愛の顚末 純愛とスキャンダルの文学史  梯久美子  2016.9.6.

2016.9.6. 愛の顚末 純愛とスキャンダルの文学史

著者 梯久美子 1961年熊本県生まれ。北大文卒。06年『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞。同書は米英仏伊など8か国語に翻訳出版。

発行日           2015.11.15. 第1刷発行
発行所           文藝春秋

本書は、私と同様、作家と作品の間を行ったり来たりしながら文学を楽しみたいという人のために書いた。作家の恋愛と結婚にテーマを絞ったのは、「素っ裸で仰向けに寝る」ような、隠しようもない姿がそこであらわになるからだ。恋の時間、結婚の時間の中では、美点も欠点も、可愛いところも困ったところも、崇高なところもずるいところも、余すところなくさらけ出されてしまう。そこにそそられるのである

1.    小林多喜二――恋と闘争
2009年 永遠の恋人・田口タキ死去(享年102)
多喜二を思うがゆえに彼の人生から立ち去ったタキは、若くして非業の死を遂げた作家の「永遠の恋人」として伝説的な存在に
1924年 小樽市内で酌婦をしていた16歳のタキを、評判の美人がいると聞いて尋ねたのが小樽高商卒で北拓に就職して1年目の多喜二
事業に失敗した父親によって14歳で売られたタキが懸命に借金を返済する姿に胸を打たれた多喜二の贈った言葉が、「闇があるから光がある。闇から出てきた人こそ、一番本当に光の有難さが分かる」
多喜二の初任給が70円の時、タキの借金は500
それでも年末の賞与と知人からの借金でタキを救い出し、多喜二の家族と一緒に生活をはじめ、多喜二の母は実の娘のように可愛がったが、タキは家を出て自活しようと決心
暫くは別々の道を歩みながら手紙を交換していたが、多喜二が作家として立つために上京を考えるとタキは黙って身を引き、室蘭でひっそりと暮らす
2年後に小樽に戻って働くタキを多喜二が見かける。既に作家として立っていた多喜二は前月に特高の家宅捜索を受け、その年のうちに『蟹工船』と『不在地主』を発表、北拓を辞めざるをえなくなる
30年上京。間もなくタキも上京して初めて2人だけの生活が中野で始まる
半年後多喜二が治安維持法で検挙。翌年出獄してタキに結婚を申し込むが、実家の弟妹の面倒を見なければいけなくなったタキは断って、一人で働いて実家を支えようとする
多喜二も結婚を諦め、家族を東京に呼び寄せ杉並で暮らし始める
多喜二は、プロレタリア文学の旗手として活躍、、共産党に入党して地下に潜る
地下からでも、自らの家族のみならず、タキとその家族の生活の面倒も見ようとしていた
33年、多喜二が特高に逮捕され虐殺るが、自宅に運び込まれた遺体検分に立ち会った佐多稲子による『屍の上に』には、凄惨な拷問による苦痛の跡を探すように遺体をさする実母セキの姿が書き留められている
多喜二の地下生活を支えた若い女性が伊藤ふじ子。プロレタリア演劇劇団の女優。多喜二の死後も沈黙を守ったが、81年澤地久枝が『小林多喜二への愛』と題して彼女の消息を追ったところから2人の関係が明らかになる
タキも多喜二の葬儀には参列したが、遺体を囲む大勢の関係者の写真には写っていない
美容師となって弟妹を一人前にした後結婚、毎年の命日には手紙と供物を送ってきたという。澤地がタキの居所を突き止めて手紙を書いたが、タキが会うことを拒否
ふじ子は、多喜二忌に因んだ句を残しているが、タキは完全な沈黙を守って生涯を終える

