ほんの数行  和田誠  2020.1.11.


2020.1.11. ほんの数行

著者 和田誠 1936年大阪生まれ。グラフィクデザイナー、イラストレーター、エッセイスト、映画監督。1959年多摩美卒。ライトパブリシティ入社。68年よりフリー。65年雑誌『話の特集』にADとして参加。デザイナーとしてはたばこ「ハイライト」のパッケージ・デザイン、イラストレーターとしては『週刊文春』の表紙、エッセイストとしては『お楽しみはこれからだ』などの映画に関わるエッセイで知られる。映画監督としては《麻雀放浪記》《怪盗ルビイ》でそれぞれ報知映画賞新人賞とブルーリボン賞受賞。他にも文藝春秋漫画賞、講談社出版文化賞、講談社エッセイ賞、菊池寛賞など

発行日             2014.5.25. 初版第1刷発行
発行所             七つ森書館

初出 『週刊金曜日』083月~1212月に隔週連載。単行本化でいくらか加筆

はじめに
『ほんの数行』というタイトルは「たった数行」でもあり、「本の中の数行」でもある。読んだ本の数行を紹介してあれこれ語ろうという趣向。自分が装丁した本に限定
100回で終了

1.     『指揮のお稽古』(本題:(がく)のとき) 岩城宏之
どんなにいいカッコをしたって、音楽が豊かでなければ、その音楽家は美しく見えない
岩城は文章家
指揮という仕事は、すごくインチキな反面を持った商売だという
『週刊金曜日』に連載していたが、次が『裏方のおけいこ』『音の影』『いろはうた』の順で、「わ」の項が絶筆になる。「わ」だから和田がいいとなって対談、途中で体調を崩し、「留守番を頼む」と言われて引き受けたのが「和田誠のいろはうた」

2.     『あの季(とき)この季』 岸田今日子
私は迷子になるのが、そんなにきらいじゃない
自分の俳句をテーマに、あるいは俳句を媒介にして書いたエッセイ集。俳号は「眠女」
かなり重症の方向音痴なので、やむを得ず迷子になったことが多いという

3.     『パパラギ』 ツイアビ(サモアの酋長)
私たちの言葉に「ラウ」というのがある。「私の」という意味であり、同様に「おまえの」という意味でもある
1915年ごろヨーロッパを旅した印象を島の人々に報告した記録をスイスの詩人が翻訳して1920年に出版したもの。77年復刊。日本語訳は81年刊
「パパラギ」とは「空の穴から来た人」の意から、「白人」の意に
白人の生活の違いに驚くというより、呆れて馬鹿にした。なかなかの文明批評

4.     『ハリウッドをカバンにつめて』 サミー・デイヴィス・ジュニア
映写機が回り始めた時ぐらい本物の人生を忘れたい
著者が書いた3冊の本のうちの1冊。映画についての本。映画ファンとしての彼の基本姿勢を述べたのが前記
ジョン・フォードは、「事実と伝説のどちらかを選べと言われたときにはいつも伝説をとった」という言葉を引く。嘘だらけの映画の時代にファンとなって映画を見まくったので、リアリズムが尊ばれる時期が来て、観る本数が少なくなった
ヒッチコックも、「本当らしさを求めて行くと、ドキュメンタリーしか作れない。私はらしさなんか興味がない」と言った

5.     『挨拶はたいへんだ』 丸谷才一
なるほど、弔辞は伝記なんだ
イラストレーター山下勇三の急逝で開いた追悼の会の構成・進行をやり、冒頭の1行を思い出す
丸谷には何冊もの挨拶の本があり、スピーチの苦手な人のお手本としてお薦め

6.     The Scrap(副題:懐かしの1980年代) 村上春樹
正義がどちらの側にあるかなんていうことにはかかわりなく、女性から物を取り上げて幸せになれた男はあまりない
アメリカの新聞・雑誌で読んだ面白い記事を紹介して、自分のコメントを付けたものを連載(8286)。その中の「食品犬」の項目からの引用
空港での食品検査で、「食品犬」の告発で持ち物を没収された女性が逆恨みをする話

7.     『清水ミチコの顔マネ塾』
「大目に見る」というのは私の一番好きな言葉です
文庫化にあたって他誌掲載のものも入っているが大目に見てくれと言っている
顔マネされた本人からも「大目に見ていただく」ことを要求
声マネ芸でスタート、顔マネは南伸坊が先輩

8.     『うらおもて人生録』 色川武大
96敗を狙え
連載(8384)の趣旨は、若い人たちのために人生を語る、だったが、劣等生を念頭に置いて書くが彼らを微塵も軽く見ていない、とことわる
阿佐田哲也のペンネームで麻雀小説を多く書いたが、博打打ちだった若き日に学んだのが冒頭の1行で、50代になってから若者に伝えようというのだ
基本的な考えは、人間の運は誰だって長い目で見ればプラスマイナス・ゼロ、というもの
遊び人の50歳は普通の人の70歳で、俺はそう長くない、と書いて6年後に死去。恐ろしいほど自分を知っていた

9.     『赤塚不二夫1000ページ』
やっぱり自分の才能を気づかせてくれる編集者がいた時に、いい作品が出ます
ギャク漫画に情熱を注ぐ。本は75年出版

10. 『ニューヨーク紳士録』 常盤新平
私はものを書く才能がないことを発見するまでに15年もかかったが、その時には、あまりにも有名になっていたから、もの書きをやめるわけにはいかなかった
50人のアメリカ人を選んで、その人となりやエピソードなどを紹介した中で、もの書きで俳優でもあったロバート・ベンチリーの言葉として引用(孫が「ジョーズ」の原作者)
常盤自身の言葉:ベッドは読書に最適の場所である。3,4ページ読むと、すぐに眠くなるのも有難いことである

11. 『フレドリック・ブラウン傑作集』 ロバート・ブロック編、星新一訳
そのねずみは生まれつきミッキーという名だったわけではない
「星ねずみ」という一篇の出だしの部分。漱石の『猫』を思い出す

12. 『おこりんぼさびしんぼ』(副題: 若山富三郎・勝新太郎無頼控) 山城新伍
「荒くれと純情。豪気と細心。1人の人間の中のギャップというのは、人をひきつけるものなのだろう」
若山富三郎・勝新兄弟について、2人の没後に記した本。山城は2人と親しく、舎弟のような立場。2人は全く違う様相を見せるが、風貌は似ている。黒沢の《影武者》で主役の勝に対し、若山には信玄の兄の役が来たが、「勝は自分を天才だと思っている。黒沢は天皇だから、天才と天皇がぶつかったら火花が散るので、自分は降りる」と言って断ったが、後の降板事件を予見したかのような判断。2人はお互いにライバルだと思っているが、兄弟愛は人一倍強い

13. 『タラへの道 マーガレット・ミッチェルの生涯』 アン・エドワーズ
「わたしは監督だ。しかも立派な監督だ。だから、くだらない映画に自分の名を出すわけにはいかない」
小説を書いたこと、映画化されたことを追ったドキュメント
引用したのは、最初に映画化を依頼された監督ジョージ・キューカーの言葉。映画化権を買ったのはセルズニックというワンマン・プロデューサーで、監督がOKしたシナリオを勝手に描き直すこともしばしばで、キューカーに対し、「君は作者ではなく監督だ。脚本のよしあしは俺が判断する」と言ったのに対する答え。監督はフレミングに代わる

14. 『星新一 空想工房へようこそ』 最相葉月監修
「ほかの作家の場合はどうなのか知らないが、小説を書くのがこんなに苦しい作業とは予想もしていなかった」
星の没後10年に編集されたムックで、いろいろな角度から星の創作の秘密に迫ろうという企画
星の挿絵は、大人向けが真鍋博、年少者向けが僕とほぼ決まっていた
引用したのは、「創作の経路」という文章の1節。締め切りを守り、苦渋のあとを感じさせない人だったが、頭の中だけで物語を組み立て、毎回洒落たオチをつけるのは確かに苦しい作業だったはず
ショートショートを1000篇書いて休筆と宣言したが、各社から1000篇目を我が社にと依頼され、依頼のあった全ての雑誌に1000篇目を渡した(もちろん違う作品)ので、結果的に1000「数」篇で休筆となった

