バレンボイム/サイード 音楽と社会  Ara Guzelimian編  2013.9.2.

2013.9.2. バレンボイム/サイード 音楽と社会
Parallels and Paradoxes

編者 Ara Guzelimian 1998.9.からカーネギーホールのシニア・ディレクター、芸術顧問。アスペン音楽祭とロサンゼルス・フィルの音楽監督も務めた。有名なカーネギーホール・トークのホストとして、名だたる音楽家たちとの対話を重ねている

訳者 中野真紀子 翻訳家。サイード『ペンと剣』

発行日           2004.7.9. 印刷                7.20. 発行
発行所           みすず書房

私たちはあらゆる種類の関心事を共有する親しい友人として、2人一緒に、自分たちの人生の相似したところ(パラレル)と相反したところ(パラドックス)を探求していたのである――E.W.サイード
かたやエルサレム生まれカイロ育ち、ニューヨークに住むパレスチナ人サイード、かたやユダヤ人としてブエノスアイレスに生まれ、イスラエル国籍、ロンドン、パリ、シカゴ、そして現在はベルリンを中心に活躍する指揮者・ピアニスト、ダニエル・バレンボイム。常に境界をまたいで移動し続けている2人が、音楽と文学と社会を語り尽くした6
パレスチナとイスラエルの若き音楽家を共に招き、共に学んだワイマール・ワークショップの話から、グローバリズムと土地、アイデンティティの問題、オスロ合意、フルトヴェングラー、ベートーヴェン、ワーグナーなど、白熱のセッションが続く
巻末にはバレンボイムの文章『ドイツ人、ユダヤ人、音楽』および、2001.7.7.バレンボイム指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団が第2次大戦後初めてイスラエルのコンサートでワーグナーを演奏して物議を醸したが、それを主題にしたサイードの一文『バレンボイムとワーグナーのタブー』を付す

はじめに グゼリミアン
カーネギーホールの「パースペクティヴズ」プロジェクトでバレンボイムを取り上げたとき、私が中東出身であることを知ると、バレンボイムが、是非サイードに会わせたいと言い張った
バレンボイムとサイードの友情は、90年代の初め、ロンドンのホテルで偶然出会って以来驚くべき協力関係へと発展 ⇒ ベースは音楽と思想への情熱だが、お互い複雑に重なり合った文化的背景を背負った地理的位置が相似しているのも強力な誘引だった
サイードはエルサレムでパレスチナ人の家に生まれ、生まれた土地から引き離されカイロで成長、家族はイギリスの影響を強く受けたアラブ人キリスト教徒だったので、ムスリムが多数を占める社会の中で、さらなる追放を味わった。さらに10代で住み慣れた世界から切り離されて、合衆国の寄宿学校に入学。父が合衆国軍に加わって戦ったこともあって、アメリカの市民権を得た後でパレスチナとエジプトに戻ってきた
バレンボイムの背景も複雑。ロシア系のユダヤ人の家系で、祖父母の代に世界で3番目に大きいユダヤ系コミュニティが栄えるブエノスアイレスに移民、その後両親共々新生イスラエルに移住、以降欧米各地に住んできた
どちらも音楽への情熱が自己形成とその後の人生の決定づけに大きな役割を果たしているが、それを助長したのは第2次大戦直後のカイロやブエノスアイレスに繰り広げられた驚くほど豊かな音楽生活
バレンボイムが私を彼等の友情に引き込んだのも、私自身の背景にも目立った相似があったから ⇒ 私はカイロのアルメニア系の出身、幼い頃から音楽に関係
バレンボイムは、イスラエルでワーグナーの音楽を上演すべきと公然と提唱、ドイツでは文化政策に執拗に残る反ユダヤ主義と闘う。ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人のために演奏したイスラエルで最初の音楽家、それを計画・招待したのがサイード
99年 2人が中心となって、ゲーテ生誕250年記念祝典の一環として、ドイツのワイマールにイスラエルとアラブの音楽家たちを集合させる実験を行う
2人は度重なる公開の対談を行っているが、本書の対話も5年の歳月に渡って交わされた中から精髄を救い上げて選択したもの

序  サイード
本書に収録された対談のうち2つはニューヨークで聴衆を前に行われたもの
1つは95年コロンビア大学ミラー劇場で行われたリヒャルト・ワーグナーについての週末の学会でのイヴェント
もう1つは00年のカーネギーホールでのバレンボイム指揮シカゴ交響楽団の連続コンサートの合間にグゼリミアンが我々2人をカーネギー・ワイル・リサイタルホールの舞台に登場させたもの
私たち2人は、あらゆる種類の関心事を共有する親しい友人として、2人一緒に自分たちの人生の相似した所(Parallel)と相反したところ(Paradox)を探求していた
自分は白血病の治療に取り組みながら、コロンビア大学での授業も続けようと努力
バレンボイムは、ベルリン国立歌劇場管弦楽団を率いて、ベートーヴェンの交響曲とピアノ協奏曲(彼がソリスト)の全曲目の連続演奏会をしているところ

1          2000.3.8. ニューヨークにて
アット・ホームと感じるのはどこだろう
バレンボイム ⇒ 濫用された決まり文句ではあるが「音楽が出来ればどこでも」
すべてはトランジッション(移行している)という感覚で、その観念としっくりいっているときが一番幸せ
サイード ⇒ あちこち放浪するのが好き。アイデンティティというのは、ひとまとまりの流れ続ける潮流であって、固定した場所や安定した対象に結び付けられるものではない

99年のワイマールでの試みで何を達成しようとしたのか
サイード ⇒ バレンボイムとヨーヨー・マというレベルの高い演奏家が参加。ゲーテがイスラムへの熱意をもとに素晴らしい詩集を仕上げた精神に倣って、若い音楽家たちが民族を超えて1つのものを作り上げる
バレンボイム ⇒ 最も驚いたことは、「他者」についてどれほどの無知が横行していたかということ。最近特に文化的な寛容性の欠如を痛感する
市場のグローバル化によって、どこもかしこも同じになっているにもかかわらず、政治紛争や民族紛争はこれまでになく根が深く、了見の狭いものになっているのはなぜか
サイード ⇒ 理由は2つ。1つは世界的な画一化に対する反動から、アイデンティティを主張するようになったこと、第2は帝国の遺産で、撤退を余儀なくされると決まってそこを分裂させたためで、いずれの要因も、外国人嫌いとアイデンティティの対立という、現代に特有の極めて危険なものを生み出した

