父 水上勉  窪島誠一郎  2013.9.7.

2013.9.7. 父 水上勉

著者  窪島誠一郎 41年東京生れ。印刷工、酒場経営などを経て64年小劇場の草分け「キッド・アイラック・アート・ホール」を設立。79年上田市に夭折画家の素描を展示する「信濃デッサン館」を創設。97年隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開設。05年「無言館」の活動により第53回菊池寛賞受賞。『「無言館」ものがたり』で第46回産経児童出版文化賞。『鼎と博多』で第14回地方出版文化功労章

発行日           2012.12.15. 印刷             13.1.10. 発行
発行所           白水社

Ø  (うそ)と実(ほんと)
「人間、そうかんたんに自分の本当の姿がわかるものではない。自分のことがわからないくらいだから、他人(ひと)のこととなれば尚更である」というのは父の口癖
自分は、2歳で父と離別し、養父母のもとに実子として貰い受けられ、戦後30年経ってから父と再会(77.6.)。水上とは他人ではないが、よくわからないし、異母妹の水上蕗子に聞いてもよく知らないという
蕗子も、母が家出した後は、売れない出版社の編集や幻冬舎真の脚本を書いて糊口を凌いでいた父親とともにアパートを転々とし、正式に離婚した後はずっと郷里の若狭の実家に預けられていた
その時代のことは小説に書かれているが、小説自体本人が「僕はウソつき」と言うように、アテにならない
近代文学史上に、稀代の「私小説」作家として名をなした父親だが、その足アトや手がかりを全く残さず、ものの見事に忽然と世を去った
「文壇3美男文士」と言われるように、周囲に女性の姿が絶えなかった

Ø  生家の風景
1919年 福井県大飯郡に「若狭の文士」誕生 ⇒ 筆舌に尽くしがたい貧しい生活
父の父は宮大工だったが、実際は何でも屋の大工。「50になって漸く父の弟子になった」と書いている
戦後30年かかって父親を漸く探し出したあと、父が自分の故郷に連れて行ってくれて祖母に引き合わせてくれた
その祖母の葬式で父から、「棺桶を担ぐ男の孫が4人揃えば、故人への最大の供養になると言われたが、お前がちょうど4人目だ」と言われた ⇒ その模様は『雪三景』に再現

Ø  出家と還(げん)
29年京都の寺の小僧になり得度(僧名・集英) ⇒ 代表作『雁の寺』の舞台
36年還俗 ⇒ 独力で夜学に通う

Ø  寺の裏表
禅寺の坊主の生活の放縦さや食事の差別、先輩雲水の夜伽の相手をさせられたことなどが寺を飛び出した原因

Ø  放浪、発病
京都で働きながら立命館大学夜間部の文学科に入学するが、悪友に捕まり廓通いと酒に溺れ、大連に逃げ出す
水上は、立命館の名誉学友の第1号 ⇒ 創建者末川博の教育理念を社会に広めた
奉天(現・瀋陽)の会社で苦力の現場監督として働くが、廓通いのツケが来たのか喀血して入院 ⇒ 若狭に戻って徴兵検査を受けるが、肺の影で丙種合格

Ø  冬の光景
若狭では文学書を耽読、地方文学青年向けの投稿雑誌『月刊文章』や『作品倶楽部』に投稿。『日記抄』が高見順によって佳作に選出
21歳で上京、『作品倶楽部』で手厚い批評をしてくれた丸山義二を頼っていくと、日本農林新聞での校正の仕事を世話してくれる。同時に紹介してくれた同人誌『東洋物語』に入会、処女作『山雀の話』を発表
酒と女が原因で職を度々変える
40年夏 左翼系の民間調査会社「東亜研究所」に勤めていた同じアパート住まいで年長、房総出身の加藤益子と知り合い結婚 ⇒ 『冬の光景』に詳述
地元の有力者だった益子の父は丙種合格に不機嫌、既に子供を身ごもっていることもあって益子の実家からは勘当同然で追い返され、益子は独断で籍も入れないまま凌(りょう、誠一郎の幼名)を生み、2歳になった時他家に手放すことを決心して見つけてもらったのが世田谷のうどん屋の窪島家

Ø  三枚の写真
戦後三十何年も経って再会した時、既に再婚して子供もいた母親が、別れた当時の日記や出生の日時・場所を書いたメモとともに別れる時に撮った3枚の写真をくれた

