グッドバイ  朝井まかて  2020.7.5.


2020.7.5. グッドバイ

著者 朝井まかて 1959年大阪府生まれ。作家。08年小説現代長篇新人賞奨励賞受賞してデビュー。14年に『恋歌』で直木賞、『阿蘭陀西鶴』で織田作之助賞。15年『すかたん』で大阪ほんま本大賞、16年『眩(くらら)』で中山義秀文学賞、17年『福袋』で舟橋聖一文学賞、18年『雲上雲下』で中央公論文芸賞、19年『悪玉伝』で司馬遼太郎賞、同年大阪文化賞受賞2010月本書が第11回親鸞賞に

発行日           2019.11.30. 第1刷発行
発行所           朝日新聞出版

初出 『朝日新聞』2018.4.6.2019.3.29.連載。単行本化にあたり加筆修正


第1章        祝砲
嘉永6(1853)、オランダ商船が長崎出島に来訪
お希以は油屋町で菜種油を商う、大浦(おうら)屋の女主。7年前19の歳に主の座に就く
4歳で母が亡くなり、12歳で祖父も他界、入り婿の父が仕切っていたが、4年後の油屋町の大火では位牌を除いてすべて焼け落ち、父はそのまま後妻とその間に出来た子供を連れ、希以を残して出奔。希以は姉の嫁ぎ先に身を寄せ、資産を処分して食い扶持を繋ぐ
火事の翌年、希以は婿を迎えるが、祝言の7日後には、甲斐性なしの匂いを嗅いで離縁
離縁の2年後、希以は大浦屋の跡目を継ぐ。大浦屋も元は河内の出で、船持ちの油商で、唐人やポルトガル人相手の交易もして屋台骨を太くしたことは、希以も祖父から聞いて知っていた
大浦屋は公儀から油を専売する許可を得て家業を営み、上方から灯り用の菜種油を仕入れて売るが、地回りの菜種油が出回って価格面で不利となり、他に活路を見出そうにも商いの采配を振る番頭が受け付けない
30社ほどの寄り合いで、安物の地回りに対抗
するためにオランダの油を仕入れてはと提案してみるが一笑に付される
寄り合いの料亭の女将から通詞を紹介してもらい、オランダ人から依頼された土産のリストに茶葉があるのをヒントに、嬉野の茶を売り込む

第2章        照葉(てりは)
「日向(ひなた)の油」とは、阿漕な商いを指す。油は熱を帯びると嵩が増すので、日向に置いて嵩が増したところで量って売れば嵩の増した分丸儲けとなるが、日向油は質が落ちるので老舗では陰に樽を置いて守っている
オランダ人からの返事がないまま3年たち、自ら言葉を覚えて相対取引をしようと考える
漸く見本に渡した茶葉をもらい受けたというイギリス人が突然大浦屋にやってきて、いきなり1000斤の注文をする。地元の茶屋にかき集めてもらってもやっと400、残りを嬉野の茶畑迄買い付けに行き、何とか500迄そろえて引き渡すと、納期を守ったことを評価して更に1万斤の発注を受ける。すぐに嬉野の農家に増産を頼む
茶ノ木の葉が夏の陽射しを受けて照り映えるさまを照葉という

第3章        風月同天
安政5年、5か国と「修好通商条約」が結ばれ、長崎、横浜、函館にて自由交易が始まる
1863年には、長崎から移出される品のうち茶葉が占める割合は2割近くなる
攘夷騒ぎの中で天誅の脅しを受けながら商売を広げ、寂れる一方の油屋たちに代わって地元の祭りのおくんちの諸式の費用を一手持ちするまでになる
その頃、嬉野の農家の主がおくんちを見がてら連れてきた中に大隈八太郎(後の重信)がいて、外商との取引で繁盛していた大浦屋に取引の秘訣を探りに来た

第4章        約束
坂本龍馬の海援隊に資金援助、更に土佐商会の岩崎にも支援
突然父親が腹違いの弟と共に店に現れ居座る。先代の大番頭が密かに金を用立てして店に近づかないように算段していたが、後妻も亡くなっていよいよ娘の前に父親面して現れたもの。慶(元号が慶應に代わったと同時に改名)は、覚悟して家に引き取り、弟を養子にして跡を継がせようとする
横浜が栄えるに伴い、横浜に支店を出すことになり、大番頭を市場調査に行かせると、今まで大得意だったアメリカが、より安価な駿河茶に目をつけていることを知らされる。番頭が横浜で突然死に見舞われ、横浜進出も立ち消えに

