新・軽井沢文学散歩 文学者たちの軽井沢  吉村祐美  2016.7.22.

2016.7.22. 新・軽井沢文学散歩 文学者たちの軽井沢 上・下

著者 吉村祐美 神戸市生まれ。関学文学部日本文学科卒、同大学院修士課程修了

発行日           2009.3.1. 発行
発行所           軽井沢新聞社

プロローグ
江戸時代、宿場町として栄えた浅間根腰3宿は、1884年の新国道開通によって寂れ果てたが、2年後に外国人宣教師によって避暑地として復活。本陣向かいの旅籠「亀屋」は1894年外人専用ホテルに改装、2年後にはMANPEI HOTELと改称、1899年には本陣の跡地に軽井沢ホテルが開業
のちに万平ホテルとつるや旅館には多くの文学者が滞在、作品を執筆し、さらに小説の舞台ともなる
明治20年代から森鷗外『みちの記』、正岡子規『かけはしの記』、徳富蘆花『碓井の紅葉』、尾崎紅葉『煙霞療養』、田山花袋『雪の信濃』など、文学者たちが軽井沢を訪れ、ルポルタージュが各新聞、雑誌に掲載されるようになった
作家たちがこの地により深いかかわりを持つのは、大正時代に入ってから
それ以降、昭和初期から戦前、戦中、戦後から現在に至るまで、近現代日本文学における錚々たる文学者たちが軽井沢を訪れ、数々の名作を創造させてきたが、彼らが1つの文学的伝統を形成してきたともいえる
都会の喧騒から離れ、思索を促す森の静寂と、透明な蒼色の空、樹々の梢を吹きすぎる風。芸術的創造を育む風土としての自然と風景が、軽井沢には存在している

松尾芭蕉句碑から室生犀星文学碑へ
旧軽のロータリーから旧軽銀座を上がってゆくと、左手に文士の宿として知られる老舗の「つるや旅館」がある。そこから少し歩いた右側に芭蕉句碑があり、没後150年の天保14(1843)に、芭蕉の門人・小林玉蓬によって建立。碑には
馬をさへ ながむる雪の あした哉
と刻まれている。『野ざらし紀行』(甲子吟行)の中で、熱田での句。「旅人をみる」という前書きがあり、雪の朝の景色は旅人の姿だけではなく、馬さえもしみじみと眺められるという句意
句碑から50m歩いた森の中にショー記念礼拝堂が建つ。軽井沢最古の木造建築。そこから矢ヶ崎川にかかる二手橋へ。中山道の軽井沢宿は、現在のロータリーから旧軽銀座を通って、つるや旅館の先まで
二手橋を渡り、矢ヶ崎川に沿って左に曲がり、やや下った所、渓流を左にみる岸辺に室生犀星の詩碑がある(後述)

正宗白鳥文学碑――一ノ字山中腹
犀星文学碑から100mほど坂を上り、右へ曲がって、右側に小川の流れを見ながら山道を300mほど登ったところに白鳥の文学碑が建つ。18歳で洗礼を受けた白鳥のよすがにと、十字架を象った碑が建ち、石の下には愛用の万年筆がおさめられている
白鳥が最初に軽井沢を訪れたのは明治45年、33歳の年。伊香保からふと思い立って外人避暑地をのぞいてみようと最初に訪れたときの印象が『軽井沢と私』に描かれている。その後軽井沢ホテルを定宿にして滞在するようになる。大正9年から離山の野沢組所有の別荘を借り続けて、夏の間滞在。「海とは違った神聖な涼しさを感じた」とか「欧州の避暑地を見たときに軽井沢にその趣が見られるように感じた。スコットランドでは殊にそう感じた」と言ってこの地の風物に引き付けられた作家の1人となる
昭和15年には雲場池近くに質素な山小屋を建てて養子に迎えた甥と3人で暮らす。寒風吹き抜ける寒さの中で過ごし、日の当たる暖かい家を持ちたいというのが戦後の白鳥の願いだった
昭和198月、東京から疎開、終戦前後は空地を開墾して自給自足の労働の日々を過ごす
昭和25年文化勲章、翌年には雲場池に2階家を増築し書斎として仕事を続けた。地方の税務署では第1の納税者だが、贅沢を好まず清貧に徹した生活だったという
散歩が好きで、あんパンを食べながら毎日のように歩き、よく途中で室生犀星の別荘に立ち寄った。地元では一風変わった人に見られていた
つね子夫人は、軽井沢で洗礼を受けた敬虔なクリスチャンでしばしば教会にも来たが、白鳥は現れず。ただ、若き日にキリスト教講義所に通って文学講座に深い感銘を受けたことは、後々まで正宗の精神世界の底流にあったのであろう
昭和33年、軽井沢の定住生活を切り上げ、南千束に移るが、その後も夏には軽井沢に滞在
昭和37年、室生犀星の葬儀で弔辞を読んだ後、軽井沢滞在中に胃に変調をきたし、2か月後には膵臓癌で死去
軽井沢で知り合った宣教師・植村環に、白鳥は病床から「すべてをキリストに委ねる」と告げたと言う
昭和40年、川端康成、大佛次郎などが世話人となり、ゆかりの深い軽井沢に文学碑建立の話が起こり、谷口吉郎設計による黒御影の碑が完成。碑面には白鳥が愛唱したギリシャの詩が、自筆で刻まれている
花そうび 花のいのちは いく年ぞ
時過ぎてたづぬれば 花はなく
あるはただ いばらのみち