2.    近松秋江(しゅうこう)――「情痴」の人
明治・大正の文学史に特異な足跡を残す。女に対する尋常でない恋着を描いて「情痴作家」と呼ばれた。代表作は全て自身の体験を書いた私小説
早大同期で生涯にわたって交流のあった岡山で同郷の正宗白鳥とは、20代の一時期出版社で机を並べていたが、責任感の全くない秋江の尻拭いに疲れた白鳥が出版社を辞職
秋江の惚れた私娼を白鳥が買って隠したために泥沼の追跡劇となるが、両者がその私娼をモデルに小説を発表
4年にわたって東京から金を送り続けた京都の芸妓との話は、秋江一代の傑作『黒髪』を生むが、その後も次々と小説に書き継がれる
48歳で子供を授かった後は、がらりと作風を変えたが、評価されることはなく、失明もして娘たちに口述筆記で原稿を書いたという

3.    三浦綾子――『氷点』と夫婦のきずな
肺結核と脊椎カリエスで療養中の綾子を三浦が、同じキリスト教誌を購読していた縁で見舞いに訪れ、奇跡的に回復した綾子と4年後に結婚
営林局勤務の三浦が、綾子の回復を祈った旭川郊外の外国樹種見本林に連れていかれた綾子は、後に『氷点』の筋が浮かんだとき、その場所を舞台として書き始めた
三浦綾子記念文学館はその見本林の中にある。日本中の三浦文学ファンからの募金で建てられ、綾子の死去する前年の1998年開館。全国でも珍しい民立民営の文学館
敗戦時に若い教師であったことが、綾子の人生の負の出発点  敗戦による価値観の転倒に打ちのめされる。天皇陛下のために国民を作るという使命に邁進してきたことへの責任をどうとるべきか。もう自分には教壇に立つ資格がないと思い詰める
敗戦翌年3月退職、どうでもよくなり2人の男と結婚の約束をするが、ほどなく肺結核に罹患、生きる目標を失い自暴自棄の毎日を送る
そんな綾子を救ったのが、幼馴染で同じ結核を病むクリスチャン・前川。ひたむきな説得に折れてキリスト教を学び始める。前川の死去で目が覚めた綾子は前向きに生きる覚悟を決める。その翌月出逢ったのが三浦。名前が光世だったところから女性だと思って会ったところが、前川と酷似した男性だった
三浦は、綾子が前川を忘れられないことを知って、前川の役割を果たすことに徹する
42歳になって作家になった綾子を、三浦は勤めを辞めて支え、やがて三浦が口述筆記して生まれたのが『塩狩峠』『泥流地帯』などの名作

4.    中島敦――ぬくもりを求めて
2歳で実母と引き離され、母親の温もりを知らずに育った中島が妻に選んだのは、当時通い詰めていた雀荘の従業員タカ。幼い時から苦労して育った健気で優しい女性
儒学者の祖父と漢文教師の父を持つ中島は中学1年で四書五経を読了、漢籍の素養に優れ、中国の古典を素材にした名作を残す。多くの高校国語教科書に採録された『山月記』もその1
タカには親戚の決めた許婚がいて、最終的には中島家から金銭を払ってタカの身を引き受けるが、一緒に住み始めるのは長男が2歳になってから。さらに、持病の喘息には南洋の気候がいいと考え、南洋庁に就職してミクロネシアに単身赴任
家族と離れた寂しさゆえか、体調はかえって悪化、9か月で帰国。漸く作家としての将来が見え始めた矢先に喘息による心臓衰弱で死去。享年33