フルトヴェングラーとの関係
サイード ⇒ 51年ベルリン・フィルとともにカイロに来たときにはその演奏に圧倒された。特にフルトヴェングラーの時間に対する感じ方は記憶に残っている
フルトヴェングラーでいつも深い感銘を受ける特徴は、極めて流動性の高いプロセス、トランジッションという感覚
バレンボイム ⇒ フルトヴェングラーの招きに応じなかったのは、彼に象徴されるものが問題を孕んでいたから。フルトヴェングラーのような音楽の作り方は教えられていなかった。9歳でザルツブルクに行ってヨーロッパで初めてのコンサートを行い、11歳のときエドウィン・フィッシャーに勧められてフルトヴェングラーのオーディションを受けに行く。幾つかの曲を弾き、即興演奏を求められ、さらに聴音能力のテストまでされた後、共演を持ちかけられたが、父親が自分たちはイスラエルに住むユダヤ人であり、今はまだ相応しい時期ではないと、彼に理解を求めたところ、彼はあの有名な手紙を書いてくれた。この手紙がプロの音楽家としての僕の人生に数え尽くせぬ可能性を開いてくれた。ジョージ・セルやカール・ベームの所に送り込んでくれたのはフルトヴェングラーだ。フルトヴェングラーについてあらゆることを知ろうとした。その結果、フルトヴェングラーは合衆国では不当に批判されてきたことが分かる。独特な音楽哲学を持ち、平衡に達するためには逆説と極端さが不可欠であるとした
フルトヴェングラーは時々、すごく念入りに徹底したリハーサルをするのは、避けたいことが起きないことを確実にするためだった
音は束の間のもの、通り過ぎていく、音にこれほどの表現力があるのは、呼び出しに応じてでてくるものではないことが理由の1つ。この特質こそフルトヴェングラーがよく理解し、明瞭に表現したもの。音楽の本質についての彼の理解は、他に類を見ないものと思う
音楽は、正反対の2つの目的に奉仕出来る ⇒ 自分の抱える問題や困難から逃れたいと願うなら音楽は理想的な手段。他方、音楽を勉強することは人間性について学ぶ一番良い方法の1

お互い意見を異にする問題
サイード ⇒ 2人の出身地の歴史認識に関し、中東和平プロセスを、とりあえず今の現実から出発させようとするが、それは実用主義的な政治見解であり、相互に絡み合う歴史という観念を持つことが議論の前提として欠かせない。それらは必ずしも互いに摺合せする必要はない

2          1998.10.8. ニューヨークにて
サイード ⇒ 文学には本当の意味でのパーフォーマンスに当たるものがない。音楽家にとっては自分の仕事の最終の結果はパーフォーマンスだ
バレンボイム ⇒ 作家と比較されるものは作曲家だ
演奏会に向けて準備する段階と、演奏会そのものの間にはっきりとした違いがある ⇒ 一旦演奏が始まれば最後まで行くので、本番の公演では音量や、響きや、速度についてはそこに何か必然的なものが、論理構成がなければならない。音というものは元々束の間の存在故、一度終わってしまえばそれきり。ある意味、それは人間や植物の一生に等しいもので、無から始まり無に終わる
サイード ⇒ 沈黙から始まり、沈黙に終わる。音楽には「沈黙」による破壊が予め組み込まれている。文学の世界では沈黙は保存されているもの。文学では絶えず見直しをする機会があるが、音楽家に与えられているのは演奏が終わって沈黙が戻ってきたときのあの喪失感だけ。ベートーヴェンの中期作品の幾つかが曲の終りに何かを主張しようとして一種のヒステリー状態になることを思い出す。終わりが来ることに対し、それに先んじてそれを遅延し回避しようとする試みと取れる
バレンボイム ⇒ 音楽はいろいろな意味で物理的な法則への反抗。シェークスピアの台本は、作者の思考を表記したもので、それがそのまま読者の思考の中に存在するが、ベートーヴェンの音楽は同じ様に作曲家の心に浮かんだものの表記ではあるが、このサウンドを実際にこの世界に出現させるという付加的な要素が必要で、そのサウンドは楽譜の中には存在していない
音楽家が真っ先に理解しなければならない重要なことは、音をこの世界に出現させた時、それがどのように作動するかということ。音の反響はどんなだろう、音の持続性はどんなだろう、というようなことだ
音を通じて音楽をつくる技術は、錯覚を作る技術で、物理的法則に逆らう技術と相俟って、音楽を感動させるものにする
楽譜は曲ではない。曲とは、実際に楽譜をサウンドにした時に現れるもの
サイード ⇒ 批評の世界にも、すべてのものは読まれたり、上演されたり、解釈されたりするたびに新たに創造されるのだと主張する一派がある
バレンボイム ⇒ 「サウンドの現象学」といって、音符が1つの音を示すのは間違いないが、それをどうサウンドとして出すかはその時の演奏によるのであって、音楽の表記におけるアバウトな性格がはっきりする。音の関係についての誰もが認める一式の通念が基本的に音楽の創造を可能にするが、具体的にどういうサウンドにするか決めるためにリハーサルが必要
サイード ⇒ ワーグナーがいつも僕を感動させるのは、もはや世界は信頼できず、自分でそれをつくり出さねばならないという感覚があるところ。その最も並外れた瞬間は《ラインの黄金》の出だし

