月進、百花爛漫、紫紅錯雑せるが如し。地方では賞や選目当てとなり本領を忘却するに至る
只々一意に研究するに在り、専心に工夫するに在り。他人に付和雷同するが最も悪きなり、慢心して研究せざるが最も悪きなり。地方俳人が選択の相似たるは偶々以て恥辱を現すに過ぎない。東京の俳人の迷えるに与せん

第1問     左の句の意義如何
          西吹けば東にたまる落葉かな             蕪村
第2問     蒼虬と梅室の比較優劣を判ぜよ
第3問     有形物四種以上を包容せる俳句を作れ。但し冬季に限る                (10)

第1問     なぜ「西吹いて」としなかったのか、が問の趣旨。誰も気づかず。蕪村の趣旨は、句の裏面に「東吹けば西にたまる」の意を含む所にあり。全く主観的、理屈的の句には非ず、主観を帯びた客観の句なり。「西吹いて」では純客観の句となって裏面的意味を含まず
第2問     蒼虬の句集は天保年間に出版、明治になって増補。梅室の句集は天保年間に自ら編纂したが句数極めて少なし。梅室は蒼虬に勝れり
2人はほぼ同年(蒼虬が8歳上)、同郷(加賀)、住地(京都)も同じ、同じ師((ママ、正しくは蘭))につき、互いに交際あり、俳句相似たるは之が為なり。名声も伯仲していたが、関西の俳諧での趣向を見れば蒼虬が梅室より尊まれ、蒼虬を正風の粋とし、梅室を覇となす。蒼虬の陳腐と卑俗を正風としたり、両者の区別に正覇の称をもってするのは可笑しい。余が梅室を勝るとするは俳句の数だ、梅室が稍々多い
蒼虬には抜群の佳句がない。平凡な俳人で、長寿と卑俗が偶々俗人の信仰を得て勢力を関西に得たるのみ、而して梅室亦略々同一揆の人、只々1,20句の差によりて優劣を判ず、蓋し児戯のみ(?)
2人共通の欠点は意匠陳腐又は野卑にして、語句弛みあり
梅室を奇抜と云うが然り。奇抜は失敗に終わる事あるが、古を踏襲せぬ意匠はそれで猶多少の価値を存す。奇抜とは鳥なき里の蝙蝠の類なり(?)。若し梅室を目するに奇を以てせば、蕪村以下天明前後の俳傑の句々新奇なる者を評するに何の語を以てせんか。梅室は平凡なり、況や蒼虬をや
当時蒼虬も少しは新しき処あっても、彼等の句野卑なる処は終に如何ともすべからず。卑野なる意匠と卑野なる語句が2人の本色
更にはたるみの多きはその技量の拙を示す者で、技量の拙は往々健全なる意匠を腐敗せしむ
     もちて水にひたりぬ淀の家           梅室
梅室集中の錚々たる句、明麗清婉四条派の画を見る心地するも、「もちて」の3字が不完全な句にしている。擬人語は此句の如き真面目な意匠に用いてはいけない。雪の家をいうに雪と家を分けて始めと終わりに置くのも拙きわざ
     寒月の加茂にも一つ小家かな             蒼虬
「も」で句をたるませるのは月並の常套手段。「一つ小家」と長く引き延ばすも拙い
梅室が其角を学んだという憶測は誤り。一句だに似たる所なし。梅室に学ばれたとあっては其角も迷惑だろう。無学の男で殆ど書を手にしたことがないのでは。苟も其角を学ぶなどの心がけあれば今少し進歩しただろう。五元集すら通読したことがないだろうし読んでも意義を解す能わず。2人無学なりしこと其句に古語古事なきを見ても知るべし。古事古語さえ知らざりし人の心の貧しさよ、彼等には俳人の資格なし
蒼虬の句は真率(しんそつ:正直で飾り気ないこと)にあらず。真率の味は俗人之を解せず、俗人の愛するは真率ならぬ証拠なり。俗人が真率というのは多く気障をいう。一目万株の桜花を描けば之を俗なり、油ごしとなし(?)、一枝の桜花と一個の瓢(ひさご)とを描けば之を雅なり、真率なりとなす、是俗人の見なり。俗人の雅といい真率というは少量の工夫ある者をいう。工夫なる者は極めて気障なり易し。一目万株の桜は見たままに写したる者、此に於てか俗人之を喜ばず。是却て真率なる画なり。一枝の桜一個の瓢は作者の工夫したる画なり、故に俗人之を称す。其實此種の画多くは素人の画く処にして画として見るべきものに非ず。蒼虬の句皆櫻瓢的なり。諸君の中にも櫻瓢的句を案出して得々たる者あり、危いかな
蒼虬、梅室を思う毎に六庵嵐外を連想する。同時代の人で、その俳句規模大ならずといえど、美の捉え様、句の作り様を見ると確かなところありて、虬室のようにふわふわしたところがないのに、人は嵐外を称せずして虬室を称す。蓼太が世に知られて蕪村の知られざりしが如くなり
第3問     古人の句には
     藪寺や十夜の庭の菊紅葉                   几菫 (冬季ではない?)

第1問     左の句の意味如何
          冬枯れや平等院の庭の面                   鬼貫
余は扇の芝を含みたる者と想像したが、2度も行ったという碧梧桐に確認したら、此句は鳳凰堂前泉水のあたりの景を詠めるといい、扇の芝は1町も隔たった田間にありという。名所を空想にて詠むの害ありて利なきを知る。他にもあれこれ評があったが、見てもいないものをあれこれ言っても群盲器を評するに異ならず
          我庵の雪のはしり穂見にござれ           鬼貫
はしり穂は稲穂などの早く出でたるをいう。初雪ということをしゃれて雪のはしり穂といっただけ。作意は中七に在り。初五は、我所有物というほどの軽い意味で言ったもの、「我庭の」とすべきの説あるも、雪のはしり穂など言葉ばかりにて操る句は成るべく主観的に配合せず、初五ばかりを我庭のと客観に置いては浅薄なる句となるべし
意浅く趣少なきを以て平凡とする評もあるが、平凡こそが此句の取り処で、常人が作れば必ずどこかに無理が生じて決して平凡なる能わず          (初雪とはしり穂は季が矛盾?)
          達磨忌やから松ふくむ鳥の声              春来
禅書や維摩の行とて口に松枝を啣(ふく)んで黙座する事あるを取り合せて作った句で、松を咥えたら鳥と雖も声を発することはできないが、理屈に拘らず松をつついたり鳴いたりすることを斯く言いし者か。唐松はいくらか外国臭くしたものだろう
          年忘昔念者と若衆かな                     春来
念者とは若衆を愛し又若衆に愛せられたる者で、男色にて若衆と契りたる男をいう。昔は若衆にもかかり、若衆既に人となりて、昔の念者と会して年忘れの酒など酌み交わす様。情あるにもあらず無きにもあらず、口に出しては言わないが昔の恋のほのめきたるなど年忘れに取り合せていと面白し。滑稽と評すべき句ではない
          年の尾や都の町の狐釣り                   淡々
年の尾は歳暮の事。狐釣りを引き出すために年の尾といえり。年の暮れになれば春を設けるとて都の市に片辺りの狐釣る者も出てきて立ち交われる有様を詠む
          炭二人留守預るや駒が家                   淡々
瓢の炭取は侘びておかしければ山賊と人のような名を付けしならん、瓢の名を擬人的にすれば此句は総て擬人的に成り立つ。炭2つとは炭が23つ底に転がっているのを2人の人のように言ったもの、駒が家とは瓢箪から駒の俚諺に基づいて瓢の事を駒が家と洒落た。留守預るとは瓢の中に駒居らずして炭が入れあるを、炭が駒の家の留守番し居る者と興じた
第2問     住地に固有なる風俗習慣等を俳句にものすべきこと。冬季又は新年に限る
其地に特別なる者と特別ならざる者とを区別し、其地を成るべく明らかに現し得るようなる風俗習慣を詠じられたし
俳句では「どんど」という輪飾りを集めて焼き、餅を投げ焼けるのを待って食べる風習だが、松山ではそれを「お飾りはやす」という

第1問     左の句の意義及び作意を説明せよ
     顔見せや曇らぬ鏡諸見物                   杜谷
顔見せは11月朔(ついたち)日に行う芝居で、芝居の正月として此道にては祝う。京阪江戸のように常に俳優の居る地の事で、旅役者の興行する田舎にはあらず。地方で芝居の初日に顔見せという事あるは此顔見せとは異なり。此句の意は顔見せの朝天気晴れたるを喜び月見、遊山等何時でも物見々物に出かける時は今日の如く晴天であれというなり。鏡とは今日を手本にせよとの意。句法は奇なれど善き句に非ず
     里下の敷くを見て居る蒲団かな           赤羽
里下(さとした)とは都会の貴人などの内に奉公した田舎娘が暇を得て自分の内に帰るをいう。礼儀作法を覚え、その蒲団の敷き様も自ら鄭重にけばけばしからず、田舎には変わりたる側に居る両親其他眷属がいと珍しげに見て居る様ならん。前の句に比して善し
     虎の尾を踏みつつ裾に蒲団かな          蕪村
虎の敷革と解する人多く稍々疑を生じたるも、猶考うべし。恐る恐るの意は変わらず
第2問     左の句の最優劣を説明せよ
     菊堤げし女の通る時雨かな
     菊堤げて女の通る時雨かな
前者は女が主で菊が客で、後者はその反対。前者を優れりとす。前者は自然にして措辞穏やかに対し、後者は意義不自然にして措辞不穏。主客を転倒すると無理が出る
虚子の句に「若水や妹早く起きし最合井」あり。妹が誰より早く起きた早起きを主として詠んだので、「起きて」では早起きして井戸端で働いている様となって感薄し。前の句より更に判然せり
第3問     各地の風俗習慣を詠み込みたる俳句を示せ。新年又は冬季に限る        (1)
正月の遊びの最も盛なるは東京にては遣羽子(およばね)。主従のけじめなく、お嬢さんもお三どんも白鼠も丈八も皆共に大道に出でて遣羽子す。羽子を受けそこなうと罰を受ける。単に羽子板で尻を叩いたり、男は顔に白粉を塗られ女は墨を塗らるるあり。いつかの意趣もここで現るる事あるべし
     遣羽子や我墨つける君が顔                子規?

付記
          顔見せや曇らぬ鏡諸見物
鳴雪は、曇らぬ鏡とは役者の第一の道具とも称すべきもので、役者の技量を讃するの意なりとす。顔見せは暗きより始まる故、数多の蝋燭を点して明にして曇らぬ鏡に写した千両役者の顔を見ようとして諸見物は湊うとの意だというが、「曇らぬ」の語が意味をなさず、亦諸見物を多くの見物人と解するも穏やかならぬように覚ゆ
          里下の敷くを見て居る蒲団かな           赤羽
鳴雪は、敷くを見ている者は里下其人だという。我が娘とは云え貴人に奉公し珍しく宿下せしことなれば、親なども自然客あしらいとなし寝る布団をも敷いて遣るを、其自身も我内ながら何やら初々しき心地し側に立てて見ているという意ならん。此内に親々無量の愛と本人の驀久々我家に帰りし嬉しき情も籠りて見ゆるなりとする説は正しい。先の余の答は誤り
          虎の尾を踏みつつ裾に蒲団かな          蕪村
鳴雪は、今時の人易を読まぬ故又多く漢文を読まぬ故履の卦の故典を知らぬなる故に虎の敷革と解すのみ。履虎尾と云て危険に臨むるの意に用いる事は漢文には常套の熟語、古の書生ならば一読してわかるので疑など生じないという説も正しい

Ø  募集句の事          明治3010
    「ほとゝぎす」の募集句をしばらく見ないうちに諸子の句昔日に劣りたるを覚ゆ
    前に5等に分かち今3等に分かつ。分かつのは句の多少、句の価値の多少、時の便宜に因るので、何等というものに一定の価値はない
    女という題に女郎花、女萩など用いるのは文字結なり。此種の題文字結に異なり、女は何処までも女の意に用いるを可とす
    女萩というのは、明治27年秋碧梧桐と一緒に根岸蛍花園に行った時に彼が詠ったのが最初。 小萩女萩根岸の里の女の子         本人の言では只々句調の為に填めた文字
    「萩の戸」の語が用いられるが、もとは禁中の名所を指すので、「萩の門」「萩の枝折戸」などというべき
    募集句の中に「婆子曰く驀直に去れ秋の山」とあり。初五、中七共に漢語の直訳にして漢語あるが、終五にやさしい言葉で、力無き句法で止めたのでは頭がちの福助的の見苦しき句となる。漢語を使う人この病に罹る者多し
    鐘楼は「しゆろう」、通夜堂は「つやだう」と読むが通例。字数足すために「しようろう」「つうやだう」と読まするはいと拙く見苦し。五右衛門を「ごいうゑもん」蜜柑を「みつかん」と読めば笑うだろう
    反対に言葉を短くせんとお百度踏む女のことを「百度踏む女」と読むのは猶可笑し。お参りすることを「参りす」とはまさか言わない
    或人「女房の初産なやむ夜寒かな」と詠む。女房とは宮中などの女や一般に女という広い意味で用いられるが、ここでは我妻の意ならん。初産は女に決まっている。真面目くさった大滑稽の句だが、只々機械的に17字を並べただけのわけの分からぬ句。あさはか

Ø  与謝蕪村を評す               明治301119日――21
洒竹『与謝蕪村』を読み且つ評す
誤植、誤訳、ご引用等々指摘。此書は真面目に蕪村を論じた者ではなく、蕪村という書をなるべく長く書こうと骨折った者で、蛇足極めて多く、古来注釈を事とする者自己の博学を衒わんとして縁故の極めて薄き故事古語等を羅列する癖あり。此著者亦此病に罹れり。不用の字多きは世に害を与えること無いが、杜撰なる注釈を作って無学者を欺くのは害少なからず
        むら紅葉会津商人なつかしき
晩秋会津を過ぎた際の歌と想像するは誤り。会津を過ぎた時に「会津商人なつかし」とは言わず。会津以外の地にて会った時の作
        わするなよ程は雲助不如帰
雲助は雲水の定め無き身の上をいうとは誤り。宗祇の句「時鳥程は雲井の初音かな」、紹巴の句「たちかへれ程は雲井の時鳥」あり、蕪村も箱根なので程は雲井をかけて程は雲助といえる迄にて、雲助に外の意味はない
蕪村の富士の句は、飛蟻、若葉の外にも「湖へ富士を戻すや五月雨」もある
        短夜や二尺落行く大井川
東海道の大井川ではなく、嵯峨の大井川
        参河(三河の国)なる八橋も近き田植えかな(『新花摘』掲載)
参河を過ぎし時に作りし句には非ず。昔過ぎし時の事など思い出して作ったかもしれない。謡曲にもありというのも不可解
        口切や五山衆なんとほのめきて
前書に「几菫にいざなわれて岡崎に遊びて」を、三河の岡崎としたのは誤りにて、洛東の岡崎
蕪村の三井の句を評して、「湖上の大観を写す」というは聞こえぬなり。若楓の句は固より湖と関係なし
        照射して囁(ささや)く近江やはた哉
「志賀八幡に詣でて」とは杜撰極まれり。大身八幡は曽我物語に出てくる人名。芝居にもある
        大佛のあなた宮様蝉の声
東大寺としたるは如何、京に非ざるか
        雪をれや吉野の夢のさめる時
吉野に関した句だが吉野で詠んだ句ではない
        撞木町鶯西へ飛び去りぬ
浪華の部に入れたが、伏見に非ざるか
        藪入りは中山寺の男かな
摂津の部に入れたが、下総の中山(法華経寺)の事
        高燈籠消えなんとするあまたゝび
住吉にてものしたとは俳句心得たる人にも似合わぬ粗漏。住吉の高燈籠は四時常にある者、蕪村の句の高燈籠は盆に立つる者
        大宮に君しろしめせ今年米
大宮を内裏としたのは如何。大高の誤植にて尾張なるべし
        錦木の門をめぐりて踊かな
大原の部に入れたが、空想の句にて必ずしも地理をいうべきではないが強いて言えば奥州
        梅遠近南すべく北すべく
「南」に「みんなみ」と仮名を振ったのは著者の考えで、余は「みなみ」と3音に読むが善しとす
        花散るや重たき笈(おい?)のうしろより
天然観と題する下に概念も観念も自然なりといい、此句を引いているが、天然を客観的に詠んだという意か、その割には多少主観的なる者を引く。「俳人蕪村」に言う客観的美の一部分に相当
        老を山へ捨し世もあるに紙衣かな
人事観と題して、「人事観も亦自然なり」といい、主観的な此句を引用、自然の語いよいよ解すべからず
        乾鮭や琴に斧うつ響あり
両極観と題して、大小、東西などを写したる句を引く中に、柔剛を現した句として引くのは如何。琴を柔、斧を剛との意なるべきも、此句の精神は剛柔の比較にあらず、乾鮭と琴の比較に在り
        菜の花や鯨もよらず海暮れぬ
激と緩との両極を写したというのも如何。鯨の挙動大ようにして急遽(きょ)ならぬ処、菜花の平和なる景色に配合したる所以にて、激の点にて反映させたものではない
        大とこの糞ひりおはす枯野かな
大徳(高僧のこと)と糞及び枯野とを反映させたもので、醜の1極を写した者に非ず。「大男」と注したのは論外
        いばりせし蒲団干したり須磨の里
醜美両極を写せりというのは如何。「須磨の里」は其荒涼たる様を写せる者にて醜なる者か
        ごつごつと僧都の咳や閑古鳥
淋しき者を2つ配合したもので、両極には非ず
「俳人蕪村」に当てて見ると、人事観は客観的美委の一部と人事的美の一部を合わせたる者、両極観の大は積極的美に当たり、小は精神的美に柔醜等の分子を加えたもの
「蕪村が俳句の特性とする所は着想に在り」とはいたく誤れり。蕪村の特色は着想の上にも言語の上にも句法の上にもあり
滑稽を論ずる条に、「酒を煮る家の女房云々の句、稍々柳樽(『俳風柳多留』、柳樽とも、江戸中後期の川柳句集)に彷彿たる者あり」とは怪しからずや。柳樽と俳句の区別は思想の上に在りて言語の上に非ず。此句少しも川柳に似たる所あらず
        鍋さげて淀の小橋を雪の人
「雪」を「行」にかけたというは如何。かけ言葉に非ざるべし
        短夜やいとま給はる白拍子       
熊谷に限らざるべし。暇は夜更けての暇で、必ずしも永の暇を言わず
        引かふて耳をあはれむ頭巾かな
「引かふて」を「深くかぶること」としたのはひが事(間違い)。「引きあいて」の意で、此句意は、右の耳を頭巾に隠そうとすれば左の耳露れ、左隠せば右露るるをいう
蕪村の絵を「俳画」と名づくるは穏当ならず。俳画は彼略画(?)に限って用いられた古来の称号
「俳文は俳人の草する所の文にして一種の文体あるにあらず」というも誤り。俳文は一種の文体。俳人の草する所必ずしも俳文にはあらじ

Ø  俳句分類              明治3012
7年かけて俳句の編纂に従事、ようやく『俳句分類』として骨格を示す
甲~丁号に分け、うち甲号が9/10を占める
甲号 ⇒ 四季雑に分類、さらに四季の各題に分類、各題につき以下分類
第1類        天文、動物、植物
第2類        地理、器物、衣冠、神人、建築、飲食、肢体
第3類        人事、爪牙、枝葉、気象、類倫、心意
俳句多ければ小区分に分け、122,3句に収める
完結の期無し、余が力尽き身斃るる時を以て完結の期とす。無窮に完結せざらんと欲す。大成せざるを知りて且つ之を為す、精衛海に填むの譏は世の甘んじて受ける所なり
連歌、貞徳、檀林、芭蕉を経て漸く天明に入らんとす。俳書得るに難く、病躯勤むるに限あり。天明以前でも不完全だが、之を匣底に蔵して空しく蠧(きくいむし)魚の食と為さんは余の願う所にあらず
俳句の僅かに可なる者、名家の句、意匠又は句法の新奇なる者、其他多少の注意を要すべき句、より以上をここに抜萃す。連歌、貞徳派等は多くこれを漏らせり