室生犀星と軽井沢
(1)     随筆『碓井山上之月』
大塚山の麓の犀星旧居は、1999年から室生犀星記念館として夏期公開
犀星が丹精を尽くした苔の庭は今も残る
軽井沢には珍しい純和風の建築
ハッピーバレーの川端康成、雲場池の白鳥、六本辻の円地文子などが訪ねて来たり、水車の道近くの別荘の吉川英治とも交流、つるや旅館に滞在していた志賀直哉も行き来しているなど、東京では滅多に会うことのない作家たちが、ここでは心暖かな交流を深めていた
犀星が初めて軽井沢に来たのは大正9年。島崎藤村の紹介でつるや旅館に滞在、以降死去の前年の昭和36年まで、毎夏軽井沢に滞在して仕事を続ける
2年前に浅川とみ子と結婚、青春の放浪時代が終わり、『中央公論』にも認められ、小説家としても知られるようになっていた
大正12年夏、堀辰雄が軽井沢に来ていた犀星を訪ね、共に旧軽の道を散歩
軽井沢に愛着を持った犀星は、昭和198月に家族とともに軽井沢で5年の疎開生活を送る。昭和13年に妻とみ子が脳溢血で倒れ右半身不随となり、軽井沢の極寒の冬は厳しかったが、犀星にとって軽井沢は、多くの文学者との出会いや、様々な思い出を残す、第2の故郷と言ってもいい土地だった
芥川は大正3年から、犀星は5年から田端に住み、7年ごろから次第に親しく行き来するようになる。関東大震災の後、犀星は金沢へ帰郷するが、その際愛弟子の堀辰雄を芥川に紹介。それ以来堀は犀星と芥川という2人の師から知遇を受ける
大正13年夏、先に軽井沢に来ていた芥川から、金沢の犀星に誘いがあり、一緒につるや旅館に逗留、過ごした日々を『碓井山上之月』に具体的に書き留めている。襖合わせで各々に原稿も書き、誘い合って散歩にも出かけた。2人は仕事を含めた生活のパターンがほとんど逆。さらに芥川は文壇の寵児として売れっ子作家、一方の犀星は詩人としての地位を確立するとともに新進の小説家だったが、濫作の後の沈潜期に入ってきていた
同年、金沢に滞在した一高生で20歳の堀辰雄が帰途軽井沢の芥川と犀星を訪ねる。2人から「たっちゃんこ」と愛称で呼ばれ、可愛がられていたことが記述からわかる
本陣の跡地に建つ軽井沢ホテルは、明治32年創業、ロビーの奥にあるラウンジは「青い応接室」と呼ばれ、内外の要人や文学者たちからも愛されていたが、昭和13年閉鎖
犀星の『碓井山上之月』にしばしば登場する松村みね子は、本名片山廣子のペンネームで、竹柏園派の女流詩人で、アイルランド文学の翻訳者としても有名。大正12年つるや旅館で言葉を交わし、以降芥川も交え親交は深まる。芥川と犀星の間では、廣子は梔子(くちなし)夫人と呼ばれ、教養が高くて賢明な常に穏やかな言動の女性だった
日記風の随筆『碓井山上之月』は、この年の10月『改造』に発表
14年田端の旧居に戻る
同じく14年、堀辰雄は東大文学部国文学科に入学、夏を軽井沢に過ごし、芥川や廣子母娘と行動を共にするが、その出会いが軽井沢を舞台とする、堀文学の重要なモメントになってゆく

