悪党たちの大英帝国  君塚直隆  2024.1.3.

 2024.1.3.  悪党たちの大英帝国

 

著者 君塚直隆 1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(2018年サントリー学芸賞受賞)、『悪党たちの大英帝国』、『ヴィクトリア女王』、『エリザベス女王』、『物語 イギリスの歴史』他多数。

 

発行日           2020.8.25. 発行

発行所          新潮社 (新潮選書)

 

はじめに――「悪党」たちが時代を動かす

l  「偉大さ」は何で決まるか

「偉大さとは、その者の業績の善悪で決まる。たとえそれが欠陥だらけの働きだったとしても、他の何者にも勝る偉業というものがこの世にはある」(19世紀イギリスの文筆家レズリー・スティーヴンが編集した『国民伝記辞典』の冒頭の言葉。イギリスの偉大な人物を列挙、18851900年刊行、全63巻、35,000項目、キリスト教白人男性社会を代表)

非白人や外国人まで網羅したのが『オックスフォード国民伝記辞典』(19922004年、全60巻、54,922人の評伝を収録)

l  歴史は「人間」が作る?

イギリス人は伝記好き。人間である「王」に対して、無形の観念である「国家」に対するよりも、より大きな敬愛の念を抱く。1856年設立の国立肖像画美術館も世界に類を見ない

l  7人の「悪党」たち

「悪党」をキーワードに7人を選ぶ。体制側に位置付けられながら、一様アウトサイダー

 

第1章        ヘンリ8(14911547、在位150947)――「暴君」の真実

l  雷鳴とどろく玉座の暴君?

テューダー王朝(14851603)2代目片理8世は、イギリス史上最も毀誉褒貶相半ばする君主。6人の妻を次々に娶った好色ぶりは語り草。妻2人を含め200人以上の処刑を行わせた残虐性。浪費癖も凄まじいが、それにも拘らず現代人の心を惹きつけるのも事実

l  テューダー王朝の正統性

12世紀半ば、プランタジネット王朝の開祖ヘンリ2世は、イングランド王と同時にフランス西半分も領有、アンジュー帝国を築くが、英仏戦争(13371453)とバラ戦争(145585)により弱小国へと転落。バラ戦争の勝者がヘンリ7世で、ウェールズの田舎貴族がランカスター公爵家の血を引く娘と結婚して生まれたが、父がヨーク家に捕らえられて獄死、ヘンリ7世自身も捕虜となって14年間幽閉されながら、1485年ヨーク家のリチャード3世を破ってテューダー王朝を樹立したものの、家柄や経歴から正統性には疑問

強大な力を持つ議会の支持が不可欠で、王自ら庶民院で即位の正統性を主張、ヨーク家の継承者エリザベスと結婚し、両家の和解を実現するとともに、王権の強化に邁進

l  ヘンリ父子の微妙な関係

同盟国として頼ったのが新興の大国スペイン。イザベル女王の王女ファナがハプスブルク家の御曹司に嫁ぎ、ハプスブルク家への抑えとなる一方、ヘンリ7世は長男のアーサーとイザベルの末娘キャサリンと結婚させるが、アーサーは5カ月後にペストで死去したため、急遽次男のヘンリ8世とキャサリンとの結婚をローマ教皇を金で買収して認めさせる

l  国王即位と大いなる野望

1509年ヘンリ7世死去により8世が即位。英仏戦争の英雄ヘンリ5世を目指し、戦乱の時代にあったヨーロッパで勢力拡大を図り、ネーデルランドとスコットランドに勝利

l  トマス・ウルジー(14751530、聖職者)の登場――国際政治の調整役?

ヘンリ8世はウルジーを顧問官に抜擢、枢機卿で大法官(首相兼最高裁長官)18年には教皇特使に昇格、同年ルターの改革に対抗するためキリスト教諸侯の団結を呼びかけてロンドン条約を締結するが、翌年には神聖ローマ皇帝の崩御による後継者争いで分裂

ヘンリ8世が平和の調整役として動き、スペインのカルロス1世が皇帝(カール5)

l  後継者問題の深刻化――男子継承者への渇望

ヘンリ8世には後継ぎが出来ず、王妃つきの侍女アン・ブーリンに男児が出来たので、ヘンリ8世は王妃との離婚を教皇に申し出るが拒否。ヘンリは腹いせにウルジーを解任

l  「主権国家」のさきがけ?――イングランド国教会の形成

1530年、ヘンリは教皇に対し、王権の教皇からの独立を宣言――ヘンリが理想としたのは、旧約聖書に登場する古代イスラエル王国のダビデ王で、教会と国家の双方を統治下に置く「真の王」を目指し、イングランド国教会を形成し自ら最高首長に就く

l  内憂外患の1530年代

アン・ブーリンと再婚したが男児は出来ず、出来た娘が後のエリザベス1

1536年、ブーリンを姦通の罪で処刑。2人の王妃の侍女ジェーン・シーモアと結婚、待望の男児(後のエドワード6)を授かるが、直後にジェーンは死去

カトリックの教会財産を没収するが、すぐに宗教的な反乱が勃発、教皇は反乱を支援し、ヘンリ8世を正式に破門、ヘンリはドイツのプロテスタント諸侯と手を結ぶ

l  「帝国」の拡大

ヘンリはイングランド防衛のためには海軍力が必要だとして軍艦を建造する一方、強固な要塞を張り巡らせる。ウェールズを力づくで併合、イングランドが教皇庁と袂を分かつことに批判的だったアイルランドもヘンリの「帝国」に編入、スコットランドも国王の急死に乗じて乗っ取ろうとしたが対仏戦争に巻き込まれて2正面作戦となり辛うじて講和

l  王権と議会の協働(パートナーシップ)

ヘンリの後ろ盾になっていたのが議会。ヘンリも統治機構としての議会の存在を尊重し、議会も国王を財政面その他で支えた

l  王の死とその遺産

1547年、ヘンリ8世死去、享年55。息子エドワードに莫大な財産を残す

弱小国イングランドの独立とテューダー王朝の安泰を守ることには成功

ヨーロッパに過度に強大な存在が登場しないよう周辺の国々と牽制するという、後の国際政治にある「勢力均衡」という考え方をイングランド外交の源流と伝統にした

王権と議会の協働を根付かせる契機となったのは、彼の治世下における「宗教改革議会」で、17世紀以降に確立される議会主権の時代の布石ともなった

後を継いだエドワードは6年で死去、そのあと最初の王妃との娘メアリ1世が即位、カトリックに戻るが、その没後はヘンリ8世の次女エリザベス1世が国教会を復活させ、テューダー王朝を引継ぎ、イングランドの独立を守り通す

