国際経済の荒波を駆ける  林康夫  2018.12.3.


2018.12.3. 国際経済の荒波を駆ける 経済官僚半世紀のメモワール

著者 林康夫 1942年神奈川県生まれ。66年東大法卒後、通産省入省。69年オックスフォード大留学。81IEA長期協力局部長。その後資源エネルギー庁石油部長、95年基礎産業局長、96年通商政策局長、中小企業庁長官を経て、98年経済協力基金理事、国際協力銀行JBIC理事、00年三井物産代表取締役常務取締役、翌年電機・プラントプロジェクト本部長、03年代表取締役専務執行役員、04年副社長執行役員兼欧州三井物産社長、06年同社顧問。07年日本貿易振興機構理事長、11年同機構顧問、現在に至る

発行日           2018.11.15. 第1刷発行
発行所           エネルギーフォーラム

通商産業省からスタートし官と民の仕事を通じて世界を股にかけた官僚とビジネスマンの世界

はじめに
後輩たちの参考のために、先人の体験したことを語り伝える
役人の仕事の重要性を身を以て感じるとともに、特に有為の人材を擁する健全な公務員の組織は国家にとって極めて重要だと改めて感じる
政治との接点は極力省略。総務審議官の内示には心底驚いた

第1編     通商産業省時代
第1章        通商産業省入省と留学
66年入省、貿易振興局・貿易振興課に配属 ⇒ 2年目に経済協力課 ⇒ 68年に科学技術庁・原子力局政策課に出向。結婚
69年人事院の政府留学制度で英国に留学 ⇒ 江田五月(裁判所)、黒田東彦らと一緒に英国へ。40人いた残りの大半はアメリカへ。最初にケンブリッジの語学学校に入り、秋からオックスフォードのChrist Churchへ。EECECSCEURATOMの合併によりEU誕生の直後
チューターは、Mr. OppenheimerDr. Bacharachで数理経済学の先生

第2章        貿易管理
71年帰国し、重工業局配属 ⇒ 武器輸出3原則を巡って田中角栄通産大臣にも説明

第3章        国際収支対策としての輸出規制
71年重工業局総括係長 ⇒ ニクソンショックで輸出規制に奔走するが、大分類で20品目と言っても内容は数百品目にも上り、事実上困難で時間稼ぎに過ぎなかった
73年スミソニアン体制崩壊 ⇒ 世界の全通貨がフロートになって規制は終了
為替予約制度導入による中小企業・造船業界等のショック緩和 ⇒ 為替予約による決済時点での予約時点のレートによる決済を認めて緩和剤とした
日米貿易摩擦問題の持続 ⇒ 日米構造協議へ持ち込まれ、10年間で430兆円の公共投資のコミットをさせられる
家電製品を巡る欧州との貿易摩擦 ⇒ 根拠の乏しいアンチダンピング訴訟も頻発
富士・コダックの係争 ⇒ 95年コダックが通商法301条に基づき提訴、WTOにまで上げられ最終コダックが敗訴。12年には会社更生法適用
人手不足の国際訴訟の体制 ⇒ WTO訴訟は政府レベルなので、政府としての対応が必要だが、そのための人材がいない
貿易摩擦の鎮静化 ⇒ 96年日米自動車交渉がWTOまで行きかけて欧州からの抗議もあって米国がごり押しを回避し妥協。米国ではクリントンが米国の利益を守ったと勝利宣言しているが、選挙向けの詭弁
インドネシア国民車構想 ⇒ インドネシアから支援の要請があったものの、WTO違反は免れず、世紀末のアジア危機で構想自体が立ち消え
91年会計課長から貿易局担当審議官 ⇒ 87年東芝ココム事件以来緊張する中、日本航空電子のイラン向けジャイロの違法輸出露見、1年半の輸出禁止措置
IJPCへの保険金支払い ⇒ イラン・イラク戦争により建設中のプラントが爆撃され、貿易保険上の保険事故と認定されたが、損害額の算定が困難。三井物産が3,000億と主張したのに対し結果は777億で、物産にトラウマと通産省に対する相当な不満が残ったが、保険金支払いが会社復興の大きな支えになったことは確か

