ティンパニストかく語りき 近藤高顯 2020.1.2.
2020.1.2.
ティンパニストかく語りき
著者 近藤高顯 1953年神戸市生まれ。公益財団法人新日本フィルハーモニー交響楽団、紀尾井シンフォニエッタ東京の首席ティンパニ奏者。桐朋学園大学特任講師、洗足学園音楽大学オーケストラ非常勤講師。演奏家として活躍するかたわら、学研「200CDシリーズ」のコラム・解説など、執筆活動も行う。東京藝術大学音楽学部卒業。有賀誠門、高橋美智子両氏に師事。卒業後、1980年よりDAAD(ドイツ学術交流会、返済不要の給付型留学奨学金制度)給費留学生としてベルリンに2年間留学し、ベルリン芸術大学にてフォーグラー教授に師事。帰国後の1985年に打楽器兼務ティンパニ奏者として新日本フィルハーモニー交響楽団に入団。89年より首席
発行日 2017.9.12. 第1刷発行
発行所 学研プラス
初出
『200CD オーケストラの秘密』(立風書房1999年8月)
『200CD “指揮者”
聴き比べ』(立風書房2002年4月)
『200CD オーケストラこだわりの聴き方』(立風書房2004年4月)
『200CD ベルリン・フィル物語』(学研 2004年10月)
『200CD 交響曲の秘密』(学研 2005年6月)
新稿
第1章
『ゲーテ・インスティテュートでの語学研修』
第2章
『マエストロ朝比奈との思い出』『マイスター・エーネルトを訪ねて』『すみだトリフォニーホ-ルへのフランチャイズ』
第3章
『カラヤンの振り違い事件』『ふたつの貴重なBPOエキストラ体験』『首席奏者になったベルリン留学時代の同級生との日本公演』『和太鼓奏者、林英哲さんとの協演(ママ)』『紀尾井ホール室内管弦楽団”ドレスデン紀行”』
第4章
『オーケストラvs指揮者』『私が出会った素晴らしいティンパニストたち』
第1章
“叩き上げ”人生のはじまり
Ø 運命を変えたLPのアンケートはがき
1966年カラヤンの大阪国際フェスティバル・ホール公演に応募して当選したのが音楽の道に進むきっかけ ⇒ 初めて生で聴いたオーケストラのコンサートで、シュトラウスの《英雄の生涯》
県立高校を中退して東京音大附属高校に入り直し、”打楽器”ではなく”ティンパニ”に向かい、高2で東京文化会館所属のアマチュアオケ「都民交響楽団」のオーディションに合格、19歳の頃から文化会館の満員の聴衆を前にステージ経験したことはラッキー
Ø 我が師、フォーグラートの出会い
藝大に進んだ2年目に6度目のベルリン・フィルの訪日コンサートで、ティンパニの響き、存在感に圧倒され、その奏者フォーグラーに出会い、弟子になると決めてドイツ語から勉強
2年後の79年、再来日したフォーグラーを訪ねて、Berliner Philharmonisches Orchesterの本革のティンパニを竹のマレットを使って演奏させてもらったのが一種のテスト。2週間後にDAADを受けるため、フォーグラーから受け入れ書をもらうことに成功。合格して80年5月リューネブルクのゲーテ・インスティテュートで4か月の語学研修を受けた後、ドイツ芸術大学のフォーグラー・クラスに入学
Ø ゲーテ・インスティテュートでの語学研修
Ø フォーグラー教授のもとでのレッスン
藝大のアメリカンスタイルと違って、ジャーマンスタイルのティンパニは並べ方が左右逆
竹の柄のマレットを自作
ティンパニは女性名詞 die
pauke 4人の女性それぞれに合った接し方が必要
フォーグラーがイライラしていたのは、カラヤンとのレコーディングや本番が続くときで、首席のテーリヒェンがカラヤンと対立していたために、フォーグラーに出番が回ってきたためだった
2年の勉強が終わった時、不―グラーは今後も無料でレッスンすることを約束、実行してくれた
Ø ベルリン・フィルハーモニー・ホールで学んだこと
本当のBPOサウンドはベルリン・フィルハーモニー・ホールでしか聴くことはできない