第5章        逆波(さかなみ)
明治2年、義弟と養子縁組
茶葉の移出は、完全に駿河茶に取って代わられ、長崎の卸値は6割以下に落ち込む
茶葉の移出を扱っていた最大手のヲルト商会は大阪に移転、グラバー商会も御一新後は武器が売れなくなった上に諸藩からの回収が滞り倒産
最初にオランダとの仲を取り持ってくれた通詞の品川が、熊本藩士で長崎藩邸に詰めていた遠山を伴って来訪。熊本藩による煙草葉の移出話で、交易に慣れた商人の請判を求められ一枚かんでほしいとの依頼。一旦は断ったが、今度はヲルト商会が相手だというので、肥後商人の請人をつけることを条件に応諾、3000両の手付金を受け取る
手付金を渡した後、心に引っ掛かるものがあって、添え人となった肥後藩庁の支配頭と、請人となった商人の家を訪ねるが埒が明かない
納期になっても荷は集まらず、遠山とも連絡がつかない
ヲルト商会には何とか待ってもらったが、ヲルトからは体調が優れないので帰国するとの手紙が来る
熊本県庁に訴えたところ、遠山を問い質し、家禄5カ年分352両を下げ渡されたが、負債には遠く及ばず
ヲルト商会は、遠山と肥後商人、慶を訴える。慶も遠山と肥後商人を訴える
審理が始まってようやく真の顛末を知ると、全ては2年以上前の明治3年から始まっていて、遠山が品川の通弁によりスウェーデンから反物を仕入れて熊本で売り捌く商売を始めたが、反物の相場が下がったために損失を被り、総額2600両にもなった借金を返すために2人が考えたのが煙草葉の商いで、元々当てのない商売だった
判決は、遠山は士族の身分除籍、刑罰は準流10年、身代全て召し上げ、品川は手付金から自らの貸付金を回収した分1120両を戻させられ、残りの1500両ほどが慶の負担とされた。さらに違約金3000両も上乗せ
さすがに違約金は何とかヲルト商会に取り下げてもらい、残る1250両を家屋敷を抵当に20カ月の月払いにしてもらう
父親が現れた直後から姿を消していた先代の大番頭が余計なことをした詫びに戻ってきて償いにまた働かせてくれという
大浦屋が金繰りで大変なことが分かって今までの取引先も先を争って売掛を取り立てに来たため、資産の処分で何とか2か月は凌いだが、師走に改暦があって明治6年になり、123日が西洋暦の元日となって、12月と1月の2か月分が一気に来て資金繰りは一層ひっ迫。何とか凌いだのは、茶葉を国内での販売に切り替えたから

第6章        波濤
明治8年、何とか負債を完済し外商との取引も復活してきたところへ、嬉野の茶葉農家が来訪、横浜工廠の払い下げの経営に携わらないかとの誘い。聞けば大隈や岩崎の推薦があったそうで、軍艦の部品を製造する工場。茶葉商いを跡取りと先代の大番頭に任せて慶は横浜へ向かい、造船を学んだという長崎出身の同郷の士とともに払い下げ願を出す  
横浜製造所は、10年前フランス公使の進言で設立、米国製の工作機械などを入れた鋳物工場などからなる。所轄は工部省から大蔵省駅逓寮に移り、更に内務省に移る。払下げも郵便事業に利用するために郵便汽船三菱会社に貸与されると話が変わっている
話が違うと大隈に直訴、大隈の差配で横浜の豪商で元々伊万里焼の移出で財を成し、東京横浜間の鉄道敷設のための海の埋め立て工事を請け負った高島嘉右衛門を紹介され、連名で貸与願を出し直す
すぐに5年期限の貸与の許可が出て、横須賀造船所の下請けとして経営開始
士族の反乱の続発で特需に恵まれ業績は順調
明治10年のコレラの流行を潮時に、長崎でもコレラが流行っているのを心配して、経営から手を引き、故郷に帰る
明治12年、前米大統領グラントの長崎寄港に際し、対米茶葉移出の功績が認められ夕食会への招待を受ける。そこでグラバーに再会。将軍に紹介してもらった後、2人で昔日を解雇。「日本は旧き世におさらばして、どこに向かうとやろか。一途で頑固なくせに、移ろいやすかけんね」我が身の来し方を思い合せれば、なお自嘲めく。「あれは、よかさよならをしたと言えるとやろうか。グッドバイやった、と」
同年、突然福岡の豪商佐野商会から、鉄製蒸気船「高雄丸」の払い下げに際し、共同出資を持ち掛けられ、ついに黒船の所有者に。翌年の引き渡し式では慶自ら太鼓を叩いて、横浜で客死した大番頭や維新で散った若者に白く輝く波濤の景色を捧げ、私は漸く心から告げよう。グッドバイ
明治17年、政府から「婦女の身を以て率先、製茶の外輸を図る。その功労特に著しい、よってこれを褒賞す」と、茶業振興功労褒賞に金一封が贈られる



