もう一度 倫敦巴里  和田誠  2020.1.11.


2020.1.11. もう一度 倫敦巴里

著者 和田誠 1936年生まれ。グラフィクデザイナー、イラストレーター。1959年多摩美卒。ライトパブリシティ入社。68年よりフリー。65年雑誌『話の特集』にADとして参加。68年から4年数か月『週刊サンケイ』の表紙に似顔絵を描く(AD田中一光)77年より『週刊文春』の表紙(絵とデザイン)を担当し、現在に至る。出版書籍は200冊を超える。74年講談社出版文化賞(ブックデザイン部門)93年講談社エッセイ賞、94年菊池寛賞、97年毎日デザイン賞など
夫人は平野レミ、長男はギタリストで、その嫁が上野樹里

発行日             2017.1.25. 初版第1刷発行
発行所             ナナロク社

Ø  殺しの手帖 663月号 話の特集
これはあなたの手帖です
いろいろのことが、ここには書きつけてある
この中の どれか 12つは
すぐ今日 あなたの殺しに役立ち
せめて どれか もう12つは
すぐには役に立たないように見えても
やがて こころの底ふかく沈んで
いつか あなたの殺し方を変えてしまう
そんなふうな
これは あなたの殺しの手帖です

リヴォルヴァー拳銃をテストする
毒入りのおそうざい特集

Ø  007贋作漫画集 664月号 話の特集
いろいろな漫画家の画風を真似て007を描く

Ø  特集ギャラリー 667月号 話の特集
ダリ風 イヤミ像
ピカソ風 チビ太
ビュッフェ風 鉄人28

Ø  ビートルズ・ギャラリー 669月号 話の特集
ルソー風 ザ・ビートルズ
ゴッホ風 ジョージ・ハリスン

Ø  兎と亀 6610月号 話の特集
世界の映画作家たちがイソップの寓話『兎と亀』をテーマに映画を作ったら・・・・

Ø  雪国・またはノーベル賞をもらいましょう 702月号 話の特集
庄司薫、野坂昭如、星新一、淀川長治らが雪国を書いたらどうなるか

Ø  ふとどき風土記・HAIR 701月号 オール讀物
若いもんに負けてなるものかと、突如編成されたミュージカルチームに満都の話題騒然!!
主演者の1人 小汀利得に人気集中
升田幸三、今東光、湯川秀樹らの頭をもじゃもじゃにしたイラスト
毛のある者も毛のない者も、本家をぶっとばせと張り切る。年よりのヘア水という悪口もあったが、客の入りはこちらの方が良かったぜ

リサイタルの途中で客をほっとさせるためのギャグとして、浅丘ルリ子の《愛するって耐えることなの》に対し「愛されるって痩せることなの」として歌ったり、佐藤栄作が「栄ちゃんと呼ばれたい」と言ったので「栄ちゃんはね、栄作っていうんだ、ほんとはね。誰も呼ばないけど自分のこと栄ちゃんって呼ぶんだよ、おかしいな、栄ちゃん」

Ø  ふとどき風土記・モンタージュ 703月号 オール讀物
3億円事件でモンタージュが出回ったころ、有名人のモンタージュを書いて遊ぼう

Ø  ふとどき風土記・アメリカ映画頑張る 707月号 オール讀物
アメリア映画の主人公を日本の有名人の似顔絵で描いてみる

Ø  ふとどき風土記・今昔文士劇大会 7010月号 オール讀物

Ø  ふとどき風土記・ニクソンの夢は夜ひらく7011月号 オール讀物
白く咲くのも人の肌 黒く咲くのも人の肌 どう咲きゃいいのさこの私 夢は夜ひらく
昨日サイゴン今日ハノイ 明日はラオスかカンボジャか 時は儚く過ぎて行き 夢は夜ひらく

