ボルカー回顧録  Paul Volcker  2020.1.6.


2020.1.6. ボルカー回顧録 健全な金融、良き政府を求めて
KEEPING AT IT ~ The Quest for Sound Money and Good Government              2018

著者 Paul Volcker  1927年生まれ。70年代前半、国際金融システムの歴史的な変化の時代に財務省金融担当次長を務め、その後ニューヨークFRB総裁、ニクソン政権財務次官補をへて、1979年から1987年までFRB議長を2期務める。議長退任後も、ナチスによる迫害の犠牲者がスイスの銀行に持っていた預金口座やその他の資産の現状調査と、それらの処置の準備に当たる独立賢人委員会のトップを務める。また国連の石油食料交換プログラムを巡る腐敗と不正行為を解明する独立調査委員会の委員長に就いた。08年オバマ次期大統領によって政権の経済再生諮問会議議長に指名されるなど公職を務める。プリンストン、ハーバード、LSEで学ぶ。現在、超党派のボルカー・アライアンス会長を務め、市民に良い成果をもたらすような政府の有効なマネジメントの推進に取り組む
With Christine Harper 『ブルームバーグ・マーケッツ』誌編集長。20年以上にわたり金融市場記者、エディターを務める

訳者 村井浩紀 1984年に日本経済新聞社入社。ヒューストン、ニューヨーク、ロンドンに駐在。経済解説部長などを経て2018年から日本経済研究センター・エグゼクティブ・フェロー。訳書にジョセフ・S・ナイ『アメリカの世紀は終わらない』(日本経済新聞出版社、2015)、カート・キャンベル『THE PIVOT アメリカのアジア・シフト』(日本経済新聞出版社、2017)など

発行日             2019.10.24. 11
発行所             日本経済新聞出版社

FRB議長として、ボルカーはアメリカ経済を悪化させてきたインフレを退治し、中央銀行の威信を回復させた。だが、それも、数十年にわたり6代の大統領に仕えたキャリアの中では極めて重要なエピソードの1つに過ぎない。ブレトンウッズ体制の終焉、金・ドル交換の停止、08年金融危機のような世界の変化に対するボルカーの洞察は、開かれていて規律があり、かつ有効に機能する政府について朽ちることのない教訓を与えてくれる
ウィット、ユーモア、地に足の着いた博識を持って語られるボルカーの人生の歩みは、第2次大戦後のアメリカ人の生活、政府、経済の変化を浮き彫りにする。また、ボルカーは世界の指導者、中央銀行家、金融界の人々とともに関わった世界的な危機にどう対処したのかを精力的に描く
誠実さを貫き、物価の安定、健全な金融、良き政府という3つの原則を唱えるボルカーの姿勢は、深い感銘を与えずにはおかない


序 章 賢い年老いたオウム
2013年に創設したボルカー・アライアンスの議長として、公共への奉仕のために働く人たちへの研修や教育を奨励する活動に従事
回顧録を書こうと決めた理由 ⇒ 今膨らみつつある、より重大な懸念に突き動かされている。アメリカが自分たちの国を効果的に統治するという点では、しばらく前から機能不全に陥り、今でもその最中にいる。政党間や政党内ですら見られる分極化の動きは、富の著しい集中がもたらす影響がかつてないほど強まっていることと表裏一体で進み、公共政策のとりまとめに欠かせないいくつかの重要な要素を麻痺させている。具体的には、軍事関連の支出から退職高齢者への対応までさまざまなプログラムを賄うための堅実な予算作りであり、外交から移民、医療、その他多くの問題についての賢明な戦略である
建国の父、ハミルトンが説いた大切なことが損なわれているのに、アメリカ国民はそれをあまり理解していない。彼は「良き行政を生み出す適性と傾向」を備えているかどうかが、政府には本当に問われているのだと主張。公共に奉仕する優秀かつ献身的な人材を集め、政府機構を効果的に機能させる。その必要性にここ何年も注意が払われてこなかった。結果的にあまりに多くの機能不全、非効率が生じ、そして最も甚大なことに、政府に対する非常に深刻な不信が広がった。世論調査でも、政府がほとんどの場合、正しいことを実行しているとの回答は、60年前の75%から、20%を下回るまでに激減
50年代初め、私が初めて政府に職を得た時、それは自尊心に関わる事柄だったし、他の人たちも同じように受け止めた
思い上がりという大罪と全く無縁だったとは言えない。長く続く不要な戦いを引き起こし、市場開放と急速なイノベーションが多くの市民集団に負担を強いることを自覚しておらず、創意に富む金融市場が自らに規律を課して振る舞うものと勝手に思い込んでいた
ソビエトの崩壊と、より開かれた繁栄する中国の登場は歴史の終わりであり、民主主義の価値の勝利と世界全域の絶え間ない成長の時代の到来を確信したが、いま我々は異なる雰囲気に包まれている、歴史的にアメリカと同盟関係にある国々は当惑し、我々のリーダーシップに対して疑念を抱いている。民主主義と法の支配を広めるという構想は危機に瀕している
この回顧録が教訓を、とりわけ私が生涯の大半を捧げてきた金融や通貨の政策に関連した教訓を読者に提供できればと願う
さらには、もっと大きな、重要な点についても考える。我々の政策立案、遂行のすべての過程で信頼を取り戻すことが必要になっている。ボルカー・アライアンスの活動がそのための一助となればと思う

第1章          大人になるまで
父親が地元の自治体で重要な地位についていたことが、自分の暮らしと外の世界に対する私の見方に実に大きな影響を与えたことは間違いない
父親の残した言葉に、「行政とは1つの科学であり、コミュニティの管理に当たるものは、行政の科学に基づいて完璧に訓練された人物でなければならない」というのがある
プレップスクールにも通わずに知人の勧めでプリンストンに願書を出したところ許可
兵役は、6ft6inchesの身長制限のため1インチの差で免除、後ろめたさを感じつつ45年夏大学の寮に入る

第2章          学業を修める
プリンストンでは、国際問題学科SPIA(48年からかつての総長の名を冠したウッドロー・ウィルソン・スクールに名称変更)に在籍。60年代に多額の資金拠出によって大学院生向けのプログラムが創設され、「政府での奉職を目指す男女を訓練し、教育を与えること」を目的とした
卒論では35年前に発足した連邦準備制度をとりあげ、中央銀行の理論と実践を検証するとともに、物価安定の重要性と金融政策の中心的な役割について述べ、中央銀行は物価の安定を核心的な政策目標だと認識し、党派的な政治から独立してその実現に取り組むよう強く訴え、無意識のうちに自分のキャリアパスが決まる
ニューヨーク連銀でインターン中に、アーサー・バーンズや、悲観的経済見通しで名を馳せたウォジニロワーやカウフマンとも面識を持つ
ハーバードの大学院の行政研究科が新入生向けの高額な奨学金を提供していると知って応募。当時のハーバードはアルヴィン・ハンセンを筆頭にケインズと彼の一般理論に傾倒していたが、近隣のまだ草創期にあったMITからサミュエルソンなど若手学者を惹きつけ、彼らはハンセンの単純明快な主張に疑問を投げかける
2年後政治経済学の博士号取得に必要な単位を取得し終えた後、設立されたばかりのロータリー基金の奨学制度に乗ってロンドンに留学、財務省からは帰国後の常勤のポストを約束され、帰国後ニューヨーク連銀のエコノミスト見習いに

第3章          駆け出しの社会人として
帰国した年の大統領選には間に合わなかったが、アイゼンハワーの対抗馬で若者に熱気を巻き起こした民主党候補のアンドレー・スティーブンソン(現職のイリノイ州知事)に好感を持ち民主党員として登録。何十年も前に離脱したが、未だに党員と紹介されている
ニューヨーク連銀内でしっかり共有され、一切の意義(ママ)を唱えられたことのない信条は、連邦準備制度が真っ先に果たさなければならない責任であり、効果的な経済政策を進める拠り所とは、通貨の安定の維持だという理解で、少々のインフレは有益だとするハンセンの学説を支持する者は皆無
現実のFRBは、大恐慌以降低金利を維持し続け、政治的圧力に屈していたが、1951年財務次官補からFRB議長となったマーティンは、FRBを財務省の監督下から切り離すことなどを盛り込んだ「アコード」を取りまとめ、FRBの責任を物価と金融システムの安定にあると、不況を買ってでも景気の過熱やインフレ高進の芽を摘むことだと力説し、翌年には物価の安定を実現。以降15年にわたって経済は成長し、失業率も低水準で推移
当時名声を博した経済学者がフリードマンで、「マネタリズム」という通貨供給量の最適な増加率を維持すべきというもので、供給量はGNPで測った経済全体の成長率を上回って増えていくべきと主張したが、現実にはその後何十年も理論とは正反対の状態の時期が圧倒的。シカゴ大学のフリードマンは「淡水」学派で、東西両海岸の「塩水」学派と競っていたが、フリードマンが言う通貨供給量が、インフレが発生する過程では決定的な要因になるという指摘は評価でき、後に自分がFRB議長としてインフレと戦う際の根拠とした
1957年チェースに創設された経済調査部門のトップから金融担当のチーフ・エコノミストの誘いを受け、同時に副会長のデイビッド・ロックフェラーがメンバーとなった民間の有力な政策提言機関だった経済開発委員会が新たに金融システムを総点検する通貨・信用委員会に代理で参加する機会が与えられた
その頃、同僚との雑談の再欠落していることを気づかされたのが博士号取得で、ハーバードでは単位取得後5年以内に論文を出さなければならなかったが、既に6年経過していたものの、行政学研究科では期限がなく救われた
61年先行きのキャリアに不安を感じていた頃、昔の上司で、ケネディ政権の金融担当財務次官に就任したボブ・ローザからの誘いに乗って手伝いに行くが、5年後にはまたチェースに長期計画担当部長として復帰することに

