文人荷風抄  高橋英夫  2013.9.3.

2013.9.3.  文人荷風抄

著者 高橋英夫 1930年生。文芸評論家。東大独文卒。85年『偉大なる暗闇』で平林たい子賞、10年『母なるもの-近代文学と音楽の場所』で伊藤整文学賞

発行日           2013.4.16. 第1刷発行
発行所           岩波書店

岩波書店の月刊誌『図書』2011.5.2012.9.に連載
これまで荷風の様々な側面が取り上げられてきたが、本書はその中で、自邸で読書と執筆に集中していた「文人荷風」の像を描いてみたもの


文人の曝書
蔵書の虫干し/土用干しが曝書 ⇒ 寺社で行う仏像他収蔵品に風をあてて清める「曝涼」という行事が始まり。正倉院が有名、6年に一度で仏像・経典は7月上旬から8月上旬
荷風が師と仰いだ鷗外の曝書 ⇒ 於菟の『観潮楼始末記』に詳述、1年で最大の行事で、12週間かかって干し、干しながらいろいろな本を読む(実物教育の一環)
鷗外は帝室博物館総長として、正倉院の曝涼に立ち会っている ⇒ 当時は秋の行事
荷風の『虫干』(元の表題は『紅茶の後』) ⇒ 毎年の行事を懐かしく思い出す。父は、大学南校を出てアメリカに留学し、内務官僚を経て日本郵船の上海・横浜支店長を歴任、漢詩人でもあったが、その蔵書に啓発される様子が描写
読書家、蔵書家と並んで、「曝書家」(著者の造語)というのがあるとすれば荷風だろう
荷風の日記『断腸亭日乗』⇒ 作品意識をもって書いていた(下書きをして清書する)。外出の記載が多いが、曝書もその季節にはよく出てくる
宿痾となった病気 ⇒ 30過ぎてたびたび腸を患ったが、それが日記名や号の由来。それ以前に断腸花とは秋海棠の別名、荷風が最も好んだ花であり、最愛の花と宿痾とが表裏一体化しているところに荷風の二重性、多重性が宿っていると想像する
『濹東綺譚』の中にも、「残暑の日盛り蔵書を曝すのと、風のない初冬(はつふゆ)の午後(ひるすぎ)庭の落ち葉を焚()く事とは、わたしが独居(どくきょ)の生涯の最も娯しみとしている処」との記述がある
45.3.大空襲による偏奇館焼亡で曝書は終わる

フランス語の弟子
小堀四郎(洋画家)・杏奴(鷗外次女、作家)夫妻との出会いも42年、杏奴が新著随想集の贈呈ために偏奇館を訪問。小堀を通じて、彼のフランス留学時代の芸術家仲間と知り合うとともに、生活辛労に鬱屈していた荷風のもとにお手伝いとして阿部雪子なる女を紹介
阿部雪子(20年生、酉年?) ⇒ 43.2.偏奇館訪問。以後『日乗』に50回以上登場。文部省国宝調査会で目録作成事務担当。家事手伝いが目的の紹介で来たが、荷風は大掃除の手伝いと蔵書目録作成の話をしたが、食事の世話等をさせた形跡はない。荷風からフランス語の文法を習う。後に出た「異本」では、軒並み雪子に関する記述を圧縮・削除している。荷風は、1016年慶應でフランス文学を教え、佐藤春夫、堀口大学、久保田万太郎、水上瀧太郎等の教え子がいるが、女性の弟子は雪子一人。荷風は自らを「モラリスト」として女に手を出さない人間であることを自称していたと推測
20.3.東京大空襲により偏奇館が焼亡した前後と、雪子が宮城に疎開した間行き来は途絶えるが、戦後荷風が、岡山、熱海、市川を経て東京に戻るとすぐに再開。52年に2人で行徳橋の袂で浅草ロック座の無名の写真家に撮ってもらった写真が遺されているが、荷風が女性と写真を撮ったのは27年に知り合った芸者・関根歌と雪子だけ。その後の2人の関係は、自然の時間の中に消えてゆき、『日乗』からも消え、次に荷風のもとに現れるのは葬儀のとき。荷風の愛人気取りの女が現れる中、ひっそりと誰とも口をきかず、慎ましく焼香をして帰っていった(凌霜著『荷風余話』)
44年年頭に当たり、この両3年食物の事にて忘れがたき人々の名を記すとして
凌霜草廬主人―時々ハム鶏肉をめぐまる、萩の餅ジャム等をもめぐまる
兎屋怙寂子―平生砂糖菓子炭をめぐまる
西銀座おかざきー毎年盆暮の贈物
小堀杏奴―邸内の野菜を贈らる
杵屋五叟(従兄弟)-味噌醤油等折々足りなくなる時もらひに行くところ
鄰組渡部さんー毎日野菜の配給物を持ってきてくれる人なり
[欄外墨書]熱海大洋ホテル主人(木戸正)―洋酒バタ珈琲等進物数へがたし: 「これほど不愉快なる男余60年の間嘗て知らざるところなり」と書いたが、窮乏時代に最も豊富な食料贈与者となっていて、嫌々ながら別枠で扱うほかなかったのだろう
雪子も、来訪の都度何か食べ物を持ってきていたが、このリストには入っていないのは、別扱いだったのではないか