Ø  TIME 684月号 話の特集
Once upon a TIME

Ø  雪国ショー 7211月号 話の特集
702月号のつづき

Ø  CM三角大福 728月号 話の特集
テレビは真中に出なさい
三角1ばん デンワは2ばん 3時のオヤツは大福堂

Ø  初夢ロードショー 751月 報知新聞
1弾がオールスターキャストによる《忠臣蔵》、第2弾が《宮本武蔵》、第3弾が《人生劇場》

Ø  初夢ロードショー・マンガ版 761月 報知新聞
1弾は《鉄腕アトム》、第2弾が《サザエさん》、第3弾は《のらくろ》

Ø  新・雪国 7312月号 話の特集

Ø  漫画オールスターパレード 7010月号 小説現代
著者による贋作

Ø  オラオラオラ世界的に鼻血ブーだもんね 718月号 オール讀物
谷岡ヤスジの無断借用

Ø  又・雪国 752月号 話の特集

Ø  はめ絵映画館 7212月号 話の特集
同じ形のフレームの中に映画の主人公やストーリーを描く

Ø  新・兎と亀 778月号 話の特集

Ø  お楽しみは雪国だ 772月号 話の特集

Ø  『雪国』・海外篇 011月号 本の雑誌

Ø  雪国・702月号・7211月号・7312月号・752月号・772月号のつづき 9012月号 話の特集
本来「パロディ」って本当に権威を引きずり下ろすくらいの力があるものをそう呼ぶんじゃないかと思う。それに比べれば俺のやっていることなんか、やっぱり「モジリ」程度なんだなあ。でもそれが楽しいんだけどね

Ø  JUN 7010月号 話の特集
男の華麗なる変身 クラシカルエレガンス


『もう一度 倫敦巴里』によせて
堀部篤史 ⇒ パロディとは、「本格」に対して「破格」を置くことだという。それぞれ「権力」と「反権力」に置き換えても違和感はない。本格が形骸化し始めた頃、破格が土足でその領域に上がり込む。近代のパロディの対象はあくまでもその時代精神や権力層に対するものだった
20世紀に入り、新たなメディアの誕生と同時にパロディの質は劇的に変質。世界中どこでも同じ映像と音声に触れることができる映画とラジオがその始まりだった
ちょび髭どた靴という史上初の「キャラクター」として登場したコメディアン、チャップリンと、同じくらいちょび髭の独裁者ヒットラー(ママ)との対決は、まさに映画というメディアを舞台にしたもう1つの戦争でもあった。映画や新聞を用いたプロパガンダで国民を欺き、チャップリンを攻撃したナチスに対し、ヒトラー(ママ)を徹底的にパロディ化した『独裁者』で対抗するチャップリン。躁鬱の激しい小男という、実像とはかけ離れたイメージが後に数えきれないほど再生産され、結果「意志の勝利」ではなく、「パロディの勝利」に終わる。こうしてパロディはメディアの発展とともにその対象を、誰もが知る特定の人物や集団へと変質させていった
映画館の暗闇でチャップリンの姿を見て、先生や友達の似顔絵を描いてクラスメートに見せることが、イラストレーターとしての第1歩だったという和田サンの作品にパロディのエッセンスが流れているのは当然のことだろう。ただ、本書の中で和田サンは「パロディ」という言葉を自作に使うことについて否定している。確かに本書で披露される見事な「モジリ」の数々は、その対象を引きずり下ろす類のものではなく、むしろ対象への愛情を伴う深い洞察がなければここまでのクオリティのものはとてもじゃないが描くことはできないだろう。『独裁者』においてチャップリンは、ヒンケル、つまりヒトラーの演説を「ハナモゲラ語」、何の意味も持たないドイツ語風のデタラメ言葉で模倣した。そこには、ヒトラーの演説は、熱狂的な身振りや手振りや攻撃的な声色がすべてで、内容は空疎であるという悪意と嘲笑尾が込められている。それに対し和田さんは、最初から他人の演説、つまり『雪国』という小説や『兎と亀』という寓話を借りて、作家たちのスタイルをその器に注ぎ込んでいる。よく似ているようで根本的にそれ以前のパロディとは異なる手法だ。「何も言わせない」という皮肉ではなく、声色やスタイルこそが作家の本質だと言わんばかりに他人の物語を語らせている。誰もが知る権力者や著名人を引きずり下ろすのではなく、カルト的に支持される人物を愛を込めて模倣すること。ここにパロディという行為の大きな転換点を垣間見ることができる
90年代に「渋谷系」と呼ばれるミュージシャンたちが過去の音楽を愛情たっぷりに引用し、その要素を自作の音楽へと昇華し始める。愛情を込めた引用と好事家たちへの目配せという意味において、彼らミュージシャンたちは本書の正当な後継者といえる。最早パロディは、引用やオマージュといった創作の手法へと転換し、その存在意義を終えつつある。さらに2000年を迎え、インターネットが爆発的に普及、引用ということの意味すら大きく変化する
コピーすることに技術すら必要とされず、引きずりおろす対象すらはっきりしない現代において、「パロディ」という行為は完全に色褪せたかのようにも見える
ただこれだけは言える。本書はパロディの対象や引用元を知らずとも楽しめる優れた作品である。そういうものに触れれば引用元や関係性を知りたくなる。本書は時代を超越する書物であり、90年代の渋谷系からさらに20年経たタイミングでの本書の復刊はデジタルネイティブの読者にどのように受け入れられるのだろう

