須賀敦子の手紙 須賀敦子 2016.9.14.
2016.9.14. 須賀敦子の手紙 1975~1997年 友人への55通
著者 須賀敦子 1929.1.19.生まれ。主著に『ミラノ 霧の風景』(女流文学賞、講談社エッセイ賞)、『コルシカ書店の仲間たち』、『ヴェネツィアの宿』、『トリエステの坂道』、『ユルスナールの靴』などがある。イタリア現代文学の翻訳書も多数。『須賀敦子全集』(全8巻)には、デビュー以前の文章や日記、両親、夫への手紙などが収録されている。1998.3.20.逝去
編集 松家仁之、北本侑理
発行日 2016.5.28. 初版第1刷発行
発行所 つるとはな
スマ・コーン、ジョエル・コーン両氏が長らく保管してきた須賀敦子からの手紙55通を収録。コーン夫妻、北村良子氏、北村浩一氏、佐野真理子氏の理解と協力に感謝
『つるとはな』創刊号、第2号掲載『須賀敦子からの手紙』に、未公開のもの40通と新たなインタビューを加えた完全版として、大幅に加筆・修正し、再編集した
筆跡にも本人の人となりが現れていると考え、封筒の表書きなども撮影し、掲載
² 1975~84年
67年に夫ペッピーノを、70年に父豊治郎を亡くし、71年にイタリアから帰国した須賀は、慶應大国際センターに嘱託として勤務。英語、フランス語の事務のほか、留学生の相談にも乗っていた須賀は、アメリカからの留学生ジョエル・コーンと知り合う。この頃須賀はキリスト教徒として、廃品回収による「エマウス運動」に積極的に参加、多忙を極めていた。72年には母・万寿が亡くなる。73年ジョエルのガールフレンドである大橋須磨子に会った須賀は、急速に二人と親しくなってゆく
75.10.8. 須賀 ⇒ J.C. in Harvard 大橋さんが大変つらい手術の後退院した
目黒区中目黒3-6-19-35
ジョエルは須磨子との結婚とアメリカ永住の手続きのため、一足先に帰国。須賀は日本で待機する須磨子の”後見人”のような役割を引き受けることになった
75.11.11. 須賀 ⇒ J.C. in
Cambridge よかったこと5つ。おスマさん、ベソかいているんじゃないかと心配してたので。小さな論文が出来上がって出版社に送る
目黒区五本木2-5-5-206
スマが渡米し、ボストンでの夫妻の新生活が始まる。報告を受けた須賀が、イタリアへの旅に出る直前、祝福を伝える
76.12.9. 須賀 ⇒ J.C. in NY 結婚式への招待状へのお礼。時間とお金があれば出席できるのに残念。イタリアからホンヤクの仕事が来たが、お金のもうかる話はない。こういうのが私の人生らしい。すまさんを紹介してくださって私の生活にもいつもやさしい光がありました
中目黒と書いて五本木に訂正している
77.1.10.
須賀 ⇒ J.C. in NY(Cambridgeへ転送) イタリアに行ったのはバカな仕事と苦しい勉強のため
目黒区五本木2-5-5-206
76年、五本木のメゾネットタイプの集合住宅を購入。この頃からオリベッティのPR誌『SPAZIO』でイタリアの詩人について書き始める
77.2.6.
須賀 ⇒ スマ in Cambridge フロリダ旅行のお土産に対するお礼
???? 須賀 ⇒ スマ in Cambridge 詩について勉強している。私の恋は? 行きつ戻りつ。トラックの荷台から落ちたトイレットペーパーが新幹線を止めたという新聞記事の切り抜きを同封、こんなバカでくだらない記事は日本の新聞だけとコメント
スマからの手紙には、樹木の葉や植物の種など、可愛いオマケが同封されることが多かった。インドの「魔法の豆」には、小さな赤い豆に象牙で作られた象のミニチュアが何個も入っていた
77.5.17. 須賀 ⇒ スマ in Cambridge Weddingの写真となべつかみのお礼。私の恋も終わり、その人を見てもなんでもなくなってしまった。これでイチ上り。私はオクテもいいとこでやっとこの年になって少しだけ文学のことが分かってきたみたい
Ø おすまさんのこと 須賀敦子 1979年『ひろば秋季号』
おすまさんは画家。日本文学を研究しているニューヨーク生まれのご主人のジョエルとケンブリッジに住む。4年ほど前、東京に留学しているジョエルを通して知り合い、ジョエルが日本を離れる時、私の家の集まりで紹介された
おすまさんは北海道生まれ。農場で育ち、学校を出てから上京。絵の塾を卒業してから下北沢の小さな事務所で働き、その合間に絵を描いていた。私の娘といってもよいほどの年の違うおすまさんは、少しの間に、私にとって、かけがえのない友人になった
遅れに遅れていたビザが下りて、おすまさんはアメリカに出発。ニューヨークのジョエルの両親の家で結婚式を挙げた
3年目に里帰り。2人で北海道の両親を訪ねる。2人とも以前より少し太って、満足そうだった
77.7.11. 須賀 ⇒ スマ in Cambridge モンターレという一昨年ノーベル賞をもらったイタリア現代詩人の作品について書いた
77.8.12.
