大船頭の銚子イワシ話  鈴木正次/平本紀久雄  2020.1.19.


2020.1.19.  大船頭の銚子イワシ話

著者 鈴木正次(まさじ) 1917年銚子市名洗生まれ。14歳からまき網漁師になり、第2次大戦直後から40年にわたり銚子市漁協所属大中型まき網、西廣「御嶽(おんたけ)丸」(屋号、次郎吉)の漁労長を勤める。72年、千葉県水産業表彰(功労賞)を受ける。引退後、銚子の船頭仲間から、「次郎吉の大船頭」の尊称で呼ばれている
現住所 銚子市清水町2774-3

編著者 平本紀久雄 1940年京都生まれ。戦災を受け、埼玉県吉川町で育つ。北大水産学部卒、水産学博士。千葉県水産試験場でイワシ・サバ・シラウオなど沿岸重要資源調査に従事。92年、長年にわたるイワシの漁況予報による貢献で千葉県旋網漁業船頭会より感謝状を贈られる。著書に『私はイワシの予報官』
現住所 館山市沼1046-35

発行日             1994.3.31. 第1刷発行
発行所           崙書房出版


プロローグ 銚子の歴史はイワシの歴史
銚子に「さま」付けが3つ ⇒ 観音さま、イワシさま、玄番さま
観音さまは、街の中心にある飯沼観音で、坂東観音巡礼27番札所
イワシさまとは、マイワシやカタクチイワシなどのイワシ類で、水揚げ量の1位は今も昔もイワシ、江戸期からイワシで潤ってきた街
玄番さまとは、「田中玄番」、代々醤油を作っていた豪商で、ヒゲタ醤油の祖
銚子は江戸期から漁業と醤油と海運で栄えた街
江戸開府当時から東北方面への海運の中継地だが、17世紀後半から米・綿・藍・蜜柑などの増産をバックに農耕肥料である干鰯(ほしか)や〆粕の需要が活発になると、銚子では八手網(はちだあみ)によるイワシ漁は紀州漁民の進出もあって、隣接の九十九里浜(こちらは地引網)と並んで、江戸中期の元禄期(16881704)には全国1の干鰯・〆粕の生産地となっていく
綿から作られる木綿、染料の藍の需要は、「衣料革命」と呼ばれるほど爆発的に増大
もともと綿作りの中心地だった畿内や瀬戸内の綿の生産が急増したので、農民は競って速効性のある魚肥(イワシ)を求め、漁場が関西から関東へ進出、その中心が銚子と九十九里浜
イワシの加工品である干鰯や〆粕は、別名「金肥」と呼ばれる幕府経済を担う花形商品
銚子は干鰯、〆粕、魚油、醤油の生産地として重要だったばかりか、利根川経由で江戸へ金肥や醤油などの商品を輸送する最大の中継地として発展 ⇒ 1720年飯沼村は戸数1492、人口6819人、1804年には隣接4村の人口が13千余りを数える
江戸文化の飛び地的性格があり、銚子の取引先は江戸商人にとって道楽息子の格好の勘当先になっていた
銚子のイワシ漁は、寛永の初め(1624)西宮の漁師が来航し、イワシ網を興したことに始まる。1644年頃八手網が考案されると一段と発展、干鰯や〆粕が江戸や関宿へ出荷
1695年、飯沼村の田中玄番が海鹿島(あしかじま)に漁場をひらき、紀州人が多く渡来したこともあって、1720年の最盛期には115(漁業者の数)に達し以後減少、1768年にはさらに大不漁となって廃業が相次ぐ中、「メカリ」と称する共同経営制度による助け合いが見られる。20年後に復活するもあまり長続きせず
1864年春突如未曽有の大漁に恵まれ、《銚子大漁節》が歌われた
明治に入って又不漁
1888年、九十九里で改良揚繰(あぐり)網ができイワシ漁に大変革をもたらす
明治末期には電気着火式の石油発動機が漁船に応用され、焼玉エンジンが開発されて曳き船が動力化、2隻の網船を漁場まで曳いて行き、網船は手漕ぎ操業
1926年ごろ、本格的な機械船揚繰網になり、稼働力が一新されるが、大繩船(おおなわぶね、マグロ漁)に転換してしまう
昭和初期、イワシの豊漁が見られるようになると銚子港の築港が進み、全国屈指の漁港となる
イワシ水揚げ量の推移 ⇒ 190711:13t191214:6千~1t193636:716t194044:12t
2次大戦後の銚子の巻き網漁船の近代化は機械化の歴史 ⇒ 無線通信機(47年から導入)、魚群探知機(昭和20年代半ばから普及)、レーダーなどの導入、化繊網により軽量で耐久性が増し乾燥の手間が省ける
55年から船型が西洋型になり、材質も鋼船からFRP船へと進化、大きさも近年は80t級が主力で、戦前比倍増
戦後の銚子港のイワシ水揚げ量は、約20年間15万トンで推移していたが、72年末から突如常磐~房総沖で獲れ始め、一気に10tから、8185年には50t85年には最高の55tに達したが、翌年から急減し平成に入ると20t前後に減少
イワシ漁の他に銚子で栄えた主な漁業としては、大正期の機船底引き網漁、大正~昭和初期のマグロ延縄など大縄漁、第2次大戦後の棒受け網によるサンマ漁業などがある