Ø  行脚俳人芭蕉        明治30
抱負ありて世に知られず、才學ありて人に知られざる者、世を捨て人を厭い、或は跡を山林の間にくらまし、或は興を塵埃の外に求む。しかも彼猶枯木寒厳の如く無情なる能わず、懐を風月に寄せ情を吟詠に発す。歌人西行俳人芭蕉の如き是なり。和歌は古今集以来漸く天然を写す傾向を生じたが、材料は極めて少なく其意匠は前人の陳套を脱するを得ざるがため、全く天然を離れ、名所を詠じても未だ曾て見ざるの地を材料とし、古歌に因りて僅かに其輪郭を求む。そうなっては歌も陳腐にならざるを得ず。歌人は居ながらにして名所を知るという諺は歌人の徳を称えたものだが、却て歌人に歌人たる資格無き事を証明する。西行北面の武士より出でて歌人となる。公卿の歌詠みを学ばずに、山水の間に逍遥して見る者聞く者に就いて歌を為すが、深く詩趣を解せず、従って天然に関しては特色もない他の歌人と異ならず
真個に天然の趣味を探り得てこれを歌いたる者は芭蕉が始めて。其仕を辞して天下を横行し文辞を以て自ら遣りたるは2人同じ。故に芭蕉は西行を尊信せり。相異なる処は芭蕉が善く天然を描き得しのみならず、歌の代わりに俳句を用いたると、且つ其俳句は自家の発明にかかる事で、西行は歌人としてより高潔の士と称せらるるに引き換え、芭蕉は唯一の俳人として崇拝せらるる点に於て全く其結果を異にせり
芭蕉はその尋常を超えたる才識は伊賀の僻地に在りて腰を五斗米に屈し、碌々として酔生夢死の間に一生を送るを好まず、一たび郷里を去って京江戸に流浪するや、定まりたる家も無く、家を守るべき妻も無く、只々門弟子と共に俳句を賦するを以て楽と為す。しかも俳句の楽は形而上の楽にして、形而下の快楽を漫遊に求む。自家の俳句稍々形を成したる後、東海道を経て故郷に帰る道すがら、始めて俳句の活用を試みたる時の嬉しさは如何なりけん。漫遊は俳句を以て活し、俳句は漫遊に因って進む。貞享元年始めて此間の消息を解し得たる芭蕉は其後の行脚に忙しく、一生の秀句は実に此10余年間の行脚に成れる者多し。行脚は芭蕉の命にして、俳句は行脚の魂なるべし
芭蕉は名聞を好まず、門弟子亦此意を奉じて師に仕えたため、芭蕉を後世に伝える用意がなく、伝記に関しては暗黒にして解らないことが多い。知り得べきは最後の10年で、自らの紀行に基づくもので、事実の疑わしきも少なからず
姓は松尾氏、通称忠右衛門、名は宗房。藤堂候の城士同姓蝉吟に仕え、その死後23歳で直ちに仕を辞して今日に出づというも事蹟明らかならず
33歳で東武に下り、深川に隠れて俳諧を業とす。桃青は東武に下りし後の名という
39歳で、深川六間堀に数年いて、此冬火災に逢い甲州に逃る。40歳で戻り一株を植えて
        芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜かな
この頃より人々芭蕉庵といい、40歳にして芭蕉の翁と呼ばれたのは、芭蕉が如何に尊敬すべき人、真面目の人たりしかを知る証拠
41歳、江戸を発って帰郷。紀行『甲子吟行』あり
        野ざらしを心に風のしむ身かな
此句より『野ざらし紀行』ともいう。大井川で捨子を憐れんで喰い物を与え
いかにぞや汝父に憎まれたるか、母にうとまれたるか、父は汝を憎むにあらじ、母は汝をうとむにらじ、たゞ是天にして汝が性のつたなきを泣け
と書く。芭蕉が一種の観念と特殊の句法とは此短文にも現れたり
眼前   道の辺の木槿は馬にくはれけり
即景の句とおぼし。伊勢経由、下宮に詣で、西行谷の流れに女どもの芋洗うを見て
        芋洗ふ女西行ならば歌よまん
其日のかえさある茶店に立ちよりけるに、てふといいける女其名に発句せよと請うに
        蘭の香や蝶の翅(つばさ?)にたきものす
閑人の茅舎を訪いて
        草植ゑて竹四五本の嵐かな
9月初め故郷に帰り、兄から守袋に入った母のかたみの白髪を示されて
        手に取らば消えん涙ぞ熱き秋の霜
大和國二上山當麻寺に詣で古松を見る。吉野に到りある坊に宿りて
        (きぬた)打つて我に聞かせよや坊が妻
奥の院の右の方2町ばかり分け入れば、西行の草庵跡あり。とくとくの清水を見て
        露とくとくこゝろみに浮世すゝがばや
後醍醐帝の御陵を拝む
        御廟年を経て忍は何を忍草
山城近江を経て美濃に入る。今須山中に常盤の墓を弔い不破の古跡を探りて
        秋風や藪も畠も不破の関
大垣木因亭に宿る
        死もせぬ旅寐の果よ秋の暮
冬、桑名より熱田に詣で其大破に驚く
        しのぶさへ枯れて餅買う宿りかな
名古屋に行き
        狂句凩の身は竹齋に似たるかな
旅寐ながらに年暮れて
        年暮れぬ笠着て草鞋(わらじ)はきながら
故郷にて越年。42歳春、奈良に出で二月堂に籠る。三井秋風が鳴瀧の山家を訪う
梅林   梅白しきのふや鶴を盗まれし
伏見西岸寺に任口上人に逢う
        我衣に伏見の桃の雫せよ
大津に出づる道山路を越えて
        山路来てなにやらゆかし菫草
ある旅店に腰を掛けて
        つゝじ活て其陰に干鱈さく女
夏、尾張にて桑門に逢いて
        いざともに穂麦くらはん草枕
甲斐に立ちより4月の末深川に帰る
        夏衣いまだ蝨を取りつくさず
44歳秋、月見に鹿嶋に行く。紀行を鹿嶋詣という。深川から舟で行徳からは徒歩。同行曽良。日暮れに利根川べりのふさに着き、月晴れ渡りし程に夜舟して鹿島に到る。翌日昼より大雨、月見るべくもあらねば麓の根本寺に宿る。曉方月僅に晴れけるに
        月はやし梢は雨を持ちながら
直に江戸に帰る。冬、東海道経由郷に帰る。紀行を卯辰紀行という。10月初深川出立
        旅人と我名呼ばれん初時雨
送別の詩俳句等多し。鳴海に宿りて更に三河國保美に引き返し杜國を訪う。1里先に伊良古崎あり。いらこ白という碁石の産地。骨山というは鷹を打つ処。南の海のはてに鷹の初めて渡る所といえり
        鷹一つ見つけてうれしいらこ崎
熱田の修復を喜び句ありそこらにうかれて師走10日名古屋を出づ
        旅寐して見しや浮世の煤掃(すすはらい?)
桑名より日永の里に出で、馬を借りるが落馬、それにも興を催して伊賀に帰る
        ふるさとや臍(へそ)の緒に泣く年の暮
45歳春
        枯芝ややゝ陽炎の一二寸
伊賀國阿波の庄新大佛寺に俊乗上人の旧跡を尋ね句あり。故主蝉吟の庭にて
        さまさまの事思ひ出す櫻かな
伊勢山田に行く
        何の木の花とも知らず匂ひかな
        裸にはまだ衣更着の嵐かな
        御子良子の一もとゆかし梅の花
弥生半伊勢にて杜國に逢い、共に芳野の花見にまかるとて笠のうちに落書す
乾坤無住同行2    吉野にて櫻見せうぞ檜木笠
旅の荷物少しばかり持ちなやみて
        くたびれて宿借る頃や藤の花
初瀬三輪多武峰を過ぎ臍峠にて
        雲雀より空にやすらふ峠かな
芳野の花に3日留りて1句無し。高野にて
        父母のしきりにこひし雉の声
和歌の浦にて
        行く春に和歌の浦にて追付たり
        一つぬいでうしろに負ひぬ更衣
灌佛の日奈良にて
        灌佛の日に生まれあふ鹿の子かな
杜國に別る
        鹿の角先ず一節の別れかな
大阪を過ぎ卯月半須磨に遊ぶ。きすこという魚を砂の上に干したるを、鳥のつかみ去らんとするを憎みて、弓もておどすは海人のわざとも覚えずとかこちて
        須磨の海人の矢先に鳴くか郭公
明石夜泊
        蛸壺やはかなき夢を夏の月
田井の畑より山に上りて見下ろす処、紀行文には珍しければ抜きいでつ
一の谷の源平合戦の模様を偲ぶ
秋の頃姥捨ての月見んとて越人と共に尾張を出で立つ。更科紀行あり。木曽にて
        (かけはし)や命をからむ蔦かつら
姥捨てに上りて
        (おもかげ)や姨(おば)一人泣く月の友
善光寺に詣で帰京
        吹き飛ばす石は浅間の野分かな
46歳 この年奥州を経て北陸に到り伊勢に出づ。行脚半年余。紀行を奥の細道という。最後の紀行にして文章も円熟。327日出発、曽良同行。其夜草加に宿る。室の八嶋に詣づ。30日日光山の麓に宿る。4月朔日日光に詣づ
        あらたふと青葉若葉の日の光
裏見の瀧を見る。那須の黒ばねに向かい農夫の家に宿借り、翌日野飼の馬を雇っていく。黒羽の館代浄坊寺某を訪い此地に逗留。郊外に犬追い物の跡を見、那須に玉藻の前の古墳を訪う。八幡宮に與市の昔を思い、光明寺に行者堂を拝す
        夏山に足駄を拝む首途かな
雲岸寺に佛頂和尚山居の跡を訪ねて
        木つゝきも庵は破らず夏木立
黒羽を出発し馬にて送らる。馬士に句を乞われて
        野を横に馬牽き向けよ時鳥
温泉の出る山陰に殺生石を見る。毒気いまだほろびず、蜂蝶かさなり死す。蘆野の里に西行の清水流るると詠みし柳を見、終に白河の関を越ゆ。阿武隈川を渡り須賀川に四五日逗留
        風流のはじめや奥の田植歌
あさか沼に花がつみを尋ぬれども得ず、二本松より右にきれて黒塚の岩屋一見し福嶋に宿る。しのぶ文字摺の石を尋ねて
        早苗取る手もとや昔しのぶ摺
月の輪の渡しを越えて瀬の上という宿に出る。飯塚の里鯖野に佐藤庄司の旧跡(継信・忠信の墓)あると聞いて行く。傍の古寺を見て2人の嫁を憐れみ、寺に茶を乞うて義経の太刀弁慶の笈(おい/きゅう:修行に必要な物を入れて背負う箱)を見る。此日5月朔日なりければ
        笈も太刀も五月にかざれ紙幟
其夜飯塚にとまる。今は高楼檐(ひさし)を並べ倡家に管絃の声絶えぬ繁華の地なるを、200年の昔は人と留むべき旅籠屋もなく、芭蕉は其困難の有様を叙して曰く
温泉があって入ったが宿は土座に筵を敷いてあやしき貧家なり。灯も無ければいろりの火影に寝所を設けて臥す。夜半雷なり雨が臥せる上より漏れ、蚤蚊にせせられて眠られず、持病さえ起って消え入るばかり
翌日馬にて伊達の大木戸、鎧摺、白石を過ぎ実方中将の塚、を見て岩沼に宿る。武隈の松を見て5日に名取川を渡り仙台に入る。四五日逗留後仙台を出て道すがら十符の菅、壺の碑に昔を忍び、野田の玉川、末の松山を経て鹽竈に宿る。琵琶法師の奥浄瑠璃寺というを聞く。10日鹽竈神社に詣で、舟して松嶋に渡る。ここにも句なし。11日瑞岩寺に詣づ。12日石の巻に出で、あやしき小家に宿る。平泉に到る
3代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたにあり、秀衡が跡は田野になりて金鶏山のみ形を残す。先高館に上れば北上川南部より流る大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて大河に落ち入る。康衡等が旧蹟は衣が關を隔てて南部口をさしかため夷を防ぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐって此城に籠り功名一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと笠打ちしきて時の移る迄涙を落し侍りぬ
     夏草やつはものどもが夢の跡
此文此句人口に膾炙す。経堂に3将の像を拝み、光堂に珠の扉金の柱の朽ちたるを悲む。岩手に泊る。小黒崎、みつの小嶋、なるこの湯を過ぎ、尿前の関にて関守に叱られ、風雨のため山中に留まること3
        蚤虱馬の尿する枕もと
案内者を伴い出羽最上の庄に出づ。尾花沢にしばし足をとどめ立石寺に到る
        しづかさや岩にしみ入る蝉の声
大石田にて俳諧一巻成りて最上川を下る        
        五月雨をあつめて早し最上川
63日羽黒山に登る。4日本坊に於て俳諧興行。5日権現に詣づ。8日月山に上り、絶頂の笹原に夜をあかす。9日湯殿に下る。鶴岡にて俳諧一巻成る。酒田より北して舟を象潟に浮かぶ。能因嶋に上り干満珠寺に立ちより、雨のけしきを賞す
        象潟や雨に西施がねふの花
此処より引き返して酒田に帰り越後に出づ
        荒海や佐渡によこたふ天の川
既に秋なり。越中一ふりの関に宿りて隣室に遊女あり
        一家に遊女も寐たり萩と月
くろえ四十八が瀬など過ぎて那古の浦に出で、終に加賀に入る
        早稲の香やわけ入る右は有磯海
卯の花山、くりから谷を越えて715日金沢に着く。一笑を弔いて
        塚も動け我泣声は秋の風
途中の吟
        あかあかと日はつれなくも秋の風
太田神社に実盛が甲錦の切を見る
        むざんやな甲の下のきりぎりす
那谷の観音を拝みて山中の温泉に浴す。曽良に別る。大聖寺を経、吉崎の入り江に汐越の松を見て越前に入る。福井に2日泊り、あさむつの橋、鶯の関、湯尾峠を過ぎて敦賀に入る。其夜814日の月晴れたり。気比明神に夜参す。15日雨
        名月や北国日和定めなき
16日種の浜に舟を浮ぶ。美濃大垣に入る。96日御遷宮を拝まんとてここを出づ
        蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
大津にて越年
47歳夏、石山の奥国分山の幻住庵に移る。幻住庵の記あり
484月、嵯峨の落柿舎に移る。嵯峨日記あり。此頃の俳句全く覇気を脱し円満老熟す。されば人を驚かすの意匠もなく、一通りの事を詠み出でたる如く見ゆれど、境と合い分(?)に安んずる芭蕉の心情は藹然として其中にあらわれるを覚ゆ
        時鳥大竹藪を漏る月夜
        一日一日麦あからみて鳴く雲雀
同日記429日の条に
        日暮て奥州高館の詩を見る  高館聳天星似冑 衣川通海月如弓
        其地の風景聊(いささか)以不叶古人不至其地時以不叶其景
とあり。実景を目撃したる芭蕉は、此等空想の詩を見て面白からず思いしはさもあるべし
44日落柿舎を出て幻住庵に帰る。名月を堅田に賞して其秋東武に下る
49歳 深川に新庵成る
50歳 此年も行脚に出でず。恐らくは衰弱の故ならん。此春磐城侯露沾の花見に招かる
51歳秋、東海道を経て幻住庵に入る。京へ往来。故郷に帰りて盆會を営み
        家は皆杖に白髪の墓参
98日支考惟然を伴い奈良に行く。其夜猿沢のほとりに宿りて
        ひいと鳴く尻声悲し夜の鹿
99
        菊の香や奈良には古き佛たち
住吉に後の月を賞し、宝の市を見て難波に入る。926日園女亭に会す。29日より腹痛泄瀉はげし。102日に至り病やや重ければ、惟然、支考等其意を受けて京の去来、大津の医木節に手紙を書き、三日之道亭より御堂前花屋の奥座鋪に移る。去来は手紙を見終わりしまま座を立って難波へと急ぐに、三日の夜子の刻花屋に着き直ちに病牀に伺う。芭蕉相見て泣く。芭蕉の門弟数百人、いずれも師を崇めぬはなけれど、去来は中にもまめやかに仕えしかば、芭蕉も子の如く思いてことに親しくいつくしみたり。木節も続いて到る。4日下痢いよいよ烈し。5日丈草、乙州、正秀来る。此日より食咽を通らず。6日今までの自己の俳句中同案の者を挙げ、いずれを存すべきかなど去来に謀る。死を知りたるにぞあらん。7日鬼貫見舞いのため来る。夜静なり。去来機嫌をはかりて翁滅後の俳諧を問う。こたえるところあり。8日辞世の句を問う。芭蕉曰く、古池の句を詠みしより後1句の辞世ならざるなしと。91句を詠む
        旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
10日初時雨、梨を喰う。11日雨。其角到る。伽の者ありあうことを無造作に発句に作りて芭蕉を慰む。木節いう、死期近きにありと。12日夜明けより寒熱往来あり、暫くは感覚を失いしが、ややありて気たしかになり、行水を望む。終わりて其角、去来、丈草を呼び、死後の事一々に遺言し、又故郷なる兄への手紙を自ら認む。少しも病躯の体なし。観音経を唱える声ようやくかすかになりて、申刻というに息絶えぬ。遺骸を近江国粟津の義仲寺に葬る
火宅の如き三界に固より定まりたる住処も無ければ、妻子珍宝に後髪ひかるるの憂いも無く、野に臥しては草の露に身をはかなみ、山に寐ては松の風に夢を驚かす。雨風に宿を借りれば蚤虱に攻められては馬の尿を聞き、馬を借りて山路の険を凌がんとすればなかなかに徒歩にまさるの危険あり。只々何事も俳句の材料として面白からぬにはあらねど、その時の苦しみは肩にかけたる紙衣1枚も猶ほだしとなりて、捨て兼ねたる浮世の様は行脚の身にものがるべきに非ず。さはれ馬子に叱られ関守に咎められたりとも、あらぬ主取して扶持にはなれじと心を遣うにもまさりてん。一たび行脚の味を覚えては終身忘れ難く、芭蕉も終に旅路の果てに命を捨てるにぞ至りし。しかも多くの門弟にかしづかれて絹夜具の中に介抱せられしは、芭蕉が思い及ばざりし今はの栄耀なるべし。吾日本二千余年間を見渡して、詩人の資格を備えること芭蕉が如きを見ず。只々彼が為に今10年の命を永うせざるを惜しむのみ

Ø  明治30年の俳句界          明治31134
【上】
前年に比べ幾多の進歩を為す。進歩には2あり。1は初学の俳人が漸く上達するをいう。1は既に上達した俳人が古人の進まざりし区域にまで進むをいう。真成の価値は後者に在り。その代表が碧梧桐で、意匠の奇抜を以て勝りし者、昨年来却て平易(しかも陳腐ならざる)なる方に赴けり。句調は乱調から五七五調に返れり。意匠が全く古俳句と趣を異にしたる所とそれに伴いたる句法の変化とは、未開の地を開き、その価値は容易に之を評定し得ないが、少なくとも彼が一機軸を出した功は俳句史上に特筆すべき
        夜に入りて蕃椒煮る台処           碧梧桐
此句に些かの理屈無き処、殆ど工夫的の痕跡を留めざる処(工夫を凝らしていはいるが、その痕跡を留めないような工夫がされた者で、十分成功を得たり)、意匠は日常の瑣事ながら少しも陳腐ならざる処、句法亦平易にして切字あるが如く無きが如く、しかも能く切るる処、劇烈に感情を鼓動する者ならずして、淡泊水の如き趣味を寓する処、此数箇条は此句が極端に新体を現したる所以なり。従来のスタイルからは没趣味といわれるだろうが、虚心平気此句を翫味せよと言いたい。全く自己の量見を抛却し、身を此句中に於て此句の中より新趣味を探り出すべしと。蓋し趣味は感ずべく、説くべからず。然れども稍々烈しく感情を刺激すべきものはヒント的に之を説明し得べく、又聴く者も此不完全なる説明の中より妙処に悟入すること無しとせず。只々此句の如き淡泊なる者に至りては不完全なる説明をすら為すこと能わず。強いて言わんと欲するも、一点の厭味なしと評する位より外に何等の説明をも与えんに由無し
        水汲の男来て居る朝寒み          碧梧桐
此句の眼目は「居る」の2字にあり。此2字無くんば平凡見るべきなし
        客を率て夜半に帰るや月の門     碧梧桐
複雑な意匠、新奇なる意匠は句法をして佶屈ならしめ易し。此句の意匠且つ複雑に且つ新奇にして、句法平易、大道を行くが如し。是亦新体の特色の1なり
        隠々として秋の山鳴ることを知る          碧梧桐
        滞陣や久しうなりて秋の雨                  
此等の句を見れば余が謂う所の新体が解るはず
新体と従来の俳句を比べると、油画の新派(紫派)と旧派のようなもので、簡単(画題小)と複雑(画題大)、平易と屈曲、淡泊と濃厚、軽新と沈着、些細なる者の極めて美なる感じを現すに適しているのと壮大なる者の最も深き趣味を写すに宜しいのと。何れにも一長一短は免れ難し。両者並立して相互の短を補うは文学を大成し美術を大成する所以には非ざるか
碧梧桐と最も善く似たるを虚子とす
【下】
碧梧桐、虚子、紅緑、露月、把栗、四方太、秋竹、蒼苔、漱石、霽月、極堂、繞石等は俳人の錚々たる者。地方で進歩した者を茶村、菰堂子、青嵐、緑、欄水、森々、香墨、桂堂等とす。鳴雪俳壇を退き、墨水亦多くは俗事に礙げらる
俳諧界の雑誌は『ほとゝぎす』伊予に起こり、『秋の声』東京に倒る
俳書は蕪村句集のほかに『与謝蕪村』『新派俳家句集』出づ。博文館より『俳諧文庫』を出す
一昨年末より俳句会続々地方に起こる。最も古いのが数年前からの松山の松風会。京阪の満月会は一昨年秋から、仙臺(百文会)、金沢(北声会)、松本(松声会)、松江(碧雲会)、駿遠(芙蓉会)、越中(越友会)が次ぎ、一盛一衰あり
昨年余は同一の俳句を取って各地の俳人に示しこれに優劣をつけさせたところ、地方俳人の評は10中八九迄は同じ、東都俳人の評は一々其結果を異にす。地方では交流がないが、東都俳人は一堂に会し研鑽、琢磨のために各自の見識を生じ、各々其見る所に向かって進むため、一方に僻し且つ其方にのみ発達するの傾向あり。地方の人は一はプリミチーヴなると一は小学校の先生の如くコムモン、センス的に発達し居るとの二原因に因りて相同き者ならん。衆人に推されたる句は意匠上極端の事物を現したるものにして、斥けられたる句は句法上不具的にしまりたる者なり。東都俳人中最も衆評に近き者を鳴雪とし遠き者を碧梧桐とす。衆の斥けたる句は即ち碧梧桐の推したる句。是地方俳人句法上の観察精細ならずして、徒に極端お趣向に眩耀せられ、碧梧桐は句法の緊弛を吟味すること詳密にして、其弊として句法しまりあれば無理なる趣向をも寛恕するが為なり。兎に角句法に心を留めざるは地方俳人の一失なるべし。地方俳人の進歩は著しい
「明治29年の俳句界」に於て新派と称えた碧梧桐、虚子により唱道せられし俳句は其意匠の上に於て殆ど全国の俳壇の一半を占めるに至れり。只々音調(字数)の上に於ては寧ろ保守派に下りたるが如し。地方俳人時に長短句を為す者あり
俗宗匠派は全く別者で作る人も物も目的も異なるが、近日俳句の流行につれ各地新聞往々宗匠派の俳句を掲載。俗気満紙、陳篇相倚る。しかも新聞記者先生玉石を区別する能わず。燕石(魚目燕石:偽物)を襲蔵して珍と為す。只々新聞、俳句を掲載するもの其数を増した

Ø  「新俳句」のはじめに題す             明治311
俳句は元禄に始まり、俳句の選集も亦同時。享保、宝暦の間選集殆ど無し。明和、安永以後漸く多く、蕪村の一派特に時流に傑出す。蝶夢の『類題発句集』を始め『故人五百題』は元禄以後の句を蒐輯。其後『発句題叢』が明和以後の句を網羅。天明以降粗雑鹵莽見るに堪えず。明治の今日に及びて俳句再び興り俳風一新、千余年間腐敗しきった和歌を圧倒し、始めて天下公衆の歓迎を受けるに至る。時勢の赴く所、俳句は古来未曽有の盛運に達したが、新鮮な明治の俳句を蒐輯した俳書がなく遺憾に思っていたところ、三川、碧冷瓏諸子が題を分かち句を収め、萃を抜き秀を鍾め、『新俳句』と題して公にした。新面目を備えたる俳書の刊行を喜ぶ
明治の新俳句が世に出たのは明治25年以後であり、萌芽の発生も今からせいぜい10年前の事だが、其間の変化は驚くべき者あり。明治の新風として世にも認められ、天明に似て天明より精細に、蕪村に似て蕪村よりも変化多し。芭蕉、其角も夢に見ざりし所、蒼虬、梅室輩の到底解する能わざる処。地方にも伝播。『新俳句』が明治の特色を網羅するものではなく、あくまで明治に於ける俳句集の嚆矢で、第23の『新俳句』が続々世に現れんことをを希望する
明治の俳句といっても、彼俗宗匠輩、月並者流の製作を含まず。彼らの拙なるを以てのみならず、彼等が不当の点を付して糊口の助となすの目的を以て之を作り景物懸賞品を得るための器用として之を用いる者、その目的既に文学以外に在り、文学以外に在る者固より俳句と称すべくもあらざればなり。況や其差壤月鼈(つきとすっぽん?)のみならざるをや