Ø  結婚、応召
43年 日本映画配給会社に勤め始め、同僚の松守敏子と結婚、すぐに長女出産
42.4.18.東京に初めて空襲があった時の描写が、戦時下にあった庶民の日常と、その日常を次第に追いつめてゆく戦争の姿とがビリビリするような臨場感を持って描かれている。省線で高田馬場に差し掛かった時、突然電車が止まって、車窓から早稲田の方を見ると飛行機が2機低空で飛び、晴れた日にも拘らず空は鼠色だった ⇒ 『文壇放浪』に詳述
44年 都の第1次疎開制度で300円の引越支度金をもらって敏子と共に若狭に疎開、地元の国民学校の助教として赴任
44.5.1. 召集令状が来て、京都の未調教の従軍馬を世話する輜重(しちょう)隊に入り、人間の尊厳を踏みにじられるような屈辱感に充ちた体験をする ⇒ 『兵卒の鬃』『馬よ花野に眠るべし』に、非常なまでの人間差別の実態を描く
2か月半で「帰郷地待機」となり、助教に復帰してそのまま終戦

Ø  「八月十五日」
『リヤカーを曳いて』『また、リヤカーを曳いて』
77.6.父に再会した時の様子と、2か月たって朝日にスクープされた事情 ⇒ その時に父が、「誠ちゃん、これが僕らの815日になるかもしれんな。ようやく僕らの戦争が終わったんや」と漏らした
あの戦争によって肉親離別を余儀なくされ、今も未解決のまま生きている人のことを思えば、私たちの「815日」は例えようなくやるせない、どこか後ろめたさを伴う日でもあった

Ø  文学愛し
敏子は、元々新宿のムーランルージュで踊っていた人、父もよく顔を出し、お気に入りの1人だった。父の甲斐性なさに愛想を尽かし、蕗子を作って間もなく娘を置いて出奔(48.5.)。父は友人と出版社を起こし『新文芸』を創刊、「水上若狭男」の名で短編を書く。その過程で大文士だった宇野浩二を知り、その口述筆記を務めるようになり、それが縁で父の終生の文学の師となる ⇒ 『フライパンの歌』(当時のベストセラー)、『わが風車』
8年後に西方叡子と再婚するまで、別れた妻に未練を抱きながら転職と引越しを重ね、荒れ果てた生活を送る

Ø  堕胎二夜
敏子は43年に妊娠するが父の懇請を受けて堕胎 ⇒ 『わが風車』
44年長女が生まれたが直後死亡 ⇒ 『わが六道の闇夜』

Ø  血とは何か
「血」というものの摩訶不思議さ。30余年間も別々に暮らしてきた父子にも、親とこの血は流れているのか ⇒ エゴイズムにしても、虚言癖にしても、どこか父子は恐ろしいまでに似たところがある

Ø  薄日の道
父は作家として名を成す前に四十数種類の職業を変えた。出版社倒産の後、服飾雑誌のモデルもやり、それが縁で「洋服の行商」時代が到来、デザイナーから妹で体育短大出の西方叡子を紹介され再婚したのもその当時のこと ⇒ 『冬日の道』
文学への復帰も、父の所に洋服を買いに来た川上宗薫の勧めによる ⇒ 川上は、叡子の同級生の妹と結婚、何度か芥川賞候補にもなっていた。菊村到も連れてきて誘う
行商会社の倒産で、妻を働きに出して、小説を書く決心をする ⇒ 『結婚ばなし』
59年 繊維業界を題材にした探偵小説『箱の中』をベースに河出書房新社の名物編集長坂本一亀氏(ミュージシャン坂本龍一の父)の指導で書き直し、改題した『霧と影』が、60年上半期の直木賞候補になり、父の人生にようやく薄日が差す

Ø  文壇漂流
『霧と影』が大ヒットし、次いで水俣病被害をテーマにした『海の牙』を発表、新しい社会派推理作家として一躍脚光を浴びる ⇒ 40歳で文壇に再デビュー
52年子供向けに書いた『世界の文学』を新興出版社のあかね書房からだす
父子対面が報道され直後、私宛に、「父上は鬼畜に等しき人非人であり、一滴の尊敬だに値しない人間だ」と誹謗した匿名の手紙が届いた