3          1998.10.10. ニューヨークにて
バレンボイム ⇒ 今日の学校教育一般の問題点の多くは、情報を提供していることで、教育の方を削っている
大衆の姿勢について言えば、ここ50年の最大の進歩は知識への渇望を気後れも傲慢さもなく公然と表明していること。その一番の証拠はオペラの字幕
一番大事なのは、音の働きを、いかに人々に説明するかだろう ⇒ どうしたらできるのか模索中
僕は運のいいことに父親がとてもいい教師だった。本当に先生と呼べる人はナディア・ブーランジェだけ
人は、模倣と、他から影響されることへの懸念との間を揺れ動くもの
サイード ⇒ 自分が教師として出来る最高のことは、自分の生徒たちに僕を批判させ、彼等が僕からの自立を宣言し、自分の道を歩み始めるようにしてやること
バレンボイム ⇒ オーケストラ奏者の態度として最悪なのは、完璧に演奏するが個性を欠くものであり、音楽をつくることを指揮者に一任しているようなもので、良い音楽をつくる可能性からこれ以上遠いものはない。指揮者が究極の権威者だというのは誤解があって、最初の衝動は音を生み出す人間から、個々の演奏家から出てこなければならない
サイード ⇒ 演奏家であれ、作家であれ、画家であれ、何かを伝えようとする者は誰しも、一定の権力を素材に対してのみならず、技術そのものに対しても明らかに振るおうとする。ラスキンによれば、ミケランジェロの偉大な作品を見て感動させられるのは、作品の気高さばかりではなく、作品に込められた権力の観念であり、石を屈服させて自分の手によって人間の姿を作り上げたが、そこに払われた努力が並大抵のものではないことを思い起こさずにいられぬような技だったということ
バレンボイム ⇒ 人には聞くだけでなく、耳を傾ける能力も必要。ただ聞く(listen)だけではなく本当に耳を傾けて聞く(hear)ことによって得たものを自分なりに応用する方法も見出さなければならない。フルトヴェングラーに見られるテンポの揺らぎも最小単位の表現を達成する為に必要なものとして聞きとり、自分の音楽の中に意識して取り入れてきた。揺らぎが形式的な構造の印象を獲得する為に必要だったわけで、それは音楽創造の大原則の1つは移行の技術だということを意味している
1つの作品を自分のものにした後なら、他のピアニストを聴くことによって多くのものが得られるかもしれない
指揮者になろうと決めた日から、人に好かれたいという自然な本能は捨てなければならない。何か個人の主張をしようとすればその途端、一部の人々とは調和するが、その他の人たちとは不協和音を奏でることになる
芸術的な創造が今日これほど重要な理由の1つは、それがポリティカリー・コレクトであること、無難であることの対局に位置するものだから

4          1995.10.7. ニューヨークにて
サイード ⇒ ワーグナーは、作曲家としては極めて稀なことに、会議や議論に参加することを厭わなかった。ワーグナーに対する並外れた興味と熱愛を引き起こすのは一体何なのだろう
バレンボイム ⇒ ワーグナーのアコースティックス(音響)についての深い理解と直感が考えられる。彼独自の音楽についての解釈の発達は、時代の精神に結び付いたところが大きい、特に音楽以外の思想に。ナチの記念碑志向と共通するところが多い
フルトヴェングラーのワーグナー解釈は別格
バイロイトでの演奏と、オープン・ピットでの演奏はおのずから異なる ⇒ 舞台上の歌手から届くサウンドとオーケストラの演奏が混ざり合って聴き手に届くので、滑らかに聞こえる
サイード ⇒ ワーグナーの作品の本質はアンチテーゼや矛盾に尽きる。ドイツ文化やユダヤ人などに関わるイデオロギーに随分関心を寄せた作曲家でもあるが、君が指揮者として自分の扱う作品に絡むこうした問題に直面するのはどんな感じなのか
バレンボイム ⇒ ワーグナーは革命家、全てを見直し、新たに創出しようとした。ワーグナーの作ったバイロイトは、覆われたオーケストラ・ピットという偉大な発明をしたが、ワルターやクレンペラー、フリッツ・ブッシュが決して指揮をしなかったように、1876年から第2次大戦までは世界で一番保守的で偏狭な劇場であったことを認めるのは重要。51年になってワーグナーの2人の孫によって再開され、漸く新しいバイロイトが出現
初めてワーグナー作品に出会ったのは20歳近くなって聴いた《トリスタン》で、音楽家としてのワーグナーに興味。人間としては卑劣だが、音楽には正反対の感覚がある
イスラエルにおいてワーグナーを演奏する必要を訴えるパイオニアと見做されているが、まったく的外れ。
ワーグナーの作品に専念し、従事していることは、音楽的に自分には重要であり、自分の音楽家としての成長にも、他の音楽との関わりの上でも、極めて有益なものだと思うから。イスラエル政府が50年代にドイツ賠償金を受け入れ、ドイツ製の辞自動車がイズラエルに来ることを赦したというようなことがあったのであれば、ワーグナーを聴きたいという人々のために、他の人には押し付けることなくそれを聴きたいと望む人のために、それを演奏することは可能であって然るべきです

5          2000.12.15. ニューヨークにて
本物であることauthenticityというのは、テクストに忠実であるという一般的な意味においては、何を意味するのか。この概念が他の芸術に移されることがもしあるとすれば、どういうものになるのだろうか
バレンボイム ⇒ 音楽は音が作られた時だけに存在するので、音楽の意味するところは人によって千差万別。忠実といっても、いったい何に対して忠実なのか、忠実であるべき対象はアバウトな、不十分なシステムなのだ
サイード ⇒ ワーグナーは本物であるという考えに憑りつかれていて、ベートーヴェンを指揮した時には自分なりの仕方で本当のベートーヴェンに到達するのであり、それは誰にも理解できないものだった

6          3000.12.14. ニューヨークにて
この対談はバレンボイムとベルリン国立歌劇場管弦楽団がベートーヴェンの交響曲とピアノ協奏曲全曲の連続演奏会を行っている最中に行われたが、これらの作品を全体で1つのサイクル(作品群)として上演(考察)するということはどういう意味を持つのか
バレンボイム ⇒ 作曲家の作品は11つがその次の作品を補完するものだから、サイクルとして捉えることはとても価値がある。ベートーヴェンの場合はとりわけそのことが強調される。特に交響曲は全てがそれぞれ別の作風を持っているためだ
知性は、基本的に2つの形をとる ⇒ 1つは自分が聴いたものに対する好奇心、2つ目は、1つのものから他を類推する能力で、《田園》を聴いて7番を聴くと、第6に起源を持ち、第7に継承された要素があるのに気づく。それは第7が単独で演奏された時には出てこないもの
ベルリン国立歌劇場管弦楽団では、ごく自然に生活の在り方としての音楽と、生活の手段としての音楽が峻別されている ⇒ 音楽に対する畏怖の念と行動的な勇気がないまぜになった感覚を持つ。30年代のナチ時代から東ドイツの共産主義政権時代まで60年にわたって全体主義の体制の下で過ごしてきたことにも影響されている
音楽と文化は、一般的に言って、全体主義体制の下では、日々の生活により大きな重要性を持っていることが多い。恒常的な恐怖の下で暮らすことを強要され、音楽を演奏している間だけが自由を感じることが出来た。プロフェッショナルであることを越えた職業意識と、徹底的な音楽教育を受けているという事実の結合が譜面全体から演奏することを可能にさせる

