建築有情  長谷川堯  2023.12.29.

 2023.12.29.  建築有情

 

著者 長谷川堯 1937年島根県生まれ。60年早大一文卒。現在武蔵野美術大助教授

 

発行日           1977.6.15. 印刷                6.25. 発行

発行所          中央公論社 (中公新書)

 

19.4.高島屋村野展と併せ、村野研究で有名な著者死亡

 

日本では、「生きた」建築とかそれを囲む都市というものに対して一般的な「人気」が少ないように思われる。戦前は、和風の家を建てる際、施主と大工が打ち合わせをすれば、お互いどんな家が出来上がるのか十分理解し合うことができたが、最近ではこうした意思の疎通が難しくなり、どんな家が出来るのか施主は完成するまで見当がつかないことが多いし、建設する側も勝手に進めて、結構使い勝手の悪い家を押しつけたりしている。これは建築が「洋風」になって来てからの混乱といえる。江戸の終わりころから始まった洋風建築は、建築の西洋化・国際化を進め、そうした傾向を都市の近代化と呼ぶなら、その結果として現れた近代建築や都市は、一般の日本人の建築や都市に対する考え方を混乱させ、人々の建築離れやその種の空間についての関心をひどく薄いものにしてしまった

外国文学の中には、都市や建築そのものが主人公ではないかと思わせるような作品が少なくなく、建築の克明な描写が多いのに驚き、インテリアの光景は住手の生活や心や趣味を鮮やかに描き出している。建築は単なる物理的架構体以上の「何か」である。工学的な構築物以上に、重要な何かを空間の中に塗り込めてもいるが、今の日本では建築の計量化できない部分について思索し語ることが、社会一般に疎かにされている

その理由の1つは、洋風建築が育っていく過程での歴史的な宿命がある。国力の強化という大目標の中で洋風建築の移入が進められたため、建築は目的達成のための技術として把握されてきた。建築教育が工学部で行われたのもそのためだが、建築は建築を作る人たちだけのものではなく、使われて初めて建築に命が籠る。そのためには素人こそ、作られた建築を受け取る側として、その立場から建築について大いに発言し主導権を握るべき

伊東忠太は、明治初年以来の建築界の動きを5段階に分け、最後の大正初期を「建築趣味普及の時代」と名付け、それまでは建築家の独り相撲で、社会への効果は薄弱だったとして、真の建築の進歩は対社会的でなければ意味がないと断言

「建築趣味の普及」という命題は、今日の建築的状況の命題としても復活。建築を受け取る側の、作られた建築に対する批判力こそ「趣味」であり、使う側の論理の追究が著者の使命

本書の基本的な土台として置いたのは、「建築は単に物質の集成体であるだけでなく、その中に作る者のあるいは使う者のそれぞれの立場から寄せられた感情とか内面的脈動の相関物である」ということ。建築は「無情」のものではなく「有情」のものであり、「情」を軸にどこまで建築を語ることが出来るのかを試してみたい

 

²  都市と建築の詩

l  都市

都市が1つの像を結んで私たちの前に現れるときには、そのイメージの向こうへと投げかけられた様々な心の動きがあるように思う。もともと都市というものは、それと知らず私たちの身の回りにまつわりついているものであり、人はその中に巻き込まれ、そのせいでその存在をたいてい忘れている

永井荷風『日和下駄 一名東京散策記』が描く明治の東京は、日本橋を中心として半径4㎞、人口200万ほど。東は本所、深川を含み、北は上野寛永寺、西は四谷信濃町、神宮外苑を斬截()り、南は三田、田町が円周上にある。江戸以来の生活慣習を続けてきたのは、そこに住んで動かなかった商人と職人たち。下町に住み、そこを自分たちの「地元」としてはっきり認識し、生活のすべてをその場所で行った。これは厳格な意味での歴史的概念としてのまさに「都市」の生活だった。住民にとっての社会とは天下国家ではなく、「町内」であり、「世間」さまとは、まさにそのような地域にお互いに一緒に、運命共同体として生きている世界のことで、そこでは「しきたり」や「きまり」が重要。「きまりがわるい」という表現は昔よく聞いたが、ある種の恥ずかしさとか軽い後悔とかが入り混じった感情をさす

