ゲーテ「野ばら」考  坂西八郎ほか編著  2024.1.12.

 2024.1.12. ゲーテ「野ばら」考

 

編著 坂西八郎ほか

 

執筆者

l  坂西八郎 1931年松本生まれ。1958年北大文学部文学科(ドイツ文学専攻)卒。現在室蘭工業大学教授

l  Ernst Schade 1926年独ヴェツラー生まれ。194446年ソ連軍捕虜。1971年マールブルク大より博士号Dr. Phil取得

l  Wolfgang Suppan 1933年墺イルトニング生まれ。1959年グラーツ大より博士号Dr. Phil取得。現在グラーツ音楽・造形芸術大教授

l  礒山雅 1946年東京生まれ。1977年東大大学院人文科学研究科博士課程了(音楽美学専攻)。現在国立音大助教授

l  石橋道大 1950年中之條生まれ。1977年北大大学院文学研究科博士課程了(ドイツ文学専攻)。現在北大助教授

l  石川克知 1951年名寄生まれ。1981年北大大学院文学研究科博士課程了(ドイツ文学専攻)。現在北大講師

l  高野茂 1952年長野生まれ。1977年東京芸術大音楽研究科博士課程修了(音楽学専攻)。現在佐賀大講師

l  江崎公子 1950年秋田生まれ。1975年国立音大大学院音楽研究科修士課程修了(音楽教育専攻)。現在国立音大講師

 

発行日           1987.10.20. 初版発行

発行所          岩崎美術社

 

序 この本の成り立ちについて――序文にかえて                 坂西八郎

1788年、ローマ滞在中にゲーテは詩の編纂を始めた。300の中から90篇を選ぶ。そのなかには《月に寄す》《魔王》《漁夫》などまだ印刷されていない多くの詩が含まれていた

詩集をヨハン・ゴットフリート・ヘルダーに見せて校正する過程で《野ばら》を思い出し、以来ゲーテの創作詩となり、彼の名前を世界的に有名にした

《野ばら》ほど長く抒情詩の観念を保ち得たものはない

《野ばら》の121曲の一覧を書物とすることこそふさわしい(本書収録の88と作品未入手の33)。蒐集家のドイツ文学研究者坂西八郎教授と共同研究者の功績を讃える

1987年 ヴァイマル・ゲーテ協会会長 カール=ハインツ・ハーン

 

本書の成り立ちについて――序文にかえて――                    坂西八郎

《野ばら》にシューベルトとヴェルナー以外の旋律があることを知って、すべての蒐集を思い立つ

l  蒐集と研究の系譜

     (テキスト)について――1860年代から60年間にわたり、《野ばら》は民衆詩(民謡のテキスト)なのか芸術詩なのか、詩の由来・成立過程を中心に議論があった。エルンスト・シャーデの論考はこの論議を踏まえたもの

     旋律について――60人ほどの作曲家名が判明していた

l  2の衝撃、「ドイツ民謡文庫」の存在とシャーデ教授との共同研究

『ゲーテと民謡』(1972)では154曲とあり衝撃を受け、ドイツ民謡蒐集家の研究家だったシャーデ教授と共同研究を始める

l  歌曲の時代的・地域的分布

当初の82曲と補遺の4は、77人の作曲家(うち氏名不詳1)による。補遺の残り5曲は、現代ドイツ語圏の作曲愛好者によるドキュメントのため、1984年になってこの歌曲集への参加を求めたもので、2,3,5,6はその際作曲された

他に33曲の存在を文献学的に知り得ているが、その楽譜は未入手

多くの作品のうち、成立年代を確定できるのは稀

l  日本の《野ばら》

シューベルト曲とヴェルナー曲によって深く親しまれてきた

メンデルスゾーン曲のように日本でしか歌われなかった曲もある。作曲家の特定はできず、ベルリンの国立図書館にもこの曲は存在しないが、大正末期に関学グリークラブの重要レパートリーだった

l  日本語の訳詩《野ばら》(テキスト)とドイツ語教科書

1890年、この詩を初めて訳したのは森鷗外。以後500編はくだらない

新制大学の教養課程では、ほとんどの大学でドイツ語を必修の第2外国語とし、教科書には『野ばら』が掲載された

l  楽譜の校訂など

原譜の規格は種々様々、技術上のミスの訂正

1983年、文部省特定研究経費の助成

 

