江戸教育思想史の研究  前田勉  2020.1.15.


2020.1.15. 江戸教育思想史の研究

著者 前田勉 1956年生まれ。東北大大学院博士後期課程単位取得退学。現在、愛知教育大教授。博士(文学)。専攻、日本思想史

発行日             2016.10.31. 発行
発行所             思文閣出版

19.6.小平さんから臼田先生(日比谷東洋大附属京北高校)へのお餞別

エリート教育か/藩士全体の教養の底上げか。教師による講釈か/自由闊達な議論を認める集団読書(会読)――
学問が出世に結び付かない身分制社会の近世日本において、ようやくつくられはじめた学校はさまざまに展開する可能性があった。学ぶ理由が明確でないなかで、学校はいかに生まれ、人々はそれになにを求めたのか。学習の方法、教育の目的に注目することで、官学/私塾、儒学/国学/蘭学といった枠組みを超え、17世紀から明治初期までを見通し、江戸教育思想史に新たな地平を拓く意欲作


はじめに
元禄7(1694)刊行の『唐錦』は、大高坂維佐子(166099)が書いた女性向けの教訓書
著者は朱子学者大高坂芝山(しざん)の妻。中国の修己治人の道を説くとともに、古代日本の律令制時代にも同じ制度はあるが、17世紀の今現在「学校」は存在しないものの、『小学』の居敬、『大学』の格物到知、誠意正心の「教ののり」ははっきりしているので、幼い時から年老いるまで、学び続ければ、道を知ることができるという。女性が「道」を志すことさえ、想像も出来ない時代ゆえに学びへの意欲が溢れている
江戸時代は多くの学校が作られた時代。18世紀には続々と建てられ、藩校、私塾、手習所(寺子屋)などが創建、武士のみならず一般の農民や町人も学び始めた。科挙制によって学校が人材リクルートの装置となっていた中国や朝鮮と異なり、身分制社会では学問を学んでも立身出世の望みが叶うわけではないにもかかわらず、学校が多く存在したのは、中国や朝鮮とは異なる学問への要求や期待があるだろう
多くの人々は地域の共同体や家庭の中で自ずから教育されてきたが、学校という機関の中で一定期間、意図的な教育を受けるようになった。それに伴い、何のための学問か、何のための教育か、どのような方法で学習するのか、という問題が顕在化する。江戸時代の人々はこのような問題に対してどのように答えたのだろうか
本書は、学校が願望の対象だった近世から、学校教育が当然視されるようになった近代を照射することを目指す

序章 江戸教育思想史序説
近世日本の教育思想史では、これまで近代教育との関わりが論じられてきた。近世と近代の連続・断絶が問われてきたが、その際1つの焦点となったのが「教育」という言葉
1872年の学制以前の日本には、「教育」は「儒者ないし武士の言わばカルト的な熟語に留まっていて、一般の人々の語彙には「教育」は存在しなかった」とするのが断絶説だが、西洋近代教育の他者性を摘出した点では評価できるが、近世にも数多くはないが「教育」という言葉はかなり流通していた
「教育」の出典は、『孟子』尽心上篇にある  子曰く、君子に3楽あり。父母兄弟故無きは1楽、仰いで天に愧()じず俯()して人に怍()じざるは2楽、天下の英才を得て教育するは3
近世日本において英才教育という意味での「教育」の初出は、林鵞峰(161880)。羅山の後を継いで、幕府命令の『本朝通鑑』の編集と並行して、1666510等の制という学習課程を編成
18世紀中頃になると「教育」が散見。なかでも学校を「英才教育」機関として明確に位置付けた点で注目。林家が博覧強記の「学者」の教育を目指したのに対し、18世紀央の藩校が「教育」しようとした「英才」は国家有用の藩士だった。最も早く明言したのは熊本藩の時習館であり、「人倫を敦くし、英才を育て、国の用に供する所以なり」とした
「教育」と「教化」の違い  学校教育と社会教育の違いであり、教育の前提が教化というが、被教育者に学びへの意思があるか否か、学習者の主体性・能動性を尊重するか否かにあるともいえ、学習者の自発的な意志を尊重するのが「教育」である
近世日本で「教育」の概念がそれほど流通しなかったのは、儒学が「学び」の学問であり、「教」よりも「学」を重視したから