Ø  今に見ていろ
53,4年の頃、まだ『月刊繊維』の編集兼記者をやっていた頃は、「僕は必ず有名な作家になって見せる」とぎらついていたという

Ø  『雁の寺』から
『雁の寺』で61年上期の直木賞受賞、声価を決定的なものにした ⇒ 「推理小説でありながら十分純文学として通じる」と、吉田健一や江藤淳らから絶賛
父が修業した『雁の寺』の舞台である瑞春院を私も訪問、雁の飛ぶ衾を見た
直木賞受賞の言葉、「小説家になりとうて、なりとうて、野良犬の如く陽かげを歩いてきたが、いま、鑑札と犬舎をもらってひとしおの嬉しさがこみ上げる」

Ø  直子誕生
61年受賞直後に生まれた次女直子は、先天性の脊椎破裂症 ⇒ 父が「十字架」を背負って、一家の大黒柱としての責任感から「多作時代」が始まる ⇒ 『靴と杖』
九州の島田療育園で3年リハビリに励み、何とか歩行可能に ⇒ 『「障碍を抱く」ということ』、『くるま椅子の歌』(婦人公論読者賞)、『拝啓池田総理大臣殿』(障碍の子を抱えた1庶民に対する役所の冷たさ、税の不公平さを綴る)
障碍の子のことを書きまくる水上に世間の批判が集中、叡子・直子も反発、「本の中で子供を愛しているって書けば、人はそう受け取るかもしれないが、それは間違い。あの人、書くこととやってること、大違いなんだ」と愚痴をこぼされた

Ø  飢餓海峡
54年の洞爺丸事故に絡めた『飢餓海峡』(62年から『週刊朝日』連載)は、社会派推理小説ブームの先駆け ⇒ 『雷電海岸の孤愁』
たまたま小説が評判になった頃、私が明大前に酒場を開き、その店員として採用した今の妻の出身地が北海道の岩内町で飢餓海峡の舞台だったが、文学に興味のない妻は全く知らなかった。妻を採用、後に結婚し祝言を挙げたのが小説にも登場する温泉宿
父の正式な作家名は「ミズカミツトム」で戸籍と同じ。「ミナカミベン」は文壇デビュー当時から『飢餓海峡』辺りまで使っていた ⇒ 水上(みなかみ)滝太郎(戦前『三田文学』で活躍)との混同を嫌って本人が宣言したという

Ø  邂逅の時
父子が邂逅してから1か月後に父が養父母に挨拶に来て、自らの不徳を詫びる
私の妻は、同じ町内に住みながら(成城の6丁目と9丁目)1か月も来なかったことや、まだ母を探していないことを批判、「何となくズルい気がする。そんなところ、あなたもタイ焼きみたいにそっくり」とイヤな言い方をした
養父母は、実の父親が水上勉だということを知っていて、同じ町内に住むと分かった時は大分逡巡したようだったし、近くに住んで養父が孫(私の娘)と散歩に出た際、孫が水上家の犬に魅かれて庭に入り込んだとき、孫を置いて家に逃げ帰ってきたため、行方不明の孫を探すために警察沙汰になった
漸く探し求めていた父親が水上勉と判明した時、父宛に直接手紙を書いたが、父に手渡されたのは77年の第4回川端康成賞の授賞式の直前叡子夫人からだった

Ø  成城、軽井沢
父の軽井沢の仕事場にはいつもキレイな若い女性がいて、蕗子たちと一緒に食事を作ったりしていた
78年 上田に「信濃デッサン館」の建設が始まった頃から、軽井沢の仕事場での接触が多くなった

Ø  こわい父
初めて軽井沢に父を訪ねたとき、「書斎を見てこい」と言われ、驚くとともに、書斎に入って一瞬足がすくむような感動を覚える ⇒ 『寺泊』(川端康成賞受賞)
原稿用紙に寄せる思いは尋常ではなく、私が父の書斎から、出版社名入りのサラの原稿用紙を2,3枚取ってきたときだけは、えらく怒られた ⇒ 『へっこ餅と菩提寺』