第4章        農産物輸入を巡る諸事件
73年貿易局農水産課へ ⇒ 自由化によって既得権益が吹き飛ばされたが、オレンジがまだ農産物IQ対象で、割り当てをもらった仲介業者は黙ってても150円前後のマージンが入ったのを、一部取り上げようと画策したが無理。95年のウルグアイラウンド合意でIQ制度はTQ制度(関税割り当て)へ移行
豪州糖の長期契約 ⇒ 第1次オイルショック後の需給逼迫で砂糖価格が高騰、物産・商事は豪州砂糖公社との間で長期契約締結したが、その後の市場の鎮静化で価格が急降下
米国の木材輸出規制に対して日本側では輸入割り当てを実施したが、すぐに市場鎮静化で米側は規制を撤廃するも、日本はすぐに動かず。日本の林業の零細状況は不変

第5章        海外勤務(パリのIEAでの勤務)
80年中小企業庁の法令審査委員→通商企画調査室長 ⇒ 通商白書執筆。国際収支問題(海外投資からの収益依存体質への転換)、生産性の向上、エネルギー価格高騰への対策が主題で、マスコミ各社が珍しく1面で取り上げた
韓国への初の出張で三星電子の工場見学をした際、提携先の山洋電気が技術協力をしてくれないと苦情が出ていたが、現在のサムスンの栄華と山洋の破綻を思うと隔世の感あり
8184IEAに出向、長期協力局国別審査部長で、石油代替エネルギー開発のための各国の協力を追求する部署で、各国のエネルギー政策の審査を担当。前人が清木。アメリカの画策でレッドガス(ソ連からのガス)の輸入制限が話題になったが、狙いはドイツで、ドイツさえ30%の上限をつければ、オーストリアは90%依存しているにもかかわらず問題外

第6章        技術開発政策(電電公社民営化による株式売却収入を巡る抗争)
84年工業技術院人事課長 ⇒ 筑波移転に伴う労働組合との交渉
電電公社民営化に伴い、公社の果たしてきた基礎技術開発推進分野を維持・充実させるために株式売却益を使うべきと主張、郵政省と激しい取り合いをしたが、該当分は大蔵省の裁定で産業投資特別会計に繰り入れられ、基盤センターは両省の共同責任でスタート
電電公社の独占体制を崩すために、電力会社に全国の通信網を張ってもらって対抗させようと商社を中心に動き始めたが、ソフトバンクや外資の動きについていけず、各電力や商社とも投資を断念し大きな減損に繋がる ⇒ 林君もTTネットの社外取締役

第7章        エネルギー行政と繊維行政
Ø  資源エネルギー庁企画調査課長 ⇒ 21世紀のエネルギービジョンの作成とエネルギーの需給見通し作成。特に重要なのは代替エネルギーの見通し。コ・ジェネが取り入れられなかったり環境対応のテーマを欠いたりしたことが悔やまれる
Ø  国際資源課長 ⇒ 外務省国際エネルギー課長の藤崎一郎(のちの駐米大使)氏と共同でIEA長期協力委員会の副議長を務める。課長補佐が岡田克也元民主党代表で優秀だったが麻雀がとてつもなく弱かった
Ø  繊維製品課長 ⇒ 撚糸工連事件直後で、後遺症が癒されつつある時代で、売上税導入に宮崎輝会長以下業界挙げての激しい反対があり、構想自体潰える
課長2年目で大蔵省の消費税創設の意気込みが本格化、業界も矛を納め始めたところで、大蔵省に積極的に協力して繊維関係の予算獲得に繋げようと動き、消費税は実現、その後の予算で課の歴史に残る大型予算取り付けに成功、後述の各地でのファッションセンター(法律上は「繊維リソースセンター」)設立の原資となる
自由貿易を主張しながら、新興国に対しては輸出規制を求めるという矛盾を知りつつ、韓国に対して生糸の輸出規制を要請したが無為に終わる
繊維業界が、初のダンピング提訴を韓国製のニット製品を対象に持ち出すが、韓国側が自主規制で折れて決着
70年代から新進気鋭のデザイナーたちが国際舞台で高い評価を受けるようになり、アメリカのFITに倣ったファッションスクール設立構想が浮かびその設立準備委員会の委員にもなったが、東京ニット工業組合の深澤理事長とは若い人を交えて酒を飲みながら業界の将来を語り合った(太田昭代さんのご主人もその仲間)
国レベルでは、定義もよくわからないファッションという言葉は使えず、繊維構造審議会で取り上げ、ファッションセンターは繊維リソースセンターとの名称になる
業界と東京都の支援を受けて武道館で世界の有名デザイナーによるファッションショー開催、大蔵省主計局の幹部も招待したが、こんなものに金を出していないだろうなと念を押された