I編 学校構想と家訓
第1章        林家3代の学問・教育論
近世日本の学校は林家3代、羅山・鵞峰・鳳岡の林家塾を嚆矢とする
近世初期の儒者が「物知り」としての役目を期待された社会的存在だったことから、博覧強記を家業とした

第2章        江戸前期の学校構想――山鹿素行と熊沢蕃山との対比
17世紀中頃、まだ見ぬ公営の学校という教育機関を構想したのが山鹿素行(162285)と熊沢蕃山(161991)の江戸儒学第2世代で、武士の日常生活に儒学を取り入れ、自らの生き方と政治の在り方を考えようとした
素行は朱子学を学ぶほど世間と学問の乖離を自覚し、「学問」と「世間」の一致を求めて、政治的な志向性の強い「聖学」を確立。蕃山も当代人情事変に相応しい経世済民の「心法」の学を説く
ただ、彼らの試みが当時の時代状況の中では孤立していた
道徳を画一化して、風俗を正すという「聖人の教化」が、素行の目指す農工商の庶民への教化論で、庶民教化を行う際、敵対者としたのが民衆の中に深く根を下ろした仏教思想。一方、武士に対しては農工商3民の道徳的な「師」としての生き方を求めた

第3章        山鹿素行における士道論の展開
戦闘者であるはずの武士が、戦争のない泰平な時代に生きる意味を模索した言説が武士道論で、近世前期に登場 ⇒ 「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」で有名な「葉隠」的な武士道論と、「人倫の道を天下に実現することを武士の職分とする」儒教的な士道論
山鹿流兵学の基本書が『武教全書』で、戦場に生きる戦闘者としての武士像を窺うことができる

第4章        貝原益軒における学問と家業
近世日本の家訓の中で、強調された事柄の1つは家業の精励。先祖から継承された家を維持・繁栄させるために、「倹約」「勤勉」のような禁欲的な生活態度と勤労精神を持ち、家業に励むことが子供たちに教えられた ⇒ 貝原益軒に見る勤労精神と儒教の関係

II編 儒学の学習法と教育・教化
第1章        太宰春台の学問と会読
18世紀になると、学問や詩文を志す者たちの同志的なつながりが広く現れる ⇒ 荻生徂徠(16661728)や太宰春台(16801746)たちの蘐園(けんえん)派が代表例。「社中」「吾が党」などと呼び、上下尊卑の身分制社会とは異なる人間関係を結ぶ
同志的結合を生み出した場として注目すべきは、徂徠発案の「会読」という共同読書の方法
学問は講釈によって一方的に教えられるものではなく、学習者が「物」としての六経と向き合うことで、能動的に学ぶものだと考えていたからで、学びの「自得」を得る最善の方法とされた

第2章        18世紀の文人社会と学校
18世紀中頃には、荻生徂徠の古文辞派の影響が全国に及び、文をもって会する文人社会が形成され、学芸を愛好する文人たちは、サロンとも言うべき場で詩文を交換し合った

第3章        細井平洲における教育と政治――「公論」と「他人」に注目して
細井平洲(17281801)18世紀後半の教育家。米沢藩校興譲館や尾張藩校明倫同などの運営・教育に関与した教育実践家だが、「君臣公会」という公開の席上で政を論じ合い、「公論」を形成すべきだと説く。「公論」の形成は、幕末の開明的な思想家横井小楠に至って初めて形成されると指摘されてきたが、既に18世紀後半に「公論公評」の考えが藩主に提示されていた

第4章        寛政正学派の『中庸』注釈
寛政2(1790)幕府は林家塾において朱子学以外の学問を禁止(寛政異学の禁)するとともに、当塾を幕府の教育機関として昌平坂学問所に改変して学制を一新。学者教育から幕臣「教育」目的に転換。「会読」が「教育」方法として重要な位置を占める