15. 『街に顔があった頃 浅草・銀座・新宿』 吉行淳之介・開高健
「我々の話していることは、ガラが悪いんであって、品は悪くないんだ」
2人が年3回のペースで退団したのをまとめた最初の「美酒について」が好評で、その2冊目だが、なぜか猥談集となり、引用したのは、開高が「品の悪い話」として口火を切ったのに対して吉行の発言
吉行は対談の名手、開高は声がデカく、やんちゃ坊主のような人柄で、食事をしながらの対談でも大声で糞尿譚をする

16. 『悲しき口笛』 寺山修司
少年時代、私は見世物小屋が大好きであった。そこでは安い木戸銭さえ払えば、本物の「悪夢」を見せてくれたからである
没後18年、歌集、エッセイ集などを11冊の文庫シリーズとして刊行。シリーズ全篇の表紙を僕が書く。僕の装丁の第1号も寺山修司の編書
エッセイにフィクションを持ち込んだルール違反が寺山らしい面白さのような気がする

17. 『ぼくはマンガ家』 手塚治虫
僕のペンネームに「虫」がついているのは、オサムシという虫の名を借りたものである
43歳で書いた自伝的エッセイ。ペンネームは小学校5年生でつけたもので、徹底した昆虫マニアだった。大阪医大卒の医学博士

18. 『時間革命』 角山榮
生物は普通体内時計を持つといわれる。しかし、人間だけが時間を意識する
著者は経済史家。時間と時計の研究をする学者
表題の革命とは、700年続いてきた機械時計の歴史が終わり、クオーツ時計の時代になったこと。ああ成程、と思う。「成程」がちりばめられた本

19. 『グッドモーニング、ゴジラ』 樋口尚文
ホンはできても、ゴジラをどういう形にするのか、それが大変だった。決定するのに1か月くらいかかったでしょう
本多監督の少年時代からの軌跡を聞き語りで書いた本。特殊撮影の円谷英二と組んで2作目の《ゴジラ》を撮影した際の準備中の話から引用したのが冒頭。同時期に公開されたアメリカ映画《原子怪獣現る》と同じ内容だが、本多監督はご存じなかったのだろう。本家を差し置いて世界で有名になった

20. 『書くに値する毎日』(副題:日記名作選) つかこうへい・選
日記は自画像である、描かれた日記が自画像で、書かれた自画像が日記である
森鷗外からつかこうへいまで、主に文学者28人の日記(抄録)のアンソロジー
引用は山頭火で、日記の定義として面白い

21. 『むかつく2人』 三谷幸喜・清水ミチコ
「客が北京ダックを選ぶんじゃなくて、北京ダックが人を選ぶんですね」
著者2人が05年からJ-Waveのラジオ番組《ドコモ・メーキング・センス》で対談した抜粋が単行本2冊にまとめられたが、三谷の発言から引用
2人の台本もない、たわいない掛け合いが多く、オビのフレーズは、「仲が良いのか、悪いのか」

22. 『父の背番号は16だった』 川上貴光
たった1年間しか使わなかったのに、今でも川上の赤バット、大下の青バットと言われるくらいだから、相当強烈な印象をファンに与えたのだろう
長男が、父の生い立ちから野球界での活躍、引退を決意するまでを綴ったドキュメント
ある運動具メーカーの宣伝のために1年契約で持ったバットで、CM出演第1号でもある
当時流行っていた並木路子の《リンゴの唄》に結び付けて赤バットとしたが、塗装の技術が未熟だったためにボールに色がついてまずいとなって1年で終わる
銅版画を山本容子に習い始めたところで、厚かましくも、その第1号をこの表紙に使った

23. 『家の匂い 町の音――むかし卓袱台があったころ』 久世光彦
私は、深夜の書斎で耳を澄ます。いろんな本が啼いている
テレビの演出家だが、文章家で、書くのが好きでたまらないという感じを文章から受ける
書くのが好き、という人は、まず読むのが好き、という基本があるだろう
『本棚からつぶやきが聞こえる』という標題のエッセイからの引用。5歳で漱石のリズムに注目しそらんじる、という恐るべき坊やだった
「本には声がある」というのが自論で、本の虫を極めると本も虫のように啼くのが聞こえる

24. 『ぼくらの世界』 栗本薫
この世の中にたくさんの人間がいて、それは男と女、保守と革新、酒飲みと下戸、いろんな風に2つに分けることができるのだけれども、その中に、ひとつ、かなり強力な分類の仕方として、むやみと波乱万丈タイプの人生を送る人間とそうでない人間、というのもあるに違いない、と思う
本名今岡純代。栗本の名でミステリーやSFを、評論は中島梓の名で書く
作者と同じ名前の主人公が、巻き込まれた事件を記述したミステリー。作者と主人公が同じ名であることが知られているのはエラリー・クイーン(2人の作家の共同ペンネーム)

25. 『ナンンセンス・カタログ』 谷川俊太郎+和田誠
人生にはごく小さいくせに、奇妙に心にも体にもひっかかるものやことがあって、棘もそのひとつだ
谷川が思いつくままに単語を選んで、それについて書いたエッセイで、『棘』の項目の出だしから引用

26. 『ワニの丸かじり』 東海林さだお
ワニは人間が食べるものではなく、ワニのほうが人間を食べるものだと思っていた
漫画家だけでなく、文章もとても面白い。『あれも食いたいこれも食いたい』という週刊誌の連載の単行本化で、いろいろなものの「丸かじり」が24冊になった(各冊35項目)

27. 『アシェンデン(英国秘密情報部員の手記)』 サマセット・モーム
彼はぱちんと刃をおさめた。アシェンデンはそれをピストルといっしょにポケットにしまった。「何かほかには?」 「両手があるよ」
スパイ小説。モームも元イギリス情報局部員で、その体験を基にした小説

28. 『これならわかる パソコンが動く』 海老沢泰久
僕は彼らに、その説明ではわからないとか、無意味な専門用語は使ってくれるなとか、様々な注文をつけた。そうしたことは彼らには分かりきったことで、分かりきったことをことさら説明するのはさぞ苦痛だったろうと思うが、分かっていない人間にはその分かり切ったことが分からないのだから、いたしかたない
読んでわかるパソコンのマニュアルを書いてみないかと言われて書いたガイドブックの「あとがき」から引用
触ったこともないパソコンを、エンジニアに操作してもらいながら説明を受け、マニュアルを書いたというので、表紙も猫がマニュアルを読んでいる絵にした

29. 『メイド・イン・オキュパイド・ジャパン』 小坂一也
ちょっとした教祖様の気分になってしまうのは、古今東西を問わずアイドル特有の錯覚である
アメリカのサブカルを全身に浴びて成長した半生を描く。ハッピーエンドで終わらず、成功したために自分が思い上がったいやな人間になってゆくことが反省を込めて書かれていたのに感心。素人離れした絵も描くので、装丁には本人に絵を描いてもらったらとやんわり断ったら、本人が1人で乗り込んできて頭を下げたのには驚いた

30. 『けんかえれじい』 鈴木隆
悲歌(えれじい)といっても、詩情あふれる序奏のようなものはない。さっそく喧嘩の本題に入りたい
漱石の『坊っちゃん』の導入と同じ気分を味わった文章。自伝的な小説で、生涯売られた喧嘩が絶えなかったが、勝っても負けても体と心、人生に傷が残る。「悲歌」たる所以

31. 『イブのおくれ毛(ベスト・オブ・女の長風呂)』 田辺聖子
「そら、マサシゲさんかてしたはるわ。マサツラさんがいてはるもん」
『女の長風呂』のタイトルで6年ほどエッセイを連載、5冊に単行本化
女学生時代のひそひそ話から引用。田辺のエッセイの魅力は、中身ももちろんだが大阪弁を駆使することも大きい。大阪弁そのものがユーモアを含んでいる

32. 『飛行士たちの話』 ロアルド・ダール
わたしは顔面を探ってみたが、手に触れたのは顔ではなく、何か別のものだった
2次大戦での実戦体験を短編にした本の冒頭からの引用
単独飛行中、機体のトラブルで砂漠に墜落した後、意識不明のまま不思議な夢を見て、意識が戻った後の描写

33. 『インタビュー または対談』 和田誠
「お前さんが舞台からいなくなると、なお残影が残ってる。残像というか。残像が残る時のみ、役者は生きている意義がある」
森繁が若い役者に言った言葉

