ヴァーグナーの「ドイツ」  吉田寛  2016.9.12.

2016.9.12. ヴァーグナーの「ドイツ」~超政治とナショナル・アイデンティティの行方

著者 吉田寛 1973年生まれ。東大大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。同研究科助手、助教を経て、現在立命館大大学院先端総合学術研究科准教授(表象領域)。専攻は美学、感性学、表象文化論

発行日           2009.10.9. 第1
発行所           青弓社

音楽によって「真のドイツ」を打ち立てようとした作曲家リヒャルト・ヴァーグナー。
3月革命や統一戦争で国家の輪郭が激しく揺れ動いた時代、複数の「ドイツ」がせめぎあうなか、超政治としての芸術を実践した彼の「ドイツ」はいったいどこに向かったのか。19世紀ドイツのナショナリズムを新たに問い直す音楽史

序章
本書は、ヴァーグナー(181383)の芸術と思想における「ドイツ」と「ドイツ的なもの」の理念を、その活動の初期から晩年まで、時代を追って歴史的に考察する試み。民族主義者ヴァーグナーや国家主義者ヴァーグナーといった固定化されたイメージや評価を補強・追認、または、批判・修正するものではなく、ヴァーグナーにとっての「ドイツ」が一体どのようなものであったのかを、いくつかの歴史的転換を明るみに出しながらつぶさに検証することを通じて、最終的には、19世紀ドイツとヨーロッパにおける国民(ナチオン)や民族=民衆(フォルク)の理念、そして民衆=民族主義(ナツィオナリスムス)の運動それ自体を新たな視点から捉え直すことを目的とする
本書は元々、ルネサンスから19世紀までの音楽文献の中から「ドイツ様式」の特徴や、音楽における「ドイツ的なもの」の理念を歴史的に検証することを通じて、「音楽の国ドイツ」という「近代の神話】とでも呼ぶべき国民性のイメージの起源と変容を明らかにするという、より大きな思想史的プロジェクトの一部――しかも結論部――として構想された
1848年のドイツ3月革命と翌49年のドレスデン革命に身を投じてドイツを追われ、宮廷音楽家としての職も失ったヴァーグナーは、スイスでの亡命時代に革命的な芸術理論家として名を上げ、その存在をヨーロッパ中に知らしめる。だが、ミュンヘンの宮廷に招かれてドイツでの表舞台に復帰した64年以降、彼は現実の政治から意識的に距離を置き、むしろ自らの芸術や思想を通じて「真のドイツ精神」を現実化しようという、いわゆる「超政治」に専念。自ら「私は最もドイツ的な人間であり、ドイツ精神である」と意識したという
真にドイツ的になるためには、政治はそれ自身を超えて超政治へと高まらなくてはならない。超政治は、ロマン主義、人種主義の科学、反資本主義、民族統合の主張という4つの要素から構成される、「半政治的イデオロギー」であり、それをキー概念としてナチズムが推し進められた
ヴァーグナーと最も鋭く「対決」した同時代人の1人のニーチェは、『善悪の彼岸』の中で極めて皮肉に満ちた言い方で「ドイツ」の定義を行っている。「彼らの間で〈ドイツ的とは何か?〉という問いが決して絶えないこと、これこそがドイツ人の特色である。」もちろん、ヴァーグナーが「ドイツ的とは何か?」というそのものずばりの題名の論考を著していることを知っていながらのこと
19世紀において音楽の「ナショナルな性格」がそのまま「国際的で普遍的な価値」としても通用しえた最も典型的な例、つまり1つの「輸出品」として最も成功した例がヴァーグナー
初めはその理念が大歓迎の中で国際的に――少なくともドイツ周辺諸国に――「輸出」され、それが一旦「世界を征服」した後、それに対する反動の形で真の「世界主義」が構想される、という点で、ヴァーグナーとヒトラーが果たした歴史的な役割は構造的に類似している
ヴァーグナーの音楽は、その意に反して、一種の芸術的世界主義を準備したが、似たようなどんでん返しが行われたのがヒトラーのナショナリズムで、それへの反動が初めて統合ヨーロッパという構想を予見させたばかりか、統合ヨーロッパの実質的基礎をも生み出した
ヴァーグナーの音楽において表現されるべき、または表現されてるはずの「民族性」の内実が実は空虚だった。生きた民族音楽はほとんどなかったのが現実で、ありもしない民族音楽が煽動的な効果を上げるようにすっかり作り変えられた。そのことが《マイスタージンガー》の抗し難い調子とその悪を可能にした。ハンス・ザックスの靴屋の歌も存在しない民謡を模倣しているに過ぎない
この「民族的なもの」の不在は、ヴァーグナーに限らず、ドイツ・ロマン主義全体が直面していた問題だった
現代ドイツの文化と社会を読み解く上でヴァーグナーの研究が必要
ヴァーグナーと妻コジマの長男でヴァーグナー家の第3代当主と同時にバイロイト祝祭劇場の監督だったジークフリート(18691930)は、ヴァンフリート館へのヒトラーの出入りを禁じるなど、ナチスから一定の距離を置いていた。反ファシストの気骨で知られたトスカニーニを1930年、外国人指揮者として初めてバイロイト音楽祭に招いたのも彼の功績。彼の急逝後跡を継いで第4代当主になった妻のヴィニフレート(18971980)は、党員でもあり元々ヒトラーとの親交が厚く、ナチスとの協調関係を積極的に求めた。その結果、ナチスが政権を取った33年以降、音楽祭は免税特権と資金援助を獲得し、音楽祭期間中はナチス党の幹部が公然と街を闊歩するようになり、バイロイトは「ナチスの聖地」として目されるに至った
トーマス・マンにとって、「ドイツ」と「音楽」とはほとんど同義語と言っていいほどに一体だった。音楽を「芸術のうちで最もドイツ的な芸術」と呼び、「ドイツ的でなくして音楽家であり得ようか」と信じて疑わなかった
ヴァーグナーはその出発点においてインターナショナリストあるいはコスモポリタニストだったことは間違いないが、いつどのようにして「ナショナリスト」に転向したかについては明らかにされていない
ナショナリズム自体、19世紀前半と後半では大きく変化しており、前半は「世界市民的」で開かれたナショナリズムだったが、後半は高慢で排他的な、あるいは攻撃的とさえ言えるナショナリズムに変化した