こうした「きまり」とか「しきたり」が支配する世界は、ほとんどつねに、その世界そのものが外に向かって閉じられた構造を持ち、逆に内側においてお互いに開いているような構成を持っている。ヨーロッパの都市は、城壁や都市囲壁などの堅固な壁を作って出入口を限り、壁の中では広場や教会堂など交流の場を作り、そこで共同体としての連帯を確認した

明治の東京には囲壁はないが、幕末に江戸をヴェネツィアに喩えた外交使節がいたように、それに代わるのが掘割ではないか

明治末~大正初め、東京という町の都市構造の根源的な変化が進行、社会経済的構造の変化が起こり、商人・職人に代わる「勤め人」の社会、「下町」に代わる「山の手」が台頭

大正から昭和初めにかけて、明治・東京の下町を破壊して建設された日本橋や丸の内のビルが、現在続々と取り壊されて現代的な建築に建て替えられている。これらの建築は意匠に限らず、それをつくる職人の技術、石材などの材料といったものから考えて、二度とつくることのできない貴重な建築的遺産だが、経済効率から簡単に壊されていくことの中に、日本の「都市」の文化の実りの薄さが実感できる

l  駅舎

お茶の水の都市風景に圧倒される。神田川からの眺めは、奈落の底から立体的な都市を見る感じがする。「お茶の水空間」の重要な構成要素が、神田川の水流、土手の崖、2つの架橋、駅舎などで、どこからでもこの空間のスペクタクルを楽しむことができる

特に土手の斜面の造園は、都市における「内なる庭」となっているのが美しく感じられる

山田守設計の聖橋は、それなりに形や空間への配慮が感じられる。悪名高い京都タワーの設計者でもあるが、山田は建築の外形ということに関して誰よりも本気であった建築家で、その形が人の心に馴染むことをいつも真剣に考えた人だった

関東大震災復興期に出来た駅舎は、設計者の想像力に鉄鋼という素材をできるだけ添わせようとする執拗な努力があった(表現主義建築)が、新幹線の駅舎は合理主義建築そのもの

l  細部

吉村順三は、「建築とはおさまりなり」と言った。おさまりとは、建築の部材や素材の相互の取り付けなどに絡む細部のいろんな処理と解決、よく建築家が「ディテール」と言って悩んでいるところのこと。今の業界の行き方からは逆説的に聞こえる

建築の迫力のつけ方、表現のポイントで一番わかりやすく一般的なのは、建築の外形、内部空間のヴォリューム、構造のダイナミックな構成といったものを強調して人を惹き付けるやり方で、構成力ともいわれ、その新奇さ、力感、巨大さなどを競っている

近代建築は合理主義Rationalismの時代であると言われ、RatioProportionと同義であり、全体のシルエットの演出のためにまず何よりもプロポーションが整えられ、全体から細部に向かって割り付けの作業が行われるのが合理主義の本来の作法だが、最後のしわ寄せが来るのが細部で、細部がしっくりこないと「おさまりが悪い」

細部の収まりをつけるのは、「ひとの尺度」の自然な投影

生駒の宝山寺の客殿として明治初期に作られた獅子閣は、吉村松太郎という宮大工が横浜で学んだ洋風建築のシルエットに従って木造の骨組みを決めるが、随所に宮大工としての手法が入り込み、和洋分裂の危機を和風とも洋風ともつかぬ不思議な装飾的細部で鮮やかに繋いでいる。国の重要文化財指定

l  装飾

装飾とは、肉と心の結び目のようなもので、分裂しようとする2つのものにきつくタガをはめるもの。人間は道具を使う動物であり、建築は人間が作り出す最も大型の道具の1

道具はあくまでの人間の肉体の動きの延長線上にある

建築の場合、「肉」としての形象は、壁や柱、天井や屋根といった建築「形態」の上に具象化され、「心」は、目には見えない機能の中に現れ、「空間」となって実現する。建築の「形態」と「空間」の間に立って、建築装飾は独特の効果を発揮しようとする

建築というのはまず第1に、人間の肉体的生命の保護容器。だからその生命が脈動する土壌としての風土や、生命を維持するための食料などとの間に深い相関関係を保ちながら建築は建設される。明治の人は西洋建築を見て、先ずは「形」を通して西洋人の「肉」を感取