須賀 ⇒ スマ in Hinsdale, MA 9月から上智で鷗外をやる。あまり倫理的なので、私のしゅみではないし、男書きなのである意味では私とはかんけーないが、文章の素晴らしさには敬服
77.10.29.
須賀 ⇒ スマ in Cambridge 上智は程度が悪くなる一方で、新しい国際学部長は文学など追放しなくてはと考えているようで、私のクビは風前の灯火。オリベッティの雑誌にはイタリアの詩人についてのエッセイが続き、漸く現代詩の系譜が分かってきた。鷗外の勉強にもよい緊張をもたらしてくれて、私の世界が少しずつ開けていくような感じ。この年になって自分というものの形が、おぼろげながら出来てきたのかなと思っている。日本では不況だと言いながら「中流意識」とやら言うのが「人民」に定着したそうで、なんともお粗末
77.12.24.
須賀 ⇒ スマ in Cambridge 私の論文は宙に迷った形。Mentorの先生が嫌がって事が進まない。すべて日本的100%で私は全く苦々しい気持ちだが、自分の仕事だけは続けていこうと考えている。今年は社会的な立場という面では行き詰まった年だったが、友人たちが私の精神的な支えとなってくれて、今までになく精神的に豊かな喜びを持った年でもあった。恋人は今?の状態。私にとって非常に大切な男性の友人がいるが、小康状態
78.2.1.
須賀 ⇒ スマ in Cambridge 相変わらず例のVWで動いている。クズ屋さんの手伝いは一生続けられないので、やっぱり私はものを書いたり読んだりそのことを人に話したりするように生まれてきた人間なのだと思った。7月にダブリンに同窓会の役員会で行く予定。9月には京大で30時間のイタリア現代詩の集中講義をやるので、その前にフィレンツェにも行く
番地を書かずに出したので、一旦日本に戻されている
78.2.10.
須賀 ⇒ スマ in Cambridge 雪見舞い。鏡で自分を見たらインテリ女みたいだったのでぞっとした。勉強してもインテリ女にならないように生きたい
78.5.10.
須賀 ⇒ スマ & J.C. in Cambridge イタリア政府から文化交流に貢献した功績で共和国功労賞の”騎士”の叙勲
78.6.27.
須賀 ⇒ スマ in Cambridge 2階の四帖半にこたつを入れたので、冬中こたつで勉強。私が一方的に可愛がっている姪(妹の子)がシカゴ郊外の女子大に行く。相変わらずボロ・ワーゲンを運転
79.1.31. 須賀 ⇒ スマ in Cambridge 胃を手術しなくて済んだ自分へのお祝いで12月末にイタリアへ旅行。地中海に突き出た崖にカキのようにへばりついた村に滞在
79.4.11. 須賀 ⇒ スマ in Cambridge 有栖川公園内に5年ほど前に出来た都立中央図書館で仕事することを覚えた。昔近くに住んでいてしょっちゅう弟を連れて遊びに行っていたところ。窓の外の桜に魅せられて毎日来ることを決めた
81.10.30.
須賀 ⇒ スマ & Joel in Cambridge 引っ越しのお祝い。ウンガレッティを書いて慶應からPh.D取得。来春サンフランシスコに行く。上智でフルタイムになった。冬にはヴェネツィアに行って、ヴェニスの大学で漱石について喋る
83.9.5.
須賀 ⇒ Joel & スマ in Cambridge 8月にコーン夫妻の招きで初めてのアメリカ旅行をしたお礼。この旅はアメリカの広さと自由に魅力を感じた須賀に忘れがたい印象を残した
83.9.15.
須賀 ⇒ スマ & Joel in Cambridge 今年から、上智(3コース)、文化学院、東大、聖心、慶應と掛け持ちが始まる。上智は谷崎だけの予定だったが3つも授業が成立しそうで泡をくっている。アメリカの経験は私にとって重要。帰ってから夫妻への感謝の気持ちとともに、アメリカへのなつかしさが心に湧き上がってくる。スマが言ったように、私はアメリカが合っているのかもしれない。帰ってからFENのニュースを聞いてMAの話が出たりすると思い出が蘇り、今までとは全然違った感じを受けるのに驚く。アメリカが私にとって長い間抽象でしかなかったことにびっくりする。おそらく最も近くにあった「西洋」だったのに、それが近すぎたから、ヨーロッパを見続けてきたのかもしれない、とこの頃になって考えている
83.10.5.
須賀 ⇒ Joelとその家族 in
Cambridge アメリカ旅行を懐かしんでいる
83.11.4.
須賀 ⇒ Joel & スマ in Cambridge 同じ研究室の同僚からのナスティな電話の愚痴
84.1.5.