(2)     『我が愛する詩人の伝記』
大正15年からは、愛宕山下の貸別荘658番を借りる。現存していないが、向かい側の廣子の別荘651番は当時の姿のまま現存
昭和3年、田端の家を引き払い、親友萩原朔太郎の家に近い大森谷中に居を構える
大正15年、犀星の下に出入りしていた堀辰雄や中野重治が中心となって、雑誌『驢馬(ろば)』を創刊するが、資金不足を犀星が援助し、無名の詩人や作家を志していた同人たちの精神的な支えともなった
昭和3年、万平ホテルで慶大生の津村信夫と出会い、愛宕山下の家に信夫が兄秀夫を連れてきて、津村家と犀星の家族ぐるみの交際が親密化する
昭和11年には、信夫の結婚式の媒酌人を務める。『四季』に詩を発表、詩集を上梓した信夫は、昭和18年不治の病とされていたアディスン病を宣告され、翌年36歳の短い生涯を終える
昭和6年、別荘地を物色、旧軽井沢1133番地の土地を借りて別荘を建てる。大塚山下の家をコオロギ箱と呼び、上流階級の豪奢な別荘とは無縁の、質素でつつましい生活を望んでいた。後に離れも建て増し、堀辰雄や信夫、立原道造といった若き詩人たちの訪れは、瑞々しい青春の華やぎを犀星のもとにもたらした。とみ子夫人の手料理で食事し、犀星は彼らの半ば父親の如く、また保護者の如く、彼らの身辺に心を配り、世話をしていた
堀と立原には深い心の絆があり、信夫と犀星が加わって、お互いの資質を認め、作品を評価し、その存在と人柄に対する信愛が、4人を強く結びつけていた
立原は昭和14年、24歳で夭折、17年には萩原が、19年には信夫が、28年には堀が追分の自宅で亡くなる
『我が愛する詩人の伝記』は、次々と去って逝った詩人たちに対する、哀惜の思いを込めた、優れた伝記で、昭和33年『婦人公論』に書き続けられ、翌年の毎日出版文化賞受賞
昭和34年、妻とみ子死去。同年末『かげろふの日記遺文』で野間文芸賞受賞、賞金の使途として犀星詩人賞を決定、亡妻とみ子遺句集の刊行、犀星文学碑建立を決めた
建立の場所には、「生涯これほど身を入れた土地はなかった」(『私の文学碑』)として軽井沢を選ぶ。石垣の間に黒御影の碑面をはめ込み、詩集『鶴』の巻頭詩『切なき思いぞ知る』が刻まれた。渓流の畔には犀星が京城で買った石の俑人像が2基立っている

芥川龍之介の人と作品
(1)     芥川龍之介の人と作品
芥川は、大正13年と14年の2夏、軽井沢を訪れつるや旅館に逗留。僅か35年の生涯の中で、この2夏の思い出は印象に深く残る日々であったと推察される
明治25年生まれ。辰年辰月辰日辰刻生まれだったので龍之介と名付けられ、父42歳、母33歳の大厄の年の子であり、家の向かいにある教会の前に形式的に捨て子として、実父の友人が拾い親となる。誕生直後に実母が発狂したため、母の実家である芥川家に引き取られ12歳で養子縁組
府立3中を優等で卒業、一高英文科に推薦制度による無試験で入学。一高の同級生には菊池寛、成瀬正一、久米正雄、山本有三等、文学者として重きをなす人が多く輩出
アイルランド文学研究会にも出席、後年軽井沢で親交を深める片山廣子への想いの中に、共通のアイルランド文学という接点があったとも考えられる
大正3年、第3次『新思潮』創刊。同人は久米、成瀬、松岡譲、山本、菊池など
初恋の失恋の想いを、佐々木信綱の主宰する短歌雑誌『心の花』に投稿。片山廣子も信綱に師事して歌文などを投稿しており、2人は当時から互いの存在を知り後に文通していた

(2)     『軽井沢日記』
大正9年、長男比呂志誕生。友人菊池寛の名前から命名。次男多加志も友人の画家小穴隆一から、3男也寸志も親友恒藤恭からとっている
大正13年、軽井沢に来てつるや旅館に1か月逗留。浅間が小爆発し、降灰少々。片山廣子もつるやに逗留して交流が始まる
同年、軽井沢で犀星と過ごした日々を『軽井沢日記』に書き綴る
犀星とは生活のリズムが全く違っていたが、午後から夕刻にかけて毎日のように誘い合って散歩に出かけていた