34. 『藤山一郎とその時代』 池井優
こうした不況の真っ只中の8月にコロムビアレコードから発売されたのが、《酒は並みだか溜息か》であった。作詞高橋掬太郎、作曲古賀政男、歌ったのは藤山一郎、いずれもほとんど世に知られない人々であった
藤山一郎の伝記。最初のヒットソングが生まれたエピソードから引用
不況とは、29年のウォール街暴落の煽りを受けた世界的不況のことで、この歌は蓄音機が20万台しかなかった頃にミリオンセラーとなる。藤山はまだ藝大の学生、ヒットのお陰でアルバイトがばれて停学。戦時中も南方に慰問に行って現地で終戦を迎え、捕虜となって収容所で歌い仲間を楽しませた

35. 『ワイルダーならどうする?』 ビリー・ワイルダーとキャメロン・クロウの対話
「私は芸術映画は作らない。映画を撮るだけだ」
若い映画監督のクロウが大先輩のワイルダーにインタビューした内容をまとめた本
ワイルダーが尊敬する監督はエルンスト・ルビッチ。脚本家時代にルビッチ作品の本を書いて、現場で影響を受け、監督になってからも悩むたびに「ルビッチならどうする?」と考えたところのが本書題名の由来
珠玉の名言が満載。「映像で伝えろ。言葉で伝えるな」「作り手は観客の心をとらえて、これから何が始まるのかをしっかり伝えなくちゃいけない。最初の5分はものすごく大切」

36. 『江戸散歩』 三遊亭圓生
・・・・今は無残なもんですな。あの上へずうーッと、高速道路が出来ましたために日が当たらなくなっちゃって、まことにどうも日本橋も昔から考えりゃァ哀れな姿でございますが・・・・
6代目圓生が明治から後の東京のことを語った本。引用した口調が最初から最後まで続く

37. 『子育て、こうしてみたら』 毛利子米(たねき)
「子どもには子どもの人生があり、わたしにはわたしの人生がある」
現役の小児科の医師が、子供を持つ親に寄り添って、親身に相談に乗る、という感じの本
和田家の主治医。普段着で子どもを診る
子どもを持っているが働きに出たいというお母さんへのサジェスチョンが冒頭の一節

38. 『ぼくがカンガルーに出会ったころ』 朝倉久志
訳者という2文字が頭につかない「あとがき」は、これまで1度も書いたことがない
翻訳家として膨大な訳本を出すたびに書いた「訳者あとがき」を含めて自分の言葉で書いた文章を集めた初めての本
カンガルーとは、カンガルーがマークになっているアメリカのポケットブックのことで、学生時代に出会ったことが翻訳家としての出発点であり、翻訳裏話が満載
冗談が好きで、八代亜紀の《雨の慕情》の替歌、「再販刷れ刷れ もっと刷れ 私の印税 もって来い」

39. 『どこまで演れば気がすむの』 吉行和子
私が知らないことがまだいっぱいあるのだ。もちろん素敵なことが! そう思わなくてはやっていけないではないか
吉行初のエッセイ集。父兄(淳之介)妹が文学者なのだから、彼女の中にも文学の血が流れている
「恋愛について」のコーナーからの1節で、「私にとっては、心地よい季節と優しい男は、かけがえのない幸福を与えてくれるのだから」と続く
同じコーナーから、「その人と見る夕焼けは、他の人と見る空と同じ色では困る」

40. 『むかし噺 うきよ噺』 小沢正一
少年時代のよみがえる時、私は生き甲斐すら覚えるタチの男なんです。いうなれば、少年時代オタク
少年時代の思い出や、本業の舞台、映画の現場など、興味一杯の連載が単行本化
僕より7つ年上だから、戦前の空気を十分ご存じ。正しい少年時代を送っている

41. 『すっかり丸くおなりになって』 佐藤允彦(まさひこ)
異なる意見に出会ったときに、自分の心理を制御して相手の言い分にも耳を傾ける「技術」は、家族以外の大人から叱られた子供時代の経験を土台にして出来上がるものだろう
日本を代表するジャズピアニストが雑誌『ジャズライフ』に長期連載したエッセイをまとめたもので、本業の音楽関係が多いが、時に社会時評的な文章も混じっている
実に気難しい人として知られ、ライブハウスで客がうるさいのでステージを降りたり、海外ツアーで事務局が約束を守らないので帰って来たとか、武勇伝が多い
数年後、やかましい客がいたライブでの終演後、ああいう客の前ではやりにくいということを穏やかな口調で店長に言ったときに、ヴォーカルの後藤芳子に「まあ、すっかり丸くおなりになって・・・・」と言われたのが題名になった

42. 『井上ひさし全選評』 井上ひさし
なんといっても文章は頭の中身の反映ですから
井上が選考委員を務めていた選評を収録した本だが、引用したのは95年講談社エッセイ賞のもので、受賞者は『ブタの丸かじり』の東海林さだおと、『本が好き、悪口言うのはもっと好き』の高島俊男。「2人に共通するのは、うんと柔らかくて、うんと細かく働く頭を持っているに違いない」に冒頭の1節が続く

43. 『人は大切なことも忘れてしまうから(松竹大船撮影所物語)』 山田太一ほか
過去がきれぎれになることは、自分がきれぎれになることともいえるのだった
山田の編集後記にある数行を引用
忘れるのは値打ちのない事柄だと考えていたが、あるきっかけで大切なことも忘れてしまうことに気付き、冒頭の一節を感じて、撮影所時代のことを記録するために、昔の仲間の協力を得て監督は俳優、スタッフにインタビューしてまとめた本
多くの人が松竹映画の人気の中心だった小津監督を語っているが、完全主義者で四角四面のところを評価した人もいれば、馴染めない奴もいた

44. 『ビートルズの社会学』 朝日新聞社編
高校野球が終わって選手たちが泣けば大人は感動するが、ビートルズが終わって少女たちが泣けばおかしいと言う。少しもおかしくはない。原理は同じだ。いいじゃないか
30年前の来日時の熱狂ぶりの回顧録で、そのうちの遠藤周作『ビートルズ・ファンを弁護す』より引用
当時、ビートルズは若者たちが熱狂していたが、「不良少年の音楽」と決めつける大人も多かった。エッセイを書いた大佛次郎、三島由紀夫ともども関心もなかったが新聞社などに依頼されるまま公演観覧記を書いたのだろう。若い子の熱狂に呆れつつ、「まあいいじゃないか」という感想を持ったようだ

45. 『島唄(副題:オキナワ・ラプソディ 登川誠仁伝)』 森田純一
「わしは放送局とかでもリハーサルとかあったらテレビに出ない人なんですよ」
島唄の第1人者の聞き書きによる自伝であると同時に、戦前戦中戦後の沖縄の姿を書いたもの。戦争による沖縄の悲劇は中学生で体験したが、楽しんでいる風もある。戦後の話では、「戦果」とは米軍の施設から物を盗むということで命がけの行為
何を歌うかも出たとこ勝負なので、プログラムの都合があるから困ると言われたらテレビには出ない

46. 『ニューヨークは闇につつまれて』 アーウィン・ショー 常盤新平訳
「あなたはヒトラーを殺すわけじゃないのよ。せいぜいあなたと同じような若者を殺すだけだわ」
11の短編小説集。『未来に流す涙』からの引用。第2次大戦でアメリカが参戦する直前、映画館から出てきた若いカップルの会話で、「ヒトラーの世界では生きたくないので参戦したら最初の日に志願する」と言ったのに対して恋人が言った言葉

47. 『ハマクラの音楽いろいろ』 浜口庫之助
人間は、肉体という車に、精神という運転手が乗っているようなものだと思う
死の直前2年くらいに書いた原稿を、没後1年でまとめたもの。人生論的な部分もあり、引用は死の予感についての項目から。このあと「年とともにすり減って、ある日どうしようもなくなって、えい面倒臭いと車からポイと飛び降りる――これが死ではないだろうか」と続く

48. 『バーボン・ストリート・ブルース』 高田渡
人間は、何かコンプレックスがあると、ほかの方法でそれを乗り越えようとする。その方法というのが僕にとっては歌だったのかもしれない
フォークシンガーの自伝的エッセイ。彼のコンプレックスは小さい頃の吃音
18歳で作った《自衛隊に入ろう》で知られるようになったが、自衛隊賛歌のようで実はその逆説になっている不思議な歌

49. 『ダウンタウン』 エド・マクベイン
眠ることができなければ夢を見ることができないし、どっちみちすべての夢は永遠に死に絶えてしまった
87分署』のシリーズでお馴染み
ベトナム戦争の苦しかった戦地の思い出に加え、帰還して結婚したが妻の浮気で離婚。冒頭の1節はそれらのことを述べている