III編 国学と蘭学の学習法と教育・教化
第1章        18世紀日本の新思潮――国学と蘭学の成立
18世紀、物みな「開ける」江戸の世で、新たに開かれた学問が国学と蘭学
国学の大成者は本居宣長で、賀茂真淵を「真の学問である「古学の道」を開いた「大人」」として挙げている
蘭学者においても同様、杉田玄白は『解体新書』翻訳時を回想しながら、「この学問開くべきの時至り、その書の手に入りしは不思議」と書いている
民間に会読する自発的な読書会が叢生し、会読の場こそが国学や蘭学を生み出した

第2章        江戸派国学と平田篤胤――村田春海・和泉真国(まくに)論争を巡って
村田春海は賀茂真淵の門人で江戸派国学の重鎮だったが、宣長の古学に疑問を抱き始め、宣長批判に転じていたのに対し、和泉真国は江戸での宣長学普及を自己の使命とする熱烈な宣長信奉者で、宣長の説く「日本魂」などの解釈を巡って3年にわたり論争が続く
平田篤胤(17761843)は、論争の始まった年に宣長の著述に触れ、国学に目覚めたが、論争に入らず。自ら「学者ぎらひ」と語るように、国学を普及させる場として選んだのは会読の場ではなく講説(講釈)で、多くの講釈本草稿を著した

第3章        平田篤胤の講釈――『伊吹於呂志』を中心に
篤胤の、歯切れのよい、生の声を聞くことができることでよく知られる講釈本

IV編 私塾と藩校
第1章        広瀬淡窓における学校と社会
広瀬淡窓(17821856)の私塾咸宜(かんぎ)園は、江戸時代「徹底した実力主義」の教育をしたことで知られる。淡窓創案の三奪法と月旦評は、その「実力主義」を保障するユニークな制度
三奪法とは、入門時に年齢・学歴・門地を一旦白紙に戻す処置で、「父」「師」「君」の繋縛から自由になり、19級の等級制に組み入れられ、月旦評という、1か月1回の厳正な客観低評価によって昇級する
身分制社会においては極めて特異なシステムだったが、淡窓自身が、不条理な封建制の社会で、いかに「国を治める本」となる有能な「賢者」を「教育」するかという問題意識を持っていた
18世紀後半以降、風俗教化の拠点として学校が位置付けられる契機となったのが淡窓の考え
咸宜園教育において会読=奪席会が中核的な位置を占める
1831年以降断続的に、日田郡代からの干渉が続く ⇒ 自分の用人の子どもが不当に評価されたことへの意趣返し。官府支配下に置こうとする郡代に対し、園内結社で対抗

第2章        吉田松陰における読書と政治
吉田松陰(183059)の松下村塾でも会読が破天荒なやり方で進められた
幕末には、会読が政治的な議論の場になっていった
松陰自身も、会読を通して自己を形成してきた

第3章        長州藩明倫館の藩校教育の展開
第4章        加賀藩明倫堂の学制改革――会読に着目して
第5章        明治前期の「学制」と会読

終章
明治新政府による教育による国民形成には、国家にとって有用な人材の教育と道徳的教化の2側面があった。具体的には、1872年の学制施行により国民教育を推し進める一方で、神官・僧侶を動員して神道国教化政策を行ったが、この2つの側面は単純な開化と復古というより、明治の国民形成の2つの路線であると捉える必要がある
この2つの路線は、近世日本の藩国家に有用な英才「教育」と庶民への道徳教化の考え方を受け継ぐものだった