Ø  「血縁」ギライ
私小説の中に父の代表作を求めると、当然そこには家族や血縁者の間に一悶着起こしながらも、なおも父が書きたかった「親と子」「母と子」「父と子」といった、人間が容易に断ち切ることのできない「血の絆」という普遍のテーマがあることも事実
「人間は生まれてから単独旅行者だ」(『骨肉の絆』)といった父は、いわゆる「血縁」と言うものに縛られるのが大嫌い。一度もわが子を抱いたことがない
「別府の病院を寄付金を集めて買い取り、障碍者が働いて自活する福祉施設「太陽の家」を建設する運動にしても、仕事の上の絵空ゴトという感じで、それより一晩でも多く家に帰って自分の子を抱いてくれることの方を望んだ」とは、叡子さんの言葉
売れっ子になってチヤホヤされて変わったという証言もある ⇒ 「表面では弱いものの見方ぶっているが、それはあくまで作品上のことで、人一倍強いものや金持ちにへつらっている人はいない。彼の作品や行状のカゲで、たくさんの人が泣いている」と(水上の小説の挿絵画家・渡辺淳)
父本人も、「カネが入ったからそれまでこらえていたモノを手に入れる。こらえていたものが今爆発している」と言って、とことん「貧乏はイヤなものだ」という表情がありあり、彼の金銭哲学、人生哲学が分かる気がする。「貧困」の悲しみを十分知りながら、また「富裕」であることがいかに人間にとって心を歪め精神を痩せさせるものであるかを知りながら、自分自身は、激しくその間を揺れ動いていると告白、「今日の混乱の世相では、「貧困」への回帰こそが人心の改造だとふと思うことがある」と書く ⇒ 『貧困について』
直子のことも、叡子さんに任せっ放しにしているが、それを自らの父が他所の家は直しに行くが自分の家は破れるにまかした根性ように、父から受け継いだ業だと言って済ましているところもある

Ø  京都、百万編
89年 最初の心筋梗塞の発作。日中文化交流団団長として訪中、天安門事件の現場に居合わせて帰国した翌朝のこと ⇒ 『心筋梗塞の前後』『螢』
病後百万遍に元有吉佐和子の住んでいたマンションを購入して仕事部屋とし、治療を兼ねて移り住む ⇒ 『その春に』

Ø  一滴の里
85年 出身地に「若狭一滴文庫」創設。父が私の「信濃デッサン館」からヒントを得て作った、水上文学ワールドとでもいうべき複合文化施設。「一滴の水もムダにしてはならぬ」という教えから採った名で、死後地元有志によって設立されたNPO法人「一滴の里」によって運営され、毎年の「帰雁忌」も行われている
87年 皇太子夫妻が、父の始めた「竹人形文楽」をご覧になった時、会場が一滴文庫の「ろうそく劇場」ではなく、原発の見返りで建てられた福祉センターになったが、全ての電気の照明を消していつも通りのろうそくの明かりだけにして上演したのは、前年のチェルノブイリ事故にも拘らず無批判に依存し続ける原発増設への継承・憂慮という父の切実なメッセージが込められていた ⇒ 『若狭日記』『故郷』(反原発小説)
私の見る限り、父はそんなに「一滴の水」や故郷から送られてくる「電気」を大事にしている気配はなかった

Ø  女優泥棒
3歳年下の国際派女優(緑摩子)と付き合っていた時、突然「親子どんぶり」の関係を告白されて別れたことがある
父と再開直後、森光子が司会だったフジテレビの「3時のあなた」に出演を依頼され、父に出演の話をすると、絶対にダメと言われて断念したが、それも文壇でも有名だった熱烈な恋愛関係にあった後の破局状態だったからというのが真相。皮肉にも父と森光子は98年に文化功労者同時受賞、並んで撮った記念写真に堂々悠然と座る森に比べて、隣の父は心なしか不機嫌で憮然として見えた

Ø  竹紙と骨壺
「若狭一滴文庫」を訪れた人の9割が父のオリジナル「竹紙(ちくし)」にハマって帰る
原料の間伐竹の大量調達も含め「竹紙」の誕生に貢献したのは地元画家の渡辺淳。竹人形芝居の人形作りの過程で生まれた ⇒ 『竹紙を漉く』『竹紙づくり』
もう1つ父がオリジナルで編み出したのが若狭の土で焼く「骨壺」 ⇒ 『骨壺の話』
リウマチで動かなくなった指のリハビリのために始めた陶芸が契機で、94年頃のこと
00年 再度発作に襲われた後は長い文章が書けなくなり、晩年の父の経済を支えていたのは、この「竹紙」に書いた絵や偶に開かれる「水上勉・骨壺即売会」の収入だった
北御牧村の工房で、出来上がった骨壺の木箱に筆で名前を書き四角い朱印を押しながら、「お札を刷っとるようなもんや。極楽の骨壺や」と片眼をつぶって見せた

