藤田嗣治 祖国日本への「遺言テープ」  近藤史人  2018.12.18.


2018.12.18. 新発見 藤田嗣治 祖国日本への「遺言テープ」

著者 近藤史人(ふみと)  1956愛媛県生まれ。テレビディレクター愛光高校卒業。79東大独文卒。NHKに入局し、ディレクターとして、教養番組部、スペシャル番組部を経てエデュケーショナル統括部長。NHKスペシャル「革命に消えた絵画-追跡・ムソルグスキー『展覧会の絵』」で放送文化基金賞奨励賞受賞、1992年これを團伊玖磨との共著でNHK出版から刊行。また同「空白の自伝・藤田嗣治」を製作しこれをもとにしたノンフィクション、『藤田嗣治-「異邦人」の生涯』(講談社、2002)で、2003大宅壮一ノンフィクション賞受賞(その後文庫)。2005年には講談社文芸文庫『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』を編纂

発行日           201812月号
発行所        『文藝春秋』

晩年藤田がパリから移り住んだ近郊エソンヌ県のヴィリエ・ル・パクルに終の棲家となった農家を改修した家は、死後も保存され、メゾン=アトリエ・フジタとして同県が管理、一般公開している
2018年の夏、NHKの特集番組の取材で訪問し、未調査の12時間の6ミリ(ママ)録音テープの存在を知り、同館館長と協力して分析・初公開した。その中に、日本語で「遺言」ともいうべき言葉が残されていた
録音されたのは19657月~11月、死の2年前。自ら芝居の脚本を書き、全ての役を自分で演じているが、そのうちの『馬鹿物語』と名付けた芝居の第2幕にあるのが、死を前にした藤田が遠い祖国の人々に語り残したいと願った言葉であり、長い間実像が厚いベールに覆われてきた画家の内面を窺い知る貴重な手がかりともなるもの
藤田は、1886年陸軍軍医総監の子として新宿に生まれ、美術学校で黒田清輝に学ぶが、卒業製作の自画像が「悪い絵の見本」と評されるなど、将来が見えず、13年単身渡仏
モンパルナスでピカソらの新しい絵に接した藤田は、帰国して黒田指定の絵具箱を叩き割り、独自の画の追求を始め、美術界のアカデミズムに反発
10年もしないうちに裸婦像の肌が「素晴らしい乳白色」と絶賛され、サロンで次々と入選、ピカソやモディリアーニと並ぶエコール・ド・パリの寵児となり、社交界の人気者となったが、当時パリは「狂乱の時代」で乱痴気騒ぎの中、おかっぱ頭にロイドメガネの風貌の藤田が道化を演じることで愛されたが、明治以降の日本人で初めて世界に認められた画家となる
一方、日本では代表作を帝展に出品するが、無名を理由に審査から漏れ、更にパリの評判に嫉妬した日本のアカデミアから「アンチ藤田運動」が起こり、変な風貌により持て囃されているだけだとけなされた
30年代帰国した藤田は、サロンの絵に飽き足らず、名門富貴の個人的愛玩のみに奉仕するのではなく、大衆のための奉仕も考えなければならないと思考
日中戦争開戦と共に、大衆奉仕の延長線上で戦争画を描き始め、国民の戦意高揚のため全国を巡回して展示、陸軍美術協会の要職にもついて、美術界とも蜜月となる