日本で最初に工部大学造家学科で建築教育を受けた大学生が卒業したのは1879

1880年、札幌に北海道開拓使工業局営繕課の設計で豊平(ほうへい)館建設。国の重要文化財。各所に日本の伝統に基づいた意匠の装飾がある――西洋的な建築の「肉」と「心」の間で独特の「結び目」を構成して鮮やか。花鳥風月など自然の簡単な主題を優れた意匠と驚異的な技法で具体化しているとして、訪れた外国人が一様に驚嘆し圧倒されている

この100年の間の日本における建築の歴史の最も大きな変化は、材料および構造の近代化であり、特に耐震性を重視する日本の近代建築は、逞しい肉体を作ることが大きな目標とされたあまり、「空間」を忘れてきたが、高度成長経済の行き詰まりの社会において、やっと反省され始めている。両者を取り持つ「装飾」が本来の働きを回復する時が近づいている

 

l  畳床

日本の伝統的な住まいの特色の1つは「開放性」にあり、壁らしい壁がなく、襖や障子や板戸を外せば全部の空間が一続きになる。また、「開放性」は外に向かっても発揮され、日本建築の魅力は、庭の美しさを家の中から楽しむところにあるとまでいわれる

大正時代には、プライバシーなど価値観の変化から「住宅改善運動」が起こり、接客本位から家族本位へ、庭も子供本位にといった項目が列挙された結果生まれたのが「文化住宅」

「坐式」生活の独自性は、全ての装飾の目線を低くしている。天井高も畳の部屋の寸法を基準に割り出されたものが多い。一方で、「裸足の領域」の独自性への関心が薄い

 

l  開口

壁に開口部がなければ、「生」を守るための場所としての建築空間にはならない

窓が壁に持つ位置と大きさと形の違いは、知らず知らずの間にその部屋の空間の利用者を、それぞれの仕方で心理的に支配しているところから、建築家はその配置に神経を使う

西洋建築にはWindowに関連する意匠上のボキャブラリーが多彩だったが、日本に近代建築が移入された際、カーテン・ウォールの出現で壁と窓の古典的な関係が解体、壁か窓か分からない開口部が登場し、窓と壁の間のメリハリの利いた相互関係の見直しが必要

 

l  廻廊

建築や都市計画の世界にも、ある時代を象徴し、その時々の人の心を捉える一種の流行語のようなものがあり、この10年ほどは「広場」がそれだが、「廻廊」の時代も始まっている

Cloisterが廻廊に近い。家と家、棟と棟の間を連絡しながら、居住者のコミュニケーションに役立つと同時に、換気や空間的な息抜きのための工夫が中庭を囲む廻廊を生み出す

労働など一定時間拘束されるようなすべての建築的施設の構成の中に、廻廊という拘束から解放される空間としての建築的修辞がもっと活用されてもいいはず

 

l  形態

集合住宅の住民たちは、いつかどこかで心を晴らすことのできる形態なり空間を望み欲しているが、日本ではそうした場面を作り出す努力があまりにも不足している

戦前の同潤会アパートはなかなかよく出来ていた――共同浴場を作り、日本的な「はれ」の場にして、毎日の「け」を洗い流させることを考えたのは見事な工夫

 

l  列柱

郵船ビルの解体に立ち会う。1923年竣工。曽祢中条建築事務所の設計(曽祢達三は曽祢益の父、中条精一郎は宮本(中条)百合子の父)

最高裁も日赤本社も、日本勧業銀行本店も潰された

柱礎があり柱身があり、柱頭がくるという石の柱の序列的構成をオーダーと呼ぶが、オーダーのある柱を意識的に選択し、それを自分たちの体制のシンボルとしたのが明治政府であり、それを選択したのは、オーダーの恒常的な持続を彼らが願ったからに他ならない

特に金融資本がその建築的形象に飛びつき、古典主義的建築と列柱が全国の銀行建築の意匠として一般化したが、近年銀行自らがその形象を捨て破壊し始めている

旧東京都美術館は1926年竣工、岡田信一郎の設計で新古典主義スタイルの厳格なファサードを持ち、高い正面階段と古典的な柱の列が上野の森に欠かせない存在だったが、取り壊しに際して、美術関係者からも声が上がらなかった