 

第2章        オリヴァー・クロムウェル(15991658)――清教徒の「独裁者」

l  国中の人心激烈の極点に達して

ステュアート王朝(16031714)の時代の内乱(164249)の結果成立した共和政とこれを統治した護国卿クロムウェルは、死後2年にして王政復古と共に有罪判決を受け、死体は掘り起こされて晒される。「王殺し」という最大のタブーを犯した悪人とされたが、19世紀になって漸く、暴君に対して議会の権利を守り通した「英雄」として賞讃

l  ジェントリに生まれ

イングランドにおける土地所有のあり方を大きく変えたのが、ヘンリ8世の進めた修道院解散で、国王は没収した土地を臣下に分け与え、ジェントリと呼ばれる新たな階級が誕生

ジェントリは2万人、各州の統治を託され、無給の自発的な責務として行政を担う

クロムウェルの家系もジェントリに連なり、オリヴァーはヘンリ8世の寵臣トマス・クロムウェルの玄孫で、幼少の頃から後の国王チャールズ1世と行き来があった

l  ピューリタンとしての強み

イングランドが一旦カトリックになり、また国教会に戻った際、カルヴァン派(長老派)の人々が国教会をプロテスタントに近づけ、「清らかな」宗派にすることを目指し、ピューリタンと呼ばれたが、クロムウェルも熱心なピューリタンで、家は没落しかけていたが、1636年遺産相続を転機として地域の指導的立場にもつき、、庶民院議員にも当選

l  初期ステュアート王朝の議会政治

1603年、ステュアート王朝が途絶えると、遠縁のスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王を兼ね、ジェームズ1世として即位し、ステュアート王朝が始まる

アイルランドも含めた合邦を形成しようとしたが、議会の反対に遭い頓挫する中で1625年死去。跡を継いだのが長男の急逝で皇太子になっていた次男のチャールズ1

対外進出を目論み、戦費を議会に頼ったが拒否され、議会を11年間も閉鎖、関係が悪化

l  クロムウェルの登場

1642年、長老派の支配するスコットランド教会に英国教会を押しつけて宗教改革を強行しようとしたことから、スコットランド国内に反乱が勃発、それを契機に議会が開催されたが、すぐに国王と衝突し内乱へと進展。クロムウェルは議会派として戦闘態勢を指揮

l  「神の摂理」で動く

クロムウェルは「鉄騎隊」と呼ばれる騎兵を率いて国王軍を打破。「神の摂理」によって動かされる指導者クロムウェルが誕生

l  「王殺し」

1646年、チャールズ1世の投降により内乱は終息するが、様々な対立が表面化し、クロムウェルは調整に奔走。翌年には第2次内乱に発展したため、議会の強硬派(独立派)1649年国王の処刑を決め、王政を廃止し共和政に移行

l  完全なる合邦へ――ダビデになったクロムウェル

クロムウェルの次の目標は、スコットランドとアイルランドの征服。住民の8割以上がカトリックのアイルランドではヘンリ8世時代からのアイルランド支配に反対して多数の国教徒を殺害したが、クロムウェルは生涯その時の怒りを忘れず、「神の摂理」に基づき蹂躪、没収した土地をロンドンの商人などに売却、植民地化が一挙に進む

スコットランドは、チャールズ1世の死後、息子のチャールズ2世をグレート・ブリテンの王として戴冠したため、クロムウェルは侵攻を開始。あくまでも戦争を政治の道具と見做し、「国益」を優先したところにクロムウェルの「近代的」な発想が見られる

血みどろの抗争の結果ではあっても、初めて「完全なる合邦」がクロムウェルによって実現

l  ヨーロッパと「帝国」のはざまで

複合国家としての3王国を支配したクロムウェルの次の目的は、外敵から守ること。「王殺し」は、姻戚関係にある周辺国家を震撼させ、「弔い合戦」の口実を与えた

クロムウェルは、プロテスタント外交の立場をとりながらも、宗教よりも国益優先で地政学上の問題に取り組み、カトリックの仏と協定を実現させて世界戦略に乗り出しスペインからジャマイカを獲得、その後の西インド諸島から北アメリカの植民地拡大の足場とする

l  「無冠の帝王」の死

1651年、スコットランドを撃破して凱旋、王以上の権力を掌握、衝突する議会を閉鎖

1422年幼少のヘンリ6世が即位したときに「護国卿」が置かれ、以降3度幼王の時おじたちが就任していたが、1653年クロムウェルは王なきままの「護国卿」に就き自ら統治

1657年、クロムウェルは、議会が権力を縛ろうとして提示した「王位」を拒否しながら、戴冠式を模した「護国卿」就位式を挙行、自身をHighnessと呼ばせた

1658年急逝、国葬で王並みに葬られたが、3男リチャードに引き継がれた護国卿下の共和政は2年足らずで崩壊

 

第3章        ウィリアム3(16501702、在位16891702)――不人気な「外国人王」

l  さまよえるオランダ人?

1689年、清教徒革命で処刑されたチャールズ1世の長女メアリ・ヘンリエッタの長男ウィリアムがイングランド国王として君臨、英議会史上の金字塔「名誉革命」の立役者となるが、国王に就任して以来常に悩まされたのが英国民の「島国根性」

ウィリアムがイングランドに上陸したのは、オランダの国益追及のためで、「名誉革命」は「オランダによる侵略」に過ぎないとされ、ウィリアムは「軍事的暴君」と評価された

オランダでも、国是だった「自由航行、自由貿易」の大原則をウィリアムが放棄、長期的には海上の主導権をイングランドへ渡す原因になり、「売国奴」として評判が悪い

ヴァーグナーの《さまよえるオランダ人》のモデル

l  不遇な少年時代

オランダ(ネーデルラント)は、15世紀までブルゴーニュ公爵。ハプスブルク家による継承の関係で16世紀後半にはスペイン領に編入。北部7州のカルヴァン派がカトリックの異端審問(宗教裁判)に抗議して独立戦争(80年戦争、15681648)を起こし、ウィレム1世が即位。孫のウィレム2世がチャールズ1世の長女メアリと政略結婚、30年戦争(161848)後のウェストファーレン条約によりオランダの独立が認められ総督となる