5.    原民喜(たみき)――『死と愛と孤独』の自画像
終戦の前年妻に先立たれ、疎開した広島の生家で被爆、戦後文学活動を再開し東京で下宿生活をしていたが、51年吉祥寺―西荻窪間の中央線に飛び込み自殺
生活も文学も妻がいてこそのもので、最愛の妻を失った時から死を決めていたが、原爆の惨状を書くまでは妻のもとに行くわけにはいかなくなって、死期を延ばしていた
妻・貞恵は5年の結核闘病の末逝ったが、売れない作家だった原を全力で支え、励ました
神経過敏で極端に無口だった原にとって、貞恵は唯一の庇護者であり、世間との橋渡し役だった
貞恵のいない世界で6年半生きたが、その間被爆直後の広島の光景を静謐な筆致で描いた『夏の花』(執筆時の原題は『原子爆弾』だったが、GHQの検閲を考慮して改題)は井伏鱒二の『黒い雨』とともに原爆を描いた文学作品の傑作とされる
原は、慶応大在学中左翼運動に関わっていたが、それを心配した親族が、同郷の貞恵と見合いをさせたものだが、大学卒業後も定職につかず、水商売の女を大金をはたいて見受けしながら逃げられ、自殺を図った。見合いはその翌年
49年、ふとしたことから若いタイピストの女性と知り合い、死ぬまで荒涼とした原の生活をほのかに暖めてくれる存在となる。彼女にあてた遺書もあり、遺書には「悲歌」という詩が同封されていた。彼女も『原民喜全集』の月報に思い出を語った一文がある
親交のあった遠藤周作に『原民喜と夢の少女』というエッセイがあり、その中で原は彼女に会ったことを奇跡だと言っていたという

6.    鈴木しづ子――性と生のうたびと
サンフランシスコ講和条約が発効した52年に消息を絶ち、以後生死不明なのが美貌の俳人・鈴木しづ子。33歳だった
スキャンダルを生きた俳人。「情痴俳人」と呼ばれる。東京生まれ、戦時下で製図工として働き、婚約者が戦死、戦後は岐阜で米兵相手のダンサー、黒人兵と同棲
2冊の句集を残して消息不明となったしづ子の半生を明らかにしたのは、彼女の人生の映像化を狙った映像プロデューサー・川村蘭太。86年から調査、11年にしづ子の評伝刊行
死蔵されていた7300句が明るみに。玉石混交だったが、しづ子の師で俳句結社「樹海」を主宰していた松村巨湫が、しづ子が消息を絶った後も10年以上にわたって「樹海」に掲載。その意図は不明だが、巨湫はしづ子を「愛しき気儘な子」と可愛がっていたという
巨湫としづ子の出会いは42年。しづ子の勤務先に巨湫が俳句の指導に行ったのが契機
46年、処女句集『春雷』を刊行、高い評価を受けるが、直後に母の死、婚約者の戦死判明ときて、捨て鉢になり、句の傾向が下品な解釈を呼ぶように変わってくる
24年、アララギ派の歌人だった叔母のいる岐阜に転居
恋仲になった黒人兵と同棲するが、間もなく朝鮮戦争に動員され、麻薬中毒になって帰還後アメリカに帰ることになり、横浜で見送る
52年、黒人兵の訃報が届き、しづ子から巨湫宛に100句を超える句が届く
同年、巨湫が計画、選句してしづ子の2冊目の句集『指環』が刊行され、その出版記念会を最後にしづ子は姿を消す