第1章          出発点としてのコスモポリタニズム――最初期のオペラと著作に見る「ドイツ的なもの」(183439)
ヴァーグナーがその音楽活動の最初期においてコスモポリタニズムの立場をとっていたことを明らかにする。汎ヨーロッパ的な作曲家を目指す
1834年、最初の著作『ドイツのオペラ』公刊。最初のオペラ《妖精》の完成と同年であり、このオペラには汎ヨーロッパ的な芸術を作ろうとする若き作曲家のコスモポリタン的野心が窺える。フランス7月革命への熱狂の中で成立した青年ドイツ派の思想的影響大
ドイツ人が器楽という「独壇場」を持ちながら「国民劇」が存在しないことを嘆き、「歌こそはそれを通じて人間が自ら思うところを音楽的に伝達する器官」として、それが未発達ということは「真の言語を欠いている」ことに他ならないという。出発点ですでに器楽ではなく音楽劇を志向していたことが分かる
グルックの巧みな朗唱法と効果的な劇作術に、イタリア歌唱美を極めたモーツァルトのコントラストに飛んだ旋律法、アンサンブルと楽器法の技法を統合すれな、満足する歌劇作品を作れるとし、汎ヨーロッパ的な芸術を作り出すことを、一人のドイツ人音楽家としての「使命」として自覚していた

第2章          パリでの挫折を経て――「フランス的なもの」に対する批判意識の芽生え(183942)
パリ時代、富と名声の欲望に支配されたパリの芸術界と退廃的な社交界の現実を見て、祖国ドイツへの郷愁を強くし、「ドイツ的なもの」の()発見へと向かい、「祖国ドイツに永遠の誠実を誓った」。彼の中でコスモポリタニズム(インターナショナリズム)が「ユダヤ的なもの」の含意を持つようになったのもこの頃
ヴァーグナーによれば、「ドイツ的才能の普遍性」を最も理想的に実現したのがモーツァルト。イタリア・オペラを完成の高みにもっていったのみならず、民衆に根差した「歌芝居(Singspiel)」を創始することで「オペラのドイツでの帰化」に貢献
にもかかわらず以後弱体化し、ロッシーニの登場でイタリア楽派の覇権が復活、その流れに「堅実さ」を加えたフランス人の作品がドイツでも圧倒的に支持されている。フランス人とドイツ人が協力することでもっと優れた音楽劇が生まれるだろうとしていたが、次第にパリの音楽に違和感を覚え始めるとともに、自らの作品の上演がなかなか実現しないことに苛立ち、被害妄想的になる