チャールズ1世の処刑後、ウィレムは義兄チャールズ(2)の即位復活に向け動き出すが、翌年天然痘で急逝。その直後に生まれたのがウィリアム3世。母メアリと姑との確執に付け込んだのが、ウィレムの反英的な動きに反対だった議会で、英蘭戦争の講和条約にオランイェ家を総督から排除する条項を入れさせ、ウィレムを権力の中枢から追い出す

その後、イギリスでチャールズ2世が即位すると風向きが変わり、ウィレムの総督就任の道が開け、カルヴァン派の教育を受け議会とも妥協、1668年総督に就任

l  ルイ14世との対決――国際政治の檜舞台へ

フランスが保護貿易を主張してオランダとの間に通商戦争が始まると、オランダの同盟国だったイングランドがフランスとドーヴァー密約(1670)を結んでオランダに宣戦布告

孤立したオランダを立て直したのがウィリアム(ウィレム)。外交交渉でハプスブルク家をフランスから引き離し、その支援を得てフランス軍をオランダ領内から駆逐

l  イングランドとの縁組み

1677年、ウィレムはチャールズ2世の姪(弟ジェームズの娘)メアリと政略結婚、大柄で陽気なメアリは小柄で醜男で陰気なウィレムとの結婚で泣く泣くオランダへ

l  王位継承排除危機――名誉革命への道

チャールズ2世には嫡子が出来ず、弟のジェームズが王位継承第1号となっていたため、カトリックを公言していたジェームズを嫌った議会が王位継承者から排除しようと動き、チャールズは議会を閉鎖、排除派は議会再開を求めて「ホイッグ」と呼ばれ、反対派は「トーリ」と呼ばれて、それぞれが党派として徐々に成長していく

1685年、チャールズ2世崩御、ジェームズ2世即位。ウィレム妃のメアリが王位継承者第1号になるが、カトリック化を強行するジェームズ2世と後妻の間に男児が誕生したため、カトリックの王が続くことを嫌った有力政治家(不滅の7)がウィレムを頼る

l  立憲君主制の確立――ウィレム夫妻の即位

1688年、ウィリアムは議会の支援を受け、大軍を率いてイギリスに上陸、ジェームズは戦わずしてフランスに亡命、無血の「名誉革命」が成功。ウィリアムとメアリ(2)が共同統治の形で王位に就く。戴冠式では従来の「イングランド諸王により与えられた法と慣習をイングランド人民に与えることを確認する」という文言から、「議会の同意により制定された法と、同様に定められた法と慣習に基づき、イングランド人民を統治する」と改められ、「君主が法の創造者である」という従来の考え方を放棄した象徴的な出来事となった

1689年制定の「権利章典」では、君主制の存続と、議会による国王大権の制限を規定

l  3王国の王に――「複合国家ブリテン」の複雑さ

カトリックのアイルランドは、亡命したジェームズの呼びかけに応えて反革命の狼煙を上げたが、ウィリアムによって征服され、ジェームズは二度と故国に戻ることはなかった

スコットランドでも、ジェームズの支持者が反乱に立ち上がったが鎮圧

ウィリアムは合邦を狙うが、議会の反対にあって挫折

l  勢力均衡論の導入――「島国根性」との戦い

ステュアート王朝以来イングランドは、自国の安全だけを期して2国間条約に基づく「相互保障」で満足し、ヨーロッパ国際政治の危機を対岸の火事として傍観していたが、ライン川までの領土拡張を狙うルイ14世の動きに対し、ウィリアムは「勢力均衡」という考え方に基づく「集団安全保障」に動く。1697年フランスとの間に講和条約が締結され、漸くルイもウィリアムをイングランド王として認めるが、イギリス議会の島国根性は復活

1702年、ウィリアムは急逝するが、対仏同盟は存続し、フランスは苦境に立たされ、イングランド王はヨーロッパ国際政治の立役者の一角を担う大国への道を歩み出す

l  継承の道筋――王位継承法の制定

ウィリアムには世継ぎが出来ず、メアリも1694年天然痘で早逝(享年32)したため、議会と協議して王位継承法を制定(1701)、カトリック教徒を王位から排除、その結果、メアリの妹アン女王(在位170214、デンマーク・ノルウェー王の次男に嫁ぐ)が即位し、そのあとはジェームズ1世の長女エリザベスの子孫にあたるハノーファー選帝侯妃とその一族に王位が継承されるとされた

l  人気のない「救世主」

ウィリアムは、イングランドでは「オランダ人」と言われ、スコットランドやアイルランドでは「イングランド王」と嫌われ、故国オランダでは「イングランドかぶれ」と蔑まれ、急逝後は急速に忘れ去られたが、彼こそは各国にとって救世主であり、ルイ14世の野望を挫いたのも、イングランドに議会主権の確固たる立憲君主制を築いたのもウィリアムの功績

l  財政=軍事国家の基礎を築く

ウィリアムの功績として重要なのは、イングランドに「戦争遂行装置」ともいうべきものを生み出したこと――ナポレオン時代の「長い18世紀(16881815)=第2次英仏100年戦争」に起こった6回の大戦争で、常に対峙したのがイギリスとフランスであり、最終的な勝利者はイギリスで、それを支えたのが「カネ」であり、「地主貴族階級」によって構成された議会が提供。税金で賄いきれない分は国債を発行、こうしたシステムを作ったのもウィリアムで、イングランド銀行を創設(1694)。彼を助けたのが造幣局長だったアイザック・ニュートンであり、ジョン・ロック

 

第4章  ジョージ3((17381820、在位17601820)――アメリカを失った「愛国王」

l  王冠をかぶった悪党?