第1章          まき網船頭40
鈴木は、明治末~大正初めにイワシ流網や白魚漁の家に生まれ、34t位の櫓漕ぎ船の漁に連れていかれたが、漁は刺網漁で子供の手には負えなかった
19年ごろから電気着火式の焼玉エンジンが導入され、親父は銚子で機械底引き網船の船頭の第1号。タイ・ヒラメ・ホウボウなどの高級魚が獲れだし、底引き網漁船だけで200隻がひしめく。33年父を亡くし、機関長の叔父から漁を学ぶ
支那事変勃発で38年召集され、43年には修水の渡河作戦で金鵄勲章をもらう
数え15から西廣「御嶽丸」に世話になり、戦後は船頭に昇格、85年に息子に譲るまで40年間まき網の船頭一筋でやってきた
51年の常磐沖のカツオとマグロの大群出現の際は、1網最高で13tと言われていたのを、60t巻いて鼻高々 ⇒ 落し網という掬い網で少しづつ引き上げる方法で、大漁過ぎて一気に上げると網が破損するのを防ぐ
73年、嬶ががんで逝去、享年50
1930年代、漁船が機械化し規模が大きくなると、当時でも獲れすぎて困る ⇒ イワシが海面に浮きあがった時には、海面が5寸くらい高くなって見渡す限りイワシが浮き上がったため、海の色が赤紙を流したように変わってしまう
イワシ漁は冬から入梅ごろまでが漁期。夏の漁の終わりにと冬の漁の初めはセグロイワシ漁、寒(真冬)は小羽イワシ、春の彼岸以降は中羽イワシ。漁場は北は鹿島沖、南は飯岡沖どまり。網は木綿の20(ぶし)33年頃から豊漁
夏場は素潜りでイワガキ獲り
終戦直後は大羽イワシがよく獲れたが、48年以後はセグロイワシに代わる。余り海面に姿を見せないので、カモメが海中に突っ込んでイワシを獲るのを見て網を張る「鳥掛け」漁
5051年は不漁になったが、夏以降サンマが大漁で、以後13年間千島辺りまで遠出
49年にはソ連船に拿捕され5日間抑留
52年から魚群探知機を取り付け
72年から大型1そうまき網船を使い、秋から初冬のサバ漁で、全盛期の80年頃は八戸沖と銚子川口沖で年間17億稼いで2年連続北部で3
次郎吉の先祖は元禄時代の紀州出身の鰹節造りの名職人、丹精して儲けた金を元手に川口に移転して船(漁業)を始める。以後一貫してイワシ一筋で栄える

第2章          大船頭の《大漁節》考
1864年の春、突然のイワシの大漁に湧き、その賑わいを網元、文人、俳諧師の3人が集まって《銚子大漁節》を合作 ⇒ 10番までがイワシ漁、加工場の様子、浜の風俗を歌い込み、そのあとの10番は後で作った付け足し

