コンサートという文化装置  コンサートという文化装置  2016.8.2.

2016.8.2. コンサートという文化装置 交響曲とオペラのヨーロッパ近代

著者 宮本直美 1969年生まれ。藝大大学院音楽研究科音楽学専攻修士課程修了。東大大学院人文社会系研究科社会学専門分野博士課程修了。博士(社会学)。東大文学部助手を経て、現在立命館大文学部教授。専門は音楽社会学・文化社会学

発行日           2016.3.17. 第1刷発行
発行所           岩波書店(岩波現代全書)

最高潮を迎えた会場、聴衆はオーケストラが表現する作曲家のテーマに思いを馳せ、訪れた静寂の次の瞬間、指揮者に盛大な拍手を送る……。こうした今日の演奏会の姿が出来上がったのはさほど昔のことではない。従来の声楽優位に代わって交響曲を中心とする器楽演奏がクラシック・コンサートのメインとなったのはいつどのような理由によるのか。器楽優位を支える論理の発生やオペラ(歌劇)の変容、演奏者や聴衆(消費者)の変化など、近代の文化装置としてのコンサートとそれを取り巻く諸要素を、ヨーロッパ全域にわたり歴史的に分析する

序章 交響曲はいかにしてコンサートの主役になったのか
18世紀から19世紀前半の時期は、音楽の市場化の過程であると同時に、交響曲を初めとする器楽が自立する過程でもあるが、その過程はプログラム編成の試行錯誤の中に表れている
18世紀末のプログラムは、あまりにも雑多で統一性を欠いていることに驚く  交響曲が楽章間で分断されることもしばしば
本書はコンサートを、プログラムの仕方、音楽の聴き方、さらに音楽の意味付けが模索された「場」として捉え直す。言い換えれば、コンサート制度を近代ヨーロッパの文化装置と見做して考察する試み
交響曲というジャンルが特別な意味を持つようになるのは、「ヴィーン古典派」が登場した後、19世紀になってから。交響曲を書いた作曲家がドイツ人ばかりであったことから、このジャンルはしばしばドイツ人のナショナルなアイデンティティと結び付けて語られた
18世紀から19世紀の音楽ジャーナリズムは、「音楽のドイツ性」を追及し続け、ドイツ人ばかりか他のヨーロッパ人たちも交響曲と言えばドイツ人作曲家と、当然のように考えていた
ドイツにとって交響曲を頂点とする器楽が切実なものであったことを踏まえた上で、本書が改めて目を向けたいのは、ヨーロッパ各地のコンサート・プログラムが同じような変化を遂げたという事実であり、外国の大都市が、「クラシック」の交響曲を中心に据えるコンサートのフォーマットをドイツよりも熱心に作ったのかに着目
本書が注目するのは、ヨーロッパの音楽受容の共通した側面、いわばその遍在性、普遍性であり、普遍性は音楽そのものの力によるのではなく、音楽がどのように境界を越えて受容されたのかという問題に目を向けるのが本書の立場
交響曲とオペラという2つのジャンルには、様々な「境界」を超える仕組みが用意され、公共的なジャンルとして確立している。多くの聴衆の前で演奏されることを前提とするジャンルであり、1国の文化に留まらず国際的に受容された
19世紀のコンサートがヨーロッパ中で同質的に展開する過程では、この2つの音楽ジャンルの交錯が鍵となる
音楽史的に見て、器楽が「自立」するためには声楽からの脱却が不可欠
交響曲と音楽観の変遷を明らかにする
興味深い最近の議論は、ベートーヴェンとロッシーニを2項対立図式に仕立てたもの
コンサートにおける交響曲とオペラという問題が必然的に浮かび上がる領域では無視できない作曲家たちであることは間違いない
音楽学的には、何らかの形で言葉の助けを借りる標題音楽か、音楽外的な要素=言葉の力を全く借りない純粋な器楽としての絶対音楽か、という論争は、19世紀後半のドイツ語圏の音楽界で重要だったとされる
「絶対音楽」と言う概念以上に重要なのは、「最も純粋な芸術は音楽である」そして「最も純粋な音楽は器楽である」という見方が、19世紀前半に広まったこと
19世紀的な問題の1つとして、コンサートへ行くことと劇場へ行くことは同じ音楽行為でもあり、異なる音楽行為でもあった。本書でも、コンサートと劇場(オペラハウス)の歴史的関係を明らかにしたい。コンサートか劇場かという問題もまた、ベートーヴェン対ロッシーニの図式に重なる
純粋器楽の思想は、ヨーロッパの近代を体現している  器楽の頂点たる交響曲が美学言説上でもコンサート・プログラムの上でも確たる地位を築く過程は、同時に様々な価値観の変遷を伴っている。本書が試みるのは、19世紀における2項対立の否定ではなく、そうした視覚を生み出した構造の分析であり、言説とコンサートが矛盾しながら調停されていく仕組みの解明である