初のコンサートはテンシュテットとのドヴォルザークの交響曲第8番。コントラバスとティンパニが融合した響きを聴いた時の驚きと体験が、後の私のティンパニの音のイメージ作りの原点
ホールが最高の勉強場所だったのは、指揮者を真正面に見ながらオーケストラを後ろから観察できる”ポディウム席”があったからで、本来はコーラス専用の席
Ø もう一つの修行、バチづくりと革張り
バチの選択に関して、譜面上で具体的な指示をしている作曲家はベルリオーズ、R・シュトラウス、マーラーなどで、パート譜やスコアに、”木の頭のバチで”とか”フェルトのバチで”と記されている。それ以外は奏者の判断に任されている
伝統的に”山羊の皮”をヘッドに使っているウィーンのオーケストラはほとんどが、”ネル”の生地を縦に20数枚重ねてネジでプレスしたフランネル・マレットを使う
仔牛の背中の皮の貼り方も学習 ⇒ 約10分前後水に浸して伸びたところではり、乾燥する前にはり終える
Ø ベルリン・フィル黄金期のティンパニ・打楽器セクション
66年BPO来日時の首席はアヴゲリノス。彼とテーリヒェンがフルトヴェングラー時代の奏者。カラヤンの時代になってアヴゲリノスの後任として70年に入ったのがフォーグラー。86年にテーリヒェンの後任としてライナー・ゼーガースが入団
打楽器セクションはレンベンス、ミュラー、シュルツの3人だが、演奏中に「合わせよう」と気を遣う場面を一度も見たことがない。”点”で合わせるのではなく、音楽の”呼吸とフレーズ”、そしてBPOのお家芸でもある”うねり”をどのように感じながらプレイするか、それが彼らのやり方
テーリヒェン(1921~2008)は、ベルリン音楽大学に学び、ベルリン・コーミッシェ・オーパー、ハンブルク州立歌劇場、ベルリン国立歌劇場を経て48年BPO入団、首席としてフルトヴェングラーとカラヤンの双方に仕えた。極めつけの名演はブルックナーの交響曲第8番の第4楽章のティンパニ・ソロ。ティンパニの役割はテンポやリズムを刻むことにあるが、彼のアプローチはテンポを「縦に刻む点」ではなく、「横に流れるラインとうねり」としてとらえようとする。『フルトヴェングラーかカラヤンか』という著書でセンセーションを巻き起こしたが、80年のロンドン公演のブルックナー第8交響曲のリハでティンパニに必要以上の大きな音量を求めたカラヤンと決定的に対立し、以後二度と共演することはなかった
オスヴァルト・フォーグラー(1930~)は、ドルトムントの音楽大学に学び、ハーゲン交響楽団、ボッフム交響楽団、70年異例の40歳でBPO入団(ドイツでは特例を除き35歳を過ぎるとオーケストラを移籍できない)、カラヤンの黄金期を支えた。音色、奏法とも、ドイツ的イメージからするとかなり異色で革新的なもの。大きめのバチでひたすら重厚な音色感で視野的にもどっしりしたスタイルから、視野的にもシャープで音の切れが良く、音色も明るかった。トレモロも方向性に富んだ広がりが感じられ、透明感があり、テクニックも合理的で無駄がない。97年定年退団と同時にすべてを辞す
ライナー・ゼーガース(1952~)は、ハノーファー国立音楽大卒、ブラウンシュヴァイク歌劇場からケルン放送交響楽団を経て84年BPO入団。音楽一家に育った天才肌。ハーモニー感に優れる
ハンス=ディーター・レンベンス(1933~2010)は、父から音楽を学び、62年BPO入団。98年定年退団
フレディ・ミュラー(1942~)はカッセル音学院で学び、ゲーゼンキルヒェンからドゥイスブルクの首席を経て72年打楽器奏者としてBPO入団。08年定年退職
ゲルノット・シュルツ(1952~)は、ハンブルク音大卒、ヴュルテンベルク国立歌劇場を経て74年BPO入団。テクニシャンでカラヤン/BPO黄金期に最年少の打楽器奏者として重要な小太鼓パートを一手に任されていた。04年退団し指揮活動に専念
第2章
オーケストラの現場で“叩き上げ”
Ø 留学を終えて始まった現場での“叩き上げ”