7.    梶井基次郎――夭折作家の恋
28年、宇野千代を巡って梶井と尾崎士郎が決闘したとの噂。尾崎と宇野は結婚していて既に作家として世に出ていたが、梶井は帝大の学生、無名の存在
この噂をネタに尾崎は翌年『悲劇を探す男』という小説を書く
梶井は結核療養のため、伊豆の湯ヶ島に長期滞在。同時期川端康成も滞在していて、27年に尾崎・宇野夫妻が川端を訪ねてきた際、梶井は2人と知り合い、千代に恋をする
尾崎は、後年梶井との喧嘩について、その晩を1つの境として私の家庭生活は崩壊した、と書いている
千代は、華麗な男性遍歴で知られ、80代で書いた『生きて行く私』はベストセラーに
晩年、自分は面食いだからその反対の極にある梶井とは何もなかったと述懐しているが、千代の側にも梶井への深い思いがあったことが分かる。他の男たちとは全く違う愛し方をした相手だった。確かに、千代が結婚した尾崎、東郷青児、北原武夫とはだいぶ違う
梶井は、女性に親切で優しかったが、恋愛には臆病で、千代とは生涯に於ける唯一の厳粛な恋愛
一方、尾崎と千代の夫婦仲は冷めかけていたことが、後の尾崎の小説でわかる
梶井は生涯で20編あまりの短編しか残していないが、無名だった彼の才能を見抜き、それまでの日本文学にない新しさにいち早く注目したのが千代で、彼女が梶井を語るとき、必ず「尊敬」という言葉を使った
妻帯せず、恋人も持たず、女性との交情を小説に書くこともないまま、独特の世界を作り上げて早世した梶井。千代は彼の経歴を自分との色恋沙汰で汚すことなく、無垢なまま守りたかったのではないか。2人の本当の関係は今もわからないまま
最後にあった時、梶井は千代に、病気が悪化して死ぬときには会いに来てくれるかと尋ね、千代は快諾したが、重篤な状態になっても梶井からの連絡はなく、梶井の死を知らせる者もなかったので、千代はずっと後になってから知ったという

8.    中城ふみ子――恋と死のうた
川端康成が小説『眠れる美女』の冒頭近くで中城ふみ子の歌を引いている
その6年前の54年、ふみ子は乳癌で死去。享年31
死の5か月前、ふみ子は病床から川端に『花の原型』と題した歌稿を送り、序文を依頼
川端は、角川書店の雑誌『短歌』に推挙
ふみ子は別の作品で、雑誌『短歌研究』の新人50首詠に応募して特選をとり、『短歌研究』は「乳房喪失」のタイトルでその作品を掲載、センセーションを巻き起こし、毀誉褒貶に晒されるが、『短歌』に川端の推薦文が載るとあからさまな非難は減る
川端が面識のないふみ子からの依頼を引き受けたのは、もともと川端が序文を寄せるのは、決定的な不幸や逃れられない運命に確実に落ちた者にだけで、「苦悶する美」だけが大事だったから
帯広の裕福な家に生まれ育ったふみ子は、19歳で鉄道省のエリート技師と見合い結婚するが、終戦後夫は収賄に関与して左遷され、生活が荒れてきたため別居。本格的に歌を作り始めたのは、夫との不和が決定的になったころ
結核を病む同じ歳の歌人との不倫を経て、東京で独り立ちしようとするが、母に連れ戻され、その直後乳癌が発覚、それでも歳下の新しい恋人を作る
両胸から皮膚、肺へと転移、病床での最後の8か月に多くの秀歌を詠んだ
『短歌研究』の編集長で50首の選者でもあった中井英夫は、ふみ子の句に感銘を受け、彼女の病状を慮りながらも新作を催促する長文の往復書簡が後に公開され、中井の「愛としか呼ぶことの出来ぬ」想いが初めて明らかにされたのはふみ子の死から40年後の94
中井は、『乳房喪失』をふみ子の病床に届けるとともに、恋愛対象ではない「愛」を告げる
中井がふみ子を病床に見舞った4日後に死去。没後30年に発表した追悼文の中で中井は、癌の苦痛と死の恐怖の中にあってなお歌を作り続けたことに改めて思いを致し、「神様、中城は短歌を作りました。」と書いた