50. 『サタデイ・ナイト・ムービー』 都筑道夫
B級映画はB級映画らしく、推理映画は推理映画らしくなければならない。推理小説を原作にしてお涙頂戴の映画を作っていたりすると、腹が立ってくるのである
映画評論集のあとがきの1節。なかなかのウルサ型。「お涙頂戴の映画」は《砂の器》のことで手厳しい。《男はつらいよ》に対する評も、「日本にはいい喜劇役者は出るのに、いい喜劇作家が出ない。渥美清に林家三平の落語みたいなことばかりやらせておくのは日本映画の損失だ」とも

51. 『話し上手 聞き上手』 遠藤周作編
「漫画家の気分一つですよ。このやろうと思って書いてりゃ、ろくな顔にかかれないに決まってる」
徳川夢声ホストの連載対談集から。夢声が「政治家の顔も漫画にかかれたのを見る方が写真よりすぐわかる」という語りに対する時の首相・吉田茂の言葉を引用

52. 『真説 金田一耕助』 横溝正史
作者と物語の主人公とのあいだには、そのつきあいが長ければ長いほど、こまやかな愛情が通いあうものなのである
1年間のエッセイを単行本化。当時70歳半ばながら大ブームの最中に
冒頭の1節は、アガサ・クリスティとエルキュール・ポワロの関係について述べたものだが、自分と金田一耕助の関係も同じだというわけ

53. 『再会の手帖(サブタイトル:また逢いたい男たち)』 関容子
「僕は撮影前にいろんな演技パターンを考えていきます。それを11つ消していって、やっぱり素直に演じることに行きついてしまう。すると結局、何も考えないでボーッと演じるように見えちゃうのかな」
引用したのは池部良の言葉。達者な文章を書くエッセイストでもあった

54. 『高説低聴』 常盤新平インタビュー集
「男の人がステキだなあと思うのは、お金を出すときと、髭を剃るときと、死ぬときですね」
14人の作家とのインタビューの単行本化したものから、向田邦子が「男の美学」について語った言葉
「お札になる人と切手になる人は、ドラマでも絶対に書くまいと思っている。いやなんですよ。つまり、偉い人っていうことですけどね」とも言う

55. 『五音と七音の詩学』 大岡信
俳句は多くの教師、医師、会社員の哀しき独白である
5人が日本語についての論文やエッセイを選んだ全5巻のアンソロジー「日本語で生きる」の1つがこの本で、短歌、俳句、詩がテーマ

56. 『インタビュー ジョン・フォード 全生涯・全作品』 ピーター・ボグダノビッチ
「インディアンは本来たいへんに威厳のある民族なのだ。たとえ敗北の最中でもだ」
映画ファンからっ批評家を経て映画監督になった若手が71歳の巨匠にインタビュー
冒頭の引用は、コマンチ族に連れ去られた身内の少女を追って10年も旅を続ける男を描く《捜索者》に関してのコメント

57. JAMJAM日記』 殿山泰司
読書というものは難しいもんだ。この難しさも読書の妙味であろうか。余計なことを心配するなッてんだ。一番いいことは本なんか読まねえことだぜ
エッセイストとしてはユニークな文体で知られ、本も多い。ミステリを読んだことが記された中で、『死者の舞踏場』が複雑で難解で、途中で投げ出してしまったという記述の中の1
映画もよく見るし、ジャズも好き

58. 『動物との日々』(アンソロジー『人間の情景』より) 文藝春秋編
日本人の恋愛はつつましやかなのにどうしてネコだけ派手に騒ぐのだろう
開高健の『まずミミズを釣ること』より引用
釣り好きで釣りをテーマにしたエッセイは、イギリス人は蛙の鳴き声を聞いたことがないという話から始まり、ついでにネコもイギリスではひっそりしていて春の宵もおとなしい、と続き、冒頭の1節になる

59. 『モテたい脳、モテない脳』 澤口俊之・阿川佐和子
「女は3歩下がって」というのは、男を働かせて自分が安定した暮らしを送るための女の知恵だったんじゃないかと思うんです
阿川が脳の専門家に講義を聞いた記録
専門家の説明を読者のためにうまくまとめた1節で、先生も「その通りです」と答えている

60. 『ヘンリー・フォンダ マイ・ライフ』 ハワード・タイクマン
埃、背景のキャンバスと新しい塗料とドーランのにおいは、俳優にとって香水のにおいと同じだった
ノンフィクションライターが書いた伝記。序文には「ここには欠点も含めて、私のすべてがある」と書いている
冒頭の引用は、舞台の《ミスター・ロバーツ》に出演中、劇場の楽屋入口から入ってゆくフォンダを描写した部分

61. 『つかへい腹黒日記』 つかこうへい
「売れる売れないは関係ないんだ。文学をやるんだ、オレは。いいか、オレは行動すると派手だから、題名は地味でいいんだ」
劇団を作り、自ら演出。台本なし、口だてでセリフを作り上げてゆくという、独自(と言うか古典的軽演劇の)手法で、ユニークで攻撃的な舞台と次々見せ、人気を博す
冒頭の数行は、彼が原稿を書いていると、角川の担当編集部員だった見城徹が来て、題名の『銀ちゃんのこと』を見て「なんで、『蒲田行進曲』にしないのか。地味な題名より絶対に売れる」と言ったのに対する反論

62. 『だれがコロンブスを発見したか』 アート・バックウォルド
アメリカの娘をパリに行かせる場合にはもろもろの危険が伴うが、その1つは彼女が家へ帰りたがらないということである
この本はアメリカのコラムニストによる『バックウォルド傑作選』の第1冊目で、その中の「いとしのメアリよ帰れ」と題したコラムの冒頭の部分。当時パリ旅行をするとパリがすっかり気に入って帰ってこなくなるという時事的現象があちらであった

63. 『からだことば』(副題:日本語から読み解く身体) 立川昭二
その世代は「腹が立つ」と、本当におなかが痛くなったものです。「頭にくる」と本当に頭が痛くなった。では、「むかつく」という若い人たちは、いったいどこが痛くなるんだろう
早稲田で史学を学んだ歴史家で、文化史の視点から医療について研究する
「からだことば」とは、体の部位の名称を含んでいる言葉のことで、若い人たちから「からだことば」が消えてゆくことを心配。中に潜む歴史や文化まで消え兼ねない
「からだことば」が生きている時代は人間関係がスムーズな時代であり、人それぞれがいい感じに生きる時代なのではないかというのが自論

64. 『街のはなし』 吉村昭
「抵抗しても無駄だ」と、閉じこもった犯人にメガホンで警告する警察官の言葉は、結婚生活にもそのままあてはまる
箸袋に書き留めたエッセイの素材を基にした市井の人たちの軽妙なスケッチが見事
冒頭の数行は、『結婚適齢期のこと』と題したエッセイの中からの引用で、戦前は娘が20歳を過ぎると親が慌てたが、今はもっと遅くなってもおかしくない。いい傾向だという

65. 『私の大事な場所』(2005年刊) ドナルド・キーン
便利さが人間の最高の目標になってよいのでしょうか。私はむしろ、文化は不便の上に立つものではないかと思います
日本文学研究者のエッセイ集から、『漢字が消える日は来るか』と題した講演の一部で、最後は「漢字の消える日が永遠に来ないことを祈っている」というのが結びの言葉

66. 『酒と肴と旅の空』 池波正太郎遍
どぜうなんて書くのは、法度だろう。どじょうと書くのかも知れないし、また、特に旧かな使いを主張する小生ではないが、泥鰌だけはどぜうあるいはとせうでないと、食い気が起こらない
食に関する文章のアンソロジーで、獅子文六『どぜう』よりの一節

67. 『はじめて話すけど…・』(副題:小森収インタビュー集) 
「役者ってすごいんですよね。誤訳が分かっちゃう」
小森はフリーランスの編集者。冒頭は、松岡和子の章『戯曲を翻訳する幸せ』からの引用。シェイクスピア戯曲の翻訳家。役者は、誤訳を指摘するのではなく、言葉の繋がりが気持ちよく流れていかないと言って説明を求めてくるが、よく原文を読むと翻訳が違っている。今や、1回役者の身体を通らないうちに活字にするのは怖い、という。松岡は必ず稽古に立ち会うそうだ