84年新日本フィルのアシスタント・ティンパニ奏者のオーディションを受け、翌年から打楽器兼務のティンパニ奏者として入団。ティンパニ奏者の公募のオーディションは日本ではほとんど例がなく、年功序列で打楽器セクションである程度の経験を積んだ人がティンパニ奏者に移るのが普通だった
N響を退団して新日本フィルにいたホルン奏者の”バーチ”こと、故千葉馨は、ティンパニが大好きで、オケの中でその重要性を熟知しており、徹底的にしごかれた
小澤の指揮から学んだのは、「指揮者の”棒の点”を追って合わせても何の音楽にもならない」ことで、オーケストラ奏者の仕事とは、「指揮者が示していることを咀嚼して音楽にすること」で、指揮者の棒についていくだけでは音楽にはならない
Ø マエストロ朝比奈との想い出
85年から01年逝去されるまでの16年間のお付き合い
オーケストラがテンポに乗って進み始めたら、指揮者はむやみやたらに棒を振り回すものじゃない。ティンパニがリードしているような場面ではティンパニに任せる、というのが持論
朝比奈と共演する者にとって「どのタイミングで音を出すのか?」という問題は難しいことで、何ともわかりにくい瞬間の何とも言えない間が、重厚で立体的な響きを生んでいたことは間違いない
分かりやすくて縦の線がとても合いやすい棒というのは一見やりやすいが、実は平面的で軽い音しか出なくて、つまらないのではないか。棒のテクニックがあって分かりやすい指揮者との共演は、オーケストラ奏者にとって楽だが、音楽の”流れ”と”うねり”を表現するには、チョット下手で分かりにくい指揮の方が良い場合が多いと思う
朝比奈の棒には、斎藤秀雄指揮法でいうところの”点”が全くと言っていいほどない。逆にこのことが朝比奈の重厚な響きの秘訣だったのかもしれない
ベートーヴェンもブラームスも楽曲の骨組みをティンパニという楽器に担わせた代表的な作曲家だが、朝比奈は曲作りの過程でティンパニに課せられた役割を正しく位置付けて評価し、この楽器がオーケストラでどのような立場にあって何をなすべきなのかを常に考えさせてくれた。「細かいことに捉われず、大胆かつ繊細に信念と確信をもって曲に臨め」
Ø マイスター、エーネルトを訪ねて
ドイツのレフィーマ社のカール=ハインツ・エーネルトが作るティンパニの音に魅せられて91年入手。今は息子のシュテファンが継ぐ
Ø すみだトリフォニーホールへのフランチャイズ
97年すみだトリフォニーホールにフランチャイズ・オーケストラとして引っ越し
85年国技館が両国に復帰したことを歓迎して墨田区で始まった故石丸寛指揮による「国技館5000人の第九コンサート」がきっかけとなって、当初1回限りのイベントとして行われたが、区民の盛り上がりから第2回目が行われたものの、ムードは徐々に萎みかけた、そんな中ある人が”音楽都市”といった一言が墨田区の行政と結びつき、音楽を通して町の未来を作っていこうという姿勢が生まれ、第3回目は「音楽都市をめざして」というテーマが掲げられ、第4回目が行われた頃、錦糸町駅北口の総合開発とともに文化会館を建設する話が進む。トリフォニーホール自体の計画は81年に発足しているが、88年にホールの基本構想が策定され、文化会館としてオーケストラをフランチャイズしようということになって、練習場所を転々としていた新日本フィルが迎えられた
第3章
“他流試合”で学んだこと
Ø カラヤンの振り違い事件――1984年カラヤン/ベルリン・フィル日本公演
フォーグラーからの依頼でトライアングルにエキストラ出演
大阪のザ・シンフォニーホールでの《ダフニスとクロエ》の5/8拍子の場面でカラヤンは3+2の5拍子を何度も振り間違える。ソロ・ホルン奏者ザイフェルトが、カラヤンにも聞こえているに違いないくらいの大声で拍子の振り分けを数え始める。ただでさえカラヤンとBPOは、ザビーネ・マイヤーの入団を巡って抜き差しならない状態になっていて、初日のレスピーギの《ローマの松》でも、音が出たあとから棒が楽器の方へ向くような指揮をしていて、いつものカラヤンとは明らかに違っていた