第4章          ワシントンに向かう
ケネディ政権は熱狂の中でスタートしたが、国際収支の赤字は続き、ドルの価値に及ぼす潜在的な影響を巡る懸念は深まる一方。外国政府からは手持ちのドルを金に換える要請が一段と強まるが、ケネディのドル防衛や固定相場を守る意思も未知数だったこともあって金相場が急騰。財務長官にはディロン・リードの経営者でアイゼンハワーの国務次官だったダグラス・ディロンを指名
私のワシントンでの仕事は、財務省に新設された金融分析局。やがて財務副次官に昇格
61年末には、アメリカの対外債務は230億ドルに急増、一方で金保有は170億ドルに減り「兌換性」に疑念が生じたため、ローザの仕事は1オンス=35ドルでの交換要請にいかに応じるかにあり、G10諸国間で通貨スワップによる海外の余剰なドル吸収に走る
64年にジョンソンが再選されると、ローザはブラウン・ブラザーズ・ハリマンの共同経営者に転出
不快な感覚が蘇る事件は、ネルソン・ロックフェラーNY州知事が自らのワ-ルドトレードセンター建設計画を経済的に持続可能で採算合うものにするために財務省の支援を求め税関がテナントとして入るよう要求。建設主体で所有者となるNY/NJ港湾会社というロックフェラーが牛耳る会社は両州合同の機関で、発行債権に税制優遇も求めてきた案件。税関の移転は近隣の賃料の安い場所との交渉が進んでおり、オフィスは過剰状況にあって税制優遇は考えられないとしてディロンに上げたが、ネルソンは欲しているものは手に入れると言われ苦い思いで引き下がる
65年秋、アメリカ経済が完全雇用の状態にある中で、ベトナム戦争への出費が膨らみインフレ懸念が高まったところから、マーティンFRB議長は公定歩合の引き上げを主張、ジョンソン大統領やファウラー財務長官は拒否したが、最終的にFRBが強行したためジョンソンの牧場に呼び出され、身体的にも責め立てられたという ⇒ その後明らかにされたのは、ベトナムの戦費が嵩み、景気が過熱する中で、FRBが追加的な引き締めに出遅れてしまったことと、大統領が経済顧問たちの増税の要請を却下したことが、70年代の深刻な大インフレの起点になったと突き止められている。このミスが私の議長指名にも繋がる
65年末チェースに戻り、インフレの進行を目の当たりにする。国内融資と地方銀行との関係では強固だったが、国際ビジネスではシティーバンクの遥か後塵を拝し、法的規制が消えていく中で、海外への業務拡大が追い上げに不可欠のように思われた 

第5章          「世界で一番やりがいのある仕事」
69年初、ニクソン政権下の金融担当財務次官として戻る ⇒ 大統領就任の日に翌日付で国際安全保障担当の大統領補佐官になったキッシンジャー署名の覚書によって、国際金融関連の政策を検討・提言するグループのヘッドを任される。国内外の垣根が低くなるなか、両分野で責任をもち政府内でほぼ1人で切り盛りを担い、政策に精通した。世界で一番やりがいのある仕事だった
財務長官は、コンチネンタル・イリノイ銀行の会長だったデイビッド・ケネディ
60年の大統領選挙で、ケネディを大統領にする会のニュージャージーの地元支部の代表を務め、ニクソンはそこで敗れているのに不思議。ニクソン政権内の民主党員は私と、ホワイトハウス内の内政担当だったモイニハンの2人だけ
アメリカの金準備が110億ドル以下に落ち、対外債務はその4倍にも膨らみ、インフレ率は4%超と悪化して、国際金融秩序の存続が危ぶまれる中、金の交換レート維持のための市場介入の打ち切りが合意されるとともに金への投機が加速、一方ヨーロッパ諸国間の為替レートの不均衡が顕在化し変動相場制への動きが高まり、代替手段としてSDRが考案される
1970年初、マーティンの後任として、60年の大統領選以降ニクソンが助言を受けていた大学教授のアーサー・バーンズが議長に就任。ニクソンはケネディに敗れた一因は現職副大統領時代にマーティンのとった引き締め型の政策運営にありと非難しており、早速ドル切り下げ圧力が続く局面にも拘らず、短期金融市場の金利を引き下げていった
国際収支の均衡に向けて、ドルの10%切り下げが妥当との報告を受け、ブレトンウッズ体制の「再活性化」に動き出す
71年初、ケネディの後任として、ケネディ暗殺の車に乗り合わせた元テキサス州知事コナリーを財務長官に指名。閣僚では唯一の民主党員だったが、私に要求したのは忠誠のみ。私とは対照的な人物だったが、なぜか惹きつけ合った。ニクソンから全面的な信頼を勝ち得、国際通貨体制の深まる危機を理解する
5月、ドイツが市場でのドル買い介入を停止し、自国通貨の変動相場制への移行を暫定的に認めると、直後の国際銀行会議でコナリーは、ドルの切り下げも金価格の変更もせず、インフレを抑え込むというアメリカの決意を表明
アメリカの金準備が100億ドルに落ち込むに至ってニクソンも金・ドル交換停止に傾きかけるが、コナリーはとりわけ日本を標的に、輸入課徴金を政策メニューに加えると主張
ブレトンウッズの合意では、「経済を兵器代わりに使うこと」を禁じているが無視
議会の休会明けまで行動自粛としたが、87日下院銀行委員長ヘンリー・ロイス(民主党)が上下両院の小委員会の合同提案という体裁で、ドルの為替レートの変更、特に円に対しての切り下げを要請したのを契機に、市場での投機的動きが加速。イギリスが週後半には金との交換を通告してきたため、急遽その終末以下の計画を発表することに
l  金・ドルの交換停止
l  金の公定価格は維持
l  90日間、賃金と物価を凍結
10%の輸入課徴金、減税と税額控除のパッケージ、個別の貿易制限措置は大統領令で追加
国際通貨体制の改革に向けた各国との協調にはほとんど触れず、ニクソンの国務省に対する不信を反映して国務省からは誰も呼ばれず、キッシンジャーもヨーロッパ滞在中。IMFにも大統領の発表があることだけを伝える。私は海外の同僚たちへの事前通告を禁じられたが、日本側のカウンターパート柏木雄介(直前まで財務官)にだけは禁を破る

第6章          挫折した通貨制度改革
ニクソンは815日のテレビ演説で、私の曖昧な原稿とは実に対照的なトーンで、「果敢に指導力」を発揮して「戦争のない、新たな繁栄を作り出す」と言い切った
翌日ロンドンに飛んで各国の通貨当局者たちに緊急対策の背景を説明
年末の財務相によるG10会合では、国際協調の必要性に鈍感で粗野なテキサス出身のいじめっ子と見做されてきたコナリーが、突然公式晩さん会で、世界の金融市場に対して大いなる調和をもたらす責任を持っているのだと強調、それまで進まなかった合意が4週間後スミソニアンの会合で成立 ⇒ 金・ドル交換レートの改定に合わせて、各国が同率だけ切り上げることで合意したが、6か月後には投機筋のポンド売りが襲い、ヨーロッパの他通貨にも飛び火、732月にはドルの安定化のための追加対策が必要となり、交換レート10%のさらなる切り下げを各国と交渉、日本は円の20%切り上げをのみ、新任のシュルツ財務長官が合意内容を発表、同時に金利平衡税も廃止
公的な介入がないことが分かると投機筋は金とドルに向かい、主要国会議は暫定的に変動相場を取ることで合意。この暫定的合意は以後50年にわたって続き、ドルは今でも世界中で準備通貨として利用され続けている
国際通貨体制は同時に3つを実現しようとするが困難 ⇒ 自由な資本移動、固定相場、独立した金融政策のうち2つ迄しか実現不可能
財務省時代、アメリカ政府の資金調達方法について、短期証券と同様に、中期(ノート)と国債(ボンド)についても入札方式を導入、機動的かつ需要に応じた調達を可能とした。また各種政府機関の資金調達を新設の連邦金融銀行のもとに一本化し、全体像を把握するとともにコスト削減につなげる
ニクソンの弾劾騒ぎに嫌気してシュルツはベクテルに移動、私も財務省を去る決意をして、プリンストンで講義を受け持つ
息子は脳性麻痺で生まれ、歩けるまでに何回も手術が必要だったが、頭脳に問題はなかった
住み慣れたワシントンを去るが、6070年代には今とは全く違う場所。人種で分け隔てられてはいたが、それ以外は世界に通用する博物館や文化施設を備えた快適で便利な中規模の町。住民の大半は公務員とその家族や議員を含む中流の専門家たちで、町には大きな富はなかった。一流のレストランは少なく4つ星のホテルも新しく建った1軒だけ。ロビー活動も広く普及した地場産業になる前の段階で、商工会議所とAFLCIO以外有力な利益団体の事務所もほとんどなかった。政府とのコネを売り歩く姿は今の基準で言えば控え目だったのに、何十年も経ち、全く異なる不快な場所に変わった。富が支配し、議会と一心同体のロビイスト、あまりに多い政府職員に振り回される町になり、私は距離を置く