ベルリン国立歌劇場管弦楽団 /シュターツカペレ・ベルリンStaatskapelle Berlin
 ドイツ
ベルリン拠点とするオーケストラ。シュターツカペレ・ベルリン、ベルリン州立管弦楽団とも呼ばれる。1742年に設立されたプロイセン王立宮廷楽団 Königlich preußische Hofkapelle(ホーエンツォレルン家)前身とし、ベルリン国立歌劇場附属オーケストラ
音楽監督は「シュターツカペルマイスター」と呼ばれ、現在の音楽監督ダニエル・バレンボイムである。

音楽総監督[編集]

·         1740-1759 カール・ハインリヒ・グラウン
·         1820-1841 ガスパーレ・スポンティーニ
·         1842-1846 ジャコモ・マイアベーア
·         1846-1848 カール・エッケルト
·         1848-1849 オットー・ニコライ
·         1871-1887 ロベルト・ラデッケ
·         1888-1899 ヨーゼフ・ズーヒャー
·         1892-1912 カール・ムック
·         1899-1913 リヒャルト・シュトラウス
·         1913-1920 レオ・ブレッヒ
·         1923-1934 エーリヒ・クライバー
·         1935-1936 クレメンス・クラウス
·         1941-1945 ヘルベルト・フォン・カラヤン
·         1948-1951 ヨーゼフ・カイルベルト
·         1954-1955 エーリヒ・クライバー
·         1955-1962 フランツ・コンヴィチュニー
·         1964-1990 オトマール・スウィトナー
·         1992-現在 ダニエル・バレンボイム


ドイツ人、ユダヤ人、音楽               2001.3.29. ダニエル・バレンボイム
2000年末ベルリン州議会でキリスト教民主主義同盟のリーダー、クラウス・ランドヴスキは、ベルリン国立歌劇場を運営するのに"若きカラヤンのティーレマンとユダヤ人バレンボイムのいずれか、相応しい人物を選考することが難しいという発言で物議を醸す
ジューディズムを説明するのは簡単ではない。それは宗教であり、伝統であり、ネイションであり、また限りない多様性を持った1つの民のことでもある
残念ながら、ドイツ人の多くがいまなおドイツの歴史のこの部分をまだ消化しきれていない、あるいは理解していないという印象を強めている
すべてのドイツ人に、自国の歴史のこの部分を忘れることのないように、またそれについて考えるときには、特に慎重であるようにと期待している
1つの民には1つのアイデンティティしかないのだろうか
ユダヤの伝統には2つの異なる傾向がある ⇒ 原理主義的な傾向と、他の文化に応用しようとするもの
今の時代の困った問題の1つは、人々が自分の関心の領域をどんどん細かなディテールへと狭めていっていることで、ものごとがどれほど互いに混ざり合い、一緒になって1つの全体を構成しているかということに殆ど気付いていないことが多い
200011月ドイツ大統領ヨハネス・ラウが、ナショナリズムと愛国心の違いについて話したことは的を得ていた。「愛国心は、人種差別主義やナショナリズムが決して容赦されないところにだけ栄えることができる。愛国心をナショナリズムと取り違えてはならない。愛国者とは自分の祖国を愛する人です。ナショナリストとは他の人々の祖国を軽蔑する人です」
音楽についての明白な定義は、フェルッチョ・ブゾーニが言った「音楽とは鳴り響く大気だ」に尽きる。ワイマールのワークショップではイスラエルとアラブの音楽家たちがここ数年にわたって共同作業を行っており、それまでは不可能だと思われていた関係改善と友好関係が音楽を通じて達成できるかもしれないということを証明した

バレンボイムとワーグナーのタブー             2001.8.15. エドワード・W・サイード
ワーグナーの音楽を公に演奏することは、ドイツの反ユダヤ主義が引き起こした戦慄の惨事を象徴するものとして、イスラエルでは事実上ご法度だった
ただ、彼が憎しみを抱き、政治評論に悪口を書きたてたようなユダヤ人は、彼の音楽作品の中に「ユダヤ人」として、あるいはユダヤ人の登場人物をして現れることは全くない
2001.7.7. バレンボイムはエルサレムで3回の連続公演を行うためにベルリン国立歌劇場管弦楽団を率いてイスラエルを訪問。当日の演目に《ワルキューレ》を予定していたが、イスラエル・フェスティヴァルの責任者から変更を要請されて演目を切り替えたが、演奏後直接聴衆にアンコールには《トリスタン》からの抜粋をやりたいがどうかと提案、バレンボイムは最終的に演奏するが不快に思う人は退席しても構わないと言った。実際何人かは席を立ったが、2800人の聴衆は有頂天になって喜んだ ⇒ その後数か月にわたってバレンボイムに対する攻撃が続き、国会の文化・教育委員会が国内の文化団体に対し、イスラエルにとって大きな文化的な資産だと考えられ、長年にわたってこの国の音楽シーンの中心的人物だったにもかかわらずバレンボイムのボイコットを呼びかけた
どんな社会もそれを構成する大多数は、全て既成のパターンに従う平凡な市民であり、ごく僅かな少数派である複雑で型に嵌らない人々の考えを抑えようとする ⇒ ソクラテスは死刑を宣告され、ガリレオは教会に処罰され、スピノザもユダヤ人社会から追放された
大作曲家は誰もが、何かしらの意味で政治的であったし、極めて強い政治思想を持っていた。バレンボイムは本格的に政治的な人物では決してないが、イスラエルの占領に不満を持っていることを明らかにしており、99年にはイスラエル人として初めて西岸地区の大学でコンサートを行うために無料出演を申し出ている
理性や理解や知性的な分析こそが、市民となる道であるという彼の意見には私も賛成
成熟した知性には、2つの矛盾する事実を心の中で一緒にしておくことができるはず
いつまでも大作曲家の芸術を締め出すのは無理で、バレンボイムがしなくても早晩他の誰かがやることになっただろう
現実の生活を、タブーや禁止で縛り付けることによって、批判的な理解や解放の体験を阻むことはできない