第3章          イワシの習性を語る
季節によって南北に回遊する ⇒ 「上(のぼ)りイワシ」「下(くだ)りイワシ」で、「八十八夜の上りイワシ」と言って八十八夜を過ぎるころから南向きが北向きに向きを変える
秋の終わりから初冬のイワシは下りイワシで、南下する群れとなり、別称「浦まわりイワシ」で、勿来の関の北側の菊田浦でイワシが揚がると銚子や波崎の揚繰網は出漁準備にかかる
八十八夜が過ぎて南風が吹くと、かならず「入梅イワシ」がやってきて2,3か月漁が続く
八十八夜が過ぎても北風が吹く年は漁がない ⇒ そういう年は昔から不漁
「イロ」とは、海面がイワシの群れで褐色に変わってしまうほど大群になる。イロイワシは潮下りするので網に入れやすい
「ザナビ」は海面がイワシの群れでさざ波が立っている状態のこと。波が立つように1方向へ動く。層が薄く、獲りやすいが、漁そのものは小さい
「ハネ」はイワシが海面を飛び跳ねる状態。「1つバネ」と言って1匹ポツンと跳ねるの方が大群。あちこちで跳ねるのは群れが薄い場合が多い
「アワイワシ」 ⇒ 足のついたイワシは条(すじ)になっている。イワシの群れの動きを見て、出船(真網、逆網のどっちの網船を先に出すか)を決める
「ハモノまわし」 ⇒ ブリ・イアンダがイワシの下に回り、イワシは寄子(よりご)になってアワを吹いて海面が真っ白になる
「潮目のアワくいイワシ」 ⇒ 春先イワシが産卵して、腹減らしてイロやザナギイワシになるが、大した漁にはならない
「シラミ」は、海面が白っちゃけるようにイワシが群れている状態で、群れの動きがよくわかる
「鳥付き」は、カモメなど海鳥がイワシの群れを教えてくれる。カモメを食ったら船頭になれぬ、とか、カモメを大事にすればよい嬶が持てる、とか言われる
朝のイワシは入り込みイワシで足がついているから、灘から沖へ向かって網を張り、昼のイワシは出イワシだから、沖から灘方向へ網を張る。他人が網を張った際で、すぐに投網するのを、「浮子(あば)下張り」といって、船頭のクズ、たかり専門のしみったれとして軽蔑
犬吠埼付近の沿岸の海流や潮流の呼び名 ⇒ 4方に分けて、東流を「出し潮」、西流を「込()み潮」、北流を「真()潮」、南流を「逆潮」と言い、南東流を「出し逆潮」、北東流を「出し真潮」、南西流を「込み逆潮」、北西流を「込み真潮」という。真潮は黒潮系の暖かい潮が多く、逆潮は冷たい潮が多い。真潮は下げ潮時に、逆潮は上げ潮時によく起こる
風も重要で、銚子では「北ゴチ」(北北東風)や「ゴチ」(北東風)が一番多い風。台風接近時に吹く「イナサゴチ」(東北東風)は一番恐い風
雨も風向きと結び付けて呼ばれ、秋から冬に多い北東風の雨を「コヂ雨」と言い、幾日も大時化続きとなるので、「ドッタリ時化」ともいう。「秋の一夜雨、二夜吹きゃ時化よ。三夜かわして雨となる」(秋の南風は2晩続くと時化になる3晩目には北風に変わって確実に雨になる)
波の種類と見分け方 ⇒ 「ナゴロ(ナグロ)」はうねりのことで、台風や低気圧が発生するとうねりが高くなる。利根川河口へ押し寄せて立つ高い波を、鹿の角の曲がり具合に見立てて「鹿波(しかなみ)」といい、一番海難事故に繋がる。空も海も良い凪なのに突然荒波が立つことがあり、「出波」といい、台風や大きな低気圧が来る前に雨風よりも早く出波が襲ってくるので、漁師は注意を怠らない
一人前の船頭になるには、「魚を獲る、天候を予測する、澪(みお)を憶える」ことが必須条件
銚子の海は海底の大半が岩盤。岸に向かって凸凹があり、高いところを台/高台と言い、台と高台の間の窪みが「澪」で、急な出波の時など澪を伝って港に入れば安全とされる

第4章          大船頭の遭難記
「銚子の川口てんでんシノギ」 ⇒ 銚子の川口は、阿波の鳴門、伊良湖岬と並んで日本3大難所。特に調子は貴見で、海難事故の死者は日本一。千人塚という慰霊碑も立つ
1938(ママ、すぐ後には37年となっている)2月、イワシ漁が終わった正午頃銚子に入港しようとして大波に遭い、第2御嶽丸50tが横転、摂氏5度の海に放り出され、辛うじて数人が救助され、若い女性が裸になって温めてくれたおかげで息を吹き返す