I.      テキストの歴史とテキスト批判     エルンスト・シャーデ/石橋道大、石川克知訳

18601920年、『野ばら』をゲーテ(17491832)の詩と見做してよいか、ドイツ文学研究の分野で論争

l  テキストの歴史

この詩の成立は謎。ゲーテ以前に民謡に関する出版物で公表したのはヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(17441803)1773,79年の2回にわたり論文に発表

ヘルダーは哲学者で、著書の中でドイツの民謡に触れ、子どものための古いドイツ民謡として《野ばら》に言及、民衆詩に固有の特徴を記述している

1789年、ゲーテ自身が認知する初の作品集の中で《野ばら》はゲーテの作品として、1771年成立と付されて世に出る。ヘルダーの発表したものとは韻律も内容の上でも相違がある

ゲーテは、ヘルダーに対し崇拝の念を持ち、個人的な付き合いを深める。ヘルダーは、とりわけ力を込めて民衆詩についてゲーテに教え、文学が神から世界と諸民族に贈られたもので教養階級の特権的な所有物ではないことを民衆詩の存在を示して証明し、ゲーテにもエルザス地方に遺る民衆詩の諸伝承を捜して書き留めさせる

l  作者解明への文芸的探究

l  ゲーテの『野ばら』の創作動機

1770年に知り合った牧師の娘に対するゲーテの恋愛と関連して成立したことは確か

自伝の中でも、娘に会って、久しく等閑にしてきた詩に対する創作意欲が湧き上がってきたと強調。177071年に創作された詩を『フリーデリーケの歌』と名付け、続編も付け加えられているが、そのなかに『野ばら』も含まれている

l  《野ばら》の詩の素材となった文学上の先例

恋人を「野べのばら」に喩える隠喩は、詩文学では古い起源をもつ

l  モチーフについての歴史的注釈

トゲもつばらのモチーフは、抒情詩においてはかなり古い時代から広く愛好されてきた

恋人の隠喩としてのばらのモチーフ、そして愛の最高の幸福と最大の苦しみを表す「バラを手折る」比喩は、文学においては遥か昔から使用されてきた。詩全体を通してこれが効力を持ち続けるのは、わずかにゲーテの『野ばら』くらいで、それも詩的に完璧に行われており、しかもまた民謡的な素朴さも兼ね備えている。『野ばら』がゲーテの最も有名な詩の1っと言われる所以である

ゲーテの『野ばら』がいかに愛好されているかは、その膨大な作曲数が示すところ

 

II.    民衆性と、芸術であろうとする要求のはざまで――様々な《野ばら》旋律の歴史、構造そして美学             ヴォルフガング・ズッパン/礒山雅訳

ゲーテの『野ばら』が成立後どんな扱いを受けたか

1835年の美学辞典では、「歌曲(リート)」とは、「とらえやすい平易な旋律で、素人にも歌うことができ、長くない抒情詩に付され、オクターヴの音域を越えない」。歌曲の核心をなす性格は、簡単さ、言葉のよりよい意味における単純さにほかならないゆえ、シューベルトとその追随者たちのような作曲家は歌曲の本質を正しく捉えていない。彼らは伴奏が主役を演じるような歌を歌曲と名付けている。ドイツを代表する歌曲作曲家は、ベートーヴェン、ライヒャルト、ヒンメル、C.クロイツァーらである

ウィーンは、その1020年前にシューベルトが、ロマン主義時代におけるドイツの芸術歌曲の歴史に最初の頂点を築いたところにも拘らず、周囲の識者には、民衆的有節歌曲から通作歌曲への歩みが全く意味のないものに思われ、当時の人々の意見が相当対立していたことが分かる