J-STAGEより
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前田 勉 『江戸教育思想史研究』 高野 秀晴(仁愛大学) 著者は日本思想史を専門とし、近世思想史に関する浩瀚な著書を次々に公にしている。その著者が近世の教育について真っ向から論じたのが本書である。全4編18章からなる大著である。周知のように、近世日本においては「教育」という言葉はそれほど多用されなかった。したがって、 近世の教育について研究する際、そもそも何を考察対象とするのかが問題となり、近年では、教育を広く人間形成全般の問題と捉えることが一般的だと思われる。この動向に対し、著者は「教育」という語の当時の用例に即して、考察対象を限定することを提案している。つまり、「教育」という言葉によって 「認識されたものの認識」(村岡典嗣)を考察することが著者の思想史の方法なのである。 かくて著者は、「天下の英才」を育てるという『孟子』に典拠をもつ意味で「教育」を捉える。したがって、本書の主な考察対象は、儒者たちの学校論や、 藩校における儒者や藩士の養成ということになる。 もちろん、著者は、近世における「教育」には、家庭での子の養育という意味もあったことを見逃していないが、本書では、この意味での「教育」も、「英才」の育成に関わる限りで取り上げられている。以上の明快な視点から、幕初から幕末維新期までの教育思想を描き切ったところに本書の魅力がある。 以下、本書の特徴をいくつか挙げる。一つ目は、 共同読書の方法である会読への着目である。教育思想と教育方法とを相関的に捉える必要が唱えられて久しいが、本書の考察は、まさにその相関性に着目するものだといえる。著者は、科挙がなく、学問が立身出世に直結しない近世日本においては、学習者の自発性や能動性がより重視されることになったとする。そして、このことが学習者の自発性を重んじる会読の隆盛につながったとされている。この指摘の妥当性については、東アジアの比較史的考察を経る必要があるだろうが、注目すべき見解である。 会読、およびそれを通じて形成される公共空間について、著者はすでに『江戸後期の思想空間』(ぺりかん社、2009年)、『江戸の読書会』(平凡社、2012 年)などを世に問うているが、これらの成果と本書の関連という点から、本書の特徴の二つ目に挙げたいのが、「教化」概念の導入である。著者によれば、「教育」とは異なり、「教化」は被教育者の学びへの意志を前提とせずに行われる。また、教化には「制度(システム)」を媒介として行われる儒学的な意味での教化(きょうか)と、「口頭(オーラル)」を通じて行われる仏教的な教化(きょうけ)の2種があるとしたうえで、それぞれの人物や教育機関におい て、「教育」、「きょうか」、「きょうけ」のいずれが重視されたかを思想的に解明しようとする。「教化」にも注目することで、本書の考察は前著に比し、格段に立体的になっていると評価できる。とりわけそう感じられるのは、会読の場で生じた村田春海と和泉真国の論争についての考察である。国学者としてのプライドをかけ、「理性」的に行われた論争であったが、真国が「大和魂」への「信仰」を持ち出したことにより、議論は平行線をたどる。一方、 この論争に学者世界の汚さを見て取った平田篤胤は、「無学の人」の側に立とうとし、教化(きょう け)を家業と自任するに至る。国学者の思想的立場 の諸相が見事に明らかにされているといえる。 次に本書の特徴として指摘したいのは、藩校への着眼である。確かに著者も指摘するように、従来の近世教育史研究では、藩校研究が相対的に軽視される傾向があったことは否めない。その点、本書では、 藩校が設立される以前の時期、設立が現実味を増18世紀後半、そして幕末期の動向が詳細に考察されている。藩校研究は格段に進展したと評せるだろう。 内容を紹介すると、まず、17世紀における学校構想として、山鹿素行と熊沢蕃山が取り上げられる。 学校を庶民教化(きょうか)の場とする素行と、武士教育の場とする蕃山との対比は鮮やかである。著者は、この対立軸が「近世日本の学校論の基本テー マ」になったとする。また、彦根藩における学校設置をめぐる論争も興味深い。学問を強制して「十の凡庸者」を育てるか、私的な場所における「一の抜群者」の輩出を期するかという論点は、18世紀後半における学校の存在意義を示すものとして重要であろう。さらに、咸宜園で「実力主義」的な会読を行った広瀬淡窓が、その藩校論においては、会読の導入を提案せず身分差の厳格化を説いたことは、私塾と藩校の相違を示すものとして興味深い。 咸宜園ほどではないにしても、藩校でも実力主義が取り入れられたことを著者は強調する。長州藩の藩校明倫館では、身分を問わない「平等」な実力主 義が導入された結果、そこで学んだ者たちは政治的な討論を行う結社を設立し、吉田松陰の松下村塾にも足を運ぶようになる。松陰は、「虚心」に書に向き合うべきとする「江戸期の読書観の枠を超え」、読書により「自得」したことを積極的に他者に語ることを勧めた。このことが幕末における「横議横行」をもたらしたと著者は捉える。そして、如上の動向を生み出したことに明倫館教育の「最良な可能性」を見いだしている。一方、加賀藩の明倫堂では、会読が政治的討論の場になることが懸念されるとともに、競争の排除が目指された。だが、藩校を人材登用の場としなかった加賀藩は、幕末の政治改革から「大きく取り残される」ことになったと著者はいう。 以上のように、著者は、会読の場で政治的討論が行われたことに積極的意義を見いだしているようだが、その評価の理由を語ることに著者は禁欲的である。会読が生み出した政治的公共性のあり方について、著者のさらなる意見を伺ってみたいと思った。 本書の考察は、近代に入り、会読がどうなったかを展望して締めくくられる。そして、平等と競争を 基本原則とする会読が、「学制」期における四民平等の理念や個人主義的な教育観とも親和的であったとする注目すべき見解が示されている。今後、さらに検討を要する見解だと思う。小学校教育に導入された会読であったが、次第に会読の場は学校ではなく自由民権運動の学習結社へと移っていく。対して、 学校には立身出世主義が広がっていく(なお、著者は「学制」は立身出世主義を否定するものだったと捉えている)。著者は、立身出世主義により「いわば学問が科挙化した」という。科挙のない日本で広がった会読は、学問の科挙化により終焉を迎えたということになる。 著者の如上の近代教育観は、結章で仮説的に示された側面が強く、今後さらなる検証が必要と考える。また、先述のように、著者の考察対象は「認識されたものの認識」であった。その認識にもとづいて行われた会読や会業、輪講などの実態の解明は、 郷学や様々な結社なども視野に入れながらさらに進められる必要があるだろう。本書の考察はこのような課題を読者に提起してくれている。 本書の大きな魅力は、博引された史料を一つひとつ丁寧に読解していく叙述スタイルにあると思う。 近世日本における「教育」の初出が林鵞峰『鵞峰文集』であるとする指摘など、新たな発見も少なくな い。本書が広く読まれ、討論が活発に行われること を期待したい。 (思文閣出版、201610月、56312頁、9,500円)



