気骨 経営者 土光敏夫の戦い  山岡淳一郎  2013.8.30.

2013.8.30. 気骨 経営者 土光敏夫の戦い

著者 山岡淳一郎 1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。「人と時代」「21世紀の公と私」を共通テーマに、近現代史、政治、医療、建築など分野をこえて旺盛に執筆。『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社)、『マンション崩壊――あなたの町が廃墟になる日』(日経BP)、『原発と権力――戦後から辿る支配者の系譜』(ちくま書房)

発行日           2013.6.25. 初版第1
発行所           平凡社

まえがき
一介のタービン技術者から財界総理、行政改革のカリスマへと人生の階段を駆け上った土光は、多くの語録を残す
組織は上下のヒナ壇ではなく丸い円と考えよ
権力は捨て、権威は高めよ
会議では論争せよ。会議には1人出よ。会議では全員発言せよ。会議は1時間単位でやれ。会議は立ったままやれ
60点主義で即決せよ。決断はタイムリーになせ。決めるべき時に決めぬのは度し難い失敗
人間には人間らしい仕事をさせよ。そのために機械がある
女性社員の心の奥の底はやる気十分である。そのやる気を引っ張り出せ。引っ張り出す役割は男性社員の側にある
賃金を低く抑えようとする努力からは、会社の繁栄は生まれない
リーダーは火種のような人でなければならぬ

第1章        法華経とジェットエンジン
岡山方言「すらっこう」 ⇒ きびきびとしてそつがないさま。備前人の生き方にも通じる
岡山は、古より水上交通による交易の要所として栄えた。地勢的環境が、進取の精神と合理性に富み、陽気でおおらか、人情に厚い一方で機を見るに敏、「ずるさ」も備えた性分を培った。一括りにいえば「上昇志向」が強い。そうした気風が激しい出世競争を生み、戦前の岡山中学、六高、帝大という立身出世コースの確立に繋がる
土光は、長男夭折で実際上の長男として育てられた
父は、分家を継ぐが、農地を小作に出しイ草の小売卸に手を染めるがうまくいかない
母は、同地の開拓地の地主の娘、父親の影響で備前法華に帰依、捨て身で世直しを行う過激さを内包した宗教に幼少から感化された
穏やかな父と男勝りの母に育てられ、上級学校に進む余裕がないため、3年制の高等専門学校だった東京蔵前の東京高等工業(現東工大)に一浪で進学 ⇒ 伯父が琵琶湖から京都東山に水を引く「琵琶湖疏水」の設計者であり、国産技術による快挙だったことが後に国産技術に拘る土光に影響を与えることに
大正デモクラシーの最中、高等専門学校の大学昇格運動が高揚、東京高等商業(現一橋大)は昇格したが蔵前は保留となり、蔵前の学生がデモ、土光は「生長(学生の長)」としてデモの先頭に立つが、本心はさらに学費の負担がかかることを心配して反対だった
1次大戦の好景気がヴェルサイユ条約によって株が暴落し一変して不景気になる中、エンジニア志望の就職は売り手市場で、土光は造船から陸機へのシフトを模索する石川島造船所に「タービンの設計と海外留学」を認めさせて入社。給料は三菱や満鉄の1/3
タービンは、当時イギリスで開発されたばかりの新技術、土光は在学中から興味
入社後1.5年で会社がスイスのタービン技術導入を決定、土光を先兵としてスイスに派遣
帰国後、軍艦に初めて国産の主機タービンを搭載、海軍のタービン工場として指定され、大震災で打撃を蒙った会社の業績は一気に回復
帰国後、設計部門担当重役の娘と結婚 ⇒ 母が妹たちを伴って同居、東京での日蓮宗布教活動を始める
電力業界の寡占化と連動するように、土光のタービン設計が進み
あわせて、外国勢の独占していた発電機市場に参入 ⇒ 第1号機は秩父セメント
29年 「推力軸受の改良」で初の特許取得
軍国主義化の下、思想統制が強化され、日蓮宗も規制、母は予てからの構想だった女性教育に活路を見出し42年「橘学苑」を創設。母は建学を見届けるかのように終戦直前に死去
大型化するタービン事業のリスク分散のためGEの技術を導入している東芝との合弁設立の動きが出て、土光は国産技術を強硬に主張したが、結局36年に石川島芝浦タービンという合弁が設立され、土光も設計部長として派遣、GE本社で5か月の研修
信州松本で、陸軍と組んで戦闘機用のジェットエンジンの開発を始める ⇒ タービン技術者にとってジェットエンジンは憧れの的。開発が難航する中、444月潜水艦が運んできたドイツのエンジン断面図から海軍が特攻機用エンジンの開発にめどをつけ8月にはアメリカよりも早く自力開発によるジェットエンジンの試験飛行に成功、45.9.1.南九州での使用も決定したが、原子爆弾によって夢は潰える。石川島も陸軍の迎撃用戦闘機への搭載が決まり458月には目標をクリアしたところまでが精いっぱい
敗戦とともに、土光は、経文を唱え出し、母の遺した学校の運営にも参加

