人通りの少ない道  芦田淳  2018.12.11.


2018.12.11. 人通りの少ない道 私の履歴書

著者 芦田淳 ファッションデザイナー。中原淳一に師事。60年高島屋の顧問デザイナー。66年から10年間美智子妃殿下の専任デザイナー。94年アジア大会や96年アトランタ5輪では日本選手団の公式ユニフォームデザインを担当。旭日中受賞紫綬褒章フランス国家功労賞オフィシエ同芸術文化勲章オフィシエイタリア功労勲章カバリエーレウフィチャーレ章ルクセンブルグ大公国オフィシエ章など

発行日           201131411
発行所           日本経済新聞出版社

20098月日本経済新聞『私の履歴書』掲載

1.    8人兄弟の末っ子
1930年韓国の古都全州生まれ李氏朝鮮の発祥の地
実家は京都で11代続いた旧家 父は長男で外科医だったがあえて朝鮮へ
父親は帝大以外は大学ではないと言うのが口癖長兄三兄四兄も帝大だが次兄だけは早稲田で冷遇のちに養子に出された そんな中大学にもいかずファッションデザイナーと言う異端の道を歩いた私は1族にどれほどの波風をたて私の心をどれほど苦しめ続けることになるのかは知る由もない
2.    父の死
41年父が結核で急逝 だれも跡を継がないので病院を手放し日本に引き上げる
3.    金沢に落ち着く
厚生省から石川県庁に赴任していた三兄の所へ落ち着く
小学校で肋膜炎を患い1年遅れた
42年ニューヨークから戻ってきた長兄(内務省)と一緒に住むために東京へ移る
4.    東京暮らし
ニューヨーク帰りの兄嫁の贅沢な弁当で弁当大臣のあだ名がつく
兄嫁が持ち帰ったニューヨークのファッションに見とれる
長兄はすぐに召集44年暮れレイテで戦死
私は第一志望の五中に失敗独協へ
5.    山口へ疎開
45年初三兄に召集出征の駅頭で出征取りやめ
疎開先では英語がわからず2年遅れた
6.    終戦の混乱
原爆の日腹に響くような地鳴りを感じた
母と東京に戻り三兄と一緒に住む
東京高校に進学
7.    劣等生
婦人服のデザイン画が心の慰めで、ある日三兄に見つかり我が家の恥として燃やされ反感だけが募った
8.    3兄の急死
大学進学を直前にして三兄が腸チフスで急逝兄嫁の親戚が院長を務める大病院であったが助からず 輸血の失敗
9.    中原淳一
中原淳一に直訴して才能を認められ、家族にもデザイナーになる旨宣言
10. 見習い時代
東京で伯父が目白で呈していた種苗外車の社員寮で一人暮らしを始め、専門学校に通いながら中原に個人指導をしてもらう
ある日先生の奥さんで宝塚の元スターの葦原邦子から電話が入り主人がとてもあなたのことを気にいってるからアトリエの仕事を一緒に手伝ってもらえないかと言う話が来る大喜び
11. 芸能界
乙羽信子の映画衣装に三兄の未亡人の和服を持っていき喜ばれる
中原は大勢の女優のプロデュースもしている
2年下積みの後ミクラと言う小さなアパレルメーカーに就職したのが53
12. 人気デザイナー
中原事務所での成果からデザインする先から圧倒的な人気を博しあっという間にデザイン部長に昇格
周りの嫉妬がありやめてひつじやへ
13. 母の思い出
寮から独立し母と2人で暮らし始める
銀座で評判の若手デザイナーになり給料もガンガン上がったが金遣いも荒かった
14. 気ままな独身
人形町のジョンストンに移籍、高島屋にキュートコーナーと言う私専門の売り場ができた
下落合一軒家を借り、母と長兄一家と共に暮らすが、57年母が69歳で心臓麻痺で急逝。また一人暮らしに戻る
ジョンストンの3歳下の新入りデザイナー富田友子と結婚
15. 略奪愛
友子から、ウェディングドレスのデザインを頼まれ、初めて愛に気付き、婚約破棄を頼みこみ、義母の決断で一緒になったのが60
16. 高島屋