須賀 ⇒ Joel & スマ in Cambridge ジョエルのクリスマスカードが届かずがっかりした。お料理を作るときにエイとコショウを入れるみたいに、今年は一寸渋みを入れ過ぎたようです。でも、心のほかは全部元気。雑誌『SPAZIO』でのギンズブルグの『ある家族の会話』翻訳の連載が間もなく終了する頃に、長い手紙を書く。上智以外は1月一杯で全て終わる。大学に無理を言って3月初めから(月末まで)ナポリに行く許可を得たので一緒に行こう
² 1984~91年
84年夏、再びコーン夫妻の招待で2度目のアメリカ旅行へ。3人でマサチューセッツやメイン州の田舎町を巡る。帰国後、『SPAZIO』の編集者・鈴木敏恵の勧めで、自身のイタリアでの経験を回顧するエッセイ連載を決める。タイトルは『別の目のイタリア』。後に改稿、加筆され、90年刊行のデビュー作『ミラノ 霧の風景』となる
84.4.20.
須賀 in ナポリ ⇒ スマ & Joel
in Cambridge 3月にナポリの大学の東洋学科に来て源氏を講義するが、上智の比較文化学科よりもさらに学生の質が悪いので憮然。大学からの依頼で荷風についての小論文を書く予定
84.5.27. 須賀 in ナポリ ⇒ Joel & スマ in Cambridge イタリアと日本を2つ抱えて生きて行く運命みたいなものと諦め、イタリアに日本文学を植える仕事を自分のプログラムの中に置いていくべきと奮い立った。日本語と比べて自信のない言葉で仕事をしてゆくのはプライドから言って辛いが、反面この仕事には私を夢中にさせる何かがある。7月までいるのでぜひ来てほしい
84.7.5. 須賀 in ナポリ ⇒ Joel & スマ in Cambridge 8月にアメリカに行き、10ほど一緒にいて9月に日本に帰る
84.8.13. 須賀 in ナポリ ⇒ Joel & スマ in Cambridge ボストン到着便を連絡
84.11.1. 須賀
⇒ Joel & スマ in Cambridge 新学期が始まったが生徒の質が悪い。来週パソコンが来る。自分とは異質と考えている思考体系と付き合うのが楽しみ
84.12. 須賀 ⇒ Joel in
Cambridge 電話のお礼
85.6.22. 須賀 ⇒ Joel & スマ in Cambridge 夏にフィレンツェで一緒に過ごす
87.8.30. 須賀 ⇒ Bea &
Bernie in New York 2度目のアメリカ旅行の際、一人でニューヨークまで足を延ばし、ジョエルの伯父夫妻の家に泊めてもらったが、その際お礼状を出さなかったことへの3年後の"わび状” 今年アメリカに行けなかったのはただ時間がなかったから。自分にできる量を超えるくらい仕事を引き受けているのはわかっているが、キャリアをスタートさせたのが遅かったから、この何年かは全力でやっておかないときっと後悔すると思う
88.1.19. 須賀 ⇒ Joel & スマ in Cambridge スマの作品について、時には作品に取り組む姿勢について、須賀は忌憚のない感想や意見を言うことが少なくなかったが、言い過ぎたかも知れなかったと謝りの手紙
88.2.2. 須賀 ⇒ Joel & スマ in Cambridge 87年のクリスマスにボストンのコーン夫妻の家に滞在。その前の月に弟の須賀新が逝去。アメリカにいる間に石川淳がなくなり、これで「みんな」死んでしまったという感じ
88.3.3. 須賀 ⇒ スマ & Joel
in Cambridge ギンズブルグの小説『マンゾーニ家の人々』を翻訳中。肝臓の機能の数値がまたまた悪く、医者が腹痛ではないかと心配するが、自覚症状はなく、血液検査も正常
88.4.14.
須賀 ⇒ Joel & スマ in Cambridge 『マンゾーニ家の人々』の原稿を白水社に届ける。英字新聞に載せる英訳した日本の本のレビューを頼まれ暫くやることにした。2か月ほど前にコルシア書店の仲間・ガッティの死を知らされた
88.9.16. 須賀 in Firenze⇒ Joel & スマ in Cambridge 大好きな街に3日間滞在
88.11.24.
須賀 ⇒ Joel & スマ in Cambridge 東大は今年で停年(!)
89.4.25.
須賀 ⇒ Joel & スマ in Honolulu 東大が1日なくなっただけで気持ちがゆっくり、のんびりする
89.9.29.
須賀 ⇒ Joel & スマ in Honolulu 随筆はしばらくお休み。エッセイというのは生活から滲み出てくるもので、エッセイを書こうと思って生活するとうまくいかない。太ってどこかでキリをつけるため毎朝5時起きで30~40分歩き始めたおかげで3kg減った
90.1.3.
須賀 ⇒ Joel & スマ in Honolulu Joelの父親逝去。Cambridgeの家を売却。江戸趣味的なことをして正月を過ごす
90.2. 須賀 ⇒ Joel & スマ in Honolulu 4課目教えた忙しい秋学期が終了。来週には3週間のイタリア旅行に出る
90.2.21. 須賀 in Rome ⇒ Joel & スマ in Honolulu サバティカルの準備でローマに来ている。ローマのカオスはひどく、頭が混乱する
91.1.6. 須賀 ⇒ Joel & スマ in Honolulu 前年末に『ミラノ 霧の風景』刊行、初めての『著書』として贈る。書評を期待するのは早いが、わりあい評判はいいようだ。20年ほど前に鈴木敏恵という編集者に会ったことが何よりの幸運だった。『現代イタリア詩集』というのも小さな本屋から頼まれている
91.2.13.