列柱の表現は、「過去」のものでは決してなく、今なお現代建築の表現でもある

 

l  道路

名古屋という大都会は、戦災復興を都市計画によって成し遂げ、100m道路は自動車時代に交通渋滞を知らない道路として絶賛されたが、車を利用しない都市生活者にとっては的外れな賞讃で、幅広い道路という近代的虚構によって、町そのもののアクティヴィティを流出させ、生活そのものを分断し、解体したのではなかったか。都市そのものの連続する空間文脈を切断してしまっては面白くなり様がない

20世紀の建築界の巨匠ル・コルビュジェは、現在一般化している近代都市像――高層のビルが、自動車専用道路と歩行者のための広い公園緑地の間に点々と立つ――といったイメージを1920年代にほとんど1人で作り上げた。街路は碁盤目状に直行する幾何学的な平面を持ち、その中に超高層ビルが林立する垂直都市で、人間が歴史的に積み上げてきた地べたにへばりついたような都市を鮮やかに切り捨て、「近代」を予感させる計画

コルビュジェの目標は、複雑な社会的・建築的全体としての都市を精算することにあった

都市の「計画」は「路地」を追放し、廃水や高架道路は仁王様の下の邪鬼のように、都市の「水/運河」を下に押し込め腐らせる。都市はますます身体から遠ざかりつつある

 

²  回想の中の住まい

近代の建築とは、建築の工業化だった。自然の材料が工業製品に取って代わられ、それに従って構造が変化。設備のほとんどは工業製品で占められるようになった

ル・コルビュジェは「家は住むための機械である」といったが、機械を使いこなすように家を住みこなすという本来の意味から、家を「住=機械」のように生産するという意味にとり違え、プレファブ住宅などのように生産者と販売者の理想を実現

機械や工業が建築を作る流れは続くだろうが、かつての建築の豊かな意匠の蓄積への郷愁は必ず戻ってくる。それらの意匠には、人間として生きさせるための工夫がみられる

l  草葺

(ろく)屋根と草屋根は、住まいの近代と前近代を象徴

隣近所が集まってやる屋根の葺き替えは、共同体を互いに意識するための重要な行事だったが、今では相互扶助が前提の共同体そのものが崩壊

ブルーノ・タウトは、日本の草屋根の多彩な変化に目を奪われ、ヨーロッパの農家の屋根に似ていることに驚いている

草屋根のよさは、大地の臭いを視覚的に漂わせるところにある。軽井沢のレーモンドの別荘にも、彼が1919年の大晦日にライトの帝国ホテル工事の助手として初めて来日した際に見た草屋根の農家の記憶が、彼独自の想像力によって再生されているのを見てとれる

近代社会は都市の無秩序な拡大と自然の悲劇的な後退によって特徴付けられるが、戦後建てられた草屋根を持つ建築として印象深いのは、箱根芦ノ湖畔に立つ村野藤吾設計の箱根樹木園の休憩所の屋根。円形のコンクリートの建物に茅葺の屋根が乗るが、自然環境の中でいかに調和的で相応しいものかは一目瞭然。檜皮(ひかわ)葺の屋根も同じ特性を持つ

天然スレート葺きの屋根も、特性を活かして明治~昭和初期の洋館に盛んに使われた

l  導入

熱海の岩崎別邸「起雲閣」(曽祢中条建築事務所設計)のアプローチの狭さは、建物の壮大さとの心憎い対照に心憎さを感じる。宝塚の村野邸でも同様の経験をする

門は敷地の北か西、または東がいいとし、家相でも巽(東南)か乾(西北)が良とされる

あめりか屋という住宅中心の設計施工会社の技師長だった山本拙郎(1917年早大卒)は、日本最初の住宅専門の設計家だろうが、彼が書いた『住宅の入口』(1923)は、素人にも分かるようなやさしい言葉で住まいというものの色々なディテールを鮮やかに語っている

l  真壁

スタジオでの写真撮影と同様、建築も光の変化によって自らの表情を変えている

建築の外部形態と光の関係だけについて考えても、地球上のそれぞれの場所に特有の太陽の光との間に、お互いに深い関係を持っている

近代に入って建築家は陰影という言葉の本当の意味を理解しなくなってしまった。ル・コルビュジェが元凶かもしれない。彼は、建築を太陽の光の下で繰り広げられる形態のドラマだと言い、太陽の下ではっきりと見える単純な形態をまず作らねばならない、それには建築の外形は原理的な幾何形体(立方体とか円筒など)にまとめる必要があるとして、余計な装飾的な様式や材料を嫌ったため、建築の壁面がのっぺりした陰影のないものとなった