高島屋とデザイナー契約を結びプレタポルテ(高級既製服)を開発、15年間いてビジネスの基本をみっちり叩き込まれる
17. 梅ヶ丘の自宅
義父が亡くなり、その遺産で62年梅ヶ丘に自宅を購入
18. 欧州視察
63年ファッションの視察ツアーに参加して欧州へ
パリでは、地元の工房で修行していた帽子デザイナーの平田暁夫に世話になる
パリのプランタンで自分のデザインを見せたら、ここで働かないかとのオファーを受ける
19. 少女服
プランタンからのオファーは、高島屋から怒られて没に
娘のために買い込んできた子供服を参考に、高島屋で「少女服」というブランドを売り出す
売り上げを伸ばすために、内々に打診に来ていた伊勢丹にも販路を広げる
20. 2人の恩人
高島屋で引き立ててくれた仲原取締役(後の専務)に怒鳴られて伊勢丹を諦めるが、謝罪を受け入れてくれた伊勢丹の山中鏆氏、2人とも一生の恩人
21. 皇室デザイナー
少女服がきっかけとなって高島屋に浩宮様の背広のオーダーが入ったのが最初
礼宮様のベイビー服もデザインし、そのあとが美智子妃殿下
22. 痛恨の失敗
6676年美智子妃殿下の衣装デザイナーとなる
外遊先でローブ・デコルテのファスナーが壊れるというアクシデント。女官の機転で事なきを得たが、女官からそっと注意があるまで知らなかった
23. 独り立ち
73年高島屋の「ジュン アシダ」は残したまま、青山に「ミセス アシダ」をオープン、異なる製品を扱うことで高島屋の了解を得る
「ジュン アシダ」を京王百貨店、阪急百貨店に卸すことも了承を得、75年独立
銀座みゆき通りに17坪の土地を買い(270百万円)、翌年直営店を開設
正田富美子夫人が全面支援を約束。外交マナーの基本も教わる
24. 合同ショー
高島屋の頃、和洋装の子供服の合同ショーをする企画で、和装を恩師中原淳一氏に依頼
和装のモデルがなかなか登場せずに胃が痛んだが、出てきたのは素晴らしいモデルで大きな拍手に沸きほっとした
25. 自社ビル
68年鉢山町に自社ビル建設。後に売却して青葉台に移る
26. パリコレ
77年パリコレに初参加 ⇒ 皇室から飛び出してきたデザイナーとして紹介され、デビューを飾る
商売に結び付かず、3年間に5回で撤退 ⇒ 次に出たのは89年でサントノーレに直営店開設。エルメスとサンローランに挟まれた店で20年続いている
27. パリに住む
駐仏大使北原秀雄氏のアドバイスでパリに住むことになる
91年には三笠宮ご夫妻と千容子・甯子を迎えて昼餐会を行う
28. ラクロア
77年クリスチャン・ラクロアが私の会社で武者修行していた ⇒ プロモーターのジャンジャック・ピカールの下で働いていたのをスカウト。10年間一緒に仕事をした
29. 駐日米国大使
77年日本に着任したマンスフィールド大使の歓迎レセプションで会って、家族付き合いが始まる ⇒ マイ・サンと呼んでもらい「心の父」となった
30. 女優達と
中原淳一が掘り出した浅丘ルリ子とは、青葉台の自宅建設中に同じマンションに住んだのがきっかっけで、石坂浩二の料理の腕前に舌を巻いた
山本陽子とも家族ぐるみの付き合い
31. ゴルフ場づくり
「家」の構造に興味を持ち、92年軽井沢900倶楽部のクラブハウスのコーディネートを引き受け
以前フランスでシャトーを買おうとしていくつも見ていたのが役立つ
32. アトランタ五輪
96年の日本選手団の公式ウェアをデザイン
東京五輪では通訳の、大阪万博ではコンパニオンの制服を手掛けていた
33. 2人の娘
長女はアメリカへ、次女はスイスに留学。次女がファッションに興味を持ち後継者に
34. 脳梗塞
ニューヨークで前兆、甥の同級生で慶應病院の相川直樹教授に見てもらいすぐに入院し、病院で脳梗塞発症。2週間で後遺症なしに退院
35. 次世代
08年次女がパリで初のショーを成功させる。91年東京でデビュー