須賀 in Rome ⇒ Joel & スマ in Honolulu 湾岸戦争勃発でローマはガラガラのカーニバル。年末から翻訳と自分のエッセイで3冊も出してくたくたになった。今度はローマ大学で週2回講義をする
91.4. 須賀 in Rome ⇒ Joel & スマ in Honolulu もうすぐ日本に帰る。タブッキやギンズブルグに会う
91.9.26.
須賀 ⇒ Joel & スマ in Honolulu 女流文学賞と講談社エッセイ賞受賞。スマが絵を描くのであれば、買う人に失礼のないよう中途半端はいけないと忠告
² 1997年
刊行以降、書き手としての須賀は多忙を極める。92年『コルシア書店の仲間たち』、93年『ヴェネツィアの宿』、95年『トリエステの坂道』刊行。95年末、初の長編小説『アルザスの曲がりくねった道』の構想を得て、96年アルザスへ取材旅行。96年『ユルスナールの靴』を刊行後、癌発見。97年1月国立国際医療センター入院、手術、化学療法始まる
97.2.18. 須賀(医療センター南16階から) ⇒ Joel & スマ in Honolulu 全5回のうち第1回目の化学療法終了後。ハワイからのお土産はハーブティーがいい
97.2.24. 須賀(医療センターから) ⇒ Joel & スマ in Honolulu 2回目の化学療法終了。白秋の詩や藤沢周平の時代小説は宥?される(comfort)。藤沢は同じ病院の階下に入院、須賀の入院後まもなく死去
97.4. 須賀(医療センターから) ⇒ Joel in Honolulu 3回目の化学療法終了。気分回復。病室の窓から私のよく知っている東京の南の部分が見えて楽しい
97.4. 須賀(医療センターから) ⇒ Joel in Honolulu 4回目の化学療法の前。スマが日本にいるが忙しそう
97.4. 須賀(医療センターから) ⇒ Joel in Honolulu 今夜から点滴開始。甲南に来られそうで楽しみです
97.4. 須賀(医療センターから) ⇒ Prof. Joel in Honolulu 第5回目は連休明けの予定。翻訳したり手紙を書いたりして忙しい。スマとは毎朝電話することになっていて、日本での様子を伝える
97.4. 須賀(医療センターから) ⇒ Prof. Joel in Honolulu 甲南の話は難しそうかな
97.4.21. 須賀(医療センターから) ⇒ Joel in Honolulu スマが来月までいてくれることになって感謝。「ガンバッテ下さい」についていうと、大学生なんかが何かのトレーニングで怒鳴っているが、「下品」という感じ。「しっかり」が近いような感じがする。出版社の人たちが出入りして、少し疲れた。「元気でいて下さい」という言葉も、全体としてあまり素晴らしい語ではないように思うし、「つつがなく」なんて書いていた時代の人たちは身震いしたに違いない
97.6.退院。9月再入院。見舞いに通うスマに「癌てどんなものか最後まで知りたい」と言う。11月タブッキと対談。年末から容態悪化。98年3月聖イグナチオ教会のベニーノ神父より終油の秘蹟を受ける。3月20日心不全により帰天。享年69
Ø 須賀敦子のこと スマ & ジョエル・コーン
スマは美幌出身。高校卒業後町役場勤務。68年上京して阿佐ヶ谷美術専門学校卒業
ジョエルは、大学1年で漱石の『こころ』を読んで日本文学にハマる。コーネル大で日本語を勉強。71年慶應大国際センターに入り、翌年同級生から「面白い人がいる」と須賀に紹介される。留学生の世話もしていた須賀とすぐに気が合って文学やイタリアの話をした
ジョエルは、青山のジュエリー工房で英語教師のアルバイトをしていると、友達に連れられてスマが現れた。スマの妹が開いた別のパーティーで、偶然また会って話が始まる
73年暮れ、須賀が国際センターの留学生を呼んで中目黒の須賀の父親が昔住んでいた家でパーティーを開き、その時ジョエルのガールフレンドということで出掛けたが、その日は疲れていて英語もわからず隅で寝てしまった。須賀のエッセイ『おすまさんのこと』では婚約者になっているが、まだ婚約までは行っていない
スマの須賀の第一印象は、会話が魅力的だが、自分のことはあまり言わないので、孤児かと思った
須賀さんは、83,84,87年とボストンに来てくれた。ハワイにも来てくれた。自身「アメリカには背を向けて生きてきた」と書いているが、最初の3週間の旅で、ボストンやニューヨークをすっかり気に入った様子。ワシントンスクエアの叔父夫婦の家に泊まった時には、「ヨーロッパにはこんな人はいない」と言ったが、ヨーロッパとは違う何か良いものを感じてくださった様子だった
ヨーロッパの中ではイタリア、それもミラノという気持ちが強かったのは、ペッピーノの母親が、「ピッツァなんて南の食べ物だから」って言ったのに影響されたのでは。でもナポリに行けばいいというし、フィレンツェでは「もうミラノの時代は終わった、フィレンツェがいい」っていうし、どこにでも誰にでもなつく人
料理がとても上手で、フィレンツェに滞在する須賀を訪ねた時は、「イタリアにいると料理をしたくなる」って、手早くおいしい料理を作って食べさせてくれた
96年10月日本訪問の際は、須賀が仕事場の原宿に寝起きしていたので、五本木の家に泊めてもらった
翌年癌が発見されたときは、身の回りの面倒を見てほしいと言われ、スマが五本木へ行く