『教育の本質は藩校”(修猷館、佐倉・・・・・)にあり』 
~ 江戸時代から伝わる「志」と地域への誇り
著者 おおたとしまさ 教育ジャーナリスト
『文藝春秋』20196月号
「藩校」とは、江戸時代の各藩が藩士の子弟を教育するために作った学校
「ひと」こそが財産とされ、教育熱も高まった
17世紀ごろ、藩校は私塾のような形から始まる
18世紀に入ると大規模な学校形式が増え、19世紀には全国の藩に普及
ほとんどは儒教思想に基づいた学問を教えており、聖廟に孔子像や木主(孔子の位牌)を祀っていた
幕末から明治にかけて大政奉還や廃藩置県という天下激動の中で、多くの藩校も消滅
一部が生き延びて、儒学から蘭学へ、そして医学や英語や洋式数学にまで、時代とともに教育内容は変化したが、世代を超えて受け継がれてきた「学びの場」に蓄積された「志」は変わらず、地域に対する誇りもまた、継承された
そこには教育の本質があるのではないか。すぐに役立つスキルの獲得に目が向きがちな現在の教育に欠けているものが江戸時代から今に受け継がれる「志」にあるように思う
特に4校を選抜して紹介
l  福岡県立修猷館高校
入学式では、藩校として設立された天明時代から伝わる「孔子像」の現物を壇上で紹介。応援団から校歌と応援歌を覚えるための厳しい訓練を5日間連続で受ける。応援歌指導には教師はノータッチだが、その後の精神的ケアはやる。歴史と伝統について学ぶ3日間の「創志研究」など様々な行事
1784年黒田藩が東学問稽古所「修猷館」を設置。黒田藩は初代藩主黒田長政の頃から学問を重んじ、藩の儒官として貝原益軒を迎えるが、1871年の廃藩置県で一旦閉鎖。複数の県立中学ができるが、財政難に陥り、打開のために元藩主・黒田長溥(ながひろ)が旧藩士・金子堅太郎の意見を採用し、学校設置に動く
1885年県立英語専修修悠館を開館英語に通じ、西洋の学問を研究する目的。金子は修猷館再興の恩人、藩校に学び1870年代アメリカに留学、後に憲法起草に関わる
校名に修猷館を入れることに難色を示した県に対し、運営資金の一切を黒田家が負担することを条件に押し切った
「修猷」は、『尚書』の「践修蕨猷(せんしゅうけつゆう)」に由来、「猷(みち)を修む」の意
著名人には廣田弘毅、緒方竹虎、中野正剛(在学時代からの親友同士)、安川第五郎
生徒の自主性を重んじ、校則なはい
「世のため、人のため」の精神、および、「質朴剛健」「不羈独立」「自由闊達」が校是
校長は「館長」、校歌は「館歌」(1923年制定、「皇国(みくに)のために、世のために」の文言が残る)2大行事の運動会と文化祭はすべて生徒が仕切る
「語り合い」の文化があり、時にリーダー、時にフォロワーとして学校行事に関わり、たくさんのもめごとを経験する中で人間性が磨かれるという
10年前から2学期制にしたのも、運動会と文化祭をそれぞれの学期を丸々使って思い切りやらせたいという理由から
勉強の指導にも拘り  「1歩引いて、教え過ぎない」などいくつかの指針
校章の六光星は北極星を表し、ブレない指針を象徴

