鉞子(えつこ)  内田義雄  2013.9.11.

2013.9.11.  鉞子(えつこ)   世界を魅了した「武士の娘」の生涯

著者  内田義雄 39年長岡市生まれ。県立三条高校から東大文学部西洋史学科卒。62NHK入社。外信部、サイゴン・ニューヨーク特派員、『ニュースセンター9時』編集責任者、スペシャル番組プロデューサーなどを歴任。96年退職

発行日           2013.3.25. 第1刷発行
発行所           講談社

序章      エツ・イナガキ・スギモト
1918.8. 新鋭作家の鬼才で、フィラデルフィアで最有力紙の『イブニング・パブリック・レジャー』のコラム・エッセー欄の編集責任者だったクリストファー・モーレー(18901957)が、モーニングサイド・ハイツ(コロンビア大附近)の鉞子を訪問 ⇒ 同紙に7回にわたって連載されている鉞子のエッセーに感心して来訪
鉞子に半世紀を書くよう強く勧めたのもモーレ―
2027年 コロンビア大で日本語と日本の歴史の特別講義 ⇒ 鉞子が生涯で最も輝いていた頃であり、「教壇に立つ小柄な和服の婦人」として大学界隈で評判
25年 『A Daughter of the Samurai』出版 ⇒ 「数百年続いた封建的日本の娘がいかにして近代的アメリカ人になったか」という謳い文句で、ベストセラーに
モーレーが序文 ⇒ 「著者が愛する日本のために、友人を増やし続けていくだろう。子供が読んでも素晴らしい。うっとりさせるような話がこれほどつまっている童話集はない」
好評を博した後、児童文学者ヘレン・フェリスは少女向けの自伝集『わたしが少女だった頃――自ら語る5人の著名な女性の物語――』を編集し、世界的オペラ歌手エルネスティーネ・シューマン=ハインク、アメリカの彫刻家で婦人参政権運動で活躍したジャネット・スクッダー、ノーベル賞のキュリー夫人、アメリカの福祉活動の先駆者でノーベル平和賞のジェーン・アダムスと並んで鉞子を取り上げている
アインシュタインやタゴールからも賞賛の言葉が寄せられ、太平洋問題調査会のメンバーだった鶴見祐輔が「今アメリカでもっとも読まれている本」として日本にも紹介
通算22年間、2度にわたってアメリカで暮らし、アメリカ人との間に幅広い交流の輪を作る ⇒ 戦後は占領軍の関係者が鉞子の消息を尋ねて会いたがった
フローレンス・ミルズ・ウィルソンの支援 ⇒ 鉞子が38歳で未亡人となって以来、精神的にも、執筆の上でも、恐らく経済的にも、鉞子とその家族を支え続けた。インディアナ州出身。鉞子の16歳年上。1899年鉞子と会う