Ø  卜筮(ぜいちく占い?)十句集(1つの題に対して110句づつ詠んで優劣を競う)を評す
                                                       明治313月――7
東京近郊の人の句を集めた月次宿題集。点を得た句を抜萃して評す
        日を卜し君妻を娶る桃の頃                  繞石
「桃の頃」といえば「日を卜し」は重複なり。「日を卜し」といえば「桃の花」とでも置くべきか。兎に角趣向も陳腐なり。割愛に如かず
        やぶ入りや易たのみよる袂(たもと)    虚子
集中の最高の11点。只々此句の第1の欠点は如何なる種類の人とも分からぬ事。普通にやぶ入りといえば嫁が里へ行くことだが、袂銭とあれば嫁には非ざるべし。東京では116日に商家の丁稚が1日の暇を得て遊ぶこと極めて盛なれば、此句も丁稚小僧を言えるか。袂銭といえば立派な1人前の番頭手代でもなく、さりとて易を見てもらうのは12,3歳の世間知らずの小僧でもないし、何とも定め難し。「易たのみよる」の言葉からは女とも見ゆ
        将軍の易吉にして陣の春                     虚子
「易吉」は日本語なら或は恕すべきも、全体が漢文めきたる所には用いるべからざるにや。漢語では「卜吉」で、「陣の春」が利かず、従って全句に何の趣味もなし。5点も得ているのは諸子何の見る所あるか
        提燈は恋の辻占夕桜                          虚子
此句8点。俗受けなる者に非ざるか。何処が悪いということも無いが、何だか俗気あるが如く思える。物が物だからか。「将軍の易」に比べれば之を取る
        行く春や当たらざりけるうらやさん        虚子
此句余の選びしのみ。平凡なるが如くにして字句老練の処あり。且つ多少の趣味を具える。諸
子前2句を取ってこれを遺す、気の知れぬ事かな
        参宮の首途うらなふ日永かな               三川
「日永」の語利かず。参宮の首途(旅立ち)には春の日の長閑なる感あれど、之を占う場合に「永」というは蛇足。「うらなう」目的が、旅立ちの日を占うのか旅の吉凶を占うのか不明だし、自ら占うか人に占って貰うかも覚束ない。碧虚両氏共に之を取る。定めて意見あるべし
        筮竹(ぜいちく)の上に日暮れの柳かな              碧梧桐
買卜先生大道の傍に机を据えて待つに、頼み人も無く永き日静に暮れんとする様見るが如し
        山寺に御鬮(くじ)を探る彼岸かな                    三川
此句も碧虚両氏の選ぶ所、しかも余其趣味を探る能わず。強いて解釈すれば、第1平凡、第2御籤探るためにことさらに山寺へ彼岸に参りたるが如き感あること、第3に彼岸は一途に佛を頼んで仏果を得んとするか、冥福を修せんとするかなるべきに、御籤を探るは自己に迷いあるを証する者にて、此間に撞着あること等の内なるべし(?)。第3が主なる原因かとも思う
        はやらざる村の易者や麦の秋               虚子
余の取りたる句。初め善しと思ったが、今考えると少し変な処あり。易者は町に住むもので、村に住んでいたらはやらないのは当然で、「はやらざる」というは何の趣も無し。寧ろ村の易者が善くはやるとすれば善からん。はやれば村に住むとも差支え無し。近郷近在よりわざわざ人の訪い来ればなり
        筮竹に牡丹崩るる唐机                       東洋
此句9点。第2位。余は終五に二の足を踏む。「たうづくゑ」と読むか「からづくゑ」と読むか、耳慣れぬ語。牡丹は盆栽と見るより花瓶中の者と見るが尋常。筮竹に牡丹の配合は趣なきにもあらねど、一方より見れば卜筮は神明に通ずる者にて香を焚き身を清めて総て清浄を旨とすれば、牡丹の如き華美なる者との配合如何あるべきと思うの感無きにもあらず
        あぢきなき火燵の夢や占とはん            虚子
余の地位に抜きたる句なり。碧梧桐も抜きたれど外には同意者無し。まず無難なる句と見ゆるを諸君はいづこを難ずるにや
        銀杏樹下に易者見なれて古頭巾            碧梧桐
古小説の挿画を見るが如し。最も頭巾はしゃれたる頭巾にして大黒頭巾などにあらずと知るべし。余の人位に抜きたる句なり

Ø  曝背閒話              明治313
歌俳漢詩洋詩各々形は異なるが、趣は同じ。形異なれば調子異なり、調子異なれば各々其調子に適する趣向あり。和歌に穏雅なる趣向を取り、俳句に奇警なる趣向を取るが如しだが、長所短所をいうのみで、どちらでも趣向・趣味は共通のはずで、さもなければ文学的趣味に非ずして個人的私情なり
「俳諧の姿は歌連歌の次に立とも心は向上の一路に遊ぶべし」とは俳人の語なり。歌人も俳人も姿即ち調は優長なるをのみ善しと思える故に誤を生ず。優長は和歌の長所にして急迫なる調は俳句の長所なり。調の巧拙可否は優長とか急迫ではなく調和の如何にあり。世人動(やや)もすれば優長を好み急迫を悪むは庭園花樹の美を知りて高山深林の美を知らず、池沼漣漪(さざなみ)の美を知りて怒涛狂瀾(なみ)の美を知らざるが為のみ
調と趣向と相適合することを要す。其一例として、時間を現すべき場合には文字の長さ(調)と時間の長さ(趣向)と略々一致せざるべからず
        足引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寐む      人麿
枕詞のような句を長く置いたのは夜の長きことを現すに適せるなり。文字単調にして長き故に夜もまた単調にして長きように感じられる。夜の長きように感ぜしむるは即ち此歌の本意なり。これを17字の俳句にて詠ぜんには斯く迄長々しくは感ぜざるべし
        鳴きさして我に雉臥す野中かな            (ママ)
人を見かけて雉が俄かに身を伏せ隠れんとしたる様をいえる者で、「雉臥す」と短く言ったのは雉の敏捷なる様を善く現わしたりというべし。和歌では調子が緩んで敏捷なる挙動には副わない。是こそが和歌と俳句の長所短所
絵画彫刻にても感情を表現する方法が異なるだけで趣味は変わらず。文学にて面白き趣向は画にても面白く、逆も亦然り。但画は空間を写し文学は時間を写すの差は、各自の長所短所に著しき相異を見る事あるのみ。余が友不折は洋風画家で俳句を識らないが、余が句中に広野の字あるを見て、広の字無からんには更に広き感を起こさせるのではないかと指摘。余其至理に服す。にも拘らず、歌人は之を解する能わず。況や日本風画家をや。慨すべきかな
文学は感情的の者にして些かの理屈を容れず、一点の理屈あれば則ち文学ならず。故に無学文盲の者時に秀句を成す事あり。俳句の如き短き者に於て殊に然り。其角が舟を泛べて中秋を賞す。沈思句未だ成らず。某の奴吼雲なる者船尾にあり。忽ち
        名月は汐に流るる小舟かな
の一句を吟ず。衆驚いて筆を舎く。以て当夜の絶調となすと
「名月は」の「は」の字如何なる意義とも解せず、之を疑うこと久し。無意味の「は」と見えたり

Ø  或問                明治314月――6
    或問1 切字とは?
答 文法上の終止言を指すと言って大体において可。字其者を指す語にて意味と関係なし
句の最後に来る者で最も簡単な例: かな、()り、(触れ)そ、ぞ、ぬ、()り、()し、(投け)む、()か、(やさしさ)よ、(花咲)く、()
句中に切字2個あり。二段切といい、中間と句尾にあって、文法上は2文章を以て1俳句を構成する
        夕顔秋はいろいろのふくべかな                   芭蕉
        去来去り移竹移り幾秋                            蕪村
切り字3個あるを三段切といい、文法上は3文章を以て1俳句を構成
終止言と見とめる者、即ち1文章の終を示すべき字無ければ切字とは言わない
切字無くして完全なる文章を為す場合が2通りある。1は独立格の場合、他は切字の省略せられている場合
        菊作り」 汝の菊は奴な
独立格の場合は上記の如く名詞を以て終りながら1文章を成すので、此句は二段切
俗宗匠は二段切、三段切を嫌うが、面白いかどうかに因るので、形ではないはず
切字を見出すことは易けれど、切字無くして切れたる処を見出すことは難し。そは種々に解釈し得べければなり
        目には青葉(を見る) 山時鳥(を聞く) 初松魚(を喰う)              素堂
普通には三段切とされるが、3つの情景をつなげて一段切とも言えなくもない
        やぶ入りのまたいで過ぎ凧の糸                   蕪村
「凧の糸」を独立格と見做せば二段切で、「過ぎぬ」の目的格と見做せば一段切
此種の変化する場合を取って解釈するのは文法学上では面白いが、美文的俳句の上より言って必要無きが如し。独立格と見做されようと見做されまいと俳句の美に何等の関係も無い
        青くてもあるべきものを唐からし                    芭蕉
「唐辛しは青くてもいいのになまじいに赤くなりたるよ」という意なれば、「を」を切り字というは誤り。「をまわし」という手法で、句を曲折せしむる故句に趣味を生ずるなり

    或問1 俳書は如何なる書をば読むべきか?
答 どんな書でもいいから1冊でも多く読むべし。善き本とは元禄と天明前後の俳書。元禄では『七部集』が善い。中でも芭蕉の心髄は『猿蓑』で、おとなしくて上品、趣味が深くて言葉調子がよく整って幾度見ても飽きない。『あら野』は『猿蓑』よりも不器用に、『炭俵』は『猿蓑』よりも器用で、共に読むべし。『あら野』『猿蓑』『炭俵』と時代順に読めば四五年間に起こった著しい変化を知ることができる。『続猿蓑』には平凡な句が多いが、元禄の平凡な句は読んでおくべき。『七部集』だけでは元禄をカバーしたことにはならず、更に其角の著書一二なりとも読むべき。『続虚栗』『花摘』『末若葉』『焦尾琴』『錦繍緞』等。其角以外では『其袋』『卯辰』『韻塞』『皮籠摺』『小弓俳諧集』等。其角派の句は新奇を好み器用を弄ぶ所に於て『七部集』とは自ら変わる。『七部集』は誰が集めたか知らねど、おとなしきもの、編纂の体裁の整ったものを集めたれば、其角の著書の自分勝手に作ったのと対照すると面白い
天明前後では『蕪村七部集』が最高。中でも『続明鳥』『五車反古』殊に著き什を集めた。太祇、嘯山の編める新選も面白く、樗良の我庵集も平淡なる句風他に異なって面白し。但嘯山の古選の評は幼稚で当てにしてはいけない
各家の家集はつとめて読み善く味わうべし。大家の家集にも悪句はあり、研究して大に益あり。必ず発明する所多かるべし
家集の著名なる者:
芭蕉――泊船集、芭蕉句選、一葉集、芭蕉翁句集
去来―去来発句集、其角―五元集、嵐雪―玄峰集、鬼貫―鬼貫句選、七車、支考―支考発句集
蕪村―蕪村句集、新花摘、几菫―井華集、一茶―一茶句集、俳人一茶
准家集は五子稿、十家発句集、三傑集など善き者多し
類題の稍々大部なるは類題発句集、故人五百題、新題林発句集、発句題叢(過半悪句)

Ø  俳人の手蹟           明治31613
名家大家の書画は華族富豪などの蔵にあって目に触れず、元々俳人が軽蔑されたことおもあって俳人の手蹟も権貴の珍襲に属する者少なしと雖も猶芭蕉、其角の書は貴重なる什物として秘蔵されている。肉筆は殆ど目に触れることなく、真筆として示される者は盡く偽物。板刻の術も拙かったので、板刻せし者すら少ない
俳人の手蹟の巧拙は俳句の巧拙と略々同じで、元禄、天明は手蹟も最も見る可き時代なり
俳諧300年間最書を善くする者は芭蕉。俳句では芭蕉を圧倒する蕪村も書では数歩譲る
独側300年間に於て仮名交じりの書を善くする者、芭蕉の右にいづる者なし。千蔭の如き仮名書きの名を一世に博し、今に於て猶称讃せらるる者(千蔭流)なれども、漢字の拙き、仮字の変化無き、雅致に乏しき、終に芭蕉に比すべくも非ず
貫之の仮名は百世の下に在りて師宗とせらるる者、其筆の巧妙、其字の整斉、一画誤らず、一糸乱れざるに至りては、殆ど技術の極致に達して見る者をして到底模倣する能わざるの感を起こさしむ
芭蕉の書は漢字をして多少仮字家化せしめたるとともに、又仮字をして幾何か漢字化せしめたるがために、和様の卑俗にも陥らず、貫之流の平穏にも倣わず、漢字仮字は一種の調和を成してしかも雅致あり気力あるを得たり。此点に於て芭蕉は古今に独歩せる者なり
芭蕉の書の刻せられたるもの鹿嶋紀行、幻住庵の記など多数、就中古雅蒼老そぞろに超世脱塵の想を成さしむるものを幻住庵の記とす
其角の書は縦横跌宕、覇気筆に溢る。芭蕉の高古に及ばずと雖も亦一代の達筆なり
芭蕉、其角を除いて元禄の俳人には特別いうべき程の人無きが、概して言えば拙き処に雅致あり、気力ありて後世俳人の俗気多きとは夐(はるか)に異なり
芭蕉以前の書は盡く和様なり。奇も無く雅も無し
天明以後では蕪村のは放逸洒落、人に関せざるが如き処愛すべし。几菫は其角の自筆の板本を学んだのか老辣の処ありて豪放の処なし。蓼太は最拙し。一般的に言って、俳人の書は其俳句よりも拙し。そは理の当然
俳人の手蹟を集めて印行せし者種々あるが、俳句集は編者の筆に掛る者、天明以前は盡く是なり
余諸家の手蹟を見る事多からず。詳細に諸家を比較する能わず、甚だ遺憾とす。人或は芭蕉の書を以て其角、嵐雪に劣れりなど妄論する者あり。故にここに概論するのみ

Ø  雑感                   明治318
『ほとゝぎす』が東京へ移るのは出世の端緒。若し松山人より見れば長く手を愛児に別つ者、豈多少の感無からんや
『ほとゝぎす』の発刊は全く極堂子1人の考えより起こり、誰も勧めず誰も拒まないうちに突然世に出た。事物の起原往々斯の如き者あり
発刊以来常に私生児の如く取り扱われ、さる6月までは一度も東京の新聞雑誌に広告されたことだになし。伝聞で全国俳人の間に広がり終に発行所を移すの利を感ずるに至る。是地方排士の益を求むるに熱心なるに因らずんば非ず
昨年1月の発刊から今日に至るまで、一般の俳句界は進歩したること論を待たず。余一個についても去年の自己の選評を見るに今と甚だ異なる者あり。変化を進歩とすれば余も進歩
儒家も佛家も可人も俳人も皆それぞれを以て天下第一と為すが、我を知って彼を知らず,寧んぞその第一たるを知らん。余も初め俳句に志した時は、之を第一とせざるどころか寧ろ軽蔑せり。僅か17字のみと。学ぶこと数年、句を作ること数万首、新たに発明するところ少なからず。翻って前年の稿を閲すれば盡くこれ悪句、凡句、陳区、拙句のみ。我才の短なるか、抑も俳句の神なるかと。蕪村句集を繙いて静かに之を観る。天衣縫無く珠玉煙を生ず。吾猶遠し
俳諧再び興ってよりここに数年、天下の俳書は盡く好事家の手に収められ跡を坊間(市中)に絶つ。俳諧を学ぶ者、古書を研究する能わざるを憾(うら)む。古書を研究せざるは霧中に道を探るが如し。今の俳句を知らんと欲せば古の俳句を知らざるべからず。皆蕪村を以て中興の俳傑となすも、俳句が如何に衰えて如何に興されたを知らず。蕪村の皮相を模して自ら蕪村流となし、芭蕉の糟粕を嘗めて自ら芭蕉流と為す。僅かに等儕(とうせい?)に抽(ぬき)んずれば得々然として天下敵無しと思えり。其状恰も盲者の橋上に舞うが如し。殆(あやう)いかな
蕪村句集新花摘を見る。句々珠玉、蕪村は人間以上の力を有せしかと疑う。後『新五子稿』を見ると、概して尋常平凡の句とはいえないが、蕪村にしては拙句に属する者多し。余ここに始めて人間たる蕪村を認め得たることを喜ぶ
蕪村は和漢の書を渉猟したるを以て、俳句を作るに当たって古語古事口に随って発し、少しも痕跡を留めず。細かに之を観れば尋常の語句又出所有る者少なからず。蕪村句集を解するは難し
古事古語を善く用いる者は新意を出だす能わず。新意を出だす者は古事古語を用いる能わず。古より詩人盡く然り。之を兼ねる者只々蕪村あるのみ
俳句に巧拙あり。浅深あり。今の句多くは巧にして浅し、拙にして深き者を見ず
余、梧(あおぎり)子、暮野、野流、見夫、フナ、皿山等の匿名を以て俳句を『ほとゝぎす』に投稿。時に出来不出来あるも概ね選抜せらるる句数に於て多し。即ち疑う、諸君は一句一句を吟味すること余の如く丁寧ならざるか

Ø  古池の句の弁        明治3110月――11
客が来て、古池の句有名なれど、其意義を説明する者なく、説明を聞きたいというので答える古池の句の意義は一句の表面に現れたるだけの意義にして、復他に意義なる者なし
芭蕉自ら此句を以て自家の新調に属する劈頭第1の作となし、此句を以て俳句変遷の第1期を画する境界線となしたるがために、後人相和して亦之を口にしたり。時代と共に記念的俳句は其記念の意味を忘れられて、却て芭蕉集中第1の佳句と誤解せらるるに至り、終に臆説百出、奇々怪々の付会を成して俗人を惑わすの結果を生じたもの。此句の真価を知らんと欲せば、此句以前の俳諧史を知るに如かず。意義に於ては古池に蛙の飛び込む音を聞きたりというほか何もない。明々白地、隠さず掩わず、一点の工夫を用いず、一字の曲折を成さざる処、此句の特色なり
古池の句を解するに必要な範囲で古俳諧史を説く。無味乾燥な処に古池の出発点がある
まず連歌を説く。17字句と14字句を相互に関連して100韻を以て終るのが普通。連歌の発句と俳諧の発句とは略々同一だが、連歌は発達上和歌から出たため、和歌慣用の言語材料を用いて自ら束縛し、区域を広くして材料を富ましむることを成さざるのみ。されば連歌の発句は到底陳腐と平凡とを免れず。古人を模倣し古句を踏襲、同一の意匠と同一の語句とを並列して敢えて剽窃の恥を知らず。和歌の最も衰微せし所以は、主として旧を貴び様に依り、師伝家流に拘泥して少しも新意を出だす能わざりしにあり。斯く腐敗し盡せる和歌より出でたる連歌の発句は、和歌と共に腐敗し居るのみならず、詩形の小なるだけその範囲狭くなりて、腐敗は却て一層度を高めたる者あり
ありふれた題目を歌うために同じ趣向の歌の繰り返しで何の変哲もない句ばかり
室町末期になって山崎宗鑑と山田守武が連歌に不満を抱き、俳諧の上に新方面を開いたのは、俳諧の斬新さは幾何か連歌の陳腐に勝りたるを感じたる成るべし
        かしがまし此里過ぎよほとゝぎす 都のうつけさぞや待つらん      宗鑑
此句からも宗鑑が尋常の依様畫胡盧的の文人ならざりし事は明らか。規則に縛られ、少しも自然の趣味を解する能わざりし当時の歌人連歌師を嘲りて「都のうつけ」と呼んだのは、連歌の活気無く変化無きをもどかしく思っての事。守武は独吟千句を俳諧では始めて試みる
鑑武2人の興した俳諧は連歌と同じ詩形に、今まで用いなかった俗語漢語を使い、今まで歌わざりし滑稽の趣味を述べただけで、俳諧は陳腐なる連歌に斬新の元素を加え、窮屈なる連歌に広き区域を借し、真面目なる連歌におどけたる趣向を与えたるも、無趣味なる連歌に趣味を加える能わず、模型的連歌に写実を教える能わず、句の品格に於て趣味に於て、寧ろ連歌より遥かに低き一体を興したるに過ぎず。文学者というのは余りに無識、俳諧師と謂わんには余りに野卑。だがちんでんふはいせるれんがを蕩搖して他日一新の機を与えたる功は、俳諧史上特筆すべき価値あり。従って彼等の俚(いやしい)野なる句も亦一読すべき
彼等の滑稽には3種。1は擬人法、1は言語上の遊戯に属するもの、1は古事、古語、鄙諺等の応用又は翻案を為す者。何れも浅薄にして野卑
擬人法:                手をついて歌申しあぐる蛙かな              宗鑑
譬喩を用いたる者:   月に柄をさしたらば善き団扇かな           宗鑑
言語上の遊戯:        なべて世に叩くは明日のくひ菜かな        宗鑑
成語を用いたる者:   花をしぞ思ふをりをり赤つづじ              宗鑑
彼ら2人の始めた俳諧は、自ら作って娯んだに過ぎない。弟子も無く、彼等の死後も暫くは意志を継ぐべき人も世に出ず。連歌は足利氏の滅亡とともに衰退、豊臣氏に至って紹巴が出たが、太閤薨じ紹巴没して僅かに其形骸を保つのみ
徳川氏の基礎固まりし頃松永貞徳の俳諧一派が漸く世に広まらんとす。世が平和を望み、無邪気なる滑稽、野卑なる俳句も当時の嗜好に合していたく世の持て囃す処となり、門末数十人、京に江戸にその勢力を逞(たくまし)うするに至る。印刷業の発達もあって、俳諧も都鄙遠境に波及し、忽ち未曽有の盛運に達するを得たり。鑑武の俳諧に比し、殆ど進歩ないどころか、一層野卑無味なる俳諧を為したるのみ。鑑武を祖述せんとして其糟粕を嘗めたると謂うべし
貞徳一派の俳諧は犬子集など幾多の書冊に刊行せられるも悪句ばかりで嘔吐を催すが、此れ等が世に流行したることを示さざれば、最後に至って芭蕉の妙趣を感ぜしむること能わざるを以て、敢えて悪句を示す
        雲は蛇呑みこむ月のかへるかな            貞徳
連歌よりも更に趣味少なく、鑑武よりも更に活気に乏しいのは明らか
延宝に至りて稍々変動し始め、西山宗因は起って談林派を唱え、貞徳派を一掃。談林も滑稽の区域を出る能わずなるも、幾分の趣味を増した点に於て、一句の結構に活気を生じたる点に於て、一段の進歩を為したるを見る
譬喩を用いたる句:   松に藤蛸木にのぼるけしきあり              宗因
古事古語の使用:      からし酢にふるは涙か櫻鯛                    宗因
奇抜、軽妙さで一歩だけ深く文学に入る。古事古語の使用は談林一派の生命、特に和歌、謡曲を用いたことで、品格に勝れり
守武死後80年にして貞徳起り、更に30年して談林起る。10年ならずして談林衰え、新を競い奇を争うの極みに達し、文運復興の機運は漸く熟す。延宝末年其角、杉風が作った句合の如き、言語の遊戯に属する滑稽は歛(おさ)めて、趣味の上の滑稽を主とするを見る
        青柳に蝙蝠(こうもり?)つたふ夕榮や                其角
天和3年『虚栗集』(其角編)世に出た時は、一般の俳句全く滑稽を離れて、僅かに雅致を認めたるが如し。俳諧漸く正路に向かうが、意匠の粗笨(ほん:あらい)複雑にして統一せざる、語句の佶屈聱牙にして調和を欠く
        青さしや草餅の穂に出でつらん             芭蕉
今日でいう所の佳句を作ろうとして作ったものではなく、寧ろ作ろうとして出来損なったものではないか。実際は佶屈聱牙なる句の多きを見れば、そちらの方が一般には賞讃されたのではないか。正風の萌芽発せんとして未だ発せざるなり。偶々佳句あるは偶然のみ
翌貞享元年『冬の日』の選集あり、『野ざらし紀行』あり。『野ざらし紀行』の句を見るは此際最も必要
        野ざらしを心に風のしむ身かな             芭蕉
        蔦植ゑて竹四五本の嵐かな                
        秋風や藪も畠も不破の関                    
虚栗から更に一歩を進めたり。虚栗の如く粗笨ならず、佶屈ならず。然れども句々猶工夫の痕跡ありて、未だ自然円満の域に達せず。芭蕉未だ自然という事に気づかざりき。蔦の句如き稍々自然なれども、「植ゑて」の語猶自然ならざる処あり。不破の句は句として不完全なれども、此種の懐古の作は和歌にも猶あり得べき趣向なり。芭蕉未だ俳諧特有の妙処の存し得べきことを知らざりき
翌々貞享3年、芭蕉未曽有の一句、「古池や」を得たり
今まではいかめしきことを言い、珍しき事を工夫して後に始めて俳句を得べしと思っていたが、今は日常平凡の事が直ちに句となることを発明せり。終に自然の妙を悟りて工夫の卑しきを斥けたるなり。彼が無分別という者、亦自然に外ならず。自然という一事がある程度迄文学美術の基礎を為すは論を俟たず。此句の題目が多く世人に忘れられたる「蛙」にあることにも要注意。芭蕉は蛙なる一動物の上に活眼を開きたり。鶯や時鳥、雁等とは違って、美しくも可愛くも無い其蛙すら猶多少の趣致を備えて、俳句の材料たるを得ることを感じたるなり。蛙に活眼を開きたるは即ち自然の上に活眼を開きたるなり
芭蕉の俳諧はこの一句を限界として一変せり。当時の俳諧界も一転。芭蕉爾か感ぜり。故に芭蕉の将に死せんとして門人其辞世の句を問うや、芭蕉答えて曰く
昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、吾生涯いい捨てし句は一句として辞世ならざるは無し。我辞世如何にと問う人あらばこの年頃いい捨て置きし句いずれなりとも辞世なりと申し給われかし。諸法従来常示寂滅相、これは釈尊の辞世にして一代の佛教此2句より外は無し。古池の句に我一風を興せしよりはしめて辞世なり。其後百千の句を吐くにこの意ならざるは無し。ここを以て句に辞世ならざるはなしと申し侍るなり
「其後百千の句を吐くにこの意ならざるは無し」とは、古池の句と共に感得せし自然的趣味によりて一生俳句を作りたりとの意なり。芭蕉が古池の句を蕉風の境界線となししは自ら明言する所なれども、芭蕉は此句を以て自家集中第1等の句なりとは言わず、芭蕉が爾か言わざるのみならず、門弟も亦爾か言わず。去来は最も深く芭蕉に教えられた者だが、古池の句に付いて何をも言わず。支考の如く芭蕉を本尊にして自説を誇張する者すら、古池の句を批評したること無し。然るにいつの頃からか此句を無上の俳句なるが如く誤解されている。芭蕉自ら、古池以後何れの句も皆我句として人に伝えるべしとさえ誇るに、後人が特に古池の一句を揚ぐるを聞かば、芭蕉は必ず不満なるべし。古池以外に多くの佳句あるを信ずる