l  山形県立米沢興譲館高校
米沢市内の公立小中学校の体育館には米沢藩祖・上杉謙信と中興の祖・上杉鷹山の肖像画が掲げられている。今も「上杉の城下町」という意識が根付く
貧しい藩だったからこそ、「ひとづくり」が大切との認識が、江戸の初期から根付く
そのシンボルが興譲館高校、自ら考え行動する、いわゆる「生きる力」の大切さを、300年前から「興譲の精神」として脈々と受け継ぐ  「自他の生命を尊重する精神」「己を磨き、誠を尽くす精神」「世のために尽くす精神」
1697年上杉綱憲が「感麟殿」を建て、孔子像の遷座式を行ったのが「米沢藩学館」の始まり
71年に鷹山が再興、76年に興譲館と名付ける  『大学』の「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲」に由来
1610年の直江兼続の時代が始まりとする説もある
廃藩置県で一旦廃校となるが、1874年に上杉家の資金により「私立米沢中学」として復活、それが現在に至る
著名人に伊東忠太、「民法の父」我妻栄、高橋里美(哲学者、東北大総長)、作家・浜田廣介
『管子』の「弟子職」をもとに1776年に刻された「学則」の扁額は、興譲館の至宝
まず漢文の学則の素読から始まる  「学ぶ者」の心得が綴られる
教師も、教科指導のスペシャリストであることは当たり前、人としてどうあるべきかを語ることが求められる
大学進学実績もゆとり教育も、興譲館の教育には無関係、自らの信念に従うという矜持
SSHの指定を受け、2007年には山形大学工学部と高大融合に関する協定を締結、大学の授業を受けることが可能。2019年からは全学部に拡大し教育連携協定となる
独自の地域文化に守られ育まれてきた学校が果たすべき社会的役割は、これから大きくなるはず

l  千葉県立佐倉高校
1910年設立の「記念館」は国の有形文化財で、現役の校舎として使用、まるで「生きた化石」
戦時中も東日本大震災でも被害を受けず、何か不思議な力で守られている
著名人には長嶋茂雄、俳優の藤木直人、リクルート社長の峰岸真澄、マラソンの小出義雄
1792年佐倉藩主・堀田正順(まさあり)が、松平定信の陥穽の改革の最中に創設した藩校「学問所」が前身。1805年温故堂、36年には堀田正睦(まさよし)「成徳書院」と改称。正睦は「蘭癖」と呼ばれるほど蘭学を重んじ、医学を発展させ、佐倉に「順天堂」が興る素地をつくる。江戸末期佐倉は長崎と並んで医学の先進地域
学校の敷地内には「地域交流施設」があり、当時オランダから輸入された医学書が展示され、日本初の蘭和辞典『ハルマ和解』もある
廃藩置県で一旦閉鎖、旧藩主の10代正倫(まさとも)1872年の学制発布を受け、翌年「鹿山精舎」を作って藩校の伝統を繋ぎ、私立の中学に姿を換え、1899年県立佐倉中学となる。1904年財政難となるが正倫が資金を提供し存続、1910年現在の地に移転
教育方針は「質実剛健」「積極進取」「独立自尊」。「積極進取」は蘭学を取り入れた伝統
1997年からはオランダ派遣を実施  SSHSGH(Super Global High-school)の両方の指定を受ける県内唯一の学校
佐倉高校に着任した校長は堀田家に挨拶に出向くのが慣例、佐倉藩の残り香がある地域文化が佐倉高校に凝縮され、学校の文化になっている
県の進学指導重点校だが、進学実績を誇るだけの学校とは違うというプライドを持つ