第1章        幕末維新に翻弄される父と娘
鉞子の名前は、長男のあと5人も女が続き、男の子を期待していて裏切られた父親が、まさかり()のように強い娘にしたいと考えてつけられたという
1872年長岡市で、旧長岡藩筆頭家老稲垣平助の娘として誕生。28女の6女。戊辰戦争で城内の屋敷は焼失、骨董品を手放して生活の糧としていた
生まれつきの縮れ毛で、嫁の貰い手がないと言われたほかに、蛤御門の変で焼け落ちた東本願寺再建のために、特に浄土真宗への信仰が篤い長岡では女性たちが競って長い髪を寄進したが、鉞子にはそれが出来なかった
生まれたときにへその緒が数珠のように巻き付いて、そういう子は仏様の覚えがめでたく、尼となるべき定めを受けたものと信じられており、尼として育てられる可能性もあった
稲垣家菩提の住職で「越後の今釈迦」と褒め称えられていた大道長安に鉞子の教育を任せ、「武士の教育」を受けさせた ⇒ 長安は後にキリスト教も取り入れ「救世(ぐぜ)教」を唱え仏教から破門された
長安の稽古中、姿勢が若干乱れたのを指摘され、部屋に引き取れと宣告されたことにひどく傷つき、「あの時のことを思い出すと今も傷の痛みが心を刺す」と書いたくだりは、ルース・ベネディクトが『菊と刀』(1946)の中でも取り上げ、伝統的な娘の教育は、親の権力や体罰によってではなく、娘がいずれ親のやって欲しいことを納得して実践するだろうという「平静の揺るぎなき期待」によってなされている、と述べているが、その例証として、極端だとは断りながらもこの文章を引用
鉞子の父稲垣平助は、維新後は在野で武家の商法に出て失敗を重ね、借財が累積 ⇒ 機(はた)業、養蚕業、旅館業、印刷業をやって病に倒れ、85年死亡。幕末以来の日記を『誌禄』として残し、戊辰戦争100周年で見直されることに
長岡藩74千石の藩主牧野家は、三河以来の徳川譜代。豊かな米の集散地であり、信濃川河口の湊は日本海交易の要衝として藩の重要な収入源だったが、冬の豪雪対策や治水対策で藩は恒常的な財政難に直面。京都所司代や老中就任に伴う出費も多額
筆頭家老が稲垣平助。稲垣家は三河の出、家康公に仕え、牧野家の後見人として長岡に乗り込む
河合継之助は、稲垣の9つ上、陽明学に熱中し、諸国漫遊後、藩主が老中を命ぜられた際公用人として仕える。時代の動向に沿った藩政の改革を直言し藩主から重用され、あくまで「お家大事に藩の安泰維持」を主張する稲垣と衝突
戊辰戦争の勃発で、朝廷に恭順して徳川家と長岡藩の安泰を図るべきとする稲垣は、朝廷に恭順するのは大義に反するとする河合等の主流派と真っ向衝突。河合はプロシアから船と武器を購入して主戦論を実践

第2章        戊辰戦争と明治の稲垣家
河合の主戦論が通って、稲垣は閑職に。河合は、朝廷軍総督府と交渉、一致団結すべきと説き、参謀だった山縣有朋が手記に河合の「嘆願書」の全文を載せて「もっともだ」と評したが、それはずっと後のこと
長岡落城を受けて稲垣は病をおして朝廷に「懇願書」を出し、藩の存続に動く
越後の北越戦争は、戊辰戦争の中でも最も凄惨な戦いとなり、長岡の町の85%が灰燼に帰す。河合も戦死、享年41.稲垣は一時長岡地方民生局に出仕
主家再興を願って江戸に出て、たまたま以前面識のあった薩摩藩の吉井幸輔を訪問、その場で大久保一蔵(利通)に面会がかない、善処の約束を取り付ける ⇒ この際、裏で動いてくれたと推測されるのが、稲垣の実母で、若くして主人が毒殺されたために実家に戻され、のち薩摩島津家の姫君に仕えて江戸にいた菊。鉞子も『武士の娘』の中で「江戸のお祖母さま」と呼んだ人で、同じ縮れ毛だったこともあって鉞子を可愛がり、毎年お盆になると高価な贈り物をしてきた
「主家再興」が認められ、24千石と城が戻ってくるが、藩知事となった藩主は稲垣を許さず
藩主も、藩財政を立て直すに至らず、廃藩置県を前に廃藩を申請、柏崎県に吸収されてしまう ⇒ 塗炭の苦しみの中にあって、河合等に対する庶民の非難の声が高まり、新政府は河合等関係者のお家断絶とした。稲垣は新政府に仕えず、野に下る決意
明治の教育の中で、「主君」に殉じた河合等の再評価が次第に進み、お家も再興される一方、稲垣家は、「裏切り者」「異端者」と呼ばれ稲垣の事跡は封印されていく