68. 『天気待ち』(副題:監督・黒澤明とともに) 野上照代
黒澤さんは満足そうにスタッフを振り返り、「さ、おれは帰るぜ。今夜は祝杯だな。あとは火消しを頼む。お疲れ!」と車に乗り込み、百万ドルの笑顔を残して走り去った
野上は大映京都撮影所のスクリプターで、カットごとの状況を記録し、齟齬のないよう目配りする役割。『羅生門』が黒澤との出会い。黒澤の後期の作品ではプロデューサーまでやり、片腕とも女房役とまでもいわれた
冒頭の数行は、『乱』のラスト近く、城の炎上場面を撮り終えた後の描写
絵も上手な野上の絵を表紙に使ってデザインした装丁

69. 『ジェームズ・キャグニー自伝』 ジェームズ・キャグニー
私のハリウッド生活になにが起ころうと、すべては束の間のはかない出来事なのだと私は考えていた。だから、ただ、ひとつの仕事をやっていくことだけしかなかったのだが、それが、たまたま、うまくいったのである
1899年生まれ。腕白少年がダンサーを経て映画に。ギャング役が当たってスタアになる
自らを「Song and dance man」と言い続け、ブロードウェイ・ミュージカルの草分けとも言うべきジョージ・M・コーハンの伝記《ヤンキー・ドゥートゥル・ダンディ》でアカデミー賞主演男優賞を取る。《ゴッドファーザーPart II》に出演依頼されたが断り、《ラグタイム》に特別出演した後死去。享年86

70. 『記憶のちぎれ雲』(副題:我が半自伝、最近単行本化) 草森紳一
とかく記憶なるものは、なにか物に触れて、突然として刺客のように襲いかかってくるところがある。ささいなものもあれば、奇怪なものもある。いろいろである
婦人画報社の編集者だった時に会った中から1組の夫婦を含む6人との交流を綴ったもの
04年から3年間に連載され、終わって1年も経たないうちに死去

71. 『モンローもいる暗い部屋』 和田誠編
試写室で映画を見ることの利点として、まず第1に、ただということが考えられるが、ただほど高いものはない、という古くからの言い伝え通り、試写会で映画を見るということは、その映画について書くという高い代償を支払わされることになる
『エッセイ おとなの時間』というアンソロジー・シリーズの1冊、映画編の一部を受け持ったときに収録した金井美恵子の『映画館のたのしみ』より引用
僕も最初はただというのではしゃいでいたが、映画配給会社の人に見つかって金井と同じ目に遭うようになって以後は試写室に行っていない

72. 『昔も今も』 向井敏
17世紀のイギリスの風刺詩人サミュエル・バトラーの説によれば、人間の想像力のあるなしは猫に命名する能力で知れるという
優れた書評家、エッセイストが80年代の初めころに連載したエッセイをまとめたもの
冒頭の数行は、自分の飼猫スージィについての項からの引用。「想像力の貧しさを宣伝するような名前だが、苦沙弥先生よりはましかもしれぬ」と書く

73. 『眠れない時代』 リリアン・ヘルマン
アメリカでは、過ちを覚えているのは不健康、それについて考えるのはノイローゼであり、ずっと考え続けたりすれば精神異常とみなされる
劇作家、シナリオ作家(190584)。反体制的な思想の持主であり、マッカーシズム旋風の時代には収監されていて、題名はまさにその時代を指している
冒頭の数行は、そういうひどい時代のこと、ニクソンのウォーターゲート事件などが、アメリカでは忘れ去られようとしていることに対する怒りの文章
ヘルマンはこの本の最後を次の文章で結んでいる:
私の人生のこの不愉快な部分について書いてきた。終わりにあたり、私は自分に言いきかせている――これは過去のことであり、いま現在がある。そのあいだには歳月があり、当時と今は一つのものなのだ――

74. 『人生途中対談』 東海林さだお・椎名誠
「冷蔵庫の中を見ると、その家の主婦の正体というか、考え方なんかが、全部分かってしまうんじゃないかなと思った」
「食べること」に関心の高い2人の対談集。冒頭の1節は椎名の発言
章扉に「魚介月旦」と記された不思議な対談もあり、人間社会の企業だったら魚介類はどんな役割を果たすかというもの。タイは経営者側だがエリート意識が強くて社員に嫌われる

75. 『圓楽 芸談 しゃれ噺』(06年刊) 三遊亭圓楽
「まあざっと50年は食えませんよ」
若き日の圓楽が6代目圓生に弟子入りを願い出た時の圓生師の断りの1
刊行の3年後に逝去したので、晩年までが記された自伝

76. 『どくとるマンボウ昆虫記』(新書版、63年刊、オリジナルは61年刊) 北杜夫
トンボがいたら子供たちよ、追いかけろ。それが子供であり、残された最後の本能というものだ
文学と医学の他に若い頃は昆虫採集が趣味。昆虫に関してはシリアスに記述

77. 『書物の旅』 逢坂剛
どんな職業でもそうだが、人は作家に生まれつくのではなく、作家になるのである
書評と書物に関するエッセイを集めた本から、「読書の楽しみ」と題されたエッセイの一部
もともとハードボイルド、冒険小説の作家で、スペイン嗜好は作品にも現れている
作家としての心得は、「優れた小説が必要とするものは、読者に次のページをめくらせる《仕掛け》である」
『本に埋もれて死ぬ』と題するエッセイでは、「本の山に埋もれて大往生できれば、本も私も本望だと思う」

78. 『映画とは何か』(副題:山田宏一映画インタビュー集)
「クロサワとオーソン・ウェルズとゴダールという3人の全く資質の異なる大監督が同じテーマに取り組むのは非常に興味のあることです。老残、そして権力の座からの転落…《リア王》は男たちの偉大なテーマなのですね」
映画評論家のインタビュー集から、ジャンヌ・モローの言葉として引用
黒澤作品《乱》が『リア王』の翻案であり、ほかの2人もその映画化を企画していることを知っていたからの言葉だが、企画は実現したのだろうか
映画音楽のカーマイン・コッポラ(フランシスの父)の言葉、「最近の映画は映像の力を欠いてせりふばかり」

79. 『漱石先生ぞな、もし』 半藤一利
歴史に「もしも」はないが、正岡子規と漱石が知り合わなかったなら、漱石は松山へ行くことも無かったろうし、必然的に『坊っちゃん』は日本文学史上に形をとどめなかったことであろう
「歴史探偵」を自称する半藤は漱石研究でも有名。奥様が漱石の孫娘
漱石という雅号は子規から譲り受けたことや、『坊っちゃん』の各登場人物にはモデルがあってそれぞれの実名もこの本で明かされている

80. 『仕事場対談』(副題:和田誠と27人のイラストレーター、9600)
「やっぱり講談社の絵本が原点だと思うね。講談社の絵本も江戸川乱歩も南洋一郎もなかったら、どんな子どもになったんだろうな。魚釣りとセミ採りばっかりでさ、文化じゃないもんね」
相手の仕事場での対談集から、横尾忠則の言葉を引用。僕と同年でほぼ同体験

81. 『映画 この話したっけ』 森卓也
映画の中には見ていて気づかないウソ、演出としてのウソがいくらもある
映画評論家、特にアニメに詳しい
冒頭の映画の中のウソについて、黒澤作品『羅生門』を例に挙げる。次のカットで意識して役者の位置を変えて心理を伝えようとした。うっかりミスの例は、《ローマの休日》で、スペイン階段を下りてくるシーンで背景の時計台の時間が大幅にずれている

82. 『ローカル・カラー/観察記録(犬は吠えるI) トルーマン・カポーティ/小田島雄志訳
規律を守ることが芸術家として生きのびる道と心得ていたために、彼は長続きした。彼は歴史に名を残した
若き日の4650年に書かれたエッセイ集。人物評で、ハンフリー・ボガートについて記した最後の部分

83. 『和田夏十の本』 谷川俊太郎編
私には明日のことが今日のことのようによく分かる。まじまじと想像できるのである。だから明日泣くのはよそう。明日になって泣きたくない。
ある人に何かを求めても得られなかったなら深追いしないほうが良い。なぜならその人はあなたが求めているものを持っていないからである
シナリオライターで市川崑夫人の夏十が78年に書いた未発表エッセイの一部。18年にわたる癌との闘病生活中のもの
夏十がファンだった俳優ロバート・ドーナットからペンネームをなっとにしたそうだ