第8章        石油政策
Ø  76年石油部計画課課長補佐 ⇒ 石油行政に直接関係。石油政策/エネルギー対策に必要な財源確保のために考えたのが原重油関税引き上げで、国家備蓄の大義名分で押し切る。2年後には原油と石油製品全体に課税する石油税に組み替えられて予算確保が容易になった
Ø  89年石油部計画課長に ⇒ 統制的な行政から自由化へ。崩壊寸前のソ連を視察
Ø  92年エネ庁石油部長 ⇒ 業界再編。サハリン石油・ガス開発へのエクソンの参加。再度の石油税増税案に対し次官に反論した時はクビを覚悟したが、増税は廃案に
Ø  カタール・ガス開発プロジェクトが大詰めで、中電と物産連合に貿易保険を付保、石油公団法改正による債務保証、輸銀融資により、93年同国初の巨大プロジェクトがスタート、97年第1船到着。商業銀行の動きの悪さ、決断の鈍さに辟易
Ø  サウジアラムコによる日石苫小牧製油所買収 ⇒ 国としても産油国によるダウンストリーム参入は歓迎していたが、日石側から詳細不明の拒絶となり断念
Ø  90年アラビア石油の利権更新 ⇒ アラムコの国有化以降は外国に供与している唯一の利権であり、延長のための厳しい条件提示に応じられず更新断念、サウジとはしこり

第2編     通商産業省後
その1     海外経済協力基金と国際協力銀行(国際的な金融機関での仕事)
第1章        OECF理事への就任
Ø  98OECF理事就任 ⇒ アフリカ、欧州、CIS諸国、コーカサス、米州及び海外投融資事業担当。当初は台湾で10億円の融資を騙し取られたウナギ事件の後始末を担当

第2章        OECFと輸銀の統合――国際協力銀行JBICの誕生
Ø  99年統合 ⇒ 行政改革の一環で、両者の業務はグラントエレメント25%を基準に分けていただけであり、統合後は地域別担当を主張したが、旧組織ごとに業務別の内部組織となり、何のための統合かわからず。08年には旧OECFJICAと統合して元に戻り、輸銀は政策金融公庫の国際部門となり、さらに12年には独立して株式会社国際協力銀行に変身
Ø  ODAローンについては、途上国を長期間為替リスクにさらす結果になり、商品性に疑問を持ち、卒業後にJETRO理事長からJICAの緒方さんに申し入れ、若干の改善
Ø  JBICでの担当業務は、従前に旧輸銀業務が上乗せ ⇒ 旧輸銀がIMF3,000億円の貸し付けを行っているので、IMF・世銀幹部とも大蔵省の許可なく面会

第3章        JBIC退任 ⇒ 三井物産
Ø  00年物産常務就任 ⇒ 篠沢総裁(大蔵省出身)が歓送の辞で、消費税導入の際の協力を持ち出したのには驚愕、大蔵省の恐ろしさを知る

その2     三井物産
第1章        電機・プラントプロジェクト本部
Ø  01年本部長就任 ⇒ 電機本部とプラント本部統合のタイミングで、アジア危機下の非道い決算状況で本部長のなり手がいないための人事。投融資委員会の委員兼務
Ø  通商政策局長時代、OECDの閣僚会議で企業の贈賄問題が取り上げられ、日本も賛成せざるを得ず、不正競争防止法が改正され01年初施行 ⇒ 施行の直前中国で我が本部の嘱託社員が贈賄事件で逮捕・起訴、1年後に社員が有罪、会社は無罪となり会社の損害は免れたが、帰国後の社員に恨みは消えなかった
Ø  インドネシアのパトン発電所プロジェクトは、アジア危機の影響で工事が頓挫したが、全社挙げての協力で23年後には復活、今後楽しみなプロジェクトに蘇生
Ø  イランのサウスパースのガス田開発 ⇒ 長らく物産ではイランは禁句だったが、絶対反対の元社長が亡くなり、プラントビジネス成約に漕ぎつけるも、その後の政治情勢の変化で断念
Ø  GEとの付き合いは、原子力発電所向けの機器納入と発電所建設プロジェクトでの協働関係だが、ウェルチとアブダビでの入札関連で会談した際、相手方の価格について質問あり、パートナーに泥を被せようとするウェルチの態度に不信感を抱く。彼には一度たぶらかされそうになったことがあるので、名経営者の裏と表を見た
Ø  02年最初の決算では減損せざるを得ない案件に対し財源を求められて困惑 ⇒ 現存のお陰で、本部は収益力を回復、退任後の賞与が急増したようだ