晩年の交遊
相磯凌霜と初めて会ったのは42年、芝の食堂でのこと。古書蒐集の趣味を荷風と共有、写本を借りたのがきっかけだったが、その後も乏しくなる食料の提供を受ける
凌霜(本名勝弥、18931983)は神田一ツ橋の生まれ、中学卒業後アメリカ留学、銀座の商事会社で金物係を勤めた後鉄工所を経営。1617年頃、清元の稽古場で荷風と出会っているが会話はなかった
「パトロン」「後援者」となったが、奥行きが深く、荷風とは多面的な関わりを持っていた
著書『荷風余話』(没後27年経って纏められたもの) ⇒ 荷風は口癖のように「ムダな本を読まなくてはいけない」と言っていた。唯本が好きで目的なく本を読むことがどれくらい大事かを教えてもらった。興味深い実例として挙げたのが2
1人は森銑三(歴史学者、書誌学者)で、あれだけ用のない本を熱心に読む人が本当の学者
もう1人が何代目かの大江丸。泥棒の親分で盗品を有名人の墓に隠しているうちに「掃苔」が趣味になった。無駄なことを続けているうちに何か物事を成し遂げた実例
荷風の「晩年の交遊」を代表する人物だが、交わりの根は遠く深かった
荷風には、内面の混沌、絡まりを打ち明けられる友人がいなかった。青年時代の親友井上唖々は酒で早逝、2代目左團次は江戸文人趣味を頒ち合えたものの劇壇人ゆえに孤独な荷風とは一種の距離もあった。谷崎との交友は長く谷崎の荷風理解も深かったが、少なくとも荷風は己をぶちまけて付き合ってはいない
戦後、荷風が東京に戻ると、2人の関係は新しい段階に入る ⇒ 市川・菅野で従兄の杵屋五叟一家と同居するが三味線稽古の音に難儀していたところへ、凌霜が市川・海神に妾宅を構え、荷風に自由に使わせるが、荷風のその時代の作品に格別のものは感じられない ⇒ 2年で終止符
荷風の対人関係:
江戸中・後期の「先人」「古人」 ⇒ 漢詩人の館柳湾、文人の太田南畝(蜀山人)
明治の先行世代 ⇒ 森鷗外、上田敏、巌谷小波、ラフカディオ・ハーン、幸田露伴、広津柳浪、夏目漱石(時に「翁」)は「先生」
同世代 ⇒ 井上唖々(早逝)、籾山庭後(俳人・出版人)2代目左團次、岡鬼太郎、池田大伍、後に仲違いしたが小山内薫、谷崎潤一郎



文人荷風抄 高橋英夫著 近代文人の内面をめぐる卓見 
日本経済新聞朝刊2013年6月23
 万巻の書を読み千里の道を往く。文人の理想像として昔から言われているが、著者が抱いている近代文人の荷風像は、もちろん、ずっと複雑である。が、ここに見事に描かれている文人荷風の想像的肖像に底流するのは、そういう理想的文人像に感ぜられる。
(岩波書店・2500円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(岩波書店・2500円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 いや、さまざまな要因のせいで挫折を余儀なくされる悲劇的な文人の内面の姿である。「已(や)んぬるかな」という慟哭が、読後、残響として胸にのこる。
 第一の柱は、「文人の曝書(ばくしょ)」。初夏から初秋にかけての蔵書の虫干しのことで、『断腸亭日乗』に年中行事としてくりかえしあらわれる「曝書」の二字は、大掃除と同じ家事の一部でありながら、文人荷風の内面に深くかかわる暗示がこめられている。むかし読んで仕舞い忘れた書物と出会い、思わず読みふけって、遠い回想にひきこまれる。そんな心の動きが、その日の天候、庭の樹木、草花の姿がもたらす雰囲気と溶けあって、ひそかな生の空間を生む。
 その場所が麻布の偏奇館である。その精神的拠点から、しかし荷風は、この道や往く人なくてのような道のかわりに、下町の銀座、吉原遊郭、荒川放水路河口、玉の井、浅草を徘徊し、玄人の女人との情事に耽った。
 これを著者は何と考えているか。文人的自負と落魄に惹かれる衝動との矛盾的自己同一――そんな言葉を著者は使っていないが――とみた。ここから展開する著者の卓見と発見は、第二の柱「フランス語の弟子」と第三の柱「晩年の交遊」にみることができる。
 戦局けわしくなった昭和十八年二月に曝書手伝いのために『断腸亭日乗』に登場するこの女人は阿部雪子という。その起居振舞いにおいて、荷風の潜在意識、つまり「既視感」に訴えた唯一の女人。親交は男女の情事のらち外にあって長つづきし、戦後は、米軍空爆によって焼亡した偏奇館へのノスタルジイの共有において持続した。名作『濹東綺譚』のヒロインの造形動機につながる。が、荷風の文人精神の拠点であった偏奇館はもはや、ない。「晩年の交遊」の輪も消滅した。老残の荷風は偏奇館再建の意志も失う。
(文芸評論家 桶谷秀昭)