そのような壁面を持つ単純な形は、合理主義建築の美学として拡散

アルプスの北側では、陰影を持つ建築としてハーフ・ティンバー(半木骨家屋)を多用。柱・はり・斜材などを日本の真壁造りのように外部に表し、その間を煉瓦や漆喰などで埋めた構造をいう。真壁とは、柱・梁が露出する壁で、柱を表に表さない壁を大壁という

 

l  暖炉

1920年代には、暖炉がインテリアとは別に1つの項目として扱われる程、住宅の中で重要な要素となっていたが、30年代には廃れている。非合理性の根源と見做されて衰退

Inglenookは、chiney corner(炉隅)とも呼ばれ、大きな暖炉の覆いのこと

各室の重要な装飾の中心と位置付けられてきた

l  凹壁Alcove

ル・コルビュジェの「近代建築の5原則」(1926)

   ピロティ――RCや鉄骨造では、1階部分を壁で囲わずに空間として開放すべき

   屋上庭園――屋上を陸屋根とし、庭園とする

   自由なプラン――荷重を受けるための厚い壁が不要なので、床面を自由に仕切れる

   横長の窓――壁への荷重がなくなり、壁面に大きな明るい横長の窓が取れる

   自由なファサード――④同様、建物の立面を自由に処理できる

新しいスタイルの完成により、「過去の時代の建築」の持つ様々な技術や表現を捨て去った

アルコーブもその1つ。もともと木造建築の日本では馴染みが薄く、正確な訳語もない

l  出窓

窓は、ソリッドな壁に開けられた開口部の一種だが、日本の伝統的な木造家屋には、そうした不透明で硬質な壁がほとんどなかったため、日本家屋には無縁のものであり、壁の中にくり抜いた「無」としての窓、といった発想は日本人建築家にはなかなか出てこない

西洋建築のすべての意匠は、本来組積構造の建築の中で固められたもの

もともと人が石や煉瓦を積んで家を築くという行為には、屋内を外界から切り離し、自然的変化から解放された空間にする意図があったが、同時にその意図によって人間は自らを幽閉することにもなった。そこで、壁の家の内部空間で自らの内面を爆発させようと想像力を膨らませるとき、窓1つとっても単なる開口部から様々な工夫が生まれる

上野毛に渋沢栄一の喜寿を祝って1916年建てられた誠之堂は、田辺淳吉の代表作だが、出窓の美しさは注目。国の重要文化財で、1999年渋沢の故郷深谷市に移築・保存

l  硝子

建築に用いられるガラスには2つの効果――透光透視性と透光不透視性

光は通すが向こうが見えないのが透光不透視性で、ガラスを通して向こうが見えるか見えないかで、光そのものが空間に与える影響は非常に違う。透視性では光はものを見るための単なる脇役だが、すりガラスやステンド・グラスなど不透視性では光そのものが主役

不透視のガラスがもたらす光の独特の味をうまく扱えば、建築空間をもっと陰影に富んだものにすることができる――その魅力を引き出した最右翼はブルーノ・タウト。村野藤吾設計の宇部市民館のロビーも代表例

l  縁側

住宅展示場が出来たのはここ510年ほどのことだが、最古のものは1922年の上野で開催された平和記念東京博覧会における「文化村」で、堀口捨巳や滝沢真弓など若手設計者が参加、14棟の文化住宅を展示し、注文建築の見本としたのが始まり。当時の出品要項には外観は和洋を問わないが、椅子式は勿論、「在来の雨戸と紙障子とを廃す」とあり、日本の伝統的な住居に独特の空間的語彙を付した「縁側」が消滅。唯一東京材木問屋同業組合が、「恥ずかしながら懐かしい」と銘打って、和室と縁側を組み合わせたプランを発表