公演初日の夜、《ドン・ファン》なのに、カラヤンは緩やかな4拍子を振り始めたため、オケは誰も入れない。カラヤンは閉じた目を開けて促すような目つきで木管楽器に視線をやりまた目を閉じて同じ4拍子を振り続ける。思い余ってオーケストラは自主的に《ドン・ファン》に突入。我に返ったカラヤンは苦笑しながらティンパニ・ソロの入る直前辺りでオケを止め、微笑みながらも一瞬の間を置き、今一度渾身のエネルギーを込めて《ドン・ファン》を振り直した。《ライヴ・イン・大阪1984》と題したDVDにはハプニングの部分はカットされているが、この事件を知っている人の間では、あのときカラヤンが振ろうしていたのはドビュッシーの交響詩《ラ・メール》だったと言っているが、私は彼のテンポと表情から《ダフニスとクロエ》に違いないと思っている
一方で、休憩後の《ローマの松》は歴史的な名演となった
Ø ぶっつけ本番”俎板の上の鯉”の私――1986年チェリビダッケのミュンヘン・フィル日本公演
エキストラ奏者として共演
ムソルグスキーの《展覧会の絵》の《キエフの大門》の打楽器をとの依頼だったが、スコアには鐘しか書いてない。講演の初日、会場の松戸の聖徳学園に向かうバスが首都高の渋滞で遅れ、ゲネプロの時間は15分のみ。その上、首席のリートハマーからその時になって大太鼓をやってくれと言われ、引き受けたものの”チェリビダッケ・ヴァージョン”というのを説明され面食らう。チェリビダッケは”極端に遅いテンポ”で有名だが、テンポも表情も刻々と変化する曲《展覧会の絵》では予測がつかない。僅か1度音を出しただけで本番へ。危機一髪の場面の連続で、ただひたすら団員と一緒にチェリビダッケが示す音楽を謳いながら、無我の境地で彼の音楽に寄り添おうとした結果だった
同一プログラムを各都市で演奏したが、一夜とて同じことの繰り返しが許された日はなかった。チェリビダッケも生涯スタジオでのレコーディングを拒否し続けたように、「”音楽”とは、その時その時の時間の経過とともにその空間に生まれ、そしてその空間に消えていく」と自身で言っている
「オーケストラの音を磨く」という点で、カラヤンの音楽へのアプローチの特徴は、”レガート”と”豊潤なオーケストラ・サウンド”作りにあり、チェリビダッケの場合は、作曲家のテンポの指示はあくまで2次的なもので、「そこに書いてあるすべての音符がどう雄弁に鳴りながら、意味をもって聴衆に語りかけるか?」ということが何より大切で、テンポが速すぎて書いてある音符の1音でも聴き取れないような音があってはならないという
“アダージョ”と指示されていてもさらにゆったりとしたテンポで演奏され、通常50分くらいの曲が1時間を超えることもざら。若き日にBPOを指揮した《エグモント》序曲はエネルギッシュで速いが、晩年テンポ設定がどんどん遅くなっていった
チェリビダッケ曰く、「音楽とは時間の呪縛ではなく、何かが動き始めたところに生まれ、人は時間を超越したところに生きている。世の中には定義し難いものが無数に存在していて成り行きに任せるしかないときもある。音楽の流れとて同じで、自然に流れているものに人は手を出してはいけない。私たちにできることはただ一つ、この素晴らしい創造物を妨げず、音楽の流れに身を任せるということである」
ある先輩は、チェリビダッケと素晴らしい演奏体験をした後、再会したらただの我儘な意地悪偏屈爺さんでしかなかったと言っていたが、札幌での会場練習の時、1時間半以上も《エグモント》序曲だけを執拗にやり続けていた姿に、もう一つの片鱗を垣間見た気がする
独自の”カリスマ性”という面でも、カラヤンは独裁的な方法で”オーケストラの帝王”とまで言われたが、チェリビダッケが持っていた”カリスマ性”とは、求める音楽のために一切の妥協を許さず、そこへ向けてのありとあらゆる努力と犠牲をオーケストラに強いたところにあった