第2章        機械・情報グループ
Ø  01年機械・電機・プラント・情報産業をまとめて機械情報グループに統合、将来のカンパニー制への布石で、引き続き電機・プラントプロジェクト本部長
Ø  02年国後事件勃発 ⇒ ムネオハウスのディーゼル発電機納入の入札で、有力視されていながら、談合罪(偽計業務妨害罪)で起訴、隣の本部案件だったが、検察の捜査が入り、社員は逮捕、社長以下辞任・退職相次ぎ、大きなダメージとなる
Ø  02年カンパニー制施行で機械・情報グループのプレジデントに ⇒ 前グループ長が国後事件で辞任したために回ってきた。トヨタのクライアントオフィサーに。航空機ではエアバスを扱ったが納入実績は0
Ø  通信事業への参入プロジェクトでも、TTネットの挫折により巨額の減損を余儀なくされる ⇒ 国全体が損失隠しに厳しくなっていたのが幸い
Ø  カンパニー制の廃止 ⇒ 日立が先行。問題があっても社長に上がってこない

第3章        欧州三井物産への転任
Ø  本社をロンドンとするかブリュッセルとするか ⇒ 分室で対応、後に中東も担当に加わったので、大陸への本部移転は沙汰止みに
Ø  部店独算制と営業本部制 ⇒ 多くの商社は営業本部制だが、物産は独算制だったが、欧州全域での商品ごとの本部制を採用。その後全本部長をロンドンに集めたので意味がなくなった
Ø  欧州物産の業績評価 ⇒ 04年度は世界経済の復調である程度の利益を計上し、本店の役員が第3番目の不祥事「東京都のディーゼル排ガス装置のデータ改竄事件」により賞与返上を尻目にそれなりの賞与をもらった上、更に翌年は全社の30営業部門でトップの評価

第4章        物産退任、顧問就任
Ø  065月帰国。顧問として対外活動に専念
Ø  07年初JETRO理事長就任

その3     日本貿易振興機構
第1章        理事長就任
Ø  就任の背景 ⇒ 独立行政法人のトップ人事は、行革の嵐の中で特にターゲットとされ、民間人もしくは天下りには民間企業での経験を要求、10年で役所の色は消えるとされたが、審議官以上のポストにも拘らず適格者がいなかった
Ø  行革プロセスの洗礼――早朝の自宅へのマスコミの取材
Ø  サウジとの産業協力 ⇒ 07年安倍首相とサウジのアブドゥラ国王との間の「戦略的・重層的パートナーシップ」構築の合意に基づき産業協力のためのワーキンググループを設置、その日本側代表に就任

第2章        行政改革
Ø  独立行政法人に対する風当たりが最も強く、09年民主党による事業仕分けで議論の矢面に立たされ、JETROにも民営化の話すらあったらしい
Ø  研修所の廃止
Ø  国内事務所の整理 ⇒ 各自治体からの強い要望でストップがかかる
Ø  人件費抑制 ⇒ 外部人材の活用
Ø  アジア経済研究所の統合 ⇒ 評価が高く、仕分けの対象に異論
Ø  海外事務所の統廃合 ⇒ 新設のためには、既存拠点の廃止もやむなし

第3章        海外諸国との関係
Ø  中南米 ⇒ アルゼンチンを廃止したが、後に復活
Ø  アフリカ ⇒ モロッコのポテンシャルが大きく、後任の時に事務所を設置
Ø  東南アジアとインド ⇒ 安倍総理ミッションに同行、マレーシアでもインドでもJETROの貢献に高い評価
Ø  中国 ⇒ JETROは海外における博覧会で主導的な役割を果たしている。知財保護。内陸部の事務所設置
Ø  米国 ⇒ 新常態New normalから新時代へ
Ø  欧州 ⇒ 小康状態から、各国ともに大きな問題を抱えている
Ø  中東 ⇒ ドバイに中核事務所を設置して中東全体を俯瞰

第4章        対内直接投資
Ø  世界の各国とも外国企業誘致に熱心だが、日本のみ若干異なる感情を持つが、国も外資誘致推進に舵を切り、JETROもその実施部隊として活動

第5章        JETRO理事長退任
Ø  11年退任 ⇒ 国際競争の激化に対し日本企業の危機感が不足。生産性の向上や規制改革は喫緊の課題、









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