第2章        焼け跡、占領、ブラジルへの道
46.4. 石川島芝浦タービンの社長パージの後を受けて社長就任 ⇒ 政府による戦時補償が打ち切られる。さらに急速に進むインフレとその撲滅のためのドッジ・ラインで、破綻の危機に
50年 業績悪化、給料遅配、労使紛争が絶えない石川島本社の社長に ⇒ 強面で、役員の交際費を始め会社再建への荒療治が始まる
朝鮮戦争の特需に救われる
全社的なコミュニケーション・ツールとして社内報『石川島』を発行 ⇒ 門の前に立って仕事始めで出社する社員11人に手渡す
講和を機に土光は、「自立した国際活動」へ向けて手を打つ ⇒ 製造技術に明るい営業マンを新生貿易部に集め、田口連三の号令のもと、世界に打って出る ⇒ 会社のためとは言わず、国のため、大東亜共栄圏のため、アジアのためになるものならやれと発破
自前のジェットエンジン開発のため、戦時中海軍での開発責任者を顧問と研究部長にスカウト
54年 造船疑獄に連座して逮捕 ⇒ 高利貸しの貸金返還訴訟に関連した山下汽船の家宅捜索で、船主協会等が造船会社から船会社に払い戻されたリベートを政界の各方面に献金されていた事実が発覚、山下汽船と取引のあった大手造船会社が軒並み贈賄容疑で逮捕
造船各社が計画造船の利子補給を陳情したもので、検察は佐藤栄作幹事長の逮捕を画策したが、犬養法相が指揮権を発動、国会史上の一大汚点
土光も20日間勾留 ⇒ 後に経団連会長に就任した時の政治献金全面禁止を試みた背景となる 
58年 ブラジルに合弁造船会社イシブラスを設立(定礎式) ⇒ 軍と自由主義者との対立抗争が激しく続く国状を、土光自らブラジルに飛んで確認、ペトロブラスにタンカーを納入してきた実績が物を言って政府の懐に飛び込むことに成功。ただし、あくまでブラジルの会社とし、石川島は技術提供に徹する。石川島の資本金26億に対し、総額40億円の投資