絵筆によって国に報いる「彩管報国」を表明する一方で、絵においては真摯に新しい表現を求め、ドラクロアのようなヨーロッパ伝統の「歴史画」を描こうとした
終戦後、美術界は自主的に戦争責任の追及を始めたため混乱を極めたが、日本の美術界に失望した藤田が4年後に日本を去りパリに戻り、二度と祖国の土を踏むことなく異国で生涯を閉じる
55年フランス国籍を取得して日本国籍を抹消、4年後にはカトリックの洗礼を受ける
戦後の藤田は、子供の絵や宗教画を描き続け、子供の絵は日本でも愛好家が増えたが、美術界は死後迄中傷の言葉が囁かれ続けた
藤田の評価は、日本の美術界では不当と思われるほど低く、「奇行」ばかりが噂に上り、突飛な行動だけで目立った芸術性の低いアルチザン(職人)とする見方が通奏低音のように響き続けたこともあって、藤田も日本の美術界への不満を抱き続け、その気持ちは死後著作権を継承した妻・君代に引き継がれ、作品の公開を拒否されたため、日本では死後30年に亘って厚いベールに覆われた
90年代に漸く君代の許可を得て取材、NHKスペシャルでも取り上げ、誤解や中傷に包まれてきた藤田像の修正を試みたので、君代も作品の公開に前向きになり、06年初の回顧展に繋がる。09年には君代が死んで著作権者の壁がなくなり、飛躍的に書籍や画集が増えた
君代の主張の根幹は、日本の美術界から正当に評価されなかったことに対する異議申し立てであり、それは同時に藤田の本心でもあったにも関わらず、当時の美術界はそれを君代の理不尽な感情だと見做して顧みなかったことを理解しないと、遺言の意味が分かってもらえないと筆者は思う
藤田の遺言というのは、突然現れた死神に対し、今となっては名声とか財宝とかには興味も未練もないが、ここまで来られたお礼に神様にお御堂を捧げたいといって、願いが聞き届けられたところで話が終わっている。そのお御堂とはランス市に作られた「平和の聖母」礼拝堂のこと
この遺言に関し著者が思い出すのは、2014年君代の遺族がランス市に寄贈した2000点の遺品の中にあった手作りの「自家用漢字字典」で「恨夜深」「妄言」「鬱懐」などの被害者意識を感じさせられる単語や最後のページにフランス語で〈こんな人生はうんざりだ〉と結ばれていることと、もう一つは最後に藤田の手元に残されていた草稿の中にあった「日本に生まれて祖国に愛されず、又フランスに帰化してもフランス人としても待遇を受けず、迷路の中に一生を送る薄命画家だった」という言葉
藤田の生涯を一般に紹介する最も新しい『旅する画家 藤田嗣治』は、現在の美術界の研究の動向を反映している ⇒ 日本の美術界と藤田の軋轢にはほとんど触れておらず、藤田が晩年まで訴え、君代が引き継いだ日本の美術界への苦くざらついた感情は無菌化され、生涯と切り離された「作品の美」だけが楽しまれるようになっていく
ランス市に作られた礼拝堂の内部を飾る絵は、79歳にして初めてフレスコ画に挑戦、キリストに祈る群衆の姿の中に小さく自らの姿を描き込み、完成の2か月後病に倒れる
日本の美術界での、毀誉褒貶に翻弄された藤田は、日本人への「遺言」として、「必ず絵には永久に生きている魂がある。私の絵もこの声も永久に残るように思っている」と語り、礼拝堂の地下に眠る