第7章          始まりの場所に戻って
75年央、次に選んだのはバーンズの誘いに乗ってNY連銀総裁ポスト。私もバーンズとはたびたび衝突していたが、それ以上に前任が事あるごとにバーンズと衝突していたので代えたがっていたところで、少々気が進まないままに応諾
早々にバーンズから、当初約束されていた俸給額の減額を言われ、さらに政府年金上乗せの放棄を迫られ、啖呵を切った
NY連銀総裁はFOMCで副議長を務めるが、反対派に回ることが多かった
バーンズがインフレに真正面から立ち向かうことに明らかに消極的だったところから、次第にもどかしさを募らせる
組織運営の改革を手伝ってくれたのは若き日のジェラルド・コリガン ⇒ 効率性の推進
バーンズと一致した見解は、中南米諸国向け融資の拡大に対する懸念だったが、連邦準備制度には銀行の自己資本を規制する正式な権限はなく、規律を徹底できないまま事態は推移
特にシティバンクには、権威を軽んじる経営陣の動きに何度も振りまわされた ⇒ 海外の中銀から、シティが通貨取引で上げた利益に対する課税を逃れているという苦情を受け取る。高額の景品を見合いに預金を集めていたことも判明、制裁金を科したが、大きなニュースにはならなかった
1977年連邦準備法改正。中央銀行に求められるものは、「最大の雇用、安定した物価、適切な長期金利という目標を効果的に推し進めるために、経済に備わっている生産拡大の長期的な能力に見合う形で、金融・信用の総額が長期的に増えていく状態を維持すること」で、この条文が「デュアル・マンデート(雇用の最大化と物価の安定)」として解釈されているFRBに課された2つの使命の起源
78年初、カーター政権がバーンズに代わって指名したのはテキストロン会長のミラーで、私は緩和的な政策の継続に反対票を投じる
78年後半、変動相場制に移行しても通貨危機が終わらないことに気付く ⇒ 進行が止まらないインフレとFRBの金融政策がドル離れを招き、外為市場で史上最安値を更新

第8章          インフレと闘う
79年にはイラン革命による二度目の石油危機もあって物価が前年比13%も急騰
年央財務長官の後任にミラーが指名され、その後任のFRB議長に推挙されたが、カーターに会って主張したのは、①連邦準備制度の独立性、②FRBはインフレに正面から取り組むべき、③より一層の引き締めの金融政策
議長指名発表からすぐに上院公聴会を経て86日には就任。俸給はNY11万ドルから半減して57,500ドル。学生たちで満杯のアパートを月額400ドルで借りて単身赴任
議長就任の10日後、前回の金融調節から1か月足らずで、公定歩合を0.5%引き上げ、過去最高水準の10.5%とした。それでもインフレは止まらず、再度私の主導で引き上げを図ったが、評決が43に割れたため、FRBに対する信認に関わる問題を惹起、追加利上げに尻込みするとみた市場はドル売りに動き、金は史上最高値を更新
より積極的で効果的な施策として導入されたのがマネーサプライのコントロールで、後に「実践的マネタリズム」と形容された ⇒ 各方面から激しい批判を浴びたが断固たる政策堅持の姿勢と、歳出削減策もあって、マネーサプライが急減
新任のレーガン大統領は、「金の価格が下がり、インフレを制御しつつあるかもしれない」と述べ、インフレへの危険性をよく認識。大統領の大きな貢献として記憶に残るのは81年夏航空管制官のストに対し数千人規模の解雇を断行、賃上げ要求には限度があるという心理的には強烈なメッセージを残したこと。ただ、特定の短期的政策対応について協議を拒んだこともあって、メリルから抜擢されたリーガン長官の財務省とは気まずい関係が続く
82年夏、物価上昇率は1桁に低下しインフレ後退が明白となり、FRBは金融緩和に踏み切り、4週間に3度公定歩合を引き下げ。悲観派エコノミストの代表格のカウフマンからも最悪期を過ぎたと歓迎され、金融相場の潮目が変わる。ショウファーの座席に『インフレと共生する方法』という本を見つけ、自分の運転手にも信用してもらえていなかったとがっかりしたが、10.95ドルの本が1.98ドルに値下げされたので買ったということだった
銀行の金利自由化によりマネーサプライの指標であるM1aM3があまりにも頻繁に、ばらばらの方向に動くようになったことから、マネーサプライを最優先の注意項目に位置づける政策を打ち切る
83年夏、次の任期の話が起こり、関節リウマチの悪化していた妻の猛反対にあって任期半ばでの退任を条件に受けたが、上院での承認は全会一致ではなく、共和党右派と民主党左派各8人の反対にあう 
通貨の供給量と物価の変動の関係は、経済学におけるもっとも古い分析課題の1つであり、1750年代に遡る。「インフレとはいつでもどこでも貨幣的な現象である」というミルトン・フリードマンの単純化した命題は、新しい金融政策を訴えるにあたって下地として役立つ
FRBに欠けていた内部規律を取り戻す ⇒ 物価の安定実現のためにも、マネーサプライの伸びを抑制するという新たに獲得した優先事項から後ずさりしてはならない
特に政権との関係では、為替レートや金融規制において管理責任が政権側と重複している以上、国際情勢への対応などでも調整が不可避。FRBが「緊急時の」及び「暗黙の」権限を広範に行使する場合は、政権との協議は不可欠であるが、その前提としてあるのはFRBには金融政策を決める独立性があるということで、絶対に譲れない一線 ⇒ 一度だけ挑戦を受けたのが84年夏レーガン大統領と面談の際、ジム・ベーカー首席補佐官から「大統領は選挙の前に利上げしないよう命じている」と伝えられたときだった。大統領権限の逸脱である上に、金融引き締めの計画がなかったばかりか、コンチネンタル・イリノイの経営破綻の余波で市中金利が上昇したため小幅の金融緩和を決めたところだった
FRBを監督する憲法上の権限は行政府ではなく議会に与えられ、行政府はFRBに命令できないように意図的に制度上遮断されている。選挙が近付けば政治からFRBに圧力がかかることの教訓であり、ジム・ベーカーとの面会は今回が最後とはならなかった

第9章          国内外の金融危機
79年議長就任直後に起こったのがクライスラーの破綻。FRBに絶大な信頼を寄せる上院銀行委員会のプロクシマイヤー委員長の要請で、議会が設けた監督機関のメンバーとなり、労組や銀行団と厳しい姿勢で交渉に臨んだ結果、企業は再生し、折しも優れた設計の「Kカー」の成功でワラントが急騰し、すべての債権者が大きな利益を得る結果となった
80年前半、メリルに次ぐ2番手のベーチェの経営危機勃発。銀を担保としたハント兄弟に対する巨額融資の焦げ付き懸念によるもので、銀相場が急騰、多くの家庭が銀食器を売り急いだ。同様にハントに融資のあったメリルやファースト・シカゴまで危うくなりかけ、さらにはハントがエンゲルハードとの決済資金に行き詰まり、FRBが倒産回避に向けて仲介、政府の金は使うことなく乗り切ったが、その1か月後にはファースト・ペンシルバニアの経営危機勃発。金利上昇で大量保有していた長期国債の含み損が膨らんだことが原因で、FRBは緊急融資を実行したのに促されてFDICと銀行団が与信枠を設定、代わりにワラントを取得して経営権を抑える ⇒ この救済の方式が後の重要なモデルとなる
更に小規模な国債ディーラーの破綻が続き、82年央にはオクラホマの銀行ペン・スクエアが倒産、小規模だが石油開発に巨額の融資をして転売していたことが分かり、「リテール」銀行でも強力な監督下に置かないと、無節操な経営に走る危険があることの教訓となる
83年夏、コンチが大量保有するペン・スクエアの組成した債権の回収不能から経営危機に陥り救済の申し出。会長の独裁下にあって取締役会が機能不全。FRBの指導の下FDICと銀行団が救済枠を設定、経営陣を入れ替えしばらく存続したが経営の混乱で競争力を失い、株主は損を取り戻すことはできなかった。”Too big to fail”という言い回しが人口に膾炙する嚆矢とされるが、決定打となったのは通貨監督庁長官が議会で上位11行は支えると越権で証言したことで、中小銀行を代表する全米独立系コミュニティ・バンク協会は不公正だと非難。コンチは、経営陣と株主も、守られずに「潰れた」というべき
”Too big to fail”を巡る議論は、08年の金融危機にも復活。オバマが署名したドッド=フランク法(金融規制改革法)は、傾いてしまった銀行に効果的な破綻処理手続きを適用するうえで大いに役立つ。代償を払うのは納税者ではなく、株主と債権者
同時期広範囲に倒産が発生したのがS&L。もともと短期の預金で長期の貸出というリスクを負っていた。事業領域拡大の要請に応えて規制を緩和、特に不動産開発融資への拡大が命取りに。私は公聴会では何度も議会に規制緩和の自制を呼びかけたが、議会にも規制に反対する強力な味方がいて、経営者と政治家が寄ってたかってS&L業界を食い物にした
さらに深刻となったのが中南米の累積債務問題。70年代に始まり、石油収入で新たに豊かになった中東の国々から低コストの預金が転がり込んだ銀行からのペトロダラーの還流融資が82年には79年末比で倍増。きっかけはメキシコで、82年に危機対応でスワップ協定に沿って資金提供したが間に合わず、銀行システムに甚大な影響が及ぶのを回避するために、財務省主導で救済策策定。BISIMFも巻き込んだ救済の枠組みが設定され危機を回避。中南米各国が外国からの借り入れに過度に依存した社会主義的な閉鎖経済という古典的なパターンから脱出するためには必要な要素が含まれていたが、経済成長は緩やかなものにとどまったため、今なお政治的に、また経済的に同じことが再発しているのは残念