第1章        言葉にできない音楽
ヨーロッパの伝統では、常に詩が主役、音楽はその僕だった  楽曲を使いまわすのは当たり前で、音楽は詩に従うべきものであり不完全な芸術ジャンルに過ぎなかった
ミメーシスの概念  芸術のジャンルに関し古代ギリシャで生み出され、近代ヨーロッパでもいきながらえていた強力な規範で、芸術とは理想的にあるべきものを模倣或いは再現して表現するものである、というもの
ミメーシスを実現しうる言語や視覚芸術に対し、音楽は単独では何も模倣できないところから、芸術としては対象外
19世紀初頭になって、ロマン主義者たちが、言葉にできない感情を表すものとして、独自の存在意義を唱え始めた  理性では捉えられない何かに憧れるという思潮に器楽がはまった結果で、この音楽観の重要な転換点にベートーヴェンの交響曲の存在が決定的な役割を果たしたのは疑いない
ショーペンハウアーの哲学が、音楽を具体的な事象を模写しない芸術だと捉えたことは、音楽の非表象芸術としての性格に特権的な地位を認めることに繋がり、その考えが19世紀後半に遍く流行するに至ったのも彼の影響にあることは間違いない
器楽は言語では伝えられない何かを表現し、伝えるところから、声楽ジャンルのオペラとは別に、言語の壁を超えるものとして「最も純粋な芸術」の地位を獲得

第2章        オペラの覇権
18世紀から19世紀の音楽界は、オペラを中心に回っていた。イタリア人作曲家によって生み出されており、中でもロッシーニの人気は絶大
オペラは、メディチ家が絶大な権力を持っていた1600年頃のフィレンツェで創作。構想したのは当時のカメラータと呼ばれる富裕層の教養人サークルで、ギリシャ悲劇を模した新しいジャンルを生み出す
スコアが現存する最古のオペラは、モンテヴェルディの《オルフェオ》で、ドラマの情景や登場人物の心情を旋律の音型や楽器指定によって表現したことは音楽史上では必ず言及される
宮廷オペラから、次第に商業オペラへと発展、最初の有料公開オペラ劇場は1637年ヴェネツィアでオープン。1670年には人口15万のヴェネツィアに9つの劇場が存在、16371678年の間に150ものオペラが生み出されたという
イタリアの恩恵を蒙ったのはドイツとオーストリアで、イタリア・オペラをそのまま上演したが、独自の文化を持つフランスは、イタリアから輸入したバレエを必ず取り入れた独自のスタイルを作り上げ、国王と貴族が自ら演じて権力を表象するという形式で発展
1718世紀のバロック・オペラの特徴は、カストラート(去勢歌手)による高度な歌唱と豪華な装置・技術を備えた大掛かりな舞台だったが、それを支えた貴族社会が19世紀前半にはほぼ消滅した後も新たな社会のシステムの中で活用された。商業オペラの発展が都市の人々にとって重要なジャンル・娯楽として根を張っていたのが大きい
音楽史の中で「巨匠」とされるバッハはオペラを1曲も書いていないが、実質的にずっと教会や市に雇われる公務員だったところからその機会がなかったということで、オペラの成功は作曲家に富と名声を約束し、その地位は音楽を志す者にとっての希望だった
19世紀前半に、オペラの権威ある中心地は、ビジネスとしてのオペラを成功させたパリ
作曲家にとっての好ましい条件とは、優れた演奏家と贅沢な劇場設備、そして何より作曲家への報酬の保証であり、著作権保護の法整備はなかったものの、フランスが主導する形で後にそれを実現するだけに、不十分ながらもパリでは作者の経済的権利が認めら始めており、パリで初演され、出版されることがヨーロッパでの成功を約束した
同様にオペラ歌手も国際的スターとしての名声を確立、高額のギャラは高級官吏や軍人も羨むほどだったという。原型の中で、即興的な妙技を披露する能力を期待されたが、ロッシーニは歌手の装飾をコントロールしようとした
劇場は階級の区別を可視化する機能を持っていたが、異なる階級の人々が同じ舞台空間を共有していたことから、オペラとは貴族だけのものではなく、より広い層の観客が共在する場として機能していたジャンルでもあった
19世紀前半のオペラとは、高尚な芸術でありながらも、新興のブルジョワにとっての贅沢な娯楽として新たに再生したジャンルだった