第3章        婚約、そして東京へ
鉞子の兄平十郎(明治になって「央(なかば)」と改名)は、息子に期待した父の奔走で慶應義塾に入るが1年で退学、下士官服役後、騙されて渡米、路頭に迷っていたところで鉞子の夫となる杉本松雄と出会い、その元で働く
杉本は、京都の魚問屋の2男、幼少で父を亡くし、20歳で渡米、サンフランシスコで貿易会社を経営していた
1年後に帰国した兄が家督を相続し、鉞子の承諾もなしに杉本との婚約を仕組む
87年 鉞子は英語の勉強のために上京、華族女学校に入学、海岸女学校(アメリカのプロテスタントのメソジスト教会の婦人伝道会が77年築地の外国人居留区に設立した学校で、後の青山女学院、青山学院の前身)に転校
父が東京から持ち帰っていた『ウィルソン読本』(当時世界で最も普及していた英語の教科書)などで英語に触れていた鉞子には戸惑いはなかった
在学中にキリスト教の洗礼を受ける ⇒ 人生の重要な転機の1つ。「精神の自然の発達に伴って起こったこと」と自らその動機を述懐。他人の意見に寛容であった父から学んでいた母は、新しい宗教に対する偏見はなく受洗を承諾

第4章        空白の5年間
89年海岸女学校全科修了、93年東京英和女学校普通本科(海岸女学校の上級クラス)卒業
給費生として全額奨学金を受けた見返りに、卒業後の5年働く義務が賦課され、鉞子は浅草デー・スクール、美以美(みいみ:Methodist Episcopal Mission、地元では「みんみん学校」と呼ばれた)小学校というメソジスト監督教会婦人伝道会が86年に設立した
ちょうど同じ頃、同年生まれの樋口一葉が浅草の下谷龍泉寺に越してきて雑貨駄菓子の店を開く。浅草の子どもたちを主人公に描いた『たけくらべ』は当時の体験から生まれたが、鉞子も1年生の担任として同じ子供たちを教えて、慕われていたという
浅草寺や吉原があってキリスト教にとっては「異教徒の砦」だった浅草での鉞子の精神的支えになったのは、会ったこともなかった「お江戸のお祖母さま(菊、雅号「春泉」)のお墓が同じ町内の日蓮宗慶印寺にあったこと
90年の教育勅語公布、91年内村鑑三の教育勅語に対する礼拝拒否事件を機にミッション・スクールへの風当たりが強くなり、通う生徒数も激減
キリスト教伝道の中での大きな課題は「禁酒運動」 ⇒ 最後の奉仕活動として参加
98年 渡米 ⇒ 外国旅券申請理由は、結婚ではなく「宗教学研究」

第5章        アメリカへの旅立ち
夫はシンシアンティで日本の工芸品や雑貨を扱う店を持ち、繁盛していた
オーベッド・ウィルソン夫妻の世話になる ⇒ オーベッド・ジュニアは教科書出版事業で財を成し、当時は72歳で一線から引退し、慈善活動家として地域の尊敬を集める。妻のアマンダ・ランドラムも地元の教師で、夫妻そろって敬虔なメソジスト派の信者。夫妻は87年に日本を訪問、ミッション・スクールも参観。その時鉞子の生涯の友となる夫妻の姪フローレンスも同行
98年 ウィルソン家で結婚式を挙げ、間もなくフローレンスが未亡人だった母と住む郊外の家に同居 ⇒ 訪日後日本に興味を持って勉強していたフローレンスにとって、鉞子は理想の日本女性に見え、鉞子の毎日を支える

第6章        フローレンス・ウィルソン
1856年インディアナ州生まれ。父はルイヴィルとオハイオ川を隔てた反対岸のニューオールバニーで弁護士。南北戦争では、経済的に南部に依存するために大勢は民主党支持で、父は少数派だったが、大統領選挙での論功行賞で郵便局長に任命され、戦後も街の有力者として活躍
フローレンスは、町のデポー・カレッジ(インディアナポリスの大学とは別、アメリカの独立戦争にフランスから義勇軍として参加、そのままインディアナ州に移住したデポーが創立)を卒業
1902年 日本に住んでみたいとのフローレンスの希望を入れて、鉞子も娘を連れて1年ほど長岡に滞在。フローレンスは2年ホームステイし、長岡中で英語を教える
この時鉞子は久しぶりに帰った故郷についてエッセー『桜の花咲く季節、日本の休日』を書き長岡からアメリカの新聞『ブルックリン・デーリー・イーグル』に投稿 ⇒ この時鉞子はフローレンスに英語の添削をしてもらっており、文筆にかける2人の信頼関係が始まった