第3章        高度成長の分水嶺に立つ
50年代の石炭から石油へのエネルギー革命に伴い、大型タンカーが造船の主役となり、造船所の規模の小さい石川島は時代に取り残される一方、業界3位の播磨造船は業績が落ち込み、主力銀行(第一銀行)に合併先の斡旋を要請。第一銀行は当初川重に話を持ちかけたが、造船同士の合併ではメリットが少ないと逡巡したため石川島にお鉢が回る。元々石川島がタービン機関、播磨がディーゼル機関を得意としてお互いに船舶用エンジンを供給し合う仲だったこと、陸と海の強味を補完し合う利点もあり、土光も播磨の六岡も技術屋同士気が合ったことから順調に話がまとまり、安保条約で世情騒然とする中、60.7.合併を発表 ⇒ 戦後最大の合併劇。60.12.新会社スタート
人事の完全対等と、組織の徹底したシャッフルによる人材の大胆なシフトが奏功
船舶部門のヘッドに、播磨造船から米系造船所に出向していた真藤恒を呼び戻す ⇒ 揉み手営業を徹底して合理化。62年以降日章丸(13万トン)、出光丸(21万トン)等世界最大級のタンカーを次々と進水
造船業界の常識や既得権にも挑戦 ⇒ 海運王オナシスとも対決。スエズ動乱による海運ブームが去った後の船価急落により、船の引き取りを機器の不具合を理由に拒否するオナシスを「政府間海事協議機関」に提訴。審判では敗退したが、賠償の支払いは断固拒否
65年 社長を田口に譲ったところに、土光が師と仰ぐ石坂泰三から大企業病に陥った東芝の再建を依頼される ⇒ 徹底した合理化と組織改革、各事業部長への権限委譲を断行
東芝社内の意識改革に出された土光語録 ⇒ 社内報に『トップ指針抄』として掲載
1.   組織は上下のヒナ壇ではなく丸い円と考えよ ⇒ 円の真ん中にトップを置く。曼荼羅の発想
2.   自分を他社と比較するな。比較は自分自身とだけやればよい ⇒ 肩書は人間の「時価」に過ぎず、「真価」は自ら納得できる生き方をしたかどうか
3.   顔を見たらモミュニケーションを行え。廊下の行きずりでも書類1枚分ぐらいの連絡は出来る ⇒ 依存心、横着心、老婆心、かばい合い根性、優越感を排除
4.   60点主義で速決せよ。決断はタイムリーになせ。決めるべき時に決めぬのは度し難い失敗だ ⇒ 事業には運をかけねばならないことがあるが、その場合重要なのは決断
5.   面壁一生 ⇒ 達磨大師の「面壁9年」(悟りを開くまで9年かかった)にかけて、一生かけて努力するところに人生の進歩があると説く
6.   穴を深く掘るには幅がいる ⇒ 真の専門化とは深く広くすること、その極限が総合化
7.   錆つくより、擦り切れる方がまし ⇒ できるだけ多くの刺激を脳に与え続ける、良性のストレスを積極的に作り出す
8.   原子力発電の国産化を目指す ⇒ 東芝時代最も注力したのが原子力事業。エネルギー資源の乏しさは日本のアキレス腱だとして原子力発電の必要性を説く。ただ、GEがターンキー契約で市場に衝撃を与える中でも、将来の国産化を展望した技術開発を指示
70年までに東芝の業績は回復したが、土光は「時代のお蔭であって、東芝の事業基盤は弱く、中央集権的な体質は変わっていない」と戒めた。その後業績悪化、回復したところで72年社長退任
財界人・土光の株は上昇 ⇒ 石坂経団連の副会長に就任
アメリカの「コンピューター自由化」圧力に抵抗 ⇒ 「日米繊維交渉」と「沖縄問題」の2つを抱える佐藤政権は、アメリカ懐柔策としてコンピューターの自由化を譲歩しようとしたが、電子工業振興協会の会長だった土光が真っ向から反対。土光はアメリカから「ミスター・タイフーン」と呼ばれた

第4章        エネルギー飢餓と行動する経団連
70.11. 三島由紀夫等が自衛隊市ヶ谷駐屯地を襲撃、自刃
71.2. 石油の供給体制を巡りOPECが国際石油資本と激突
71.8. ニクソン・ショック
73.10. 第4次中東戦争勃発で、OPECが原油公示価格の70%引き上げと、生産の段階的削減を決める
74.4. 経団連会長就任 ⇒ 真っ先に口にしたのが政治献金への疑問
福島第一原発視察ツアー ⇒ 放射能被曝はゼロだったが、肝心な部分についてはブラックボックスでアメリカに握られていたため、東海村での自前技術開発を始める
政府、電力業界は、新たにカナダの技術導入を計画するが、土光は断固反対
76年 訪ソしブレジネフにシベリアでの資源開発プロジェクトでの協業を申し入れ
77年 訪ソの際、経済優先で北方領土問題を蔑ろにしたとして、右翼の野村秋介等が経団連を占拠。土光は大阪に出張していて難を逃れた
直後に、訪中団を組織、上海にできた国策の「宝山製鉄所」はその時の成果

