海をめぐる対話 ハワイと日本  小川真和子  2020.1.5.


2020.1.5.  海をめぐる対話 ハワイと日本 水産業からのアプローチ

著者 小川真和子 東京都出身。小学校から高校まで三重県。2004年ハワイ大アメリカ研究学部大学院博士課程修了。アメリカ研究博士(Ph.D)取得。独立行政法人水産大学講師、準教授を経て、12年より立命館大文学部教授。主な著書に『海の民のハワイ ハワイの水産業を開拓した日本人の社会史』

発行日          2019.9.5. 初版第1
発行所          塙書房

19世紀後半から太平洋戦争を経て現在に至るまでのハワイの水産業と日本の海の民の歴史を聞き取りを交えて描く

序 海をめぐる対話のはじまり
2018年は日系移民150周年
日本からハワイへの最初の集団移住は1868年、江戸城明け渡し後の混乱の仲で始まる
在日ハワイ王国総領事で貿易商人だったアメリカ人ユージン・ヴァン・リードの計らいで、横浜・江戸から集められた約150人の年季奉公契約移民が渡航。渡航準備中に幕府が滅亡し、新政府はハワイへの渡航許可を取り下げたため、元年者の出国は違法でその後途絶えたが、1881年ハワイ王国第7代国王カラカウア(在位187491)が日本に立ち寄り、明治政府との間で官約移民の条約を締結、日布(にっぷ:布哇=ハワイ)間の人の流れが復活・加速、85年の移民開始以降西日本を中心に急増
当時のハワイ王国の経済は、ビッグ5と呼ばれる白人財閥(アレキサンダー&ボールドウィン、アメリカンファクターズ、C・ブリューワー、キャッスル&クック、テオ・H・デービス)の支配下にあり、アジア系など海外から動員した労働者を砂糖キビやパイナップルのプランテーションで働かせていた
日本人労働者が白人財閥に搾取されていた頃、海では日本人が操るサンパンと呼ばれる和式漁船が漁場を独占した上、水産業界全体で日本人が指導的な立場にいた
1930年代以降は、日本海軍のスパイと見做された日本の海の民は、漁船を取り上げられ、強制収容所に送られ、ハワイの日系移民の多くが強制収用を免れ、制約下とはいえ、戦時中も自宅で日常生活を送ることができたのと好対照
海に進出した日本の海の民は、ハワイでどのように生活し、家族やコミュニティを作って来たのか。海をめぐる対話を通してどのようにハワイの水産業を育て、今日に伝えてきたのか
本書は、日本の海の民を主役に据え、その周囲の人々との交流を通してハワイの水産業の諸相を描き出す歴史物語