第7章        帰国
鉞子の兄・央は8999年在米で、ボーア戦争にもアメリカの水平(下働き?)として従軍
日露戦争で高まったアメリカの日本熱は、戦後の日本の軍事力増強、大陸進出で急速に冷え込み、日本人移民排斥の動きが活発化、杉本の商売も先細りとなり1908年破産、家族が一時帰国している間に、1910年夫が急性盲腸炎で死去、アメリカでの生活をたたみ、東京で母を呼び寄せて暮らす。キリスト教婦人矯風会で英語の仕事を手伝ったり、クエーカーの普連土女学校で英語を教えたりして家計を遣り繰りした
フローレンスが、臨終の夫から頼まれたと言って、面倒を見に来て一緒に過ごす
アメリカで伸び伸びと育った娘にアメリカの高等教育を受けさせるために、長女を養女にとって家督を継がせようとする京都の夫の実家を説得して再びアメリカへ ⇒ 『武士の娘』は、ここで終わる

第8章        賞賛された「不屈の精神」
16年 シンシナティに戻る
18年 ニューヨークに移住 ⇒ 長女がバーナード・カレッジに合格したため。コロンビア大の併設校でセヴン・シスターズの1つ。モーニンサイド・ハイツに住む
長女はジャーナリズム学科を専攻(1912年にピューリッツアーの寄附金で出来たコース)
鉞子が新聞や雑誌にエッセーを投稿し始め、モーレーの目に留まり、モーレーが自ら主宰する「電気椅子クラブ」の会員に招き入れ、アメリカ有数の作家、詩人、芸術家、ジャーナリスト、資産家たちと知り合う機会を提供
20年 長女花野結婚 ⇒ 相手は神戸の紡績業を営む資産家の長男で、コロンビア大に留学していた小寺敬一。帰国後は関西学院教授(経営学、貿易論)
20年 コロンビア大の公開講座で日本語と日本史の講師に ⇒ 7年間続く。ルース・ベネディクトが入学してきたのは翌21
23.12.24.12. 『武士の娘』の骨格となるエッセーを月刊誌『アジア』に連載 ⇒ モーレーの紹介を受けて、手直しの後25年出版。8万部のベストセラーとなる
戦争景気で未曽有鵜の繁栄を享受したアメリカ、一方で大量の戦死傷者を出し、アメリカ的理想主義への幻滅等がないまぜになった時代、他のベストセラーではスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』、ヘミングウェイの『日はまた昇る』、セオドア・ドライザーの『アメリカの悲劇』等で、共通しているのが第1次大戦時に青春を送った若者が、戦後の繁栄にも自由の享受にも馴染めず、生きる意味を失って人生に挫折している姿を描いていること
鉞子の『武士の娘』は、「読む人に喜びを与える自伝」「現代に生きる武士道」と賞賛
モーレーも、「彼女が生きた時代の歴史が正しく語られた本」と指摘 ⇒ アメリカの偉大な作家ウォルト・ホイットマン「歴史が正しく語られさえすれば、作り話の小説など何の役にも立たなくなる」(これを読まなくてはアメリカを理解できないアメリカの根源的作品と言われる『草の葉』の序文にある言葉)
エリザ・ルーアマー・シドモア(18561928) ⇒ アイオワ州生まれの紀行作家。『アラスカ紀行』で注目され、全米地理学協会初の女性理事。しばしば日本各地を訪れ、新渡戸稲造とは終生懇意。ポトマックの桜の植樹運動ではタフト大統領夫人に協力。米議会の排日移民法に抗議してスイスに移住。世界融和に貢献する日本人の民族性に注目、「既に地球の美術工房となっている日本は、スイス以上に世界融和の天職を持っている」と予言し、日本の活躍に期待。特に彼女が感銘を受けたのは、日本のロシア人捕虜に対する「謙虚で慈悲深い温情溢れる扱い」