没後50年 フジタ、旅の足跡
 『旅する画家 藤田嗣治』(林洋子監修、新潮社とんぼの本・2268円)が出た。藤田は没後50年で、監修者は美術史家。1910年代からパリ、中南米、日本、極東アジア、ニューヨークへと続く足跡を追い、「旅」をキーワードに、その体験が幅広い画風にどう影響し、結実したかを探った。油彩や水彩など約80点の作品を掲載。=朝日新聞20181027日掲載

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201810270500  朝日
 『旅する画家 藤田嗣治』(林洋子監修、新潮社とんぼの本・2268円)が出た。藤田は没後50年で、監修者は美術史家。1910年代からパリ、中南米、日本、極東アジア、ニューヨークへと続く足跡を追い、「旅」をキーワードに、その体験が幅広い画風にどう影響し、結実したかを探った。油彩や水彩など約80点の作品を掲載。


Wikipedia
生誕              18861127 日本 東京府牛込区新小川町
死没              (1968-01-29) 196812981歳没)チューリヒ
国籍              日本、フランス(1955年帰化)
教育              東京美術学校
著名な実績      画家、彫刻家
代表作           『ジュイ布のある裸婦(1922年)』『五人の裸婦(1923年)』『秋田の行事(1937年)』『アッツ島玉砕(1943年)』『カフェ(1949年)』
運動・動向      エコール・ド・パリ
受賞    レジオンドヌール勲章朝日文化賞、第1回トリステ宗教美術展金賞、勲一等瑞宝章
選出              サロン・ドートンヌ、近代日本美術総合展
活動期間         1910 - 1968
この人物に影響を与えた芸術家          パブロ・ピカソモイズ・キスリングアメデオ・モディリアーニ
この人物に影響を受けた芸術家          カンディド・ポルチナーリ
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、18861127 - 1968129)は日本生まれのフランス画家彫刻家第一次世界大戦前よりフランスパリで活動、を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家である。フランス帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。
生涯[編集]
家柄[編集]
1886年(明治19年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)(1854-1941年)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として台湾朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄の嗣雄は法制学者・上智大学教授で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。また、義兄に陸軍軍医総監となった中村緑野中原中也の名づけ親(当時父が中村の部下であった)がいる。小山内薫は嗣治の従兄、舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信は甥にあたる。
パリに至るまで[編集]
藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。小学校は熊本県師範学校附属小学校(現在の熊本大教育学部附属小[1]に通った。1900、高等師範附属小学校(現・筑波大附属)を、1905に高等師範附属中学校(現・筑波大附属中学・高校)を卒業。その頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。
1905年(明治38年)、森鴎外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていた。1910に同校を卒業。卒業に際して製作した自画像(東京芸術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれている[2]。なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。
1911年(明治44年)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺の天井画を描いた(現存)。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912に結婚。新宿百人町アトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻する。
パリでの出会い[編集]
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パリのアトリエにて(1918年)
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藤田の肖像(イスマエル・ネリ1930年代)
1913大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリジュール・パスキンパブロ・ピカソオシップ・ザッキンモイズ・キスリングらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。
また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村薩摩治郎八金子光晴ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
パリでは既にキュビズムシュールレアリズム素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。
第一次世界大戦[]
1914、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした19173月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をした。このころに初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンen:André Salmon)が序文を書きよい評価を受けた。すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まってきており、この状況が藤田に追い風となった。
パリの寵児[編集]
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。
このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。
南アメリカへ[編集]
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり[3]、その後離婚する。
1931には、新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。
日本への帰国[編集]
その後1933に南アメリカから日本に帰国、1935年に25歳年下の君代(1911 - 2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939に日本に帰国した。
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陸軍美術協会理事長時代の藤田
その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。その後太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』や『アッツ島玉砕』などの作品を書いた。
このような振る舞いは、終戦後の連合国軍の占領下において「戦争協力者」と批判されることもあった。また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともあった[4]。こうした日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949に日本を去ることとなる。
フランスに帰化[編集]
傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったが、その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。1955にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。
晩年[編集]
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フジタ礼拝堂
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フジタ礼拝堂内部; 壁全面が藤田の宗教画で覆われている。