97年の最初の治療の後、その夏からジョエルは大学の仕事で神戸に1年間住むことになり、8月には退院した須賀と一緒に食事を楽しむ
最後に会ったのは98年2月。神戸にいたので葬式には出られたが、どうしても行く気になれなかった
Ø コーン夫妻への手紙を読んで 松山巌
喜びを分かち合い、恋を失ったことから教師生活の苦労まで、愚痴も言い合える友が2人も晩年いた事実をよかったと思う。素顔の彼女の声が直に聴こえてくる
須賀のおしゃべりは、一旦話し出すと、連想することがいろいろ浮かぶのだろう、次から次へと話題が出て、会話が尽きない
手紙を出す際、絵葉書の図柄や書く紙に、実に気を遣っている
最後の手紙は特に感慨深い。「しっかりね」「つつがなく」といった言葉について書き、実は自分自身を「しっかりね」と励まし、最後の言葉「さようなら」を「キリがないから」と微かな笑いを込めて記したのだ
Ø 姉の手紙 北村良子 聞き手:松家仁之 2015.11.12.夙川にて
小さいころ、姉も私も本ばかり読んでいて、机に向って何か書いている姉の姿はほとんど記憶にない
姉が手紙を書いてくるようになったのは、敗戦後の聖心女子の高等専門学校に入学して、関西の家を離れたころからだった。近況報告で、筆まめになったのはそのころから
全集に入っている姉のイタリア時代の手紙(59~71年)は、母が保管していたもの
筆跡を見ていると父の筆跡を思い出す。約1年かけた視察旅行の行く先から、小学校低学年だった私たちにひらがなとカタカナの多い大きな字の手紙が届いた
姉の手紙に冗談めいた口調が混じるのは、母の口調。母は祖母の前ではおとなしかったのに、私たち子どもの前では面白いことばかり言っていた
「エイとコショウを入れるみたいに」と書いているが、「エイと」なんて掛け声は、母の喋りかたそのまま
反対に父は冗談が全く分からない人。父方の須賀の人たちはみんなユーモアが下手で、真面目いっぽう。母方の森家は冗談ばっかり言っていて、真面目を馬鹿にするところがあった。母も真面目が大嫌いで、須賀家に来てからずいぶん窮屈な思いをしていたようだ
父方の祖母は賢い人。無駄口はいっさい言わない。祖父が若くして亡くなったから、自分の夫の会社(水道設備業の須賀商会)を盛り立てて、使用人の上下を問わずとても大切にして、心配りを忘れなかった
敗戦直後、家の風呂の具合が悪くなったときは、自ら見にいって「ドレインが悪かった」と専門用語でいうので、ふだん不機嫌な父が珍しく嬉しそうに笑って、「おばあちゃんも水道屋やなあ」って
跡継ぎの父が会社でそれなりに落ち着いてくると、だんだん祖母の権力が失われて、会社のことはもちろん、家事全般をやりたがっても、「ばあさんはばあさんらしく、おとなしくしていなさい」と父が怒って止めた
入院した姉から電話するのを頼まれて初めてスマの名前を知ったが、その時もただ「結婚する時に世話した人」というだけで詳しい説明はしない。聞けばアメリカの大学の先生の奥様だというし、わざわざ呼びつけて身の回りのことを手伝ってもらうなんていいのと聞くと、かまわないのよ、としか言わない。コーン夫妻を訪ねて4回もアメリカを旅していたことも聞いていなかった。姉は私の前ではアメリカを馬鹿にするようなことを言うことがあったので、アメリカの素晴らしさを改めて気づいた、なんてことを口にするのは一寸具合が悪かったのかもしれない
20代で留学する時に、アメリカ留学を父が許さなかったためにとりやめたというのも今回コーン夫妻への手紙を読んで初めて知ったが、姉の中にアメリカに対する複雑な気持ちがあったのは確か
聖心女子大の初代学長のアメリカ人、エリザベス・ブリットが終戦後日本に帰ってくることになって、何より喜んでいたのは姉。帰省してくるたびにマザー・ブリットのことを夢中になって話していた。それを考えると、アメリカにはずっと縁があったのだろうが、そういうアメリカに対する思いに長らく蓋をしていたことも83.9.15.付けの手紙で素直にそのまま書いている。あんなに率直に自分の思いをそのまま伝えているのは本当に珍しい
姉は具合が悪くなってからも、お見舞いの人が重ならないように周到に手を打っていたので、病院でスマさんに会ったのは2度くらいで、姉とどれくらい深い結びつきがあったのかは、そこでもまだよくわかっていなかった
ジョエルが甲南大で教えることになった時、夫妻で姉の墓参をしてくれた時からメールのやり取りが始まり、その内容を見て、こういうセンスを姉は好きだったろうなあ、と強く感じた
去年(2014年)、姉からの手紙をどうしたらいいかと相談され、コピーの束を見てびっくり
姉があんなにのびのびと書いている手紙は読んだことがなかった。構えず、姉らしさが全体に溢れていて、読み終えたときただただ感無量だった
私にも話せなかったことをコーン夫妻が受け止めてくれていたことで、姉にとってコーン夫妻がどれだけ大切な存在だったか、改めて思ったし、姉がスマさんを病院にまで呼びつけて身の回りの世話をお願いした気持ちも初めて納得した
手紙のコピーは読んでいたが、封筒に書かれた宛名書きの姉の字を見るだけで言葉にならない気持ちでいっぱい。鮮明に姉の気配が伝わってくる写真に、姉はどんな気持ちで宛名を書いていたのかなって。想像するだけで胸がいっぱい
略年譜
1929.1.19. 大阪赤十字病院にて誕生。実家は兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市翠が丘)