(書評)『グッドバイ』 朝井まかて〈著〉
2020.1.11.朝日
 夢を追う女性貿易商の維新史
 すごかね、こんな女の人がいたんだねえ、という感じである。本紙夕刊連載中から楽しみに読んでいた人も多いのでは。朝井まかて『グッドバイ』は、幕末から明治にかけて活躍した長崎の女貿易商を描いた波瀾万丈の評伝小説である。
 主人公の名は大浦慶(若き日の名は希以〈けい〉)。母は早く亡くなり、婿養子だった父は火事で焼けた店を捨てて出奔し、迎えた婿も役立たずゆえ〈こげん性根のぐずついた男は、お父(と)しゃま一人で充分ばい。養いきれん〉とばかりに離縁。お希以が老舗の油屋・大浦屋を祖父から受け継いだのは19歳のときだった。
 時は幕末、黒船来航の直後である。菜種油の商いも先細りとなり、当主となったお希以は異国との交易に意欲を燃やすも、周囲は頭の固い御仁ばかり。何かといえば〈おなごの分際で一人前の主面(しゅうづら)しおって。生意気な〉〈おなごの浅知恵は聴くに堪えん〉。
 それでもお希以はあきらめなかった。ひょんなことからオランダ船に載せる荷の調達を請け負った際、肥前・嬉野茶のサンプルを用意。〈私は交易がしたかとです〉〈これを、茶葉が欲しかと言う人に売り込んでもらえませんか〉
 3年後、ようやく彼女はイギリス人交易商の注文を受けるが、喜んだのも束の間、先方が出した条件は千斤の茶葉をたった6日で集めるというものだった。
 商才に長け、幕末の志士とも親交を持ち、女傑といわれる大浦慶だが、本書が描き出すのは、どこまでもまっすぐに夢を追い、困難に立ち向かう慶の姿だ。函館と下田の開港で交易を独占していた長崎の優位性は失われ、輸出用の茶葉も嬉野茶から静岡茶にとってかわられ、慶自身もとんだ経済事件に巻きこまれ……。そのたびに、しかし彼女は立ち上がる。〈今こそが私の正念場、戦たい〉
 旧士族ではなく商人、それも女性の側から見た維新の裏面史。朝ドラ、いや大河ドラマにもなりそうだ。
 評・斎藤美奈子(文芸評論家)
    *
 『グッドバイ』 朝井まかて〈著〉 朝日新聞出版 1760円
    *
 あさい・まかて 59年生まれ。作家。14年に『恋歌』で直木賞、『阿蘭陀西鶴』で織田作之助賞。『悪玉伝』など。