「戯画と批評」 丸谷才一 ⇒ パロディが文学の1形式として楽しめるものだということは西欧では常識だが、我が近代文学ではあまり見当たらず、本書は伝統の浅さをあっさりと克服した秀逸だろう。それ程彼の才能は豊か。『雪国」の書き出しを様々な人の文体で書いているが、たいていはなかなかのできなのだから舌を巻く。それぞれの人の思考の型をよく観察しているし、文体の特質をよく捉えていて、その辺の批評眼は怖いくらいだが、そういう批評性を温かいユーモアの形で表現している
文章のパロディだけでなく、絵のパロディもある

「やきもき」 谷川俊太郎 ⇒ いつの間にか本棚から本書がなくなり、仕方なくアマゾンから定価の何倍かを払って帰還させた。本書にはそんな風に人をやきもきさせる魅力がある
和田誠情報から無害なものを抜粋する。
    ボーリングは全部ガターに落ちる
    酔い覚めの水以上に美味な酒は、酔い覚めのビール
    オバケの話なんかとても好きだが、霊魂不滅に関しては、あまり興味がない
    理想の献立の一例。カツオブシがかかっている炊き立てのご飯、それに醤油かけて食う
    好きな笑い話。「結婚したころは、女房を食べてしまいたいほどかわいいと思ったが、今考えると、あのとき食べておけばよかった」 これは自作ではない、念のため
以上は40年前の質問に対する答えで、和田さんは、外側も中身もここ半世紀の間、ちっとも変化していないように思えるから、今でも同じ答えが返ってくるのではないか。内面には大人と子供が、また自己と他者がいい具合に同居しているのではないか
『雪国』の文体模写など余人の追随を許さない快作だが、和田さんは鼻高々になるということがない。どんな傑作を書いても描いても、あっさりと謙虚なのである