9.    寺田寅彦――三人の妻
文学作品に多く登場する小石川植物園を舞台にした寺田の短編『団栗』(1905)には、肺を病んで早世した最初の妻・夏子との思い出が綴られる。高知の寺田の実家で療養することが決まっていたが、出発前にまだ帝大生だった寺田が夏子を小石川植物園に連れていく
最愛の妻を一人寂しく死なせたことは、幼少時から人一倍感受性の強かった寅彦のその後の人生に寂寥の影を落とす。友人の安倍能成は、寅彦のことを「実に寂しい人」といい、「自分の苦患を自分の裏に堰き止めて容易に人に分かたなかった」と弔辞で述べている
寅彦も肺尖カタルとなり、同じ高知に居ながら別々の療養生活を送る。2人が会うことを許されたのは年に数回、あとは手紙が頻繁にやり取りされた
夏子の死から3年後の05年、同郷の2番目の妻・寛子を迎える。後に良妻賢母の鏡と言われる人だが、12年の結婚生活の後急逝
乳飲み子を抱えた寅彦は、その年のうちに再婚。浅草の商家に生まれた志んで後に「悪妻」と評判が立ち、寅彦は40代にして苦労の多い結婚生活に足を踏み入れる
志んは、折々に思うことをノートにつけている。「寅彦は真面目一方だが後年大いに洒脱飄逸な人になったのは、私のおしこみによるもの」だとか、寅彦に「あなたは岩波の高等幇間だ」と言ったとか
寅彦は死の病床でも志んと子供たちの仲を心配、最後の日志んが「皆で仲良く看病しているから安心してお休みください」というと、ああと言って頷いた

10. 八木重吉――素朴なこころ
27年、肺結核で早逝。享年29。町田の生まれ、詩人でクリスチャン
重吉の墓には、登美子とだけ書いた墓石が並ぶ。歌人・吉野秀雄と再婚したため
吉野が遺言で、登美子の死後は重吉の墓に分骨してほしいと言い、それが実行された
登美子は、重吉の死後2人の子どもも結核で亡くした後も独身を貫いていたが、妻を亡くし4人の子どもを育てていた吉野と戦時中に知り合い、戦後再婚。戦中戦後の混乱から命がけで重吉の詩集や遺稿を守った登美子の姿をみて、吉野は全く面識のなかった重吉の詩を初めて読んでその純粋さに心を打たれ、ほとんど無名だった重吉の詩を世に知らしめることに尽力する
父を亡くして新潟から上京した登美子が女学校の編入試験の為、知人の紹介で東京高師卒業直前の重吉に勉強を見てもらったのが2人が会う契機。会ったのはわずか1週間だったが重吉はすっかり心を奪われ、卒業後は御影師範に赴任が決まっていたが、御影から熱烈なラブレターを送り、結婚まで申し込む。熱意にほだされた登美子が結婚は2年後の卒業を待ってという条件で婚約するが、1年後に登美子が肋膜炎に罹患したのを機会に結婚に踏み切る
重吉は内村鑑三の影響を強く受けて孤独な信仰を深め、家庭さえ足枷に思うようになる。同じクリスチャンだった登美子は、苦悩する夫の力になれない自分を悲しむ
26年、結核に罹患、翌年死去、享年29
親交のあった草野心平は、重吉を「社会の中に独りぽつんと雪の塊のやうな存在」と表現
重吉の作品が広く世に知られるようになったのは、吉野が小林秀雄の協力を得て出版のために動き、草野心平編で刊行した『八木重吉詩集』によってである

11. 宮柊二(しゅうじ)――戦場からの手紙
戦後を代表する歌人の一人・宮は新潟の生まれ。39年に27歳で召集され、山西省で4年にわたり兵士として戦う。1兵士の目から戦闘の最前線をつぶさに描き出した歌集『山西省』は名歌集として知られるが、同時に貴重な歴史の証言であり、第一級の記録文学
戦争体験を綴った手記や文学作品は、そのほとんどが戦場から帰還した後に書かれているが、宮の作品は全て戦闘の現場で詠まれた現地詠。後の妻となる同じ歌誌に所属する後輩・滝口英子に送った手紙を集めた書簡集『砲火と山鳩、副題:宮柊二・愛の手紙』を読んで、あの切迫したリアリティと残酷な官能性が、戦闘の最中、「死」のごく近くにあって詠まれたが故のものだったことが分かる
柊二と英子が知り合ったのは出征の半年前。その後の4年間一度も会えないまま、2人は手紙だけで愛を育む
中学時代から短歌を書き始め、北原白秋門下となって才能を認められ、白秋の秘書を務め、白秋主宰の「多磨」の歌会で英子に出会う。既に新進歌人として認められつつあった柊二から声を掛けられた英子はまだ女高師の3年生。手紙のやり取りが始まり、柊二が英子に作歌指導をするようになる
召集後3年目に初めて「愛」という言葉が出てくる。英子から「帰還を待ちたい」と告白された手紙への返事だった。白秋は2人の愛を応援している
柊二は幹部候補生への志願を慫慂されながら、あくまで一兵士としての自分の運命を生き切ろうとして固辞。43年日本に帰還し、翌年英子と結婚
456月に再び出征
柊二は、86年に74歳で没するまで戦後短歌を牽引、数々の名歌を残したが、晩年「戦争は悪だ」と詠んで話題を呼んだ。兵士として戦場の生死を見定めようとした青年の日の覚悟は、最後まで太い背骨となって柊二の人生を貫いていた