「頑迷で不機嫌なファラオ」「高貴なる野獣」と呼ばれるジョージ3世は頗る評判が悪い

歴史学の主流はジョージ3世を「悪王」と捉えるが、政治的な重要性を捉える新たな見解も出て来ている――議会政治を混乱に陥れ、アメリカの独立を許した「愚王」だったのか、あるいは立憲君主制を根付かせた「名君」だったのか

l  ハノーヴァー王朝と議院内閣制の形成―ジョージ1世・2世の時代

1707年、イングランドとスコットランドが「グレート・ブリテン連合王国」を設立

1714年、アン女王崩御の跡を継いだのが長子ジョージ1世で、ハノーヴァー王朝を樹立するが、ドイツ北部のハノーファー選帝侯のままイギリス政治には無関心だったため、イギリス国内ではホイッグの政治家たちにより「議院内閣制/責任内閣制」が確立されていく

1727年、ジョージ2世が即位してからも政党政治は続く

l  「愛国王」の登場

1751年、ジョージ2世の皇太子急逝(享年44)が、ジョージ3世にとって最初の不幸

l  即位後の大混乱

1760年、ジョージ2世の崩御、孫のジョージ3世が22歳で即位。戦争遂行を巡って議会と国王が対立、議会内も党派対立で混乱、国王と首相との関係も悪化

l  「愛国王」の孤立とアメリカの独立

1760年代末頃から、選挙権拡大→議会改革への声が高まる

北米ではフレンチ・インディアン戦争に勝利したものの多額の負債を抱え、北米植民地の防衛費を捻出すべく、植民地に砂糖税、印紙税などを賦課したため、植民地側が反発して、アメリカ独立戦争に突入、1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立承認。敗因は仏西蘭が相次いでイギリスに宣戦布告し、イギリスがヨーロッパ国際政治の中で孤立したこと

l  ジョージ3世の「敗因」

ジョージ3世の不人気が戦争の原因でもあったが、不屈の精神力と軍事の才能を活かしたフリードリヒ大王のような叡智に恵まれていなかったのは事実。ハノーファーに隠遁することも考えたが、前例がなく周囲から止められた

l  「悪党」ジョージとピット政権の確立

ジョージ3世が大ピットの次男を首相にしてバックアップしたことから漸く長期政権が誕生、負債を償還し海軍を再建、10年で軍事大国として復活

l  殿ご乱心!――摂政制危機という悲喜劇

1788年、ジョージ3世の言動が突如破綻、後にポルフィリン症と判明するが、摂政を置こうにも皇太子や王の兄弟たちはろくでなしばかりで揉めたが、4カ月ほどで恢復

l  頑迷な国王と改革の頓挫

1789年、フランス革命勃発、92年に王政が廃止され、ルイ16世が処刑されるに及んで、ピット首相の提唱で対仏大同盟が結成され革命に介入。イギリス史上初の所得税が導入され戦費に充当されたが、選挙権拡大などの議会改革や、議員を含む国家要職のカトリック教徒への開放などの改革は国王が拒否。ピットは政権を投げ出す

l  病気の再発と摂政制への移行

1804年、ナポレオンの皇帝就任で、第3次対仏大同盟が結成されるが、陸上では仏軍に敗北、大陸封鎖令によりイギリスは孤立

1810年、ジョージ3世即位50周年を祝った直後、末娘死去もあって病気が再発、皇太子が摂政に就任。放蕩ぶりは変わらなかったが、ナポレオンの挫折とともに、外交に手腕を発揮、列国をロンドンに集めて大戦勝祝賀会を開催

l  「愛国王」の死と立憲君主制の確立

1820年、崩御。ハノーヴァー王朝の3人の王はいずれも英傑ではなかったが、「戦争遂行装置」のお陰でイギリスは「財政=軍事国家」として抜きん出た存在になっていった

3人のうち唯一英国に留まったが、愛したのはイングランドで、スコットランドやアイルランドも訪れたことがなかったにもかかわらず、生涯を国民のために捧げ、「農夫ジョージ」の愛称で「人民の父」とも呼ばれ、英国民が本当に自分達の「王」と思える君主になった

ジョージ3世の徳行は、19世紀半ばイギリス人が「君主を道徳の指導者」として考えるようになったことと軌を一にし、有()徳の君主を戴くのが当然と考えるようになった

跡を継いだジョージ4世は「放蕩王」と呼ばれ君主制への信頼が崩壊寸前となったが、その弟のウィリアム4世で信頼は回復、さらにヴィクトリア女王の誕生で君主制が磐石に

選挙法改正やカトリック解放といった改革には旧弊な態度を示したり、病気のため摂政が置かれたりしたが、国民生活に継続性と安定性をもたらし、国民から愛され、国民統合にとっての象徴的な存在として、「立憲君主の理想像」となった

 

第5章        3代パーマストン子爵(17841865)――「砲艦外交」のポピュリスト

l  軽佻浮薄なポピュリスト

マルクスのパーマストン評: 何でもやれる優れた政治家ではないが、何でもやれる上手な役者だが、好みからいえば茶番劇がいちばん性にあっている

1840年、アヘン戦争開始時の外相、第2次では首相――極悪非道とまで糾弾され、内閣非難決議が可決されたが、王権に対しては議会の権利を、議会に対しては国王の大権を、人民に対しては両者の特権を振りかざして、内閣無答責を貫き通す

右はメッテルニヒから左のマルクスまで、国内にあっても議会内の左右両派はもとより、ヴィクトリア女王からも攻撃を受けながら、ヨーロッパ政治を支配した偉大な政治家

l  アイルランド貴族の家に生まれ

本名ヘンリ・ジョン・テンプル。11世紀にまで遡る名家だが中小貴族の部類。それ故に合邦後は、ピットの長期政権のお陰で力を強めていた庶民院議員となることができた

l  混迷の時代の陸軍事務長官職

1807年、庶民院議員となり、海軍卿(次官)で頭角を現し、09年には陸軍事務長官に

閣内大臣となるが、カトリック解放に否定的な政権が続いたために辞任、その後トーリ党が解放賛成に舵を切ったため、長年の「トーリ優越」時代に陰りが見え始める

l  外相就任とロンドン会議の掌握

1830年、フランスの7月王政でルイ・フィリップが自由主義的な政権を打ち立てると、脅威を感じた露墺普の北方3列強がベルギーの独立戦争を巡って対立、3列強に英仏を加えた5大国によるロンドン会議が開催されるが、それを仕切ったのが外相就任直後のパーマストンで、ベルギーの独立を平和裡に実現

l  会議外交の始まり

ナポレオン後のウィーン会議では、ヨーロッパ全土を巻き込むような戦争の再発防止を念頭に「会議による平和」と言う考え方が編み出されるが、従来の考え方と異なるパーマストン外交の特徴は、領土分割・補償がないことと、紛争当事者の小国の会議参加