評・松山 巖(評論家・作家)
深く荷風の内面に迫る
 荷風が没する前日まで四十二年書き続けた『断腸亭日乗』(以下『日乗』)は、様々な角度から論じられてきた。だが著者は独自の視点を踏まえ、ゆったりした筆致で読解してゆく。
 三章に分かれる。まずは〈文人の曝書〉。曝書とは本の虫干し。かつて蔵書家は夏に蔵書を黴や虫害から防ぐため風に晒し、また傷んだ本を繕った。著者が『日乗』から曝書の記載を拾うと荷風は戦時下であれ、力仕事の曝書をまめに行っていた。では曝書した本は。その折に読んだ和漢の古書は。なぜ彼はその本を選び、どう思ったか。こうして荷風の内面に迫る。
 続く〈フランス語の弟子〉が素晴らしい。
 『日乗』に登場する阿部雪子に著者は着目。昭和十八年、既に開戦後、雪子は荷風の許を初めて訪れ、戦後を含め、およそ五十回も『日乗』に名が残る。だが一方で荷風がフランス語を教えた雪子を隠そうとした痕跡も。岩波版の全集にはあっても以前に自身で手を入れた異本では消した箇所もある。ならどうして。
 その謎に老いた荷風の秘めた思いがあると推測し、雪子の年齢や勤め先を絞り込み、終に彼女の写真まで発掘する。同時に荷風が若い彼女と過ごす一刻をいかに大事にしたか、さらに雪子を『濹東綺譚』などに登場する、つましく細やかな女の像に重ねたと推理する。そして複雑で狷介な荷風の内面に潜む思いを、つまり彼が激動の世ならこそ「世事俗界から超然と離れて、詩歌、文芸、書画に携った」文人として雪子に接した矜持を著者は解明する。
 終章〈晩年の交遊〉は荷風と古書蒐集家相磯(あいそ)(りょう)(そう)との友誼を詳らかにするが、最後に凌霜著『荷風余話』から、荷風の通夜に訪れ静かに去った雪子の姿を描写した一文を引き、著者は筆()く。だから繊細で濃密な連作短篇のような深い余韻が読後に響く。しかしそれ以上に読者は本を読み切るという行為の面白さ深さ凄みを、いわばエッセイの醍醐味を知るだろう。
 たかはし・ひでお=1930年生まれ。文芸評論家。主な著書に『批評の精神』『時空蒼茫』など。

今週の本棚:川本三郎・評 『文人荷風抄』=高橋英夫・著
毎日新聞 20130526日 東京朝刊
 晩年に寄り添った、もう一人のミューズ
 永井荷風への現代人の関心は尽きることがない。
 近年、実に多くの荷風本が書かれ、もう語り尽くされた感があると思われていたが、ここにまた新たに荷風愛惜の好随筆が加わった。
 荷風にはさまざまな特色がある。江戸の流れをくむ花柳小説作家、フランス世紀末文学の香りを持つ詩人、漢文学の素養のある儒教精神を持った雅人、そして東京の町を愛した散策の人。
 本書は荷風を文人ととらえる。文字どおり文の人。現実社会から一歩身を引き、言葉の世界に生きる。読書と執筆に専念する。その読書も荷風の場合、多くは江戸の古書。
 著者は荷風をまず「曝書家」と呼ぶ(著者の造語)。漢籍や和書は書棚に横にして積み重ねる。埃がつもる。また和書には紙魚(しみ)がついたり、黴が生えたりする。そこで夏、土用の頃に本を虫干しする。これが曝書。本を家のあちこちに拡げる。本の大掃除である。
 大仕事だが、愛書家にとってはしばらく見なかった本を取り出して見る楽しみがある。例えば夏目漱石『門』では、主人公の宗助が若い頃、毎年、父親に本の虫干しの手伝いを言い付けられたことを懐かしく思い出している。古くから家にあった『江戸名所図会』や『江戸砂子(すなご)』を取り出して物珍しく眺めたという。
 曝書は過去との再会であり、文人にとっては新たな発見にもなる。荷風はこの曝書を夏の楽しみにした。日記『断腸亭日乗』にはしばしば「曝書」したことが記されている。「虫干」という随筆には「毎年一度の虫干ほど、なつかしいものはない」と書かれている。
 著者はこういう荷風を「曝書家」と呼び、古い本との再会、発見が荷風の執筆活動を豊かにしたと考える。「曝書家」は、やはり曝書を好んだ森鴎外にも通じるという。いわば曝書は文人のたしなみ。
 荷風は東京の町をよく歩き、また、江戸の文人たちの墓を訪ね歩いたが、同時に家のなかでする曝書も毎年欠かさなかった。散策、展墓と曝書。文人の真骨頂である。
 荷風は孤独だった。というより、孤独を愛した。二度の結婚は短期間で終わり、そのあと単身者として生きた。孤独な暮しは文人の清雅と静逸を支えた。
 しかし、老いを自覚した身には独り居はつらくもあったろう。しかも戦時下、物資が窮乏してゆくなかでの老いの暮しである。
 そんな時、一人の若い女性があらわれた。親子ほどに年齢が違う。荷風がこれまで付合ってきた芸者やカフェの女給、私娼のようなくろうと(、、、、)ではない。普通の女性である。
 阿部雪子という。著者は、これまで語られることの少なかったこの女性に着目する。
 『日乗』に阿部雪子がはじめて登場するのは太平洋戦争が厳しくなる昭和十八年二月十四日。「阿部雪子と云ふ女より羊羹を貰ふ」
 この日から戦後の昭和三十一年四月二十二日まで五十回ほど登場する。晩年の荷風に静かに寄り添うこの女性は何者なのか。実は、荷風は彼女との関係を大事にしていたからこそ『日乗』に彼女のことを詳述していないと著者はいう。それだけに謎めいている。
 独り居の不便から荷風は時折り家事を手伝ってくれる女性を探していた。そこで知人から紹介されたのが阿部雪子だった。上野にあった国宝調査会というところで働いていた。知的女性である。はじめて会った時は二十代前半。荷風とは四十歳ほど離れている。
 無論、もう性的な関係はないだろう。そもそも明治人の荷風はくろうと(、、、、)とは遊んでもしろうと(、、、、)には手を出さない。『日乗』では「(余は)女好きなれど処女を犯したることなく又道ならぬ恋をなしたる事なし」と書いている。古風なモラルである。
 阿部雪子とはあくまで精神的なつながりだったろう。だから長く続いた。雪子にフランス語の素養があったことも大きい。荷風にとってフランス語の弟子でもあった。
 昭和二十七年の一日、荷風は雪子と東郊を散策した。その時に撮影された荒川放水路に架かる葛西橋の下に立つ二人の写真が掲載されているが、父娘のような幸せな様子がうかがえる(白いブラウスと長いスカートの雪子は「東京物語」の原節子に似ている)。
 雪子という名は『濹東綺譚』のミューズ、お雪を思い出させる。阿部雪子は晩年の荷風のもう一人のミューズだったのだろう。
 著者がいうように「文人とは本来人間的成熟と結びついたものだった」。成熟、円熟の果てに荷風はもう一人の雪子と出会ったのである。高橋英夫さん、よくぞこの女性に光を当ててくれた!
 晩年の荷風の数少ない年下の友人は、実業家で愛書家の相磯凌霜。荷風を敬し続けた。その相磯が荷風の葬儀の時、一人の慎ましい女性が現れたと書いている。通夜にも葬式にも一人で来てひっそりと帰った。「(その)床しい後姿に、私は思わず眼頭を熱くしてしまった」。阿部雪子だった。 