第10章      終わらなかった任務:金融システムの修復
84年にはインフレを抑制し、経済を成長軌道に戻すための取り組みがほぼ実現しつつあるように見えたが、繰り返し起きる金融がらみの危機は、アメリカと世界の金融構造の脆弱性という問題が長らく手付かずのまま放置された結果だということが明らかになる
同時に、為替相場に関する問題も再燃
海外の資金が大量にアメリカに引き付けられ、ドルは主要通貨に対して切り上がり、慢性的なドル安の時代は終わったかに見えたが、各国の景気は好ましい状態ではなく、私は各国に利下げを働きかけた
84年西ドイツがドル売りマルク買いに介入、高すぎるドルの是正に動く。イギリスも1ポンドが1ドルを下回り兼ねない状況を見かねてサッチャーがレーガンに市場介入を要請
85G5によるプラザ合意 ⇒ ジム・ベーカー財務長官の発案でドル安に向けた断固とした行動が起こされ即座にドル安が実現したが、ベーカーは財務省だけの会合で金融緩和を進める意向を盛り込んだ共同声明文を作成したため、私と西独ペール総裁が猛反対し削除されたものの。翌日の新聞には財務省高官の話として協調利下げの合意があったと報じられ、副議長のマーティンが反乱を起こしたことを知る。マーティンは懲戒相当のことを繰り返し、最後には何人かの理事を説得して突然利下げを提案。私はベーカーに退任を表明するとともに、日独との協調利下げを提案し1か月後に実現させたため、マーティンは辞任に追い込まれ、私はそのまま任期満了まで残留
87年ルーブル合意 ⇒ プラザ合意によるドル安に歯止めをかけるためのG7による合意で、目標圏を設定した為替管理だったが、ドルは目標圏を外れて下落
7080年代、国際金融市場は制約を解かれ急拡大。銀行間の競争激化により、ますます自己資本の問題は等閑にされたままだったため、国際決済銀行BIS主催で開かれたバーゼルでのG10の中銀総裁による会合で、銀行の国際競争の基準を統一しようという動きが強まり、88年合意され、銀行の自己資本比率に一定の枠がはめられた
2期の任期を満了して退任、後任にグリーンスパンを推薦。インフレを打ち負かした経験は、世界中の中央銀行に対する信認の回復に貢献したのは間違いなく、党派的で政治的な攻撃から中央銀行を守る一定の効果もあった。FRBは大いに尊敬される機関であり、金融の安定を実現・維持するという終わりのない取り組みに向けて指導力を発揮できる、という満足感を抱いて退任することができ幸せだった

第11章      FRB議長退任後
60で辞任し、ネスレとイギリスのICIの社外取締役を引き受け、クライスラー救済で一緒に努力した当時ソロモンのウォルフェンソンが始めた戦略的課題に対する助言に特化した「ブティック型」の投資銀行ジェームズ・D・ウォルフェンソン社に入り経営の一翼を担う
95年、ウォルフェンソンは世銀総裁で転出
プリンストンでもいくつか講義を受け持ったが、大学が掲げる使命や、公共に奉仕するための人材を教育すること全般に対し懸念を持つ
大学は1961年に大手食品スーパーA&Pの経営者一族ロバートソン夫妻から35百万ドル(現在の3億ドル)の寄付を受け、公務員、とりわけ外交に携わることを目指す若者をトレーニングするためにのみ使われる特別基金となる。総長は大学を将来、「官僚機構を管理し、動かす者」として鍛える場にはしないと言いながら寄付金を受け取り、政府に進む卒業生の少なさにロバートソンが失望感を表明。学長ポストも政治学と経済学の教授の輪番となり、行政学を学問・職業の両面から重視する教授の数は激減。遂に21世紀初めにロバートソン夫妻の相続人が9億ドルを超える特別基金が不適切な目的に使われていると大学側を提訴し、ニュージャージー州裁判所は和解を勧告。08年法廷外で和解したが、公共に奉仕する者を効果的に育てるという課題は未解決のまま残る。多くの大学では政治学と経済学の教授陣に対して歴史的に高い信望と評価が確立しており、教授陣も自分たちが人文科学の擁護者であることを誇りとしている。効果的な行政執行という、いわばありふれた任務のために大学院生たちをトレーニングすることは彼らの学問の定義に当てはまらない。行政学は経済学のような本物の学問ではないというが、信頼に足る経済見通しを示すことは「本物の」科学にとって本質的に重要にも拘らず、経済学者たちはこれまで惨めなほど失敗を重ねてきたのみならず、その当時も進行中だった金融危機を予見し、理解することも経済学者たちはできていなかった。私がプリンストンに入学したのは、当時の総長が実際、誉れ高い行政学の教授だったことが大きな理由だと言ったら、若い教授が「信じられない。この偉大な大学が行政学の教授を総長に戴くなどありえない」と答えた。代表的な行政学の教授にしてプリンストンの総長とアメリカの大統領の両方を務めたウィルソンがいながら
妻は若年性の糖尿病と闘いながら、2人の子どもを生み、関節リウマチと闘いながら90年代に病状が進む中68まで生存。長女はジョージタウン大で看護の博士号まで取り、81年結婚、3人の子どもを設け、うち2人はシスコでビッグデータとワインの仕事、3人目はウォール街で働く。長男は自動車を安全に運転できない状態を克服してニューヨーク大で大学院まで卒業、結婚してボストンで医療研究の資金調達の仕事をしている。中国から養女をもらう
葉巻 ⇒ 父譲りの愛煙家だったが、時とともに受動喫煙の罪悪感を覚え始め、メイヨー・クリニックの評議員になって健康診断を受け厳しい警告を受け、FRB勤務の最後の数か月に禁煙を決断
釣り ⇒ 妻の状態が悪くなって夕方自宅にいることが多くなって始めた新しい趣味
アンカ ⇒ NY連銀時代の秘書の紹介で、私が88年ウォルフェンソン入社の後秘書として働き始め、2010年結婚

第12章      あちこちで「ミスター・チェアマン」に
96年ウォルフェンソン社は投資銀行業務強化を目論むバンカーズ・トラストの傘下に入り、私はバンカーズの取締役に就任。取締役は組織運営の実務、会計、そして倫理の点で強固な基準を持つよう要求されるが、世の中の取締役会は何と悪い方向に傾いてしまったものかと感じざるを得ない
インターナショナル・ハウス(通称アイ・ハウス)の評議員会議長 ⇒ 在NY700人の大学院生に住まいと様々な文化を経験する機会を提供する施設。創設者はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアとクリーブランド・H・ドッジで両家が1世紀近く強い関心を寄せ続け、使命感と一貫した姿勢で維持・管理してきた。世界に広がるモデル
国際経済・金融問題諮問グループ(通称Group of 30)の議長 ⇒ ブレトンウッズ体制崩壊後に結成。主に各国の中銀や財務省の幹部経験者で構成。その時々の課題に関する調査・研究も支援
3極委員会の議長 ⇒ 70年代初期デイビッド・ロックフェラーがコロンビアのブレジンスキー教授(カーター政権の国家安全保障担当大統領補佐官)と構想し、有力な学者や政治家を巻き込んで立ち上げ。最初に目指したのが日本を西側の自由民主主義陣営へと近づけること。91年から議長。横行するポピュリズムや権威主義的な政権にどう対応していくのか、真価を問われている
全米パブリック・サービス協議会議長 ⇒ 政府職員の能力開発を重視して提言

第13章      誠実さを求めて
96年、世界ユダヤ人会議とスイス銀行協会の双方を代表する仲介役の人物から、ナチスによる迫害の犠牲者たちが生前スイスの銀行口座に残した資金の行方を調査する活動のヘッドの依頼があり、スイスの銀行で不正があったというユダヤ人コミュニティからの強烈な非難はスイスの名誉と銀行自身を汚すものであり、偏らない信頼できる考査は双方の利益になるはずで、従来からの何回かの取り組みは不首尾に終わっていた
別に、スイスの銀行を相手取った複数の集団訴訟がブルックリンの連邦地方裁判所で起こされ、スイスの休眠口座にある何十億ドルもの現金をホロコーストの犠牲者の遺族に返すことを要求していたが、情報が不十分で司法としての判断は和解協議と調査結果がまとまるまでは留保され、この調査を担当する独立賢人委員会ICEPの委員長への就任要請があり引き受ける。やがてボルカー委員会として知られ、スイス政府もスイス銀行協会と同じくらい疑惑にけりを付けたがっており、スイスの銀行規制当局は我々に銀行口座情報へのアクセスを法的に認める決定をして後押ししてくれた
スイス議会も96年末に並行的に調査を進めるベルジェ委員会を設置、スイスとナチス、ユダヤ人の関係に対するより広い視点からの調査を委嘱され、銀行界に留まらず事実関係を究明していく法的権限を与えられた
5大会計事務所に連携して取り組むことを説得
スイスの法律は、10年以上休眠状態にある口座の記録を廃棄することを認めていたので、銀行側は口座の記録はほとんど見つからないだろうという確信的な見通しを示していたが、ホロコースト発生時期にスイスの銀行には合計680万件の口座があり、約410万件の口座については何らかの記録が残っていることを突き止め、内54千件の口座は犠牲者のものと結論付ける。公開可能な21千件の口座情報を開示し、後は相続人に返金交渉を委ねた
個々の口座に関する情報は断片的で完全に満足のゆく調査内容とはならなかったし、相当な年月の経過で返金を請求できる人々の数の特定は難しく、しかも年齢を重ねていた
スイスの銀行は意図的に結託して、犠牲者たちからの口座情報の確認要請を拒み、門前払いの対応を共通の方針にしており、我々もこの訴えの当否を判断するために努力したが、事実関係の完全な究明には至らなかったものの、銀行側が情報提供を事実上拒否していたり、欺く行為があった明らかな証拠まで見つかった
99年末に報告書を公表、個別の返金要請の内容を確認し、支払いを承認する場合の手続きの概要を提示、判事も集団訴訟を和解に導き、返金要請に応えるための基金として1,250百万ドルを確保
後にスイスで報告書の妥当性を否定する政治的な動きが表面化したと知らされた時は残念に思ったが、70年代の財務省の同僚が「補助裁判官」として返金を請求する資格がある家族を特定するための取り決めを考案・実行し、集団訴訟の和解ではスイスの銀行に最終的に1,290百万ドルを拠出させ、犠牲者の相続人たちに720百万ドル余りが返金された
この回顧録の執筆中に、上記集団訴訟に基づく最後の数千件の支払いが行われたばかりであることを知る
2つの国際機関の運営管理を巡る調査に加わって直接国際機関というものを経験し、国際機関こそが担える不可欠の役割が今日の世界にはあると信じるようになった ⇒ 1つは国連がイラクに対して進めた石油と食料を交換する人道救援事業で腐敗が蔓延しているとの申立てであり、もう1つは世界銀行の途上国支援プログラムでの汚職や腐敗をめぐる内部対立と反乱の処理