第5章        行政改革への執念
80年 経団連会長退任、日中経済協会会長職以外はほとんどの公職を辞退
大平の弔い選挙で圧勝した自民党の党内抗争で鈴木善幸に敗れた中曽根が、閑職で降格人事とも言うべき行政管理庁長官にもかかわらず、勝手に就任の記者会見で従来からお題目で済んできた「行政改革」を内閣の最大の課題とぶち上げ、第2次臨時行政調査会(1次は62年の池田内閣時代)を設置、土光を担ぎ出す。政官界との調整という裏の仕事には伊藤忠会長だった瀬島龍三を指名
サッチャーの「小さな政府」や、強いアメリカ復活のための規制緩和を中心とするレーガノミックスの潮流に乗ろうとした
土光が総理に出した就任の4条件
   総理が答申を必ず実行すると決意すること
   行政の合理化による「小さな政府」の実現、増税によらない財政再建の実現
   地方自治体も含めた日本全体の行政の合理化、簡素化を抜本的に進める
   国鉄、健保、米価管理制度の赤字解消、特殊法人の整理・民営への移管、官業の民業圧迫の排除等民間活力の最大限活用
委員は9人 ⇒ 財界からは土光、瀬島、宮崎輝(旭化成)、官界からは谷村裕(元大蔵次官)、元内務官僚の林敬三(日本赤十字社長)、労働界から総評副議長の丸山康雄と労働総同盟顧問の金杉秀信、学界から行政学者の辻清明、言論界から日経元社長の円城寺次郎(副代表)
委員会の下に実務担当として21人の専門委員、さらに各省から調査役78人が出向
臨調の顔触れを見て行革の前評判が高まると、官僚の先走りが始まる ⇒ 郵政省から突如電電公社の分割案が浮上、土光は真藤を総裁に送り込む ⇒ 真藤は不況下の大量受注で石播の業績を悪化させ社長更迭、会長にもならず、希望退職は5000人に上る
既得権、特に予算編成権を死守しようとする大蔵省は、緊急答申前に増税なきゼロ・シーリングを決めようと必死
社会保障制度を変える分岐点にもなった ⇒ 国庫負担から一部を地方自治体が肩代わり(後に制度化)、その後加入者負担が急上昇していく
81年 3公社(国鉄、電電、専売)民営化の第1弾として国鉄解体・民営化に着手。元運輸事務次官の住田正二を部会長代理(会長は加藤寛)据えるが、住田も国鉄の莫大な赤字と体質に匙を投げ、臨調の目玉となっていく
裏臨調の活躍がマスコミで話題に ⇒ 瀬島を筆頭に、加藤寛、橋本龍太郎、堀内光雄、中村靖、加地夏雄(行管長次官)6人が、臨調の答申を中曽根の意向を対して「実行可能」な案に作り変えていく
82年 国鉄分割民営化の議論が国論を二分する中、土光を国民的な行革の「顔」にして世論を喚起する戦術が採られ、NHKが放送したドキュメンタリーで土光の家での食事風景が映し出され、「メザシの土光さん」の伝説が作られた ⇒ メザシを贈ったのは電力界のフィクサー松根宗一。以後、「メザシの土光さん」は行革のシンボルとなり、国民の支持を得る
82.10. 政府は行革大綱を閣議決定し、国鉄改革の5年以内実現を決めるが、直後に行革に命をかけると約束していた鈴木が辞意と総裁選不出馬を表明。後継は田中角栄の支援を受けた中曽根
83.2. 第4次答申『臨調後の行革推進体制』を発表
83.3. 最終答申 ⇒ 臨時行政改革推進審議会の会長に懇請され、会長代理に日経連会長の大槻文平を迎える条件で引き受ける
かつて母が、学校創設に反対する息子に言った「国が滅びるのは悪ではなくて、国民の愚によるのです」の言葉が何度も脳裏をよぎったことだろう
87年暮れに衰弱から入院、翌年8月逝去