l  メッテルニヒとの対決

ヨーロッパを保守反動的な体制に留めようとしたメッテルニヒには反発も多く、オスマン帝国衰亡の中のヨーロッパ国際政治が混迷を極める中で、列強の対立が深まる

l  革命の時代――ヨーロッパ自由主義の王者

1848年、フランスの2月革命を皮切りに、ヨーロッパ全土で相次いで自由主義革命が頻発、「現実主義と柔軟性」で対応したイギリスだけ市民による革命を回避できた

19世紀半ばから「世論」形成手段として大きな影響力を持つようになった新聞を通じて、自らの政策を喧伝する天才的な手法を見せたのがパーマストン

l  外相辞任――女王夫妻との確執

女王に相談も報告もなく砲艦外交を進めるパーマストンの強硬姿勢に不審を抱き、’51年ナポレオンのクーデターを承認する発言が独断で行われたことが外相解任に発展するが、新聞各紙は連日非難記事を書き世論を誘導

l  復活――クリミア戦争と首相就任

翌年には内閣総辞職となり、政局は混迷、後継内閣も相次いで総辞職

‘53年、ロシアがトルコを襲ってバルカン半島を南下すると、地中海に利害を持つフランスが脅威を抱きイギリスに接近、オスマン側について対露宣戦布告、クリミア戦争勃発

弱腰の政府に対し、新聞が世論を扇動、強気のパーマストンを世論も議会内の大勢も支持するに及んで女王も抗えず、’55年に70歳の史上最高齢で首相就任

l  ヨーロッパとイギリスの転換期

難攻不落のセヴァストポリ要塞をイギリス軍が陥落させたのを機に、ナポレオンがパリで講和会議を開催。北方3列強が分裂して「ウィーン体制」の崩壊が決定的となり、代わってナポレオンの領土拡大への野望と、ドイツ帝国の勃興、イギリス陸軍の弱点が見えて来て、パックス・ブリタニカの時代から戦乱期へと突入

まずはイタリア統一戦争、次いでドイツの独立。イギリスでも強力な政党の出現が期待され、'59年ホイッグが中心となって自由党が誕生、パーマストンが初代の党首になり、以後20世紀前半まで2大政党が出揃うことに

l  時代の移り変わりと老首相の死

1865年死去(享年80)。『タイムズ』は「イギリスを真に代表する政治家」と激賞

l  未来の予見者?

ヨーロッパを何度も全面戦争の危機から救い、特に1848年革命の際にはヨーロッパ大戦争に発展させずに済ませた最大の功労者で、「パクス・ブリタニカ」時代のイギリスを体現した存在だが、アジアではイギリスの国益を情け容赦なく追求、後の帝国主義的支配拡大の礎を築く。一方で、自由主義を愛し、奴隷貿易を取り締まるなど道徳心を発揮する

世論に力と意味を見出したイギリス最初の政治家だったが、自らの政策に中産階級や労働者階級の好意を引き付けることに腐心したが、一般大衆の心情に合わせて政策を進めていたわけではなかった。とはいえ来るべき「大衆民主政治」の時代を予見していた

 

第6章        デイヴィッド・ロイド=ジョージ(18631945)――「王権と議会」の敵役

l  ウェールズの魔女?

ケインズのロイド=ジョージ評: からっぽで中身がなく、楽器でもあれば演奏者でもあり、吸血鬼と霊媒を一緒にしたようなもの。後に「ウェールズの魔女」と表現

ヴェルサイユ講和会議では、ロイド=ジョージはウィルソンとクレマンソーと共に無知が際立ち、保守党からは「無節操な独裁者」と嫌われ、労働党からも「反動主義的な裏切り者」と批判、自身が属した自由党からも「党を分裂させ、崩壊させた張本人」と指弾

爵位を売り撒いて懐に莫大な金を入れたり、政治的・経済的に混乱を極めたドイツへの罪滅ぼしとして1936年訪独しヒトラーと親しく交わり、「現存する最高のドイツ人」「ドイツのジョージ・ワシントン」などとヒトラーを持ち上げ、後世に禍根を残す

l  弱者のための弁護士

マンチェスターの生まれ、生後すぐに父親が死去。ウェールズの母の実家で育ち、急進的なバプティスト派に改宗、21歳で弁護士事務所開設、弱者の弁護士を目指す

l  政治家への道

1890年、アイルランドの自治権を認める自由党から庶民院議員となるが、周囲は貴族と高学歴ばかりで、生涯「王室、法廷、官僚、軍隊、上流階級」を敵視、対抗意識を燃やす

l  人民の王者に――商務相・財務相時代

1899年第2次ボーア戦争を侵略戦争だとして反対の急先鋒に立って注目され、1905年自由党政権で商務相となると、自ら先頭に立って動き回り、一般大衆からは「人民の王者」として人気を集める。’08年には財務相。後任の商務相がチャーチル

財務相として、一律週5シリングの老齢年金創設と、対ドイツを意識した戦艦建造費捻出のため、富裕層への所得税増税と不動産への相続税を考え、選挙に僅差で勝ち実現させる

l  貴族院への一撃――議会法の成立

1911年、法案の庶民院議決優先を目的とした議会法が成立、同時に庶民院議員の歳費支出も決まり、有産階級の「ノブレス・オブリージュ」だった議員がプロの政治家に代わる

年収160ポンド未満の労働者を対象とした国民保険法も制定、30年後に本格化する「社会保険制度」の先駆けとなる

l  1次大戦の勃発

露仏同盟と独墺同盟の対立が「サライェヴォ事件」で顕在化、ドイツがベルギー侵攻に踏み切ったため、イギリスがドイツに宣戦布告。1915年には挙国一致内閣が誕生、ロイド=ジョージは軍需大臣に就任。総力戦に備え'16年には英国史上初の徴兵制導入

l  12月政変と首相就任

1916年、ロイド=ジョージは挙国一致内閣で首相に指名。同じ自由党政権からの移行で、アスキス前首相一派からは裏切り者呼ばわりされ、12月政変と言われる

l  前代未聞の戦時体制

ロイド=ジョージは、従来のやり方を排し、閣外協力者からなるブレーンを登用、王権を蔑ろにし議会も無視したが、世論の支持を取り付け独断専行を続ける

l  ロイド=ジョージの勝利

1917年革命で戦線離脱したロシアに代わって、翌年からはアメリカが参戦、ドイツは降服したが、自治領や植民地を動員した大英帝国は、戦後相当な権限移譲をのまざるを得なくなるだろう。兵役に応じた国民には選挙権付与という形で報いる。それを背景に解散に打って出たロイド=ジョージは大勝を博し、クロムウェル以来最も大きな影響力を手中に