1959にはランスノートルダム大聖堂カトリック洗礼を受け、シャンパン「マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、レオナール・フジタとなった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザインを行った。1968129スイスチューリヒにおいて、ガンのため死亡した。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された[5]日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
死後[編集]
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/94/Foujita.JPG/220px-Foujita.JPG
メゾン・アトリエ・フジタ
藤田の最期を看取った君代夫人は、自身が没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外のヴィリエ・ル・バクルフランス語版)に旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館に向け尽力、晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開[6]された。藤田の死去から40年余りを経た200942日に、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治と共にランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬された[5]。君代夫人が所有した藤田作品の大半はポーラ美術館ランス美術館に収蔵されている。
2011、君代夫人が所蔵していた藤田の日記(1930から19401948から1968までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている[7]
名前の表記揺れについて[編集]
藤田は名前の表記ゆれが多い画家である。まず「嗣治」の名前であるが、一般に「つぐはる」と読まれるが前述のように「つぐじ」と読む場合もある。これについては、元々次男だったこともあり「つぐじ」と読んでいたが、父から「画家として名を成したら「つぐはる」と読め」といわれ、パリで成功したあと藤田は「つぐはる」と名乗るようになったと言う逸話が知られる。しかし、10代の頃から親友への手紙に「つぐはる」と記した例や、藤田の戦後のアメリカ・フランス行きを支援したGHQの印刷・出版担当官フランク・エドワード・シャーマン宛の手紙に「つぐじ」と署名するなど例外もあり、藤田がどういう意図をもって使い分けていたかは判然としない。
作品のサインも「Foujita」と「Fujita」の二通りある。フランス語としては前者が正しくパリ時代のものは同様に署名しているが、日本滞在中などでは後者の例が多い。
フランス帰化後の表記も、「レオナール・フジタ」と「レオナルド・フヂタ」の揺れがある。今日、前者で呼ばれる方が一般的であるが、これは君代夫人の意向が大きく働いている。しかし、藤田自身はそもそもレオナルド・ダ・ヴィンチへの尊敬から後者で呼ばれることを好み、手紙類の日本語署名は全て「レオナルド(フヂタ) 」である[8]
戦争画[編集]
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南方戦線に従軍画家として派遣された藤田、宮本三郎小磯良平1942)藤田は黒いシャツを着ているように見えるが、よく見ると後の修正で、実際は上半身裸だったと考えられる。
日中戦争勃発後に日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。同時に自身は、クリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現している。
19458月の終戦で戦争画を描くことはなくなったが、終戦後の連合国軍の占領下で、日本美術会の書記長で同時期に日本共産党に入党した内田巌などにより、半ばスケープゴートに近いかたちで「戦争協力者」と非難された藤田は、連合国軍占領下の1949年に渡仏の許可が得られると「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残しフランスへ移住、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語った。
その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と手記の中でも嘆いている。とりわけ藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後日本を占領する連合国軍において美術担当に当たったアメリカ人担当者とも友人であったがゆえに、戦後に「戦争協力者」のリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があった。
パリでの成功後も戦後も、存命中には日本社会から認められることはついになかった。また君代夫人も没後「日本近代洋画シリーズ」や「近代日本画家作品集」などの、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきた。死後に日本でも藤田の評価がされるようになり、展覧会なども開かれるようになった。
乳白色の肌の秘密[編集]
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウム鉛白1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた[9]。炭酸カルシウムはと混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。さらに絵画の下地表層からはタルクが検出されており、その正体は和光堂シッカロールだったことが2011に発表された[10]
タルクの働きによって半光沢の滑らかなマティエールが得られ、面相筆で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上し、での箔置きも可能になる。この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942の写真から判明した。以上の2つが藤田の絵の秘密であったと考えられている。ただし、藤田が画面表面にタルクを用いているのは、弟子の岡鹿之助が以前から報告している[11][12]
反面、藤田の技法は脆弱で経年劣化しやすい。水に反応し、絵肌は割れやすく、広い範囲に及ぶ網目状の亀裂の発生が度々観察される[13]。また、多くの藤田作品には地塗り表面に特徴的な気泡の穴が多数散見され(贋作にはこの気泡は無いという)、これは油絵の具に混ぜた炭酸カルシウムと油が反応して発生したガスの穴だと考えられる[14]
作品[編集]
藤田の作品は、日本国内では東京のブリヂストン美術館東京国立近代美術館国立西洋美術館、箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館で見ることができる。
関連図書にある「世界のフジタに世界一巨大な絵」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m)のことである。現在は秋田県立美術館に展示されており、藤田が設計に携わった平野政吉美術館での展示から、秋田県立美術館での展示になったことへの批判も存在する。
晩年に手がけた最後の大作は、死の直前に描きあげたランスの教会における装飾画である。
藤田は挿画本作家としても独自の地位を得ている。ピエール・ロティラビンドラナート・タゴールギヨーム・アポリネールポール・クローデルピエール・ルイスジャン・ジロドゥキク・ヤマタジャン・コクトー等、大作家の著作に木版や銅版の版画を寄せ、出版社も多数にのぼる。挿画本は、絵と文に共通するテーマを設定し、それぞれの立場から表現する事を目指す共作であり競作で、挿画は単なる挿絵ではない。藤田は装画本のこうした特性をよく理解し、文を理解しつつもこれに負けない独自の表現を追求している。なかでも、フォーブール・サン=トノレ通りの歴史風俗を描いたド・ヴィルフォスの『魅せられた河』(1951年)は石版による傑作である。
また藤田は多くのエッセイを書き残し没後出版されている。藤田の芸術に対する考え方、人生に対する取り組み方が興味深い。死の直前までノートに書かれたモノローグの一つに、「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966928日」がある。
藤田は当時の男性としては珍しく、裁縫や木工など身の回りの様々な物を手作りしていた。藤田本人は「デパートなどで売っているのは全て商品に過ぎないという主張で、芸術家は宜しく芸術品を身に纏うべし」と言い[15] 、自身をアーティストではなくアルチザンであると語っていた。製作した物は自分が着用する服や帽子、自分の絵に使う額縁、象嵌細工を施した机や小箱など多岐に亘る。象嵌細工の机は目黒区美術館が所蔵[16]する物の他に同一デザインのものが5点ほど存在する[17]


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