Ø  俳句分類(乙号)               明治3110
四季の事物以外の事物によりて俳句を蒐輯したる者をいう。余が分類の目的は主として甲号(四季の事物によりて蒐めたる者)にあるため、乙号は或る一部分に限って蒐輯に着手しただけ。完全ならしめんには少なくとも甲号の3倍にはなるので到底1人の力では無理
各事物の下に俳句を蒐輯した後、更に四季に分類。俳句に在っては四季の題目其最要部分たるを以て、乙号の分類にも四季を先にするのは当を得たもの

Ø  朝顔句合           明治3110
句合は元禄以後少なし。蕪村一派は折々座興に催ししも世に残るは少なし。婉曲を旨として飾りを多くするため却て要領を得ぬこそ口惜しけれ。句合も興ありぬべしと、碧虚2子を催して朝顔10題を課することとした。各赤、白、藍、紺、桃色、蕾、実、垣、鉢、松の題にて競う
      朝顔の藍色は疾く咲かずなりぬ            碧梧桐
        朝顔は浅葱が咲て鄙をかし                  虚子
両句とも面白し。藍色は疾く咲かずなりしに適切なるよりも、田舎の秋の曙に適切なれは後を勝とす
一見して目立ちたる句の無きは題が狭きが故ならん。何れの句も多少の工夫を費やしたる跡明らかに知らる、此れも題狭きが故ならん
判者にも句無かるべからずと責められてさすがに逃げるも卑怯なり。さりとて行司は力士より強き者と思うな
      此頃の朝顔藍に定まりぬ                     子規

Ø  俳諧無門關           明治3110月、12
俳諧は禅なり、禅に非ず。禅は俳諧なり、俳諧に非ず。迷った上に必ず正道を知らん。悟って後に却て岐路に出でん。汝迷わば我汝に三十棒を与えん。汝悟らば我汝に三十棒を与えん。汝若し逃ぐる事一歩せば、我猿臂(えんぴ:長い腕)を伸ばして即座に叩き殺さん
【一】
芭蕉歌論
中頃の歌人は誰かと問われ、芭蕉曰く、西行と鎌倉の右大臣ならん
芭蕉死に臨んで遺言して曰く、心は杜子美の老を思い、さびは西上人の道心を慕い、調は業平が高儀をうつすべし
俳無門曰く、俳人の眼に映ずる和歌漢詩の位置如何と見よ。和歌漢詩に対する俳人の見地如何と見よ。西行と実朝と答えたのは馬首の卓見。何れか勝ると問え。西行勝るといわば芭蕉和歌を知らず、実朝勝るといわば芭蕉俳諧を知らず。両者優劣無しといわば芭蕉和歌俳諧を知らず。更に山家、金槐(実朝の歌集)2集について何れの歌が最佳なるかと問え。更に上代の歌人は誰ぞと問え。人麿、赤人を捨てて業平、貫之を取り、万葉をいわずして古今をいわんか。是凡俗の見、芭蕉実に凡俗たるを免れざるなり。正秀が、古今集に空に知られぬ雪ぞ降りける、人に知られぬ花や咲くらん、春にしられぬ花ぞ咲くなる、1集に此3首を撰す、11作者にかようの事例あるにやと問えるに答えて、芭蕉は、貫之の好める詞と見えたり、かようの事は今の人は嫌うべきを昔は嫌わずと見えたりと言えり。之を見るに芭蕉は和歌の雅俗を弁(わきま)えたり。然れども万葉を説かずして特に業平を揚げ西行を尊ぶ処、其他歌について詳論せず、自ら称して歌を知らずと為す処、其謙遜に出づるとは言え、確固たる標準無かりしや必せり。只々彼は彷彿として或る者を認めたるのみ。さはれ俳諧200年間、俳人雲の如し。若し芭蕉和歌を知らずと道はば、何人か和歌を知る者ぞ
(誉め言葉)にいう     西行に糸瓜の歌は無かりけり

丈草俳禅
芭蕉幻住庵にて終日丈草に対して俳諧の物語あり。正秀側に在って之を聞くに一事として意を会せず。其後其事を丈草に問う。丈草曰く、わが問う処は言語の俳諧にあらず、禅の俳諧なり。禅の俳諧とは、山は只青山、雲は只白雲、芭蕉は実に達磨なるは
俳無門曰く、芭蕉隻手(せきしゅ:片手)を示し、丈草、指頭を起こさば是禅なり。芭蕉発句を誦し、丈草脇を付ければ是俳諧なり。俳諧に禅あらば禅に俳諧あるべし。芭蕉もし達磨ならば達磨亦まさに俳句を識るべし。願わくは達磨の俳句を聞かん
頌にいう                達磨句あり蛙飛びこむ水の音

天明磊落
蕪村曰く、其角が句集は聞こえがたき句多けれども読むたびに飽かず覚ゆ。是角がまされる処なり。とかく句は磊落なるをよしとすべし
俳無門曰く、蕪村が其角を推す所以は其句の磊落なるに在り。蕪村も一派も磊落。天明の俳句盡く磊落。芭蕉は細みといい寂といいしをりという、これ消極的なり。蕪村を芭蕉に対していえば、太みなり、派手なり、勢いなり、是積極的なり。蕪村の芭蕉を言わずして其角を揚げる者、其角が積極的俳句に富めるが為なり。天明の句に就いて見よ。所謂磊落の句は各家の集中に極めて多きを知らん
        蚊幮ごしに鬼を笞うつけさの秋             蕪村
雄渾も勁抜も活動も奇警も華麗も放縦も皆磊落の一部なり
頌にいう                磊落は新酒を偸(ぬす?)む事にあらず

元禄自然
芭蕉曰く、俳諧は三尺の童にさせよ。初心の句こそたのもしけれ
又曰く、無分別の場に句作あることを思うべし
俳無門曰く、元禄俳諧の自然を貴ぶは芭蕉の性行の之に偏するのみにあらず、俳諧の第一時期に自然を求めるは文学発達の順序にて、自然ありて後に工夫あり、芭蕉ありて後に蕪村あり。自然は巧みを弄せず、奇を衒せず、情を幽遠に馳せ、趣を平淡に寓す
        名月や池をめぐりて夜もすがら             芭蕉
頌にいう                合点ぢゃ萩のうねりのその事か

【二】
去来不満
去来曰く、其角は不易の句に於ては頗る奇妙をふるい、流行の句に至っては近来其趣を失えり。今日諸生の為に古格をあらためずというとも、猶長くここにとどまりなば我其角をもて剣の菜刀になりたりとせん。たまたま見た俳書でも角が句10にして賞すべきもの一二.その余は世間平々の句なり。角が才の大なるを以て論ぜば我彼を頭上にいただかん。角が句の卑しきを以て論ぜば我彼を脚下に見ん
俳無門曰く、蕉門の迦葉、舎利弗、道に入るいずれか深く、説をなすいずれか正しき。正法眼蔵涅槃妙心実相無相微妙の法門は芭蕉是を去来に付嘱する時、其角別に変幻自在縦横無尽非雅非俗奇妙の俳門を立てて一世を風靡す。去来より見る、其角は外道。其角より見る、去来は我見に執す。去来は不易に得て東に進む、其角は流行に得て西に走る。両者走って顧みればますます隔たる。且道へ、那辺か是風馬牛相会する処
頌にいう                海鼠眼なしふぐとの面を憎みけり

許六自尊
許六曰く、我6年前に血脈を継ぎ三神をかけて師の前に於て大悟発明す。俳諧の底を破って自由を得たり。自讃の言葉なりと憎む人もあるべし。和歌三神を入れて自讃という心なし。翁の流の俳諧に於ては血脈相続の門弟なり
俳無門曰く、湖東の天刑(天罰)子、傍若無人、自画自讃、鼻頭高きこと一万八千由旬。口を開けば則ち血脈を説く。恰も是癡(おろか)人夢を説き売僧法を説く者。許六果たしてこれ血脈を伝えんか、門前の狗子も亦血脈を伝えん。試みに起って門前の狗子に問う。狗子曰くワンワン
頌にいう                狗の子の小便するや石蕗(つわぶき)の花

湖上梅雨
許六書を去来に与えて曰く、予当流入門の頃五月雨の句すべしとて
        湖の水もまさるや五月雨
としたが、余りに直にして味少なしと案じよからぬ句にしたが、其後あら野出たり。先生の句に         湖の水まさりけり五月雨
という句見て予が心夜の明けたる心地して初めて俳諧の心を得たり。先生の恩なり
俳無門曰く、「も」「や」の2字と「けり」の2字と、只々是2字、彼に執せば則ち直下に地獄に墜ち、此に依らば則ち忽然として成仏し了らん。「も」の字元是悪魔の名、能く妖法を修す。一たび彼に触れんか、十有七字麻了痺了俗了俚(いやしい)了軟了死了す。人々須(すべから)く「も」の字除(よけ)の御符を以て自家頭中の「も」の字を追い儺いて留める莫れ。乃ち天地玲瓏、空裡の一塵を見ん
頌にいう                筑波嶺やかのもこのものめつた枯

岩頭月猿
去来の句、 岩はなやここにもひとり月の客  を酒堂は「月の猿」とすべしというが、去来は「客」の字勝りなんと申す。先師曰く、猿とは何事ぞ。汝此句をいかに思いて作せるや。去来曰く、名月に山野を吟歩し侍るに岩頭また1人の騒客を見つけたると申す。先師曰く、己の名乗り出でたらんこといくばくの風流ならめ。只自称の句となすべし。此句は我も珍重して笈の小文に書き入れけるとなん
俳無門曰く、自ら名のり出ずるとは何事ぞ。伊賀生まれの一老爺未だ大悟徹底せず。暗中に模索して壺裡に匍匐す。彼一去来に及ばず。しかも此嵯峨の柹(かき?)主亦月の猿を斥けて自ら得々たり。彼一酒堂に及ばず。平生嘲罵せらるる的酒堂の着眼、此処に於て芭蕉より高きこと2等。くらはし得たり、芭蕉頭上の三十棒
頌にいう                親爺の眼木兎の眼に画ならん

Ø  句合の月              明治3111
句合の題に月とある。凡そ四季の題で月という程広い漠然とした題はないので呻吟。判者が碧梧桐だというので自然に空想を斥けて写実にやろうと考える
あれこれと想像しながら作句するが、どれも満足いかないまま、遂に「見送るや酔いのさめたる舟の月」という句ができた。振るわぬ句だが大疵も無いように思えてこれに極めた。今まで一句作るのにこんなに長く考えた事は無かった。余り考えては善い句は出来まいが、併しこれが余程修行になるような心持がする。此後も閒があったら斯ういうように考えてみたいと思う

Ø  蕪村と几菫           明治3112
芭蕉は去来に伝え、去来は伝える所無し。蕪村は几菫に伝え、几菫は伝える所無し。去来の器は芭蕉の器の大なるに如かず、几菫の才は蕪村の才の敏なるに及ばざりしなり。芭蕉の俳諧は自然にして善く変化す、去来は自然の趣を得て、しかも変化する能わざりき。蕪村の俳諧は勁健にして且つ自然なり、几菫は勁健の処を学びて、しかも自然なる能わざりき。但去来の精諄と几菫の洗練とは各々其面目を現して優に時流に超出する者、此点に於て芭蕉、蕪村猶如かざる所あるを見る
几菫は高井氏、春夜楼といい晉明という。京師の人、父が蕪村の友人で、俳諧を蕪村に学ぶ。蕪村没後夜半亭を継ぐ。寛政元年没。蕪村の死に遅れること僅かに6
蕪村の死とともに其系統全く絶えて其流派の伝わらざりし者、几菫が続いて没したため
几菫をして人を教えるの学と人をなつくるの徳あらしめば、蕪村生存中と雖も猶弟子を導くこと、芭蕉生存中の其角の如きを得べし。蕪村死後の6年間、彼は其技量を現すべき機会を有したるにも拘らず、1人の相続者をも造る能わざりしは其力の足らざりし事を証明する
然れども一世の風潮を支配すべき偉人を生ずるは時運にして人に非ず。孔子の聖ありて孔門の十哲あり、しかも孔子は第2の孔子を造る能わず。芭蕉の徳ありて蕉門の十哲あり、しかも芭蕉は第2の芭蕉を造る能わず。蕪村の大才にして僅かに1几菫を得たるが如き、第2流の人猶時運に関する者あるを知る。蕪村が蕪村を造る能わざりしも亦怪しむに足らず。何ぞ几菫に於て之を責めん。几菫に形式上の相続者無かりしは、偶々以て其純潔、人に媚びず世を衒せざるを見るに足る。彼蓼太の如き門弟天下に満ちて1人の俳人らしき者をも出さざるに比して高き事幾等ぞ
几菫には多少の学識あるも、深遠該博なるには非ず、寧ろ蕪村の余波を受けたがために幾何の修養を得しに過ぎず。且つ彼の才は小に適して大に適せず。其文章も稚気を免れず。蕪村終焉記は彼が畢生の力を盡して書ける者から、修飾に過ぎて摯実ならざる、恰も小児が大人の語調を学ぶが如くにして稍々厭うべし。其俳句の端書の無用なるもの多きに至りては見識の卑しきことを示すに過ぎず。几菫のために惜しむ
几菫の俳句は蕪村の大作には及ばざりしも、亦俳諧界有数の大家たるを失わず。白雄、曉台、蘭更の徒に比肩して却て一頭地を抜かんとする者あり。其句の勁抜にして一字の懈(おこたる)筆無きは彼の長所にして、観察の細微にして却て俗に陥らざるは彼の特色なり。一句を作るには多時の熟慮を要せし者と覚しく、全体に無味なる者あるも一語一字の易うべき者を見ず。蓋し彼は性の鈍きに拘らず、黽(つとめる)勉刻苦、工夫に工夫を積みて而して後に此境に到りしならんか。余も彼に導かれたる1人なり。彼の自撰句集を井華集という
几菫の俳句半ば蕪村に学び半ば太祇に得たり。全句の気格からは太祇に似たる者多からん
蕪村に似た処は、雄勁、瑰(かい?)麗、奇警、用語の清新にして自在なる処相似たる
異なる処は、規模小、一気呵成に対し曲折容を為す者極めて多し、尋常事物について或る新奇なる場合を選び、平凡なる現象を極めて明瞭に叙し、陳腐なる趣向に一点の生命を与えて能く之を新鮮ならしむるの妙を得たり。苦心の痕跡の此処彼処に存在するを認む。蕪村句集を読んで得る所の一種の愉快なる感情を井華集には見いだせない。是実に几菫の蕪村に及ばざる所なり。只々吾儕(ともがら)遅鈍の者、其経営惨澹の跡を見て昇天の金楷(?)を得たるが如き心地に多少の愉快を感ぜずんばあらず
        折釘に烏帽子かけたり春の宿               蕪村
        正月や烏帽子かけたる木工頭               几菫
両者比較するに、蕪村の趣向は几菫より複雑なるも、之を読むに蕪村は自然にして几菫は工夫あるを覚ゆ。実際に於て蕪村の句は複雑ながら自然に口より漏れし者なるべく、几菫の句は簡単ながら工夫を費やしたるなるべし。蕪村の句は自然なるが故に勢いあり、それ故に句法に変化あり。几菫は工夫せしが故に活動せず、それ故句法悉く同じ

Ø  俳諧かるた           明治3112
百人一首に倣って100人の俳人の句各々一首づつを選ぶ
        あら海や佐渡に横ふ天の川                  芭蕉
        行き行きて倒れ伏すとも萩の原            曽良   
      絶えずしも薄雲おこる今日の月             曉台    (天明五傑・寛政三傑)
        時鳥啼くや湖水のささ濁り                  丈草    (蕉門十哲)
        五人扶持取りてしだるる柳かな             野坡    (蕉門十哲)
        土佐が画の彩色兀し須磨の秋               素堂
        爐開や汝を呼ぶは金の事                    其角    (蕉門十哲)
      清水の上から出たり春の月                  許六    (蕉門十哲)
      家ありや夕山櫻灯の漏るる                  蘭更    (天明五傑・寛政三傑)
      笠着せて見ばや月夜の鶏頭花               支考    (蕉門十哲)
        火串ふつて獵(りょう)矢をそそぐ小瀧かな         白雄    (天明五傑)
      おもしろや理屈はなしに花の雲             越人    (蕉門十哲)
        湖の水まさりけり皐月雨                     去来    (蕉門十哲)
        蝙蝠に手もとも暗し油売                     北枝    (蕉門十哲)
      春雨や蓑の下なる恋衣                       几菫
        古暦ほしき人には参らせん                  嵐雪    (蕉門十哲)
      襟巻に首さし入れて冬の月                  杉風    (蕉門十哲)
        高麗船のよらで過ぎ行く霞かな            蕪村    (天明五傑)
        浮き草の花よこいこい爺が茶屋            一茶
      夜桜や三味線引いて人通り                  蓼太    (天明五傑・寛政三傑)
百韻の連歌の如く配列するため、わざとその便にせんために、枉げて種々の変わりたる句を選んだ。発句即ち第1句はその時の時候によりて定め、連歌の配列の法則に従って、句を並べ、早く並べ終えたるを勝ちとす

Ø  俳句新派の傾向               明治321
世界の文明が簡単より複雑に赴き、粗大より精微に赴き、散漫より緊密に赴くと共に、美術文学も亦同一の傾向を取りて進歩しつつあり。俳句亦同じ
人工増殖し教育普及するに従い、各人の嗜好は千状万態の変化を現わし来り、之に応ずるに各種の文学美術亦千状万態ならざるべからず。俳句が時代に随い変化するも亦此理なり
明治に至りて興れる所謂俳句新派なる者は啻(ただ)に一特色あるが為に之を進歩というべきのみにあらず、其特色の価値より之を元禄、天明に比して遜色無きを信ず。是特に此題目を掲げたる所以なり。ここで論ずるのは元禄にも天明にも天保にも非ざる一種の特色だが、月と鼈との如く殊なるは稀にして、多くは程度の相違に属す。元禄以降の変化は唯々程度の相違のみ。独り蕪村等の俳句に至りてはその時代の佳作たるのみならず、今日より見て其完全なるもの多きに驚く。蓋し一方において俳句の進歩斯くの如く速やかなるは、他方に於て俳句の終極の近づきつつあるに非ざるを得んや
新派の傾向が最も多く現れている虚子、碧梧桐の句を例に挙げる
まず、清水の濁るという事を詠んだ古句
元禄         一桶のあと濁されし清水かな         割舷
明治         強力の清水濁して去りにけり          碧梧桐
清水の濁るという趣向は珍しきことにもあらねば多くの人が詠み出でたるが、古句にては濁りの澄む処を詠み、多少の新意無きにあらねどいずれも清水を離れる能わざりしに、明治の句は「去りにけり」によって清水を離れ且つ自己を離れたり。清水を掬うという動作の外に更に去るという動作を加え、清水と人とを配合したる光景の次に人無き清水の光景をも時間的に連結し、以て之を複雑にし、陳套に陥らざるを得たり。是明治俳句の進歩の一なり
元禄         交りは紙衣の切を譲りけり            丈艸
明治         交りは安火を贈り祝ひけり            碧梧桐
「祝いけり」により他の家に(新宅移転と分からずとも)何事か取り込みたる事あるを想像せしめ、丈草に比して頗る複雑に聞こえる
        箒木は皆伐られけり芙蓉咲く                          碧梧桐
        枯葛を引き切りたりし葎(むぐら:茂み)かな        虚子
2句とも時間的に2個の光景を連想して、しかも2個の中心点を有するもの。「皆伐られたる」や「ひいてしまいし」では中心は1個となるべし。1個とせず2個としたのが明治の技量。総ての美術文学に2個の中心あるを許さざるは従来一般に信じ居りし原則なれども、俳句には2個中心ある者を出だせり。23個中心点ある者も亦結合の如何にょりて趣味ある詩又は画となるべきを信ず
        春風や舟伊予に寄りて道後の湯                極堂
さらに多く抽象的となる。蓋し多くの時間が全句に万遍に分配せられたるに因る。斯かる多くの抽象的分子を加えて多少の趣味を備える者、明治の特色なり
湊合的に複雑なる者は又分析的に細微なるを得べし。天明に至りて細微に一歩を進め、明治に至りて更に一歩を進む。細微とは狭き空間、短き時間における現象を精密に現すの謂いにして、其特長は印象明瞭の一点にあり。一例として一枝の牡丹を描く時、別に新趣向あるにあらず、その絵にしてよく写生し得たらんか、一見して眞物の眼前に在るが如き感じにして一種の快感あるべし。是俳句に所謂印象明瞭なり
更に進んで明治俳句に現れた新趣味は、油画では所謂紫派となり、小説ではスケッチ的短篇となったもので、同じ流れに属す。濃厚、高遠ではなく、淡泊平易なる趣味にして、中心は一点に集中せず、稍々放散せる傾向あり。曖昧未了の間に一篇を結ぶが、その裏に存する微妙の感は、濃厚、高遠とはまったく種類を異にするを以て、必ずしも彼に劣るに非ず
(元禄)    水かけて見れどいよいよ氷かな             林鴻
中心は氷にして、水かけて氷を現したる処に「落ち」はあるべし
            水汲んで氷の上に注ぎけり                   虚子
中心も「落ち」も無き者となり、前句とは全く趣味を別にする。「落ち」の見えぬ、目的の判然せざる事にも一種の趣味を感じるを得。淡泊平易は明治以降に発達したもの。古の人の遅鈍なる感情に適度なりし刺激は、後の人の鋭敏なる感情には過度なる刺激となるべく、将た古の人の遅鈍なるがために感じ得ざりし低度の刺激は後の人の鋭敏なるがために之を感じ得るに至るべし
        牡丹ある寺行き過ぎし恨かな                   蕪村
        宿貸さぬ火影や雪の家つづき                  
行き過ぎし恨みと宿借さぬ時の光景とを直接述べたる者
        宿借さぬ蠶(かいこ)の村や行過ぎし           虚子
行き過ぎし恨みをいうにもあらず、宿借さぬ時の光景を述べるにもあらず、蠶飼に宿ことわられし前の村は既に行き過ぎて宿借すべき後の村は未だ来たらず、過去を顧みず未来を望まず、中途に在りて歩む時、何となく微妙の感興る。芭蕉、其角は勿論、蕪村、太祇でもここに感得する能わざりしなり
句調の長短変化は天明に度を高め、明治に入りて甚し。二三年前に流行した乱調は漸く跡を収めたが、初6字の中に5字の名詞を用いることなどは普通となって怪しまず
単独の材料も、汽車、電信など時勢的変化に伴う者や、古人の使用しなかった季の題も多い
明治の俳句は大体において天明に一歩を進め、猶多少の新趣味を加えて、大勢のまにまに変化し進歩しつつあり。僅に十七八字、如何に複雑にしようとも、印象明瞭にしようとも、容易にその極度に達せん。若し今後の進歩として期すべき者ありとすれば、特別の事物における観念の未だ進歩せざりし者が万遍に進歩して極度に達するの外非ざるなり