川本三郎は、『荷風と東京』で、江戸・東京の大散策者としての荷風を書き、新たな関心を盛り上げた(本書「あとがき」)

Wikipedia
永井 荷風187912年)123 - 1959昭和34年)430)は、日本小説家。本名は永井 壮吉(ながい そうきち、旧字体:壯吉)。に金阜山人(きんぷさんじん)・断腸亭主人(だんちょうていしゅじん)ほか。

生涯[編集]

幼年時代〜少年時代[編集]

永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現文京区春日二丁目)に生まれた。父・久一郎はプリンストン大学ボストン大学に留学経験もあるエリートで、内務省衛生局に勤務していた(のちに日本郵船に天下った)。母・恒は、久一郎の師で儒者の鷲津毅堂の二女。
東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)、小石川区小日向台町(現文京区小日向二丁目)に存在した黒田小学校初等科、東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現・東京学芸大学附属竹早小学校)と進み、1891年に神田錦町にあった高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校2年に編入学した。また芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しみ、漢学者・岩渓裳川から漢学を、画家・岡不崩からは日本画を、内閣書記官の岡三橋からは書をそれぞれ学ぶ。

文学への目覚め[編集]

1894年に病気になり一時休学するが、その療養中に『水滸伝』や『八犬伝』『東海道中膝栗毛』などの伝奇小説や江戸戯作文学に読みふけった。彼自身「もしこの事がなかったら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかもしれない」(『十六、七』のころ」岩波文庫より)と書いているように、後の文学活動への充電期間でもあった。また、帝国大学第二病院に入院中に恋心を寄せた看護婦の名・お蓮に因み「荷風」の雅号を用いた(「荷」には植物の「蓮」の意もある)のもこのころである。
中学在学中は、病気による長期療養が元で一年留年し、「幾年間同じ級にいた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のように学業に興味を持つことが出来ない。……わたくしは一人運動場の片隅で丁度その頃覚え始めた漢詩や俳句を考えてばかりいるようになった」(『十六、七のころ』より)とあるように文学活動を始めていたが、軟派と目されて後の元帥寺内寿一らに殴打される事件を引き起こしている。18973月中学を卒業する。同年7月第一高等学校入試に失敗、9月には家族と上海に旅行し、帰国後の1898年、旅行記『上海紀行』を発表。これが現存する荷風の処女作といわれている。
同時期に神田区一ツ橋高等商業学校(現一橋大学東京外国語大学)附属外国語学校清語科に臨時入学した(欠席が過ぎて1899年除籍)。

新進作家として[編集]

1898年、広津柳浪に入門、1899年清の留学生羅蘇山人の紹介で巌谷小波の木曜会に入る。1901年、暁星中学の夜学でフランス語を習い始め、エミール・ゾラの『大地』ほかの英訳を読んで傾倒した。1898年から習作を雑誌に発表し、1902年から翌年にかけ、『野心』、『地獄の花』、『夢の女』、『女優ナナ』を刊行する。特に『地獄の花』は森鴎外に絶賛され、彼の出世作となる。一方、江戸文学の研究のために落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となったり歌舞伎座福地桜痴の門下で狂言作者の見習いをしたのもこのころである。
旺盛な創作活動の一方では、荷風の権力に対する反骨精神も作品に反映することもあった。特に1902年発表の『新任知事』は、叔父の福井県知事阪本釤之助をモデルとしたといわれ、これがもとで釤之助は荷風を絶縁する事件が起こっている。

外遊[編集]