(ひもとく)和田誠の世界 創意工夫の仕事ぶり、迸る天才 矢崎泰久
2019127 500分 朝日
写真・図版写真・図版写真・図版
 今でこそパロディーを知らぬ人はいないだろう。しかし、月刊誌「話の特集」を創刊した1965年ごろ、和田誠が毎月8ページ、パロディーを担当したいと言い出した時は、何のことやらさっぱりわからなかった。
 「とにかく、これ見てくれないか」と渡されたのは「殺しの手帖」という、花森安治さんが戦後間もなく作った雑誌「暮しの手帖」のパロディーだった。上品で多くの読者を獲得していたコンシューマーズ・マガジンを徹底的に裏返したものだ。小気味いい風刺だった。私は感心したが、毎月の連載は至難の業だろうと思った。
 それが杞憂だったことはすぐ明らかになる。「三角大福」なる自民党総裁争いの政治風刺、川端康成の名作「雪国」を庄司薫野坂昭如星新一、淀川長治らの文体模写で描くなどして読者を大いに喜ばせたのである。創刊から12年で『倫敦巴里』が完成した(その再編集版が『もう一度 倫敦巴里』)。パロディーの金字塔であった。時代背景は変わっても、作品の面白さは少しも色褪せてはいない。
 映画の名セリフ
 「キネマ旬報」で「お楽しみはこれからだ」の連載が始まったのは1973年だ。「映画に出てきた名セリフ、名文句を記憶の中から掘り起こして、ついでに絵を描いていこう」と、和田さんは書いている。外国映画の場合、字幕スーパーの文字数が限られるので、セリフの陰に捨てられた言葉を復活させ、要約された部分を再現する。コアな映画ファンを楽しませた。
 キネマ旬報社は毎年、日本映画に作品賞や監督賞、主演男優・女優賞などを贈っていたが、「読者賞」は、誌上の連載から読者によって選ばれた。73年、第1回の読者賞は「お楽しみはこれからだ」だった。
 ところが、第2回は竹中労の「日本映画縦断」が、第3回と第4回は落合恵子さんと私の「シネマ・プラクティス」が読者賞を受賞してしまった。「読者に絶望した」と宣言して、和田さんは連載を打ち切った。落合さんと私は月に2回一緒に映画を観て、勝手気儘に批評し、どちらかが文章を書き、山藤章二さんがイラストレーションを担当した。この組み合わせにも和田さんは腹を立てたに違いない。子供っぽい一面もあった。
 当時の白井佳夫編集長が突然解任されたので、落合さんと私は抗議の執筆拒否をした。連載が中止されていた和田さんの『お楽しみはこれからだ』は再開され、以後、文芸春秋から全7冊が上梓されている。
 和田さんと二人で「自分たちが読みたい雑誌を作ろう」と言って始めた「話の特集」は、30年たった95年に廃刊となる。その後、「話の特集」のページが「週刊金曜日」の中に誕生したのは、好評だったいくつかの連載を打ち切るのが嫌で、4ページだけの引っ越しが許されたからだ。すでに二十数年続いているが、その間、和田さんはずっと協力してくれた。
 片っ端から読む
 なかでも、百回連載した「ほんの数行」は、「お楽しみはこれからだ」の書籍バージョンだ。「編集者はあらゆる本を読むべし」というのが和田さんと私の覚悟だったから、片っ端から本を読んだ。競走のように読みあさったので、読書量は膨大だと思う。『ほんの数行』はその集大成のような本になった。「自分が装丁した本に絞ることにした」と和田さんは書くが、文学書やエッセーに限らず、あらゆるジャンルの本から「数行」を選び、読書の醍醐(だいご)味を余すところなく記している。
 和田誠の著書は二百冊を超える。どれも創意工夫があり、読者を満足させ、多岐に及んでいる。わが家の本棚にあるどの本を開いても、天才ぶりが迸(ほとばし)る。
 やざき・やすひさ 元「話の特集」編集長、作家 33年生まれ。著書『タバコ天国 素晴らしき不健康ライフ』(径〈こみち〉書房)が近く刊行される予定。