Ø  明治31年の俳句界                    明治321
前年に比し一段の進歩を為す。全国普遍で、先輩、後輩も問わず。地方や後輩の進歩が著しく、東京や先輩の技能を凌がんとするの傾向を示す。東京や先輩の奮発一番、扶揺に搏(う)ち、九霄(大空)に遊び、彼児輩をして巾幗(きんかく)婦人の贈を為さしめざらん事を思い、地方の為後輩の為には勇往直進、利刀の竹節を破るが如く、香車の角行を刺すが如く、清正の猛虎を衝くが如く、彼耄碌連をして一敗地に塗れしむるの勇気あらん事を思う
昨年の俳句界における技術上の傾向は『俳句新派の傾向』に述べた通りで、此傾向は昨年に始まったことではないが、益々其傾向の著しき者あり、今年も猶直進すべきか、将た一転して他に向かうべきか、そは一に柁手たるべき人の技能に属するなり。柁手は誰ぞ
東京では先輩鳴雪再び俳壇に出で後進を誘導す。太だ人意を強うす。碧梧桐の老練にして遒(しゅうけい:つよい)勁なる、虚子の高朗にして活動せる、共に天下敵無き者。露月の跌宕、四方太の勁直、好個両雄、世人唾を呑んで観る
京都には先輩紫明、満月会を統率して常に俳運の隆盛を致す。俳句界も俳人も共に増加の傾向あり。肥の漱石、越の紅緑、予の極堂等、皆地方の先輩として一騎当千。漱石の超脱にして時に奇警なる、紅緑の円活にして虚字を利用する、極堂の敏捷にして語句緊密なる、誰か能く彼等に敵せん。聞く紅緑近時多病なりと。自愛、棄つる莫れ
昨年著しい進歩した者、東京に五城、越後に香墨、大阪に青々。吾曩(さき)に狙酔を得て推奨措かず。一朝にして其消息を絶つ。青々の句、5年前に狙酔の句を見しと其感を同じうす。狙醉は実に吾人が蕪村を唱道せざる前に在りて蕪村調を為したる者なり。狙醉去り青々来る、之を東楡に失いて之を西隅に得たり

Ø  俳句の初歩           明治322
10年の経験と研究による変遷を語る。後輩の為に10年前の懺悔談を為して参考に供す
最初に俳句に入ったのは戯れに一二句作り、月並の巻を見て宗匠輩の選評を信仰した後、ある俳書を見て面白いと思ったのが第1歩。僅かに俳句の一小部分を解したるのみ。一小部分とは何かをここに述べる。当時予が好みし所の句に就き、数箇条に分けて説明
(1)  理屈を含みたる句 ⇒ 理屈には美を含まないが、俳句という以上は幾何かの文学趣味を含まざるはあらず。其美は理屈の部分に非ずして、文学的の部分にあるべき筈なり
        物いへば脣(くちびる)寒し秋の風          芭蕉
        世の中は三日見ぬ間に櫻かな               蓼太
        智の一つ足らでをかしき案山子かな       楽翁
2句だけなら文学趣味の上に取るべき所ありて取りたりしとも見ゆるを、最後の句は五七五の音調を除き純粋の理屈より成る者にて、純粋の理屈の上に美を認めていた。知識の上より生じる一種の快感を美と誤認せしなり
芭蕉の秋風の句は世間にて往々過賞を蒙れども、口は禍の門といえる極めて陳腐なる理屈を17字に並べたるに過ぎず。陳腐なる理屈なるが故に世人之を賞するものにして、自己が曾てより知り得たる理屈に遭遇したるがために愉快を感じるの者にして、感情の上より来る美感とまったく種類を異にする
(2)  譬喩の句 ⇒ 比較という知識上の作用、即ち理屈を要す
         茶の花や利休が目には吉野山               素堂
無趣味なる句。対比する両事物を並べるのは稀で、比較する1事物はこれを句中に現わさぬが多し
         手に取るなやはり野に置け蓮華草
裏面に教訓の意を寓するが如し。譬喩には多少の理屈あれども、趣味を主としたる譬喩は全く殺風景なる者に非ず。然れどもこの句譬喩という理屈の上に教訓という理屈を加えた者なれば、その無味索莫たるは言う迄も無し
(3)  擬人法を用いし句 ⇒ 擬人法は最も愛すべき手段としてよくもちいられ、俗宗匠輩亦此法を慣用する者多し。必ずしも悪しとにはあらねど、譬喩と同じく理屈に傾き易く俚俗に陥り易き者なれば、之を作るには注意を要す。山笑、山眠等の題で佳句え難きは、其題の擬人的なるが故なり
        手をついて歌申しあぐる蛙かな            宗鑑
(4)  人情を現したる句 ⇒ 素人が劇賞するのは理屈、譬喩と人情。人情は文学には極めて必要なる者で、俳句にも亦人情を嫌うに非ず。人情は譬喩等の如く理屈を含む者に非れば、毫も美以外の分子を有すること無し。されど人情は極めて複雑にして、到底17字の短文字にて之を描写する事難く、描き得たとしても多数に見出すべきに非ざるなり
        夏痩と答へてあとは涙かな                  季吟
        起きて見つ寐て見つ蚊帳の広さかな      千代(?)
人情的俳句は全俳句の1/100以下で、人情は到底俳句の材料として普通なる能わず
(5)  天然の美を誇張的に形容したる句 ⇒ 天然の美、殊に花樹花草の美は何人も之を感ぜざるはあらず。予特に感じ易き性あり。然れども当時は猶写実的の趣味を解する能わざりしを以て、誇張的に形容したる者のみを好めり
          散る花の音聞く程の深山かな             心敬
深山の静かさを現さんとて花という美しき材料を用いたるは、幾何の美を捉え得たる者なれど、「花の音」は誇張に過ぎて却て趣味を失う。花の音は実際にないので、すでに人間の偽りという一種の悪感情を感じ来るなり。分かりきった偽りなら悪からず。誠らしき嘘は人を欺かんとする傾きありて不愉快になる。誇張は多く後の種類に属す。感情に訴えればさる誤りは生ぜざるべきも、知識(理屈)に訴えて誇張の処に愉快を求めたりし
          朝顔に釣瓶取られてもらひ水              千代
此句を好みしは擬人法を用いし所だが、主として朝顔の美を誇張的に現さんとしたる処に在りき。此句の欠点は誇張的の処で、擬人法を用いた処ではない
誇張は写実の反対で、誇張を好む者は写実を解せず。逆も眞なり
(6)  語句の上に巧を弄する句 ⇒ 語句の上にも平易なるよりは寧ろ技巧を弄びたるを喜ぶ
          これはこれはとばかり花の吉野山        貞室
当時はスペンサーのエコノミー・オヴ・メンタル・エナージーという謬論を信じ居たる故、此句は美麗といわずして美麗を現したりとて感心
(7)  雑 ⇒ 以上の外に感じたる句を挙げれば、
          行き行きて倒れ伏すとも萩の原          曽良
情の極端を現して且つ萩の美をいえる処に感心。悪句に非ず
予が進歩の順序をいわば、初め貞徳派、天保調などに入り、次に三傑集一部により稍々天明、寛政を覗いしも、僅かに蓼太の俗調を称讃せしに過ぎず。漸く七部集(後に猿蓑)に眼を開き、始めて元禄の貴ぶべきを知れり。其後或は五色墨に擬し、或は文化、文政に模する所ありしが、終に蕪村に帰着す。一歩一歩刻苦に刻苦して漸く進みたる者なれば、著しき変遷は固よりあるべき筈なけれど、七部集を見て言うべからざる愉快を感ぜし時は、始めて世の明けたるが如き心地に、大悟徹底或は是ならんかなど、いたずらに思い驕りし事を記憶す。理屈を捨てて自然に入りたるは此時なり。写実的自然は俳句の大部分にして、即ち俳句の生命なり。この趣味を解せずして俳句に入らんとするは、水を汲まずして月を取らんとするに同じ。いよいよ取らんとしていよいよ度を失す。月影紛々終に完円を見ず

Ø  募集俳句「凍」に就きて                 明治322
湯戻りの手拭凍るという趣向の多かりしこと厭うべし。何れも大同小異の悪句
下駄、大根、硯、手水鉢、釣瓶(つるべ)など用いずとも、外にいくらも善き趣向あるべし
若し此れ等の陳腐なる材料を用いんとならば、多少の新趣味を加えるべし
湯戻りの手拭より、奉納の手拭とすれば則ち多少の雅致を生じて且つ陳腐ならず
此手段を解せざれば一生他の糟粕を嘗めて終らんのみ
水の凍る意を詠みし句は捨てた。凍解を詠みたる人あれど春なり

Ø  五傑集の叙           明治322
元禄の俳句は享保で衰退、明和以後再び盛にして天明に至りて極まる。俳家の多き佳什の多き夐(はるか)に元禄の上に出ず。中でも大家は蕪村、太祇、樗良、麦水、蓼太、白雄、保吉、几菫、曉台、蘭更等。五傑集は此中より蕪村、蓼太、白雄、曉台、蘭更の5人を抜きて題により別つ。編輯は信州の伊藤松宇氏
寛政6年蘭更在世中、門弟車蓋なる者三傑集を遍す。東都を代表して蓼太、京の蘭更、地方代表で曉台(尾張)3人としたもので、蕪村を捨てたのは師の蘭更と同じ京人故、白雄は蓼太と同じ江戸にして蓼太の名声が白雄を圧していたから。私情に出ずる者で百世の公論に非ず
安永天明の中興時代を一目に見るべき書は曾て無きなり
太祇、几菫を捨てたるは多少の遺憾無きに非ず。文人詩客の類、その作極めて巧なるも世運と甚だ関係せざる者あり、両者の如き此種の人に属す。又其作玉石混交、拙句俗詩少なからざるも、その時代を作るに最も勢力ある者あり、蓼太、蘭更の如き是なり
五傑各々其特色あり。蕪村は学問あり、見識あり、独り俗俳諧の上に超然として世と名利を争わず。句雄健にして姿致あり。瑰(かい)麗にして雅趣を失わず、森羅万象は之を網羅して其詩料に供し、雅俗漢語は之を鑄(ちゅう)冶して其詩形を作る。発して中らざる無く言うて可ならざるなく、句甚だ錬磨を経ざるが如くして細かに之を観れば一字の動かすべからざる者、実に彼が今古俳壇の只一人たる所以なり
蓼太は古来の俳句を模し東西の風潮を兼ぬ。力の及ぶ所為さざる無く至らざる無く、余り多からざりし学問をも巧に之を利用して遺さず。故に其句は雅俗互いに見れ巧拙相半ばす、以て名士を服せしむべく以て俗人を感ぜしむ可し。蕪村が世の外に立ちて世に処したるに反し、蓼太は世の中に居て世に処せリ。蕪村の句に比して遜色あるに拘らず、蓼太の門流が天下に充満したるは彼が処世の才ありしに因らずんば非ず。詩才と世才とを兼ねたる者、俳人に在りては蓼太1人なり
白雄は深沈にして清廉なり。彼が實著に蕉風を研究したるは蓼太の浮華に失したるに反映して却て好一対を為す。其句故らに漢語を用いず、しかも蒼健にして些かの懈弛を見ず。亦故らに古語を用いず、しかも紆余にして迫らざる処あり。蓋し俳壇の老手なり
曉台の句は剛健跌宕(てっとう)、一気呵成、銀河の九天より落つるが如く竹の刀を迎えて解くるが如し。其気焔の盛なる、一見近づくべからざるの感あるも、一たびこれに近づけば這裏亦清婉なる処、穏愜(きょう:快い)なる処、以て婦女を喜ばしめ小児を懐かしむる者少なからず。只々如何なる狂態を成すとも終に丈夫の面目を失わざる、是曉台の曉台たる所以なり
蘭更に至りては主として華美艶冶の態を学ぶ者、垂楊の風を受けて舞うが如く芙蓉の雨に濡れて立つが如し。其調流暢にして些かの凝滞無し。之を曉台の剛健に比するに蘭更の句は名優の女装して舞台に上がりたる処あり。或は美女に扮し、或は醜女に扮し、或は嬌啼目を腫らし、或は嗔恚焔(しんいのほのお)を燃やす。扮する処、為す処、千態萬状極まらずと雖も、要するに婉の一字を離れず。曉台と蘭更と其本領を異にすること此の如く、而して両者の家集を対観すれば極めて其相似たるを見る
五家爾く其風潮を異にするも、元禄の諸家に比較すれば同一の特色を発揮するものなり。一は古雅に他は清新に、一は悠揚迫らざる趣あり、他は洗練精緻の妙あり。一は華を去り質を尚び以て努めて俗に遠かり、他は華を競い新を尚び而して野ならざるを得たり。一は主観的の句を作る、余韻の嫋(じょう:たおやか)々たる、他は客観的の句を作る、印象明瞭なり。之を大観すれば元禄と天明とは両極端に走りて俳句200年間の美を完成し、之を細視すれば五家は各特色を出して天明前後30年間の美を完成す。人若し五傑集を見んと欲せば先ず大観して而して後に細視せよ。思い半に過ぐる者あらん

Ø                     明治32212
紀元節には梅を連想し、天長節には菊を連想すること4千万人いずれも同じ。梅は霜雪を凌ぎ寒に耐え、一花春を破って衆芳に魁たる処、我邦の紀元を祝すべきこの日に誰か適当なら図といわん。菊は衆芳萎み盡して後更に燦爛の美を放ち、菊の水のためしは700歳の齢を延る処、御代万歳を祝すべき天長節に誰か適当ならずと言わん。只々偶然なることは梅も菊も共に字音にて称えられることなり。菊の字音なるは言う迄も無し。梅は今も支那にて「メー」という。名既に漢音なり。其物の漢土より来りし事は推定せらる。万葉集の頃我邦に渡りし者
字音ながら多少日本化せられたる「うめ」は、万葉以来常に歌の材料として歌人に用いられたるのみならず、寧ろ最も愛すべき材料として珍重され、いずれの歌集でも初春の部の主なる題目は梅に限られるが如き感あり、夥しき句作られしも、梅の詩の陳套に落ちて古来名作無きが如く、幾万千の梅の歌盡く是平凡にしてしかも盡く是陳腐なり
詩にては梅の趣味を言い盡したるかの感あるも、歌は然らず。歌は詩が言い得し者の1/100をも言い得ざるなり。万葉集に在る梅の歌は皆梅花を見て又は人と共に遊びて面白しと思いし其情を平易に述べし迄にて歌の佳ならぬのみならず、少しも梅の特色を言わず。僅かに言い出でたるは梅が早春に咲くという事と、白き花が雪と分かち難しとか雪に似たりとかいう事となり、且つ其直接に梅に配合したる材料は雪と雨と柳位なり。古今集に至り僅かに一歩を進めて梅の特色「香」を点出せり。「香」を詠まんとして「闇夜の梅」「月夜の梅」が自ら出で来たりぬ。新たな配合物は鶯にして水中の影と水上の落花とはいくらか変化せる場合を見つけたるも、歌の拙きは言うまでもない。新古今集には紅梅を詠める者1首あり
歌が梅に就いて取り得たる趣味は梅の花の白き処と香の高き処とに止まり、且つ其趣味を現わす手段は雪とまがうとか月に見えぬとか、袖に薫るとか、闇に薫るとかいうに過ぎず。配合物というも鶯がとまったというに過ぎず。その幼稚なことは箸にも棒にもかからない
1000年の間の歌の発達の遅きに較べると、200年間の俳句の進歩は驚くべき者あり。場所の変化せる、配合物の多種なる、従って梅の趣味のさまざまに現されたる、到底歌人の思い及ぶべき所に非ず
        梅白しきのふや鶴を盗まれし                芭蕉
        山里は萬歳遅し梅の花                      
        紅梅の落花燃らん馬の糞                     蕪村
明治の新俳句を以てしなば変化の多き、材料の多き、配合の異なれる、枚挙に暇なし
場所場所の多様なると、配合の材料に富むと、些事微物の趣味を発揮するとは俳句の長所にして詩の及ばざる所なり。梅に於ても然り。若し夫れ梅の高潔なる趣を精微に形容すると、梅林の大観を詠ずるとは詩の特長にして俳句の為し得る所に非ず。殊に前者は俳句和歌の能わざるのみならず、如何なる形式を取るも終に漢詩の塁を摩する事難し。蓋し漢語は梅の趣を述べるに適し、詩人は梅の趣を研究するに怠らざりしがためなり

Ø  俳人太祇           明治323
太祇は炭氏、初め雲津水国の門に入って俳諧を学ぶ。水語といい、徳語と改む。後に慶紀逸の門に入って不夜庵太祇という。江戸の産、京に上りて終に京を去らず。享年63。太祇句選1冊は死後門人知己の輯めたる者、蕪村、嘯山の序抜あり。句数僅かに500余。他の選集に在る者を合わせると約900
生前は認められなくとも、美術家とか文学者であれば、その製作物を後世に残して、最終の審判を乞う事ができるので、あながち現世に於て虚名、虚利を射なくても善いが、死後も猶一向に名が出なければどんなにか歯がゆい悔しい事だろうと、太祇の事を思い出すたびに思う
太祇の腕前は、蕪村の天才には及ばぬ事は言う迄も無いが、蕪村を除けば天下敵無しで、蓼太などは爪の垢でも無い
我邦の人は昔から物に熱するという事が無いので、苦辛が少ない。俳人などは俳諧という者を馬鹿にして、多くは出来たら作る、出来なければ作らんでも善いという気で居る。だから俳家の家集でも千句ある者は極めて少ない。支那の詩人などは大概可なり作る。杜甫でも随分多い。杜甫の数程詩を作ろうとするには余程骨折らねば出来ない事で、我邦の人のように其物を軽蔑しているようでは迚(とて)も出来る気遣いは無い。只々一人太祇は俳句を軽蔑せず全力を尽くして研究した人。俳諧三昧と称して一二週間を内に籠って俳句作りに専念。課題が出た時でも、人が1句作る間に七八句も作っていた。兎に角多かったので、900許り残っているが、他にもいくらも佳句があったろうとは思われ、伝わらないのは遺憾
太祇の句を見れば其苦心が一々文字の上に見える。一句としておろそかな句も無ければ、一字としておろそかな字も無い。雅語俗語の使いこなしは実に古今独歩といっても善い
太祇の長所は趣向の方では複雑な趣向をつかまえて来るのが得意で、極めて複雑なことを存外容易に言う。それだから人事を詠んだものが多く、一句一句斬新。季の題目も人事的の題目には句が多く、中には今日の新派と極めて似た者もあり、太祇は新派の先鞭を着けていた
        春の夜や女を怖すつくり事
        山路来て向ふ城下や凧の数
後の句を読めば訳も無いようだが、初めから此趣向を考えて句にしようと思ったら、誰も先ず手の着けようが無いのに困るだろう
太祇の専売特許ともいうべきは、人の話す言葉を其儘句の中に入れる事、実に難しい筈
        東風吹くと語りもぞ行く主と従者
人の難題として避けた者や、俗な題として嫌った者、又は些細な事として見逃したる者を持って来て自在に詠みこなしたのは、今日の新派でやっている傾向を此時既にあらわした
流暢な句が少なくて、屈曲した句が多いことにも気付くのは、複雑した趣向が多いから自ら句が屈曲してくるので、中七で切れている句が多い。5字の名詞(多くは題)を下に置いて、上12字で複雑した事をいうのが太祇の慣用手段。一般の人は流暢の美を解して屈曲の美を解せぬ傾きがあるから、屈曲を以て勝りたる太祇の句は俗受が悪く、従って名誉も何も出ぬのだろう。趣向からいっても複雑の美は簡単の美よりも解せられにくい。俗受には趣味にも字句にも多少の油濃い処、厭味な処が必要なのに、太祇の句は全く垢ぬけがして居る。此れ等は皆太祇の名が世に出ぬ原因
        犬を打つ石の扠(さて?)無し冬の月
「石の無し」という中へ「扠」の字を挿むは人の得為ぬ事。苦心惨憺の後に出来た者と思われる
之を概していうに太祇の句は、趣向の複雑にして人事的なる点に於て、印象の明瞭なる点に於て、古語俗語(漢語は少なし)を使いこなす点に於て、句法のしまりたる点に於て、固より蕪村時代の特色を十分備えている。分からないのは蕪村の俳句との関係で、其類似点はどちらが先だったのかという事。年齢からは太祇が7歳上で、没年も12年早い。明和、天明の特色が世に現れたのは宝暦末から明和の初めとすれば、両者とも56歳、49歳と老練の境に在って、単に歳上だから先ず始めたという事にはならない
他の力量の点で比較すると、太祇の句は斧鑿の痕が多いが、蕪村の句には自然な処がある。太祇の句は乾いて光沢が無いが、蕪村の句は霑うて光沢がある。太祇には学問の素養が無いが、蕪村は和漢の書に渉って居る。太祇は勉めて到るが、蕪村は躍然として飛び上がる。此れ等の点を比較してみるとどうしても蕪村が先鞭を着けて、太祇が模倣したと言わねばならぬ。
ただ、明和の初めを以て天明調の起原とすると、太祇はその死まで僅かに八九年で、その間に千句も秀句を得たとすれば、たとえ模倣でも侮り難い手腕であることは間違いない。両者とも書がないので、其年代を知る事は殆ど難い。若し公平に言うならば、其時代の機運という者があって、それに乗ったともいえる。2人以前に機運を作った可能性のある者は移竹。太祇より没すること11年早いが、多少の天明調の面影を持って居る句がある。詳細は不詳
太祇の句には蕪村のようなうるわしい句は少ないが、一句一句皆面白き事、即ち句の揃っている点については蕪村にも劣るまい。曉お臺、蘭更などに比しては2等も3等も上に居る。几菫は太祇を学んで殆ど塁を摩して居る。或いは上に出て居るかも知れないが、句数の少ないだけでも太祇には及ばぬとしなければならぬ。其上模倣してという事に就いても、太祇の想像に劣ることは勿論。これ程の太祇が千句の秀句を残しながら全く世間に忘られているのは太祇に対して気の毒なばかりでなく、我俳句界の恥辱
太祇没後128年東都根岸の草庵にて夜を徹して書く