(3)     『相聞』の詩(うた)
芥川のもとに廣子から、芥川が帰郷した後の心の空虚な想いを綴った手紙が届き、以降2人の間には数十通の書簡が取り交わされ、親密な交際が続けられる。大正14年の『明星』には、芥川が『越びと』と題する施頭歌25首を発表。「越びと」は越後の人、廣子を指す。信濃の人と書きたいところだが、表現が直截になりすぎるところから、対象をぼかした表現
この年、修善寺から犀星に宛てた書簡には、「誰にも見せぬように」と断って『相聞』の詩2篇が記されていた
大正14年、軽井沢を再訪、つるや旅館に逗留。雨の多い夏で気温の低い日が続く
犀星、廣子に加えて堀辰雄も軽井沢に集結。萩原朔太郎も美人姉妹を伴って逗留。犀星にとって朔太郎は貧しい青年詩人だった頃からの掛け替えのない親友だった
芥川と廣子の交際が文壇の中で噂になり始めたとき、芥川は表立って会うことを断念、その思いは遺稿となった『或阿呆の一生』における「37 越し人」の中で、「惜しむは君が名のみとよ」と廣子の文名が傷つくことのないよう気遣って描かれている
昭和2年、『文藝春秋』3月号に、「軽井沢で――追憶の代わりに」が掲載された時、芥川は既に死を決意していた:「さようなら、手風琴の町、さようなら、僕の抒情詩時代」
大正15年に入り、芥川の健康は衰弱、鵠沼で静養するが回復せず
昭和2年、死の年の芥川は病をおして、精魂込めて創作に打ち込み、多くの小品文及び遺稿となる『歯車』や自らの人生を総括した記録として『或阿呆の一生』を書く
芥川亡き後、芥川家の人々は、再び軽井沢に深いゆかりを持つことになる
龍之介の死後、妻は養母や子供たちを連れて追分の貸別荘で避暑の日を過ごす
後年比呂志は父の想い出を、『小説新潮』他に随筆『父の映像』で書き残している
持病の肺結核の静養のため、昭和29年に他界した岸田国士の北軽井沢の家を一夏借りてすっかり気に入り、その後も家を建てて夏を過ごす
多加志は、最も父の風貌に似ていたと言われるが、24歳で戦死。同じ日に田端の家が全焼
也寸志は、藝大を出て作曲家に。北軽井沢を気に入ってしばしば滞在。兄から家を譲り受け、平成元年初め肺癌であっけなく他界するがその前年まで北軽井沢で過ごしていた

片山廣子――軽井沢のめぐり逢い――
(1)     随筆集『燈火節』
芥川が軽井沢で出逢い、思慕の対象だった
男性の読者のみならず、女性読者の間でも人気の高い文学者
明治11年麻布生まれ。父はニューヨーク領事も務めた外交官。素封家の娘に婿入り
東洋英和で寄宿生活を送る
18歳の時、竹柏園の佐々木信綱に入門
明治31年創刊の『心の華(後に心の花)』に、短歌、新体詩、随筆、小説等を発表
明治30年代の短歌の革新運動の中で、廣子の修練が始まる
明治32年、大蔵省勤務の片山貞次郎と結婚、千駄木に住む。鷗外、漱石が住み、漱石が『吾輩は猫である』を執筆したことで有名になった家。廣子は『燈火節』に、「ぺんぺん草の家。赤門の外郭のような土地で、住む人は少しでも大学に関係あるのを光栄としている」として家や周囲の様子を書き留めている。家にはお手伝いもいて、家事に煩わされることはなかったが、結婚直後から夫が腎臓を患い、その看病の傍ら文筆に励む
明治43年には大森に転居、その後の文士村となった地で多くの作家たちとも交流
大正5年、歌集『翡翠』発刊。芥川が『新思潮』に書評を書き、龍之介らしい辛口の中に、廣子の詠歌に対する好意をも含ませている
『翡翠』の作品中、「軽井沢にてよみける歌14首」の連作がなかなかいい