第14章      基準を定める
会計監査という職業の存在理由そのものが蝕まれている様子を観察
フォレンジック会計士の存在を評価 ⇒ 訴訟や紛争の際に会計的見地から情報の分析にあたる専門家
他の会計領域では関係者たちの振る舞いに疑いや懸念を抱く根拠があまりに多いし、手抜きや誤魔化しに繋がる誘因、利益相反をもたらす仕組みがあまりに多い
国際会計基準委員会財団(現・国際財務報告基準IFRS財団)が国際的な会計基準の統一を目指して動き始めたが、肝心のアメリカで権限を持つSECが自国の原則こそ規範と主張
01年エンロンが10年の狂騒的な成長の後巨額の損失を特別目的会社で隠蔽したことが明らかとなり、その会計操作をアーサーアンダーセンが教唆していたことが発覚、5大会計事務所の一角が崩壊

第15章      新しい金融の世界:崩壊と改革
銀行や金融市場の枠組みを監督するための法律の見直しが必要
物価は安定し、経済成長が続いてはいたが、バランスをひどく崩していた。消費支出が多過ぎ貯蓄が少な過ぎ、財政は大赤字、対外経常収支の赤字もGDP6%の水準に接近。外国からの資本が洪水のように押し寄せ簡単に赤字を消していた。世界経済の成長をこれほど優しく支えている資本市場に対する信頼はどこかの時点で薄れてしまうのは間違いなく、その先には金融危機到来が見えている
08年ベア・スターンズが経営危機の瀬戸際にあるとの情報が入る。FRBが死文化していたノンバンク向け特別融資を理事会の定員7人のうち5人以上の承認で異例の実施に踏み切り、金融市場は一旦落ち着きを取り戻したが、ファニーメイやフレディマックの経営にも圧力がかかってきており、弱体化した金融機関の資産買取や資本注入のための政府機関設立を提言しようとした段階でリーマンが破産申請。議会が7,0000億ドルもの不良資産救済プログラムTARPを発動
07年後半~08年前半、多くの人がこの国の進路と指導力に不満を禁じ得なかったときに登場したのが先人たちの求めた人種の平等という夢を実証すると期待されたオバマで、彼の秘めた可能性は、金融危機でその重要性が浮き彫りになった政府の金融規制や各社の経営を巡る様々な統治不全という実際的な問題の解決にまで及ぶように見えた
大統領選挙戦ではオバマを支持し、彼の非公式の経済顧問とも会合を持ち、政権移行期の経済チームの政策検討会議にも出席、財務長官を打診されたが年齢を考えて固辞したが、新たに設置された大統領経済再生諮問会議の議長を引き受ける
金融システム上重要な金融機関すべてに対してより高めの自己資本の基準を定め、等しく運用することを求める提言を行う
議会も2010年にはドッド=フランク法を成立させ、金融安定監視評議会FSOCが設置され、銀行から離れていく金融関連活動を包括的に監視するシステムを構築。その一環としてFRBに銀行監督部門専担の副議長を置かれ、その初代にはトランプによる初の理事として指名されたランダル・クオールズが就任。彼の妻はユタ州のエクルズ一族で、元FRB議長の親族であり、この関係がクオールズの金融監督に高い優先順位を置いた貢献が期待される
同法の一部に加えられた新ルールはボルカー・ルールと呼ばれる自己勘定取引に対する規制で、商業銀行内での投機的な活動の禁止 ⇒ 金融関連当局との折衝で実施は5年後

第16章      三つの基本原則
ティーンエイジャーの私が触発されたのは、チャーチルがほとんど独りきりでナチスの暴政に対して決起したことと、FDR4つの自由を宣言して第2次大戦を「アメリカ的」な勝利で終わらせたこと(FDRは、アメリカ国民だけではなく万人のために普遍的な自由である言論と表現の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由を守ると訴えた)
今日環境が変わり以前とは根本的に異なっている。極端なポピュリズムと専制的な政治が復活、イデオロギー的な分裂は著しい。我々の偉大な社会を特徴ふけるあらゆる制度・機関に対しても疑問が投げかけられ、批判の対象は公教育や尊敬されてきたはずの大学であり、かつては「信頼できる」存在だった自由な報道機関。科学分野の専門知識さえ標的にされ、裁判所・議会・大統領といった権威の正当性、つまり立憲民主主義の根幹をなすすべての制度・機関に人々が疑いを抱いている
「良き政府Good Government」という表現は以前なら名誉ある表現であり、アメリカ社会が目指すべきものだと一般的に受け止められていたが、今はむしろ冷笑的な眼差しで見られている
目前にあるのは、公共の目的が何にあるのかを再確認し、政府に対する信頼を取り戻すというこの国が抱える大きな課題で、そのためには政治の進め方を改革し、優れた指導者たちのもとで我々の偉大な民主主義に拠って立つ国民的な合意を回復し、維持することが決定的に必要
現行の通貨体制のもとでは購買力という点での通貨の安定性が暗黙の前提にあり、その期待に応え続け、信用を守ることは金融政策が担う基本的な責任
金融には規律が必要であり、現代の中央銀行家たちの間で、物価上昇率の「最高速度redline」設定の合意がなされている ⇒ FRBの場合は、消費者物価関連指数の伸び率の2%を上限と決めている
FRBに留まらず、銀行・金融界を監督する機関すべてに関わる体制上の大きな問題は、いくつもの機関の権限が重複し、政策対応がしばしば矛盾していること
繰り返し金融市場の混乱を見てきた経験から規制改革で2つの優先事項を提案:
1つはボルカー・ルールと言われた銀行による自己勘定取引の規制
2つ目がFRBに大統領指名・議会承認により、監督担当の副議長を置くことにより、ルール作りと監督の責任を分離し、法律で明示的に説明役を担わせ、連邦準備制度全体が確実に監督責任から逃れられないようにすること
良い政府とは? 行政上のマネジメントが的確でなければ、その政策は素晴らしい結果を出せない。政策はマネジメント次第 ⇒ 13年にボルカー・アライアンスを旗上げ、公共マネジメントの調査・研究を後援し、優れた公務員と研究者を結びつけることにより、連邦・州・地方自治体のレベルで一層、良く機能し効率的な政府に向けて新しい取り組みを促進することを信条・任務としている
強い危惧の念を示して回顧録を終えざるを得ない ⇒ 開かれた民主主義社会という理想への挑戦が世界各地で始まっている

エピローグ 力を尽くしてくれた人々


ボルカー回顧録 ポール・A・ボルカーほか著 FRB率いインフレを鎮静
2020/1/11 日本経済新聞
ボルカーは、米連邦準備理事会(FRB)議長として歴史に残る業績をあげ、また、50年余にわたって、内外の政策形成に多大な貢献をした。現下の米国が、「自分たちの国を効果的に統治するという点」で機能不全に陥っていると判断、「良き政府・良き行政」の構築のため、「公共に奉仕してきた数十年間に学んだいくつかの重要な教訓」を提供できればと願い執筆に踏み切ったという。
原題=KEEPING AT IT (村井浩紀訳、日本経済新聞出版社・3200円)
▼ボルカー氏は米財務省金融担当次官などを経て7987年にかけFRB議長を2期務めた。1912月、92歳で死去。
時代を画する重要な経済政策の形成過程を、その中心的役割を果たした当事者ならではの記述で分析する。代表例の第1は、1971年の金・ドルの交換停止(ニクソン・ショック)と変動相場制への移行。変革の舞台を生々しく描写し、秩序ある安定した体制作りを成し遂げられなかった要因を的確に分析する。
2は、FRB議長としてインフレに追い詰められた米国経済を救い出すために、金利ではなくマネーの量の管理を優先した場面。短期金利と長期金利がともに跳ね上がって景気後退・高い失業率と、脅迫がかった反発に直面したものの、徹底した引き締め策でインフレを鎮静させ、米国経済のその後の発展の礎を築いた。
3は、世界金融危機後のオバマ政権の依頼で関わった大統領経済再生諮問会議の議長として、金融機関経営の健全化を目指すいくつかの重要な対応策を取りまとめ、「商業銀行内での投機的な活動の禁止」(ボルカー・ルール)を打ち出したこと。「金融の安定を脅かす潜在的な危険性への注意が足りなかった」という自己反省に基づくと述懐する。
物価の安定、健全な金融、良き政府・良き行政を基本原則とするというのが経験からの教訓だ。デフレを防ぐ手段として「ほんの少しのインフレ」を目指し低金利で容易にお金が手に入る状態を作り出してしまえば本物のインフレを招く可能性があると警告。インフレターゲット政策は理論的に説明できず、達成手段には精度が備わっていないと退ける。
回顧録としては大著ではなく、内容も平易だが、本書のメッセージは貴重でとても重い。政策展開の「場」で実際に何が起きていたのかに関心を寄せる読者にとって、有意義な書と高く評価できる。