土地の高騰により建築面積の極端な狭小化で、訳の分からない空間が切り捨てられた

l  家庭

戦前の住宅では、家と庭を繋ぐ手法に様々な工夫がなされていた――軒や廂の下の空間に色々な意匠的な処理がされていた。縁側や濡縁、竹の簀子縁、露台などは床のレベルと庭を繋ぎ、内と外を切り結ぶ

l  中庭

日本家屋における「屋敷」の後退は、住空間における庭の地位の下降を証明している

庭の中に家があることが難しくなり、家の中に庭が出来たが、歴史的にはパティオや京都の町家の中坪がある。外に向かって閉じながら、内へ向けて開き自己の「生」を充満させるル・コルビュジェのいう「屋上庭園」やバビロンの「空中庭園」も家の中の庭といえる

l  螺旋

会津のサザエ堂は日本では珍しい二重スパイラルの階段を持つ不思議な建物だが、その元祖はダ・ヴィンチ設計によるロワール河畔のシャンボール宮殿の中央ホールの階段

階段の名手オーギュスト・ペレーを師としたル・コルビュジェの住宅建築の中での螺旋階段の扱いのユニークさはかつて世界中の近代建築家の憧れの的

日本の伝統的な建築技術には「ねじ」が発達しなかったところに特色があるといわれる

西洋建築の手法が日本に入ってきた頃、螺旋階段は西洋魔術的な装置として耳目を惹いた

l  屋階

瓦屋根が少なくなって、屋根そのものが建築の中に占める「重さ」が減ってしまったが、洋館の屋根の演出の中での重要な役割の1つに屋根窓がある。北部の雨や雪の多い地の急勾配の屋根につきものの要素で、内部の機能的な要求から現れたもの

屋根裏部屋の空間は、一般の日本人にとって何かしらエキゾチックなものとして映る

合掌造りの草屋根の民家にも蚕などを飼う大きな屋根裏があるし、一般の民家でも屋根裏が物置に使われたりするが、どうしても暗く陰鬱な場所としてのイメージがつきまとう

洋風建築の移入の中で屋根窓と屋根裏の空間が日本に定着しなかったのも、日本では家を垂直性によって把握する土壌がなかったからで、伝統的な和風住宅においては家は直ちに水平性を指し示す。日本の建築は垂直方向への移動による空間の変化に興味を示さない

最近の住宅には、あまりにも隠れ場所がなさ過ぎる。ひとは家の中に物理的に住み込むのと同時に、深く心を棲まわせるが、そうした心の温床である「内密の空間」を実現する場所が住宅の中に失われて、妙に一様に明るいままだとすれば、今後住まいの貧困は、私たちが考える以上に決定的な局面を迎えることになるだろう

 

 

 

 

建築史家の長谷川堯さん死去 俳優・長谷川博己さんの父

2019420 1706分 朝日

 建築家・村野藤吾の研究などで知られた建築史家、建築評論家で武蔵野美術大名誉教授の長谷川堯(はせがわ・たかし)さんが17日、がんのため死去した。81歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、お別れの会を開く予定。俳優の長谷川博己さんは長男。

 島根県出身で、早稲田大第一文学部を卒業。近代建築の記念碑性、合理性を疑う論考で知られ、72年に著書「神殿か獄舎か」で建築界に衝撃を与えた。村野らによる豊かな細部を備えた建築や都市の評価に力を尽くした。

 日本建築学会賞のほか、「都市廻廊」で毎日出版文化賞、「建築有情」でサントリー学芸賞を受けた。

 

 

Wikipedia

長谷川 堯(はせがわ たかし、1937616 - 2019417)は、日本建築史家、建築評論家。武蔵野美術大学名誉教授建築学会賞受賞。島根県八束郡玉湯村(松江市)出身。長男は俳優長谷川博己

来歴[編集]