第9章        協力者の死と戦争への道
27年 一時帰国
28年 次女千代野結婚 ⇒ 福澤諭吉の三女の子の清岡暎一。コーネル大留学後、慶應予科の英語教師。結婚後コロンビアで鉞子の講座を引き継ぐ
帰国して鉞子が驚いたのは、日本の変わり様で、特に懸念したのは日本人の拝金主義や無知からくる外国かぶれ ⇒ 第2作『成金の娘』を書く
32年 フローレンスが在日中に心臓発作で死去 ⇒ 『武士の娘』の実質共著者として名前を出そうとしたが、決して認めようとしなかったことは、没後7年経って、鉞子が羽仁もと子の発刊した雑誌『婦人之友』に載ったアメリカ人との交友を記した『武士の娘の見たアメリカ』の中で明かされた
35年 『農夫の娘』出版 ⇒ フローレンス・ウィルソンから紹介されたもう1人のフローレンス・ウェルズに英語を直してもらい、巻頭に謝辞を掲げたが、ウェルズから共著とするよう示唆されていたものの顕示欲の強い人だったようでダブルディ出版は無視して単独で刊行。後の2作は第1作ほどには評判にはならなかった
40年 『お鏡お祖母様』出版 ⇒ 南青山の借家で、地方から状況した召集兵を10間ほど世話した体験をもとに、老境を迎えた「武士の娘」から見た戦時下の日本の庶民の生活と家族を描き、非線の想いを込める。『武士の娘』続編とも言えるもの ⇒ 同年『婦人之友』に鉞子の本として初の邦訳が載り、実業之日本社から単行本として出版。米国でも大きな反響を呼び、『誰がために鐘は鳴る』『怒りの葡萄』と共に40年夏季のベスト・セラーズの1つとなる

第10章     鉞子が遺したこと
43年 『武士の娘』邦訳出版 ⇒ 『婦人之友』の翻訳者大岩美代の強い勧めで踏み切り、出版の引き受け手がいなかったが、予てより小説を高く評価していた阿部知二の伝手で、阿部の序文を載せて刊行
刊行後、鉞子は悪性の気管支炎となり、神戸の花野の一家と暮らす
『菊と刀』への影響 ⇒ 「相矛盾する日本人の性格」論は、半世紀前のシドモアと同じ。結論の「子どもは学ぶ」では、鉞子の『武士の娘』を根拠に論じ、多々引用している。ベネディクトの言う、日本人の「錆におかされやすい内なる刀」「自己責任」の美徳に期待するという指摘は、鉞子が書いた「期待される日本人像」の本質にも通じるものがある
終戦の半年後に東京に戻って次女一家と暮らし始めると、鉞子に面会を求めるアメリカ人がひきもきらなかったという
8軍司令官のロバート・アイケルバーガー将軍夫妻も、オハイオ出身で、シンシナティ時代の想い出話を語り合った
47年 モーレーの尽力により、『武士の娘』がダブルディから再出版
50年 イギリスでも『武士の娘』が再版されたのを聞いて、末期癌で死去
青山墓地に、フローレンスと共に眠る

終章      黒船(The Black Ship)
55年 鉞子の孫で24歳の、花野の長女小寺郁子がシンシナティを訪問、大歓待を受ける
『武士の娘』の終章を「黒船」としている ⇒ 鉞子がアメリカで暮らして知ることが出来たのは「西洋も東洋も人情(こころ)に変わりない」ということだが、どちらサイドでも大方の人に理解されていないために誤解を生んでいる。鉞子が描いた日本人像の核をなすものは「武士道」と言えなくもないが、その根本は「恥を知る」「廉恥を重んじる」ということ



あとがき
本書のきっかけは、5年程前、会津藩家老の娘大山(旧姓山川)捨松の曾孫に当たる久野明子さんのお宅に伺ったとき。海外に出て人生が変わり日本を変えた幕末明治の群像を描くため25人を選んだが、その中の女性は大山、津田、山田わかの3人だけだったのに久野が不満を表し、杉本鉞子の存在を教えてくれた
戊辰戦争100周年前後から長岡市では長岡藩や戊辰戦争に関する資料や研究が次々に公刊され、鉞子の生い立ちやその時代背景が参考になった