(惜別)和田誠さん イラストレーター
20191116 1630
 柔らかな表情、芯には厳格さ
 107日死去(肺炎) 83
 ラジオ局に勤める父が持ち帰る、わら半紙の番組表。その裏が最初の「カンバス」だった。
 4歳にして化け物退治の絵物語をものし、小学生で絵本を作る。中学で雑誌に漫画の連載を持ち、高校時代は時間割に教師の似顔絵を並べた。大学生でグラフィックデザイナーの登竜門とされる賞を受けてプロデビュー。社会人になった早々、たばこ「ハイライト」のデザインがコンペで選ばれた。
 才能を伸びやかに開花させ、日のあたる道を軽やかに歩んだ絵を描く人生。ポスター、絵本、挿絵、アニメ、ロゴマーク、本の装丁……。数え切れない作品を生み出した。映画や音楽に通じ、数多くの本を著し、映画を作り、舞台も演出。作詞作曲、訳詞も手がけた。
 2000年初め、私は、連載「三谷幸喜のありふれた生活」の題字と挿絵をお願いしに、東京都内の仕事場を訪ねた。「おもしろそうだね。絵は原稿を読んでから考える。新聞に載るのと同じ大きさで描く。それでよければやりますよ」。それから17年間、毎週、原稿と資料を渡し、挿絵を描いていただいた。体調を崩した一昨年春まで、やりとりは841回続いた。
 時間の余裕がないことも多かったが、妻の平野レミさんから「和田さんはどんなに忙しくても、『今日もたくさん絵を描いて楽しかった』と言って帰ってくる」と聞いた。本人に確認すると「うん、そうだね」とうなずいていた。
 その表情は、多くの人に愛された絵そのままの柔らかさ。でも仕事の仕方は厳格だった。
 文中に登場する人物は、一般に知られていない人でも必ず「資料写真を」と言われた。「本人や友達が『似てない』と思ったらイヤだからね」。メールが普及する前は、その写真を撮るために、三谷さんの稽古場へ走ったこともある。往年の映画を話題にした回では「念のため、今夜DVDで見直すので、出来上がりは明日の朝でいいかな?」と何度も言われた。
 東日本大震災直後から、千枚以上の絵を描いて被災地を支援したが、「ひとに言うことでもない」と、まるで喧伝しなかった。どこへ行くにもジーンズ姿で、レストランの気どった服装規定に腹をたてていた。
 絵のシンプルな線には、研ぎ澄ましたセンスと技術、そして破格の勤勉さがこもっていた。温かな笑顔の中には、含羞と反骨があった。(山口宏子)


(日曜に想う)和田誠さんが教えてくれた 編集委員・曽我豪
20191110 500分 朝日
 こうやって政治コラムを書いているとときどき、よくない自分があらわれる。
 けしからんとばかり政治家をなで切りにして悦に入ったり、正論を説いて何ごとかを書いた気になったり。自前の生ネタや切り口が見つからないときほど、そうなる。スター・ウォーズでいうところのダークサイドに落ちるようなものか。
 すんでのところで我に返ると、口の中でとなえる呪文がひとつある。
 「たかが新聞じゃないか」。――おまえは事実を追いかける記者の本分に職人として徹するべきであって、偉そうに社会の木鐸(ぼくたく)を気どるなんてくだらない!
     *
 呪文は教えてくれた人がいる。さきごろ亡くなった和田誠さんだ。「お楽しみはこれからだ」(文芸春秋 初版1975年)に出てくるアルフレッド・ヒチコック監督の「名セリフ」である。
 時代を画したイラストレーターであり映画監督だったけど、ぼくは和田さんの文章が大好きで随分あこがれた。おもしろがりで楽観的で気がきいていて、大上段に構えたところは全然なく、何かをほめるときに別の何かをけなさない。いつも上品な大人の東京文化の香りがした。
 とりわけ地方で70年代に青春を送った映画少年にとって、和田さんが「キネマ旬報」で連載していた「お楽しみはこれからだ」はまさに教科書だった。
 ビデオのレンタルさえない時代だ。名画座かテレビの洋画劇場でめぐり合うしかない古今東西の名画の名セリフをイラストつきで教えてくれるのだ。
 「これ、和田さん、自分の記憶だけでかいているんだぜ」。仲間内でそう言い合ったものだ。
 和田さんが高校のころみた名画の記憶をかき、同じ年ごろのぼくらが読んで追体験する。「第三の男」も「スミス都へ行く」もチャプリンの「殺人狂時代」もそれでみたくてたまらず、和田さんと同じように名画座を追いかけた。
 訃報(ふほう)を聞いてヒチコックが撮った「山羊座(やぎざ)の下に」についての文章を読み返した。40年以上前の記憶のままだったことに我ながら驚いた。
 ヒチコックが後年のインタビューで明かした主演のイングリッド・バーグマンとのエピソードである。
 「バーグマンは私の演出を好まなかった。私は議論がいやだったから、『イングリッド、たかが映画じゃないか』と言った。彼女は名作に出ることだけを望んだ。製作中の映画が名作になるかならないかなんて誰がわかる? ジャンヌ・ダーク以外に偉大な役はないと彼女は考えていたようだ。くだらない!」
 そして和田さんはさりげなく最後に書き添える。「たかが映画じゃないか、という精神はぼくの好むところだ。それであれだけ面白い映画を作り続けていたのだ。偉大なる職人である」
 教科書だというのは、つまり、こういうところである。
     *
 今は名画も名セリフも簡単にみたり知ったりできる。作品のよしあしさえ、ネットのコメント欄をのぞけば大体のところは分かる。一期一会だとか記憶の伝承だとかいっても、何をかったるいアナログなことを、と笑われるかもしれない。
 それでも、ネットが助長する攻撃性にはついていけない。何につけ、ファンとアンチとが魂が冷えそうな言葉で非難し合う。芸術や文化の自由を語ろうとしても、まずは敵と味方の仕分けから始まる時代だ。むろんその最たるものは、ぼくがふだん担当する政界ではあるのだが。
 そういう世界から一番遠いところにいたのが和田さんだった。それは最後まで変わらず、何だか、むかしの教え子に対して、おまえが悲観のダークサイドに落ちていてどうする、と叱り励ましてくれているような気がした。
 おととし「週刊文春」の表紙のイラストが2千枚目を迎え、作画の様子が動画で公開された。描き終えて和田さんが言ったのはやっぱり、「普通だよ、普通だよ、何でもないよ」だった。
 40年前の1枚目でエアメールをくわえ木に止まっていた小鳥が飛び立ち夜空をゆくイラストだった。