島根県八束郡玉湯村(現松江市)に生まれる。生家は玉造温泉老舗旅館『保性館』を営んでいた(現在は経営権をホテルマネージメントインターナショナルに譲渡)。島根県立松江高等学校(現・島根県立松江北高等学校)卒業後上京、早稲田大学第一文学部で美術史を専攻、卒業論文でミース・ファン・デル・ローエル・コルビュジエらを論じ、1960年同大学卒業後、卒業論文が雑誌『国際建築』(第278号・19608月号)に掲載され、評論活動をスタートする。近代建築の記念碑性、合理性を疑う論考で知られ、1972年に著書『神殿か獄舎か』で建築界に衝撃を与えた。1975年『都市廻廊』で毎日出版文化賞1977年武蔵野美術大学助教授、1979年『建築有情』でサントリー学芸賞受賞。1982年武蔵野美術大学教授。1986日本建築学会賞受賞。村野藤吾の研究などで知られた。2019417日、がんのため死去、81歳没。

歌舞伎役者の坂東玉三郎とは、坂東が20歳の頃に雑誌の特集で知り合い、旧知の間柄

著書[編集]

『神殿か獄舎か』 相模書房1972鹿島出版会SD選書2007

『建築-雌の視角』 相模書房,1973

『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』 相模書房,1975中公文庫1985

『建築の現在』 鹿島出版会:SD選書,1975

『洋館意匠』 鳳山社1976

『建築有情』 中公新書, 1977

『洋館装飾』 鳳山社, 1977

『建築旅愁』 中公新書, 1979

『生きものの建築学』 平凡社1981講談社学術文庫1992

『建築逍遥-W.モリスと彼の後継者たち』 平凡社,1990

『建築巡礼-ロンドン縦断 ナッシュとソーンが造った街』 丸善1993

『日本ホテル館物語』 プレジデント社, 1994

『田園住宅 近代におけるカントリー・コテージの系譜』 学芸出版社, 1994

『建築の多感 長谷川堯建築家論考集』 鹿島出版会, 2008

『建築の出自 長谷川堯建築家論考集』 鹿島出版会, 2008

村野藤吾の建築 昭和・戦前』 鹿島出版会, 2011

共著[編集]

『建築をめぐる回想と思索 対談集』 新建築社, 1976

『建築光幻学 透光不透視の世界』 黒川哲郎共著、鹿島出版会, 1977

 

 

 

ラヴォール TOP 2023.1.13.

芸能人の噂の真相

 

長谷川博己の父親の職業は大学教授で建築家!妹や母親の宗教が話題!

すらりとした長身に、今話題の塩顔で人気爆発の長谷川博己さん。演技力はもちろんのこと、そのプライベートも注目されています。

今や伝説となった「家政婦のミタ」でその名を一躍有名にした長谷川博己さん。アニメ実写映画「進撃の巨人」でのアクションやその役柄でも高評価だった長谷川博己さんを育てた父親って、一体どんな方なんでしょうか?

長谷川博己の父親の職業は大学教授で建築家!

イケメンな長谷川博己さんなので、お父さんもイケメンなのかな?と思っていますと、実は、長谷川博己さんのお父さんは有名な方だとうことが分かりました。

お名前は、長谷川堯さん。建築家であり建築評論家、そして武蔵野美術大学の名誉教授とすごい経歴&肩書の持ち主ですね!

長谷川博己さん自身もかなり偏差値の高い高校へ進学したという情報もありますからインテリ家族なんでしょうね。

長谷川博己は八王子高校じゃない?出身中学どこ?幼少期かわいすぎ!

なぜ発覚したかというと、実は長谷川博己さんが「なんでも鑑定団」に出演した際に

「父親が自著の表紙の素材に使用した」

ということで、三代目歌川広重作の版画を持ってきたことがありました。

番組に持参した版画から長谷川堯さんの本の表紙だということが一瞬で特定され話題になりました。

持ってきた長谷川博己さんも面白いですね。バレ加減を見て楽しんでいたのかもしれません。

長谷川博己さんの父親である長谷川堯さんはとても素晴らしい経歴をお持ちで、これまでに出版した著書は約20冊。

その中でも「都市廻廊」では毎日出版文化賞を、「建築有情」ではサントリー学芸賞を受賞されています。

これだけの経歴の持ち主である長谷川堯さんのお家柄なら、きっと相当のお金持ちなんでしょう。その証拠に先ほど紹介した「なんでも鑑定団」に持ち込んだ版画の値段はなんとっ!お値段25万円!微妙!