(2)     アイルランド文学と片山廣子
親交のあった仏教学者鈴木大拙の夫人ビアトリスの指導を受けてアイルランド文学の翻訳を始める
大正2年から松村みね子のペンネームを用い、小説『赤い花』が『文芸の三越』で当選した時も使っていた  昭和5年の『近代劇全集39』が最後。昭和27年には本名で訳出
大正3年、グレゴリー夫人の『満月』を『心の花』に発表して以降、次々に翻訳を出し、鷗外、逍遥、菊池寛らが序文を寄せている
菊池寛との出会いは、菊池が時事新報の記者時代、取材で廣子の自宅を訪問した時からで、以降なにかと相談をかけ、出版書店の紹介もしてもらう
芥川も、一高から東大卒業までアイルランド文学研究会に参加、大正3年には『新思潮』にイエーツなどを訳載。廣子が『心の花』に翻訳の連載を始めるのとほぼ同時期
アイルランドは、どこか軽井沢との共通点を感じさせるものが多い  国花シャムロックは3つ葉のクローバーに似たミヤマカタバミで、「エメラルド・グリーンの島」と呼ばれる所以にもなっているが、緑が多く美しい自然の風景を豊かにしている森と湖と広い草原は、どこか軽井沢に繋がるし、「妖精の国」と呼ばれるのも、軽井沢の緑濃い森の陰にも森の精がひっそりと棲んでいそうで、どこか似通っているものを感じる

(3)     歌集『野に住みて』
大正9年、夫が他界(享年50)。哀しみを翻訳への没頭で紛らわす
大正13,4年の2夏、軽井沢で芥川と出逢った当時、翻訳家としての力量を評価された時期。芥川にとっての廣子は、それまで知った女性たちとは異質の存在。文学的才能のきらめきを思わせ、尊敬と思慕の情を寄せる
廣子の長男達吉は、一中一高東大法と進み、銀行勤めの傍ら吉村鉄太郎のペンネームで評論を発表、府立一中の出身者を中心に創刊された『山繭』に参加、昭和4年には堀辰雄、川端、横光利一らと同人雑誌『文学』を刊行し執筆を続けた。夫亡き後廣子の良き理解者だったが、心臓病の持病から昭和20年終戦直前に急死(享年45)
歌集『野に住みて』の作は、わが子達吉が今も側に居ると思いたい、居てほしいと願う母廣子の慟哭が秘められた歌。夫、芥川、母、長男、弟、妹と、廣子にとって愛すべき身近な人たちがこの世を去って行く一つ一つの永別を、彼女はしんとした孤独のうちに見定めなければならなかった
芥川の死は廣子にも強い衝撃を与えたのであろう。『燈火節』のあとがきには、「昭和の初めごろ、急に自分の生活に疲れを感じて、何もかも嫌になってしまった」とある
昭和6年、愛宕山下にある米人宣教師ウィン別荘651番を購入、毎夏をここで過ごす
ウィン別荘は、昭和30年大田黒元雄の娘に譲渡され、昔日の姿のままに保持されている
廣子は、達吉の死後軽井沢に疎開、終戦をそこで迎える
昭和28年、随筆集『燈火節』が暮らしの手帖社から出版、30年のエッセイスト・クラブ賞受賞
翌年には第二歌集『野に住みて』刊行、室生犀星が帯紙を書く
昭和32年、晩年は孤独の中で自らを律して生きた、清婉な人生の終末だった