12. 吉野せい――相克と和解
70年に始まった大宅壮一ノンフィクション賞の歴代受賞作の中で、選考委員から「芥川賞に相応しい」と評されたのはこの作品くらいだろう。75年の受賞作『洟(はな)をたらした神』で、著者は76歳のいわき市の農婦・吉野
選考委員は臼井吉見。同じく委員の扇谷正造は志賀直哉の文章を引き合いに出して、「こういうのを稟質――天賦の才能というのかも知れない」と評し、開高健は「恐るべき老女の出現」と書いた
開拓農民の妻として開墾に明け暮れた歳月の記録であり、極限の貧しさの中に生きる人間の姿を、ごつごつした抒情のうちに描き、鮮烈な印象を残す
記録文学というジャンルの括りを軽々と超える文章の個性は圧倒的
同年の田村俊子賞も受賞、世間を驚かせたが、僅か2年後に死去
特異な作家の誕生の裏には、純粋無垢な魂で詩と開墾に情熱を傾け、その分家庭を顧みなかった夫・三野混沌との相克の年月と、死別による夫からの解放があった
せいに執筆を勧めたのは混沌の友人だった草野心平。混沌の詩碑の除幕式でせいと顏を合わせた心平が強く説得した
せいも若い頃文学を志し、才能を認められていたが、結婚後は日記をつける暇もなかった
心平はせいが自らの才能を封印して生きてきたことを知って、残り少ない人生を無駄にしないために書けと迫る
書けなかった歳月、せいは文学に生きる夫への怒りを抱えていたが、自身が書き手となった時、書くという行為を通して、ねじれた感情をほどき、もうこの世にいない夫を許していく。遅すぎる和解だったが、ともに「書く人」だったこの夫婦にしかありえない、愛情の形でもあった
せいは福島県小名浜で生まれ、父親が30代で亡くなったことから生活は苦しく、独学で准教員検定試験に合格、17歳で小学校の代用教員となる。試験は難関で、せいは県内で最年少、唯一の女性だった。新進歌人で牧師として赴任してきた山村暮鳥の知遇を得る。新聞や雑誌に短編を発表、若い女性の書き手として注目される
そんな時出逢ったのが混沌。キリスト教に失望していわき市の原野を借りて開墾生活をしており、共通の知人の紹介で出会う
せいは、混沌の中に衒いのない魂の美しさを見て興味を持つ
そのうち混沌から求婚の手紙が届く。家の事情やもっと勉強をしたいと躊躇うせいを強引に説き伏せ、一緒に生活を始める
せいは、家を出る時にそれまで書いた原稿も日記も手紙も全て焼き捨てた
新たに始まった生活の厳しさは想像以上で、本を読んだりものを書いたりする余裕は全くなかったが、混沌は結婚後も文学に打ち込み、混沌が農民文学の理想に燃えれば燃えるほど、せいに負担がかかった
生後9か月の4人目の子・梨花が急性肺炎で亡くなった時だけは、夫のノートを引き裂いて思いのたけを書いて残した。それを75歳の時短編『梨花』として雑誌に掲載。『洟をたらした神』にも、原文のまま収録。その中でせいは、梨花を失ったことに大きな罪悪を感じ、よりよき創作をもって梨花の成長としようと、自分が"書く人"であることを梨花に宣言しているが、同時に女がものを書くことは夫に背き、子を捨てる道であることを自覚
きれいごとを書かないせいの文章は、2人の間にあった葛藤をそのまま映し出しているが、一方でいくつかのエピソードから混沌の温かい人間性が伝わり、せいも混沌の思い出を文章にする過程で、彼と出会い直していく。書くことでようやく混沌との和解が訪れた