ヴェルサイユ会議から帰国したロイド=ジョージは、凱旋将軍のように迎えられた

l  堕ちた英雄――新たなる時代の始まりと首相辞任

イギリスは膨大な戦争債務に直面、一方で力をつけてきた労働者階級が有権者となり、そこへアイルランドが自治権を求めて立ち上がり、戦後の不安定なヨーロッパ情勢への強硬姿勢が国民の反発を買って、連立を組んだ保守党も離反、首相辞任に追い込まれる。ロシア革命に対する露骨な反共姿勢も、労働者階級の反発を買って、労働者は自由党から離れて労働党結成へと動く

l  自由党と「ウェールズの魔女」の死

イギリス議会政治は、保守党と労働党の2大政党制が定着していき、第2次大戦開戦後の1940年、庶民院でチェンバレンの弱腰を烈しく糾弾したのがロイド=ジョージの最後の議会演説となり、’45年伯爵に叙せられ、直後に死去

l  「英雄」の生涯

ロイド=ジョージが誤解を受けやすかったのは、庶民としての出自と、資産的な背景がなかったこと、心底「友人」と呼べる者がいなかった点にある。1960年代頃から政界でも再評価が進み、世界大戦でイギリスに勝利をもたらした指導者として議事堂に銅像建立

国民保険法や老齢年金制度など、社会福祉国家イギリスの原点であり、大戦中の国家総動員のあり方も其後の基本となっており、一時的にせよ国王と議会の両者の上に立って戦争指導を展開した姿は、イギリス史上クロムウェルをおいて他にいない

 

第7章        ウィンストン・チャーチル(18741965)――最後の「帝国主義者」

l  歴史しらずのお坊ちゃま?

チャーチルとガンジーのやりとりは興味深い。独立直後にガンジーは、『第2次世界大戦』(6巻、194853)を書いて53年度のノーベル文学賞を受賞したチャーチルを、「歴史を知らない」といって揶揄。インド独立直後に、カシミールを巡ってパキスタンと衝突が始まったのを見て、元々インド独立に反対していたチャーチルは、文明途上にあるインドを独立させたために起こるべくして起こった紛争だと言ったことに対し、ガンジーが自分たちの方が歴史をよく知っているので、チャーチルに教えてあげたいといった

l  宮殿で生まれた赤ん坊

7代マールブラ公爵の孫に生まれ、父は保守党の政治家で庶民院の首相役として次代のホープだったが早逝

l  生き急ぐ若者――キューバ・インド・アフリカへ

将校に任官した後、キューバ・インド・アフリカで勤務、実戦にも参加。第2次ボーア戦争に従軍記者として参加、『モーニング・ポスト』に掲載された記事で名声は不朽のものとなり、1900年の選挙で初当選、25歳で庶民院議員となる

l  政界進出と最初の鞍替え

保守党の保護貿易政策に反発して自由党に移籍、ロイド=ジョージと席が隣合わせとなり、以後40年続く「兄弟」とも「師弟」とも呼べる関係が始まる。保守党議員の憎悪にあう

1908年にはアスキス内閣で商務相に抜擢、’10年には内務大臣

l  ガリポリの悲劇――海相時代の光と影

1911年、海相就任、燃料を石油に転換しイランのアングロ・ペルシャ石油の株式を買収、潜水艦や航空機など新たに開発するなど、先見の明は鋭かったが、実戦では負け続き、極めつけはダーダネルス作戦、海峡西岸のガリポリ半島への上陸作戦での惨敗、イギリス軍3.5万、帝国軍1.1万の死者を出し、チャーチルに終生つきまとう悪夢となる

l  失われた20?――落選・鞍替え、「荒野の10年」

1次大戦では陸軍中佐として西部戦線に派遣され、塹壕戦で戦車を思いつく

1917年、ロイド=ジョージ内閣で、閣外の軍需相に登用、翌年には陸空軍大臣に、21年には植民地相となるが、22年以後の選挙で3連敗。24年ようやく返り咲く

保守党に戻り、ボールドウィン内閣で財務相に就任するが、金本位制復活に失敗し、1929年には政権も労働党へと移り、以後10年は不遇

l  この時、この試練のため・・・・・

議会では根気良く警鐘を鳴らし続けるが、「戦争屋」と揶揄され、38年のミュンヘン協定に激昂しても孤立するだけ

1939年、ドイツのポーランド侵攻を機に海相に復帰、全ての軍艦にレーダーを取り付け、全ての商船を武装させ、翌年には庶民院の代表として首相に就任

l  いかなる犠牲を払っても勝利を・・・・・

驚くべき行動力を発揮し、アメリカを説得、共産党嫌いを抑えてモスクワも訪問

1945年、ドイツ降伏後、イギリスでは延期していた総選挙が実施され、労働党が圧勝

l  生き急ぐ老人――最後の頂上会談への執念

戦後は執筆や講演に注力、46年にはトルーマンの招きで訪米、トルーマンの故郷ミズーリ州フルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。フルトン演説では、アメリカとの「特別な関係special relationship」を強調し、戦後イギリスの拠って立つべき位置を示す

1951年、保守党が第1党となり首相に返り咲くが、翌年「戦友」ジョージ6世の崩御で一旦は引退を決意するが、53年に古い「戦友」アイゼンハワーが大統領になり、直後にスターリンが亡くなると、東西冷戦終結へ向けてふたたび「頂上会談」を開けないかと画策したが、米国ではダレスが仕切り、ソ連では壮絶な権力闘争が始まり、とても会議どころではなかった。チャーチル自身も、53年の戴冠式直後に脳梗塞となり、55年退任

女王が首相官邸を訪れ、晩餐を共にするのは前代未聞のこと。さらに引退した首相は伯爵に叙せられるところ、公爵に叙したいと言われたが、公爵の場合は所縁の地名を爵位に冠するため、チャーチルの名を大切にして辞退、1庶民として一生を終えることにした

l  最後の帝国宰相?