堀辰雄 『美しい村』
辰雄は明治37年麹町区平河町の生まれ。芸者をしていた独身の母が、司法省勤務の父との間にもうけた子で、子供のいなかった父が認知して堀家の跡取りとしたが、母は辰雄を連れて堀家を出、別な男と結婚、辰雄もそのもとで育てられた
大正10年、府立三中から一高理乙へ進み、生涯の友となる神西清を知り親交を深める  堀の文学的醸成の展開を見ていく上で重要な意味を持つ。神西の「手引き」によって朔太郎の『青猫』を耽読し、心酔することになる
大正12年、三中の校長の紹介で犀星を訪問。犀星の『我が愛する詩人の伝記』にはその時の様子が描かれている。その夏、犀星に伴われて初めて軽井沢に滞在。直後の関東大震災で母を隅田川で亡くし、自らも泳いで九死に一生を得る
犀星が金沢に疎開する直前、堀を芥川に紹介。母を失った精神的打撃から胸を病み休学
大正14年、一高を卒業して帝大国文科に入学。室生家で中野重治らと出会う
この夏、軽井沢に長期滞在、その時の体験がその後、堀文学創造における重要なモチベーションとなる。犀星、芥川、松村みね子、朔太郎、小穴隆一らとの出会いがある
処女作は、昭和5年発表の『ルウベンスの偽画』で、舞台は晩夏の軽井沢、廣子母娘との出逢いがモチーフとなっており、その夏を主材して美化して小説化したもの
師・芥川の自殺に衝撃を受け、龍之介の甥とともに『芥川龍之介全集』を編集
年末には、肋膜炎を患い死に瀕したこともあってすべてに絶望した
翌年夏には『不器用な天使』を書き、軽井沢にも滞在、年末には卒論『芥川龍之介論』を提出。『不器用な天使』は、菊池寛の、亡き友芥川に対する友情の表として、昭和4年『文藝春秋』に発表され、未熟ではあるが方法の新しさによって文壇で注目される
昭和5年、出世作となる『聖家族』を『改造』に発表  芥川の死後3年を経て、芥川と廣子、娘の総子とその彼女に「愛の最初の徴候」を感じるようになった堀の4人の絡まり合った心理のアラベスクがベースとなった抒情的な心理小説
辰雄と総子の出会いは、大正14年の夏。総子も宗瑛のペンネームで創作を発表し始める
昭和6年、信州富士見高原療養所に入院
その間、堀と宗瑛の仲を恋人関係とする噂が流れたため、宗瑛の堀に対する意識が変わる
堀にとって、片山母娘は堀文学の主旋律をなすモチーフであり、自伝的小説の素材ではなく、あくまでも純粋小説を志向していたため、「精神的な危機に遭遇」した後の暗い心を抱いたまま、昭和8年次の作品を執筆するために軽井沢に向かう
『美しい村』はつるや旅館に滞在して執筆。題材として当初意図したのは、この土地で出会ったある女友達との別離だったが、毎日旧軽の小径を散歩しているうちに、牧歌的で明るさのある作品に変容。『美しい村――或は遁走曲』を1か月余りで脱稿した作者は同じ旅館に滞在していた矢野綾子と近づきになり、別れに苦しんできた作者の心を癒し始める
矢野綾子との出会いは、幸福へのプリーモニションという第二主題へと転調されていく
次いで『美しい村――或は小遁走曲』を発表、翌年他の2篇とともに『美しい村』として刊行
矢野綾子は、堀の代表作『風立ちぬ』のヒロイン・節子のモデル

有島武郎――終焉の地軽井沢――
(1)     『信濃日記』
三笠通りの深山橋の先に有島武郎終焉地碑の小さな道標がある。唐堀通りの標識を右へ曲がって上った突き当りが有島武郎の別荘「浄月庵」の跡地
碑は、昭和28年に町と有島家、一般の寄附によって建てられ、弟生馬の字で碑銘が刻まれている。左脇の斜めに立つ石はチルダへの友情の碑。明治39年スイスで会った娘チルダと生涯にわたる心の友として文通が続けられた
『信濃日記』には、父の別荘だった「浄月庵」で過ごした日々が綴られる
父は大蔵官僚で成功した実業家。武郎は学習院時代、皇太子明仁の学友に。札幌農学校からハーヴァード大学院へ留学、帰国後は母校の英語講師、結婚して長男(森雅之)誕生
明治43年、同人誌『白樺』創刊。同人はほとんどが学習院出身の友人。社会問題に対する関心を深め、思想上の煩悶を重ねてゆく。大正3年妻が肺結核となり2年後死去(享年28)
『信濃日記』は、妻の死の8日後に書かれたもの。同年には父も他界、武郎には重い喪失感となって心を覆う。そこから逃れるかのように文学者としての道を歩き始める
大正6年、『惜しみなく愛は奪う』『カインの末裔』で作家の地位を確立、次々に名作を刊行するが、2年後にはピークを過ぎ衰退期に向かい、自身も作家としての危機を感じる
さらに当時の拡大する階級運動の波動が、彼の文学と思想における限界を自覚させる
大正11年、父の遺産だった北海道狩太の「有島農場」を70戸近い小作人に無償で譲渡、全国的な反響を呼ぶ
同年、個人雑誌『泉』を創刊、掲載されたほとんどの作品には虚無の暗い影がにじむ。そこへ『婦人公論』の記者・波多野秋子が原稿依頼のために有島邸を訪れる
(2)     有島武郎憤死事件
農園を処分して、自ら無産階級になろうとしたが、老母と子どもたちがいればそれも果たせず、独身生活を続けていたところに秋子が現れた
新橋の美妓の子に生まれた才色兼備の秋子は、結婚した夫の放蕩に失望しいつか厭世的になっていく
有島との関係が夫に漏れて、夫から姦通罪で告訴か慰謝料かと迫られる
有島には青年時代から、周期的に自殺について考え悩むといった気質があり、大正12年のこのとき、思想的、創作的に、そして実生活においても行き詰まった状況下、死に向かうしか見えなかったのだろう
2人の失踪は1か月たってもわからず、浄月庵の管理人が見回りに来て発見
武郎の心中は多くの人に強い衝撃を与え、若い崇拝者たちの殉死がしばし続くとともに、軽井沢の地名はロマンチックな場所としても全国的に知られることになる
浄月庵は、新軽に移され青年団の集会所として使われた後、平成元年「軽井沢高原文庫」に寄贈、塩沢湖タリアセンの一画「高原文庫」の向かいに移築され保存された
三笠ホテルの創業者・山本直良は十五銀行の経営に携わった実業家で、有島の妹愛子と結婚。直純は孫。ホテルは明治39年の開業。生馬のデザインを多用した高級ホテルで、有島兄弟を始め白樺派の人々がサロンとして利用。大正14年明治屋に売却。昭和19年には外務省の軽井沢出張所として使われたが、昭和45年廃業。建物は55年、町に寄贈され、同年国の重要文化財に指定され、58年から一般公開。軽井沢の貴重な文化遺産
浄月庵跡、旧三笠ホテル、深山荘辺りは、宮本輝の『避暑地の猫』の舞台であり、文学作品ゆかりの地であると同時に、歴史的遺産にも触れる最適の文学散歩コース