終章 「志の一分」を継ぐ者たち
イシブラス ⇒ 90年代半ば現地の造船所に吸収合併されたが、造船界が立ち上げた「技術研究組合」はブラジル沖の人口浮島「メガフロート」の開発に事業化のターゲットを絞る。海底油田が次々に発見され、IHIのブラジル回帰の一端となる
原子力事業 ⇒ 土光は、「憧れ」と「怖れ」の感情を抱きながら推進したが、国産技術の開発と事故の回避を唱える
行政改革 ⇒ 土光が敷いた行革のレールを走ったのが真藤だったが、90年のリクルート事件でNTT法違反の収賄容疑で実刑に
臨調の後、緊急の景気刺激策が採られた結果政府の財政規律は緩められ、金融界の資金が溢れだすとバブル景気になって政府の税収が増え、赤字国債がゼロとなって財政規律は消し飛んだ
96年 橋本行革で122省庁を112省庁と政府機構の形は変えたが、財政構造改革には挫折
01年 小泉内閣が「聖域なき構造改革」を掲げて登場 ⇒ 「官から民へ」を打ち出し、規制改革を進め、公共事業にもマイナス・シーリング適用。格差社会の弊害も顕著に
国鉄民営化の総決算 ⇒ 民営化された87年時点の累積赤字37.1兆円のうち、清算事業団が25.5兆円を10年で返済するとしたが、バブル期の資産の売り控えから、清算時点での負債は28.3兆円に増加。8.5兆円は債務免除、16.1兆円の有利子負債は国の一般会計に引き継がれ、いまなお毎年税金で返済されている。解雇された千名余りの国労組合員の不当労働行為の訴えは、2010年になってようやく和解
国鉄民営化→国鉄労組の崩壊→総評の崩壊→社会党の崩壊


気骨 山岡淳一郎著 「土光イズム」の根底にあった精神 
日本経済新聞朝刊2013年8月18
 「メザシの土光さん」と財界トップにそぐわぬ清貧ぶりで愛された土光敏夫が逝ったのは四半世紀前の8月。企業経営や業界再編に辣腕を振るって「荒法師」「ミスター合理化」と異名をとり、経団連会長や鈴木善幸、中曽根康弘両内閣時の第二次臨時行政調査会(第二臨調)会長を務めた。昭和の経済界に大きな足跡を残しただけに評伝や人物論は少なくない。
(平凡社・1800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(平凡社・1800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 本書も土光さんの行動を技術者、大企業経営者(現IHI、東芝など)、財界リーダーという側面ごとにエピソードや秘話を交えて追う。興味深いのは、土光さんを戦後昭和の他の指導的経済人と際立って異色ならしめた「無私」「剛直」「清廉な生活」などが何に由来するのかを通奏低音として探り出している点。土光イズムの根底にある精神の追究である。
 著者が指摘するのは徒手空拳で女学校(現橘学苑)を設立した土光の母堂の生きざま。信条の貫徹心と行動力を強く示した。伝家の信仰であり自身も傾倒した日蓮宗の影響も大きい。晩年まで毎朝4時に起床して法華経を読んだ。
 コンピューターの自由化問題が騒がれた1970年代初め。夜に何度か土光宅を訪れ玄関のたたきに佇立する記者時代の評者に、どてら姿で素足の土光さんが板敷き廊下の向こうから「何じゃ」と応える。丸刈りでギョロリと睨まれると、禅寺で試問を受けているようで気後れした。
 むろん本書は、齢80半ばを過ぎた土光さんが心血を注いだ行政改革をめぐる内幕に紙幅をさく。不誠実、不作為には政府・官僚だけでなく経団連などの民僚をも激しく叱責する第二臨調の「怒号さん」が、国民の支援の声を背景に政府・国鉄や政治家とどう闘ったのか。駆け引きに長けた瀬島龍三が仕切る「裏臨調」をどう使い、逆に「裏臨調」にどう使われたのか。
 土光さんを行政改革の聖徒に押し上げる上でNHKがタイミングよく放送したドキュメンタリーの貢献は大きいといわれる。メザシを美味しそうに頬張るなど、市井の老夫婦と変わらない土光夫妻のつましい生活を描いたものだが、利害関係者との情報戦の中で仕掛けられたものだった、と明かす。
(専修大学教授 西岡幸一)

Wikipedia
土光 敏夫1896(明治29年)915 - 1988(昭和63年)84)は昭和時代の日本エンジニア実業家。第4経済団体連合会(以下「経団連」)会長。位階従二位勲一等勲一等旭日桐花大綬章勲一等旭日大綬章勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民。次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。

経歴[編集]