84. 『ニール・サイモン戯曲集 I
オスカー その口をとんがらすのはやめてくれ。喧嘩したいなら喧嘩しようじゃないか。だがふくれるのはやめてくれ。喧嘩ならおれの勝ちだ。ふくれっ面ならおまえが勝ちだ!
アメリカの劇作家の『戯曲集』から『おかしな二人』より
神経質できれい好きなフィリックスと、豪放なオスカーとの2人暮らしが始まるが気が合わない。その衝突が冒頭の数行のオスカーのせりふ

85. 『ゴリラのさびしい日』(副題:小薗江圭子エッセイ集) 小薗江圭子
ちっとも本を読まないくせに、読まなきゃならないと、あせっています。特に名だたる名作を、私は早く読まなきゃだめなんです。私が読むより前に、映画になると困るんです
ユニークなぬいぐるみを作る人で、表紙には彼女のゴリラのぬいぐるみを描いた装丁
彼女の詩に森山良子が曲を付けて歌ってヒットしたのが《この広い野原いっぱい》
冒頭の数行は、『今日は早寝』と題されたエッセイの出だし

86. 『あゝ人生日記』(副題:大人の絵本) 吉行淳之介・丸谷才一・野坂昭如
野坂 いま文豪が突然死んだら、まず文藝春秋はどうするか。葬儀委員長の人事をいろいろ考えるであろう。新潮社はどうするか。遺児に書かせろというだろう。講談社はどうするか。賞をつくろうと選考委員を重役会の議題にする
吉行 楽屋落ちだけれど、うまいね
野坂 中央公論はどうするか
丸谷 全集を出そうとするのかな
198082年にかけての連載の単行本化にあたって3人の作家+僕で座談会をやった時の一部が冒頭の数行。文壇ゴシップがテーマ

87. 『日本語相談 1 』 大野晋・丸谷才一・大岡信・井上ひさし
手紙を書くのに1度も苦労したことがないという人は、世界中探しても多分1人もいないはずです。もしそんな人がいたら、その人は気楽な手紙だけしか書かないようにしている幸せな人でしょう。そういう人の手紙は、想像するに、人を感動させることもまずないでしょう
ボールペンは筆ではありません。しかしいまだに筆記用具と呼ばれています。もう米で作らないのに乗り、使っているのは紙幣なのにお金、象牙でも竹冠をかぶせて箸、布製でも靴、クジラは哺乳類なのに魚偏をつけて鯨という具合です
8690年の連載を単行本化。一般の読者から日本語にまつわる疑問を投稿し、言葉に関して造詣の深い4人が解答を書くという、面白くて役に立つ企画
最初の1節は、人の心に響く手紙を書く秘訣を問うた読者への大岡信の回答
次は、蛙や蛇など虫以外の生物に虫偏をつけるのはなぜかという問いに対する井上の回答
岩城宏之からの質問は、寝坊して「もう3時よ」と奥さんに起こされ、時計を見たらまだ1時半だったので「嘘をつけ!」と怒ったら、どうして「嘘をつくな」というところを「つけ!」と怒鳴るのかとからまれた、とあり、大野の回答は、「省略によって成立している決まり言葉の1つで、「(見えすいた嘘をつくなら、いくらでも)嘘をつけ」という気持ち、嘘はお見通しだぞと相手に決めつける言い方」だという

88. 『風雲摩天楼秘帖』 山下洋輔
古今東西、時代の風は若者にさらわれていくものだ
ジャズピアニストが、ジャズについて述べた1行で、「あらゆるジャンルにおいて」と入れてもいいほどシリアスな名言
大学生の兄の影響でシカゴスタイルのジャズが好きになる、シカゴスタイルは、ジャズ発祥のニューオリンズのスタイル(いわゆるデキシーランドジャズ)が一歩新しくなったスタイルで、それがスイングジャズに変化し、さらにモダンジャズが生まれた
モダンジャズの一世風靡が山下少年にとって時代の風だった
本書は1週間にわたってニューヨークのジャズクラブ「スイートベイジル」に出演した記録エッセイ。他にも引用すると、「音楽をやるということを通じてその街と触れ合うことが確かにできる瞬間があるのだ」

89. 『今日も映画日和』 川本三郎・瀬戸川猛資・和田誠
S 意味がわかればまだいいけど「ユージュアル・サスペクツ」なんて、なんのイメージも湧かないでしょう。「マーズ・アタック!」なんか、昔ならどう考えたって「火星人襲来」で決まりですよ
映画マニアの3人が映画について1年間語り合った連載の単行本化。連載の第1回目に映画の日本題名の話になったくだりで、カタカナの邦題が流行るのはよくないと文句を言っている中の1
誤訳の話になって、瀬戸川が「極め付き」は《友情ある説得》だという。原題は《Friendly Persuasion》で人殺しを厳しく禁ずるクエーカー教徒の一家が南北戦争で息子の徴兵に悩む話であり「フレンドリー教会の宗旨」が本来の意味だとは知らなかった
ハリウッドを「聖林」と書くが、hollyは柊のことで、本来は「柊林」。「聖林」のほうがきれいなので素晴らしい誤訳

90. 『古典落語・志ん生集』 飯島友治編
(せん)はあたくしァ本所の業平ってところにいた時分にゃね、ひどい蚊でね、何しろうちの前に蚊柱がこう立ってんです、えゝ。だからいま帰(かい)ったッ、て言う途端に、蚊が5匹ぐらい口ン中へとびこんで口なんぞきけませんな
文庫シリーズの1冊目。全巻揃えると古典落語の重要な項目がそれぞれ名人の語り口で再現されているのが読める
シリーズは、「まくら」から収めてあり、冒頭の数行は《疝気の虫》を始める前の「まくら」だが、「まくら」は演者の気分次第のアドリブ

91. 『クマさんのやっぱり役に立たない人生相談』 篠原勝之
それにしても、なんとまあ、ヒトの悩みは深刻であればあるほど滑稽であることか
でっかい鉄のオブジェを作る自称「ゲージツ家」のニックネームがクマさん
人生相談の回答者になった記録の冒頭からの引用

92. 『字幕の中に人生』 戸田奈津子
世界の国々で外国映画を上映する場合には、ほとんどが吹き替えで、字幕が主流をしめているのは日本だけである
「字幕」は無声映画時代、侍がしゃべっていても何を言っているかわからないので、寄らば斬るぞといった文字だけのカットが挿入されたのを指したが、現在では外国映画のせりふの翻訳が画面の片隅に現れるのを指す。日本初登場はゲーリー・クーパーの《モロッコ》
自分史に加えて、字幕翻訳の苦労話を綴る
字幕派と吹き替え派は、映画ファンの間でしばしば議論の対象となる話題

93. IFの世界』 石川喬司
書を捨てよ、町へ出よう――と詩人は歌った。町へ出て、若者たちは、何か面白いことはないか、とあたりを見回す。しかし、面白いことが起こる町は、本当は捨ててきた書物の中にあったのだ・・・・・
SFミステリー作家の77年からの1年間のコラムをまとめた、SFについての本の「あとがき」の1節。詩人とは寺山修司のこと
「もし(IF)の視点からSF案内をこころみた」と例を挙げる。「もし山手線に乗って窓の外を見ると、そこに津軽海峡が広がっていたら?」

94. 『三毛猫ホームズの談話室』 赤川次郎
「怖いなと思うのは、今もそうかもしれないということです。あの映画を観た時に思ったんです、戦争は知らないうちに始まってしまうんだなと」
話を聞きたいと思った12人のゲストとの対談集から、大林宣彦監督との対談での赤川の発言で、話題にした映画とは42年の《母の地図》で、没落した大地主の子孫が満州に行くのがハッピーエンドだった

95. 『マイ・コレクション』(副題:18 Books 12 Cinemas) 大島渚
画家が自画像を描きたがるように、映画もまた映画の自画像を描きたいのだった
章題の1部が「ブラボオ・ブック」で、2部が「ビバ・シネマ」。監督の書評と映画評の集大成。70年代に書かれた連載
冒頭の数行は、映画《ラスト・タイクーン》について書かれたエッセイの書き出し部分
映画を題材にした映画は各国でたくさんあるが、《ラスト・タイクーン》はスコット・フィッツジェラルドの遺作と言われる小説の映画化で、エリア・カザン監督作品

96. 『ねぼけ人生』 水木しげる
ぼくにとって、空想の世界だけが、本当の生きる世界なのだ
漫画家の自伝。悲惨な戦中記の中でも土人(現地=土地の人の意)との交流を描いた文章は心暖まる思いがする。冒頭の数行は結びの言葉。戦争体験から、現実の人生に期待していなかったそうだ