《評》学習院大学名誉教授 奥村 洋彦


日本経済新聞出版社  おすすめのポイント
「伝説のFRB議長」による「最後の警鐘」
通貨・金融への信頼、政府への信頼回復のために何が必要なのか。
現代金融の同時代史にして、強い危機感をもとに書かれた未来への羅針盤。
本書への賞賛
「ポール・ボルカーは私の知る最も偉大な人物だ……本書は、彼の人生を詳細に記述した以上のものだ。彼の信条そのものを描いたものだ」(マーティン・ウルフ、FTコメンテーター)
「ポール・ボルカーの発するメッセージほど重要なものはない」(ジミー・カーター元大統領)
「ポール・ボルカーはここ50年以上にわたり、世界経済をより良くするために誰よりもよく観察し、行動してきたアメリカのヒーローだ。この回顧録は必読の書だ」(レイ・ダリオ、ブリッジウォーター・アソシエイツ創業者、『PRINCIPLES』著者)
「本書は、50年以上にわたって世界の金融問題において中心的な役割を果たしてきた人物が打ち立てた金字塔だ」(ジャック・ドラロジエール、元IMF専務理事)
世界で最も尊敬を集めるひとり、ポール・ボルカー元FRB(アメリカの中央銀行)議長が、ほぼ70年間にわたって関わってきた金融・通貨政策について回顧し、金融危機の到来に警鐘を鳴らし、また、公僕として行政に関わることの重要性を後世代へのメッセージとして伝える自伝的回顧録。
ボルカー氏本人による初めての回顧録です。ボルカー氏は誰もができなかった高インフレとの闘いに周囲や社会からの圧力に負けることなく勝利した伝説的な中央銀行家です。銀行危機や世界の債務危機を解決し、FRB議長を退いた後も、最も頼れる人物として数多くの公職に就き、内外の不正や腐敗をただす仕事を成し遂げてきました。
本書では、20世紀後半、ブレトンウッズ体制の崩壊にどのように対処したのか、FRB議長就任後のインフレとの闘いや内外の金融危機への対処が生き生きと描かれるとともに、インフレ目標に固執する金融政策、金融システムの抱えるリスク、金融危機発生への懸念について述べ、人々の政府への無関心ぶりへの危機感が率直に語られます。
ボルカー氏はFRB議長退任後、今日に至るまで、借金(負債)に依存した過剰な消費、過剰なリスクテイクとバブルの発生について、常に警告を発してきました。質実剛健な人柄、直裁な発言、信念を貫く清廉潔白な姿が本書から浮かび上がってきます。
本書は、じつは、次の世代に金融や通貨政策に関わる教訓、政府の役割の重要性、公共の仕事に就くことの意義を伝えたいとのボルカー氏の強い思いから執筆されています。「健全な通貨」「健全な金融」「良き政府」、この三つに世の中の真理はあるとするボルカー氏の信条を語る書でもあります。
20世紀のインフレとの闘いに劇的な勝利を収め、幾多の通貨・金融危機に対処してきたまさに偉大な元議長の回顧録は、現代の金融の世界を理解し、また、民主主義が危機の時代を迎える中で、大切なことは何かを考える上で、公共的な仕事に就いているひと、金融関係者、世の中に役立つ仕事をしたいと考える若い世代の人々にとって欠かせない1冊です。



ボルカー氏が遺した「最後の警鐘」
2019/12/17 23:00 日本経済新聞
ポール・ボルカー氏は128日に92歳で亡くなる前に1本のエッセイをしたためていた。20203月に米国で出版を予定している回顧録のペーパーバック版向けのあとがきである。その内容はまさに彼が鳴らした「最後の警鐘」と言える。共著者は米ブルームバーグ・マーケッツ編集長のクリスティン・ハーパー氏だ。なお、日本語版『ボルカー回顧録:健全な金融、良き政府を求めて』は日本経済新聞出版社から出版されている。
本書を書き終えた2018年の夏の終わりごろには米国が――そして私の生きてきた時代に米国が構築を支えた世界秩序が――根の深い政治的、経済的、そして文化的な問題に直面していることは明らかだった。
それでも私は母の言葉を引いて、少し安心しながら本文をしめくくった。米国は残酷な南北戦争も、二度の世界大戦も、そして大恐慌も耐え抜いた。そのうえで「自由世界」のリーダーとして、つまり民主主義や開かれた市場、自由貿易、経済成長のお手本、モデルとして浮上した。この事実は私にとって誇りと希望の源だった。
母が大切にしていた他国に対するお手本でなくなる
今日、米国の面前にある脅威はより不気味なものになっている。我々がそれに立ち向かえるだけの能力を持ち合わせているのか、自信は揺らぐばかりだ。計画的なのかどうかはさておき、米国民が抱く政府とその政策や制度に対する信頼を傷つけようとする動きが一層目につくようになった。
我々は「政府こそが問題だ」というロナルド・レーガン元大統領の信念が問いかけていた地点よりもずっと先に来てしまった。当時の目標は何十年も続いていた連邦政府の役割拡大の流れを逆転させることだった。
今日、我々が見ているのは、これまでとはきわめて異なり、しかもはるかに邪悪な何かだ。ニヒリズムに染まった勢力は我々の大気、水質、そして気候を保全するための政策の解体を目指している。彼らは我々の民主主義の支柱である参政権と公正な選挙、法の支配、報道・出版の自由、権力の分立に対する信用を落とすことを狙っている。科学を信じる姿勢、そして真実という概念そのものも非難の的だ。
これらを失えば、米国は私の母があれほど大切にしていた他国に対するお手本ではなくなる。これまで絶滅に向かっているかに思われた一種の圧政への逆戻りである。残念なことに世界のより恵まれない地域では圧政が根を張ったままだ。
「根気強く頑張り続けること」が不可欠
原著の中で私はドナルド・トランプ大統領を見ていて、米連邦準備理事会(FRB)の独立性を攻撃していないと考え、そのことに感謝していた。しかし、それはもはや真実ではないし、この表現では控えめすぎるだろう。
2次世界大戦の直後以降でこれほどあからさまにFRBに対して政策をあれこれ指示する大統領を我々は見たことがない。中央銀行は我々の重要な政府機関の一つであり、党派性むき出しの攻撃を受けても守られるよう慎重に制度設計されていることを考えれば、これは大いに懸念される事態である。
私は当のFRBのメンバーたちやFRBに対する監督責任を負う議会の面々たちを信じているし、さらには一般の人たちもFRBの機能を維持してくれるだろうと信じている。党派的な政治目的に拘束されずに、この国の利益のために働くというFRBの機能である。
金融政策は重要だが、それだけではグローバルなリーダーシップを保てはしない。経済の成長と平和的な展望を支えるためには、開かれた市場や強力な同盟国も我々には必要だ。これらの建設的な米国の政策に携わることが私の人生の大部分を占めてきた。ところが、米国において信頼されてきたものが逆に標的になっている。
75年前、米国民は海外における圧政を打破するという挑戦に立ち上がった。我々は苦労して勝ち取った民主主義的な自由を守り、そして維持していくことの必要性を痛感し、同盟国の陣営に加わった。
今の世代の人たちは当時とは違うものの、同様に自らの存在の根幹にかかわる試練に直面している。我々がどのように対応するかによって、我々自身の民主主義の未来、そして究極的にはこの地球自身の未来が決まる。「根気強く頑張り続ける」こと(訳注:回顧録の原題に込めたメッセージ)が不可欠である。休んではならない。


 ボルカー氏が遺した3つの教訓
2019/12/12 23:00
「ポール・ボルカー氏は私が知っている中で最も偉大な人物である。並々ならぬ勇気、高潔、洞察力、思慮、そして国家への献身など、ローマ人が美徳と呼んだものがことごとく備わっていた」――。私は、昨年出版された「ボルカー回顧録 健全な金融、良き政府を求めて」(邦訳日本経済新聞出版社)の書評の冒頭にこう書いた。
イラスト James Ferguson/Financial Times
ハムレットが父について「どこから見ても男の中の男だった。あのような人には二度と会えまい」と語った通り、そう感じさせる人物だった。
この回顧録は、彼が世界に与えた最後の助言だ。そこには米連邦準備理事会(FRB)の議長を務めた男の美徳と価値観が詰まっている。128日に亡くなったボルカー氏をしのび、今日が当時とは違う時代であることは認めながらも、改めてこの二つの資質に思いを致したい。
公僕には能力と人格の両立が不可欠
ボルカー氏の美徳は決して色あせることがない。彼のような資質を備えた公僕がいない限り、そしてそのような人材が必要であることを熟知した国民がいない限り、安定した国政運営は望めない。共和国の語源「レス・プブリカ(res publica)」は文字通り「公共のこと」という意味であり、それを健全に維持する方法はほかにない。国政の任に当たる者には能力と人格が両立していなければならないが、危険なことに私たちはこの事実を忘れかけている。
ボルカー氏の価値観も、美徳に劣らず重要だ。彼は、良き政府、国際協力、財政規律を重視し、そして健全な金融は経済の僕(しもべ)であって、決して主人ではないと考えていた。これらは、彼が公職にささげた長い年月にも、また今日にも当てはまる原則である。
正しかった金融の規制緩和に対する懐疑論
ボルカー氏は、人生で重要な仕事となったインフレとの闘いで、この美徳を遺憾なく発揮し、自分の価値観を貫いた。
忘れられがちだが、当時のジミー・カーター大統領が、ボルカー氏をFRB議長に指名するという勇気ある決断を1979年に下す前、事態は絶望的に見えていた。インフレとの闘いは困難を極め、犠牲も大きく、多くの人がひどい苦しみに直面した。それでも、彼は闘いに勝った。その後、長きにわたってインフレは安定的に推移し、後の世代はそれが当たり前と思うようになった。
ボルカー氏はインフレには勝利したが、それ以外では敗北も喫している。ロナルド・レーガン政権でも再任されたが、同政権の財政・金融政策とはそりが合わず、87年には、時の政権の意向にはるかに同調的なアラン・グリーンスパン氏と交代させられた。ボルカー氏は、金融の規制緩和については後任とは明確に意見を異にしていた。2009年には「この20年で目にした最も重要な金融イノベーションといったらATMだ」と皮肉を放った。
08年のグローバル金融危機は、彼の長年の懐疑論の正しさを立証したといえる。この危機から生まれたのが、金融機関に高リスクの自己勘定取引などを禁じる「ボルカー・ルール」だ。筆者が英国の独立銀行委員会のメンバーだった1011年に、ボルカー氏が来て、このルールについて議論したことがある。そのような規制が果たして効果的なのか納得できなかったが、もっと健全で有用な金融制度を構築しようという彼の情熱は全員がひしひしと感じたものだ。
学ぶべき教訓は「正しいこと」を貫く勇気
では、インフレ退治と公職における並外れた貢献以外にボルカー氏が残したものは何だろうか。まず、中央銀行の独立性がいかに大切かを実証した。また、これと関連するがより広い意味で、最高の資質とモラルを備えた官僚の存在意義も身をもって示した。そうした官僚がそろっていなければ、目先の利益に拘泥する政治家からの圧力をはねつけて国民の信任に応えることはできない。
この二つが今も重要なことは言うまでもない。だがポピュリズム(大衆迎合主義)が横行する現在、米欧の双方で危うくなっている。
とはいえ今日の世界は、特に金融政策に関する限り、ボルカー氏が直面した世界とはほぼ正反対だ。第2次世界大戦後の50年間は、金融政策で対処すべきは需要超過とインフレだった。翻って今日では、需要低迷とデフレだ。ボルカー氏の生きた時代では、金融政策の実行は、政治的には困難でも技術的には容易だった。要するに需要を抑えればよかった。195060年代にFRB議長を務めたウィリアム・マーチンの名言にある通り、「宴もたけなわとなったところでパンチボウルを片付ける」ことが中央銀行の仕事であり、おなじみの方法で金融引き締めを実行すればよかった。
だが需要が弱くインフレ率も低い状況では、中央銀行は金融を緩和しなければならない。ところが短期金利がゼロに達してしまうと、緩和は技術的に困難だ。そこで、「量的緩和」による中央銀行のバランスシート拡大、マイナス金利、現金の直接配布や財政ファイナンス(中央銀行による国債の直接引き受け)を通じたいわゆる「ヘリコプターマネー」といった、あの手この手の非伝統的な政策をひねり出すことになる。
こうした選択肢から選ぶのは困難であり、議論も引き起こす。インフレ退治のために意図的に景気を悪化させるといった政策ほどではないにせよ、中には強い政治的抵抗を招くものもある。
明らかに最も不人気なのはマイナス金利だ。銀行預金に課税されるのと同じだ、と聞けば誰もが激怒する。だが預金にかけなければ、銀行がいわば課税されるのと同じことになる。ゆえに金融業界の強力な利益団体には不人気だし、経済に打撃を与えるとの意見もある。
長期金利が低ければ、年金基金や一部の保険会社の支払い能力がむしばまれ、資産価格が高騰すれば富の不平等が拡大すると多くの人が不満を抱く。そして財政ファイナンスとなれば、無責任財政にお墨付きを与え、中央銀行の独立性を危うくすることになる。
以上のように、今日の課題には、ボルカー氏がとった具体的な対策は参考にならない。だが彼が遺(のこ)した教訓は今なお有効だ。正しいことをすること(もっとも今日は何が正しい選択肢かわかりにくくなっているが)。金融がらみの規制緩和が素晴らしいなどと思わないこと。そして、勇気を持つことだ。今の世界は複雑で、何が起きるかわからない。しかし、これら3つの真実はその輝きを永遠に失うことはない。
By Martin Wolf
(20191211日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/