(大竹しのぶ まあいいか:247)きっと、見守ってくれている
2019111 1630分 朝日
 奥様のレミさんからメールをいただいたのは、その2日後の事だった。「レミです。こんにちは。うちの夫は、とうとう天国に行ってしまいました」と。年に数回集まって、食事をしていた私たち仲間に送られてきたものだった。和田誠さん、享年83歳。イラストレーターであり映画監督でもあり、映画についての沢山の著作もある。雑誌の表紙は、なんと42年間描き続けてきた方だ。
 私が和田さんと初めてお会いしたのは、今から35年も前、映画「麻雀放浪記」だった。
 和田さんにとって初の監督作品。が、とても初めてとは思えず、まるで何本も撮ってきた監督のように飄々として、なおかつ堂々としていた。私たち役者もスタッフもいっぺんに和田さんのファンになった。和田さんはその日に撮るカットを絵にしてセットに貼ってくださる、いわゆる絵コンテが、とても素敵で、私たちは毎日、それが貼り出されると、その周りに集まり興奮していたものだった。
 その絵の人物と同じ座り方を真似、同じ足の位置にすると不思議に落ち着いたのを今でも覚えている。その後もプライベートでお付き合いするようになり、お料理研究家である奥様のレミさんとも親しくなった。
 30歳で私が夫を亡くし、少しした頃、和田さんが何げなくお電話をくださった。「遊びにおいで」と。息子と2人、お邪魔してレミさんの美味しいお料理をごちそうになり、和田さんはまだわけの分からない2歳の息子とずーっと遊んでくださった。その優しさに私は一人涙をこらえていた。
 ここ数年は、和田さんを中心に親しい仲間と集まり、みんなで美味しいものを食べ、ワハハと笑ってしゃべっていた。和田さんは一人静かに聞いていることが多かったが、例えば、怖い話をしても、結局最後に話す和田さんのお話が一番怖くて、またまたみんなで大笑いをしたことも。今年の春に集まったとき、和田さんはいらっしゃらなかった。「今、何してるかな」と、レミさんの携帯で見てみるとリビングルームでいつものように頭の後ろで腕を組み映画を観ていらした。
 仲間の一人である三谷幸喜さんがおっしゃった。「あれが、僕の見た和田さんの最後の姿です」と。そうだ、和田さんは今、この世でのやるべきことを終え、空の上で大好きな映画を観ているに違いない。静かに、優しく、レミさんを、ご家族の方を、そして時々私たちを見守ってくださっている、そう信じることにしよう。




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