野上彰 『軽井沢物語』
明治42年徳島市の生まれ。両親の離婚で母親に育てられ、少年時代から碁を打ち始め、後年文人の囲碁界で名を馳せ、多くの作家、学者、編集者を知る契機となった
七高から東大文学部に入りが飽き足らずに法学部に移る。3年の時滝川事件に殉じて退学
昭和12年、月刊誌『囲碁春秋』の編集長就任、「文人囲碁会」を企画。この会を通して川端康成や豊島与志雄と出逢い、豊島からは人生の処し方、礼節のある人との付き合い方を教わり、川端の存在は常に心の支えで恩人だった
川端は昭和12年、ハッピーバレーに最初の別荘1307番を外国人宣教師から購入、堀辰雄の『風立ちぬ』最終章の舞台であり、ここで書き上げている。野上もよく訪れ、軽井沢の風景に魅せられた野上はその鮮烈な印象を、詩集『前奏曲』にまとめ発表、注目を集め、昭和31年川端の序文、猪熊弦一郎の装画で出版
昭和22年から軽井沢に定住したが、自らの出版社が廃業、児童文学の雑誌に童話や詩を書いたり、『信州毎日』に小説を発表していたりしたが、戯曲『夢を食う女』が文学座で公演されることとなり、放送作家として多忙になり始める
瑞々しい感性で書き上げられた「軽井沢物語」は、昭和34年『週刊女性』に連載、ラジオの連続ドラマとして放送。現在でもいささかの旧さを感じさせない、この地に相応しい爽やかでロマンチックな物語
文芸のあらゆるジャンルに仕事の場を広げ、多忙を極めた毎日は58年という短い生涯となって終わるが、軽井沢を舞台とした2作品は我々の心に留まる