第3章        コンサート市場を成立させたもの
歴史的に見ると、音楽生活の中心が声楽で構成され、その隙間に器楽の発達の芽が育っていたように思われるが、器楽の独立という点で注目すべきは、「コンチェルト」という名称が1つのジャンル名のように広まったことで、音響それ自体が聴くべき対象となった
17世紀末には、ヨーロッパ各地でコンサートと呼ばれる催しが行われるようになった
17251790年に続いたパリのコンセール・スピリチュエルというコンサート・シリーズは、オペラやコメディ・フランセーズといった劇場の娯楽が宗教的な理由から禁止された四旬節に限って開催された代替の催し物だったが、器楽演奏が各地で評判となり拡散
オペラと同様、国家からの助成や認可を受けた特権的な機関が質の高い音楽の育成に寄与
マンハイムの宮廷楽団は、モーツァルトのようなヴィルトゥオーゾを招聘するなど、オーケストラの演奏に力を入れ、コンサ-トの幕開きと終わりにメンバーが作曲した
交響曲を演奏することを特徴としていた
器楽がオペラ興業との関わりの中から出てきたことを示す例は、演奏家の副収入源という面のほかに、オペラの序曲とヴィルトゥオーゾというコンサートにおいて重要な役割を果たす2つの要素に見出すことができる
イタリア・オペラの序曲はシンフォニアと呼ばれるようになり、後のシンフォニーの原型となったが、独立した器楽ジャンルとしての交響曲は、オペラという舞台芸術から生み出された。同様にオペラの始まりを告げる機能を持つ序曲が徐々に拡大して楽章になり、新作で話題性のあるものや人気作品は、オペラ本編と切り離されて演奏されるようになった
器楽奏者の演奏技術を披露する側面もあったのは、歌詞ではない響き自体が注意を引くことによって器楽が鑑賞対象になったことの証であり、ヴィルトゥオーゾが脚光を浴びる
19世紀のヴィルトゥオーゾ・コンサートでは、演出が工夫されるようになり、典型例はパガニーニとリストで、それぞれ悪魔と司祭をイメージとして、見た目や舞台の雰囲気を作り上げた上でコンサートを行った
ベネフィット・コンサートという、音楽家自身が企画して入場料を自分たちのために募る演奏会が流行、至る所でより広い聴衆を集めたコンサートが開かれるようになり、その規模と広がりが19世紀以降のコンサート制度の定着を考える際に重要
コンサートでは、ある種の伝統的パターンが形成され、声楽曲と器楽曲の交替からなるプログラムが定着。さらにオペラの旋律に基づく器楽のファンタジーやヴァリエーションの増加が見られ、それを器楽曲として演奏して脚光を浴びたのがヴィルトゥオーゾたち
現在につながる近代的コンサートの成立として注目すべきは、19世紀前半に器楽演奏(実質的には交響曲の演奏)を主眼とする長期のシリーズが出来たことで、ロンドンのフィルハーモニック協会(1813年創立)、パリの音楽院コンサート協会(1828年開始)、ライプツィヒのゲヴァントハウス・コンサート、ヴィーン・フィルハーモニー・コンサートがその例
ライプツィヒには宮廷がなく、1817年までは常設の歌劇団もなかったため、町のエリートはコンサート・シリーズに集まり、大学と市民の音楽活動が盛んだった。1781年に第1回のコンサートが開催され、すぐに音楽活動の中心を占める
ヴィーンでは、マリア・テレジアが音楽助成を縮小したことによって公開コンサートが活性化。1812年楽友協会発足、15年にはコンサート・シリーズ開始
一般大衆が音楽を娯楽として消費する楽しみの受け皿となるコンサート活動は、19世紀初頭に萌芽があって、19世紀半ば以降多様なコンサートが隆盛
コンサートの種類が多くなり、ますます多様化する中で、少なくとも19世紀半ばまでは、音楽演奏の現場において真面目な芸術音楽とポピュラーなコンサートとの間に明確な区別はなかった  分化するのは19世紀後半
プログラムの傾向  ベネフィット・コンサートは雑多であることが好ましいとされ、その中でどうにか見いだせるパターンは、器楽と声楽から成るプログラムで、シンフォニアか序曲が幕開きに置かれる。多彩な構成で、ジャンルも編成も雑多であることが特徴
19世紀半ば、コンサートがクラシックの交響曲を恒常的にレパートリーとし、コンサート・プログラムの中に核となるジャンルが確立したことによって、交響曲はオペラに匹敵する公共的な音楽ジャンルになった