訳者あとがき
2003年サイードが亡くなった時バレンボイムはこう書いた: 「どのような思考や行為についてもそこに異なる側面を見ることができ、そればかりか、その必然的な帰結を見通すことも、そのような思考や行為の背後にある人間的・心理的、場合によっては歴史的な「先史」の絡み合いを見抜くことが出来た。情報は理解のための最初の1歩に過ぎないということを常に意識し、いつも観念の先にあるものを探し求め、目では見えないもの、耳では聞こえないものを探し求めていた。パレスチナ人は自分たちの願いをこの上なく雄弁に擁護してくれる人物を失いました。イスラエル人は公正で極めて人間らしい相手を失いました。私は心の友を失いました」
重層的にシンメトリカルな2人の関係を象徴するような企画が「ウェスト・イースタン・ディヴァン(ゲーテの詩集『西東詩集』のタイトルから採った名前)」のフォーラムで、イスラエルとアラブの若い音楽家たちが一緒に音楽を学びながら、音楽から派生する様々な問題を学び、ワイマールという西洋文化の中心地において、ドイツ人も交えて共同で西洋古典音楽を作っていくプロジェクト。2年の準備期間を経て99年に開始。この活動により、両者は2002年にスペイン皇太子賞を受賞。その縁で最終的にスペインのセビリヤに本拠を置く


青柳いづみこさん(ピアニスト・文筆家)と読む『バレンボイム/サイード 音楽と社会』
[掲載]朝日 20130707
青柳いづみこさん(ピアニスト・文筆家) 著書『ドビュッシーとの散歩』(中央公論新社)など。9月に『アンリ・バルダ』(白水社)を出す予定。=西田裕樹撮影 拡大画像を見る
青柳いづみこさん(ピアニスト・文筆家) 著書『ドビュッシーとの散歩』(中央公論新社)など。9月に『アンリ・バルダ』(白水社)を出す予定。=西田裕樹撮影
音楽家を苛むパラドックス
『バレンボイム/サイード 音楽と社会』 []アラ・グゼリミアン (中野真紀子訳、みすず書房・2940円)
 ピアノ演奏と文筆を兼ねる私は、音楽界ではモノ書きと思われ、出版界ではピアノ弾きと思われ、どちらにも立脚点のないあやうさを抱えながら仕事をしている。
 だから、パレスチナ人の文芸評論家サイードの気持ちはよくわかる。「僕のもっとも古い記憶の一つはホームシックの感情、ここではなくて、どこか別のところにいたかったという気持ちだ」と彼は語る。アラブ人キリスト教徒として生まれ、ムスリム色の強いカイロで少年期を過ごしたサイードは、どこにも居場所がなかったのだ。
 いっぽう、ロシア系ユダヤ人の指揮者バレンボイムの感覚にも共感をおぼえる。世界各地を演奏旅行する彼にとって、「音楽ができれば、どこでもわが家」なのである。音楽というグローバルな芸術のありようを、これほど端的にあらわすコメントもあるまい。
 『パラレルとパラドックス』という原題をもつ本書は、音楽の解釈にかんする議論にとどまらず、音楽を通して社会と人間の諸問題を考えるよすがにもなる。
 サイードは、音楽の未来に強い危機感を抱いている。音楽が他の芸術から疎外されている理由は、「音楽は特殊な教育を要求するが、それはたいていの人々にはまったく与えられていない」からだ、と彼は言う。「それでいながら、ニーチェが『悲劇の誕生』で書いたように、音楽は潜在的にもっとも近づきやすい芸術形態なのだ」
 言葉を介さず、直接人間の感情に訴えかける音楽が、同時に、謎めいた記号の解読を必要とする点で、もっとも理解されにくい芸術でもあるというパラドックスは、私たち音楽家を苛(さいな)んでいる。
 サイードに比べて楽観的なバレンボイムも、今日の学校教育で音楽が軽視されている点には異議を唱える。「音楽を上手に演奏するためには、頭と、心と、気分のあいだのバランスをとる必要がある。……どうしたら人間らしくなれるかを子供たちに示すのに、音楽にまさる方法があるだろうか?」
 真のコスモポリタンで、エルサレムでワーグナーを指揮して物議を醸し、アラブ諸国とイスラエルから若い音楽家を招いてミュージック・キャンプを開催するバレンボイムは、音楽の力をどこまでも信じている。たしかに、音楽を通して二つの世界の若者たちは完全にひとつになり、それはすばらしいことだが、だからといって紛争がなくなるわけではない。
 音楽は世界共通言語だが、それゆえに私たちは、民族や宗教の違いを否応なしに肌で感じさせられることにもなる。音楽家はもっと行動し、もっと発言すべきだと、本書を読むたびに強く思う。


Wikipedia
ダニエル・バレンボイムDaniel Barenboim, 19421115 ブエノスアイレス - )はアルゼンチン出身のユダヤ人ピアニスト指揮者。現在の国籍はイスラエル

経歴[編集]