1896(明治29年)915日、岡山県御野郡大野村(現在の岡山市北区)に肥料仲買商の土光菊次郎・登美夫妻の次男として誕生。母の登美は日蓮宗に深く帰依した女性で女子教育の必要性を感じ、1941(昭和16年)にほとんど独力で横浜市鶴見区橘学苑を開校した程の女傑であった。校訓を「正しきものは強くあれ」とし、敏夫は母の気性を強く受け継いだ。
敏夫は関西中学(現・関西高等学校)を卒業後、代用教員をしながら1浪して東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科に入学。同期生には茅誠司武井武などがいた。1920大正9年)に卒業後、東京石川島造船所(現・IHI)に入社。1922(大正11年)、タービン製造技術を学ぶためスイスに留学する。1936(昭和11年)、芝浦製作所(現・東芝)と共同出資による石川島芝浦タービン(現:IHIシバウラ)が設立されると技術部長として出向し、1946(昭和21年)に社長に就任した。この頃その猛烈な働きぶりから「土光タービン」とあだ名される。
1950(昭和25年)、経営の危機に本社[1]に復帰、社長に就任し再建に取り組む。土光は徹底した合理化で経営再建に成功する。1959(昭和34年)、石川島ブラジル造船所を設立。さらに1960(昭和35年)、播磨造船所と合併し石川島播磨重工業に社名を変えた。この間、1959(昭和34年)に造船疑獄に巻き込まれて逮捕・勾留されるも最終的に不起訴処分となる。
1965(昭和40年)、やはり経営難に陥っていた東京芝浦電気(東芝)の再建を依頼され、社長に就任する。ここでも辣腕を振るい、翌年の1966(昭和41年)に再建に成功する。しかし、敏夫のいわば「モーレツ経営[2]」は東芝の体質を変えるまでには至らず、1972(昭和47年)に会長に退いた。
1974(昭和49年)、第4代経団連会長に就任。以後、26年にわたって財界総理として第一次石油ショック後の日本経済の安定化や企業の政治献金の改善などに尽力した。一方で日本経済の一層の自由化と国際化を図り、積極的に海外ミッションを組んで各国に渡航した。
1981(昭和56年)には鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、
1.           は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
2.           増税によらない財政再建の実現。
3.           地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
4.           3Kコメ国鉄健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。
4箇条の申し入れを行い、実現を条件とした。行政改革に執念を燃やして、2年後の1983(昭和58年)に行財政改革答申をまとめ、「増税なき財政再建」「三公社国鉄専売公社電電公社)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務めて、行政改革の先頭に立った。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から、「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」などの異名を奉られた。
1986(昭和61年)11月、勲一等旭日桐花大綬章を受章。1988(昭和63年)84日、老衰のため東京都品川区東大井の東芝中央病院で死去。91歳没。法名は「安国院殿法覚顕正日敏大居士」[3]。墓碑は神奈川県鎌倉市安国論寺日蓮宗)。

「質素な生活」を宣伝[編集]