第4章        交響曲の正当化と受容
演奏の現場での人気という点では劣勢にありながらも、19世紀後半には遂に交響曲が自立したプログラムを組むに至った背景には、音響としての受容が十分ではなかった時期から根気よく器楽と交響曲の価値と正統制について主張し続けていた批評家たちの存在がある
交響曲の理論化、作曲技法の理論やソナタ理論においても、器楽・交響曲観においても、常に背後にはその領域に於けるドイツの優位性への言及が控えていた。ドイツの自意識と外国音楽への差別意識が、イタリア音楽の代表たるオペラに対抗するというナショナルな使命を果たしていた
パリでは、ハイドンの交響曲が「オペラのように」受容されたが、純粋な器楽としての美学的主張を証明する立場に置かれたのはベートーヴェンの交響曲
当時ヨーロッパ中で歓喜して迎えられたロッシーニのオペラによって人々がイメージや感情ではなく音楽そのものを聴くようになったことが、ベートーヴェンの受容の準備となったことは否めない
19世紀初頭に、同じ作品を何度も聴いて理解するという価値観が前面に出てきた。いわゆる教養主義で、難解なものに何度も触れて本質を理解しようと努める志向性である。それまでは「新作」が売り文句であり、必ずしも音楽自体を聴くことを意図してはいなかった
特定の音楽を「クラシック」と呼び始めた背景には、厳密な概念規定があったわけではないが、その使用が普及する過程の中で、近い遠いは別として過去の真面目な音楽であること、何度聴いても何年経っても価値を持ち続けること、といった意味が結晶化していった。この語はオペラには使用されなかった。この意味での「クラシック」は古い優れた音楽を現代に聴くということ、何度聴いても尽きない価値を持つこと、即ち時を経ても聴き続けることを合意している。音楽界に広がり始めた「クラシック」という言葉には、そもそも「何度も聴くこと」が付随していたといえる
音楽が作者の精神の表現と見做されたのは、音楽に限らず、ヨーロッパ芸術に関する近代美学の特徴
ヴィルトゥオーゾの派手なパフォーマンスには批判が向けられる
教養主義に沿って、プログラムの再編と統一が進み、新作より過去の音楽を復興しようという動きが活発化
客席の側にも変化  18世紀まではコンサートであれオペラであれ、演奏中に立ち上がったりしゃべったりする習慣は普通に見られたが、19世紀の聴衆は演奏中に沈黙し始めた。プログラムにも、「時間通りに着席のこと、開始後の座席への案内は楽章終了後」との注意書きが記載された
19世紀前半に交響曲が、ドイツのナショナル・アイデンティティと結び付けられて語られていたが、そもそも器楽美学にはナショナリズムと同時にコスモポリタニズムが並存していたとする言説もある。音楽家同士の楽しみではなく聴衆を必要とするという意味において、共同体メタファーで語られる音楽ジャンルは交響曲だけ。歌詞を持たない器楽だからこそ国境を越えた受容が可能だった