I ハワイにおける日本人漁業のはじまり
ハワイの8つの主要な島々は、海底火山の噴火と太平洋プレートの移動によって形成されたため、どの大陸とも地続きになったことがなく、独自の進化を遂げた多くの固有種が生息、高等植物の約89%(1,400)、陸鳥の90%(100)、昆虫類が99%(10,000)と割合が高い
周辺海域は深く、寒流のため珊瑚礁も発達していない
紀元後100300年にマルケサス諸島経由ハワイ諸島へと移動+
ポリネシア人の赤ん坊には蒙古斑点が見られることがあり、日本人の遠い親戚と考えられる
ハワイに定着したのは8001000年頃で、階級社会を築き、陸では主食であるタロイモを育て、海では珊瑚礁の小魚から沖のカツオ漁まで行っていた
日本の海の民も、果敢に未知の海へと漕ぎ出し、特に紀州は古代より日本における漁業の先進地として日本各地の海に出漁しては、技術も広めてきた。維新後は鎖国体制の解除もあって真珠貝を狙ってオーストラリアへ、さらにラッコなどの毛皮やサケを求めてカナダやベーリング海へと出ていく
1778年ジェームズ・クック率いるイギリス船隊が初めてハワイの存在を欧米に知らしめるが、イギリス人軍事顧問を雇ったカメハメハが1810年ハワイ諸島を統一して王国を樹立、欧米との貿易を促進する一方で、キリスト教布教を禁止したが、やがてハワイに定住した欧米人の子孫が砂糖キビ栽培を始め、欧米人が持ち込んだ病気によって人口が激減、クック来航時には2050万はいたとされる原住民は、1831年には13万、1849年には8万へと減少。労働力の減少を補うために移民が導入され、砂糖の生産が主要産業となるにつれ輸出先のアメリカの発言力が増し、1850年に外国人の土地所有が認められると、1890年までにハワイ全土の3/4が欧米人のものとなった
1885年日本からの最初の官約移民945人がハワイへ ⇒ 周防の漁師中村馬太郎は3年の年季明けにカウアイ島に移住して漁業を始める
ハワイでは、古くから建設や維持管理のために多大な労力を要するボラなどの養魚池を持つことが、首長の権力の象徴とされており、ハワイ王国にとっても養殖業は重要な産業の1つで、1900年時点で103か所もの養魚池があり、ボラが高値で取引されていた
欧米で進展した工業化によって鯨油の需要が高まった18世紀半ばには、捕鯨基地としても栄え、欧米から17千もの捕鯨船が来たというが、石油の登場で廃れる
自給自足的漁業から、商品としての魚を大量にとって大量に売り捌く近代的な漁業へとハワイの漁業を転換する原動力となったのは日本人 ⇒ 紀州出身の中筋五郎吉が立役者
紀州では明治に入ると真珠貝の潜水漁を狙ってオーストラリア北部へ出稼ぎに行く漁民が増えたが、中筋は白豪主義を嫌ってハワイに向かった
地元漁民との軋轢を経ながら、漁法や漁具などの知識に加え、投網や疑似餌の技術なども教え、両者の交流が始まる
1887年カラカウア王は、王権を制限し、多くのハワイ人から参政権を奪う銃剣bayonet憲法承認を余儀なくされ、91年逝去後に即位した妹は復権を試みたが、親米住民と米軍がクーデターを起こし93年王国滅亡
クリーブランド大統領はハワイ併合に否定的な立場をとったため、ハワイの親米派は実業家のサンフォード・ドールを大統領とするハワイ共和国を設立するが、98年の米西戦争でフィリピンに向かう米戦艦の補給基地としての戦略的重要性が認識され、マッキンレー大統領と米連邦議会によってアメリカに併合され準州となる
ハワイ王国と友好関係にあった明治政府は、クーデター直後に在留邦人保護の目的で戦艦を派遣、太平洋においてアメリカが勢力を拡大することに対し牽制。政府主導の官約移民は終了し私約移民が取って代わるが、米国による併合とともに契約移民制度そのものが違法で無効とされ、日本人も自由に職業を選べるようになる
20世紀に入ってハワイの日本人人口が急増 ⇒ 1900年には5万人(ハワイ全人口の40)だったものが、その後の8年間で30%も増え、魚介類の需要も膨らむ
1880年代から「紀州カツオ組」といわれるカツオの1本釣り船団形成
出身地別では、沖家室島(周防大島町)出身者が多く、1919年には200人以上が操業
1907年沖家室島出身者がヒロにスイサン株式会社設立、翌年にはホノルル在住の日本人実業家により布哇漁業会社誕生、日本人漁業が大いに発展。1917年には日本人人口が10万を超え、総人口の40%に達した

2018年、ワイキキにて元年者150周年記念シンポジウム開催 ⇒ 元年者の多くは京浜地区の職人で農作業に不慣れだったため、砂糖キビプランテーションでの就労は困難で、明治政府に窮状を訴えたところ、政府はハワイ王国と交渉し、希望者の移住を認めさせ、150人の1/3は帰国、1/3は米本土へ移動、残りの多くはハワイ人女性などと結婚して住み着き、現在最長は8世を数え、「日系レガシー」の礎となっている