1964年、89歳で引退したが、議員生活は63358日に及び、庶民院の歴代首相では最長記録。女性関係はないが、長男はアル中、長女は自殺、次女も女優になったがアル中

国葬では、ヨーロッパ西側のすべての国の元首が一堂に会し、女王陛下まで異例の参列

「社会福祉国家」を築き上げた功労者とされるが、ロイド=ジョージの遺産だし、軍歴も「ガリポリの悲劇」が目立ち、いくつも経験した大臣でも財務相時代の金本位制復活の失敗を始め、大した業績はない。すべてを補って余りあるのが第2次大戦でのリーダーシップ

歴史の「チャーチル・ファクター」とは、「1人の人間の存在が歴史を大きく変え得る」ことだとは、ブレグジットの渦中にあったジョンソン首相がチャーチルの評伝で書いた言葉

チャーチルが、ヒトラーに立ち向かって、人類全体に平和を取り戻すという普遍的な意思を示した言葉が、「戦争には決断、敗北には挑戦、勝利には寛大、平和には善意」

 

おわりに――政治的な成熟とは

l  偉大さと悪

「権力は腐敗する」と言ったアクトン男爵は、続けて「偉大な人物というのは大概いつも悪党bad menばかり」と言い、ウィリアム3世などを指しているが、さらに続けて「より偉大な名前が大きな犯罪と結びついている」とも述べ、ヘンリ8世やクロムウェルがルターやルイ14世と並んで登場、偉大な功績を残した人物が往々にして「悪党」だったと指摘

本書で言う「悪党」とは、アウトサイダーだけではなく「より大きな犯罪と結びついた」者たちでもあるが、最後は「その者の業績の善悪で決まる」

l  国民は指導者に何を求めるのか

「悪党」たちは、数々の「悪徳」にも拘らず、同時代の人々の多くから一定以上の支持を集めていたのも事実。19世紀半ばの人々が君主を道徳の指導者と期待したように、それは1つの資質ではあったろうが、政治家たちに国民が求めているのは、何よりもまず業績

19世紀半ば以降のイギリスでは、「道徳」の部分は君主に割り振られ、政治家たちには「結果」を残すことが第一とされるようになった

 

 

 

新潮社ホームページ

辺境の島国イギリスを、世界帝国へと押し上げたのは、七人の「悪党」たちだった。六人の妻を娶り、うち二人を処刑したヘンリ八世。王殺しの独裁者クロムウェル。砲艦外交のパーマストン。愛人・金銭スキャンダルにまみれたロイド=ジョージ。そして、最後の帝国主義者チャーチル……。彼らの恐るべき手練手管を鮮やかに描く。

 

われわれには「悪党」が必要である

細谷雄一

 バロック期イタリアで活躍した画家カラヴァッジョの描く人物画は、その鮮烈な光と陰のコントラストが美しい。まるで光に照らされて対象の人物が浮かび上がるような生き生きとしたその描写は、背景となる暗い闇によって生み出される。わが国における代表的なイギリス史研究者、君塚直隆氏の最新の著作である本書は、これまでのものとはだいぶ趣が異なる。何しろ本書は「悪党」の群像劇を描くのだから。いわば「悪党」という深い陰を描くことで、イギリス史を再構築する野心的な試みである。読者は、本書で次々と登場する「悪党たち」の活躍に、すぐさま引き込まれ急いで次々とページをめくることであろう。

 本書では、ヘンリ八世、クロムウェル、ウィリアム三世、ジョージ三世、パーマストン子爵、デイヴィッド・ロイド=ジョージ、そしてウィンストン・チャーチルという七名の「悪党たち」が登場する。ロイド=ジョージやチャーチル以外の人物は、世界史に一定以上の関心を寄せる読者でなければ、それほど詳しくその人物像に触れる機会はないかもしれない。

 君塚氏は、「はじめに」のなかで、そのような「悪党」を、「ちょうど日本中世史に登場する『悪党』のように、公式の荘園支配(守護や地頭らによる支配)の外部からまさにアウトサイダーとして登場し、いつしか荘園体制を崩壊に導いていった武士団のような存在をイメージしている」と説明する。なるほど、歴史を動かす「アウトサイダー」こそが、本書の主役なのである。イギリス人は、「アウトサイダー」に優しい。そのことは、カール・マルクスのような亡命者を受け入れ、擁護してきたイギリスの歴史が雄弁に示している。

 本書と似たような構造をもつ著作として、20世紀イギリスを代表する歴史家、AJP・テイラーの『トラブルメーカーズ――イギリスの外交政策に反対した人々(17921939)(真壁広道訳、法政大学出版局、2002)がある。テイラーはその著書の中で、通常のイギリス外交の通史では脇役となるような「急進主義の伝統」に連なる何人もの「異端者たち」を登場させる。君塚氏が「悪党たち」に優しいように、テイラーもまた「異端者たち」に優しい。というのもそれらの人物が、同時代の多くの人が気づかぬ真実を語り、また後の時代でなければ気づかないようなかたちで歴史の歯車を動かしてきたからだ。

 君塚氏は、本書に登場する「悪党たち」がイギリスの政治や社会を変革し、イギリス史を動かす原動力となっていた事実を見逃さない。各章の冒頭には、その章の主役である「悪党」を罵り、非難する、同時代的な証言が引用されている。たとえば、経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、本書に登場するロイド=ジョージを嫌悪して、「からっぽで、中味がない」人間であって、「吸血鬼(ヴァムパイア)と霊媒を一緒にしたようなもの」と痛烈に侮蔑する。またチャーチルの章では、冒頭に、帝国主義者チャーチルを非難するインドのガンディーの言葉が掲げられている。君塚氏の表現を借りれば、チャーチルは、「世紀の英雄」としての顔と、「独りよがりで傲慢な帝国主義者のお坊ちゃま」としての顔と、双方を持ち合わせている。それこそが、カラヴァッジョが人物を描く際に光と陰を組み合わせたような、人物を描写する際の立体感を生み出しているのではないか。