ロシア出身のユダヤ系移民を両親として生まれる。5歳のとき母親にピアノの手ほどきを受け、その後は父エンリケに師事。両親のほかにピアノの指導を受けてはいない。少年時代から音楽の才能を表し、19508月まだ7歳のうちにブエノスアイレスで最初の公開演奏会を開いてピアニストとしてデビュー。
1952に家族を挙げてイスラエルに移住。2年後の1954夏、両親に連れられ、ザルツブルクイーゴリ・マルケヴィチ指揮法のマスタークラスに出席。同年夏、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを訪ねる。(フルトヴェングラーが「これは天才だ!」と紹介している映画のワン・シーンがある。)その他イタリアで当時無名で友人のクラウディオ・アバドと一緒に、フランコ・フェラーラの指揮クラスにも出席している。1955パリ和声作曲ナディア・ブーランジェに師事。
1952ウィーンローマにおいて、ピアニストとしてのヨーロッパ・デビューを果たす。1955にはパリ1956にはロンドンにデビューしており、1957にはレオポルド・ストコフスキーの指揮で、ニューヨークにおいてオーケストラ・デビューを果たす。その後は、欧州米国南米豪州極東の各地で定期的に演奏会を行う。彼は既に21歳でベートーヴェンピアノソナタ32曲を公開演奏している。
ピアニストとしての名声を確固たるものとした後、1966からイギリス室内管弦楽団モーツァルトの交響曲録音を開始し指揮者デビューを果たす。1970年代からは、欧米各地の交響楽団から指揮者として招かれる。1975から1989までパリ管弦楽団音楽監督に就任しドイツ・オーストリア音楽や現代音楽を積極的にとり上げるが、同楽団の低迷を招いたとマスコミから攻撃されるなど、評価は必ずしも芳しくなかった。しかし、フランス物に偏らないプログラムを演奏したり、団員と積極的に室内楽を演奏するなど、良くも悪くもフランスのオーケストラだった同楽団をよりインターナショナルな団体へと脱皮させたのはバレンボイムの功績といえる。
1991よりショルティからシカゴ交響楽団音楽監督の座を受け継いでからは、卓越した音楽能力を発揮し、現在は世界で最も有名な辣腕指揮者のひとりとして知られている。カラヤンバーンスタインから近年のヴァントジュリーニベルティーニに至るまで、第二次大戦後に活躍してきた指揮界の巨星が相次いで他界した後の、次世代のカリスマ系指揮者のひとりとして世界的に注目と期待が集まっている。なお2005-2006のシーズン終了後のシカゴ交響楽団音楽監督を退任。2009年元日にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサートを指揮した。
オペラ指揮者としては、1973エディンバラ音楽祭において、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を指揮してデビュー。1981にはバイロイト音楽祭に初めて招かれた。その後も1999まで('84'85年を除き)毎年バイロイトで指揮を続け、「指環」全曲、「マイスタージンガー」、及び二度の「トリスタン」の各々の新演出を任された。この間レヴァインシノーポリらとともに音楽祭の中心的な指揮者として活躍した。1990より、新設されたパリ・バスティーユ・オペラの音楽監督に就任予定だったが、直前に解任されスキャンダルとなった。1992からはベルリン州立歌劇場の音楽監督に就任し、現在まで継続している。更に2007よりミラノ・スカラ座の「スカラ座のマエストロ」という、音楽監督不在の中の事実上の首席客演指揮者に就任。2007年の開幕で指揮を執った。2012年からは、スカラ座の音楽監督に就任する予定。
バレンボイムは2度結婚している。最初の相手はイギリスチェリストジャクリーヌ・デュ・プレであった。デュ・プレは才能に恵まれながらも、多発性硬化症の発病により、悲劇的にも突然に音楽家生命を断たれている。二度目の相手は、ギドン・クレーメルの前妻で、ユダヤ系ロシア人ピアニストのエレーナ・バシュキロワである(エレーナの父親は高名なピアノ教授ディミトリー・バシュキロフで、フリードリヒ・グルダの息子リコが門人にいる)。二人はデュ・プレの最晩年にはパリで同棲生活に入っており、二人の子をもうけていた。バレンボイムとエレーナ夫人の正式な結婚は1988に行われた。

レパートリー[編集]

その国籍にもかかわらず、ワーグナーリヒャルト・シュトラウスのようにイスラエル政府から「ナチス寄り」と認定された作曲家の解釈に本領を発揮しているが、これはバレンボイムがフルトヴェングラーに私淑し、その後継者たらんとしてきた姿勢によるだけでなく、ヤッシャ・ハイフェッツロリン・マゼールジェームズ・レヴァインなどのアメリカのユダヤ系音楽家、あるいは同じくユダヤ人のショルティが、一般に新ドイツ楽派を得意のレパートリーとしている風潮とも合致している。(当時オーストリア支配下にあり、新ドイツ楽派の創始者リストの生地でもあるハンガリーに生まれ、初老期までドイツ国籍だったショルティは少し事情が異なる。)一方で民族的出自であるロシア物のレパートリーは、同じく他国で生まれたユダヤ系ロシア人であるバーンスタインプレヴィンに比べても、さほど比重が大きくない。ベートーヴェンブラームスブルックナーの交響曲を得意とする一方、マーラーの演奏には消極的な姿勢である。
短期間に膨大な演奏や録音をこなすことで有名。それゆえに、玉石混交の感は否めない。常時暗譜でピアノ演奏できる曲目は300曲を超えるといわれている。日ごろの日程を追いかけてみると、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」や「ドン・ジョヴァンニ」を練習番号を含む完全暗譜で指揮した翌日にはすぐ、ベートーベンのソナタ全曲演奏やピアノ協奏曲全曲演奏などに入っていて、それが終わるや否や直ちに「ニーベルングの指環」全曲を暗譜で指揮するような超過密スケジュールである。ベルリン芸術週間において、ベルリン国立歌劇場管弦楽団ブルックナーの交響曲を連日演奏したこともある。

レコーディング[編集]

大量の録音を行ない、市場が縮小した今日においても、定期的に新譜を出せる数少ない指揮者である。最初の録音は1954に行われた。その後、モーツァルトピアノ・ソナタピアノ協奏曲のいずれも全曲録音を完成させたほか、オットー・クレンペラー指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲(全曲)、ジョン・バルビローリ指揮によるブラームスのピアノ協奏曲(全曲)、ピエール・ブーレーズ指揮によるバルトークのピアノ協奏曲(13のみ)を録音した。ベートーベンピアノソナタ全集だけでも現在までに5回の録音や映像がある。
パリ管音楽監督時代、ドイツ・グラモフォンに録音したラヴェルドビュッシーは評価が高い。ベルリン国立歌劇場管弦楽団ベートーヴェンの交響曲全集を、シカゴ交響楽団とブラームスの交響曲全集を、シカゴ交響楽団及びベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とブルックナーの交響曲全集(2種)を、それぞれ完成させている。ブルックナーに関しては、ベルリン国立歌劇場管弦楽団との3度目の全集(分売)が進行中である。

イスラエルの良心的文化人として・パレスチナ問題[編集]