1930.2. 妹・良子誕生
1934.10. 弟・新誕生
1935 西宮市殿山町に転居。4月、小林聖心女子学院小学部入学
1936.7. 父が世界一周実業視察団体旅行に参加(37.5.帰国)
1937 父の転勤に伴い、東京麻布本村町に転居。東京(白金)聖心女子学院小学部3年に編入
1941.3. 小学部卒業。4月、聖心女子学院高等女学校入学
1943 疎開のため夙川の実家に戻り、小林聖心女子学院に編入
1945.3. 戦時のため5年生の小林聖心を4年で卒業。敗戦を夙川で知る。10月、東京に戻り、父と2人で麻布に暮らす。聖心女子学院高等専門学校英文科入学、寄宿舎に入寮
1947.4.頃 聖心女子学院で洗礼、洗礼名マリア・アンナ
1948.3. 聖心女子学院高等専門学校卒業。5月、新設された聖心女子大学外国語学部英語・英文科2年に編入
1951.3. 聖心女子大学卒業。学士論文はウィラ・キャザー、『Death Comes for the Archbishop』(大司教に死来たる)の翻訳。学生寮から麻布の家に戻る
1952.4. 慶應大大学院社会学研究科入学
1953 政府保護留学制度に合格。パリ大学留学のため、大学院中退。7月、日本郵船平安丸にて、神戸から出発
1955.7. 帰国。中目黒で暮らし、日本放送協会国際局欧米部フランス語班の嘱託となる
1956 光塩女子学院で英語を教える
1957 カリタス・インターナショナル留学制度合格
1958.8.末 羽田からフランクフルトへ出発。パリ滞在後、ローマのレジナ・ムンディ大学で聴講を始める
1960.1. ジュゼッペ(ペッピーノ)・リッカと出会う。7月、コルシア書店から『どんぐりのたわごと』第1号創刊(62年の第15号まで刊行)。ミラノでコルシア書店に参加。12月、コルシア書店からイタリア語版『こうちゃん』刊行
1961.11.15. ペッピーノ(36歳)と結婚
1962.2.~62.4. ペッピーノと新婚旅行で日本へ
1963.4. G.ヴァンヌッチ編『荒野の師父らのことば』訳、中央出版社。9月、『Due amori crudeli』(谷崎潤一郎『春琴抄』『蘆刈』ペッピーノと共訳)ボンピアーニ社。以後アツコ・リッカとしてひとりで、日本近現代文学をイタリア語訳
1967.6.3. ペッピーノ死去、享年41。8月、母危篤で一時帰国(68.4.まで)、危篤状態を脱するが、9月、祖母・信死去、享年82。夙川の実家から母校、小林聖心で英語を教える
1970.3.15. 父危篤のため一時帰国(5月まで)。翌16日、父死去、享年64
1971.8.末 帰国。中目黒のアパートに暮らす。慶應大国際センターの事務嘱託(82年まで)。NHK国際局イタリア語班にも嘱託として勤務。9月、ジョエル・コーン留学のため来日
1972.2. エマウス運動の活動開始。4月、慶應大外国語学校でイタリア語講師(84年まで)。5.6.母死去、享年69。7月、エマウスのワークキャンプのためフランスへ(8月まで)
1973.4. 上智大国際部比較文化学科非常勤講師、国際部大学院現代日本文学科兼任講師。8月、練馬区に「エマウスの家」設立、責任者となる
1974.7. フランスでの国際エマウスキャンプに参加(8月まで)
1975.夏頃 日本オリベッティ社企画による講演会の通訳、事務書類の翻訳などを行う。12月頃、エマウスの家の責任者を退く
1976.4. 五本木に住まいを購入
1977.6. 『イタリアの詩人たち』(『SPAZIO』79年まで)
1978.春 イタリア共和国カヴァリエーレ功労勲章受章。9月、京大イタリア文学科非常勤講師として集中講義
1979.4. 上智大常勤講師。12月、ギンズブルグ『ある家族の会話』訳(『SPAZIO』84年まで)
1980.7. 『歌劇トロヴァトーレ』訳(日本放送協会)
1981.10. 慶應大より『ウンガレッティの詩法の研究』で文学博士号取得
1982.4. 上智大外国語学部助教授、聖心女子大学英文科兼任講師(89年まで)。この年、ブルーノ・ムナーリ『木をかこう』訳(至光社)
1983.4. 東大文学部イタリア文学科兼任講師(ブランクを挟み89年まで)。6月、ミラノへ行き、甥カルロとフランス旅行。8月、初めてコーン夫妻のいるボストンへ旅行
1984.3. ナポリ東洋大学日本文学科講師(7月まで)。8月、ミラノからボストン旅行。この年、ムナーリ『太陽をかこう』訳(至光社)
1985.8.4. フィレンツェでコーン夫妻と過ごす(9月まで)。11月、『別の目のイタリア』
(『SPAZIO』89年まで)。12月、ギンズブルグ『ある家族の会話』訳(白水社)
1986 京大文学部イタリア文学科非常勤講師(88年まで)
1987.11. 弟死去、享年53。12月、ボストンへ旅行(年越し)
1988.9. 学会のためイタリアへ。ギンズブルグ『マンゾーニ家の人々』訳(白水社)
1989.2. フランス、イタリア旅行。3月、コーン夫妻のいるハワイへ旅行。4月、上智大比較文化学部教授。6月、ギンズブルグ『マンゾーニ家の人々』の翻訳でピーコ・デッラ・ミランドラ賞受賞
1990.2. 翌年の滞在準備のためイタリアへ。12月、『ミラノ 霧の風景』(白水社)、『別の目のイタリア PART II』(『SPAZIO』95年まで)
1991.1.