川端康成 『軽井沢だより』
川端が最初に軽井沢を訪れたのは昭和6年の夏。草軽鉄道の招待で、北軽井沢の別荘を見学して草津へ向かった
昭和11年、明治製菓経営の神津牧場訪問、帰途軽井沢に立ち寄り、藤屋旅館に一人残って原稿を書く日々が始まる。既に売れっ子作家だった川端のもとに油屋に滞在して『風立ちぬ』を書き始めていた堀が来て町を案内。堀に連れられて犀星や河上徹太郎らとも交流、筆もだいぶ進んだ
昭和12年、『雪国』を刊行、尾崎士郎の『人生劇場』とともに文芸懇話会賞を受賞、その賞金と出版社からの前借で軽井沢に別荘購入。桜の沢(ハッピーバレー)1307番地
日華事変勃発で日本を引き上げるカナダの宣教師から2300円で買う。衝動買い
川端は、この山荘で『信濃の話』『百日堂先生』『高原』、随筆集『秋山居』などを執筆
ハッピーバレーの名は、アジア各地でも見られるように、英国人が自らの居住地に名付けたもので植民地時代の名残
昭和15年に一段下がった1305番に別荘を買う。堀も川端の援助を得て1412番の山小屋を手に入れる。その秋から夫婦でゴルフ場通いをし、随筆『秋山居』にその様子が書かれる
小説『高原』は、昭和12年秋から『文藝春秋』などに分載され、後に軽井沢や信州を舞台とする他の作品とともにまとめられ、昭和17年『高原』と題して単行本で出版。夏の印象記風な作品
『秋風高原』は、昭和37年から、雑誌『風景』に2年余り書き継がれた随筆。「秋風立つ高原にて」の随筆の意で、1305番別荘で書いた机は浅間山に向いている。1305番の別荘は、木のベランダやレンガ色の煙突が設けられ、当時の別荘の外観を留めている
昭和43年の参院選で今東光の選挙事務長を務める。一高在学のころ西片町の今家に出入りして東光の母に可愛がられていた報恩と友情から買って出たもの
同年ノーベル賞が決まり、受賞記念講演『美しい日本の私――その序説』の草稿はストックホルムにつくまで完成せず、外国の人たちにとっては特に難解な内容だったこともあり、通訳を務めたサイデンステッカーの苦心のほどが推察される
昭和45年、川端の愛弟子とも言える「年少の友」三島由紀夫が割腹自殺を遂げ、直ちに市ヶ谷に向かうが対面はかなわなかった。川端は葬儀委員長を務める
46年の都知事選では秦野章の応援を引き受けるが落選。政治的関心を深めることは逆に文学的活動が沈静化し、執筆の量が減る
47年、急性盲腸炎で入院・手術。立野信之、志賀直哉と相次いで親友が他界、精神的にかなり滅入っていて(夫人の記述にある)、睡眠薬への依存も断ち切れていなかった
退院の1か月後、1人長谷の家を出て仕事場の逗子マリーナに向かい、睡眠薬を飲下、ガス自殺を遂げる(享年72)。遺書はなし。夫人によれば、直後の国際会議出席までの一瞬の魔の時間さえ過ぎれば、あのようなことにはならなかった気がするといい、また、友人の弔辞や追悼文を書くために、作品を片端から読み始めると、死んだ人との共感が湧き、みるみる体力が衰えて半病人のようになったという
作家としての川端が、デリケートな感性で描いたのは日本人の心情だった。あれほど多くの死者を葬送しながら、自らの文学的世界を完成させてゆく、強靭な精神力の持続と言わねばならない

エピローグ
『軽井沢ヴィネット』に連載されたものをベースに単行本として上梓
軽井沢にゆかりの深い文学者は、極めて多い。文学的伝統は今も継承され、様々なジャンルの作家、研究者、ジャーナリストが、軽井沢と深い関わりを持ちながら現在も仕事を続けている
今回筆者が意図した本書のテーマは、ある愛の物語。師弟愛であり、友情であり、他者への優しさ、それも強くしなやかな意志に裏打ちされた、心優しい行為が、現実に彼等の間には存在していた。芥川、犀星と堀の間には暖かな師弟愛が、朔太郎と犀星には友情が、川端と野上には師弟間の真情もあり、川端と堀の間には先輩、後輩としての心配りがある

文芸評論家 吉村祐美さんを語る                広川小夜子(軽井沢新聞編集長)
1998年出版の『軽井沢ものがたり』(共著)で吉村を知った。堀や犀星のみならず宮本輝まで取り上げたのを見て、吉村は文学ファンが軽井沢に何を求めてくるかをよく理解している人だと思った
『ヴィネット』が2000年特別号を発刊すると決まった時、即座に吉村に原稿を依頼、「軽井沢と作家の関わりが分かるよう、できるだけ多くの作家を登場させて欲しい」と注文
特別号では収まりきらなかった作家の話をじっくりと連載したのが03年号から
著者の希望で、作家ゆかりの場所などを記載した地図をつけた


文学の輝く「宝石箱」――天性の芸術家・文学研究者 吉村祐美の人と作品――
                                                        桐山秀樹(ノンフィクション作家)
軽井沢ゆかりの多くの作家たちの文学上の業績を評価するとともに、この高原における創作の舞台を、読者のために分かりやすく、しかも丁寧に研究解説したハンディな書籍
『軽井沢ものがたり』から今日まで、地道な研究活動を続けてきた成果がそこにはある
吉村のエッセイや文芸評論は、正統的な研究の上に、繊細で鋭敏な感受性のある美的表現が秀逸であり、今回もその特徴が如何なく発揮されている
クラシック音楽に関する評論も執筆
本書は、文芸評論であると同時に、軽井沢を舞台とした吉村の美のスケッチであり、心の旋律である
この地は自然の豊かさと共に、文化的伝統を持つ奥深さと、質の高いロマンを秘めた「文学の町」であり、著者はその11つの痕跡を心に刻み、書き留めておくことを願っている;・










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