バレンボイムは、イスラエルによるヨルダン川西岸地区ガザ地区の占領に批判の声を上げ続け(つまり、アラブ諸国パレスチナの主張する、西岸とガザでの主権を放棄し「パレスチナ国家」を樹立するという主張に沿う発言をしている)、今やイスラエルが「ある民族のアイデンティティと戦うことによって、倫理的な柱を失いつつある」と述べた。2003には、イギリスの音楽評論家ノーマン・レブレクトによる取材に応じて、イスラエル政府の動向を、「倫理的におぞましく、戦略的に誤っていて」、「イスラエル国家のまさに存在を危機に陥れる」姿勢であると糾弾した。バレンボイムは、パレスチナ人アラブ人)との連帯の意思表示として、イスラエル人の入植地区、とりわけヨルダン川西岸地区において演奏活動を行なってきた。
1999には、親しい友人でパレスチナ系アメリカ人学者のエドワード・サイードに共鳴し、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団の創設に加わった。これは毎年、イスラエルとアラブ諸国の才能あるクラシック音楽の演奏家を集めて結成されるオーケストラである。同管弦楽団が結成された際、指揮者選びをめぐって楽団員が糾合した時、アラブ側を納得させるために担ぎ出されたのが、ほかならぬバレンボイムであった。これはバレンボイムが、たびたびイギリスやアメリカにおいてパレスチナ寄りの発言をしてきた過去や、歯に衣着せないイスラエル政治批判、エドワード・サイードとの交友関係、イスラエル本土での演奏よりもイスラエル占領地区での積極的な慰問演奏がアラブ側に評価されてのことであった。バレンボイムとサイードの2人は、この活動に対して、「諸国民の相互理解の向上」に寄与したとして、2002スペイン王室より「アストゥリアス公褒章 Premios Príncipe de Asturias 」を授与された。バレンボイムとサイードの共著 Parallels and Paradoxes は、ニューヨークカーネギー・ホールで催された連続公開討論に基づいている。
200177、バレンボイムはエルサレムにおいて、イスラエル音楽祭の一環として、ベルリン国立歌劇場を指揮して、ワーグナー楽劇トリスタンとイゾルデ』の一部を上演した。場内は騒然となり、バレンボイムは数名のイスラエル人から「ファシスト」のレッテルを貼られた。バレンボイムは最初、プラシド・ドミンゴを含む3名の歌手と、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の第1幕を上演する予定であったが、ホロコースト生存者とイスラエル政府からの強硬な抗議を容れて、プログラムの変更を余儀なくされた。バレンボイムは、シューマンストラヴィンスキーらの無難な曲目で差し替えることに同意していたが、その決定に対して遺憾の意を洩らしていた。しかしながらコンサートの終わりになって、アンコールとしてワーグナーを演奏すると告げたのである。多くの聴衆は、高らかな拍手をもって応えたが、聴衆の一部は声を上げて反対と叫んだ。バレンボイムは30分かけて、聴衆にヘブライ語でワーグナーの楽曲をとり上げる理由を述べ、反対派にはとにかく音楽を聴いてくれるように説いた。「私は先週、携帯電話の呼び出し音によって打ち合わせを中断させられたのです。その呼び出し音がワーグナーの『ワルキューレの騎行』でした。携帯電話にワーグナーを使えるなら、どうしてコンサートホールでワーグナーを聴いてはならないのですか?」と言ったという。イスラエルにおいてワーグナーの音楽はタブー視されている。理由としては、かつてユダヤ人殲滅を主張していたヒトラーがワグネリアンであり、バイロイト音楽祭に足を運ぶなどアーリア人の文化的優越を宣伝するためにワーグナーを利用したこと、またワーグナー自身も「K・フライゲダンク」というペンネームで著した「音楽におけるユダヤ性」において、メンデルスゾーンなどのユダヤ人音楽家らに対する差別的中傷をしていたことなどが挙げられる。(しかし、ワーグナーは多くのユダヤ人と親交を結んでいた。)なお、トスカニーニも、イスラエルでワーグナーを指揮している。トスカニーニは1938ナチ全盛期)424425に、テルアヴィヴとイェルサレムでパレスティナ交響楽団を指揮。「ローエングリン」の第1幕前奏曲と第3幕前奏曲を演奏した。演奏中に雨が降り、トスカニーニが「神が雨を降らせたのだ」と言ったとされる。
20059月、イスラエル陸軍ラジオの記者に対し、軍服を着た者とは話したくないとインタビューを拒否したところ、イスラエルの教育大臣はバレンボイムを「本物の反ユダヤ主義者」だと非難した。20081月、パレスチナ自治政府から名誉市民権を与えられた。
20091月、まさにイスラエルの2008年~2009年ガザ侵攻のさなかに行われた、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートにおいて、指揮者バレンボイムは「2009年が世界平和の年になるように、中東で人間の正義が行われるように、私たちは期待します」と英語でスピーチした。これに先立ってバレンボイムは声明を発表し「私たちユダヤ人は、無辜の民の虐殺がどれほど非道で許せないものかを、他の誰よりも痛感しているはずだ」とし、イスラエルに対して「より賢明な行動を」と、パレスチナとの共存を訴えた。イギリスのガーディアン誌は「勝利の幻想」と題してその声明の全文を掲載した。

受賞歴[編集]

·         ブーバー=ローゼンツヴァイク・メダル、2004
·         ウルフ賞芸術部門2004
·         ヴィルヘルム・フルトヴェングラー賞、(ベルリン国立歌劇場) 2003
·         寛容賞、トゥツィング福音アカデミー、2002
·         アストゥリアス皇太子賞 協調賞 (エドワード・サイードと共同受賞)2002
·         ドイツ・大連邦功労十字章 Großes Bundesverdienstkreuz2002
·         哲学名誉博士号 イスラエル・ヘブライ総合大学1996
グラミー賞オペラ部門
·         ワーグナー『タンホイザー 2003
グラミー賞室内楽部門
·         バレンボイム(ピアノ)ほか
·         モーツァルト&ベートーヴェン『ピアノと木管のための五重奏曲』(1995
·         バレンボイム(ピアノ) パールマン
·         ブラームス 3つのヴァイオリン・ソナタ 1991
グラミー賞管弦楽曲部門
·         バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団
·         ジョン・コリリアーノ: 交響曲第1番(1992
グラミー賞ソリスト部門
·         バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団
·         リヒャルト・シュトラウス「管楽器のための協奏曲」(2002
·         バレンボイム指揮 パールマン、シカゴ交響楽団
·         エルガーヴァイオリン協奏曲』(1983
·         ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(1977
グラミー賞ベスト・クラシック部門
·         バレンボイム指揮 ルービンシュタイン、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
·         ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(1977
·         19回、2007
20045月、バレンボイムは、クネセト(イスラエル国会)のセレモニーにおいて、ウルフ賞芸術部門を授与された。この機をとらえて、バレンボイムは政治状況について、次のような持論を唱えた。これによって、イスラエルの元首と数名の国会議員から名指しで非難された。
心に痛みを感じながら、私は今日お尋ねしたいのです。征服と支配の立場が、はたしてイスラエルの独立宣言にかなっているでしょうか、と。他民族の原則的な権利を打ちのめすことが代償なら、一つの民族の独立に理屈というものがあるでしょうか。ユダヤ人民は、その歴史は苦難と迫害に満ちていますが、隣国の民族の権利と苦難に無関心であってよいものでしょうか。イスラエル国家は、社会正義に基づいて実践的・人道主義的な解決法を得ようとするのではなしに、揉め事にイデオロギー的な解決を図ろうとたくらむがごときの、非現実的な夢うつつにふけっていてもよいものでしょうか。