Wikipedia
芦田 淳(あしだ じゅん、1930821 - 20181020[1])は、日本ファッションデザイナー。株式会社ジュンアシダ代表取締役会長。
人物・来歴[編集]
1930日本統治時代の朝鮮全羅北道全州において、京都府出身の両親のもとに生まれる[2]1951年、私立東都高等学校(現・東京高等学校[3]を卒業。
皇后美智子皇太子妃時代における専任デザイナーを務めたことで知られている[4]アトランタオリンピック日本選手団、公式ユニフォームのデザインを担当。また全日空など有名企業のユニフォームを多数手かげている。師匠はイラストレーター中原淳一[5]
2013104、会社設立50年を迎え、後事を女婿である山東英樹(山東昭子の甥)に託し会長に退いた[4]
201810202132分、肺炎のため東京都の自宅で死去[1][6]88歳没。
係累[編集]
妻は株式会社ジュンアシダ代表取締役副社長の芦田友子(あしだ ともこ、1933122 - )。次女は同じくファッションデザイナーの芦田多恵
兄の娘は、地下鉄サリン事件の実行犯で無期懲役囚の林郁夫の妻である[7]
年譜[編集]
1930 - 開業医の家に、8人兄弟の末っ子として生まれる。
1951 - 東都高等学校(現・東京高等学校)卒業後、中原淳一に師事。2年間秘書を務める。
1960 - 髙島屋の顧問デザイナーに就任(1975年まで)
1960 - 帝人の顧問デザイナーに就任。
1963 - 有限会社テル工房(現:ジュン アシダ)をオープン。プレタポルテの製作販売を始める。
1966 - 当時の皇太子妃美智子の専任デザイナーとなる。以降、1976年まで10年間務める。
1976 - 銀座みゆき通りに、自社ビル店鋪「ブティック・アシダ銀座」をオープン。
1977 - パリ事務所を開設。パリ・プレタポルテ・コレクションにデビュー。
1978 - テル工房を株式会社ジュンアシダに変更。
1989 - パリのフォーブル・サントノーレ街にブティック「アシダパリ」をオープン。
1993 - 代官山フォーラムに「ブティック・アシダ本店」オープン。
1994 - 広島アジア大会、日本選手団の公式ユニフォームをデザイン。
1994 - 社団法人科学技術国際交流センターに芦田基金を設立。
1996 - アトランタオリンピック、日本選手団の公式ユニフォームをデザイン。
2001 - 生産管理・縫製部門を分社し、株式会社ジュンアシダ生産本部を設立。
2013 - 株式会社ジュンアシダ代表取締役会長。
20181020 - 死去。
主なユニフォームデザイン[編集]
全日空 - 4代目(1970-1974年)、7代目(1982-1990年)、8代目(1990-2005年)。
帝国ホテル - 1990-20078月。
受賞・受章歴[編集]
1971 - FEC(ファッション・エディターズ・クラブ)賞
1987 - イタリア、功労勲章カバリエーレ章
2000 - フランス、国家功労章オフィシエ章
2003 - イタリア、功労勲章カヴァリエーレ・ウフィチャーレ章
2006 - ルクセンブルク、国家功労章オフィシエ章
2010 - フランス、芸術文化勲章オフィシエ


芦田淳さん(ファッションデザイナー) 美意識と泥臭さ、つかみ取る
2018/11/30
付 日本経済新聞
「医者や役人が多い芦田家で私は異端児だった」。こんな苦労話をよく披露してくれた。学歴に頼らず、人生を切り開く負けん気が創造の原動力になった。
https://www.nikkei.com/content/pic/20181130/96959999889DE1EAE1E4E5E4E5E2E1E2E3E3E0E2E3EA979391E2E2E2-DSKKZO3836768030112018EAC000-PN1-1.jpg
生まれたのはエリート意識が強い医者の家。4人の兄は上から九州帝大、早大、東京帝大、東大へと進学する。だが絵が好きな芦田さんは勉強が大嫌い。随分と肩身が狭かったらしい。
「男のくせに女の絵など描くな!」。少年の頃、家族にこう面罵され、描きためたデザイン画を燃やされたこともあったという。
デザイナーになる道を決定づけたのは人気画家の中原淳一。最初は門前払いを食らうが、直訴して弟子入り。やがて高島屋デザイナー、皇室デザイナーと正統派への階段を駆け上がる。
美意識と泥臭さ――
人間的魅力でもある2つの顔は、自分の居場所を見つけるために本能でつかみ取ったものだ。これがモード界での成功をもたらす。
人たらしで知られた。
情に厚いが、好き嫌いもはっきりしていた。そんな率直さを慕って多くの人が集まってくる。このサロンが交流を広げ、仕事を生み、服の販売も促したのだ。
自伝の題名は「人通りの少ない道」。生前、芦田さんが好んだ言葉だった。
=1020日没、88

(編集委員 小林明)


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