まぁ、自著の表紙の題材費のみと考えると高価ですよね。

長谷川博己さんのご実家はきっととても裕福だったのでしょう。イケメンで育ちも良いなんて。確かに、なんとなく品のある立ち居振る舞いが多いですからね。

しかしながら、プライベートの性格は結構、天然だとされているんですよね。

長谷川博己の性格は天然なの?演技力と歌のうまさが評判に!

ところで、長谷川博己に兄弟はいるのでしょうか?

長谷川博己の兄弟は妹がいる?

これまでにお父さんのことを除いてプライベートな家族のことについては多くを語らない長谷川博己さん。

なので兄弟については非常に情報が少ないのですが、日本最大手の掲示板サイトの書き込み内容からどうやら妹が一人いるとの情報が出ていました。

年齢もさほど離れていないよう。

では、妹さんは一体どんな人なんでしょうね?性格が似ていたら長谷川博己さんの血液型と同じA型ですよね。

父親の長谷川堯さんの血液型も不明ではありますが、評論家である方って、細かいことに気付くという点がありますからきっとA型。細かい性格なのかなと思います。

長谷川博己さんも、少し変わった性格なのだとよくテレビで耳にするので、似ていたら面白いですね。もしかしたら顔も似ているのかもしれません!塩顔であっさりとした感じですが、女性だったらすらっとした美女になるはず!

長谷川博己さんは180cmバーの長身なので、妹も長身である可能性が高そう。今後モデルとして芸能界入りなんて話もあるかもしれませんね。

長谷川博己さんはこれまでに上がった熱愛相手の数が本当にスゴイんですよね。妹がいるということで女性の扱いが慣れているのかも?

長谷川博己の熱愛が大物ばかりで凄い!交際してた元彼女は誰?

長谷川博己さんのお父さん、妹さんと見ていきましたが、次は母親について。どうやら長谷川博己さんのお母さんには少し変わった噂があるようです。

長谷川博己の母親の宗教が話題に!

建築家のお父さんに、もしかしたら芸能界入りもするかもしれない期待の妹さん。そんなご家族を持つ長谷川博己さんですが、育ててくれたお母さんに関しては謎が多いんです!

実は長谷川博己さんは、2011年に鈴木京香さんと熱愛報道をされました。年上美女とイケメン人気絶頂俳優の熱愛ですから、結婚も秒読みでは?とネットでも週刊誌でも大騒ぎ。

ただ、そこで出てきたのが、長谷川博己さんのお母さんの問題。実は長谷川博己さんのお母さんはとある宗教「真如苑(しんにょえん)」にかなりのめり込んでいるとのこと。これは結構大きな問題ですね。

というのも、長谷川博己さんのお母さんの宗教が原因で鈴木京香さんとの結婚を先延ばしにしているとのこと。更にお父さんとお母さんの間にも深い溝まで出来てしまっているみたいなんです。

長谷川博己さんと鈴木京香さんは少し前に同棲を解消したことが話題になっていましたが、長谷川博己さんの両親と同じように深い溝ができてしまったのでしょうか。

二人の関係は、長谷川博己さんからのアプローチかと思いきや、意外にも鈴木京香さんからのアプローチだったといいます。

「すごくお芝居に熱心。行という役をたくましく的確に捉えている」

と長谷川博己さんの演技を絶賛し、彼の魅力にハマってしまったご様子。

こんな風に長谷川博己さんを認めてくれる女性ならば、本当ならば長谷川博己さんも結婚をしたいと思っているはずですよね。この結婚がうまくいけば、長谷川博己さんの家庭環境にも良い風が吹いてきそうですよね!二人のゴールインが待ち遠しいです。

元々は舞台役者として演技力を身に着けた、実力派の長谷川博己さん。長身イケメンにも関わらず、遅咲でしたが、今まさに長谷川博己さんの時代という感じですよね。
裕福な家庭で育ったにも関わらず、そのおごった部分を見せない演技にも好印象を抱きます。コツコツと頑張ってきたタイプなんですね!

まだまだプライベートが謎に包まれた長谷川博己さんですが、共演者から「変わった人」と言われることが多いので、今後はバラエティへの露出も増えることでしょう。

そしてご家族のことや恋愛などに関しても色々話していってくれそうですね。

鈴木京香さんとの結婚を期待しつつ、今後の長谷川博己さんの素顔が明らかになってくることも期待していきたいと思います!

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.