97. 『思考のレッスン』 丸谷才一
文筆業者は、まず第1に、新しいことを言う責任がある。さらに言えば、正しくて、面白くてそして新しいことを上手に言う、それが文筆家の務めではないか
質問者の問いに答える形でできた本で、読書のこと、文章を書くことについて語っている
丸谷の評論やエッセイにおける発想の斬新さの秘密は何かとの問いに対する答えが冒頭の数行
本の読み方の最大のコツは、その本をおもしろがること、その快楽をエネルギーにして進むこと
文章を書くコツは、ものを書くときには、頭の中でセンテンスの最初から最後のマルのところまでつくれ。つくり終わってから、それを一気に書け。それから次のセンテンスにかかれ
行き詰まったら? いろんな手があるけど、一番手っ取り早くて、役に立つのは、いままで書いた部分を始めから読み返すこと。急がば回れで、いままで書いたところを読み返す、これが一番早い

98. 『クリスマス・ウォッチング』 デズモンド・モリス
クリスマスツリーは、キリストとはおよそ無関係なのである
イギリスの動物学の先生が、クリスマスに関する様々な質問に答える形で書かれた本
クリスマスツリーの起源についての設問に応えたのが冒頭の数行
モミの木を飾るのは、その昔異教徒が木を崇拝していた名残で、崇拝していた木をモミに変えて布教する工夫をしたらしい。サンタクロースの衣装は、コカ・コーラ社のお陰で、1931年同社が販促キャンペーンにサンタを起用、アメリカの画家ハッドン・サンドブロムに依頼してデザインしてもらったサンタ像が決定版になった

99. 『ええ音やないか』 橋本文雄・上野昂志
映画の音の「発想」の基本になるのは、やっぱり本(脚本)なんですよね。だからまずそれを熟読する
橋本は重要な映画のスタッフである録音技師の大ベテラン。大映から日活へ、82年フリー
録音技師人生を映画評論家の上野のインタビューに答えた記録で、冒頭の数行はインタビューの補足とした語り、巻末に載った長い独白の1
映画の中の音の「発想」は絵抜きでは考えられない。2人の人物を大ロングで撮っているのに、交わす科白を普通の大きさで入れるのは当たり前の「発想」。遠いから音を消すということもあり得る。どれをとるかっていうのが、芝居の読みなんです。終生現役

100.   『和田誠切抜帖』
「昔は良かった」とつい言ふ。しかし、大きないろいろの試練を経た日本は前よりもっと良い時代を造るだらう
あちこちに発表した文や絵を集めたもので、連載の最終回
冒頭の数行は、僕の父親が書いた文章の一部。父は築地小劇場の創立メンバーで、大正時代のこと、音響担当。旗上げの翌年日本のラジオ放送が始まり、28年劇団のボス小山内薫が死んで劇団は解散、大阪中央放送局から声が掛かってラジオドラマの音響を担当したため大阪勤務となり、ぼくは大阪生まれとなった
44年突然首になって空腹の毎日となったが、敗戦の翌年学生演劇の演出を頼まれた際のパンフレットに書いたのが冒頭の数行
「日本の指導者たちは国民から芸術的精神を強奪してしまった。これこそ最もひどい国家的罪悪である」とも書いている。親父の政治的発言を直接聞いたことはなかったが、近頃日本をそんな時代に戻したがっている政治家のいることを、親父は泉下で憂えていることだろう

あとがき
『週刊金曜日』の連載の後、2年ほどおいて単行本になることが決まり、改めて読み返して驚いたのは、故人が多いこと。40人を数える。雑誌が書店に並んだ後にもおられる。誰にも転載の許可はいただいていない。無断借用、ご勘弁ください




(ひもとく)和田誠の世界 創意工夫の仕事ぶり、迸る天才 矢崎泰久
2019127 500分 朝日
写真・図版写真・図版写真・図版
 今でこそパロディーを知らぬ人はいないだろう。しかし、月刊誌「話の特集」を創刊した1965年ごろ、和田誠が毎月8ページ、パロディーを担当したいと言い出した時は、何のことやらさっぱりわからなかった。
 「とにかく、これ見てくれないか」と渡されたのは「殺しの手帖」という、花森安治さんが戦後間もなく作った雑誌「暮しの手帖」のパロディーだった。上品で多くの読者を獲得していたコンシューマーズ・マガジンを徹底的に裏返したものだ。小気味いい風刺だった。私は感心したが、毎月の連載は至難の業だろうと思った。
 それが杞憂だったことはすぐ明らかになる。「三角大福」なる自民党総裁争いの政治風刺、川端康成の名作「雪国」を庄司薫野坂昭如星新一、淀川長治らの文体模写で描くなどして読者を大いに喜ばせたのである。創刊から12年で『倫敦巴里』が完成した(その再編集版が『もう一度 倫敦巴里』)。パロディーの金字塔であった。時代背景は変わっても、作品の面白さは少しも色褪せてはいない。
 映画の名セリフ
 「キネマ旬報」で「お楽しみはこれからだ」の連載が始まったのは1973年だ。「映画に出てきた名セリフ、名文句を記憶の中から掘り起こして、ついでに絵を描いていこう」と、和田さんは書いている。外国映画の場合、字幕スーパーの文字数が限られるので、セリフの陰に捨てられた言葉を復活させ、要約された部分を再現する。コアな映画ファンを楽しませた。
 キネマ旬報社は毎年、日本映画に作品賞や監督賞、主演男優・女優賞などを贈っていたが、「読者賞」は、誌上の連載から読者によって選ばれた。73年、第1回の読者賞は「お楽しみはこれからだ」だった。
 ところが、第2回は竹中労の「日本映画縦断」が、第3回と第4回は落合恵子さんと私の「シネマ・プラクティス」が読者賞を受賞してしまった。「読者に絶望した」と宣言して、和田さんは連載を打ち切った。落合さんと私は月に2回一緒に映画を観て、勝手気儘に批評し、どちらかが文章を書き、山藤章二さんがイラストレーションを担当した。この組み合わせにも和田さんは腹を立てたに違いない。子供っぽい一面もあった。
 当時の白井佳夫編集長が突然解任されたので、落合さんと私は抗議の執筆拒否をした。連載が中止されていた和田さんの『お楽しみはこれからだ』は再開され、以後、文芸春秋から全7冊が上梓されている。
 和田さんと二人で「自分たちが読みたい雑誌を作ろう」と言って始めた「話の特集」は、30年たった95年に廃刊となる。その後、「話の特集」のページが「週刊金曜日」の中に誕生したのは、好評だったいくつかの連載を打ち切るのが嫌で、4ページだけの引っ越しが許されたからだ。すでに二十数年続いているが、その間、和田さんはずっと協力してくれた。
 片っ端から読む
 なかでも、百回連載した「ほんの数行」は、「お楽しみはこれからだ」の書籍バージョンだ。「編集者はあらゆる本を読むべし」というのが和田さんと私の覚悟だったから、片っ端から本を読んだ。競走のように読みあさったので、読書量は膨大だと思う。『ほんの数行』はその集大成のような本になった。「自分が装丁した本に絞ることにした」と和田さんは書くが、文学書やエッセーに限らず、あらゆるジャンルの本から「数行」を選び、読書の醍醐(だいご)味を余すところなく記している。
 和田誠の著書は二百冊を超える。どれも創意工夫があり、読者を満足させ、多岐に及んでいる。わが家の本棚にあるどの本を開いても、天才ぶりが迸(ほとばし)る。
 やざき・やすひさ 元「話の特集」編集長、作家 33年生まれ。著書『タバコ天国 素晴らしき不健康ライフ』(径〈こみち〉書房)が近く刊行される予定。