Ø  幻住庵の事           明治323
近江の國石山寺のうしろの国分山に在る芭蕉寓居の地。奥の細道を終えて濃尾勢を経、大津に来たりて元禄3年を迎え、此年夏始めて入りて住む。稍々人里を離れ閒雅幽邃(すい)の境にあり、世の外に在るの想を為さしむと雖も、一遊にして愉快を感ずるだけで、永住して不愉快を感ずる者あり。独身で家庭の快楽を欠ける者は、多く快楽を漫遊に取りて一処に住する能わず。翌年秋には再び東都に帰り、深川の新庵成り、ほぼ3年いたのは健康前日の如くならず、稍々疎懶に傾きし者ならん。元禄7年秋国分山の旧居に小憩するも、伊賀に盂蘭盆會を営み、9月奈良、住吉を経て難波に至り、終にここに病を得て没す。庵の事は自記『幻住庵記』に詳なり            先たのむ椎の木も有夏木立
此記は芭蕉が自己の境遇と所感を述べたもので、其面目を覗うべき者あり。「ある時は仕官懸命の地をうらやみ」という、芭蕉豈煩悩なからんや。無能なるが如くして却て多能なる彼は、名利の念勃々として禁じ難く、独陋巷に住んで終夜燈火に煩悩せし事もあるべし。俳諧の上に一派を開きて自己が安心立命の地を得しより以前の芭蕉は、或は煩悩の度に於て特に甚だしき者ありしかも測るべからず。終に厭世的反動を起こして「佛籬祖室の扉に入らむ」と企てたり。古来不平の英雄を駆りて其身を容れしめし佛門は、一時芭蕉をも併せて暗黒の底に葬り去らんとせしも、芭蕉の多情と多才とは此空々寂々の裡に隠れおおする能わず。再び雅俗の間に出でて「風雲に身をせめ花鳥に情を労して」俳諧の上に立脚地を得たり。幻住庵の記は正に彼の安心相を現したる者なり。漸く心の平を得るや則ち「かくいえばとてひたふるに閑寂を好み山野に跡を隠さむとには非ず」という。こは芭蕉の真面目にしてやがて至人の真面目なり。吾は彼の臨終を見て、彼の胸中に些かの鬱結凝滞せるもの無きを知る
明治23年秋、世は大津に留まり、義仲寺に詣でて宣公及び蕉翁の墳を見る。境内狭隘にして墓2つと芭蕉堂あるのみ。芭蕉の墓賑やかなるに対し、義仲の墓寂漠として、冷ややかなるを見て余は旭将軍の為に一滴の涙を酒がざるを得ざりき。寧ろ多少の不愉快なる感じさえ加わりぬ。然れども翻ってその然る所以の者を求れば、固より偶然にもあらず、時運の幸不幸にもあらず、義仲は生前に伸び、芭蕉は死後に伸びしなり。義仲の事業は一時的にして、芭蕉の事業は不朽的なりしなり。義仲が一鞭の下に幾万の猛将勇士を叱咤せし如く、芭蕉は17字の上に於て後世幾十万の俳人を引率せり。剣は終に筆に勝つ能わざりき
芭蕉の記から想像すると、今の如く樹多く茂らざりし事疑無いが、文献によれば、芭蕉死後まもなく移され、跡を留めざるに至りし事明らかなり。膳所に移築して尼寺となり、菅沼曲翠一家を祭るとあり、芭蕉自筆の木額ありというが疑わしい
芭蕉の真蹟は、世の見たるだけにては其肉筆として伝わる者盡く偽なり。只々板本に伝わる者は真なるが多し。短冊などの板刻せられたるは珍しからねど、稍々大部なる者にては鹿嶋紀行と幻住庵記とを見しのみ。殊に幻住庵記は老熟の極、人工を脱して一点の塵気を留めざる処、得難き珍宝なり。世人の難しとする漢字仮名の調和の如き、和様の鄙俚(ひり:いやしい)に墜ちずして別に生面を開くを見る。此点に於ては殆ど芭蕉に比すべき人を知らず。徒に俳人第1の能書というのみならんや

Ø  募集句「手」に就きて          明治323
手の字を肢体の意に用いし句には、手の字蛇足に属する者多し。握る、提げる等手の働きに属する語は、普通手の字無しに用いる。無理に入れるとわざとらしく聞こえる
「拍手」を用いたる者多いが、音響という者は何に限らず甚だ俳句に読み難き者にて、鳥でも形を見た処を詠むは易く、其声を詠むは難し。音を詠むは注意を要す。「手が鳴る」という趣向もあったが、拍手すら難しいのに、大胆なる所業にて、至難中の至難
「御手植」「御手討」等もあるが、多くは殺風景
「制札に此花手折べからずとあり」という趣向もあったが、実際制札には「折るべからず」とあっても「手折る」とは書かず。成語を其の儘用いるには一字を改むるを許さず
「睡る子の手からこぼれし菫かな」。初心の人兎角「手からこぼるる」というが如き瞬間のきわどい趣向を喜ぶ故に、失敗を取る事多し。きわどい趣向は極めて句にし難く、大抵は厭味を生ずる者なり。「手に握りたる」ならいくらか厭味を減じて善くなるべし
「白い手に海苔あぶらせて寝酒かな」とは厭味多き句。「白い手」とは女の事なるべし。あからさまに女というが善く、「白い手」といって女を現さんとするは謎なり。謎は理屈なり。「あぶらせて」というも厭なり
「龍屠る手も今痩せて磯菜摘む」は奇に過ぎて感じに乗らぬ句。屠龍と摘菜とは反対の者を配合したる者なれど、余り反対に過ぎて調和せず。配合は反対の内に調和あるを要す
吾旧製「月千里馬上に小手をかざしけり」というあり。手をかざすという事、芝居めきて厭味ありと悔いる。手をかざすという事を遣いこなすは最も難きわざなるべし

Ø  俳句と声           明治324
人は耳に感ずるよりも多く目に感ず。1人の人が同時に耳と目とを働かす場合に於て、常に目の耳に勝ち、視る快楽の聴く快楽に勝は事実なり。人は声を区別する事少なく、且つ其区別を文字に現わすこと極めて難し。故に単独に声を叙して之を詩や文にする者其例稀なり

Ø  募集句「木の芽」に就きて              明治324
木の芽は狭き題にして変化し難し。草の芽とは異にす
「の」の字の代りに「之」の字を用いるは悪し。書状にては常に「之」を用うれど、歌や俳句に「之」の略字を用いれば、「み」または「し」と読まるべし

Ø  随問随答           明治324月――333
問 「屠蘇臭くして酒に若かざる憤り」などは其趣味を解すること能わず。或る宗匠は之を俳句というなら活字的配置をは悉く俳句と謂わざるべからずとの事。何処に詩美を感得したのか疑わざるを得ない
答 新派の句を宗匠に聞いても解らぬこと必定。焼芋を喰った嬉しさも、馬糞を踏んだ汚さも俳句になる、大概な事は言い様次第にて人を感ぜしむべし。何処に詩美を感じたかというのも教えようも無いが、先ず郊外に出でて、げんげん蒲公英(たんぽぽ)の花でも見給え、それで分からずば木の芽をふかんとのする林のけしきつくづくと見給え、若し其時、仰向いた顔へ鳶が糞を落としたら俳句はここなりと知り給え
問 「手習の師匠が墓や土筆(つくしんぼ)」の趣味や如何に
答 駄洒落的の句を善きと思えるようでは頼もしからず。土の筆という縁にて手習いという事を取り合わすが如きは貞徳派の手段にして品格の卑しきこと言うに及ばず。発音の掛け合せ、文字の掛け合せなどを捨てて、趣味の上に配合を求むべし
問 寂栞細みなど言う俳諧上の通語とは何
答 世々の宗匠が勝手に言うだけでどうでもいい事。我々仲間では通語でも何でもない
蕉風の世界では、俳諧に対する共通の理念がある。侘び、寂(さび)・撓(しお)り・細み・軽みという理念を建て幽玄・閑寂の境地を求めた
侘びとは、飾りやおごりを捨てた、ひっそりとした枯淡な味わい。静かに澄んで落ち着いた味わいをもつこと
寂とは、しおり・細みなどとともに、蕉風俳諧の基調をなす静かで落ち着いた俳諧的境地・表現美。枯れて渋みを感じさせる
しをり(撓・栞)とは、蕉風俳諧の根本理念の一。作者の心にある繊細な哀感が、句または句の余情に自然とあらわれること。蕉風では「しほり」と表記
細みとは、蕉風俳諧の根本理念の一。句に詠む対象に対する作者の深く細やかな心の働き。また、その心のはたらきにより表現された俳諧性を伴った繊細な情趣。句が、幽玄・微妙の境地を持っていること。
軽みとは、芭蕉が晩年に志向した、日常性の中に日常的なことばによる詩の創造の実現をめざす句体・句法・芸境のこと。かろみ
問 「余情や余韻は明瞭の度に正比例する」とする説あり、子規は「印象明瞭と余情は両立しない」と言うが、いずれが正しきや
答 言葉の定義次第で、余は一般に余韻、余剰といわれる句の代表「夏草やつはものどもの夢の跡」から帰納的に定義を定めた。漢学家の用語法を見ても、彼等が余韻ありと評するは明清の客観的印象明瞭的詩文に非ずして漢魏六朝の主観的印象不明瞭的詩文にあり。俳句にても余韻と称するは主観的の者か、又は客観にてもいくらかぼんやりとしたる処を含む者なりと思う。景色でいえば空間の狭き景色には余韻少なく、空間の広き景色には余韻多き傾向あり。理屈を言えば、余韻嫋々というは鐘を撞きたる後に響の長く残るが如き感じなれば、多少時間を含む感じ。主観的のものは時間を含み、客観的にても広き空間や奥深き空間は一時的に見盡すこと能わざるを以て時間を含みたり。俳句にては広き空間は言い盡す能わざるにより、其言い盡さざる部分を想像するによりて時間的となる。この2者に余韻多しというは時間あるがためなり
問 運座、課題、兼題、せり吟、探題とは
答 運座とは、10人集まって、10の題を挙げて30分乃至1時間の内に夫々に匿名で一句づつ作り、自作を除く総句数90の中から佳句10を選び、得票数によって優劣を決める
せり吟とは句数を限らず、時間のみを限る
探題は、異なる題を記した紙片を籤引きのように引いて、当たった題を詠む。見せ合うだけで勝負を決するに非ず
兼題、宿題とは、兼ねてより題を出し置きて作るなり。点をつけるも只見せ合うも随意
課題とは、即席でも宿題でも、題を定めてそを作らしむること
いずれの場合でも、互いに句に就いて可否を評論するは極めて有益なり。精密に批評し駁撃し相互の衝突点を見出すを要す。点を付ける場合は得点公表後に批評に取り掛るを可とす
問 「足跡に潦程汐干かな」の「潦」の読みと意は?
答 「にはたつみ」と読み、雨の降った時に路上の窪みに出来る水溜りの事
問 「松嶋やあゝ松嶋や松嶋や」の俳句としての真価値ありや
答 箸にも棒にもかからぬ句なり
問 写生の句作を学ばんと野外に出るも上達せず。如何せば美の焦点を観破するを得るか
答 写生に往きたらばそこらに在る事物、大小遠近盡く読み込むの覚悟なかるべからず。見るもの総て材料は捨てる程にぶらついている。修行して進歩せぬ訳は無き事なり
問 子規の選は贔屓的のように思われるが如何
答 余の選は横着なる残酷なる選なり。他の人の選は親切なる贔屓的なる選なり
問 雅俗とは?
答 雅俗とは感情的に弁別する者にして知識的に弁別する者に非ざれば、実例に就いて云う外は論じ難し。実例について説明したものを見て猶解し難くば最早説明に由なし
問 阿古久曽とは?
        阿古久曽の心は知らす梅の花               芭蕉
        阿古久曽の差貫ふるふ落花かな            蕪村
答 紀貫之の幼名を内教坊阿古屎(あこくそ)と云う。芭蕉の句は貫之の「人はいさ心も知らず」という歌より作れるなり。蕪村のも貫之なるべし。阿古は吾子の意にて人の子をいえる詞、亦久曽はこそとも言って敬語に用いる。後世に於て殿といえるが如し。源氏物語に老女の若き女を呼ぶに「くそたち」と言える処あり。亦雀こそといって雀殿の意に用いたる俊頼の歌もあり。此れ等併せ考えるに内教坊阿古屎とは内教坊の若様というが如き意味に非ざるか
  俳句には係結の誤り多し。中でも動詞自他の誤りは殊に多く覚ゆ。文法は関係なきか
答 韻文は文法外れの事多し。日本の和歌の文法に束縛せられし事は和歌の発達せざりし一原因。俳句は文法に係らず作りたるが故に和歌よりも発達早くなりき。文法は破るがそれが為に文学上の妙味を顕すに都合よき処に用いらるる者なり。殊に自他の誤り居る処などは多くは俳句の面白き処なり。且つ文法なる者は一定不動の者なりとは思わず。古来俳句に用い来りし一種の文法は之を襲用して差支え無かるべし。但し文法を知らずして文法違いを為す者はこの限りに非ず
問 送別や名所の句は其意や景だけを言えば、季を詠まざるも可なるが如何
答 雑の句即ち無季の句を作るは勝手次第。禁じてはいないが、実際に俳人の雑の句を作ること多からざるは面白く出来ぬが為なり
問 梅は春と定めるが寧ろ冬ではないか、山茶花、落葉は秋ではないか
答 季語は分類上便宜の事に属す。太陽暦でも太陰暦でも春夏秋冬は変わらず
問 季の題「薬降」の由来、「鮓」を特に夏の題とした理由は?
答 歳時記に「55日を薬日と言って、此日一切の薬草をとる。又是日雑薬を競い採る、夏の小正(?)にいう、薬を蓄えて以て毒気を止除す」とあり。俗説に、此日空より薬が降ると言い慣わせり。鮓は夏季に多く拵えるもの故、夏季に入れたるものならん。昔の鮓は肴の腹へ飯を充てたる、鮒鮓、鱒鮓等の如きものにて、肴のとれる時又其肴の味の良き時も夏に限られたる者多かりし。鮓の句の俳書に見えたるは延宝の末頃から
問 「名月や湖水に浮かぶ七小町」の解釈は
答 芭蕉の『月見賦』中の句。琵琶湖に月を賞した時の句。名月の湖水に七小町が浮かんでいるという理想の句にて、湖水の水なるが為自然浮かぶともいうなり。実際に浮かんでいるのではなく、只月明らかなる湖上の景を見たる時の理想なり。七小町とは謡曲に草紙洗、通小町、鸚鵡小町、卒都婆小町、関寺小町、清水小町、山本小町の事。小町に劣らず歌をよく詠む女7人という説もあり。湖水に小町を配合したのは蘇東坡の詩句「欲把西湖比西子 淡粧濃沫両相宜」に倣った者
問 支麦調とは?
答 支考、麦林の調なり。支考は美濃派の元祖、極めて俗なる調。麦林は乙由とも言い、支考と同時代に出でて伊勢派を起こす。調子は異なるが卑俗なるは同じにして、蕪村は之を軽蔑して支麦という。我等の今日に於て月並調というと相似たる者、支麦調は月並調の一部
問 「太陽暦でも太陰暦でも春夏秋冬は変わらず」というが、新暦の1月は冬、旧暦の正月は春の筈
答 立春、冬至などは暦にて定まる者に非ず、何の暦にても同じ。春夏秋冬という名称については種々の論あるが、余は立春から立夏迄を春とする事に定め居れり
問 千歳不易、一時流行とは?
答 元禄時代に流行りし詞にて去来、許六などが頻りに議論、種々雑多に解するが、敢えて言えば、千歳不易とは、俳句の神韻的なる真面目なる者は、何時見ても何年経っても味が変わらぬという事。一時流行とは、俳句の滑稽なる者、新奇なる者などは去年善いと言っても今年悪くなるという事なり。大体の上に不易、流行の別いくらかはあるべし。漢詩家に格調派と性霊派とあって相争う事あり。文字の面こそ違え、格調派は不易に近く、性霊派は流行に近きが如し
問 俳諧の鼻祖(びそ:元祖)は誰人なりや
答 宗鑑、守武をいうべきか
問 剽窃とは?
答 剽窃と翻案とは程度の相違なり。どちらと見るかは各人の意見にあり
問 有楽忌とは? 歳時記に見当たらず
答 織田有楽斎の忌日。信長の弟で茶を利休に学ぶ。12月没(享年75)。歳時記に無くとも季に定まりある者は季とするに差支え無し
  芭蕉は元武門に出でしその経歴上より、夏草の吟、須磨懐古の文等に徴するも、唯々風月に放吟せる風狂騒客の類にあらず、京近くにて詠みし句に皇室の式微を歎ぜるは察するに難からず
答 芭蕉は俳人にして慷慨家に非ず。俳人が古蹟を訪うて古英雄を弔うはその雅懐より出ず。是を以て慷慨家と目するは非なり。此の如き臆説は無用、芭蕉を偉き者にせんとの考えより出るなるべし。芭蕉をして俳人群中を脱せしめ慷慨家列伝の中に加えんには、芭蕉は一文半文の値打ちをも有つ能わざるなり
問 新派の句を為さんとする者が熟読すべきは誰の句なりや
答 元禄にて芭蕉、其角、去来等。天明前後にて太祇、蕪村、几菫等
問 解し得ぬ語
答 「一八」とは、紫羅傘と書き、「いちはつ」「いつぱち」と読む。春晩夏初に咲いて「かきつばた」と善く似たり
「むら鳴く」とは、むらに鳴くなり。むらは一様ならざる意
「笹鳴」は「ささなき」と読み、借字。ささは小の意にて少し鳴くなり。冬季鶯の子の啼き習いをする事をいう
「零余子」は「ぬかご」なり。地方によって「めかご」「むかご」とも。芋の如き質にて小さく丸き者。蔓になる者にして根には非ず。煮て喰うべし。長薯の蔓になり長芋小僧ともいう
「罔両」は「かげぼう」と読む。影法師の事。時によっては音にて「まうりやう」と読む事あり
「なゐふる」は地震なり
「驚破嵐」は「すはや嵐」と読む。物の急に来る瞬間をいう
「蛼」は「こほろぎ」なり。「竈(かまど)馬」は「いとど」と読み、異名同物なり
問 俳諧3佳書とは?
答 猿蓑、続明鳥、五車反古の3書なり。『猿蓑』は元禄の粋を抜きたる者。吾人の始めて眼を開きたるは実に此書の賜なり。後2書は天明前後に在りて比類なき好句集にして、吾人が天明なる新俳想を攫取するを得しは全く此2書の媒介に因る
問 連句の法則とは?
答 古の俳人がやかましく吟味せしために種々の面倒を生じたれど、一定したる者はあらで、各人甚だしき相異在り。芭蕉の関係し居る連句には殊に破格の例多し
歌仙(36句にて完結) ⇒ 表6(季季Ⅹ雑月秋)、裏12句、名残表12句、名残裏6
1句は発句または竪(たて?)句と言い、春か秋ならば同季3句続き夏か冬は2
2句は脇とも言い、句尾を名詞にて結ぶ
3句の句尾は、「て」「に」「らん」「もなし」にて結ぶ
5句月の定座なれども発句秋ならば月も初3句の中に繰り上ぐべし
6句には神釈教、恋、無情、疾病、地名、人名、述懐等に関する句を禁ず
名残の表は連句の遊び処といって少し下品なる言葉なども可。縦横に変化を逞くする処なりという
1(36)の内に月の定座3あり、花の定座2あり。月の定座は繰り上げたる場合多し
何句去とは、「木と草の2句去」といえば、木の句ありて後2句の間は草の句を詠まれずという事。「同季5句去」とは春の季ありて後5句は春の季を詠まれずという事
変化を貴び重複を嫌うより起こりし事。何処までも変化を主として作るを要す
問 俳句は叙景を主とすべきか、抒情を主とすべきか?
答 いずれもあるべし。夫々主としたる処の叙景、抒情の巧拙に因りて句の価値定まる。最初からどちらかと考えて、而して後に分かるものと思うのは甚だ誤れり。巧拙美醜は一見端的に知るべし。唯々其美醜巧拙の因って来る所を考え求むれば、叙景の巧拙にも、抒情の巧拙にも、更には語句の巧拙にもあるべきを知らんのみ
問 「五位六位色こきまぜよ青簾(すだれ?)  嵐雪」を説明せよ
答 昔の大宝令に定めた服制によれば、四位は深緋、五位は浅緋、六位は深緑だが、後に一條天皇頃より四位以上皆黒となり五位が蘇芳と変わり、六位以下皆縹(はなだ:薄青)となりきとなり。嵐雪の句は源氏物語若紫の巻より出ず。現時始めて紫の君を奪って二條の殿の西の対に移し給いし時、紫の君端居して庭など眺め給う有様を記して、「たち出でて庭の木立池など覗きたまえば・・・・四位五位こきまぜに出で入りつつ」とあり。知らぬ人を四位五位と見定むる事、服色の外に拠り処もあるまじければ、黒袍(わたいれ)の人と赤袍の人とを見て斯くは言えるならん。「こきまぜ」はうち混ぜたる意で、赤と黒の色の配合なればこきまぜとの語を用いたり。嵐雪は四位五位を五位六位とし、これに青簾を添え、赤と縹と緑と3色配合としたり。俳句などにて色を現すは極めて難事に属す。古より雪と鴉(からす)、鷺と鴉、松杉と紅葉の配合の如き簡単なる配合はあるが、3種の色を配合した句は見当たらない。此点に於て此句は珍しき句にして且つ成功したるなり。但粉本既に源語にある上はその功績の一半は之を紫女に帰せざるべからず
問 「庭の菊天長節の蕾かな  子規」の句美感や何処に? 末五「蕾みたる」としては如何?
答 美感が起こるか否かは見る人の感じる事なれば議論の余地なし。「菊の蕾」というべきを間に天長節の6音を無理に入れたる故、窮屈な句となったが、蕾を名詞にしても動詞にしても配合の上に何の変化も起こらず。「蕾みたる」と動詞にすると、散文的且つ主観的たらしめ、言葉続きでは自然となるかもしれないが、俳句をして成るたけ散文的文法に従わしめんとの謬想より起これるもので、韻文が美を現すに必要なる場合には散文的文法に一致せざる結果を生ずるは珍しからぬ事にて、それが為にあながち俳句の価値を落とすにもあらず。韻文の妙は往々言葉の窮屈なる処、文法に外れたる処に在る
「蕾かな」とは客観的にして、蕾の形と色を言い、平たく言えば「天長節に蕾の菊を見ている」という事で、主観的の連想裏面にあり。「蕾みたる」とは主観的にして、菊の未だ開かざることを意味で、平たく言えば「内の菊は天長節には未だ蕾だ」という事で、客観的の連想が裏面に無いことも無いがそれは主なる見所に非ず。主観的趣向が俳句初心者に起こり易きを明言する。初心の人の句あながち悪しとは言わないが、客観的の観察精細ならず、従って客観的趣味に於て欠ける所あり。菊と言えば花盛を最観るべきと思い込むと、蕾や枯菊にも花盛に劣らぬ趣味あることを解せず。我句は余儀なき句にて少しも愛()づべきに非ず
問 短冊の認め方に就き心得を問う
答 心得とて別に在るべくも非ず。字の巧拙は別として、注意すべきは字の位置と、墨の濃淡
問 主観句と客観句の区別は?
答 客観句とは見たまま聞いたままをいえる句なり。主観句とは作者の考え(知識にても感情にても)を述べたる句なり
        清水涸れ柳散り石ところところ             蕪村
見たままをいえる者なれば純客観の句
        夏草やつはものどもが夢の跡               芭蕉
「夏草や」とあるは見たままの情景なれば客観的なり。以下12字は作者の感慨を述べたる者なれば主観なり。主観と客観と雑りたる者だが、主観の部分多き故に只々主観句とのみも言いならわせり。俳句の多くは客観八九分に主観一二分を交えたる者なるべし
問 新蕎麦とは旧暦7月頃早熟の物を販くをいいて蕎麦切の事にはなきや。季や如何に?
答 新蕎麦は喰うと喰わざるとに拘わらず、蕎麦の事故多くは喰うことに用いたり。蕎麦刈は実際蕎麦を刈る時を季とすべし。新蕎麦も秋季に限らず、実際冬に入りての事ならば冬季に入れて宜し。法を実際に取るべく、古人の規則に拘るべからず
問 「山陰の木槿は白し酒帘(しゅれん/さかばやし)  鳳毛」の酒帘とは?
答 「さかばやし」と読む。酒屋の看板に杉葉を丸くしてつりたる者。「ばやし」は「望子」と言う漢語の訛りで、漢語では酒屋の旗のことだが、日本では酒屋に旗立てること無ければここも杉葉の事と見るべし
問 「帛(きぬ)を裂く琵琶の流や秋の声        蕪村」の説明は?
答 宇治に遊びし時の句。「琵琶の流」とは琵琶湖の流れで、宇治川の事。白楽天の琵琶行に四弦一声如裂帛とあるは琵琶の音の形容なるが、蕪村は其語を借りて楽器の琵琶と琵琶湖を掛け合わせ、川の水音の形容を「帛を裂く」といったもの。「秋の声」は其水音の淋しき悲しきをいうのみ
問 俳句分類「神」に神楽が含まれないのは何故?
答 「かぐら」の語源は知らねど、此語の内に「神」の語含まれず。「みこし」も神輿とは書くが、此国語の中に「かみ」という語は含まれず