第5章          気象や漁の言い伝え
l  雨風の言い伝え
春 ⇒ 3月疾風と女の腕まくりは恐くない(1,2時間もすると凪てしまう)。春の月が笠をかぶると雨になる。彼岸の大糞流し(⇒洗い流すほどの大雨)。彼岸の中日、降る雨もやむ。春の夕焼け、夜に蓑出せ
夏 ⇒ 入梅は入りがあっても明けがない。5月のしぶ北、くろがね通す(⇒雨を伴った北東~真北の風が吹き続けるととても寒く、仕舞ったこたつをまた出さなければならない)。寒と土用は光から吹く(⇒ 寒中と土用の頃は稲光の方から風が吹く。他の季節は逆方向から吹く)。南東の海鳴りが高くなると台風が襲来。乞食の袋と南東風(イナサ)は夜になるほど大きくなる
秋 ⇒ 彼岸の大糞流し。彼岸の中日、降る雨もやむ。秋口の沖しぐれ、働け働け。秋の夕焼け、夜なべに鎌研げ。10月の高凪、親の借金返せ(⇒ 凪が長続きするので大漁間違いなし)。秋やま、春うみ(⇒秋は山が曇れば雨になり、春は海が曇れば雨になる)
冬 ⇒ 寒のうちのギラ凪と女のケタケタ笑いは気をつけろ。寒の靄は人を喰う(⇒ 寒中の靄は時化になる)。寒の中の南風、陸1升海3(⇒寒中の南風が吹くときは、海上へ行くと陸上の3倍の風力になるので要注意)
季節を問わず ⇒ 40女の浮気と朝降り出した雨は止まらない。宵の時雨は明日は凪
海とカモメに関する言い伝え ⇒ カモメは福鳥といって、昔の人は神の使いのように信じていた。カモメが群れをなして飛ぶときはイワシはいない。岸辺や浜にカモメがいっぱいいるときは、イワシが来ている

エピローグ 大船頭、絵馬を奉納す
黒潮に運ばれて紀州をはじめ関西方面から伝えられてきた生活様式の総称を、房総では「黒潮文化」という ⇒ 「漁絵馬」もその1
絵馬に描かれた漁法は地引網が圧倒的に多く、揚繰網、八手網もあるが、銚子には1枚もなかったので、91年鈴木大船頭の発案で名洗の漁民11名が地元の画家に頼んで地元の不動堂に《名洗不動堂と大鯨の由来記》と銘打った絵馬を奉納 ⇒ 150年ほど前に屛風ヶ浦、田尻沖に鯨が遊泳、飯岡漁民との奪い合いに勝って名洗に持ち帰り、その鯨の油で得た金を基金にいまの不動堂が新しく建立遷座できた



(天声人語)入梅いわし
2019612 500分 朝日
 梅雨の訪れとともに、千葉県の銚子漁港には年間を通じ最も脂がのったマイワシがやってくる。旬は6月末から7月半ば。地元では「入梅(にゅうばい)いわし」と呼ぶ銚子市水産課に聞くと、江戸後期の文献でも言及されているという。「銚子では誰もが知っている言葉です」と長谷川政代(まさよ)さん(61)。銚子駅前で、夫婦で飲食店を営む。「背中の薄い皮をむくと3ミリほどの白い脂が見えます。とろりとした甘さが絶品です」自慢の魚を広めようと、長谷川さんたちは「銚子うめぇもん研究会」を立ち上げ、4年前に「入梅いわし祭」を始めた。6月と7月に限って、刺し身に天ぷら、漬け丼、つみれ汁とイワシを存分に堪能してもらう試みだ。参加しているのは6店舗だが、当初1千人だった客足が昨年は2倍に伸びた漁の歴史を記した『大船頭の銚子イワシ話』(崙〈ろん〉書房)によれば、漁の始まりは江戸初期。昭和の初めの大豊漁ぶりはいまに語り継がれる。「イワシが取れすぎて困った」「大群で海面が浮き上がり、水の上を歩けるようだった」極上の味をうむのは栄養たっぷりの海。銚子沖は親潮と黒潮がぶつかる絶好の漁場だ。国内随一の水揚げを誇る銚子漁港には1600隻もの船が所狭しと並び、飲食店が軒を連ねるマイワシの漁獲は平成に入って各地で落ち込み、銚子でも最盛期の5分の1に満たない。それでも岸を人々が行き交い、駅には祭りを告げるのぼりがはためく。イワシとともに歳月を重ねた街は梅雨時もにぎわう。


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