1903年(24歳)、父の意向で実業を学ぶべく渡米、1907年までタコマカラマズーニューヨークワシントンD.C.などにあってフランス語を修める傍ら、日本大使館正金銀行に勤めた。銀行勤めとアメリカに結局なじめず、たっての願いであったフランス行きを父親のコネと力で実現させ、1907年から1908年にかけてフランスに10ヶ月滞在した。リヨンの正金銀行に8か月勤め(当時リヨンは一大金融都市だった)、退職後パリに遊び、モーパッサンら文人の由緒を巡り、上田敏と知り合った。
外遊中の荷風は繁くオペラや演奏会に通い、それが『西洋音楽最近の傾向』『欧州歌劇の現状』などに実った。ヨーロッパのクラシック音楽の現状、知識やリヒャルト・シュトラウスドビュッシーなど近代音楽家を紹介した端緒といわれ、我が国の音楽史に功績を残している。

充実の時代[編集]

1908年(29歳)、『あめりか物語』を発表。1909年の『ふらんす物語』と『歓楽』は風俗壞亂として発売禁止の憂き目にあうが(退廃的な雰囲気や日本への侮蔑的な表現などが嫌われたようである)、夏目漱石からの依頼により東京朝日新聞に『冷笑』が連載され、その他『新帰朝者日記』『深川の唄』などの傑作を発表するなど荷風は新進作家として注目され、鴎外、漱石や小山内薫二代目市川左團次など文化人演劇関係者たちと交友を持った。1910年、森鴎外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となる。
教育者としての荷風はハイカラーにボヘミアンネクタイという洒脱な服装で講義に望んだ。内容は仏語、仏文学評論が主なもので、時間にはきわめて厳格だったが、関係者には「講義は面白かった。しかし雑談はそれ以上に面白かった」と佐藤春夫が評したように好評だった。この講義から水上瀧太郎松本泰小泉信三久保田万太郎などの人材が生まれている。このころの荷風は八面六臂の活躍を見せ、木下杢太郎らのパンの会に参加して谷崎潤一郎を見出したり、訳詩集『珊瑚集』の発表、雑誌『三田文学』を創刊し谷崎や泉鏡花の創作の紹介などを行っている。
また、文学者のパトロン的存在だった西園寺公望にも可愛がられ、西園寺邸で行われた雨聲会に、鴎外、鏡花、島崎藤村大町桂月広津柳浪田山花袋ら先輩の文学者らと参加した。西園寺は父と交際があり、「西園寺公は荷風君を見て『イヤ君のお父さんには、ずゐぶん君のことで泣かれたものだよ』と笑ってゐた」(巌谷小波『私の今昔物語』)という。

私生活の破綻[編集]

華やかな教授職の一方で芸妓との交情を続けたため、私生活は必ずしも安泰でなく周囲との軋轢を繰り返した。1912年、商家の娘と結婚させられたが、1913年に父が没して家督を継いで間もなく離縁している。1914年、新橋の芸妓・八重次(のちの藤蔭静枝)を入籍して、末弟威三郎や親戚との折り合いを悪くした。しかも八重次との生活も、翌年には早くも別居、荷風は京橋区築地(現中央区築地)の借家へ移った。
関係した女性たちについては、自らが『断腸亭日乗1936130日の記事に列記している。
『永井荷風 人と作品4385-86頁によると「父の一周忌が過ぎたころ、八重次との結婚を従兄永井松三に相談したが同意を得られず、これがもとで松三との間が気まずくなった。19165月には末弟の威三郎が東京のある工学博士の三女と結婚したが、この結婚には荷風と戸籍とすること、新居を構へること、結婚式當日荷風を参列させぬことなどの条件付だった(『荷風外傳』による)。ために荷風は威三郎の結婚以後、次弟貞二郎を別として威三郎をはじめ親類縁者との交際も絶った」という。

戯作者として生きる[編集]

1910年の大逆事件の際、荷風は「日本はアメリカの個人尊重もフランスの伝統遵守もなしに上辺の西欧化に専心し、体制派は、逆らう市民を迫害している。ドレフュス事件を糾弾したゾラの勇気がなければ、戯作者に身をおとすしかない」と考えたという(「花火」1919年)。以降は江戸の面影を求めて杖は先哲の墓や遊里に向かい、筆は懐古の随筆や花柳小説の創作に向かい、1915年に江戸の名残を求めた散策を主題とする随筆『日和下駄』を発表。フランス文学に関しても少なからぬ造詣を持ち、アンドレ・ジッドポール・クローデルの原書を読めと、後進に勧めている。
1916年ごろには『三田文学』の運営をめぐって慶應義塾側との間に意見の対立が深刻化し、荷風は大学教授職を辞している。その後は創作に専念する傍ら雑誌『文明』を友人の井上唖々とともに立ち上げ、太田蜀山人寺門静軒 成島柳北などの江戸戯作者や文人の世界に耽溺するようになった。
慶應を辞して間もなく、余丁町の邸内の一隅に戻り住んで「断腸亭」と名付け、1917916日から『断腸亭日乗』を綴り始めた。断腸亭の名は荷風が腸を病んでいた事と秋海棠(別名、断腸花)が好きだった事に由来する。1918年、余丁町の屋敷を売り、築地二丁目に寓居して翌年、麻布市兵衛町一丁目(現港区六本木一丁目)に新築した偏奇館へ移る。外装の「ペンキ」と己の性癖の「偏倚」にかけた命名である。ここでは時折、娼婦や女中を入れることはしたが、妻帯し家族を持つのは創作の妨げと公言し、基本的には一人暮らしだった。
このころ、中期の名作『腕くらべ』、『おかめ笹』などを発表するなど旺盛な創作活動の傍ら、左團次、小山内のほか川尻清潭、岡鬼太郎山崎紫紅池田大伍らと交流をもち、南北物の復活狂言の演出や江戸期の文人墨客の研究を行っている。