Ø ふたつの貴重なBPOエキストラ体験――1986年小澤征爾、1994年アバド/ベルリン・フィル日本公演
86年サントリーホールのこけら落とし公演は、カラヤンのピンチ・ヒッターとして小澤征爾が振り、私も《英雄の生涯》に、一番出番の少ない中太鼓で参加
当時まだ新日本フィルで小澤の棒の見方が全く分からず悩んでいた自分にとって、BPOが小澤の棒に対してどんな反応をするのか観察できる絶好の機会
小澤の棒にしっかりついていく部分と、小澤がどんなに必死にタクトを動かそうと梃子でも動かず、オケ本来の演奏スタイルで押し通す部分の両方がある
自分は明快過ぎるくらいな小澤の棒の”点”ばかりを追いかけていたが、BPOを見ていると”呼吸”こそがすべてで、明快な棒の小澤との組み合わせでは”大きな溜”や”うねり”の部分は少なかったような気がする
94年の公演ではアルバン・ベルクの《弦楽器のための3つの小品》で銅鑼を任された
カラヤンの後任として2度目の来日で私は初めて接したが、曲の流れより指揮棒を早く動かす早や振りのため何拍目を振っているのかわかりにくかった
アバドの棒がいつ動き出したのか全く分からず、危うく曲のはじまりの音がなく「落ち(る)」かけて怖い思いをさせられた
Ø 忘れ得ぬ名演! マーラーの交響曲第2番《復活》――1996年アバド/ベルリン・フィル日本公演
マーラーの《復活》でキャストはマクネアーのソプラノ、タラーソワのメゾ、合唱がスウェーデン放送合唱団とエリクソン室内合唱団。リハではBPOとは思えないほどアンサンブルが乱れたが本番では最高の音楽性と集中力を見せたが、終楽章の合唱は圧巻
BPOの底力も圧倒的で、音がうねり、床が地鳴りのように響く、まさに”渦巻く音の絵巻”。BPOはウィーン・フィルと違って、演奏方法をホールにマッチするようには変えずに、どこで演奏しようが本拠地フィルハーモニー・ホールと同じように演奏する
Ø 首席奏者になったベルリン留学時代の同級生との日本公演――2017年NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団(旧北ドイツ放送交響楽団)
NDRの首席ティンパニストのシュテファンの招きでエキストラ奏者として共演
ドイツのトップクラスのオーケストラでティンパニを任されたのは初めての経験
フォーグラーの門下生同士の共演で、師も喜んだ
ハンブルクの本拠地”ライスハレ”での公演で共演したあと来日
Ø 和太鼓奏者、林英哲さんとの共演――1983年日本作曲家協会主催”オーケストラ・プロジェクト”
初の”他流試合”が83年の”和太鼓ソリスト”との共演
初めて会ったのは81年”ベルリン芸術週間”に出演した佐渡の和太鼓グループ”鬼太鼓座”公演の際、リーダーの英哲を楽屋に訪ねた時
83年水野修孝氏作曲《鼓動(交響的変容第3部)》のティンパニ・ソリストとして英哲と共演。ティンパニと和太鼓の叩き合いで、「16分の21拍子」という難しい変拍子のフレーズを二人で見事にやり切った
07年ソロとして独立していた英哲が「デビュー25周年」記念コンサートをサントリーホールほか各地で開催した際共演の声が掛かり、《鼓動》を再演。本来16小節の曲を32小節に引き伸ばして演奏したが、サントリーホールでは”空調の風の悪戯”で譜面が何度も閉じかけてヒヤッとしたが、後から聞いたらホール内の”風の名所”ということだった
Ø 紀尾井ホール室内管弦楽団”ドレスデン紀行”――2005年ゼンパー・オーパー(ザクセン州立歌劇場:東独時代はドレスデン国立歌劇場)
05年紀尾井シンフォニエッタ(現紀尾井ホール室内管弦楽団)は、予てから交流のあったヘルムート・ヘンヒェンからドレスデン音楽祭への招待を受け渡欧。1873~94年まで使用されたというペダル・ティンパニのパテント1号を見る
第4章
ティンパニストの恐怖の一瞬
Ø ティンパニストに求められるものとは?