l  私立修道中学校・高等学校(広島)
廃藩置県の際も私立として生き延びた珍しい例
現校舎は、旧広島城郭内の「学問所」の土蔵を譲り受け、移築・復元したもの、市文化財
著名人には、平山郁夫、吉川晃司、短距離の山縣亮太
藩校由来の徳の高いリーダーを育てる土壌に、官からの制約を受けない自由闊達な教育が融合した希有な学校
建学の精神は、「道を修めた有為な人材の育成」  「タブレットPCを駆使して学びを深め、FLP:Future Leaders’ Program(修道独自のリーダー教育)を柱にグローバルな視点を育む」とのスローガンを掲げる
1725年広島藩主浅野吉長が「講学所(後に講学館)」を設け、経費節減令により1743年休学するが、1782年城内に「学問所」として再興、1870年移転して「修道館」としたのが名称の始まり  『中庸』の「天命之謂性 率性之謂道 修道之謂教」(天の命これを性といい、性に率うこれを道という。道を修むるこれを教えという)に由来
1872年「学制」発布するが県内の教育環境が整わず、業を煮やした旧藩主・浅野長勲(ながこと)1878年「私立浅野学校」を設立、81年に「修道学校」と改称するが、86年の「中学校令」に基づき設立された県立中学との板挟みに遭い、当時の校長が藩校以来の伝統を引き継ぐ形で自宅で存続を決断、浅野も私的に多額の援助を続ける
1905年「財団法人私立修道中学校」として拡張、再スタートを切る。原爆で多大の被害を受けたが、生徒保護者や同窓会が中心となって後援会が発足し復活
1969年には麻布と共に学園紛争が激化、機動隊が入り10日間の休校も経験した結果、「責任を伴う自由」という概念が確立、いまの校風に受け継がれる
「学問所」以来祀られてきた孔子の位牌は、現在も記念品室に展示される
教育方針は、「知徳併進」、実践綱領は「尊親敬師」「至誠勤勉」「質実剛健」
大事にしているのは、不易流行の精神。変化の本質、物事の根っこを見極める力が重要で、そのヒントが数々の困難を乗り越えてきた修道の歴史の中にあるとの自負
「ビッグロック」の教訓  物事の優先順位を間違えてはならない。瓶に大きな岩を出来るだけ詰め込み、次に砂利を目一杯流し込み、更に砂を目一杯流し込み、最後に水を一杯に満たす。一度それを出して逆の順序で水槽に入れると大きな岩ははみ出す。先行き不透明な社会に子供たちを送り出さなければいけない大人たちの役割は、「これさえやっておけばあとは何とかなるから」といって安心させてあげること。何が「岩」なのかさえ教えればいい。「砂利」や「砂」や「水」は後から子供たち自身が状況に応じて自分たちで入れることができる