伝説のFRB議長が鳴らす最後の警鐘 中銀の独立性問う訳者に聞く『ボルカー回顧録 健全な金融、良き政府を求めて』
2019/11/19
『ボルカー回顧録 健全な金融、良き政府を求めて』ポール・A・ボルカー、クリスティン・ハーパー著 村井浩紀訳 (日本経済新聞出版社)
ポール・ボルカー元米連邦準備理事会(FRB)議長はアメリカを代表する賢人のひとりである。世界を大きく揺さぶった2008年の金融危機後の制度改革の際には、ご意見番として担ぎ出され、「ボルカー・ルール」という厳しい規制が実現した。現在92歳のボルカー氏は著書『ボルカー回顧録:健全な金融、良き政府を求めて』(日本経済新聞出版社から日本語版が刊行された)で自らの「公僕」としての歩みを振り返りつつ、今、政策運営に取り組んでいる後輩たちに「良き政府」実現のために奮起を求めるメッセージを送っている。訳者である日本経済研究センターの村井浩紀エグゼクティブ・フェローに読みどころを語ってもらった。
      
巨漢で知られるボルカー氏だが、本書の中では決して偉ぶっていない。若いころの自分はなすべき課題に直前まで取り組まない、先送り型の人間だったと繰り返し書くなど、むしろ小さく見せかけている。しかし学生時代にも、また社会に出てからも、恩師や上司に目をかけられ、引き上げられているあたりからは、ボルカー氏に対する評価は常に高く、周りから抜きんでた存在だったことがうかがえる。
財務省時代に頭角現す
30歳代から40歳代にかけては、財務省の副次官や次官として国際金融の前線を飛び回った。本書では触れていないが、実はこの財務省時代にジョンソン政権ではボルカー氏を「飛び級」でFRB議長に起用する構想まで浮上していた(20194月公開のFRBのオーラル・ヒストリーによる)。
横道にそれるが、翻訳の参考のためにと、ボルカー氏の人となりについて、彼を知る日本人に尋ねて回っていたら、大好きな京都訪問の折に住宅の梁に頭をぶつけ、血を流した話を聞いた。身長は2メートル1センチと確かに大きい。
アメリカの金融政策決定会合である連邦公開市場委員会(FOMC)で副議長を務めるニューヨーク地区連邦準備銀行総裁に就任したのはボルカー氏が47歳の時。そして51歳でFRB議長に就いた。FRB議長時代の功績として最も有名なのはインフレを力づく抑え込んだことだ。しかしその過程では失敗を犯し、FRB内での反逆に遭い、政権からの強力な圧力も受けた。筆の運びは抑制的だが、そのあたりをボルカー氏は包み隠さず記している。
レーガン政権期に衝撃のエピソード
本書の刊行は201810月。当時、原著をいち早く読了した日本銀行幹部に尋ねたところ、最も衝撃を受けたエピソードは、レーガン政権期の19847月にボルカー氏がホワイトハウスに呼び出され、金利を引き上げるなと厳命されたことだと訳者に明かした。最近のトランプ大統領はパウエルFRB議長に対して日銀や欧州中央銀行(ECB)のようにマイナス金利にせよとツイートするほど要求をエスカレートさせているため、驚くような出来事には感じられないかもしれないが、ボルカー氏が本書の中で反駁しているように明らかな越権行為である。
歴代のFRB議長は時の政権との間合いに苦心した。ボルカー氏の3代前のウィリアム・マチェスニー・マーティン氏の場合、利上げに反発したジョンソン大統領から、地元テキサス州の牧場に呼びつけられ、体を壁に押される「暴力」を受けたとされる。ボルカー氏はインフレとの闘いで最も重要な局面で、FRBへの圧力を小言程度にとどめたカーター大統領に敬意を表している。
行政の現状に強い危機感
本書はボルカー氏の自叙伝であると同時に行政の現状に対する強い危機感を表明した書物でもある。最終の第16章「3つの基本原則」がその部分にあたる。ボルカー氏は具体的に「物価の安定」、「健全な金融」、そして「良き政府」を挙げている。このうち良き政府は実に考えさせられる、耳の痛い指摘である。ボルカー氏は母校プリンストン大学の教育内容までマイナスの材料として引き合いに出して、効果的な行政を実現するための努力が今のアメリカに欠けていることが、政府に対する信頼を失わせている一因だと主張する。
確かにアメリカに限らず、ポピュリズム的な言動が横行する国々には共通点がありそうだ。行政は自分たち市民が求めていることを分かっていないし、きちんと機能していない――。そのような受け止めが広がったとき、フェイクニュースやデマゴーグがつけ入る隙が生まれる。財政出動の余地が限られ、また中央官庁などへの就職志望が後退傾向にある日本では、果たしてどのようにしたら良いのだろうか。そのヒントがこの章に隠されている。
原著の刊行は高齢のボルカー氏が体調を崩したため、急きょ、数週間繰り上げになった経緯がある。出版社はボルカー氏のメッセージをできるだけ早く読者に届けるべきだと判断した。幸い、その後、ボルカー氏は元気を取り戻した。最近も8月に、グリーンスパン、バーナンキ、イエレンの後任のFRB議長3人と連名でウォールストリート・ジャーナル紙にFRBの独立性を尊重するよう訴える文書を寄稿した。ボルカー氏は日本版の帯に「最後の警鐘」とうたうことを認めてくれたが、この先も発信を続けてくれることを願っている。
(日本経済研究センター・エグゼクティブ・フェロー 村井浩紀)
著者 ポール・A・ボルカー, クリスティン・ハーパー
出版 日本経済新聞出版社
価格 3,520 (税込み)