オーケストラがあってこそ存在価値のあるティンパニだが、60~100人もの個性ある集まりのオーケストラは、お互いの距離間や各々の場所による聞こえ方の違いを越えたところで成り立っているところから、タイミングや音程のことで左右から正反対のことを言われ戸惑うばかり
オーケストラの大きなうねりの中で、大いに頼りにされるのもティンパニ
多種多様な指揮者の中でティンパニストの力量が問われる
ティンパニ演奏の技術もさることながら、その場その場での的確な判断力と、決して怯まない勇気と決断力が必要
一番大切に思っているのは、オーケストラ全体が強大なクレッシェンド(次第に音を大きく)やルバート(テンポを自由に伸縮する)で、ある最高点に到達しようとするとき、最大公約数的な場所に全体を落ち着かせること。指揮者の呼吸やテンポを素早く察知し、説得力ある音や響きに具体化し、オーケストラ全体にそのエネルギーを示すことが務めなので、「指揮者の代弁者」でなければならず、”第2の指揮者”と呼ばれる所以
Ø またまた”心臓が口から飛び出すかと思った”あのとき!!
87年のサントリーホールでのコンサートでのこと、故山田一雄の指揮で演奏した《展覧会の絵》だったが、9曲目で最初のティンパニが入った後、指揮者の棒が止まったままで次のティンパニの入る合図が来ない。指揮者の手は微動だにせず、待ちきれずにティンパニが入ると、数秒後に大太鼓が続き、さらにティンパニが叩いたところでオーケストラの真後ろのP席がざわつき始める。やっとチェロがティンパニに続いて不安げにメロディを引き継ぎ、木管の後トランペットがテーマを力強く吹いて事なきを得た。終演後事務局長から、「功績は金一封もの!」と言われたが、未だ金一封はもらっていない
同年秋の橿原市民会館でのコンサートでも山田は客席に一礼のあと棒が上がってこないまま、沈黙に耐え切れなくなったオーケストラはコンマスの合図をきっかけに自主的に演奏し始める。それを追うように指揮者の棒は水を得た魚のように動き出した。翌日本人に確かめたら、ステージで歩き出したら次の曲名が頭に浮かばないまま指揮台に上がったと言われて絶句
山田一雄については、この手の話は山ほどある。ふりまちがいどころか、5/8や7/8などの変拍子の曲など毎回大変な騒ぎだったし、指揮台から転落し、客席から指揮をしながらステージに上がってきた話はあまりにも有名
02年フランスのジャン・フルネとの定期演奏会でのこと。ドビュッシーの珍しい交響的断章《聖セバスチャンの殉教》の最後の最後の合唱の途中で2拍も前に指揮者が両腕を高く振り上げ、ティンパニの私と目が合ったと思った瞬間棒が振り下ろされた。まだ2拍あるとわかっていながら、指揮者と目があって「終わりだ!」と感じた瞬間終止音を打ち込んだ。最後の和音を弾こうとしていたヴァイオリン・セクションの弓は上がったままフリーズ状態。指揮者はあっけに取られているオーケストラをよそに、スコアを閉じて引き揚げてしまう。拍手の中、「今叩いてしまって良かったんだろうか?」と考えた
翌日のゲネプロなしのぶっつけ本番で、合唱の最後に指揮者と目が合い、その瞬間「ニヤッ!」と笑った指揮者は昨夜以上の渾身のエネルギーで両腕を振り下ろした
Ø オーケストラvs指揮者
優れた指揮者は言葉の使い方がとてもうまい ⇒ 「(音が)大きすぎる!」という代わりに「チョット強すぎる!」と言ったり、「硬い音で!」の代わりに「「乾いた音で!」など
指揮者のジェスチャーも大きなヒント
指揮者が優れているかいないか、オーケストラは最初の10分くらいで感じ取り、その印象が後で変わることはほとんどない
Ø 私が出会った素晴らしいティンパニストたち
ドレスデン国立歌劇場管弦楽団のペーター・ゾンダーマン(首席1945~85) ⇒ 88年N響の招きで首席客員ティンパニストとして来日。98年リハ中に死去
ウィーン・フィルの首席ローラント・アルトマン ⇒ 72年ベームの指揮でウィーン・フィルと来日。ウィーン・フィル独特の縦長の深い釜に山羊皮を張った独特な音色と響きをもつシュネラー・ティンパニを演奏。07年定年退職。16年死去
ゲヴァントハウス管弦楽団の首席カール・メーリヒ ⇒ 76年クルト・マズア指揮で来日。ゾンダーマンの門下生。ティンパニのあらゆるノウハウに長けた職人
ザクセン州立歌劇場管弦楽団の首席トーマス・ケプラー ⇒ 92年コリン・デイヴィス指揮で来日。常にゾンダーマンと比較され辛い思いをしたという
第5章
大作曲家たちはティンパニをどのように書いたか?