ギンズブルグ『モンテ・フェルモの丘の家』訳(筑摩書房)、タブッキ『インド夜想曲』訳(白水社)。ローマ大学で講義(3月まで)。4月、ナポリ大学で講義。9月、タブッキ『遠い水平線』訳(白水社)。10月、『ミラノ 霧の風景』で女流文学賞、講談社エッセイ賞
1992.4. 『コルシア書店の仲間たち』(文藝春秋)。9月、『古い地図帳』(文學界、93年まで)
1993.3. 『遠い朝の本たち』(ちくま、94年まで)。8月、大腸ポリープを手術。10月、『ヴェネツィアの宿』(文藝春秋)。 11月、『とんぼの本』の取材でイタリアへ
1994.4. 上智大特別待遇教授。5月、ヴェネツィア・カ・フォスカリ大学で集中講義(6月まで)。『ヴェネツィア案内』共著(新潮社)。6月、地中海学会賞受賞。渋谷区神宮前1-14、原宿アパートメントに仕事場を持つ。11月、『ユルスナールの靴』(文藝、96年まで)
1995.6. タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』訳(青土社)。7月、『ユルスナールの靴』の取材でアメリカ、ギリシャへ(8月まで)。8月、タブッキ『逆さまゲーム』訳(白水社)。9月、『トリエステの坂道』(みすず書房)
1996.7. 『別の目のイタリア PART III』『SPAZIO』12月まで)。ローマ、ミラノへ(8月まで)。9月、フランス・アルザスのコルマールへ『アルザスのまがりくねった道』取材旅行。10月、『ユルスナールの靴』(河出書房新社)。11月、タブッキ『供述によるとペレイラは……』訳(白水社)
1997.1.13. 国立国際医療センターに入院。17日、手術。化学療法を受ける。3月4日、スマ・コーン来日(5月まで滞在)。6月9日、退院。7月、仮題『アルザスのまがりくねった道』の原稿約30枚分を編集者に渡す。8月、コーン夫妻1年間神戸滞在。9月25日、再入院。11月、タブッキと対談。イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』訳(みすず書房)
1998.3.5. 聖イグナチオ教会のベニーノ神父より終油の秘蹟を受ける。3月20日午前4時半、心不全により帰天、享年69。26日、四谷の聖イグナチオ教会にて葬儀。甲山カトリック墓地に埋葬
『遠い朝の本たち』(筑摩書房)。『時のかけらたち』(青土社)。『ウンベルト・サバ詩集』(みすず書房)。『本に読まれて』(中央公論社)。『イタリアの詩人たち』(青土社)
1999 『地図のない道』(新潮社)
2000 『須賀敦子全集』(全8巻、河出書房新社)
2001 『須賀敦子全集』(別巻、河出書房新社)
2003 『霧のむこうに住みたい』『塩一トンの読書』(河出書房新社)
2004 『こうちゃん』(絵・酒井駒子、河出書房新社)
(書評)『須賀敦子の手紙 1975―1997年 友人への55通』 須賀敦子〈著〉
■「語り」聞こえるまろやかな直筆
最初の著作が出たのが六十一歳、八年後に他界し、生前の著書はわずか五冊。にもかかわらず、没後に書簡と日記と詳細な年譜を含む全集八巻が刊行。須賀敦子の人生は驚きに満ちているが、最近、全集にも載っていない新たな事実が周囲をあっと言わせた。
イタリアから帰国後、ひと回り以上歳(とし)の若い女性と知り合う。「すまさん」こと大橋須磨子は間もなくアメリカ人と結婚、渡米。以来、二十二年にわたって須賀が書き送った書簡が、文面や封書の複写写真と共にまとめられた。ヨーロッパ文明に惹(ひ)かれた須賀がアメリカの友人とこれほど深い関係を持っていたのは正直意外で、しかも四度の訪問でアメリカを好きになっていたのにびっくり。
手紙の内容はシンプルだが、忙しすぎて部屋が混乱状態なのを「家の中に交通巡査をひとりやとって置くか」と言ったり、参院選の候補者を「これくらいならうちのメダカでも当選する」とか、「インテリという水たまりに落ちないように――生きたい」とか、描写が図抜(ずぬ)けて突飛(とっぴ)でユーモラス。まろやかな直筆からは言葉のリズムや息継ぎ、声すらも聞こえてきそうだ。改めて須賀の文学の特徴は「語り」にあると思った。