新境地開拓[編集]

1926年(47歳)ころから、銀座のカフェーに出入りする。荷風の創作の興味は旧来の芸者から新しい女給や私娼などに移り、1931年『つゆのあとさき』、1934年『ひかげの花』など新境地の作品を作り出す。このころ各出版社から荷風の全集本が発売されたことにより多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、さらなる創作活動を迎える。旺盛な執筆の傍ら寸暇を惜しんで、友人の神代帚葉らと銀座を散策したり、江東区荒川放水路の新開地や浅草の歓楽街、玉の井の私娼街を歩む。そんな成果が実り、1937年、『濹東綺譚』を朝日新聞に連載した。随筆では、下町の散策を主題とした『深川の散歩』『寺じまの記』、『放水路』などの佳作を発表した。
浅草の軽演劇レビューにも進んで見学し、踊り子や劇場関係者と親交を結んだが、特筆すべきは、1938年(昭和13年)に銀座で知った作曲家菅原明朗と歌劇『葛飾情話』を作って浅草オペラ館で上演したことである。日本人の創作による本格的な歌劇上演の試みとして話題を集め、成功に気をよくした荷風は『葛飾情話』の映画化や第二作『浅草交響楽』の案も練っていたが、時局の悪化で中止の止むなきとなった。このときのアルト永井智子が菅原と結婚し、以後荷風と夫婦ぐるみの付き合いになった。

戦乱の中で[編集]

戦争の深まりにつれ、新作の新刊上梓は難しくなったが、荷風は『浮沈』『勲章』『踊子』などの作品や『断腸亭日乗』の執筆を続けた。草稿は複数部筆写して知友に預け、危急に備えている。戦争の影響は容赦なく私生活に悪影響を与え、食料や燃料に事欠くようになる。1945310日払暁の東京大空襲で偏奇館は焼亡、荷風は草稿を抱えて避難したがおびただしい蔵書は灰燼に帰した。
以降、荷風は菅原夫妻を頼って中野区住吉町(現東中野四丁目)から明石市、さらに岡山市を転々とするがそのたびに罹災し、ようよう73日同市巌井三門町(現岡山市北区三門東町)の民家に落ち着く。すでに66歳となっていた荷風は、この倉皇の期にも散策と日記を怠っていないが、度重なる空襲と避難の連続で下痢に悩まされたり、不安神経症の症状が見られなど身体に変調をきたす。同行した永井智子の大島一雄宛の手紙には、「最近はすつかり恐怖病におかかりになり、あのまめだつた方が横のものをたてになさることもなく、まるで子供のようにわからなくなつてしまひ、私達の一人が昼間一寸用事で出かけることがあつても、『困るから出かけないでくれ』と云われるし、食べた食事も忘れて『朝食べたかしら』なぞと、云われる始末です。……」と荷風の状況が生々しく書かれている。
岡山県勝山に疎開していた谷崎潤一郎は、恩人の荷風宛に身の回りの品を郵送するなど、身辺を気遣った。813日荷風は勝山を訪れて谷崎に歓待され、草稿を預けた。翌々日岡山へ戻って「休戦」を知った。荷風は帰心矢の如く、830日、村田武雄が入手した切符で同夫妻と上り列車に乗り翌31日帰京。このあまりにも唐突な荷風の行動に、永井智子は常々帰京する時は3人一緒と約束していたのにと気分を害し、「私達の裏切られた気持ちは心の寂しさは一代の大家をみそこねていた気持ちの悲しさで一杯です」(大島一雄宛の手紙より)とあるように衝撃を与え、以降、智子は荷風に会わなかった。

戦後の復活とその後[編集]

戦後は厳しい住宅事情とインフレによる預貯金封鎖のため、荷風は従弟大島一雄(杵屋五叟)やフランス文学者小西茂也など知人の家に同居を余儀なくされた。一人暮らしに慣れきった彼のライフスタイルは同居人への配慮のないもので、大島の三味線の稽古を妨害したり、硫黄臭のきつい皮膚病治療薬を浴槽に入れたり、縁側から庭へ放尿するなど、とても共同生活ができるものでなく、周囲と悶着を続けた。ために知人相磯凌霜の船橋市海神北一丁目の別荘を書斎代わりにした事もある。
大島一雄の次男永光と1944年に養子縁組をしたが、1947年夏、荷風の『ひとりごと』の草稿を大島の家族が無断で売却した争いがおこり、これが原因で離縁を弁護士に依頼したこともある。
作家活動としては、戦中書き溜めた作品のほか昭和二十年日記の一部を編集した『罹災日録』などを相次いで発表し、戦時中控えていた旧作の再版などで注目を浴びた。このあと、いくつかの新作を出しているが佳作に富むとは言えない。
1948年(69歳)、菅野(現東菅野二丁目)に家を買いようやく落ち着いた環境で生活できるようになる。そんな中で1950年、随筆集『葛飾土産』が出されている。荷風自身も心身ともに余裕ができ、背広に下駄履きで浅草や葛飾の旧跡を散策するようになる。1949年から翌年にかけて、浅草ロック座などで『渡り鳥いつ帰る』『春情鳩の街』などの荷風作の劇が上演され、荷風自身特別出演として舞台に立ち、楽屋では踊り子たちと談笑する姿が新聞に載るなど話題を集めている。