Ø ティンパニの進化が作曲家のアイディアを進化させた
ティンパニの起源に当たる楽器は、1300年代の記録にイタリア語でナッケローネと記された、直径20~30cmのもの。1400年代にトランペットとともに軍楽騎馬隊で楽器として用いられるようになり、オーケストラには1600年代半ばに取り入れられた
ジャーマン・スタイルは左に小さな釜、右に大きな釜があるのは、騎馬隊で鞍の両側に1個づつ乗せたため、馬に左から跨るのに都合のいいように置いたためで、一般の鍵盤楽器では低音が左側に来るところから、それに合わせて高い音を右に置き換えたのがアメリカン・スタイル
19世紀初めごろまでは、6~8本のチューニング・ピンを回して音程を作る「手締めティンパニ(シュラウベンパウケ)」の時代で、今日のようにペダルですぐに音程を変えられなかった当時の作品では、その曲の調性の主音と属音などの「2つの音程」以外は使われていない
音程の使い方に制約の多かったティンパニの使い方に革命を起こしたのがベートーヴェンで、交響曲7番で初めてAとFという短6度関係の音程を使用。8番の終楽章でもFとfという1オクターヴの音程を使い、9番第2楽章ではこのオクターヴを使ってかの有名なティンパニ・ソロを書く。《フィデリオ》でもAとE♭の増4度を使うそりスティックなパッセージをティンパニに託しているのもベートーヴェンの革命
1812年、1本の回転ハンドルですぐに音程が変えられる「マシーン・ティンパニ」がミュンヘンで考案され、メンデルスゾーンのオラトリオ《エリア》の第36曲で初めて試される
1872年、「ペダル・ティンパニ」がドレスデンの音楽家ピットリヒが考案し、81年に特許を取って実用化、今日に至る
Ø オーケストラ曲での”ティンパニ・ソロ”
オーケストラ音楽で初めて”ティンパニのソロ”が書かれたのはバッハの《クリスマス・オラトリオ》の冒頭。次がハイドンの交響曲第103番通称《太鼓連打》で当初はトレモロと”即興カデンツの組み合わせで演奏された
ベートーヴェンらしさが大きく現れたのは第3番《エロイカ》で、第2楽章《葬送行進曲》でG音の3連符を刻み続けるティンパニはドラマティック
オーケストレーションの天才だったR・シュトラウスは、彼の時代にほぼ完成し尽くされたティンパニの機能を最大限に使いながら、オペラや交響詩などでその魅力を表現している。特にティンパニを”メロディカル”に用いたのは彼が初めて
バルトークは、《管弦楽のための協奏曲》などで、”グリッサンド奏法”を発案し、独特な響きの世界を作り上げる
Ø ティンパニの機能的な発展に触発された作曲家たち
ティンパニの技術的な改良が、作曲家たちを”ティンパニの音換えの制約”から解放し、より音楽的で幅広い音換えができるようになった ⇒ ペダル機能を活用したR・シュトラウスは多彩な転調場面で半音階的にメロディックな旋律も書く
ベルリオーズは、《幻想交響曲》で2つのティンパニ・パートを書き、2人の奏者に各々2台づつ、計4台のティンパニを担当させることで、当時の音換えの制約を見事にカバー
大曲《死者のためのレクイエム》では10人の奏者に16台のティンパニを振り分け、13種類もの音程を演奏させた
ワーグナーも6台以上の楽器を2人の奏者に分担させ、音楽が転調していく場面でもティンパニをうまく使っている。その代表作が《指環》で、この使い方はマーラーに受け継がれたが、複数のティンパニを使いつつ合理的な音程の組み合わせを最高に活かして抜群の効果を上げたのがホルストで、《惑星》の中でも特に〈木星〉での2人の奏者による連係プレイの効果は圧巻
Ø “トレモロの世界”、ブルックナーとシベリウスに感謝
トレモロ奏法なしにティンパニを語ることはできない