(惜別)和田誠さん イラストレーター
20191116 1630
 柔らかな表情、芯には厳格さ
 107日死去(肺炎) 83
 ラジオ局に勤める父が持ち帰る、わら半紙の番組表。その裏が最初の「カンバス」だった。
 4歳にして化け物退治の絵物語をものし、小学生で絵本を作る。中学で雑誌に漫画の連載を持ち、高校時代は時間割に教師の似顔絵を並べた。大学生でグラフィックデザイナーの登竜門とされる賞を受けてプロデビュー。社会人になった早々、たばこ「ハイライト」のデザインがコンペで選ばれた。
 才能を伸びやかに開花させ、日のあたる道を軽やかに歩んだ絵を描く人生。ポスター、絵本、挿絵、アニメ、ロゴマーク、本の装丁……。数え切れない作品を生み出した。映画や音楽に通じ、数多くの本を著し、映画を作り、舞台も演出。作詞作曲、訳詞も手がけた。
 2000年初め、私は、連載「三谷幸喜のありふれた生活」の題字と挿絵をお願いしに、東京都内の仕事場を訪ねた。「おもしろそうだね。絵は原稿を読んでから考える。新聞に載るのと同じ大きさで描く。それでよければやりますよ」。それから17年間、毎週、原稿と資料を渡し、挿絵を描いていただいた。体調を崩した一昨年春まで、やりとりは841回続いた。
 時間の余裕がないことも多かったが、妻の平野レミさんから「和田さんはどんなに忙しくても、『今日もたくさん絵を描いて楽しかった』と言って帰ってくる」と聞いた。本人に確認すると「うん、そうだね」とうなずいていた。
 その表情は、多くの人に愛された絵そのままの柔らかさ。でも仕事の仕方は厳格だった。
 文中に登場する人物は、一般に知られていない人でも必ず「資料写真を」と言われた。「本人や友達が『似てない』と思ったらイヤだからね」。メールが普及する前は、その写真を撮るために、三谷さんの稽古場へ走ったこともある。往年の映画を話題にした回では「念のため、今夜DVDで見直すので、出来上がりは明日の朝でいいかな?」と何度も言われた。
 東日本大震災直後から、千枚以上の絵を描いて被災地を支援したが、「ひとに言うことでもない」と、まるで喧伝しなかった。どこへ行くにもジーンズ姿で、レストランの気どった服装規定に腹をたてていた。
 絵のシンプルな線には、研ぎ澄ましたセンスと技術、そして破格の勤勉さがこもっていた。温かな笑顔の中には、含羞と反骨があった。(山口宏子)


(日曜に想う)和田誠さんが教えてくれた 編集委員・曽我豪
20191110 500分 朝日
 こうやって政治コラムを書いているとときどき、よくない自分があらわれる。
 けしからんとばかり政治家をなで切りにして悦に入ったり、正論を説いて何ごとかを書いた気になったり。自前の生ネタや切り口が見つからないときほど、そうなる。スター・ウォーズでいうところのダークサイドに落ちるようなものか。
 すんでのところで我に返ると、口の中でとなえる呪文がひとつある。
 「たかが新聞じゃないか」。――おまえは事実を追いかける記者の本分に職人として徹するべきであって、偉そうに社会の木鐸(ぼくたく)を気どるなんてくだらない!
     *
 呪文は教えてくれた人がいる。さきごろ亡くなった和田誠さんだ。「お楽しみはこれからだ」(文芸春秋 初版1975年)に出てくるアルフレッド・ヒチコック監督の「名セリフ」である。
 時代を画したイラストレーターであり映画監督だったけど、ぼくは和田さんの文章が大好きで随分あこがれた。おもしろがりで楽観的で気がきいていて、大上段に構えたところは全然なく、何かをほめるときに別の何かをけなさない。いつも上品な大人の東京文化の香りがした。
 とりわけ地方で70年代に青春を送った映画少年にとって、和田さんが「キネマ旬報」で連載していた「お楽しみはこれからだ」はまさに教科書だった。
 ビデオのレンタルさえない時代だ。名画座かテレビの洋画劇場でめぐり合うしかない古今東西の名画の名セリフをイラストつきで教えてくれるのだ。
 「これ、和田さん、自分の記憶だけでかいているんだぜ」。仲間内でそう言い合ったものだ。
 和田さんが高校のころみた名画の記憶をかき、同じ年ごろのぼくらが読んで追体験する。「第三の男」も「スミス都へ行く」もチャプリンの「殺人狂時代」もそれでみたくてたまらず、和田さんと同じように名画座を追いかけた。
 訃報(ふほう)を聞いてヒチコックが撮った「山羊座(やぎざ)の下に」についての文章を読み返した。40年以上前の記憶のままだったことに我ながら驚いた。
 ヒチコックが後年のインタビューで明かした主演のイングリッド・バーグマンとのエピソードである。
 「バーグマンは私の演出を好まなかった。私は議論がいやだったから、『イングリッド、たかが映画じゃないか』と言った。彼女は名作に出ることだけを望んだ。製作中の映画が名作になるかならないかなんて誰がわかる? ジャンヌ・ダーク以外に偉大な役はないと彼女は考えていたようだ。くだらない!」
 そして和田さんはさりげなく最後に書き添える。「たかが映画じゃないか、という精神はぼくの好むところだ。それであれだけ面白い映画を作り続けていたのだ。偉大なる職人である」
 教科書だというのは、つまり、こういうところである。
     *
 今は名画も名セリフも簡単にみたり知ったりできる。作品のよしあしさえ、ネットのコメント欄をのぞけば大体のところは分かる。一期一会だとか記憶の伝承だとかいっても、何をかったるいアナログなことを、と笑われるかもしれない。
 それでも、ネットが助長する攻撃性にはついていけない。何につけ、ファンとアンチとが魂が冷えそうな言葉で非難し合う。芸術や文化の自由を語ろうとしても、まずは敵と味方の仕分けから始まる時代だ。むろんその最たるものは、ぼくがふだん担当する政界ではあるのだが。
 そういう世界から一番遠いところにいたのが和田さんだった。それは最後まで変わらず、何だか、むかしの教え子に対して、おまえが悲観のダークサイドに落ちていてどうする、と叱り励ましてくれているような気がした。
 おととし「週刊文春」の表紙のイラストが2千枚目を迎え、作画の様子が動画で公開された。描き終えて和田さんが言ったのはやっぱり、「普通だよ、普通だよ、何でもないよ」だった。
 40年前の1枚目でエアメールをくわえ木に止まっていた小鳥が飛び立ち夜空をゆくイラストだった。


(大竹しのぶ まあいいか:247)きっと、見守ってくれている
2019111 1630分 朝日
 奥様のレミさんからメールをいただいたのは、その2日後の事だった。「レミです。こんにちは。うちの夫は、とうとう天国に行ってしまいました」と。年に数回集まって、食事をしていた私たち仲間に送られてきたものだった。和田誠さん、享年83歳。イラストレーターであり映画監督でもあり、映画についての沢山の著作もある。雑誌の表紙は、なんと42年間描き続けてきた方だ。
 私が和田さんと初めてお会いしたのは、今から35年も前、映画「麻雀放浪記」だった。
 和田さんにとって初の監督作品。が、とても初めてとは思えず、まるで何本も撮ってきた監督のように飄々として、なおかつ堂々としていた。私たち役者もスタッフもいっぺんに和田さんのファンになった。和田さんはその日に撮るカットを絵にしてセットに貼ってくださる、いわゆる絵コンテが、とても素敵で、私たちは毎日、それが貼り出されると、その周りに集まり興奮していたものだった。
 その絵の人物と同じ座り方を真似、同じ足の位置にすると不思議に落ち着いたのを今でも覚えている。その後もプライベートでお付き合いするようになり、お料理研究家である奥様のレミさんとも親しくなった。
 30歳で私が夫を亡くし、少しした頃、和田さんが何げなくお電話をくださった。「遊びにおいで」と。息子と2人、お邪魔してレミさんの美味しいお料理をごちそうになり、和田さんはまだわけの分からない2歳の息子とずーっと遊んでくださった。その優しさに私は一人涙をこらえていた。
 ここ数年は、和田さんを中心に親しい仲間と集まり、みんなで美味しいものを食べ、ワハハと笑ってしゃべっていた。和田さんは一人静かに聞いていることが多かったが、例えば、怖い話をしても、結局最後に話す和田さんのお話が一番怖くて、またまたみんなで大笑いをしたことも。今年の春に集まったとき、和田さんはいらっしゃらなかった。「今、何してるかな」と、レミさんの携帯で見てみるとリビングルームでいつものように頭の後ろで腕を組み映画を観ていらした。
 仲間の一人である三谷幸喜さんがおっしゃった。「あれが、僕の見た和田さんの最後の姿です」と。そうだ、和田さんは今、この世でのやるべきことを終え、空の上で大好きな映画を観ているに違いない。静かに、優しく、レミさんを、ご家族の方を、そして時々私たちを見守ってくださっている、そう信じることにしよう。




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