第3章          ドレスデン時代――革命期の思想に見る「ドイツ的なもの」の理念(184249)
故郷ザクセンに戻りドレスデンの宮廷に職を得た後迎えた3月革命とドレスデン革命では、市民革命の理念に立脚して、共和主義に基づく理想国家の建設を謳ったが、理念自体ユートピア的領域の内にあった
『リエンツィ、最後の護民官』(唯一の歴史劇)のパリでの上演を断念、ドレスデンでの初演を模索してパリを去るとき、「祖国ドイツへの永遠の誠実を誓った」と自叙伝にもあるが、フランスへの敵対心があったわけではなく、同時代のドイツ・ナショナリズム運動から一定の距離を置いていた
1840年、ライン川を巡る領土争いから一気に反フランス的な愛国運動が全土に広がる(ライン危機)。音楽史上重要なのは、ここで高まった愛国主義が、歌曲運動の形でドイツのあらゆる階級に共有されていったこと。「世界に冠たるドイツDeutschland uber alles」の歌詞で知られる《ドイツの歌》など19世紀ドイツを代表する愛国的歌謡の多くがこのライン危機の時期に作られた
ヴァーグナーは、この「ライン歌曲運動」に共感を示していないどころか、アナーキズムに強く感化されていた
42年、《リエンツィ》の初演が成功し、漸くオペラ作曲家として世に認められ、翌年は《さまよえるオランダ人》を自身の指揮で初演し成功、同年ザクセン王国の宮廷歌劇場指揮者(宮廷楽長)に任命され、46年にはベートーヴェン《第九》の歴史的名演も行う
安定した地位を手にしながらも、政治と社会に対する批判的意識を失ったわけではない
宮廷楽団の改革に失敗して辞任、初めて「革命」による突破に言及。そこへ482月パリでの革命勃発の報が入り、翌3月にはドイツ全土に革命運動が広がる
ヴァーグナーは、国民劇場の構想を内務大臣に提出
493月、フランクフルト国民議会が帝国憲法を採決するが、諸邦国は支持せず、各地で民衆が蜂起するも鎮圧され、ヴァーグナーは亡命、パリのリストのところを目指すが、コレラが流行したこともあってスイスに逃れる

第4章          「未来の芸術作品」と民衆(フォルク)の理念――チューリヒ亡命時代1(1849)
4,5章では、チューリヒ亡命時代に執筆した芸術理論を考察。ゲルマン系諸民族とローマン系諸民族の芸術特性の違いを初めて理論化し、「真の劇」は「最も根源的な言語」であるドイツ語によってのみ実現可能と説く
ヴァーグナーはこの後60年までドイツへの入国が許されず、チューリヒを拠点とした亡命生活を送る。この10年間に書いた3つの芸術論文『芸術と革命』『未来の芸術作品』『オペラとドラマ』は、ヴァーグナーがドラマの理念を打ち出した著作として重要

第5章          「オペラとドラマ」に見る「ドイツ的なもの――チューリヒ亡命時代2(185051)



第6章          祝祭劇場の構想とドイツへの帰国の途(185264)
「祝祭劇場」の構想が芽生え、帰国を望むようになるが、その構想の中で「革命」と「ドイツ的なもの」の理念が溶け合って一体となった



第7章          「最もドイツ的な国家」としてのバイエルン――ミュンヘン時代(186465)
多くの点で転換点となった時代を考察。ルートヴィヒII世からミュンヘン宮廷に招かれ、若き国王に政治的進言も行ったところから、この年を境に狭義の芸術理論から、より実践的に政治に関わるものへと移行



第8章          ドイツ統一戦争とヴァーグナー――トリープシェン時代(186670)
ミュンヘン宮廷内の政争に敗れてスイスに避難して迎えた普墺、普仏の2つの戦争をどうとらえたかを考察



第9章          新生ドイツ帝国の誕生と「ドイツ的なもの」のゆくえ――ヴァーグナーの1871
ドイツ帝国が誕生した年に焦点を当てる。プロイセン軍のベルリン凱旋を祝う《皇帝行進曲》の作曲を依頼され、喜んで引き受け、皇帝夫妻の臨席した演奏会で自ら初演を指揮
祝祭劇場計画に上からの理解と支援が得られず、建設のための財政的基盤を民衆の中に求め、ドイツ各都市にヴァーグナー協会を設立。「ドイツ精神」は「民衆」に足場を置いて「下から」立ち上がらなくてはならないと考えていた彼にとって、必然的方向転換だった


第10章       「ドイツ」はいずこに?――バイロイト時代(187283)
晩年のバイロイト時代」にヴァーグナーの「ドイツ」の理念がどのような展開を遂げたか
ドイツ帝国への幻滅によって彼の「ドイツ」は再び現実世界での足場を喪失したため、彼の「ドイツ」をめぐる思考は一層観念的で過激な傾向を強める。70年代半ばに「ドイツ精神」そのものに失望を表明し、アメリカへの移住を考えだす。最後のオペラ《パルジファル》はアメリカ初演が構想された。76年夏、悲願の第1回バイロイト音楽祭が開催されたが、聴衆がアンコールを連発する「普通のオペラ顧客」だったことに失望。聴衆に理想を説くとともに、反政府的論調でバイロイトをドイツの「文化的首都」にして政治的首都ベルリンに対抗しようという野心を窺わせる。彼の理想とする「ドイツ」が、現実のドイツ帝国が成立したことで、ヨーロッパ大陸では実現不可能となった
異質な他者によって不断に脅かされる自己の内面的な王国こそが、ヴァーグナーの「ドイツ」のために残された最後の領土となった




おわりに――ドイツのヴァーグナー/ヴァーグナーのドイツ







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