ブルックナーでは”重厚なトレモロ”、チャイコフスキーでは客席に一直線に飛んでいくような”指向性のあるトレモロ”、シベリウスやドビュッシーではハミングのように色を添える、優しくて”エレガントなトレモロ”
トレモロ奏法をこよなく愛し、その作品のほぼ全般にわたって書いてくれたのがブルックナーとシベリウス
ブルックナーの響きの世界は、実に男性的で雄大。別格なのが第5交響曲、その”コーダ”は圧巻。ティンパニをハーモニーの核として重要な役割を担わせた
シベリウスの、オーケストラの音色に様々な濃淡を与えながら、時にさりげなく、時に激しく執拗なまでのクレッシェンドとディミヌエンドを繰り返す書法は、彼独特のもの
こうした作曲家たちのティンパニへの想いとアイディアは、”ペダル・ティンパニ”という楽器が開発されていなかったら存在していなかったものが多く、ティンパニという不器用な楽器に格段の進化をもたらしてくれたピットリヒと、その機能をフルに使いながら数々の名曲を残してくれた作曲家たちに感謝
(天声人語)第2のタクト
2019年12月19日05時00分
オーケストラの最後列に陣取り、雷鳴のような音を放つ打楽器ティンパニ。圧倒的な存在感がありながら、出番は決して多くない。ともすれば脇役に見えるあの楽器の魅力をかねて知りたいと思っていた▼「たしかに楽器としては不器用なほう。音域は狭く、舞台で失敗しても隠しようがありません」と近藤高顯(たかあき)さん(66)。新日本フィルハーモニー交響楽団で長く活躍し、『ティンパニストかく語りき』という著作をもつ▼神戸市出身の近藤さんは中学1年の春、ベルリンフィルの公演を聴き、音楽家を志す。だが、ピアノや弦楽器を習うには遅すぎた。トロンボーンは金属アレルギーで唇が腫れる。たどり着いたのがティンパニだった▼東京芸大をへてドイツに留学。子牛の革の張り方やバチの作り方まで学んだ。「公演中、ティンパニの一撃で団員の気持ちを瞬時にまとめることができます」。指揮棒に次ぐ統率力があることから「第2のタクト」と呼ばれるそうだ▼ベートーベン「第九」、ホルストの「惑星」――。近藤さんに教わったティンパニの名曲を聴き直してみる。嵐のような音が響くかと思えば、そよ風やさざ波を思わせる繊細な音も奏でる。徐々に強まる音は胸の高鳴りのよう。表現の幅は思っていたよりはるかに広い▼今年もまた各地で第九が演奏される季節になった。ホールへ足を運ぶ機会があれば、第2楽章におけるティンパニの縦横無尽な活躍を堪能していただきたい。寡黙な巨人のように際立つ楽器である。
(書評)『ティンパニストかく語りき』 近藤高顯〈著〉
2017年11月5日05時00分 朝日
中学の時に、私が初めてオーケストラの実演に接した曲が、ティンパニが大活躍するブラームスの交響曲第1番だったためか、縁の下の力持ちでありながら、第2の指揮者とも言われるティンパニの響きには特に耳を傾けるようになった。
著者は、日本では珍しく本格的なドイツスタイルを学んだティンパニ奏者。ベルリンフィルの首席奏者フォーグラーの演奏に感銘を受けて楽屋口を訪ね、次の来日までドイツ語を必死に学んだ真剣さが通じて弟子入りが叶い、ベルリンに給費留学する経緯は、青春記としても読み応えがある。
一流オケの奏者たちや、朝比奈隆、カラヤンなど指揮者たちとの現場での秘話の数々はもちろん、ティンパニは女性名詞であり、バチ作りと革張りという手芸の腕も必要であるなど、興味は尽きない。音のイメージを言葉で伝える機会が多いからか、演奏家には名文章家がいる。実演に親しんできた近藤氏がそこに加わり、心うれしい。
*
『ティンパニストかく語りき』 近藤高顯〈著〉 学研プラス 1620円
コメント
コメントを投稿