教会が見える風景 W.M.ヴォーリズの足跡  荒川久治  2016.7.26.

2016.7.26. 教会が見える風景 W.M.ヴォーリズの足跡

編著者 荒川久治 1931年長野市生まれ。八十二銀行、同文化財団を経て、現在、地域デザイン研究所を主宰。写真家としても知られる。黒姫山麓在住

発行日           1995.12.20. 発行
発行所           地域デザイン研究所

I 一枚の油絵
日本キリスト教団松本教会にある1枚の絵  1921年ヴォーリズ設計による松本教会の絵。地元の画家・瀧川太郎作
松本より補助の優先権を持つ教会が7か所もあったが、反動的不景気から自身募集の責任額未達が相次ぎ松本にお鉢が回ってきた。総工費2万円のうち15千円を伝道会社が寄附、残りの5千円を一般寄附に仰ぐ。岡谷の片倉系の今井伍介(日本製紙業界の指導者)の子で松本電燈社長の今井真平が個人的に建築資金を貸したこともあって完成

II ヴォーリズWilliam Merrel Vories小伝
1880年カンザス州で信仰心篤い両親のもとに生まれ。幼少で結核にかかって死線をさまよいアリゾナのフラッグスタッフに移住、高校・大学時はデンバーへ移る。大学在学中から学生YMCA活動に励み、1902年海外伝道学生奉仕団の大会に州代表として派遣され、そこで聞いた中国で伝道を続けている女性宣教師の講演に神の啓示を感じ、建築家の夢を捨てて外国伝道に身を捧げる決意をする。ただ、神学校は経ずに、世俗的な市井のキリスト者として生き、庶民大衆との連帯の世界の中で伝道活動をすることに使命感を感じた
05年 滋賀県立八幡商業学校の英語教師として赴任。東京、神戸、横浜に次いで古い商業校。膳所中や彦根中にも足を延ばす。八幡商は日本で最初の中学校YMCAを結成
06年 後任校長が県にヴォーリズの解任を求め、県もキリスト教布教活動が県下に多数を占める一向宗門徒との不測の事態に至ることを危惧して受理したため失職
次の職探しをしながら伝道活動をするが、08年には建築の仕事も開始。ヴォーリズ合名会社を創立して幅広い事業展開を目指す  20年には近江セールズ会社となり、メンソレータムの販売を手掛ける
10年 近江ミッション(基督教伝道団)設立。34年には伝道、販売、建築の各事業を合体して近江兄弟社となり、41年には一柳米来留(ひとつやなぎめれる)として日本国籍取得
ヴォーリズは、住宅、学校、教会など約1600の建築を手掛けるが、その基本理念は最小限のコストで最大限の満足を目指すこと
軽井沢テニスコートのクラブハウスを始め、1142年の間に、軽井沢だけでも110棟以上を設計、地元風土との調和にポイントを置いている点で評価が高い
30年、母校のコロラド大から名誉法学博士号LLDを贈られ、31年には同志社大社友に推薦。軽井沢避暑団の団長に再度にわたり選任。41年会名が軽井沢会と改称されたので、避暑団としては最後の団長として記録されている
57年、軽井沢で脳出血で倒れ、長い闘病生活の後64年死去(享年83)
54年藍綬褒章、58年近江八幡市名誉市民第1号、60年日米修好通商100年記念における功労者顕彰、61年建築業界における功労者顕彰、64年死去と共に正五位勲三等瑞宝章
ヴォーリズと軽井沢の関係は、05年に佐渡の往き帰りに来訪、地元の宣教師の歓迎を受け、11年には外国人設計による第1号の別荘として愛宕山腹にグレシット・ハウスを設計
12年には自らのコテージを軽井沢に建てると共に、16年には夏期建築事務所を設ける
長野市を中心に長期に亘って布教活動をしてきたカナダ・メソジスト教会の宣教師・ノルマンが軽井沢でも積極的に布教に関わり、ヴォーリズにユニオン・チャーチや教会、集会場などの設計を依頼し、町造りの基礎を築く
参考『失敗者の自叙伝』一柳米来留