Ø  ふたたび、血とは何か
父が私を支配している血とは何か
「孤独感」「独りぽっち感」から来たものを共有
父の孤独癖を助長させたのは文学
妻がいみじくも言ったように、私は35年振りに出会った父親のタイ焼きになっている

Ø  北御牧ぐらし
91年 軽井沢を売って東御市北御牧村に仕事場を移す
98年 眼底出血と網膜剥離 ⇒ 『泥の花』
00年 健康にいいと言われて初めて行ったハワイで再度発作(脳梗塞) ⇒ 『仰臥と青空』

Ø  病床十尺
01年 『虚竹の笛』(集英社)が翌年第2回「親鸞賞」受賞。授賞式には家族そろって出席したが、叡子さんの実家は大分の親鸞系のお寺
以前倒れて入院した時、自分は個室だったが、4人部屋のベッドは3尺だったのを見て、それだけでは何もできないと感想を漏らしていたことがある ⇒ 最後は御牧勘六山の自宅の幅10尺はあろうかというベッドで、親しい女性に囲まれて死去

Ø  母の自死
99年 私の生母・益子が田無の自宅で首吊り自殺
父と離婚後、営団地下鉄のエンジニアと再婚。私が父との再会を果たした直後に名乗り出てきて謝罪してくれた
その後、母とは2,3度しか会っていないが、異母妹とは時々会っていて、母の死も妹から聞かされたが、自殺と明かされたのは5年後だった。理由は不明
異母妹は、横浜のグランドホテルで毎年天満敦子と開催している昼食会には必ず来ていた(13.6.9. 横浜に食料を届けた帰りに2人でグランドホテルで食事した際、そのポスターを見ていた)
父には死を報告したが、あまり興味はなさそうだったこともあって、自殺のことは病床の父には知らせなかった