ふつう書簡が刊行されるのは大作家で、活動期の短い書き手の手紙が複写つきで出るのは珍しい。須賀への関心の高さがわかるが、作品が小説ではなく回想記のスタイルで書かれたことは大きいかもしれない。人生の締めくくりを意識する年齢に、自身の体験を普遍化する意識を傾けて物語った。そこに読者は切実な声を聞き取り、探偵のようにその実像を追うことが、作品を読むのと同様の楽しみになったのだ。
最期を看取(みと)った妹さんもこんなに親しい友人がいたとはと驚く。口外しなかったのは秘密の物語として心中に留めておきたい気持ちが多少あったからか。もしそうなら謎はこれで終わりではないのかもしれない。
評・大竹昭子(作家)
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『須賀敦子の手紙 1975―1997年 友人への55通』 須賀敦子〈著〉 松家仁之ほか編 つるとはな 3078円
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すが・あつこ 1929~98年。イタリア文学者、作家。著書に『ミラノ 霧の風景』ほか。訳書に『インド夜想曲』など。
春秋
日本経済新聞2014/10/23付
歌人の斎藤茂吉は50代の半ばになって、まな弟子の永井ふさ子と激しい恋に落ちた。別居中の妻があったが情熱はほとばしるばかり、30も年下のふさ子に送った手紙は150通にのぼる。「ああ恋しくてもう駄目です」「恋しくて恋しくて、飛んででも行きたい」――。
▼こういう赤裸々な書簡の束が公表されたのは本人の死後ずっとたってからだ。茂吉はいつも末尾に、読んだら火中に焼くよう求めていたのだが彼女は多くを手元に残した。その違背のおかげで天下の歌詠みの意外な一面が明らかになったのだから微妙なものである。文人の言葉は究極の私信であれ作品性を帯びてやまない。
▼エッセイストでイタリア文学者の須賀敦子さんが、友人夫妻に宛てた書簡55通が見つかったそうだ。「もう私の恋は終りました。その人をみてもなんでもなくなってしまった。これでイチ上り」。40代のころの1通である。はて身の上に何が……。随筆とは違うざっくばらんな物言いで、亡き作家はまた読者を引きつける。
▼「イチ上り」とはなんとも直截(ちょくせつ)な表現なのだが、人生の山も谷も、彼女はそうやって越えていったのだろう。そんな心情が遠巻きの読み手をも揺さぶるのだ。それにしてもいまやメール時代、文学者のこういう私信はのちの世に日の目を見るのかどうか。火中に投ぜずとも、削除ボタンひとつで消え去る文章の行方を思う。
伊文学者・須賀敦子さんの書簡55通発見 「恋は終りました」
日本経済新聞 2014/10/18付
「ミラノ霧の風景」などの作品で知られるエッセイストでイタリア文学者の須賀敦子さん(1929~98年)が友人夫妻に送った書簡55通が、17日までに見つかった。須賀さんの全集にも収められていない未公開のもので、「私の恋は終りました」と率直な思いを吐露するなど、人間須賀敦子の姿が浮かぶ資料だ。
一部は24日創刊の雑誌「つるとはな」に2回に分けて掲載されるほか、同日から神奈川近代文学館(横浜市)の「須賀敦子の世界展」で展示される。
同誌編集制作の作家、松家仁之さんによると、手紙は須賀さんがイタリア人の夫と死別後、71年に帰国してまもなく知り合った米国からの留学生と北海道出身の妻の2人宛てで、75年から97年までに書かれた。須賀さんがハワイに暮らす夫婦を訪ねたり、亡くなる直前の須賀さんを妻が数カ月世話をしたり、親しく交流した。書簡の今後の扱いを悩んだ夫妻が、コピーを須賀さんの妹に渡したことで、存在が明らかになった。
書簡には「もう私の恋は終りました。その人をみてもなんでもなくなってしまった」(77年5月)、「私のなかには、やっぱりなにか放浪したいものが住んでいて、まだ自由になりたいと思いつづけています」(77年8月)などと書かれている。
また「詩を訳したりessayを書いたりすることも最高に幸福なのですが、それがすぐに、世間という場の中でrankされてクギヅケ、ハリツケになる」(同)と記すなど、書くことに関する複雑な思いもうかがえる。〔共同〕
はじめまして。
返信削除須賀敦子さんと五本木の関連を調べていてたどり着きましたが懇切丁寧に引用してくださり、本当にありがとうございました。おかげで、長らく積読になりつつ気にかかっていた「手紙」のことがわかりました。感謝感謝です。