Wikipedia
ポール・アドルフ・ボルカー・ジュニア(英語: Paul Adolph VolckerJr.192795 - 2019128)は、アメリカ合衆国経済学者カーターレーガン政権下(1979 - 1987年)で第12連邦準備制度理事会(FRB)議長を務めた。ロンドン大学スクール・オブ・エコノミクスフェロー。FRB議長として、アメリカを襲っていた高インフレに対処するため、政策金利を大幅に引き上げインフレを封じ込めた功績で知られる[1]
l  生い立ち[編集]
1927ニュージャージー州ケープ・メイ英語)で、父親のポール・アドルフ・ボルカー、母親のアルマ・ルイーズ(旧姓クリッペル)[2][3]の間に3姉妹の下の末っ子の一人息子として生まれた。ティーネック英語版)で成長し、父親は郡区の初代区長であった。幼少時、ボルカーは母親の信仰していたルーテル教会に通ったが、父親は米国聖公会の信者であった。父親はニューヨーク州のレンセラー工科大学で土木工学を学ぶ。母親はニューヨーク州北部のリヨンという町の名家の出でヴァッサー大(セブン・シスターズの1つ、後にイェールと合併話が持ち上がり、男女共学に)を総代で卒業。祖父がドイツからの移民
ボルカーはティーネック高校英語版)を卒業し、その後はプリンストン大学政治経済学部、ハーバード大学院で政治経済学修士号を取得
l  経歴[編集]
1957チェース・マンハッタン銀行に出向、同行副社長(1965 - 1968年)を務める。
1969財務省通貨担当事務次官を務める。
1971、ジョン・コナリー長官下の主席財務次官として、ャンプ・デービッドの合意案を起草し、ブレトンウッズ協定による固定為替相場制の廃止に貢献した。
1979カーター政権下で連邦準備制度理事会議長に選任され、1983に続くレーガン政権下でも再任された[5]
19878月、後任のアラン・グリーンスパンFRB議長職を継承。退任後も財務省ポスト、大企業の社外取締役などを歴任し、精力的に活動を続ける。
2004国連石油・食糧交換プログラム」におけるイラクの不正需給(国連汚職問題)を調査する独立調査委員会委員長に就任している。新生銀行のシニア・アドバイザーでもある。
200811月、バラク・オバマ次期政権における大統領経済回復諮問委員会委員長に就任することが決定した。
2019128午後5時、ニューヨーク州にて満92歳で死去[6][7]
l  ボルカー・ショック[編集]
ボルカー指導下のFRBは、1970年代の米国におけるスタグフレーションを巧拙を抜きにして、とにかく終わらせた業績で知られている。連邦準備制度理事会議長に就任した19798月より「新金融調節方式」、いわゆるボルカー・ショックと呼ばれる金融引き締め政策を断行した。
ボルカーの導入した引き締め政策によって、197910月にはニューヨーク株式市場は短期間のうちに10%を超える急落を見せた(ボルカー・ショック)[8]1979年に平均11.2%だったェデラル・ファンド金利政策金利)はボルカーによって引き上げられて 1981年には20%に達し、市中銀行のプライムレートも同年21.5%に達した。しかし、それと引き換えにGDP3%以上減少し、産業稼働率は60%に低下、失業率は11%に跳ね上がった。特に、政策目標をマネーサプライに変更したことから、フェデラル・ファンド金利が乱高下することとなり経済の不確実性が高まったことが、不必要に経済状況を悪化させた。
この結果、ボルカー指導下の連銀は、連邦準備制度の歴史上最も激しい政治的攻撃と、1913年の創立以来最も広範な層からの抗議を受けることになった。高金利政策によって建設、農業部門などが受けた影響により、重い債務を負った農民がワシントンD.C.にトラクターを乗り入れてFRBが本部を置くエックルス・ビル英語版)を封鎖する事態にまで至った[9]
そのような中で引き締めを続けることが困難となり、1982後半、3年続けた金融引き締め政策を断念した。3年間の金融引き締め政策でインフレ率は1981年に13.5%に達していたものが1983年には10%以上も減少し3.2%まで低下するとともに、失業率は大幅に悪化していた[10]。金融引き締めから緩和に転じたことによってアメリカ経済は活気を取り戻し、GDP・産業稼働率は向上し、失業率は低下した。
l  ボルカー・ルール[編集]
2010121、オバマ大統領は自らが「ボルカー・ルール」と呼ぶ銀行規制案を提案した。名称はボルカーによる積極的な銀行規制論に因む[11]。発表の場には大統領と共にボルカーが現れた。このルールは投資銀行に対してヘッジファンド及び未上場企業への投資やそれらの所有を禁ずるもので、自己勘定取引についても制限を加えている[12]
2010224ウォール・ストリート・ジャーナル紙上に超党派の元財務長官5人の連名でボルカー・ルール支持の声明が発表された。連名には、マイケル・ブルーメンソールニコラス・ブレイディポール・オニールジョージ・シュルツジョン・スノーの名が連なっていた。
201036、ドイツでの公演で、投資銀行の自己勘定取引英語版)を制限するボルカー・ルールの導入によって高リスク取引を規制し、投資銀行のヘッジファンド化を避ける事でデリバティブ市場の透明性を確保する必要があると発言した。取引相手がそのリスク負担を十分把握できない状態でリスクの再配分が行われることが、世界金融危機の際にアイスランドギリシャシステミック・リスクを招いたことへの反省を念頭に置いたもの。
2012222フィナンシャル・タイムズ紙に、日本の安住淳財務相とイギリスジョージ・オズボーン財務相が連名で、外国銀行の流動性が損なわれること、国債発行が難しくなることへの懸念を表明した[13]。ボルカーは314日にワシントンであらためてボルカー・ルールの20127月導入を訴えた。同日、英財務省321日にオズボーン財務相が戦時国債英語版)以来の永久国債発行検討を正式に発表する情報を公開していた。
l  人物[編集]
民主党の支持者[14]
ノーベル経済学賞受賞者であるジョセフ・E・スティグリッツは、あるインタビューでボルカーについて次のように述べている。「連邦準備銀行理事会の前議長でインフレを制御下に置いたことで知られるポール・ボルカーは、レーガン政権から規制緩和を進めるには不適任と見られて解任された。」
ボルカーはウォール街関係者による決まり文句に反駁することで知られている。ウィーク英語版)誌の201025号によれば、彼は「金融手法の革新」(financial innovation) が健全な経済に必要だという保守的な考え方さえ買わない。実際、彼の持論の一つは「銀行の革新で有意義だったのは唯一ATMだけだ」である[16]


1210 AFP1970年代・80年代に米国のインフレと闘ったポール・ボルカー(Paul Volcker)元米連邦準備制度理事会(FRB)議長が8日、ニューヨークで死去した。92歳だった。娘のジャニス・ジマ(Janice Zima)さんがAFPに明らかにした。最近では金融機関の画期的な改革でも名を残した。ジマさんによると、ボルカー氏は前立腺がんの合併症により亡くなった。
 民主党員のボルカー氏は、リチャード・ニクソン(Richard Nixon)大統領を皮切りに、民主・共和両党の指導者に助言した。1971年には財務省で米国の金本位制からの離脱を導いた。
 米指導者への助言はバラク・オバマ(Barack Obama)大統領まで続き、ボルカー氏はオバマ政権で、世界金融危機の発生を受けて2008年、厳格な銀行規制を呼び掛けた。
 しかしボルカー氏が最もよく知られるのが197987年に務めたFRB議長としてだ。まずジミー・カーター(Jimmy Carter)大統領、続いてロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領政権時代のFRBトップとして、厳しい時代にもかかわらず世界のエコノミストからの尊敬を得た。
 カーター氏は9日、ボルカー氏の死を受け「深い悲しみ」に沈んでいると語り、ボルカー氏は「公務の巨人」だったと述べた。ボルカー氏の行動により自分は大統領に再選できなかったかもしれないが、それでもボルカー氏の取った行動は「正しいこと」だったと指摘した。(c)AFP/Virginie MONTET

【日本経済新聞社ワシントン=河浪武史】8日死去したポール・ボルカー米連邦準備理事会(FRB)元議長は、最後までインフレの再燃と中央銀行の独立を憂慮していた。1980年代に「インフレファイター」として剛腕を発揮した同氏。経済成長には「物価の安定」「健全な金融」「良き政府」の3つが必要だと主張してきたが、今はそのいずれもが揺らいでいると危惧していた。
「米国は独立したFRBを求めている」。ボルカー氏は8月、そのような題名で、自らの後継者であるグリーンスパン氏らと米紙に寄稿した。批判の的はトランプ米大統領だ。同大統領は「物価は上がらない。ドル高是正には追加利下げが必要だ」と繰り返しFRBに圧力をかける。ボルカー氏には「政策当局がわずかなインフレを許容すれば、真のインフレを招くことになる」と映った。
92歳で死去したボルカー氏は、FRB議長として80年代に公定歩合を20%まで引き上げた。2メートルの長身がもたらす迫力もあって「インフレファイター」と評された。失業率の上昇など副作用も伴ったが、その後の物価と景気の底堅さはグリーンスパン体制に引き継がれ、米経済の復活の礎となった。
政府の一部門にすぎなかったFRBが、強大な権限を発揮したのはボルカー時代からだといえる。79年夏、ボルカー氏は議長就任を打診するカーター大統領に「金融引き締めを進めるがそれでもいいか」と率直に返答した。さらには「FRBの独立性」も求め、それを就任の条件にしたという。
ただ、その後のレーガン政権下では「独立性への挑戦を受けた」とボルカー氏は後に明かす。84年、ホワイトハウスに呼び出されると、レーガン氏との会談の場で首席補佐官から「選挙前の利上げを控えるように」と命じられたという。大統領による「明らかな越権行為」(ボルカー氏)はFRBの歴史に常につきまとう。
87年にFRB議長を退任したボルカー氏だが、81歳だった2009年に再び政策決定の場に復帰する。金融危機直後にオバマ大統領に請われて経済再生諮問会議の議長に就任。金融機関のリスク取引を制限する「ボルカー・ルール」を立案した。
FRB議長として金融引き締めを断行したボルカー氏だが、そこには常に「利上げはデフレに陥る」との批判がつきまとった。同氏は「米国がデフレのリスクに直面したのは1930年代と2008年。いずれも金融危機が原因だった」と断じ、インフレと金融バブルの両方を封じ込めることが長期安定の必要条件だと説き続けた。
プリンストン大の卒業論文に「物価の安定と中銀の独立が経済成長に欠かせない」と書いたボルカー氏は、20代でニューヨーク連銀のエコノミストに起用される。その後、40代の若さで米財務次官として国際交渉の舞台に立つと、固定相場制の崩壊によるドル急落の苦しさを味わった。国際通貨体制の表舞台に立ち続けた同氏は、戦後経済の生き字引といえる。
もっとも、その「ボルカー・ルール」も今年8月に一部緩和された。トランプ政権は金融規制の緩和を選挙公約としており、リーマン・ショックの揺り戻しは早い。ボルカー氏はキャリアの大半を過ごしたワシントンを「公職に仕える者の街から、富と権力の都市へと変わった」と嫌うようになり、最後は生まれ故郷に近いニューヨークで息を引き取った。




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