III 座談会 信濃路のヴォーリズを語る 1995年 司会・荒川久治
山形政昭 ヴォーリズ建築研究の第1人者。大阪芸大建築科助教・工学博士
芹野与幸 一粒社ヴォーリズ建築事務所経営管理室副室長。ヴォーリズ関連資料収集
佐藤芳壽 元サッポロビール副社長。生家は軽井沢ホテル経営
保健静養地と言われるのは、外国人宣教師たちの志そのもの
ヴォーリズがメンソレータムを扱うようになったのは、伝道活動に共鳴したアメリカのメンソレータム社の会長が、「日本でとれたハッカで作れているので、伝道活動の資金に」と言って、日本での販売権を彼にあげたことから事業が始まった
伝道活動は、超教派で、具体的な社会活動を伴うというYMCAの基本理念があった
「神の前に人は平等」との理想から、生涯の同志であった吉田悦蔵や、日本人妻・満喜子夫人と共に、女子教育や幼児教育にも着目
弱者のための福祉という発想から、結核患者を率先して受け入れるためにサナトリウムを、自ら発案し実現させた
詩人の側面  同志社大のカレッジソングを作詞
東西のミッション・スクールに多くの設計を残す。御堂筋の大丸百貨店も
ヴォーリズは、05年に最初に軽井沢に来た時から、ミッショナリーの幅広い交流の地点として、軽井沢の重要性を認識し、12年には自らのコテージを作るとともに、浅間隠しにかなりの敷地を得て近江園を作り、近江ミッションのスタッフを連れてきた
大正時代は、中流階級の人たちが洋風の生活を基本にし始めた時代で、欧米人の生活を手本にして日本人が洋風をどう取り入れるか模索していたので、ヴォーリズは重宝がられた
特に、ライフスタイルを基盤にした洋風化という観点で、ヴォーリズの建築が注目された

IV 教会が見える風景
Ø  故郷の原風景
「軽井沢彫り」は、日光を訪れた外国人たちが、新しく軽井沢に避暑地を見出した時、日光の職人を連れてきたのが元になって、地場産業となったもの。図柄の菊や牡丹などの模様の、いわゆる「日光彫り」を元にして、桜の花をあしらった「軽井沢彫り」が新しく出現し、世の脚光を浴び、瞬く間に人気を呼ぶようになった。ヴォーリズもそのデザインなどを指導している

Ø  浅間隠しの兄弟社寮
軽井沢の上水道は、曙商会がヴォーリズとともにダムを設置して開発に奔走した
ハッピーバレーの麓の浅間隠しに近江兄弟社の寮があり、その先にヴォーリズの別荘があったが、1983年の台風10号の水害でがけ崩れに会い、家諸共流されたため今はない

Ø  ノルマンとヴォーリズ
軽井沢を有名にした多くの西洋人のうち、特に歴史的に内陸部へ重要な文化的影響を及ぼしたのがノルマン師とヴォーリズ
ノルマンはカナダ・メソジスト教会の宣教師で、1897年来日以降東京・金沢の後02年に長野市に転任、34年の引退まで市内に住んだ。善光寺のお膝元のやりにくい地で、生来の社交性と順応性を活かして地元との交誼を深める。初めて来軽したのは98年。ショーの開いた避暑地軽井沢を、「保健聖地」としてまとめあげたのがノルマン。ヴォーリズの設計でユニオン・チャーチを実現

Ø  旧宣教師館周辺の建築
旧宣教師館は、04年カナダ・メソジスト教会の婦人宣教師の住宅として、上田城近く、丸堀に建てられた。布教と同時に幼児教育も手掛け、この館で幼稚園教諭の養成が行われた。取り壊す段になって上田市が譲り受け、アメリカン・コロニアル建築の代表作として移築保存。市の指定文化財。ヴォーリズの設計と思われるが確たる証拠はない

Ø  教会が見える風景
日本基督教団屋代教会は、1890年伝道を開始しているが、教会堂が出来たのは26年、ノルマンの尽力によって建てられるが、ヴォーリズがノルマンのために設計した

Ø  野尻湖国際村と信濃村伝道所
1913年頃、軽井沢に別荘を持っていた外国人宣教師たちが、黒姫駅で下車した際、野尻湖の存在を知って仲間に伝えたのが外国人別荘出現の発端
日本の文化人が以前から入村していた地域で、ノルマンの働きかけにより、20年に村に持ち掛けたのが契機となって外人村(現・国際村)が誕生
Nojiri Lake Association野尻湖協会が中心となって国際的リゾート作りが行われている
教会堂がヴォーリズの設計だったが、43年大雪で倒壊
地元の信濃町は、一茶の生地として有名。日本キリスト教団・信濃村伝道所があり、ヴォーリズ事務所の設計で58年に教会が建てられた

Ø  生き続けるヴォーリズ
野尻湖国際村にもヴォーリズ設計の別荘が多く建つ

Ø  境を越えて…遥かなる夢の跡
長野県を越えて新潟県にも、高田や新発田にヴォーリズ設計の教会がある




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