II ハワイの日本人漁業を巡る議論と漁労の様子
日本人の急激な台頭に対し、準州議会は本土の動きと連携して排斥に動く ⇒ 西海岸でサケ漁やアワビ潜水漁をしていた日本人が、ツナ缶の開発によって白人の間に魚を食べる習慣が広がると、特に和歌山出身の漁民がビンチョウマグロ漁に急増、南加のサンペドロには日本人漁村を形成。特に日露戦争後は、日本人移民の急増が日本のアメリカ侵略と結び付けられて受け止められて排斥の動きが加速。1908年には日米間で日本政府による新規労働者への旅券発給を自粛する紳士協定が締結されたが、「写真花嫁」のような形での日本人のアメリカ流入は続き、排斥運動はやむことはなかった
1920年代にはハワイにおける漁業はほぼ日本人の独占状態となり、州当局も積極的に日本に協力を求める姿勢に転換 ⇒ 日本から鮎やマスの卵、牡蠣、アサリなどを取り寄せて放流する事業も始まる
1917年ホノルルに汎太平洋協会設立 ⇒ アレクサンダー・ヒューム・フォードらが中心となって、太平洋地域の相互理解を深める運動が活発化。その一環として20年代後半にはハワイ黒蝶貝(真珠貝の一種)の群生発見に合わせ真珠貝の養殖事業に御木本が呼ばれ、実現はしなかったものの、各種の水産業の振興策が国際協調運動と結びついて進められたため、海からの排日の声は消滅
日本人漁業が最盛期を迎え、造船業や水産加工業が活発化。カツオ1本釣りとマグロ延縄(はえなわ)漁、網漁が主。官民一体となって、それまで漁民の「勘と経験」のみに頼っていた漁業を科学的な観点から改良し、政治が又それを後押しする動きが活発化

III ハワイにおける日本人漁村の生活
過度の飲酒とけんか、粗暴な振る舞いが当初は顰蹙を買ったが、人口増加とともに街が形成され秩序が確立。家父長的権威も農村に比べると弱く、土地の長子単独相続も経済的基盤となっていない漁村では、女性も労働力として大きな役割を果たす
1930年代は日本人水産業の最盛期で、以降日米関係の悪化とともに陰り始める

IV 戦争と海
ハワイの日本人漁民を日本の帝国主義の手先と見做す動きがワシントンの連邦政府や軍関係者に少なくなく、ハーディング大統領によって組織されたハワイアン労働委員会からもたらされた誇張を含む情報による警戒心から、1930年には非市民の所有する漁船が捕獲した魚に課税が始まる ⇒ 準州政府の反対で廃止となったが、圧力は高まるばかり
1939年、準州の抵抗をよそに、漁船の所有と操業をアメリカ市民に限定する連邦法を施行し、後にハワイで大きな問題を引き起こす
真珠湾攻撃勃発により、準州が戒厳令下に置かれ、日本人の漁労や漁船への乗船が禁止され、船舶の没収は65隻に及ぶ。日本人移住者とその子孫157千人全員の収容は不可能だったため、選択的に強制収容され、43年にはオアフ島中央部にホノウリウリ収容所が急造され捕虜も含め700人余りが収容
1944年、戒厳令は解除されたが、海は海軍の管理下にあり、日本人及びその子孫の漁労が許可されたのは457
歴代の準州知事や準州政府関係者が、一貫して日本人漁業を保護する立場から、日本漁船排除を要求する米海軍やルーズベルト大統領に対抗したことは特筆に値
ハワイの漁業を守ることができたのは、カヌーなどの小型漁船を操って漁労を続け、たとえ僅かな量であっても地元の消費者に鮮魚を届けたハワイ人やフィリピン、ポルトガル系の漁民の貢献も忘れてはならず、戦後の復旧、復興に際して役立っている

V ハワイの海の戦後
オアフ島で日本人の会社によって鮮魚のセリが復活したのは52
日本の海の民との交流が再開したのは、1953年下関市の水産講習所の練習船・俊鶻丸のホノルル訪問がきっかけ。同年全長18mのマグロ延縄船紀南丸進水。船主は強制収容されていた現田辺市出身の漁師
ハワイの社会や経済構造が大きく変化すると、新しい雇用が次々と生み出され、地元の若者はますます海を目指さなくなり、漁船船団は縮小の一途をたどる
日本の委任統治領がアメリカの支配下にはいり、ハワイの漁業を拡大すべく地元は積極的に動こうとした矢先、46年マーシャル諸島での原爆実験が始まり、58年までに計67回の核実験が行われ、ハワイ水産業界の夢は挫折
沖縄の米軍基地の恒久化のために沖縄住民の懐柔が必要となり、米国政府が目を付けたのが沖縄の住民と血縁関係を持つハワイの沖縄系移民(オキナワン)の交流 ⇒ 民間人を巻き込んで琉布(琉球と布哇)ブラザーフッドプログラムが作られ、漁業研修制度も始まり、70年後半まで続いたが、当時ハワイの全漁獲高の約半分を占めたカツオの不漁で立ち消え