有節歌曲:ひとつの旋律を何度も繰り返すように曲が付けられている。繰り返しの1回が「節」

通作歌曲:詩の各節ごとに、異なった新しい旋律が付けられる歌曲

《野ばら》のテキストは、ヘルダーによって公表されたが、詩の側面のみに限定して旋律の情報を取り上げていないため、民謡伝承の諸要素をどこまで受け継いでいるのか不明

l  歴史的状況

歌いやすい音程で、どんな声にも相応しい音域とこの上なく容易な節回しで流れていくような旋律によってのみ歌曲は成り立つとされた

l  シューベルトによる新しい基準の設定

プロトタイプを作り出したように思える

自らも実践する市民家族のための民衆的な歌曲(リート)が、コンサートホールで演奏される「公的」なものと化していく。それによって、歌曲は、その場その場の状況から即興される、変性を正確には確定し難い社交的な「歌い参加する」ことをやめ、個性的な「歌手」とこれに並び立つ「ピアノ奏者」による入念に準備され取り決められた「上演」の対象となり、聴き手にも「識者としての」芸術をよく理解した判断が要求される

シューベルト自身が「愛らしくlieblich」と指示しているように、「愛らしい旋律」は4小節、6小節、4小節の3つの部分楽節に分かれる

シューベルト以前の作曲家たちは、実用の機能が想定された演奏者及び聴き手との絡みで前面に出て来たが、シューベルトの《野ばら》が普及するにつれて変わらざるを得なくなる。芸術としての要求と社会のがわからの注文が、互いに均衡を保つべきと考えられるようになり、それによって音楽に内在する美的な基準による価値判断が成立し、絶えず新しい表現手段を求めるという努力も始まる

l  合唱歌曲

合唱歌曲は、歌曲の中にある社会学的な構成要素と、19世紀の深まりとともに益々強化されていった政治的構成要素とを、ピアノ伴奏歌曲以上にはっきりと示すもの

ペスタロッチの刺激を基に1810年チューリヒの合唱団が誕生、北ドイツでも1790年にはジングアカデミー創設、作曲家も合唱運動を積極的に支援、いずれもヘルダーの民謡再生運動からきっかけを与えられた

《野ばら》でも、いくつもの合唱曲が作られている。4声の混声合唱のための作品ではシューマンの曲が有名

 

III. 《野ばら》このハイカラなるものと日本人          江崎公子

l  はじめに――《野ばら》への今日的問い

明治時代の欧米文化の日本への受容プロセスの一例として、《野ばら》の約120年間の受容の歴史を辿る

欧米文化の移入の中でもとりわけ異質だったのは音楽――明治初期までの「音曲」とは、言語表現や文学にアナロジー(類推)を持つジャンルだったが、ヨーロッパでは、「音」との結合による音楽や言葉を欠いた「音」による音楽が確立していた

Singingを「唱歌」と訳し、新しくスタートした公教育のカリキュラムに入れたが、自律性を持った「音」が基礎になる音楽のあり方は、理解の程度を越えていた

l  明治の音楽教育

明治5年ごろから、Song, Liedが翻訳され学校唱歌集として移入。頻度の高い順に列挙すると、《カッコ―》《ちょうちょ》《霞か雲か》《ローレライ》《眠りの精》《埴生の宿》《小ぎつね》《むすんでひらいて》《きらきら星》《野ばら》《ロングロングアゴー》の順

文部省が公教育導入にあたり一番の苦労の種は唱歌。明治8年伊澤修二がアメリカに留学した際、音楽の授業についてゆけずに困惑していた時に出会ったメーソンは、自らの実践理論の受け入れ先を探しており、明治13年文部省のお雇いが教師として音楽取調掛に着任、音楽教育開始の原動力となる

『小学唱歌集』の第3(明治17年刊)の最後の方に《花鳥(はなとり)》の名でヴェルナーの3部合唱として登場。メーソンの教育課程に《野ばら》が登場しなかったのは、ペスタロッチ教育では幼児が対象で、より基礎的な教育に重点が置かれたため、完全な芸術美を備えたシューベルトの《野ばら》や、重唱で歌われてこそ美しいヴェルナーの《野ばら》は教材として適切ではなかったため

l  明治の《野ばら》

日本最初の《野ばら》は3声の締めくくり学習の位置付け

明治40年、ドイツ文学者近藤逸五郎(朔風)登場。外国語のほかに声楽を学び、ドイツ近代歌曲に新しい訳をつけ、日本の歌曲に巨歩を残したが、大正535歳で早逝

明治30年以降になると、個人レベルでの外国曲の翻訳出版が増えてきて、音や曲のイメージやニュアンスの中で日本語の組み立てを考えるようになるが、それを更に進めて今なお歌われている名訳詞シューベルトの《海の静寂》《菩提樹》や、ジルヒャーの《ローレライ》が生まれた