Wikipedia
水上 (みずかみ つとむ、みなかみ つとむ、1919大正8年)38 - 2004平成16年)98)は、日本男性小説家福井県大飯郡本郷村(現:おおい町)生まれ。苗字の読み「みずかみ」は本姓であり、筆名(ンネーム)としては、長年「みなかみ」が使用された。一時、筆名(ペンネーム)としても「みずかみ」を使用するも、徹底しなかったために「みなかみ」に戻したとの説もある。
福井県の大工の家に生まれ、5人兄弟の次男として育った。貧困から、9歳(一説には10歳)の時、京都臨済宗寺院相国寺塔頭、瑞春院に小僧として修行に出される(この時、寺に住み込んで画の練習をしている南画家の服部二柳を見ている)が、あまりの厳しさに出奔。 その後、連れ戻されて等持院に移る(これらの経験がのちに『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされた)。10代で禅寺を出たのち様々な職業を遍歴しながら小説を書くが、なかなか認められず、また経営していた会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚、最初の結婚でできた長男(窪島誠一郎)との別離など、家庭的にも恵まれないことが多かった。
旧制花園中学校(現・花園中学校・高等学校)卒業。1937昭和12年)、立命館大学文学部国文学科に入学するも生活苦のため半年で中退。
作家デビュー
1944年郷里に疎開し国民学校助教を務める。戦後上京し、文潮社嘱託ののち虹書房を興して雑誌『新文藝』を創刊、石川啄木樋口一葉などの作を刊行し、1946(昭和21年)頃、宇野浩二の『苦の世界』を刊行したことから宇野の知遇を得、文学の師と仰ぐようになる。虹書房は解散、1947(昭和22年)に刊行された処女作『フライパンの歌』がベストセラーとなるが、その後原稿依頼がなく、しばらくは生活に追われ、また体調も思わしくなく、文筆活動からは遠ざかった。
服の行商のかたわら、菊村到に励まされ、本清張の『点と線』をむさぼるように読みながら、日本繊維経済研究所に勤めていたときの経験から1959(昭和34年)に日本共産党の「トラック部隊」を題材にした『霧と影』で執筆を再開。この作品は、友人川上宗薫の紹介で、河出書房の編集者坂本一亀の手に渡り、4回の書き直しを経て、出版へとこぎつけた。当時生活を支えるために妻がキャバレーホステスとして働いており、坂本がその店へ原稿料を届けに行った際、「奥さん、長い間ごくろうさまでした。これで水上は作家になりました」と言ったという。川上宗薫とはその後、互いに、相手を誹謗するモデル小説『作家の喧嘩』と『好色』を書きあった結果、不仲となる(のちに佐藤愛子のパーティで再会し、人を介して和解)。
1960(昭和35年)、水俣病を題材にした『海の牙』を発表し、翌1961(昭和36年)に第14日本探偵作家クラブ賞を受賞、社会派推理作家として認められた。しかし水上自身は推理小説に空虚感を感じており、「人間を描きたい」という気持ちから自分がよく知る禅寺の人間たちを題材に『雁の寺』を執筆、同年に第45直木賞を受賞、華々しい作家生活が始まった。
直木賞受賞後[編集]
飢餓海峡』(1963)、『くるま椅子の歌』(1967)などを続々と発表。小説『越前竹人形』、『はなれ瞽女おりん』、『五番町夕霧楼』、『櫻守』、伝記文学『良寛』、『一休』、童話『ブンナよ、木からおりてこい』、そして数々のエッセイなどを旺盛に書き続ける。1989(平成元年)、自ら団長として訪問先の北京において天安門事件を目の当たりにし、帰国直後に心筋梗塞で倒れる。その後も網膜剥離の手術を受けるなどしたが、執筆意欲は衰えず、死去の場所も長野県にある仕事場であった。
次女が二分脊椎症という病気であったことなどから身体障害者の問題に関心を持ち、前述の『くるま椅子の歌』の他に、『拝啓池田総理大臣殿』等、社会福祉の遅れを告発する発言や文筆活動もしばしば行った。また1985(昭和60年)、福井県大飯町(現:おおい町)に「若州一滴文庫」(特定非営利活動法人 一滴の里が運営)を創設、竹人形を使った人形劇の上演にも力を尽くした。
1997年(平成9年)頃から、パソコンやインターネットに強い関心を示す。長野県小諸市の仕事場にMacintoshを複数台購入し、「電脳小学校」と名づけて地元の子供たちにも開放しようとしていた。また、上京する際はPowerBookを持ち歩いていたこともある。本人もワープロソフトで執筆したり、電子メールを知人とやりとりしたりしていた。自ら描いた絵をスキャンして、その画像をインクジェットプリンタで竹紙に印刷したものを「版画」と呼んで楽しんでいたこともある。当時「たとえば早稲田大学も、これからは早稲田<検索>大学になるんだ」と話すなど、今でいうeラーニングにも関心があったようである。パソコンやインターネットを障害者や高齢者、地方に住む者のハンディキャップを補う道具としてとらえていたと考えられる。
2004(平成16年)98肺炎の為、長野県東御市85歳にて死亡。死後、正四位に叙され、旭日重光章を授けられた。没日は直木賞受賞作『雁の寺』に因んで帰雁忌と呼ばれる。
2006(平成18年)、横瀬夜雨の伝記小説『筑波根物語』(1965年に『中央公論』に連載)刊行。
家族
1941に加瀬益子(のちに「えき」)と同棲。長男凌(窪島誠一郎)をもうけるが、戦争と生活苦のため靴の修繕屋に養子に出し、東京大空襲で行方不明になる(のちに再会)。1943に松守敏子と結婚し長女蕗子をもうけるが、1949敏子が子どもを置いて印刷会社の息子と駆け落ちしてしまったため離婚。1956に西方叡子と再婚し、次女誕生。長女蕗子は、俳優・京極潔(本名・勝亦純也)と結婚するが、京極は1973年に自宅の火事で焼死した。
主な受賞歴[編集]
·         1961年(昭和36年)、第14日本探偵作家クラブ賞『海の牙』
·         1961年(昭和36年)、第45直木三十五賞『雁の寺』
·         1964年(昭和39年)、第4婦人公論読者賞『くるま椅子のうた』
·         1965年(昭和40年)、第27文藝春秋読者賞『城』
·         1970年(昭和45年)、第19菊池寛賞『宇野浩二伝』
·         1973年(昭和48年)、第7吉川英治文学賞『北国の女の物語』、『兵卒の鬚』
·         1975年(昭和50年)、第11谷崎潤一郎賞『一休』
·         1977年(昭和52年)、第4川端康成文学賞『寺泊』
·         1981年(昭和56年)、第16斎田喬戯曲賞『あひるの靴』(戯曲)
·         1984年(昭和59年)、毎日芸術賞『良寛』
·         1986年(昭和61年)、第42日本芸術院賞恩賜賞
·         1988年(昭和63年)、日本芸術院会員
·         1992年(平成4年)、第8回東京都文化賞
·         1998年(平成10年)、文化功労者


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