結 海をめぐる対話はつづく
20世紀初頭に日本の海の民がハワイへ持ち込んだ漁村の文化や、作り上げた水産流通の仕組みが、100年経っても保持されている
ハワイ州全体では、軍事産業や観光業、建設業、製糖業などが興隆し、漁業は相対的な地位を低下させ、70年代以降は都市化の進捗とともに州人口の約8割はホノルルに集住したため、水産物もまたホノルルやその近郊に集まった
漁業従事者も日本人から様々なエスニックグループに取って代わり、65年移民法改正によってアジアからの移民が容易になると韓国人漁民が急増、ベトナム人グループ、本土の白人のグループとともに3大漁民グループを形成
州知事の肝いりで、築地に似せたフィッシングビレッジ構想が進められ、魚市場や水産物の卸売りだけでなく、レストランなども併設した観光客の集客施設となる
海の安全を願う気持ちを受け止めてきた日本の海の神様たちも健在 ⇒ ホノルルのハワイ金比羅神社は1940年代後半、存続そのものをかけた戦いとなった訴訟に勝って社殿を取り戻したが、漁民の現象で財政難に苦しみ、福岡県出身者の要請に応える形で52年太宰府天満宮の分霊を運んできて境内に新設された社殿に祀る
ハワイ金比羅神社の変遷は、日本の海の文化が次第にその枠組みを超え、やがて万人にとっての「海の神様」へと変化していく過程を物語るが、かつて日本の海の民が持ち込んだ文化や産業の仕組みは、100年以上もの時間をかけ、いろいろな人々との対話を通じて変化するものは変化し、残るものは残りつつ今日に至る
ハワイの海と日本の海が結んだ縁は、現在も双方の人々によって大切に守られ、互いの間で交わされる対話は、世代を超えて新たな未来を紡ぎ出している





海をめぐる対話 ハワイと日本 小川真和子著
移民が伝え席巻した水産業
日本経済新聞 朝刊
20191026 2:00 
初めてハワイ島のヒロを訪ねた時、日本の古い町並みを思わせる風情に嬉しくなった記憶がある。それもそのはず、今から100年ほど前の、まだハワイの人口が25万人ほどだった時に日本人移民は10万人を超え、ヒロの湾内に日本の漁船がひしめき合っていたという。本書は、日系移民の研究でもあまり取り上げることがなかった日本の海の民が、様々な人たちと交わりながらハワイの水産業を育てていく物語である。

日本から最初のハワイ移民が出港するのは江戸幕府滅亡の寸前だったが、海の民がやって来るのは、ハワイがアメリカに併合される19世紀末。最初は紀州(和歌山)の漁民だった。彼らはあのカツオ一本釣り漁をハワイにまで伝えていたのだ。前後して広島県や山口県の漁民が増加してくるが、当時のハワイは自給自足的な漁業だったから、またたく間にハワイの水産業を席巻する。やがて郷里から縁故者を呼び寄せ、資金を出し合って近代的な水産会社を設立するが、必要とあれば「搾取する側」の白人をも取り込んで会社を運営するしたたかさは、いかにも海の民らしい。
陸では農業移民が搾取される傍ら、1920年代になるとハワイの水産業は日本人漁民の独占状態だった。「アジやハマチ、シビ(マグロ)など、数多くの日本語の魚の名前が地元に定着していった」というから、その影響はハワイの文化にまで及んでいる。
急増する日本人移民に、アメリカ本土で排斥の波が広がるが、ハワイでは様子が違った。むしろ日本人漁民を保護する立場をとったのである。彼らを締め出したらハワイの水産業は成り立たないことがわかっていたからだろう。だが、それも戦争が始まるまでだった。
移民といえば苦労話がつきものだが、海の民の物語にはそれほど悲壮感がない。土地に縛られる農民に対し、海を自由奔放に移動する彼らに、国境を含めて境界という観念がないからだろう。ハワイへ行くのは、隣の島に渡る感覚なのだ。情緒的な描写が少なく淡々としているのは、著者が研究者だからだろうが、それでも海の民の行動力には圧倒されっぱなし。かつてこんな日本人がいたことを、今こそ誇りに思いたい。
《評》ノンフィクション作家 奥野 修司
(塙書房・2300円)
おがわ・まなこ 東京都生まれ。立命館大教授。ハワイ大大学院博士課程修了。専門はアメリカ研究。著書に『海の民のハワイ』。



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