 そして、本書の「おわりに」のなかで、アクトン卿のあまりにも有名な一節、すなわち「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」という言葉が引用されている。だが、この有名な言葉の後に、あまり有名ではない次のような一文が続くことを、私は知らなかった。すなわち、「偉大な人物というのは大概いつも悪党ばかりである」。

 光が強ければ、陰も深い。偉大な業績を残した人物の粗探しをして、批判を浴びせるのは容易である。だが、もしもその人物をより立体的に、より生き生きと描写するのであれば、光と陰との双方を組み合わせねばならない。そして、君塚氏が語るように、「彼らが残した業績が、その時々のイギリスや世界にとっては極めて偉大なものであり、またその数々の『悪徳』にもかかわらず、彼らが同時代の人々の多くから一定以上の支持を集めていたことは疑う余地がない」のである。歴史は裁判ではない。その対象となる人物のより深い理解こそが、よりよい歴史を生み出すのであろう。本書の最大の功績の一つは、歴史において人物を描く際に、そのような重要な教訓を教えてくれたことではないか。
 さて、本書でも最後の方に登場するボリス・ジョンソン首相という新しい「悪党」が、はたしてコロナ禍の現在において偉大な業績を生むことができるのか。あるいはそれができずに歴史の舞台から退場するのか。本書を楽しみながら、もうしばらく観察することにしよう。

(ほそや・ゆういち 慶應義塾大学教授)『20209月号より

 

 

 

 

(書評)『悪党たちの大英帝国』 君塚直隆〈著〉

2020.10.31. 朝日

 王殺しや金権政治家の業績とは

 今年の5月にアメリカのミネアポリスで発生したジョージ・フロイド殺害事件をきっかけとして、BLM(ブラック・ライブズ・マター)運動が全米で盛り上がりを見せた。その波はイギリスにも押し寄せ、ロンドンの国会議事堂を見下ろすウィンストン・チャーチル像は「人種差別主義者」と落書きされた。

 確かにチャーチルは植民地支配を肯定する帝国主義者で、アジアやアフリカの人々に対する差別意識を終生持ち続けた。しかし著者は、本書で二つの言葉を引いている。19世紀イギリスの伝記作家レズリー・スティーヴンの「偉大さとはその者の業績の善悪で決まるものである」と、同時代のイギリスの歴史家アクトン男爵の「偉大な人物というのは大概いつも悪党ばかりである」だ。

 本書は、大英帝国の形成から崩壊に至る歴史を、7人の政治指導者を通じて描き出したものである。王妃と離婚するためにイギリス国教会を作ったと揶揄されたヘンリ8世は、ローマ教皇の権威からイギリスを解放し、「主権国家」のさきがけとした。王殺しを非難されたオリヴァー・クロムウェルはアイルランドとスコットランドを征服して複合国家を初めて形成した。名誉革命でやって来た「外国人王」として不人気だったウィリアム3世はイギリスを一流国に押し上げた。アメリカ独立に断固反対したジョージ3世は立憲君主制を定着させた人物である。

 2度のアヘン戦争を主導したパーマストン子爵は、一方で大西洋から奴隷貿易を一掃した。金権政治を批判されたロイド・ジョージは社会福祉に取り組み第1次世界大戦を指導した。そしてチャーチルは、世界をナチスから救った。

 人物史は古典的な研究であり、著者の言葉を借りれば、歴史学界の最新の潮流から外れた「時代遅れ」のものである。けれども本書を読むと、やはり一個人が歴史を大きく変え得る、との思いを禁じ得ない。

 評・呉座勇一(国際日本文化研究センター助教・日本中世史)

    *

 『悪党たちの大英帝国』 君塚直隆〈著〉 新潮選書 1540

    *

 きみづか・なおたか 67年生まれ。関東学院大教授(イギリス政治外交史)。著書に『立憲君主制の現在』など。

 

 

悪党たちの大英帝国 君塚直隆著

国王や首相 常識覆した7

20201031  日本経済新聞

ここで取り上げられるのは、世界に冠たる大英帝国を築いた7人の「悪党」たちである。「悪党」とは、著者によれば悪事を働く者というより、アウトサイダー、よそ者という意味だ。要は体制からみての「悪党」なのだ。7人はその知られた名前だけ眺めれば、まさに体制の印象なのだが、それは結果そうなったのであり、元は皆が立派な「悪党」だったのだ。

(新潮社・1400円) きみづか・なおたか 67年東京都生まれ。関東学院大教授。専攻は英国政治外交史など。著書に『立憲君主制の現在』など。

最初のヘンリ8世(14911547年)は王だが、テューダー朝の2代目は、ウェールズの田舎豪族から成り上がった新興家門の倅(せがれ)にすぎなかったので「悪党」。クロムウェル(15991658年)は清教徒革命で有名だが、その清教徒はイギリス国教会の信徒が多数を占める国では反主流派なので「悪党」。名誉革命のウィリアム3世(16501702年)は、イギリス王女の妻メアリーの継承権で一緒にイギリス王になったが、そもそもがオランダ総督、つまりはオランダ人なので「悪党」。

外国人といえば次のハノーヴァー朝も然りで、イギリス王になった「ハノーファー侯爵」はドイツ人だった。ジョージ1世、ジョージ2世ともドイツ人のままだったが、3代目のジョージ3世(17381820年)はイギリス人たらんと「愛国王」を自認した。が、そういう一生懸命な王は、もはや議会が政治を主導する国では「悪党」。議会といえばトーリ党とホイッグ党の争いだが、外相、首相と歴任したパーマストン子爵(17841865年)は両党を渡り歩き、あげく自由党を立ち上げたので「悪党」。第1次大戦の首相ロイド・ジョージ(18631945年)は、ジェントルマン(地主貴族)が支配する政界に中産階級から乗りこんで「悪党」。第2次大戦の首相チャーチル(18741965年)は、ジェントルマン出身ながらロイド・ジョージの弟分で伸(の)したので「悪党」。なるほど、みんなアウトサイダーだ。

この「悪党」たちが古い常識を変えた。非常識なよそ者だから変えられた。読みながら心で拍手喝采、同時に日本はどうかと問いたくなる。同じ君主を抱く国、国民投票の大統領でなく議院内閣制の総理大臣の国だけに、イギリスとは政治のありようが似ているのだ。だから日本にも「悪党」はいるか。――ちょっと首を傾(かし)げるかな。

《評》作家 佐藤 賢一

 

 

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