孤老の晩年とその死[編集]

1952年、「温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した」との理由で文化勲章を受章する。翌年日本芸術院会員に選ばれるなど名誉に包まれた。その一方では相変わらず浅草へ通い、フランスやアメリカの映画を繁く見ている。
創作活動は衰えてはいるが、それでもいくつかの短編が書かれたり、旧作の『あぢさゐ』が久保田万太郎の脚色で、新派の花柳章太郎により演じられるなど話題を集めた。1954年、恩師森鴎外の三十三回忌として、団子坂観潮楼跡に荷風揮毫による『沙羅の木』の碑文が建てられた。この時荷風は記念館造営のため五万円寄付している。
1957年(78歳)、市川市八幡町四丁目(現八幡三丁目)に転居、これが彼の終の棲家となる。
195931日、長年通い続けた浅草アリゾナで昼食中、「病魔歩行殆困難」(日乗)となる。その後は自宅に近い食堂大黒屋で食事をとる以外は家に引きこもり、病気に苦しむ荷風を見かねた知人が医者を紹介しても全く取り合わなかったという。そして、430日朝、自宅で遺体で見付かった。胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺と診断された。傍らに置かれたボストンバッグには全財産を常に持ち歩くという習癖の通り、総額2334万円を越える銀行預金の通帳と現金31万円余が入れられていた。
雑司ヶ谷霊園1173番の、父久一郎が設けた墓域に葬られた。なお、故人は吉原の遊女の投込み寺、荒川区南千住二丁目の浄閑寺を好んで訪れ、そこに葬られたいと記していた。宮尾しげをと住職とが発議し、森於菟野田宇太郎小田嶽夫らが実行委員となり、計42人の発起人によって、1963年(昭和38年)518日、遊女らの「新吉原総霊塔」と向かい合わせに、谷口吉郎設計の詩碑と筆塚が建立された。

その他[編集]

·                     偏奇館の跡地は、開発により地形さえ留めていない。
·                     2004年、市川市の市制70周年式典で名誉市民の称号を贈られた。
·                     「著作権は『刊行会』が相続しては」との打診に、養子永光は同意しなかった。永光は、銀座でバー「徧喜舘」を経営していた。なお、荷風の作品の著作権は、201011日に切れている。
·                     枢密顧問官まで務めた叔父の阪本釤之助からは、生涯絶縁されたままだった。釤之助の庶子高見順が従弟と承知していたが、荷風はわざと敬遠した。
·                     詩人としての素質にも優れ、創作詩集『偏奇館吟草』を作ったり、俳句、漢詩も残している。

略年譜[編集]