Ø  募集句「妻」に就きて          明治325
思いの外難しき題。妻といわなくても善き処に妻を用い、女とばかり言うべきに女房と置きたるが故に句を損なっている
妹の字を「いも」と読んで姉妹の意に用いたる、「いもと」「いもうと」と読んで妻又は恋人の意に用いたるは、語の意義を誤る者

Ø  俳句評釈を読む               明治326月――8
碧梧桐が『俳句評釈』を著す。『猿蓑』を解釈して且つ自分の評を加えた者。読後感を述べる
第1    自分が嘗て思って居たのとまるで違って、思いもよらぬ評が多い。それは碧梧桐と我の俳句における歴史の相違から来ている。我は『七部集』『猿蓑』を見て始めて開眼、蕪村など見たことも無いので、『猿蓑」を天下唯一の俳書として信仰心を以て読んだが、蕪村、几菫を本尊とする碧梧桐は天明を標準として『猿蓑』を評したために衝突するは当然。『猿蓑』は宝典には違いないが、中に驚くべき幼稚な句もあり、天明的標準でビシビシ押しつめられては、逃げ所の無い句が多いのは仕方無い。
第2    碧梧桐が俳句の歴史を知らないと云う事、元禄の特色が何処に在るかと云う事を知らないから出た誤謬が多い。談林後に芭蕉風を起こした第1の特色は、地口洒落の如き者を斥けて、ただ趣味の上に俳句を建設した事。碧梧桐はそれを知らずと見え、猿蓑の句を談林的に解して居る処がある。かけ言葉を以て或句を解そうとした事で、これは大なる誤。『猿蓑さかし抄』を参考にしたのが一因だが、俳句の趣味を解せぬ者が拵えたものにて参考にしてはいけない。蕪村の句には思いの外かけ言葉が多いので、芭蕉派にも多いと思ったのだろうが、かけ言葉の無いのが元禄の特調。碧梧桐自身の趣味から僻った解釈もあり、彼の平生を知っている者は理解できるが、筆が回らないために思っていることを十分言い得ないのもある。碧梧桐が俳句の注釈をするのは、寧ろ其短所に向かって進んだのであって、殊に碧梧桐が『猿蓑』という馴染みの少ない本を注釈したのは、益々其短所を顕した様なもの
天明の俳句を論じて、「是迄元禄詩人の思い及ばなかった人事的美と主観的観察を肆にした」とある「主観的」の字は此には適当しないと思う。主観的に限らず、総ての事物に対する観察が精密になったのである
       霜月朔旦(さくたん:ついたちの朝)          膳まはり外に物なき赤柏       良品
の評に、「態々前置まで勿体をつける句ではない」とあるが、句だけ見ては何時の季とも分かり兼ねるので態々(わざわざ)前置がつけてある
       荒磯や走りなれたる友千鳥                    去来
善き句と思っていたが、千鳥を実際の鳥に当て嵌めて考える様になってから、此句の感じがぼんやりしてきた。鷗の事とすると、走りなれたるという形容は適当せぬ。千鳥に就いては色々の疑あり。都鳥と千鳥が別物との古書あれば、鷗も皆同じとの古書もある。兎に角千鳥其物がよく分からぬ故、此句に対しても評が出来なくなった。碧梧桐は此句を賞して、「単に空間的の美ばかりでも、優に一幅の好画幅をなして居るように感じられる」とあるが、如何なる画か、千鳥の形は、時は昼か夜か
要するに碧梧桐の解釈は可なりに間違っている。少なくとも掛け言葉など持ち出した処は大いに味噌をつけた。彼のためにいうならこんな書は焼いてしまったらいい。しかし各句の評論に至っては古今に無い好著述で、彼趣味を解せぬ似而非註釈家等の及ぶ所ではないのは勿論、猿蓑の作者を九原に起して一々読んで聞かせたい位だ。芭蕉は黙っているだろう。去来は怒って論ずるであろう。凡兆は頻りにうなづいているであろう

Ø  楢の雫             明治328
歌又は俳句の総数、即ち錯列法(順序を乱して並べる事。ここでは「順列」の間違い)は対数表によりたらすく算出するを得べし。明治になって初めて算出されたのかと思っていたら、文化文政の頃か、既に論じられて何京何兆という数字が出ている。着眼したるは凡人に非ず
俳句やがて盡きなんと我はいうに、皆打ち消すが、さる事はあるべからずという。芭蕉の語に「俳諧は今3合世に出たり」とあるのは、朧に俳諧の盡くることを認めたるが如し。若しそうだとすれば、元禄に3合、天明3合、明治3合出でて、残る所僅かに1合のみとなるが、明治は元禄、天明に倍して少なくも45号を出すべし
左思の招隠しの中に「経始東山廬、果下自成棒」の句あり。第2句の意は木の実、地に落ちてそれが芽ざして自ら木立を成すという事なれば、僅々5字の中に少なくも1020年の経過を含めし者とおぼし。此如きは俳句にも支那の詩にも極めて稀なり
古書の趣向を取らばその言葉は新しくすべし、成語を用いればその趣向は新しくせざるべからず。成語と趣向を併せ取りたるは寧ろ剽窃というべき。平家物語に福原遷都の年の仲秋、左大将実定が旧都の月見に帰った時、「総門は錠のさされているので脇から入らせ給え」とあるのを見て、自ら五七の調をなして居る所から俳句にしようと思い
        総門は錠のさされて今日の月
としたが、原文其儘の趣向なれば、我に何の手柄も無かるべしとて
        総門は錠のさされてきりぎりす
と改めて見たが、それも原文の中に虫の声に言及した箇所があり、作者の手柄に非ず
        総門は錠のさされて砧かな                 許六
とあるを見て、初めて成語の用い方を悟る。許六が砧を拈(ねん?)出したるは趣向を書物以外に求めたもので、此の如くして始めて句をなしたりというべし
漢語の成句を用いるも亦此翻案無かるべからず。「鐘冴ゆや姑蘇城外の寒山寺」などは面白からず。何か一言意表に出でて却て一種の新趣味を生ずるを見よ
山水含清暉といい、潜虬媚幽姿といい、面白き句なれどもこの趣味俳句には言い難し。旅館眺郊岐といい、臥痾対空林というは僅か5文字なれど、複雑なる趣味今の新派の俳句に似たり。以上皆謝霊運の句なり。六朝の詩人にして客観美を解する者霊運1人、六朝以後を包含しても5字の警句を為す者亦霊運1人なるべし
詩は21意を成す者多し。李白の詩の如きは全篇一気呵成、特に一二句の抜くべきなし。11意にして且つ俳句的なるは王維に多く見る所、蓋し11句洗練を経たるに因るか。「雉鴝麦苗秀」「疎雨過春城」「草枯鷹眼疾」「坐見雲起時」「清泉石上流」「看竹到貧家」「鵲(かささぎ)乳先春草」「日色冷青松」「山木女郎祠」「漁舟膠凍浦」「猟火焼寒原」「松風吹解帯」「大漠孤煙直」1句の俳句ならざるは無し
「魚戯新荷動」「鳥散余花落」の2くは齊の謝眺の詩、しかも宛然たる宋調なり。されど六朝の時には斯く繊巧なる句珍しければ、或はもてはやしけんも知らず
        應々といへど敲くや雪の門                  去来
という句、元禄の当時には人の評判に上がりて、作者自身も芭蕉の見るに及ばざりしを恨みし程なり。其時は伎巧にくらまされけん、今より見ればきわどい趣向にて、いくらか姿に卑しき処あり。余も初め賞讃已まず、今にして其、月並調に近きを嫌う
余未だ俳句を学ばざる時、芭蕉の句は稍々之を知る。俳句における標準略々定まりて後、芭蕉の句を評せんとするに茫然として感ずる所無し。可否を知るべからず。習熟に過ぎれば陳腐となるの理なり
芭蕉の「道ばたの木槿は馬に喰はれけり」、芭蕉一代の秀句として「古池」とともに後世に称せらる。余初め其意を得ず。「出る杭は打たれる」の寓意ありと思ったが、甲子吟行中にあり、途上即景という前書あれば、寓意無き事明らか。寧ろ純客観の即景の句を得たるが芭蕉自身に得意なりしならん。されど作句は「古池」以前にして、未だ全く悟らざりし時なれば、句法いきなりにして整わぬ所あり。後年去来が、今に「道ばた」の句を誉める者ありとて嘲りしを見れば、此句初めは名高く、後にはさまであらざりし事知るべし
全国に在る芭蕉塚の数は夥しいが、碑面の句は多く世に知られたる者を刻せるが如し。曾て信州の片田舎の道の邊に
        身に入みて大根からし秋の風               芭蕉
という句を彫ったのを見た。知らぬ句をようように読み得たるなど旅中の一興にして、なかなかに言い慣れたる「古池」の碑などを見つけるよりは面白く覚える
姥捨を詠みし句に「俤(面影?)や姥一人泣く月の友 芭蕉」という句あり。其角は激賞したが、世には余り知られぬとおぼし。此句の如き理想的の趣向は俳句として将た日本文学として極めて珍しき者なれど、一唱し再唱するも猶其光景を現出する能わざるは句の拙きためならん。或は俳句には適せざる趣向ならん

Ø  蕪村句集講義に就きて                 明治3210
俳句は連想に待つこと多し。故に美的連想に乏しき人はこれを解せず。連想の多き人之を愛す。眼中の光景は瞬間に見るべし、しかも之を一々説明するには多くの時間を費やす。1句の趣、これを胸中に見れば瞬間に尽き、これを口に筆にすれば数百言を費やし数枚を填む、亦此類なり
只々連想の多き者は一個の僻見に陥る事あり、最注意を要す。この僻見は多く自己の経歴上より生ぜし知識の偏僻に基づく者なれば、経歴の多く且つ広きに非れば到底完全にこれを解する能わざるべし。鳴雪翁が上代を好み宮中を好むの極み、全ての句をなるべく上代の光景、宮中の出来事と為さんとし、他の者は全くこれに正反対の傾向を取れるが如し
蕪村句集講義を見る人、諸氏の解説何故に爾く甚だしく相違するかと問う人あり。こは知識趣味の偏せるに因る事で土台となるべき解釈異なれば、これに従う連想盡く異なるを以て、其趣味を敷演していえばいうほど愈々他と異なりて霄壤の差をなすべし
情景が昼か夜化、詠まれた対象の人物が男か女か、自分の行為を詠んでいるのか傍観者として見ているのか、場所はどこか等々、解者の知識趣味の如何によると雖も、又一方には俳句の簡単に過ぎて其意を盡さざるに因る者なる事を忘るべからず。これ実に俳句の欠点なり。而して俳句の長所亦ここに存す

Ø  雅号に就きて        明治3210
雅号の始まりは、住居地を以て師の名前に代えたところにあり。後世になると、普通の雅号の外に何軒、何堂、何庵などという号あり、あるいは複数個を使い分ける者あり。平賀源内が鳩渓、風来、福内鬼外など種々雑多の異名を用いたのは一種の匿名と見るべきか
蕪村が与謝という姓をこしらえ、或いは謝寅、謝長庚と署したるは、支那人の姓名に擬したるとはいえ、一種の雅号と見るも可なり
一種俳諧趣味の雅号を作りしは、芭蕉など言い始めしより後の事なりとす
芸人の芸名は雅号の一種だが、別趣味なり。落語家の芸名は俳諧宗匠の庵号に類似
我邦にては実名に通り字という者あり。源氏の義の字を用い、平家の盛の字を用い、河野氏は通の字を用いるが如し。日蓮これに倣い、其門弟に盡く日の字を与える。連歌師に宗の字を用いる者多きも、亦系統を継ぐの意なるべし
雅号には地名を用いる者極めて多し。雅号の暗号(重複?)は到底これを避くること能わざるべし
鳴雪は、「世の中の事はなりゆきに任す」という意味にて、「なりゆき」に鳴雪の字を填めた
碧梧桐は、実名乗五郎の音に似通いたる故とか
虚子は、実名清(きよし)の音を取りて我の命じたるなり
紅緑は、実名洽六の音にちなみたるなり
漱石は、枕流漱石という成語より出づ
子規は、喀血して時鳥の句を作る。これより名あり。規は実名の1字。或いは杓子定規を縮めたる語と見るも面白からん
獺祭書屋とは、李義山文章を作るに、多くの参考書を座右に散らかし置く。人之を見て、獺、魚を祭るが如しという。獺祭魚は禮記月令に在り。我の書斎、書籍縦横に乱れて、踏むに処無し。因って此号あり。獺の音、人多く誤り読む。獺の音は「だつ」なり。獺祭は「だっさい」、獱獺は「ひんだつ」
越智處之助とは、越智は我系図的姓なり。處之助は生まれた時の通称。父の鉄砲の師より特に与えられたる名なれど、外祖父は「此名宜しからず。学校へ行く年にならばところてんとなぶられんか」とて、「升」と改められたのが4,5歳の頃
升は「のぼる」と読む。易の地風升などより思いよられたるにや。我も地風升として雅号に代えたる事あり。以上2つは通称なれども、今は通称という者戸籍上に省かれたれば、雅号の一種とも見るべきか
竹の里人は、根岸を竹の根岸と言い始めし人ありけるに、我も寓居の地なれは斯くなん
知人の雅号などを調べると、最も多く用いられたるは月、次いで水、その次は子

Ø  柚味噌の事           明治3211
柚味噌の句を読む人、10人中89人は何物かを知らない。読みは「ゆみそ」。場合により「ゆずみそ」でもいいが、「ゆずみそ」を正訓と思うのは誤り
製法は、柚の枝つきたる方を茶釜の蓋位の割合に切り、中の実をほぜくりだし、其実を味噌に交ぜて摺り、其味噌を其柚子の中に詰めて之を焼き喰う。柚味噌の釜というは其柚子の皮の事をいい、蓋というは蓋の如く切りたる部分をいう
利休が太閤のもてなしに始めてこしらえたる者といい伝うれば、茶人などは今も珍重するにやあらん。田舎のご馳走とのみ思える人あるは想像の誤り。京都では杉皮の箱に入れてあり面白き配合と思ったが、柚味噌には相違なけれど、之ばかりは何の趣味も無き事なり。俳句にて柚味噌というは、どこ迄も柚子の皮に入れたる者として詠むべし
試みに柚味噌を製して味い給うべし。味のこうばしきもさるものながら、形の雅なる、色の黄なる、自ら之を焼く様のわびたるなど、俳趣は柚味噌と共にふつふつとして湧き出で来たらん
馬琴の歳時記に編笠柚味噌という事あれど、これは普通の柚味噌の外に一種の製法を発明したる者とおぼし。馬琴は普通の柚味噌を知らざりけん、此変則柚味噌をのみ挙げて柚味噌の解となす。馬琴の実際に疎き事、概ね此類なり

Ø  俳諧三佳書序        明治3212
俳諧七部集とは、元禄時代の俳書の多少芭蕉に関係ある者を七部集めたもので、安永頃に出来た者。蕪村七部集は文化6年に出来た。七部集という本は沢山出版されたが、最も善く出来ているのが前記の2
俳諧200年間の盛時は元禄と天明前後の2期だが、前記はそれぞれを代表する者といえる
此両時期の俳句が現す所の趣味は一様でなく、元禄は消極的で天明は積極的。質素と華美。動と静。梅と桜。燕子花(かきつばた)と牡丹。鶴と鷹。馬と虎。芭蕉と蕪村の雅号にも相異が現れている。芭蕉は清楚な花であり、蕪(かぶら)は天王寺蕪の大きい処を見ると磊落な趣がある
俳諧の研究には両時代を精細に見ないと、俳諧の全ては分からない
両七部集が分量が多すぎるというのであれば俳諧三佳書を見るべし。俳諧七分の猿蓑と、蕪村七部の続明鳥と五車反古を合わせて1冊にしたもの。此本ほど多くを選りぬいた、しかも疵の少ない書はない
『猿蓑』 ⇒ 元禄4年京の去来、凡兆によって編まれた本で、死没3年前の芭蕉監督の下に成った。俳句は此時に完備し、此時に隆盛になった。京で編まれた初の芭蕉派の集
1句の選にも評議を凝らし、5文字(5)の置き様にも議論を戦わしたることが善く分かる。殊に面白いのは芭蕉、去来、凡兆各々の性質と嗜好とが此裏に躍然として見えて居る。芭蕉と去来とは似た処が多く、幽玄というような趣味を最も喜んでいる。凡兆は寧ろ幽玄というようなぼんやりしたのは嫌いで、趣向ははっきりとして言葉は1字もたるまないのを喜ぶ
随分幼稚なのもあり、一句一句吟味するといかがわしいものもあるが仕方がない。歴史上の猿蓑の価値、即ち猿蓑がこの時代に出たのがえらいということを一言して置く
子規自ら10年ほど前に俳句の趣味のまだ何かを知らない時に、俳句分類を編纂。古代から始めて漸次近代に向かうこととし、まず連歌の発句から集める。句其物が千篇一律、平々凡々で如何にもつまらない。終わって貞徳に行くと、趣が変わって始め1日くらいは面白かったが、余りに馬鹿げた駄洒落が無闇に並べてあって、連歌の発句の方が地口の無いだけまだ善いと感じる。虚栗に至ってある高尚なる趣味の上に基礎を定めたのであるから、言葉つきは変に思ったが、如何にも面白く感じる。それから春の日、続虚栗、曠野と進んで行く程次第に面白くなり、次に来たのが猿蓑。猿蓑の分類する時の愉快は今に覚えている。始めて俳句の趣味を自分に感じた時で、僅かに眠りから覚めた眼に外界の物がはっきりと写る、しかも何も彼も活気を帯びて来たように見えたが、之こそ実は昔の俳句界が実験した道筋だった
去来が「猿蓑は新風の始なり」と言ったのも我が実験と同じ心持を言っている
去来は蕉門屈指の俳人だが、凡兆は名高くはない。凡兆の事業は猿蓑の編集だけ。凡兆の句は猿蓑以外には伝わらない。丈草の「猿蓑跋」に凡兆去来と凡兆を先にしてあるのも善く分からない。多分年長だったか。凡兆を賞揚たのは鳴雪氏で、自ら好む所の純客観の句を探したところ猿蓑が一番多く、其半分は凡兆だと発見し、純客観の本尊として凡兆を崇拝
芭蕉、其角の句は、猿蓑に出ているのが余り善くない。芭蕉の句は稍々理屈に堕ちているが、去来などの眼には只まばゆく感じられて、巧拙は分からなんだらしい
猿ものに注釈書はいくつかあるが、何れも間違いづくめで全く取るに足らぬ者
『続明鳥』、『五車反古』 ⇒ 俳諧七部集は板を重ねたが、蕪村七部は1度限り。長らく塵埃の中に葬られ、100年を経て再び掘り出されて脚光を浴びようとは蕪村も思わなかっただろう
『続明鳥』は、安永5年蕪村死没前8年に几菫によって編まれた書
『五車反古』は、天明3年蕪村死没の年に維駒によって編まれた書。維駒の父召波の追善のために出来た
猿蓑を見るよりは、物がはっきりしていきいきとしているように感じる。これは印象明瞭の度が進んで、言いまわしが気が利いて来たのである。猿蓑時代は俳句が僅かに出来上がった場合なので、巧拙の標準でも精密に論じるとまだまだぐらぐらと定まっていないし、言葉の上にもいくらか研究の足りない処があるため、選者はいたく心を労し、編集上の苦辛をしているが、蕪村時代にはもはや標準も確立し、けいっけんも積んでいることだから、句の取捨に躊躇して評議を凝らすという程の事も無かったろうと信じる。句も揃っている
蕪村のみならず、蕪村以外も大方は皆蕪村らしいので、信玄が8人並んでいるような心持がする
俗句を以て有名なる也有、千代の句も一たび此集に入れば、いくばくか蕪村的に見えるからおかしい
連句は余り好まず、自ら作るのも稀だが、此等の集にある連句を読めば作ってみたいと思う
此三佳書は原本が皆京の出板であることにも注目。元来俳書は今日より江戸の方が好著述が多いのに、其粋を抜いた三佳書が皆京の産物であったのは偶然だろうか。姑()く記して後の人の判断を待ちたい