明治40年出版の近藤朔風『独唱名曲集』は、ピアノ伴奏付きの演奏会用独唱曲集。高級な声楽を愛好する人々にもてはやされたが、一般素人には難しかった――この中の《野薔薇》は、ミュヒラー原詩、ウェーバー作曲のもの

近藤朔風訳詞、ヴェルナー作曲《野なかの薔薇》は、明治42年に『女性唱歌』に3声、無伴奏、G Durで登場、歌詞は今も歌う歌詞。明治44年出版の『西欧名曲集』ではタイトルが《折薔薇》で、単旋律、4声体の伴奏譜、Es Durでヴェルナーの原曲とまったく同じで、歌詞も「童は見でぬ、野なかの薔薇、若やかに咲く、その色愛でつつ(以下同じ)」で原詩に近い訳と思われるが定着せず

シューベルト作曲《野ばら》につけられた最初の訳詞は、明治45年納所弁次郎編『高等女学唱歌 1編』の《葉かげの花》で、尾上八郎(柴舟)作詞、E Dur、伴奏譜付き

演奏の記録――音楽雑誌『音楽雑誌』の創刊は明治23年、それ以降《野ばら》演奏の記録はない。明治40年代にはヴェルナーの《野ばら》が学生合唱団で歌われた記録があるが、昭和に入ると合唱音楽祭が本格的に稼働し、歌曲を日本語で歌い始めても、シューベルトの《野ばら》の記録はない。音楽学校の卒業演奏などで歌われたようだ

l  《野ばら》への挑戦

明治期に作られた唱歌は約15,000。歌われた頻度が高いのは《君が代》《紀元節》などの国家もの。1,400ほどある四季の歌の半数は春の歌、中でもさくらが多い。薔薇は全体のうち5例のみで日本的心情を乗せる器としてはハイカラ過ぎた

ヴェルナーの《野ばら》を見事日本流「桜」に変えた《夢見草》があるが歌われていない

薔薇を題材にした日本人の詞に曲をつけたのが、山田耕筰の《野ばら》(三木露風作詞)と成田為三の《薔薇》(北原白秋作詞)。アメリカ南北戦争のころの軍歌《レパブリック賛歌》(「オタマジャクシは蛙の子・・・・」のメロディ)を替え歌にした《薔薇のうた》がある

l  浪漫《野ばら》

国定教科書が使われ尋常小学唱歌が文部省の著作として出版されると、小学校段階で《野ばら》の出番はなく、大学の合唱団と高等学校が《野ばら》の苗床になる

昭和16年、治安維持法制定により「思想善導」が表面化、「バラ」は敗戦まで姿を消す

l  《野ばら》旋風

《野ばら》が日本で大活躍をしたのは、第2次大戦後の合唱界と学校教育の場

《野ばら》は目玉教材。小学生向けには平易な言葉でひらがなを使った勝承夫訳、中学生以上は近藤朔風訳、原語が主流だったシューベルトの《野ばら》は近藤朔風訳に代わる

昭和36年からは器楽教育が必須となり、《野ばら》が器楽教材曲に編曲される

昭和3050年あたりが《野ばら》のピーク。合唱団も、歌詞も時代から離れていく

l  おわりに――そして、日本人

110年の間に変わったのは、日本人であり《野ばら》ではない

《野ばら》は、この110年間の日本人の変化を見事に体験している――高級舶来品として輸入され、日本的化粧を施されて店頭に出たが、30年ほどは食わず嫌い、外国に学んだ人から徐々に愛好者の裾野を広げるが、大人の都合で禁止。それが解けた後は完全に日本製品になり切って、様々な方法で応用されるが、はやりは廃れ、日本人は次をさがす

 

https://senzoku.repo.nii.ac.jp//records/958(国立情報学研究所)

2019.2.21. 村松恵子 洗足学園音楽大学 ピアノ科教授?

《野ばら》に関する一考察

 

IV.  資料

l  作曲家小伝

l  楽曲分類一覧 および 作品未入手の作曲家と判明している情報

l  日本語に翻訳された《野ばら》――森鷗外他

 

 

 

 

 

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