普段の生活ぶりは感服させられるほど非常に質素であり、決して蓄財家でもなく生活費以外の残りの多額の収入は全て橘学苑に寄付されていた。(2011/9/4 サンデー・フロントラインの「発掘人物秘話」の土光敏夫特集にて述べている。)
行政改革を推進する宣伝として、NHKで『NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫』(1982(昭和57年)723)というテレビ番組が放送された。その内容は敏夫の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたものであった。敏夫の普段の生活として、次のようなものが映し出された。
·                     戦後1回も床屋へ行ったことがなく、自宅で息子にやってもらう。
·                     穴とつぎはぎだらけの帽子。
·                     戦前から50年以上使用しているブラシ。
·                     妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの歯磨き用コップ。
·                     農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
とりわけインパクトが大きかったのは、妻と2人きりで摂る夕食の風景であった。メニューはメザシに菜っ葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。20033月に「アーカイブス特選」としてこの番組が再放送された際ゲスト出演した瀬島龍三によれば、ある行革に関する集会の終了後、会場の出口で浅草六区婦人会連が袋いっぱいのメザシを持って待ち構え、出てきた土光と瀬島に手渡したという。あまりの量で大変な重さだったと瀬島は述懐した。
しかし、メザシについては演出との指摘がなされている。早房長治の『朝日新聞199523号の「にゅうすらうんじ」によれば、実際は故郷の岡山県から送られて来た山海の珍味を使った直子夫人の手料理にもしばしば舌鼓を打っていたとし、「テレビなどの演出に乗ったのは、『質素なリーダー』のイメージを利用して、行革を成功させるためだったと思う」と述べている。早房は好意的にこの件を紹介しているが、土光に批判的な側からは「やらせを認めるのか」と強い反発を受けた。またメザシは高級品で知られる丸赤商店のもので、当時でも500600円したという[要出典]逸話も出所が不明で、イメージを貶めたい批判派から出た創作であった。
経団連会長になってからも通勤には公共のバス・電車を利用していた。石川島播磨社長時代の疑獄事件で土光の捜査を担当した検事によれば、初聴取のため早朝土光宅を訪ね夫人に敏夫の所在を確認したところ、もう出社したという。こんな朝早くにといぶかしむと、「今出たところなのでバス停にいるはずです。呼んできましょうか?」とのこと。すぐさまバス停に向かうと果たして敏夫はバス停でバスを待っていた。この時に検事は彼の無罪を確信したと後に述べている[4]
経団連会長就任後、それまで会長出張の慣例だった「前泊し23日の日程」を全て日帰り出張に変更、地方側からの接待を一切断った。経団連会館のエレベーターも来客用の1基だけを稼動させ残りは停止。高齢ながらも自ら階段を利用して経費削減に努めた。また、夜の会合を廃止する代わりに朝食会を頻繁に開いたため、朝に弱い財界首脳は困り果てたという。
著書や自伝を週刊誌に連載していたことがあるが、いずれも敏夫へのインタビューなどを元にゴーストライターが著したもので、本人が直接筆を取った事は1度もなく、よく「意図と違う事がかかれている」と嘆いていたと、居林次雄(当時の土光の秘書。弁護士富山大学教授)が自著に記している。

語録[編集]

「知恵を出せ、それが出来ぬ者は汗をかけ、それが出来ぬ者は去れ!
但し松下幸之助はこの言葉を批判しており、「あかん、潰れるな」と呟いたといわれている。「『まずは汗を出せ、汗の中から知恵を出せ、それが出来ぬ者は去れ!』と云うべきやね。本当の知恵と言うものは汗から出るものや」と秘書を務めた部下の江口克彦に語っており、敏夫の語録を真似した経営者は失敗し倒産したという。[5]

著書[編集]

·                     『日々に新た - わが人生を語る』 PHP研究所 1995
·                     『土光敏夫信念の言葉』 PHP研究所 1989
·                     『経営の行動指針』 産業能率大学出版部 1987
·                     『土光敏夫は語る - リーダーよ、自ら火の粉をかぶれ』 講談社 1985
·                     『日本への直言』 東京新聞出版局 1984
·                     『日々に新た - わが心を語る』 東洋経済新報社 1984
·                     『私の履歴書』 日本経済新聞社 1983
·                     『土光さん、やろう - 行革は日本を救う(1982年)』 山手書房 1982
·                     80年代の課題(1980年)(講演シリーズ〈389〉)』 内外情勢調査会 1980

論文[編集]

·                     国立情報学研究所収録論文 国立情報学研究所

脚注[編集]

1.           ^ 土光が出向中の1945(昭和20年)、社名が石川島重工業に変更されている。
2.           ^ 就任時の取締役会での挨拶は「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」というものである[要出典]
4.           ^ 若林照光『土光敏夫人望力の研究』 PHP研究所〈PHPビジネス文庫〉(1983) 108
5.           ^ 江口克彦著・成功の法則
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·                     日本経済団体連合会会長
·                     統合前
·                     旧経団連  石川一郎1948-1956 | 石坂泰三1956-1968 | 植村甲午郎1968-1974 | 土光敏夫1974-1980 | 稲山嘉寛1980-1986 |斎藤英四郎1986-1990 | 平岩外四1990-1994 | 豊田章一郎1994-1998 | 今井敬1998-2002
·                     旧日経連  諸井貫一1948-1968 | 三鬼隆1949-1952 | 加藤正人1949-1963 | 桜田武1960-1979 | 大槻文平1979-1987 | 鈴木永二1987-1991 |永野健1991-1995 | 根本二郎1995-1999 | 奥田碩1999-2002
·                     統合後  奥田碩2002-2006 | 御手洗冨士夫2006-2010 | 米倉弘昌2010-


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