あとがき
小説を書くというのは、日本橋の真ん中で、素っ裸で仰向けに寝るようなものだと言ったのは太宰治。最も恥ずかしい姿をさらす覚悟がなければ小説など書けないという意味だが、初めから隠しようのないもの、おさえても溢れ出る何かを持っているのが、作家というものなのだろう
書かれたものが残っている限り、作品の中で作家その人に出会うことができる。虚構の向こうから響いてくる書き手の肉声を聴いた読者は、その人となりや人生に思いを馳せる
本書は、作家と作品の間を往ったり来たりしながら文学を楽しみたいという人のために書いた。作家の恋愛と結婚にテーマを絞ったのは、隠しようもない姿がそこで露わになるからであり、加えて死の様相にも作家の個性と時代性が現れていることが分かる
日本経済新聞の連載が元になっている




(書評)『愛の顚末 純愛とスキャンダルの文学史』 梯久美子〈著〉
 無私の愛、追い求めた作家たち
 小林多喜二、三浦綾子、梶井基次郎、寺田寅彦など、明治以降の十二人の小説家、歌人、俳人を取りあげ、かれらがどんなふうにひとを愛したのかを浮き彫りにするノンフィクション。著者は、対象となる各人の作品や手紙といった文献資料をひもとくだけでなく、現地に赴き、作家の足跡をたどることもしている。
 爆笑なのが、「情痴作家」と呼ばれた近松秋江だ。彼はいまで言う「ストーカー」を主人公にした小説を書いたのだが、これがなんと私小説。つまり近松氏本人も、かなり迷惑なひとだったのだ。友だちの正宗白鳥は、近松氏の尻ぬぐいに疲労困憊(こんぱい)。正宗白鳥を疲れさせるほどの迷惑力とは、相当のものだ。ううむ、近松氏の作品を、俄然(がぜん)読みたくなってきた! 憎めない人柄で、小説に真剣に向きあっていたことが伝わってくるのは、本書の著者が近松氏のストーカーぶりに困惑しつつも、愛情と共感を持って書いているからだろう。
 私は原民喜の小説が好きだが、晩年に近所の少女と親交があったことを知らなかった。愛する妻を亡くし、広島で原爆に遭い、壮絶という言葉では足りぬ人生を歩んだ原民喜。それでも彼は、他者を大切に思い、この世に美と善を見いだすことをやめなかったのだと知り、改めて胸打たれた。
 同じことは、妻子を愛した中島敦や、死の床にあっても短歌を詠みつづけた中城ふみ子と、彼女を見いだし、心のこもった手紙を送って励ましつづけた中井英夫にも言える。かれらの作品には、孤独の影が濃い。しかしそれゆえに、無私の愛を他者に与え、無私の愛を信じ追い求めたのかもしれない。
 我々はみなさびしい。だからこそ、一瞬の快楽ではない愛を探す。愛を探索する軌跡が投影され、ひとの心の叫びがこだまし結晶となっているから、私たちは文学を愛するのだと、本書を読んで思う。
 評・三浦しをん(作家)
     *
 文芸春秋・1566円/かけはし・くみこ 61年生まれ。『散るぞ悲しき』『昭和二十年夏、子供たちが見た戦争』など。


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