·                     1879
123 - 東京市小石川区金富町45番地(現文京区春日二丁目)に内務省衛生局事務取扱[14]永井久一郎尾張国(現愛知県出身)、禾原・来青閣主人)、恒(つね)の長男として生まれた。母恒は儒者鷲津毅堂の二女。
·                     1883
25 - 弟貞二郎(三菱銀行に勤めたのちキリスト教の牧師になる。のち鷲津家を継ぐ)出生。荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ、祖母美代に育てられ、非常にかわいがられた。
·                     1884
- 鷲津家から東京女子師範学校附属幼稚園に通園。
·                     1886
- 小石川の実家に戻り、小石川区小日向の黒田小学校初等科に入学。
·                     1887
1118 - 弟威三郎出生(農務省官僚を経て大学教授になる)。
·                     1889
4 - 黒田小学校尋常科第4学年を卒業。
7 - 竹早町の東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学。この年、父久一郎帝国大学書記官から文部省に入省。
·                     1890
- 久一郎が文部大臣芳川顕正の秘書官となり、麹町区(現千代田区)一丁目の官舎に移る。
·                     1891
6 - 久一郎文部省会計局長となり、一家は小石川の本邸に帰る。
9 - 神田一ツ橋高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)第2学年に編入学
·                     1893
11 - 父金富町の邸宅を売却し、一家は麹町区飯田町三丁目(現千代田区飯田橋)の黐(もち)ノ木坂中途の借家に移転。
·                     1894
10 - 麹町区一番町42番地(現千代田区一番町)の借家に移転。
·                     1896
- 荒木竹翁について尺八を稽古し、岩渓裳川について漢詩作法を学ぶ。
·                     1897
2 - 初めて吉原に遊ぶ。
- 中学校を卒業。父久一郎官を辞し、日本郵船会社に入社、上海支店長として赴任。第一高等学校入学試験に失敗。9月から11月まで両親、弟たちと一緒に上海で生活するが、帰国して神田一ツ橋の高等商業学校(現一橋大学附属外国語学校清語科に臨時入学する。
·                     1898
9 - 『簾の月』という作品を携え、広津柳浪に入門。
·                     1899
1 - 落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となり、三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする。秋、寄席出入りが父の知るところとなり、落語家修行を断念。『萬朝報』の懸賞小説に応募入選するなど、習作短編が新聞雑誌に載るようになる。
12 - 外国語学校を第2学年のまま除籍となる。
·                     1900
2 - 久一郎日本郵船会社横浜支店長になる。この年巌谷小波を知りその木曜会のメンバーとなる。歌舞伎座の立作者福地桜痴の門に入り作者見習いとして拍子木を入れる勉強を始めたのもこの年のことである。
·                     1901
4 - 日出国新聞に転じた桜痴とともに入社、雑誌記者となる。
9 - 同社を解雇される。フランス語の初歩を学ぶ。年末ゾラの作を読み感動する。
·                     1902
5 - 家族とともに牛込区大久保余丁町(現・新宿区余丁町)に転居
9 - 『地獄の花』を刊行、ゾライズムの作風を深めた。
·                     1903
9 - 父の勧めで渡米。
·                     1905
6 - ニューヨークに出、翌月からワシントンの日本公使館で働く。
12 - 父の配慮で横浜正金銀行ニューヨーク支店に職を得る。
·                     1907
7 - 父の配慮でフランスの横浜正金銀行リヨン支店に転勤。
·                     1908
3 - 銀行をやめる。2か月ほどパリに遊ぶ。
7 - 神戸に到着。
8 - 『あめりか物語』を博文館より刊行。
·                     1909
3 - 『ふらんす物語』を博文館より刊行したが届出と同時に発売禁止となる。
·                     1910
2 - 慶應義塾大学文学科刷新に際し、森鴎外上田敏の推薦により、教授に就任。
5 - 雑誌『三田文学』を創刊、主宰した
·                     1911
11 - 谷崎潤一郎氏の作品」を『三田文学』に発表。
·                     1912
9 - 本郷湯島の材木商・斎藤政吉の次女ヨネと結婚。
·                     1913
12 - 久一郎死去。
2 - 妻ヨネと離婚。
·                     1914
8 - 市川左団次夫妻の媒酌で、八重次と結婚式を挙げる。実家の親族とは断絶する。
·                     1915
2 - 八重次と離婚。
5 - 京橋区(現中央区築地一丁目の借家に移転。
·                     1916
1 - 浅草旅籠町一丁目13番地の米田方に転居。
3 - 慶應義塾を辞め、『三田文学』から手をひくこととする。余丁町の邸の地所を半分、子爵入江為守に売却し邸を改築。
5 - 大久保余丁町の本邸に帰り、一室を断腸亭と名づけ起居。
8 - 「腕くらべ」を『文明』に連載(〜191710月)
9 - 旅籠町の小家を買い入れ別宅としたが、1か月余りで売却し断腸亭に帰る。
·                     1917
9 - 木挽町九丁目に借家し仮住居とし無用庵と名づける。916 - 日記の執筆を再開(『断腸亭日乗』の始まり)
·                     1918
12 - 大久保余丁町の邸宅を売却し京橋区(現中央区築地二丁目30番地に移転。
·                     1919
12 - 「花火」を『改造』に発表。
·                     1920
5 - 麻布(現港区)市兵衛町一丁目6番地の偏奇館に移転。
·                     1926
8 - 銀座カフェータイガーに通い始める。
·                     1937
4 - 濹東綺譚』(私家版)を刊行。東京・大阪朝日新聞に連載(416日〜615日)
98 - 母恒死去。
·                     1944
3 - 大島一雄(杵屋五叟)の次男永光を養子として迎える。
·                     1945
3 - 東京大空襲で偏奇館焼失。
6 - 明石を経て岡山へ疎開。
8 - 岡山県勝山町に疎開中の谷崎潤一郎を訪問したのち、岡山三門町の武南家に戻り、そこで終戦を知る。
9 - 熱海和田浜の木戸正方に疎開していた杵屋五叟宅に寄寓。
·                     1946
1 - 千葉県市川市菅野258番地(現菅野三丁目)の杵屋五叟の転居先に寄寓。
·                     1947
1 - 市川市菅野の小西茂也方に寄寓。
·                     1948
12 - 市川市菅野1124番地(現東菅野二丁目)に瓦葺18坪の家を買い入れ、移転。
·                     1952
11 - 文化勲章受章。
·                     1954
1 - 日本芸術院会員に選ばれる。
·                     1957
3 - 市川市八幡町四丁目1224番地(現八幡三丁目)に転居。
·                     1959
430 - 死去。死因は胃潰瘍の吐血による窒息死(『荷風外傳』)。

家族・親族[編集]

永井家[編集]

永井家の祖は、天正12年(1584)の長久手の合戦に武功を挙げた永井伝八郎直勝である。鈴木成元『永井直勝』によると、直勝は、長田氏を名のり、徳川家康の嫡男松平信康に仕えたが、信康自刃後に家康に仕えることとなり、その命によって「長田を改めて大江氏となり、家号を永井というようになった」という。この大江永井氏の始祖が、直勝の庶子久右衛門正直である。
荷風の弟・永井威三郎の著書『風樹の年輪』は、永井家の系譜を詳細に調べているが、それによると、「慶長十二年丁未(一六〇七)尾張国星崎荘大江永井家の始祖正直は、年廿三歳で牛毛荒井村に居を構えて一家を創立した。早くは知多郡板山村外で育ち、慶長の初めに愛知郡星崎荘本地村に移り、数年の後にこの地に移った」とある。正直は製塩業によって成功し、「巨利を得た」という。
荷風の一族からは、作家高見順、第1回衆議院議員永井松右衛門(12世)、外交官・ロンドン海軍軍縮会議全権永井松三13世)、台湾総督府民政長官・神奈川県知事大島久満次(荷風の叔父)、福井県知事・名古屋市長・枢密顧問官の阪本釤之助、童謡歌手小鳩くるみ等々の名士も出している。
·                     父・久一郎(官僚)
·                     母・つね(儒者鷲津毅堂次女)
·                     弟・貞二郎、威三郎
·                     養子・永光(作家・バー店主)


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