Wikipedia
大浦 慶(おおうら けい、文政116191828730明治17年(1884413)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性商人日本茶輸出貿易の先駆者。楠本イネ道永栄と並ぶ長崎三女傑のひとり。
l  生涯[編集]
文政11年(1828年)に長崎油屋町で油商・大浦太平次と佐恵の娘として生まれる。
大浦家は、賀古市郎右衛門の次男・大五郎(1818 - 1837)が婿養子として大浦家に入るが、慶が9歳のときに死去。大五郎の死後、大浦家の財政は傾き、それに追い打ちをかけるように、天保141024(18431215)の夜に出来鍛冶屋町より出火し、今籠町・今鍛冶屋町・油屋町・今石灰町・新石灰町・高野平郷など家屋526戸が焼ける大火が発生し、大浦家は大損害を受けた。この時、慶は大浦家再興に尽くそうとした。
1844蘭学を学びに長崎にきていた天草庄屋の息子の幸次郎(秀三郎とも)を婿養子に迎える。しかし、慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日に追い出した。以後、死ぬまで独身を貫きとおすこととなった。20歳のときに上海に密航したという説もある。
l  日本茶貿易[編集]
嘉永6年(1853)に通詞・品川藤十郎と協力して出島にてオランダ人・テキストルに嬉野茶を託し、イギリスアメリカアラビア3ヶ国へ茶を送ってもらうことにした。この時、9斤の茶葉を三階級に等分し、各階級1斤ずつ各国に割り当てた。そして同年9、テキストルが出島から出港した。
その約3年後の安政3年(18568月にイギリスの商人WJ・オールトが来航。そこで、テキストルに託した茶の見本を見せ、巨額の注文を受けた。嬉野茶だけでは足りず、九州一円の茶の産地を巡り、やっとのことで1万斤を集め、アメリカに輸出した。これが日本茶輸出貿易の先駆けとなった。文久元年(1861)に南北戦争が勃発し、一時的に輸出は停滞するが、慶応元年(1865)に終結した途端、爆発的に増え、翌年には長崎からの輸出はピークに達した。安政から慶応にかけての約10年間は大浦家の全盛期であった。
日本茶輸出貿易に成功した慶は名が知れ渡り、坂本龍馬大隈重信松方正義陸奥宗光らと親交があったとされる。
しかし、1860年代が終わろうとする頃、九州より大きい茶の産地である静岡からの輸出が増えて、茶の輸出業に陰りが見えはじめる。このとき慶は違う商品の貿易も考えていた。
l  遠山事件[編集]
明治4年(18716月、慶の元へ熊本藩士の遠山一也が訪れ、イギリスのオールト商会と熊本産煙草15万斤の売買契約したため、慶に保証人になってほしいと頼んできた。遠山は熊本藩から派遣されたように装い、連署人として同藩の福田屋喜五郎の名を勝手に使い、偽の印を押した証書を見せた。また、遠山とオールトとの通弁を務めた品川藤十郎もしきりに連判することを勧めたため、慶は保証人を引き受けることにした。
ところが、オールト商会は遠山に手付金3000両を差し出したものの、期限の9月になっても煙草は全く送られてこなかった。そのため慶はオールト商会から手付金を返すように求められ、熊本藩と交渉し遠山家の家禄5ヵ年分に相当する約352両の支払いを受けたが、それが精一杯であった。実は、遠山は輸入反物で失敗し借金を返済するために慶を騙したのであった(遠山事件)。
明治5年(18721月、慶はオールト商会から遠山、福田屋喜五郎と共に長崎県役所に訴えられ、慶も遠山と福田屋を訴えた。7月から8月にかけての判決で、遠山は詐欺罪で懲役10年の刑を受けるが、慶は連判したということで1500両ほどの賠償金を支払うこととなった。負債の3,000両(現在の価値でいえば約3億円ほど)と裁判費用及び賠償金を払うことになり、これで慶の信用も地に堕ち、大浦家は没落した。家財は差し押さえられ、毎日慶の家に取り立てが来ていたという。
l  晩年[編集]
明治12年(18796月に元・第18代アメリカ大統領ユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際は国賓として、各県令らと共に慶が艦上に上った。その時、艦上にいた国賓で女性は慶だけであった。
明治17年(1884年)、県令であった石田英吉農商務省の権大書記官であった岩山敬義に、慶が既に危篤状態であるため生きているうちに賞をあげてほしいと要請したところ、45西郷従道から受賞の知らせを電報で伝えられ、翌日に石田の使者が慶の家に出向いて受賞を知らせた。明治政府は慶に対し、日本茶輸出貿易の先駆者としての功績を認め、茶業振興功労褒賞と金20円を贈った。
その1週間後、慶は57歳で死去した。借金は死ぬまでに完済していたとされる。墓所は長崎市高平町清水寺墓域(曇華院跡)大浦家墓地。
関連作品[編集]
漫画[編集]
小説[編集]
朝井まかて『グッドバイ』


コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.