第5章        言葉にできない音楽の言葉による領有
交響曲というジャンルの理念に共鳴したのは各国の知的市民層であり、19世紀前半のほぼ同時期に独仏英でコンサート・プログラムが同質的な傾向を見せたのは、「真面目な」音楽という同じ器楽観が各国のインテリ層に受容されたからに他ならない
芸術が目指すべき規範として存在していたミメーシス理論に代わって、自明のゴールを持たない音楽の規範は、知識人たちの言語による解釈によって具体的に規定されることになった
「言葉にできない」音楽の美を言語で定義するのは、音楽の知識人層であり、「音楽」の神秘を語る専門的な言葉は、かつてのラテン語のような地位を獲得したと見做すことができる
音楽の商品化と同時に、単に消費されるだけの「商品」との区別のために芸術作品としての価値が重視された  交響曲は、人間が教化されるための貴重な文化財
「様式二元論」の一方に割り当てられたロッシーニが「楽譜の音楽」ではなく「イベントの音楽」とされたのは19世紀前半のイタリア・オペラの上演事情に関わっている。当時はオペラ全体が興業=イベントだったが、19世紀後半にはオペラにも交響曲のような「作品」概念が導入され、消耗品的な娯楽から「作品」になり始めた
交響曲がテクストに依拠する作品として確立される中で、イベントだったはずのオペラもまたテクストに立脚する音楽作品という価値観が入り込んでいった
本書で述べてきたのは、音楽が無条件に普遍的であるのではなく、当初の受容層からどのように越境して広まったかという問題。近代における交響曲は、「語りえない」ことで最も純粋な芸術としての地位を得た後に、その周囲に学術的な言語を廻らせることで、地域や時代を超える芸術ジャンルとしての地位を確立してきた
造形芸術とは異なる再現芸術としての音楽が初めて「芸術作品」として認識されるようになった時に、抽象的な作品の同一性保持のために厳密な楽譜という物質的基礎が必要だったが、ヨーロッパ近代の音楽文化が書かれたテクスト=楽譜に重心を置くようになった必然性を認めつつ、なお本書が協調したいのは、厳密なテクストをベースにしつつ、様々な解釈での音響化の実践を伴ってこそ交響曲もその他の音楽も存在していると言える。「イベント」としての音楽経験が常に生み出される環境がまたその「テクスト」としての音楽を支えている


コンサートという文化装置交響曲とオペラのヨーロッパ近代 [著]宮本直美
神聖化と固定化、背景をたどる

 正直、小中学校のとき音楽の授業は苦痛だった。楽聖たちの肖像画が掲げられた教室で、教養として詰め込まれる知識、沈黙して鑑賞させられる名曲は楽しくなかった。現在、クラシックコンサートの主役は交響曲である。しかし、昔からそうだったわけではない。
 本書は様々な研究成果をもとに、劇的なオペラや即興的な超人芸など、娯楽性に富む見世物的な音楽に対して、楽譜に基づく真面目な器楽演奏が重視されるようになった経緯を明らかにする。各国の事情と演奏の国際化、イベントの興行と動員、セットリスト、出版業と著作権、批評や言説など、音楽をめぐる状況を分析し、19世紀に起きた歴史的な変化をあぶりだす。
 こうして社会との関係から読み解くと、生き生きとした音楽の情景が思い浮かぶ。音楽家は霞(かすみ)を食って生きていたわけではない。商業的なオペラ関連の楽譜の売り上げでお固い音楽批評誌を支えたり、雑多な曲の組み合わせでコンサートを開いたり、そこに交響曲の一部も入っていたという。
 著者の指摘で興味深いのは、2種類の普遍化である。言語の障壁にもかかわらず、オペラは各地で人気を博し、需要にあわせて大胆に変えられたり、翻訳語版が上演されたりした。一方、交響曲はロマン主義的な理論によって非言語の芸術として神聖化され、各国の知識層に受容されていく。とくに器楽におけるドイツの優位性を論じる言説が登場し、交響曲は何度も聴いて理解すべき教養として位置づけられ、ベートーヴェンはそのシンボルとなった。かくして新作よりも定番のクラシックを演奏する、お馴染(なじ)みのコンサートの形式が整えられる。
 音楽を支えるシステムへの本書の視座は、現在のポピュラー音楽にも応用できるだろう。フェスの興隆、ライブの物販、アイドルの握手会、ネット配信など、周辺環境は変化を続け、音楽のあり方に影響を与えているからだ。
    ◇
 みやもと・なおみ 69年生まれ。立命館大学文学部教授。『宝塚ファンの社会学』『教養の歴史社会学』など。




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