Ø  車百合に就きて               明治3212
明治16年に東京に出て以降、度々の帰省の多くは大阪を経て2,3日位は滞在所々見物したが、初めて来て以降心に感じるのは唯々俗の1字。俗にも種類あり、豪華を極め外観を飾るは俗の極却て美なる処あれども、大阪の俗なるはしみったれなる無趣味なる規模の小さき俗のように思われて誠に厭わしく感じる。大阪城の石垣の石の大きさは大阪人の目には見えぬやなど独りごちする。知人がいなければ二度と大阪の地は踏まないだろう。此間にあって美術文学などの連想は出て来る筈も無く、小生も大阪滞在中に夢にもさる考えを起こしたことはないが、此俗気紛々の裏より車百合は如何にして生まれ出でたのか甚だ不思議
200年の昔を思えば、その時の大阪は今日の大阪とは思えず。宗因、談林を開き、西鶴人情を説き、巣林、浄瑠璃を作る、当時の大阪は啻(ただ)に文壇の牛耳を取りしというに止まらず、藤原氏以後日本文学の上に蔽われたる黒幕は始めて当時の大阪文学者によって取除けられたる者にあり。文学史上における彼等の功績は今更論ずに及ばないが闇中に闊眼を開きし彼等の識見の高さは今日といえども驚くべく尊ぶべき者とす。今日の小説は西鶴より始まり、今日の芝居は巣林より起こると言っても過言ではない。当時の大阪人は大阪城の石垣を善く見し事と思える。風流洒落なる太閤様の城下は殺風景なる権現様の城下よりも先ず文学上の進歩を致したる事、固より恠(あやし)むに足らず。延宝より天明頃迄斯く光明赫耀たりし大阪文学は天明以後に至り俄かに光を収めて萎微衰退したるは如何なる訳か。今の大阪は昔の大阪の残骸。今の大阪から見れば昔の大阪は邯鄲一炊の夢の園と見える
他の文学はさておき、俳句のみについて言うも、談林に宗因、西鶴、由平、才丸、來山、宗祇を祖述すといえる祇空、豪奢を以て一世を驚かしたる淡々、此等は皆曾て大阪を賑したる俳人にして、大阪よりいわば大阪は幾何か此等俳人に賑されたる恩あるはず。元禄の文豪芭蕉が俳諧界の未来を危ぶみながら、夢は枯野の一句を残して、50年間月花に労れたる眼を瞑ぎしは大阪御堂のほとりではなかったか。大阪郭外に生まれて大阪に人となり、天王寺蕪を以て自ら名づけ、老後猶春風馬堤の曲を作って故園の情に堪えざりし天明の俳傑蕪村を生み出したる大阪の功は、人に向かって誇るべき価値十分ではないか。しかも大阪人はこれに就きて自らも刺激せられず、却て他国人に注意せられて鼻の先のカルタを拾うが如きはおおさかじんの恥辱である。併しながら天に命あり、時に運あり、文化文政以後堕落の極に達したる大阪の俳句界も明治30年頃に至りて恢復の機熟しけるにや、僅かに緑の二葉を現す。思いきや車百合の一輪は今はきだめの中に白き大花びらを開き申し候
大阪は商業の地で、文学は閑人の事なりという人もいるが、大江丸は大阪の飛脚屋にして一生の間に東海道の往返60回に及ぶが俳句も少なからず、1,2部の著書もある。野坡も三井の手代だった。大阪は金もうけの地で、俳諧は貧乏人の事なりという人もいるが、大江丸は豪富なりけるも、ある年全国の俳人を京都に招き集め盡く旅費を給しけると伝えられる。浮草を吹きあつめてや花筵、と蕪村の詠みしも此時の事。大江丸は大家ではないが、没後大江丸程の俳人も見えないので、やはりこれも大阪名物の1つである
商人に俳人たれと申さず、商事の傍らに俳事を修めよと申さず、されど大阪幾十万の商人の中には野坡、大江丸程の俳人がいない筈は無い。第二の蕪村は諸君の視線内に居るかも知れない。車百合には古人を凌駕すべき幾多の俊髦(ぼう)が集まっているようで頼もしい
200年の俳句界に流派区々あり名目を異にするが、内容を検すれば左程相違も無し。地方的臭味によって試みに分けると、江戸には江戸風、京には京風、美濃風、伊勢風とあるが、大阪には未だ不成立。その訳は大阪に大俳人無く又継続者の常に出でざりしとに因る。談林は2,3代続いたが、來山の後継無く、鬼貫、淡々の派亦一代にして消えた。不思議なのは大阪俳人の一代にして消えるのと且つ其句風の斬新にして他に例無きとにあり、一々著しく相異せる者を引きくるめて大阪風とも申され間敷候
『淡路嶋』という俳書を見たが、元禄11年の日付、諷竹の編、舎羅の板下とあり。諷竹は大阪の俳人にして俗称を伏見屋久右衛門。舎羅も大阪の俳人にて芭蕉終焉の節善く世話した人で、画も書き、芭蕉門古人真蹟に相見え、板下の字を見るに当時流行の書風(芭蕉風ともいう)にして拙からず。諷竹はさしたる俳人ではないが、句集を見て驚いたのは名も無き人々(大阪人も沢山あるべし)の盡く上手なる事。この時代は誰が上手というよりも元禄という時代が上手なる者というべきか。どれをとっても之と比すべき者を後世の宗匠に求めても一句も見出せず。元禄の一般にうち上りたる、後世の一般に衰えたる、今更にように感じる
車百合1号を拝見。本の大小は何れにも得失あるが、俳句の如き短き者を際する雑誌を小型に足立、11欄にしたるは面白く珍しき思い付き。初号に長い祝辞無きも気の利きたる者、紙数を少なくして駄句を省き、善き紙を用いたるなどさすが抜け目ない。只々今後に望むのは少なくも1,2の熱心家ありて俳道研究と雑誌編輯とに出来るだけの力を盡し、自己研究の結果を毎号雑誌の上に載せて、号々清新ならしめ給わん事を
車百合が思いもかけぬ大阪より発兌せらるる事の嬉しさに、10年前の事など書きつらね、思わず大阪に対する悪口となりしは偏にご免下されたく

Ø  明治32年の俳句界          明治331
前年より進歩せり。俗世界に対する俳句界の位置に於て、俳人俳者俳誌の増加に於て、各々進歩ありと雖も、吾人が特に喜ぶ所は俳句の技量の進歩せし一事にあり
『日本』の投稿を見ても、標準を高くして選んだが、前年比著しく増加。保等登藝須(ほととぎす?)の募集俳句欄でも歴々たる証徴を示す
投句者の数は減ったが句数は増加。野次馬的投稿が減って熱心なる摯實なる投句家が毎季11,2百句より多きは1,000句に及ぶ程の句を投ずるに至る
保等登藝須への投句は、投句者愈々多く、新作者も多く、投句数、佳句の数とも未曽有の増加を見て、明治再興以来第一の盛時と言わざるを得ない
各地の俳社も著しく増加。その数約一百半。朝鮮仁川や露国ウラジオストック等、海外に寄留する我同胞中に同好の人を得たるは吾人最も喜ぶ所なり
年末の俳諧的文学雑誌の勃興は全く予想外の事で、未だ夢寐の感を免れずと雖も、その計画の各地に起こりたるは事実。32年夏『芙蓉』静岡に起こり、尋いで『車百合』大阪に起こる。更に京、金沢、伊豆、仙台と相次ぐ
風起こる、之を盛という。風止む、之を衰という。日、中す、之を盛という。日、没す、之を衰という。盛衰は比較なり。比較は差別界の常態なり。自ら盛に居て衰を見る、衰、厭うべし。自ら衰に居て盛を見る、盛、羨むべし。然れども平等界より之を見んか、甲盛に乙衰え、丙盛に丁衰う、何の盛衰かあらん。どの地のどの俳社が盛んとなるか衰退するか、吾人の平等なる批評眼は俳句界の上に何等の変動をも見ざるなり。俳社各個に就いて見れば慶すべき者、弔すべき者それぞれあり。俳社各個に於て慶弔する処無しとするも、俳人各個に就いて見れば慶すべき者、弔すべき者それぞれあり
多くの俳人が頭角を現したが、概ね年少にして気を負う。故に多く作る事を貪りて未だ選択取捨の識を具えず。其稿を見るに玉石混交瑕瑾極めて多し。之を修錬期と見ば可なり。成功は猶之を幾年の後に期せざるべからず。但比較的に佳句多きは潮音(東京)、寒楼(因幡)等ならんか
以下の語を繰り返して自ら反省し、併せて諸君各個に反省を乞わんとす
曰く、今年の俳句界は進歩せり、而して吾1個の俳句は果して衰えざりしか。今年の俳句界は佳句多し、而して吾1個の俳句稿中には果して悪句多からざりしか

Ø  糞の句                明治333
森羅万象雑然としてある中には、美な者もあり、醜な者もあり、美醜相半ばしている者もある
全く美の無いという者は殆ど無いが、徹頭徹尾醜で持ち切っているのは糞。糞的美を説明したものは1つも無いだろう。西洋や支那でも糞の詩は見たことがない。何故俳句ばかりに沢山あるのか不思議。それは調和の工合が俳句のような短い者で無くてはならぬ訳があるのだろう。糞自体に美の分子を見出すことは出来ないが、他物と配合した上で多少の美を保たしむることが出来る。配合と言っても、極めて簡単でなければ調和のしようが無いから、つまり俳句上の配合で無ければ調和しないという事
        紅梅の落花燃ゆらん馬の糞                  蕪村
鳥の糞となると俳句に沢山ある。鳥の糞を体にかけられると善い事があると諺にもいう位で、少しも汚い感じは起らぬ。殊に海中の一つ岩に鳥の糞が真白にかかって居る景色など寧ろ美な感じがする
        鶯や餅に糞する縁の先                        芭蕉
俳人は総ての物の美を捉えようと常に考えているから、たとえ屎小便でも直ちに捨ててはしまわぬ。其配合と調和に気を付けて、取るべきがあれば取るという次第。俳人に限らず、絵師や詩人なども同じ。殊に俳句では他の詩でいえぬような些細な事までいえるので、その観察が隅々まで行き届くようになるのは自然の傾向。ここで汚い題を置いて汚い物を論じたのは、糞小便の美を発揮しようという主意ではなく、俳人の観察の区域が広くて総ての物を網羅するような傾向が、ついに糞小便の研究にまで及んで、しかもそれをどれだけに美化したかということを示した迄。俳人が汚い物を好む訳でもなければ、奇を好んで徒に人を驚かすものでもないという事を承知してもらいたい                  

Ø  奇想変調録           明治333
眼に触れた俳句の中にあった、趣向又は言葉の奇なる者を抄録したところ40種ほどになったので、『奇想変調録』と題して、人々の笑い草となさん。とにかく一癖あるものばかり
      大佛の観音を訪ふ日の永き
      睾丸の大きな人の昼寐かな
      昼の露を追い落としたる夜の露
      いもの皮のいぶりて炭の寃に座す
湯が沸いて薬缶の蓋が鳴るように可笑しきと、飯が煮えて釜の蓋が泡を吹くように可笑しきと、いけ栗がはねて灰が神楽を舞うように可笑しきと、可笑しさにも色々ありて笑いようにも色々あるべし

Ø  一句二題              明治333
狭く窮屈なる題を出し、各人の作がどれだけ変化するかを見ようとした
乾鮭 鬼                 乾鮭の頭めでたし鬼退治            子規
顔見せ 傘              顔見せや茶屋の傘行き通ひ         虚子
風呂吹 によろり      風呂吹やによろりも冬を籠り居る            碧梧桐
猿曳 竹馬              竹馬をよけて通るや猿まわし       虚子
梅 白粉                 おしろいの首筋寒し梅二月          碧梧桐
春風 扇                 春風や皆紅の舞扇                    四方太
狭き範囲内に追い込まれて工夫する事なれば、題を除きても猶佳句と目すべきは幾許もあらざるべし。見る人一時の戯れと見過ごし給え

Ø  俳句上の京と江戸            明治334
京都で『種ふくべ』という俳諧の雑誌を出すに当たり一文を書く。昨年来俳句の流行に連れて各地に其雑誌が出るようになり、京都に何もないというのは不釣合いだったので、『種ふくべ』が出るのは誠に適当な事と考えるが、雑誌の発育は可なり困難で、寄合世帯のようでは到底長続きしないのは明らか。雑誌を己の生命と思う程の人が1人なくてはならない
掲げた『俳句上の京と江戸』という題は、俳句上では非常の大問題で、ここには大体の輪郭を書くに止める
徳川時代の俳句界の中心が京か江戸か、人々によって違うだろう。どちらにも軍配を上げる事の出来ぬ勝負にて、無勝負の持というのが正当であろう。蓋し徳川時代の俳句界は1個の中心点を持った正円形ではなく、いわば2個の焦点を持った楕円形のようなものであった。それは政治界が楕円だったため
貞徳時代は、貞徳が京にいて、江戸は草創の際であり、東武では文学などという優長なことをやって居る余地がなく、俳人といえば大概京の人だったので、京が勝ち
談林時代は、江戸で文学勃興の機運が向いてきた時で、談林八百韻というのは江戸でできたくらいだが、本家本元は江戸だか京だか大阪だか分からず、3都とも盛んで、勝負預かり
元禄時代は、次代を作った本尊の芭蕉は江戸と京を行き来している。江戸には其角と嵐雪がおり、京には去来。去来には弟子が余りでなかったが、近隣の近江には丈草、許六ほか夥しく出て、両者合わせれば江戸よりやや優勢かもしれない
享保時代は、俗俳は盛んになったが、衰微・中絶・寂寞時代とでもいうべきではあるものの、京には全く俳人がなく、江戸が全勝
天明時代は、元禄と共に俳句の最隆盛を極めた時代で、両所に名人・名句が輩出したが、何といっても蕪村・太祇 の居る京が天下を動かす。ただ、蕪村も太祇も江戸で修行し京で成就
俗俳時代(文化以後明治以前)は、辛うじて江戸に白雄・蓼太がいたので江戸の勝ち
時によって勝ち負けはあるが、京の俳句界は不規則に断続する一方、江戸はいつも盛んに継続して居る。殊に太祇・蕪村などは京の台木に江戸の接穂を接いだといえる
京と江戸の俳風を比較すると、それぞれに俳風がある。京の俳句は、何時の時代の誰の派でも誰の作でも、多少の変化ある内に一種の京の分子が這入って居て、何処か似よりを感じる。その似よりが即ち京風。江戸風も同じことだが、京風は柔らかで江戸風は強い、京の句は美しく、江戸の句は渋い。京は濃厚で江戸は淡泊。京はおとなしくて江戸は気が利いて居る。京はすらりとして居るが、江戸は曲がりくねって居る
両者の違いは、風俗習慣性質における違いと変わる事はなく、言葉の比較とも変わらない。「阿保言いなはれ」というは京の俳調であり、「何だ此畜生」というは江戸の俳調。36峰が庭先や檐(ひさし)端にうねくって居て、嵐山が松と桜と楓と絵のように並んでいるのは京の俳想だが、武蔵野が只広々と広がって居て、所々に凸凹があって富士と筑波が左右に見えるというのは江戸の俳想。公卿が衣冠をつけて牛車で参内するのは京の俳趣を現わして居るが、大名が鳥毛の槍をふらせて駕籠で登城するというのは、江戸の俳趣を現わして居る。両者はその周囲の情況のために支配せられて、此差別を来したのに違いない
元禄   鎧著てつかれためさん土用干               去来
              おとなしく上品に出る処は去来の本領であって、即ち京風の骨髄
        夜著を著てあるいて見たり土用干         其角
              何処までも軽口に剽軽に出掛ける。これは其角の本領で、江戸風の骨髄
去来自身が既に其角の句を好まなかったので、其角に向かって悪口の手紙をやった事がある。其時其角は返事せず、許六が其角の弁護をしたので、却て去来と許六の間に大議論が持ち上がった。2人の句集を見ると、自ら選んで作っている題目が既に大いに違っている。去来には花、月、時雨など尋常な題が多いが、其角には人事的の種々変な題迄網羅せられて居る
蕪村は、江戸で仕込んで江戸の代物を京に持って行ったので、江戸風が侵入していて純粋の京風とは言えない。蕪村の句にはいつも江戸には稀な平和の気象があるが、純粋の京風でないことは、蕪村の句が京にはやらなかったのでも分かる。蕪村の後に出た蘭更が純粋の京風をやって大分はやったが、それでもいくらか蕪村などの余波を受けて居ただけに多少骨のある句があったが、ところが蒼虬が出て全く骨なしの句をこしらえ、それが大そうはやったが、京の厭味な部分だけを取ったので誠に下らぬ者
江戸も泰平が続いたために元気が失せて、京のような優しい気分になり、江戸っ子が堕落したのも甚だ不名誉だが、京人が蕪村を忘れて蒼虬、梅室を有難がったのも甚だ不見識の事
京風も江戸風も優劣はないが、それぞれの中に優劣があることを忘れてはいけない

Ø  召波樗良句集序               明治337
同時代なので合集としたもの
召波は明和8年の没。蕪村門にして、其句洗練にして且つ新意を出だす処、当時作家の1人として指を屈すべし
樗良は9年後の安永9年没。蕪村の友にして平淡の趣味を好み、別に一派を起こしたので、其名の高きは召波の上にあるも、句の比較では召波が遥かに上で、同趣味と誤想する莫れ
召波の句は太祇・蕪村の間に出入りする者なれば別に論なし
樗良の句は平淡にして無造作なる処を好みしからに、俳諧200年間、前後に例無き一派を為したるは特に注意すべき処なり。尋常の題目(梅、桜、時鳥、月、雪の如き)を選び、新奇なる些細なる題を取らず。その題目に配合するに、亦尋常なる材料、思想(時鳥に初音、月に晴曇の如き)を用いるを以て、その平淡なること素湯を飲むが如き者多し
        白梅や春ごとに見てめづらしき
造句法も無造作なるを主としたれば、太祇一派のしまりたるに対して法外のびやかにものしたるが多く、従って字余りの句にもおかしき程無頓着
平淡の中にも至味あり。樗良の善き句に至りては、力を用いず、巧を求めざる間に一種の面白き処あり。素湯に対して麦湯に譬えんか。麦湯には茶の気もなく、酒の魔気もなく、砂糖水の甘味も葛根湯の利目も無いが、全篇只々無邪気なる野気を以て満たされ、一点市井の俗気を交えず、舌を喜ばしむる程の味無き代わりに、胃を害する程の毒も含まず。平々淡々の中に幾何の味を備え、無効無害の内に多少の渇を医する者、千百の飲料に就きて特に麦湯を推すと同じく、濟々たる俳人中に猶樗良を推さざるを得ず
        山寺や誰もまゐらぬ涅槃像
其中に珍しき材料を配合して面白き者あるは、さすがに樗良の一家を成す所以なるべし。其例         男伊達に逢ふて懲りたる花見かな
樗良が蕪村時代に生まれて蕪村派の妙味を咀嚼する能わず、徒に平凡なる一派を興したのは、其見地の高からざりしためにして、称揚すべき事に非ず。然れども自己の一流を始めるに当って、其特色を繊巧、軽薄、俗気紛々たる方に現わさずして、平淡、質素、水の如く湯の如き方に現わしたるは、その人品の単純にして却て高き処あるにも因るべく、蓼太等の終始厭うべきに比すべくも非ず。普通に平淡と称する句にも大概多少の技巧ありて、樗良の如く平淡なるは極めて少なし。平淡の可否は言わず、古来俳句中平淡なるは誰の句かと問わば樗良の句なる事云う迄も無く、樗良の特色はと問わば平淡にある事云う迄も無し。平淡の程度は想像以上

Ø  病牀問答          明治3310
新派と旧派の区別とは
訳も分からぬ内から区別するのが善くない。旧派から入って悪い処が分かったら、新派に入り、這入って見てそれも悪かったら、自分で一派を立てればよい
俳句のやり始めの人の思想は幾年も汲まずに置いた井戸のような者。其水は必ず腐敗して芥がたまって居るから、どしどしと其水を汲みかえて、芥などのありたけ汲みあげてしまう。そうすると水が尽きて井戸の底が現れる。もう水が出ないのかと思うと、新しい水が少しづつ湧いて出る、其水にも若し芥抔があったら幾度でも汲みかえる、汲みかえるほど善い水になる。腐った思想はどしどしと汲み出してしまう、そうすると一時は俳句の趣向は尽きたかと思う事もある、其後から出て来る趣向が新しい善い趣向で、趣向は尽きることはない、作る程愈々沢山出て来る

Ø  病牀俳話              明治343
私の病気は医者の薬で治る病気でもない、又春になったら心よくなる病気でもないから致し方ないが、寧ろ春暖かになると病根がふいて熱が出るようなことが度々ある。冬は寒さの為にちぢかまっているが、病の方は却て落ちついて居るようだ。俳句でも冬の句には一番病が少ないではないか
(かいこ)の句を拝見


編輯後記
ここに収めたのは時代において第4巻所載のものに次ぐ俳論及び俳話。子規居士の俳論及び俳話は此にはじめて集大成された
「試問」は在来世に行われている「俳句問答」の一部を成すものである
「与謝蕪村を評す」は升の名で『日本』に掲げられた批評である。居士はこの文章に次いで「俳人蕪村拾遺」を同紙上に掲げ、その中に以下の如き一節があった
「与謝蕪村を評す」の中に「引かふて」という語を引あひての意なりと言ったが、『新花摘』の蕪村の文に「蒲団引かふて」とあるは引かぶっての意に用いたり。さすれば、頭巾の句も引かぶっての意に用いし者にて、「与謝蕪村」の説の如くならんか。姑く記して疑いを存す
「行脚俳人芭蕉」は居士生前には発表されず、没後明治40年頃に金尾文淵堂の手によって、原稿そのままを木版として刊行されたもの。これについては明治303月の居士の虚子宛の手紙に、「ある人から芭蕉伝を頼まれ、頻りに辞退したが、已む無く紀行を縮めた伝記(評論はなし)を草した」とあるので、略々その時代を推測できる。何故生前発表されなかったのかは不詳
「古池の句の弁」以後の諸篇は殆どすべて東遷後の『ホトトギス』に掲げられたもの。僅かに「車百合に就きて」が大阪の俳句雑誌『車百合』の為に、「俳句上の京と江戸」が京都の俳句雑誌『種ふくべ』の為に草されたのと、「梅」が『日本』に、「俳諧五傑集の叙」がその書の為に書かれたのとがあるに過ぎない。それ以前に遡っても、「明治30年の俳句界」「俳人の手蹟」(『日本』)、「曝背閒話」(『韻文學』)、「新俳句のはじめに題す」(『新俳句』)の外は、すべて松山時代の『ホトトギス』に発表されたもの
「雅号に就いて」は必ずしも俳句に限った事ではないが、『ホトトギス』に掲載された関係上、自ら俳人に関することが多いのでこの巻に加えた
俳論又は俳話の署名も晩年は「子規」の名を用いられたものが多い。他は「獺祭書屋主人」稀に「升」というのがある。「俳諧無門關」に「俳狐道人編」とあるのは唯一の例外
晩年における居士の俳句上の意見は、和歌のそれと同じく、「墨汁一滴」「病牀六尺」等の随筆中に散在している。「春夏秋冬の序」、並びに凡例の如きも亦「病牀六尺」中に載せてあるので、重複を避けて取り入れなかった
猶俳句研究に関するもので、この全集に取り入れなかったものに「蕪村句集講義」がある。これはもともと輪講の記録である為、全部を収めることは穏当を欠くし、又居士の意見だけを抜萃すれば輪講の態を失するのみならず、意味の捕捉し難いものになる虞れがあるので、敢て手を触れぬことにした
巻頭に掲げた墓誌銘は居士が31年中713日河東銓氏宛の書簡中にあったもので、その書簡の終に「萬一已むを得んこつて字を彫るなら別紙の如き者で盡しとると思して書いて見たこれより上一字増しても余計じゃ但しこれは人に見せられん」云々とある。もと大判の半紙に認めてあるのを、原寸大の玻璃版に付した(右の書簡は15巻に採録する)
墓誌銘:
正岡常規又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓
雛の画は晩年の写生の一であるが、年時は明らかでない。故蕨眞氏の蔵幅である。この巻の口絵に用いたのは、偶々編纂の時が陽春の候であったからで、別に意味があるわけではない

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.