Wikipedia
藩校(はんこう)は、江戸時代に、諸藩藩士の子弟を教育するために設立した学校。藩黌(はんこう)、藩学(はんがく)、藩学校ともいう。
内容や規模は多様だが、藩士の子弟は皆強制的に入学させられた。後に、皆に開放された藩校もある。広義では医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含む。藩校は、藩の費用負担により藩地に設立されたが、一部の例外として江戸藩邸に併設された学校もあった。藩士に月謝の支払い義務はない上に、成績優秀者には藩から就学支援金を給し、江戸等に遊学させることがあった。
全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、78歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、1415歳から20歳くらいで卒業する。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わった。
藩校の入学における主な試業(試験)は素読吟味であり、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称)のうち、抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げる。内容の解釈はともかく、読みの誤謬(読み間違い)、遺忘(忘れてしまうこと)の多少で合否が決まる。江戸幕府では10月頃に行われていた。藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験を行わなければならず、落第した者には厳罰が課せられる。特に三度の落第者には厳しい厳罰が設けられている。それは藩校によって様々だが、主な厳罰として、嫡男なら相続の際、家禄の減俸。更に親の役職を継ぐにもままならず無役のまま生涯を送ることもなりかねない[1]
沿革[編集]
徳川家光時代までの武断政治から文治政治への転換と共に、藩校が各地に設立されていった。日本初の藩校は、1669(寛文9年)に岡山藩池田光政が設立した岡山学校(または国学)である。
全国的に藩校が設立された時期は宝暦期(17511764)以後であり、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成する目的で設立した学校が多い。また柳河藩や米沢藩のように江戸時代中期頃に藩の儒臣の自宅につくられた孔子廟や講堂を江戸時代後期に移転、拡大し藩の役職に藩校関係職を設立して藩営化して藩校とする場合も見られる。
各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われた。発展期には全国に255校に上り、ほぼ全藩に設立された。藩校の隆盛は、地方文化の振興や、各地域から時代をリードする人材等の輩出にも至った。代表的な藩校としては、会津藩日新館米沢藩興譲館長州藩明倫館中津藩進脩館佐賀藩弘道館熊本藩藩校時習館鹿児島藩薩摩藩)の造士館などが有名である。特に薩長の雄藩では教育においても優位に立っており、薩長土肥の連合において有力な人材を輩出した。
また、越後長岡藩の就正館(文政13年(1831)、「長岡市史」)や長州藩の有備館(天保12年(1841)、「萩市史」)のように藩内だけでなく江戸藩邸内にも藩校を開設した藩も存在する。
藩校の中には、藩主の転封やその他の理由による藩庁移転に伴って、新しい領地・藩庁所在地へ移設・新設されるものもあった。立教館白河藩桑名藩)などは転封による移設の例である。また、長州藩では倒幕・攘夷戦に備えるためから山口へ、小倉藩では幕長戦争による小倉城落城から豊津へ、岡部藩は戊辰戦争後の官軍恭順により三河国半原へ、それぞれ藩庁を移転し、新しい藩庁所在地において藩校も新設された。
幕末には、佐賀藩金沢藩山口藩中津藩薩摩藩佐倉藩等の一部の藩校は、国学漢学に止まらず、医学、化学、物理学、西洋兵学等の学寮を併設する事実上の総合大学にまで発展していた。
明治47月(18718月)廃藩置県で藩校は廃止されたが、明治58月(18729月)学制発布後の中等・高等諸学校の直接または間接の母体となった[2]
1886明治19年)中学校令の公布とともに、東京大学予備門が廃止され、全国に文部大臣の管理に属する七校の官立高等中学校(後に(旧制)高等学校と改称)が開設された。各高等中学校のうち、山口、鹿児島、金沢(第四)の本部(本科)、および岡山(第三)、仙台(第二)、金沢(第四)の医学部は、旧藩校 (山口明倫館、鹿児島造士館、金沢明倫堂)や、藩医学校(岡山医学館、仙台明倫養賢堂、金沢医学館)の流れを汲むものであった。これらの旧藩校の後進諸校は、その後(改組・中絶・再興等を経て)大学にまで発展することになる。
なお、この中学校令では同時に、尋常中学校は一県一校とされたため、その他の旧藩校は、県庁所在地で旧制(尋常)中学校に改組できたものは、現在でも新制高等学校として存続しているものが大半である。また非県庁所在地では一旦高等小学校に改組されたものが多く、その後の高等小学校の廃置によって消滅したものも少なくない。
各地の藩校[編集]
掲載は原則として「地域別」の北の藩から順とし、複数の藩校が有る場合には藩内での「設立年度順」としている。特に記載のないかぎり藩校に続く年号は創立年、あるいは創立年〜廃校となった年、として記述している。

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