Wikipedia
杉本 鉞子1873(明治6) 6201950(昭和25)620)は、日本の作家。大正末期に出版した英語による著書『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』により、アメリカでの日本人初のベストセラー作家となる。コロンビア大学の初の日本人講師でもある。
1873(明治6年)、越後長岡藩家老稲垣茂光(平助)の六女として新潟県長岡市に生まれる。名前の「鉞」は、まさかりのこと。強い精神を持った武士の娘として育ってほしいという願いから命名された。尼僧になる子として育てられたため、生け花や裁縫といった女子教育のほかに、漢籍も教育された。父の死後、兄の希望により、兄の友人の杉本松雄(松之助)と12歳で婚約。松雄は福沢諭吉に傾倒し、洗礼を受けた商人で、日本の古い商法を嫌い、アメリカ合衆国のシンシナティで日本骨董の店を開いていた。鉞子はメソジスト系のミッション・スクール海岸女学校青山学院の前身)と英和女学院4年間英語を学び、1898(明治31年)、結婚のため渡米した。
アメリカでは、松雄の店の顧客であり、第28大統領ウッドロウ・ウィルソンにもつながる地元の名家でメソジスト派の出版社を経営していたウィルソン家の庇護のもと、新婚生活が順調に始まった。花野と千代野という二人の娘にも恵まれ、平穏に暮らしていたが、夫の事業の失敗のため、12年暮らしたアメリカを離れ、1909年に娘たちを連れて帰国。その直後に夫が盲腸炎で急死。生計を立てるため、1911から日本キリスト教婦人矯風会矢嶋楫子の助手や普連土学園の英語教師として働きはじめた。
1916(大正5年)、孫の躾に厳しかった鉞子の母親が亡くなったのをきっかけに、アメリカでの暮らしを懐かしむ娘たちを連れて再渡米。ニューヨークで暮らしながら、原稿料を目当てに新聞・雑誌に投稿を続けた。作家のクリストファー・モーレーの目に留まり、彼の勧めにより日本の生活を紹介した『武士の娘』を雑誌『アジア』に連載。執筆に当たっては、日本滞在経験のあるウィルソン家の姪、フローレンスの手助けがあり、ピューリタン的な家庭観に基づいて書かれている。フローレンスは、鉞子が新婚時代、ウィルソン家に同居しており、鉞子のアメリカ生活を大いに支えた人物であり、鉞子が娘たちと日本に一時帰国していた際も来日して同居していた。鉞子は『武士の娘』の共著者としてフローレンスの名を入れることを望んだが、排日運動の只中にあったことなどから、フローレンスの希望により名を伏せられた(没後に鉞子が公表)。1920にはコロンビア大学から日本に関する講座を打診された。日本領事館から領事官に譲るよう迫られたため、辞退しようとしたが、フローレンスのアドバイスで引き受けることにし、7年間日本語と日本文化の講座を持ち、着物姿の先生として生徒からも慕われた。
10回に渡って連載された『武士の娘』は、日本という見知らぬ国の文化を知る異国趣味の読み物として、また、"キリスト教を知らないアジアの未開の国の可哀想な(と西洋人が考える)娘がキリスト教西洋文化によって覚醒していく"というアメリカ人好みのストーリーが受け、連載終了後の1925(大正14年)にダブルデー・ドーラン社から出版されて人気を博し、ドイツ語フランス語など7か国語に翻訳された。日本でも1940年代に出版されたが、日本に帰国したときの話を書いた「In Japan Again」の章は翻訳されなかった。
1927(昭和2年)に帰国後も、Etsu Inagaki Sugimotoの名で、『A Daughter of the Narikin(成金の娘)』、『A Daughter of the Nohfu (農夫の娘)』、『Grandmother OKyo (お鏡お祖母さま)』などの英語本をアメリカ向けに出版。一方、アメリカの紹介者として日本語での執筆活動も続け、1940には羽仁もと子の依頼で『婦人之友』に「『武士の娘』が見たアメリカ」を連載。1950(昭和25年)、肝臓がんのため76歳で没。
1959には、福沢諭吉の孫の一人と結婚した次女の清岡千代野による伝記『But the Ships Are Sailing』がアメリカで出版された。1995には新潟テレビで『杉本鉞子の生涯』が制作された。




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