エドワード・W・サイードإدوارد سعيد Edward Wadie Said, 1935111 - 2003925)は、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著の『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論とともにポストコロニアル理論を確立した。彼はまたパレスチナ問題に関する率直な発言者でもあった。

生涯[編集]

キリスト教徒パレスチナ人としてエルサレムに生まれる。父親はエジプトカイロで事業を営んだが、サイードはエルサレムにあった叔母の家で幼年期の多くの時間を過ごしたほか、レバノンでも暮らした。アラビア語英語フランス語の入り混じる環境で育ったため、3つの言語に堪能となる。14歳になる頃にはヴィクトリア・カレッジに通った。この時期の生活については、自伝『遠い場所の記憶』に詳しい。
アメリカ合衆国へ移住後、学士号をプリンストン大学、修士号と博士号をハーバード大学にて取得した。英文学比較文学の教授をコロンビア大学40年間務めた(19632003)ほか、ハーバード大学、ジョンズ・ホプキンス大学エール大学でも教鞭を執った。『ネイション』、『ガーディアン』、『ル・モンド・ディプロマティーク』、『アルアハラム』、『アル・ハヤト』などの雑誌に寄稿しつつ、ノーム・チョムスキーらとともにアメリカの外交政策を批判し、アメリカ国内で最大のパレスチナ人とアラブ人の擁護者として発言を続けた。同い年の大江健三郎を評価していた。
晩年は白血病を患って教鞭をとることもまれだった。2003925日、長い闘病生活の末に、ニューヨークで没した。67歳だった。
なお、サイードの経歴に関して、自身による詐称があったという批判が存在した。「パレスチナにずっと在住していたと詐称し、ユダヤ人に追い出されたなどとありもしない被害をでっち上げた。事実は、エジプトのカイロにて、富裕層の子弟として生まれ育ったため、社会主義政策を掲げるナセルに追い出されたというのが実情である」というものだが、サイード自身の発言の検証、自伝『遠い場所の記憶』の発売時期の検討から、政治的意図による中傷であったとみなされている

業績・活動[編集]

オリエンタリズム[編集]

学者としては、サイードはオリエンタリズムの理論で最もよく知られている。彼は著書『オリエンタリズム』(1978)において、西洋におけるアジア中東への誤った、またはロマンチックに飾り立てられたイメージの長い伝統が、ヨーロッパアメリカ植民地主義的・帝国主義的な野望の隠れた正当化として作用してきたと主張し、オリエンタリズムの理論を打ち立てるとともにポストコロニアル理論を確立した。サイードはオリエントとオクシデントのいずれのイメージも不要と考えて批判を行ない、論争を引き起こした。

文学研究[編集]

ジョセフ・コンラッドの研究から著作家としてのキャリアをスタートさせ、オリエンタリズムや帝国主義論と関連させつつラドヤード・キップリングギュスターヴ・フローベールエドワード・ブルワー=リットンカミュVS・ナイポールゲーテなどを論じた。ゲーテがハーフィズに感銘を受けて作った『西東詩集』を賞讃し、この題名は、のちにサイード自身が運営に携わる楽団名の由来ともなった(「音楽との関わり」を参照)。

パレスチナとの関わり[編集]

サイードは、イスラエル領とその占領地域およびそれ以外の土地に住むパレスチナ人の権利を擁護した。彼は長年にわたってパレスチナ民族評議会の一員であったが、1993に調印されたオスロ合意をパレスチナ難民のイスラエル領へ帰郷する権利を軽視したものであると考えて、ヤーセル・アラファートと決裂した。
彼はまた、イスラエルがパレスチナ側からの承認と引き換えに占領地域のヨルダン川西岸とガザ地区から撤退し、そこに住むパレスチナ人の自立について交渉を開始するというオスロ合意の取り決めに反対した。そのように分離させるのではなく、代わりにアラブ人ユダヤ人が等しい権利を持つ新たな国を作るべきとの「一国家解決」論を主張した。イスラエルのパレスチナ占領に関するサイードの著書には、『パレスチナ問題』(1979)、『パレスチナとは何か』(1986)などがあり、彼の主張は敵対する民族を超えたリベラルなものと評価された。彼の死を知ったイスラエル人の歴史家イラン・パペは、「私のようなイスラエルのユダヤ人にとってサイードは、シオニズム国家で成長するということの闇と混乱のなかから私たちを連れ出し、理性と倫理、そして良心の岸辺へと導いてくれる灯台であった。」と追悼した。

音楽との関わり[編集]

彼はまた、熟練したピアニストとして、『ネイション』に音楽批評を長年にわたって寄稿した。音楽評論をまとめた著書を出版し、音楽学との学際的な講義も行なっており、忌日が偶然にも誕生日にあたるグレン・グールドの熱心な信奉者として知られていた。1999には親友であるイスラエル人の音楽家ダニエル・バレンボイムと共に、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を作った。これは才能ある若いクラシックの音楽家たちをイスラエルとアラブ諸国の双方から毎年夏に集めるという試みであり、ゲーテの『西東詩集』をもとに名づけられた。サイードとバレンボイムは、この業績が「国際的な理解に貢献した」という理由で、スペイン王室より2002年度のアストゥリアス皇太子賞を授与された。



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